中国怪奇小説集
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著者名:岡本綺堂 

   鷺娘

 銭塘(せんとう)の杜(と)という人が船に乗って行った。時は雪の降りしきる夕暮れである。白い着物をきた一人の若い女が岸の上を来かかったので、杜は船中から声をかけた。
「姐(ねえ)さん。雪のふるのにお困りだろう。こっちの船へおいでなさい」
 女も立ち停まってそれに答えた。たがいに何か冗談を言い合った末に、杜は女をわが船へ乗せてゆくと、やがて女は一羽の白鷺(しらさぎ)となって雪のなかを飛び去ったので、杜は俄かにぞっとした。それから間もなく、彼は病んで死んだ。

   蜜蜂

 宋の元嘉(げんか)元年に、建安(けんあん)郡の山賊百余人が郡内へ襲って来て、民家の財産や女たちを掠奪した。
 その挙げ句に、かれらは或る寺へも乱入して財宝を掠(かす)め取ろうとした。この寺ではかねて供養に用いる諸道具を別室に蔵(おさ)めてあったので、賊はその室(へや)の戸を打ち毀(こわ)して踏み込むと、忽ちに法衣(ころも)を入れてある革籠(かわご)のなかから幾万匹の蜜蜂が飛び出した。その幾万匹が一度に群がって賊を螫(さ)したので、かれらも狼狽した。ある者は体じゅうを螫され、ある者は眼を突きつぶされ、初めに掠奪した獲物をもみな打ち捨てて、転げまわって逃げ去った。

   犬妖

 林慮山(りんりょざん)の下に一つの亭がある。ここを通って、そこに宿る者はみな病死するということになっている。あるとき十余人の男おんなが入りまじって博奕(ばくち)をしているのを見た者があって、かれらは白や黄の着物をきていたと伝えられた。
 □伯夷(しつはくい)という男がそこに宿って、燭(しょく)を照らして経(きょう)を読んでいると、夜なかに十余人があつまって来て、彼と列(なら)んで坐を占めたが、やがて博奕の勝負をはじめたので、□はひそかに燭をさし付けて窺うと、かれらの顔はみな犬であった。そこで、燭を執って起(た)ちあがる時、かれは粗相(そそう)の振りをして、燭の火をかれらの着物にこすり付けると、着物の焦げるのがあたかも毛を燃やしたように匂ったので、もう疑うまでもないと思った。
 かれは懐ろ刀をぬき出して、やにわにその一人を突き刺すと、初めは人のような叫びを揚げたが、やがて倒れて犬の姿になった。それを見て、他の者どもはみな逃げ去った。

   干宝の父

 東晋の干宝(かんぽう)は字(あざな)を令升(れいしょう)といい、その祖先は新蔡(しんさい)の人である。かれの父の瑩(けい)という人に一人の愛妾があったが、母は非常に嫉妬ぶかい婦人で、父が死んで埋葬する時に、ひそかにその妾をも墓のなかへ押し落して、生きながらに埋めてしまった。当時、干宝もその兄もみな幼年であったので、そんな秘密をいっさい知らなかったのである。
 それから十年の後に、母も死んだ。その死体を合葬するために父の墓をひらくと、かの妾が父の棺の上に俯伏しているのを発見した。衣服も生きている時の姿と変らず、身内もすこしく温かで、息も微かにかよっているらしい。驚き怪しんで輿(こし)にかき乗せ、自宅へ連れ戻って介抱すると、五、六日の後にまったく蘇生した。
 妾の話によると、その十年のあいだ、死んだ父が常に飲み食いの物を運んでくれた。そうして、生きている時と同じように、彼女と一緒に寝起きをしていたのみか、自宅に吉凶のことある毎(ごと)に、一々彼女に話して聞かせたというのである。あまりに不思議なことであるので、干宝兄弟は試みに彼女に問いただしてみると、果たして彼女は父が死後の出来事をみなよく知っていて、その言うところがすべて事実と符合するのであった。彼女はその後幾年を無事に送って、今度はほんとうに死んだ。
 干宝は『捜神記』の著者である。彼が天地のあいだに幽怪神秘のことあるを信じて、その述作に志すようになったのは、少年時代におけるこの実験に因ったのであると伝えられている。

