青蛙堂鬼談
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:岡本綺堂 

ところで、僕の家内というのがまたちょっと見つからない。いや、今までにも二、三人の候補者を推薦されたが、どうも気に入ったのがないんでね。なにしろ、僕の家内という以上、どうしても同じ信仰をもった者でなければならない。身分や容貌(きりょう)などはどうでもいいんだが、さてその信仰の強い女というのが容易に見あたらないので困っている。」
 彼は最初の煩悶からまったく解脱(げだつ)して、今ではその教義に自分の信仰を傾けているらしかった。しかし、とうてい教化の見込みはないと思ったのか、僕に対しては、その教義の宣伝を試みたことはなかった。東京の桜がみんな青葉になった頃に、赤座兄妹は僕に見送られて上野を出発した。
 それぎりで、僕はこの兄妹に出逢うことが出来なかったのか、それとも重ねて出逢っているのか、いまだに消えないその疑問が、この話の種だと思ってもらいたい。

     二

 郷里へ帰ると、赤座はすぐに長い礼状を書いてよこした。妹からも丁寧な礼状が来た。妹の方が赤座よりもずっと巧い字をかいているのを僕はおかしくも思った。その後も相変らず毎月一度ぐらいの音信(たより)をつづけていたが、八月になって僕は上州の妙義山へのぼって、そこの宿屋で一と夏を送ることになった。妙義の絵葉書を赤座に送ってやると、兄妹から僕の宿屋へあてて、すぐに返事をよこした。暇があれば自分も妙義へ一度登ってみたいが、教務が多忙で思うにまかせないなどと、赤座の手紙には書いてあった。
 九月のはじめに僕は一度東京へ帰ったが、妙義の宿がなんとなく気に入ったのと、東京の残暑はまだ烈しいのとで、いっそ紅葉の頃まで妙義にゆっくり滞在して、やりかけた仕事をみんな仕上げてしまおうと思い直して、僕はその準備をして再び妙義の宿へ引揚げた。妙義へ戻った翌(あく)る日に、僕は再び赤座のところへ絵葉書を送って、仕事の都合で十月の末ごろまではこっちに山籠りをするつもりだと言ってやった。しかしそれに対しては、兄からも妹からも何の返事もなかった。
 十月のはじめに、僕は三たび赤座のところへ絵葉書を送ったが、これも返事を受取ることが出来なかった。赤座は教務でどこへか出張しているのかも知れない。それにしても、妹の伊佐子から何とか言って来そうなものだと思ったが、別に深くも気にとめないで、僕は自分の仕事の捗(はかど)るのを楽しみに、宿屋から借りた古机に毎日親しんでいた。その月も中ごろになると紅葉見物の登山客がふえて来た。ことに学生の修学旅行や、各地の団体旅行などが毎日幾組も登山するので、しずかな山の中もにわかに雑沓するようになったが、大抵はその日のうちに磯部へ下るか、松井田へ出るかして、ここに一泊する群れはあまり多くないので、夜はいつものように山風の音がさびしかつた。
「お客さまがおいでになりました。」
 宿の女中がこう言って来たのは、十月ももう終りに近い日の午後五時頃であった。その日は朝から陰っていて、霧だか細雨(こさめ)だか判らないものが時どきに山の上から降って来て、山ふところの宿は急に冬の寒さに囲まれたように感じられた。丁度その時に僕は二階の座敷を降りて、入口に近いところに切ってある大きい炉の前に坐って、宿の者となにか例のおしやべりをしている最中であったので、坐ったままで身体をねじむけて表の方を覗いてみると、入口に立っているのはかの赤座であった。彼は古ぼけた中折帽子をかぶって、洋服のズボンをまくりあげて、靴下の上に草鞋(わらじ)を穿いて、手には木の枝をステッキ代りに持っていた。
「やあ。よく来たね。さあ、はいりたまえ。」
 僕は片膝を立てながら声をかけると、赤座は懐かしそうな眼をして僕の方をじっと見ながら、そのまま引っ返して表の方へ出てゆくらしい。連れでも待たせてあるのかと思ったが、どうもそうではないらしいので、僕はすこし変に思ってすぐに起(た)って入口に出ると、赤座は見返りもしないで山の方へすたすた登ってゆく。僕はいよいよおかしく思ったので、そこにある宿屋の藁草履を突っかけて彼のあとを追って出た。
「おい、赤座君。どこへ行くんだ。おい、おい、赤座君。」
 赤座は返事もしないで、やはり足を早めてゆく。僕は彼の名を呼びながら続いて追ってゆくと、妙義の社(やしろ)のあたりで彼のすがたを見失ってしまった。陰った冬の日はもう暮れかかって、大きい杉の木立ちのあいだはうす暗くなっていた。僕は一種の不安に襲われながら、声を張りあげてしきりに彼の名を呼んでいると、杉のあいだから赤座は迷うように、ふらふらと出で来た。
