停車場の少女
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著者名:岡本綺堂 

しかもわたくしの耳のそばで囁(ささや)くやうに聞えました。
「継子さんは死にましたよ。」
 わたくしは又ぎよつとして振返ると、わたくしの左の方に列(なら)んでゐる十五六の娘――その顔容(かおだち)は今でもよく覚えてゐます。色の白い、細面(ほそおもて)の、左の眼(め)に白い曇りのあるやうな、しかし大体に眼鼻立(めはなだち)の整つた、どちらかといへば美しい方の容貌(ようぼう)の持主で、紡績飛白(ぼうせきがすり)のやうな綿衣(わたいれ)を着て紅いメレンスの帯を締めてゐました。――それが何だかわたくしの顔をぢつと見てゐるらしいのです。その娘がわたくしに声をかけたらしくも思はれるのです。
「継子さんが歿(なく)なつたのですか。」
 殆(ほとん)ど無意識に、わたくしは其(その)娘に訊(き)きかへしますと、娘は黙つて首肯(うなず)いたやうに見えました。そのうちに、あとから来る人に押されて、わたくしは改札口を通り抜けてしまひましたが、あまり不思議なので、もう一度その娘に訊き返さうと思つて見返りましたが、どこへ行つたか其姿が見えません。わたくしと列んでゐたのですから、相前後して改札口を出た筈(はず)ですが、そこらに其姿が見えないのでございます。引返(ひっかえ)して構内を覗(のぞ)きましたが、矢はりそれらしい人は見付からないので、わたくしは夢のやうな心持がして、しきりに其処(そこ)らを見廻しましたが、あとにも先にも其娘は見えませんでした。どうしたのでせう、どこへ消えてしまつたのでせう。わたくしは立停(たちどま)つてぼんやりと考へてゐました。
 第一に気にかゝるのは継子さんのことです。今別れて来たばかりの継子さんが死ぬなどといふ筈がありません。けれども、わたくしの耳には一度ならず、二度までも確(たしか)にさう聞えたのです。怪しい娘がわたくしに教へてくれたやうに思はれるのです。気の迷ひかも知れないと打消しながらも、わたくしは妙にそれが気にかゝつてならないので、いつまでも夢のやうな心持でそこに突つ立つてゐました。これから湯河原へ引返して見ようかとも思ひました。それもなんだか馬鹿(ばか)らしいやうにも思ひました。このまゝ真直(まっすぐ)に東京へ帰らうか、それとも湯河原へ引返さうかと、わたくしは色々にかんがへてゐましたが、どう考へてもそんなことの有様(ありよう)は無いやうに思はれました。お天気の好い真昼間(まっぴるま)、しかも停車場の混雑のなかで、怪しい娘が継子さんの死を知らせてくれる――そんなことのあるべき筈が無いと思はれましたので、わたくしは思ひ切つて東京へ帰ることに決めました。
 その中(うち)に東京行の列車が着きましたので、ほかの人達はみんな乗込みました。わたくしも乗らうとして又俄(にわか)に躊躇(ちゅうちょ)しました。まつすぐに東京へ帰ると決心してゐながら、いざ乗込むといふ場合になると、不思議に継子さんのことが甚(ひど)く不安になつて来ましたので、乗らうか乗るまいかと考へてゐるうちに、汽車はわたくしを置去(おきざ)りにして出て行つてしまひました。
 もう斯(こ)うなると次の列車を待つてはゐられません。わたくしは湯河原へ引返(ひっかえ)すことにして、再び小田原行の電車に乗りました。

 こゝまで話して来て、Mの奥さんは一息ついた。
「まあ、驚くぢやございませんか。それから湯河原へ引返しますと、継子さんはほんたうに死んでゐるのです。」
「死んでゐましたか。」と、聴く人々も眼(め)を瞠(みは)つた。
「わたくしが発(た)つた時分には勿論(もちろん)何事もなかつたのです。それからも別に変つた様子もなくつて、宿の女中にたのんで、雨のために既(も)う一日逗留するといふ電報を東京の家(うち)へ送つたさうです。さうして、食卓(ちゃぶだい)にむかつて手紙をかき始めたさうです。その手紙はわたくしに宛てたもので、自分だけが後に残つてわたくし一人を先へ帰した云訳(いいわけ)が長々と書いてありました。それを書いてゐるあひだに、不二雄さんはタオルを持つて一人で風呂場へ出て行つて、やがて帰つて来てみると、継子さんは食卓(ちゃぶだい)の上にうつ伏してゐるので、初めはなにか考へてゐるのかと思つたのですが、どうも様子が可怪(おかし)いので、声をかけても返事がない。揺つてみても正体がないので、それから大騒ぎになつたのですが、継子さんはもうそれぎり蘇生(いきかえ)らないのです。お医師(いしゃ)の診断によると、心臓麻痺(まひ)ださうで……。尤(もっと)も継子さんは前の年にも脚気(かっけ)になつた事がありますから、矢はりそれが原因になつたのかも知れません。なにしろ、わたくしも呆気(あっけ)に取られてしまひました。いえ、それよりも私(わたくし)をおどろかしたのは、国府津の停車場で出逢(であ)つた娘のことで、あれは一体何者でせう。不二雄さんは不意の出来事に顛倒(てんとう)してしまつて、なか/\私(わたくし)のあとを追ひかけさせる余裕はなかつたのです。宿からも使(つかい)などを出したことはないと云ひます。してみると、その娘の正体が判りません。どうしてわたくしに声をかけたのでせう。娘が教へてくれなかつたら、わたくしは何にも知らずに東京へ帰つてしまつたでせう。ねえ、さうでせう。」
「さうです、さうです。」と、人々はうなづいた。
「それがどうも判りません。不二雄さんも不思議さうに首をかしげてゐました。わたくしに宛てた継子さんの手紙は、もうすつかり書いてしまつて、状袋(じょうぶくろ)に入れたまゝで食卓(ちゃぶだい)の上に置いてありました。」




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