   大蛟

 安城平都(あんじょうへいと)県の尹氏(いんし)の宅は郡の東十里の日黄(じつこう)村にあって、そこに小作人(こさくにん)も住んでいた。
 元嘉(げんか)二十三年六月のことである。ことし十三になる尹氏の子供が、小作の小屋の番をしていると、一人の男が来た。男は年ごろ二十(はたち)ぐらいで、白い馬に騎(の)って繖(かさ)をささせていた。ほかに従者四人、みな黄衣を着て東の方から来たが、ここの門前に立って尹氏の子供を呼び出し、暫く休息させてくれと言った。承知して通すと、男は庭へはいって床几(しょうぎ)に腰をおろした。従者の一人が繖をさしかけていた。見ると、この人たちの着物には縫い目がなく、鱗(うろこ)のような五色の斑(ふ)があって、毛がなかった。やがて雨を催して来ると、男は馬に騎(の)った。
「あしたまた来ます」と、彼は子供を見かえって言った。その去るところを見ると、この一行は西へむかい、空を踏んで次第に高く昇って行った。暫くすると、雲が四方から集まって白昼も闇のようになった。
 その翌日、俄かに大水が出て、山も丘も谷もみなひたされ、尹の小作小屋もまさに漂い去ろうとした。このとき長さ三丈とも見える大きい蛟(みずち)があらわれて、身をめぐらして此の家を護った。

   白水素女

 晋の安帝(あんてい)のとき、候官(こうかん)県の謝端(しゃたん)は幼い頃に父母をうしない、別に親類もないので、となりの人に養育されて成長した。
 謝端はやがて十七、八歳になったが、努(つと)めて恭謹の徳を守って、決して非法の事をしなかった。初めて家を持った時には、いまだ定まる妻がないので、となりの人も気の毒に思って、然るべき妻を探してやろうと心がけていたが、相当の者も見付からなかった。
 彼は早く起き、遅く寝て、耕作に怠りなく働いていると、あるとき村内で大きい法螺貝(ほらがい)を見つけた。三升入りの壺ほどの大きい物である。めずらしいと思って持ち帰って、それを甕(かめ)のなかに入れて置いた。その後、彼はいつもの如くに早く出て、夕過ぎに帰ってみると、留守のあいだに飯や湯の支度がすっかり出来ているのである。おそらく隣りの人の親切であろうと、数日の後に礼を言いに行くと、となりの人は答えた。
「わたしは何もしてあげた覚えはない。おまえはなんで礼をいうのだ」
 謝端にも判(わか)らなくなった。しかも一度や二度のことではないので、彼はさらに聞きただすと、隣りの人はまた笑った。
「おまえはもう女房をもらって、家のなかに隠してあるではないか。自分の女房に煮焚(にた)きをさせて置きながら、わたしにかれこれ言うことがあるものか」
 彼は黙って考えたが、何分にも理屈が呑み込めなかった。次の日は早朝から家を出て、また引っ返して籬(かき)の外から窺っていると、一人の少女が甕の中から出て、竈(かまど)の下に火を焚きはじめた。彼は直ぐに家へはいって甕のなかをあらためると、かの法螺貝は見えなくて、竈の下の女を見るばかりであった。
「おまえさんはどこから来て、焚き物をしていなさるのだ」と、彼は訊いた。
 女は大いに慌てたが、今さら甕のなかへ帰ろうにも帰られないので、正直に答えた。
「わたしは天漢(てんかん)の白水素女(はくすいそじょ)です。天帝はあなたが早く孤児(みなしご)になって、しかも恭謹の徳を守っているのをあわれんで、仮りにわたしに命じて、家を守り、煮焚きのわざを勤めさせていたのです。十年のうちにはあなたを富ませ、相当の妻を得るようにして、わたしは帰るつもりであったのですが、あなたはひそかに窺ってわたしの形を見付けてしまいました。もうこうなっては此処(ここ)にとどまることは出来ません。あなたはこの後も耕し、漁(すなど)りの業(わざ)をして、世を渡るようになさるがよろしい。この法螺貝を残して行きますから、これに米穀(べいこく)をたくわえて置けば、いつでも乏(とぼ)しくなるような事はありません」
 それと知って、彼はしきりにとどまることを願ったが、女は肯(き)かなかった。俄かに風雨が起って、彼女は姿をかくした。その後、彼は神座をしつらえて、祭祀(さいし)を怠らなかったが、その生活はすこぶる豊かで、ただ大いに富むというほどでないだけであった。土地の人の世話で妻を迎え、後に仕えて令長となった。
 今の素女祠(そじょし)がその遺跡である。

   千年の鶴

 丁令威(ていれいい)は遼東(りょうとう)の人で、仙術を霊虚山(れいきょざん)に学んだが、後に鶴に化(け)して遼東へ帰って来て、城門の柱に止まった。ある若者が弓をひいて射ようとすると、鶴は飛びあがって空中を舞いながら言った。
「鳥あり、鳥あり、丁令威。家を去る千年、今始めて帰る。城廓故(もと)の如くにして、人民非なり。なんぞ仙を学ばざるか、塚□々(るいるい)たり」
 遂に大空高く飛び去った。今でも遼東の若者らは、自分たちの先代に仙人となった者があると言い伝えているが、それが丁令威という人であることを知らない。