「寒い、寒い。」と、彼は口の中で言った。
「寒いとも……。日が暮れたら急に寒くなる。早く宿へ来て炉の火にあたりたまえ。それとも先にお詣りをして行くのか。」
 それには答えないで、彼は無言で右の手を僕のまえにつき出した。薄暗いなかで透かしてみると、その人差指と中指とに生血(なまち)がにじみ出しているらしかった。木の枝にでも突っかけて怪我をしたのだろうと察したので、僕は袂をさぐって原稿紙の反古(ほご)を出した。
「まあ、ともかくもこれで押さえておいて、早く宿へ来たまえよ。」
 彼はやはりなんにも言わないで、僕の手からその原稿紙を受取って、自分の右の手の甲を掩ったかと思うと、またそのまますたすたあるき出した。あと戻りをするのではなく、どこまでも山の上を目ざして登るらしい。僕はおどろいてまた呼び止めた。
「おい、君。これから山へ登ってどうするんだ。山へはあした案内する。きょうはもう帰る方がいいよ。途中で暗くなったら大変だ。」
 こんな注意を耳にもかけないように、赤座は強情に登ってゆく。僕はいよいよ不安になって、幾たびか呼び返しながらそのあとを追って行った。八月以来ここらの山路には歩き馴れているので、僕もかなりに足が早いつもりであるが、彼の歩みはさらに早い。わずかのうちに二間離れ、三間離れてゆくので、僕は息を切って登っても、なかなか追い付けそうもない。あたりはだんだんに暗くなって、寒い雨がしとしとと降って来る。勿論、ほかに往来の人などのあろうはずもないので、僕は誰の加勢を頼むわけにもいかない。薄暗いなかで彼のうしろ姿を見失うまいと、梟(ふくろう)のような眼をしながら唯ひとりで一生懸命に追いつづけたが、途中の坂路の曲り角でとうとう彼を見はぐってしまった。
「赤座君。赤座君。」
 僕の声はそこらの森に谺(こだま)するばかりで、どこからも答える者はなかった。それでも僕は根(こん)よく追っかけて、とうとう一本杉の茶屋の前まで来たが、赤座の姿はどうしても見付からないので、僕の不安はいよいよ大きくなった。茶屋の人を呼んで訊ねてみたが、日は暮れている、雨はふる、誰も表には出ていないので、そんな人が通ったかどうだか知らないという。これから先は妙義の難所で、第一の石門はもう眼の前にそびえている。いくら土地の勝手を知っていても、この暗がりに石門をくぐってゆくほどの勇気はないので、僕はあきらめて立ち停まった。
 路はいよいよ暗くなったので、僕は顔なじみの茶屋から提灯を借りて、雨のなかを下山した。雨具をつけていない僕は頭からびしょ濡れになって、宿へ帰りつく頃には骨まで凍りそうになってしまった。宿でも僕の帰りの遅いのを心配して、そこらまで迎えに出ようかと言っているところであったので、みんなも安心してすぐに炉のそばへ連れて行ってくれた。ぬれた身体を焚火にあたためて、僕は初めてほっとしたが、赤座に対する不安は大きい石のように僕の胸を重くした。僕の話をきいて宿の者も顔をしかめたが、その中には、こんな解釈をくだすものもあった。
「そういうお宗旨の人ならば、なにかの行(ぎょう)をするために、わざわざ暗い時刻に山へ登ったのかも知れません。山伏や行者のような人は時々にそんなことをしますから。」
 二月の大雪のなかを第二の石門まで登って行った行者のあったことを宿の者は話した。しかしさっき出逢ったときの赤座の様子から考えると、彼はそんな行者のような難行苦行をする人間らしくも思われなかった。夜がふけても彼は帰って来なかった。彼は宿の者が言うように、どこかの石門の下でこの寒い雨の夜にお籠(こも)りでもしているのであろうか、なにかの行法を修しているのであろうか。
 そんなことを考えつづけながら、僕はその一夜をおちおち眠らずに明かしてしまった。夜があけると雨はやんでいた。あさ飯を食ってしまうと、僕は宿の者ふたりと案内者一人とを連れて、赤座のゆくえを探しに出た。
 ゆうべの一本杉の茶屋まで行きつく間、我れわれは木立ちの奥まで隈なく探してあるいたが、どこにも彼の姿は見付からなかった。ゆうべ無暗に駈け歩いたせいか、けさは妙に足がすくんで思うように歩かれないので、僕はこの茶屋でしばらく休息することにして、他の三人は石門をくぐって登った。それから三十分と経たないうちに、そのひとりが引っ返して来て、蝋燭岩から谷間へころげ落ちている男の姿を発見したと、僕に報告してくれた。僕は跳ねあがるように床几(しょうぎ)を離れて、すぐに彼と一緒に第一の石門をくぐった。
 茶屋の者は僕の宿へその出来事をしらせに行った。