   箏笛浦

 廬江(ろこう)の箏笛浦(そうてきほ)には大きい船がくつがえって水底に沈んでいる。これは魏(ぎ)王曹操(そうそう)の船であると伝えられている。
 ある時、漁師が夜中に船を繋いでいると、そのあたりに笛や歌の声がきこえて、香(こう)の匂いが漂っていた。漁師が眠りに就くと、なにびとか来て注意した。
「官船に近づいてはならぬぞ」
 おどろいて眼をさまして、漁師はわが船を他の場所へ移した。沈んでいる船は幾人の歌妓(うたひめ)を載せて来て、ここの浦で顛覆(てんぷく)したのであるという。

   凶宅

 宋の襄城(じょうじょう)の李頤(りい)、字(あざな)は景真(けいしん)、後に湘東(しょうとう)の太守になった人であるが、その父は妖邪を信じない性質であった。近所に一軒の凶宅があって、住む者はかならず死ぬと言い伝えられているのを、父は買い取って住んでいたが、多年無事で子孫繁昌した。
 そのうちに、父は県知事に昇って移転することになったので、内外の親戚らを招いて留別(りゅうべつ)の宴を開いた。その宴席で父は言った。
「およそ天下に吉だとか凶だとかいう事があるだろうか。この家もむかしから凶宅だといわれていたが、わたしが多年住んでいるうちに何事もなく、家はますます繁昌して今度も栄転することになった。鬼などというものが一体どこにいるのだ。この家も凶宅どころか、今後は吉宅となるだろう。誰でも勝手にお住みなさい」
 そう言い終って、彼は起(た)って厠(かわや)へゆくと、その壁に蓆(むしろ)を巻いたような物が見えた。高さ五尺ばかりで、白い。彼は引っ返して刀を取って来て、その白い物を真っ二つに切ると、それが分かれて二つの人になった。さらに横なぐりに切り払うと、今度は四人になった。その四人が父の刀を奪い取って、その場で彼を斬り殺したばかりか、座敷へ乱入してその子弟を片端から斬り殺した。
 李姓の者はみな殺されて、他姓の者は無事にまぬかれた。
 そのとき李頤だけはまだ幼少で、その席に居合わせなかったので、変事の起ったのを知ると共に、乳母が抱えて裏門から逃げ出して、他家に隠れて幸いに命を全うした。

   蛟を生む

 長沙(ちょうさ)の人とばかりで、その姓名を忘れたが、家は江辺に住んでいた。その娘が岸へ出て衣(きもの)を濯(すす)いでいると、なんだか身内に異状があるように感じたが、後には馴れて気にもかけなかった。
 娘はいつか懐妊して、三つの生き物を生み落したが、それは小鰯(こいわし)のような物であった。それでも自分の生んだ物であるので、娘は憐れみいつくしんで、かれらを行水(ぎょうずい)の盥(たらい)のなかに養って置くと、三月ほどの後にだんだん大きくなって、それが蛟(みずち)の子であることが判った。蛟は龍(りゅう)のたぐいである。かれらにはそれぞれの字(あざな)をあたえて、大を当洪(とうこう)といい、次を破阻(はそ)といい、次を撲岸(ぼくがん)と呼んだ。
 そのうちに暴雨出水と共に、三つの蛟はみな行くえを晦(くら)ましたが、その後も雨が降りそうな日には、かれらが何処からか姿を見せた。娘も子供らの来そうなことを知って、岸辺へ出て眺めていると、蛟もまた頭(かしら)をあげて母をながめて去った。
 年を経て、その娘は死んだ。三つの蛟は又あらわれて母の墓所に赴き、幾日も号哭(ごうこく)して去った。その哭(な)く声は狗(いぬ)のようであった。

   秘術

 銭塘(せんとう)の杜子恭(としきょう)は秘術を知っていた。かつて或る人から瓜を割(さ)く刀を借りたので、その持ち主が返してくれと催促すると、彼は答えた。
「すぐにお返し申します」
 やがて其の人が嘉興(かこう)まで行くと、一尾の魚が船中に飛び込んだ。その腹を割くと、かの刀があらわれた。

   木像の弓矢

 孫恩(そんおん)が乱を起したときに、呉興(ごこう)の地方は大いに乱れた。なんのためか、ひとりの男が蒋侯(しょうこう)の廟(びょう)に突入した。蒋子文(しょうしぶん)は広陵(こうりょう)の人で、三国の呉(ご)の始めから、神としてここに祀られているのである。
 蒋侯の木像は弓矢をたずさえていたが、その弓を絞って飄(ひょう)と射ると、男は矢にあたって死んだ。往来の者も、廟を守る者も、皆それを目撃したという。




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