     三

 宿からも手伝いの男が駈けつけて来て、ともかくも赤座の死体を宿まで運んで来たのは、午前十一時にちかい頃であった。雨あがりの初冬の日はあかるく美しくかがやいて、杉の木立ちのなかでは小鳥のさえずる声がきこえた。
「あ。」
 こう言ったままで、僕はしばらくその死体を見つめていた。男の死体は岩石で額を打たれて半面に血を浴びているのと、泥や木の葉がねばり着いているのとで、今まではその人相をよくも見とどけずに、その服装によって一途(いちず)にそれが赤座であると思い込んでいたのであったが、宿へ帰って入口の土間にその死体を横たえて、僕もはじめて落着いて、もう一度その顔をのぞいてみると、それは確かに赤座でない、かつて見たこともない別人であった。そんなはずはないといぶかりながら、あかるい日光のもとで横からも縦(たて)からも覗いたが、彼はどうしても赤座ではなかった。
「どういう訳だろう。」
 僕は夢のような心持で、その死体をぼんやり眺めていた。勿論、きのうはもう薄暗い時刻であったが、僕をたずねて来た赤座の服装はたしかにこれであった。死体は洋服をきて、靴下に草鞋(わらじ)を穿いているばかりか、谷間で発見した中折帽子までも、僕がきのうの夕方に見たものと寸分違わないように思われた。それでもまだこんな疑いがないでもなかった。登山者の服装などはどの人もたいてい似寄っているから、あるいはきのう僕が見た赤座とは全く別人であるかも知れない。その事実をたしかめるために、僕はなにかの手がかりを得ようとして、死体のかくしをあらためると、まず僕の手に触れたものは皺だらけの原稿紙であった。
 原稿紙――それは妙義神社の前で、赤座の指の傷をおさえるために、僕の袂から出してやった原稿紙ではないか。しかも初めの二、三行には僕のペンの痕がありありと残っているではないか。僕は更に死体の手先をあらためると、右の人差指と中指には、摺りむいたような傷のあとが残っている。原稿紙にも血のあとがにじんでいる。こういう証拠が揃っている以上は、ゆうべの男はたしかにこの死体に相違ない。それを赤座だと思ったのは僕のあやまりであろうか。しかし彼は僕をたずねて来たのである。うす暗がりではあったが、僕もたしかに彼を赤座と認めた。それがいつの間にか別人に変っている。どう考えてもその理屈がわからないので、僕はいよいよ夢のような心持で、手に握った原稿紙と死体の顔とをいつまでもぼんやりと見くらべていた。
 駐在所の巡査も宿屋の者も、僕の説明を聴いて不思議そうに首をかしげていた。たしかに不思議に相違ない。この奇怪な死人は蟇口に二円あまりの金を入れているだけで、ほかには何の手がかりとなるような物も持っていなかった。彼は身許不明の死亡者として町役場へ引渡された。
 これでこの事件はひとまず解決したのであるが、僕の胸に大きく横たわっている疑問は決して解決しなかった。僕はすぐに越後へ手紙を送って、赤座の安否を聞き合せると、兄からも妹からも何の返事もなかった。
 疑いはますます大きくなるばかりで、僕はなんだか落着いていられないので、とうとう思い切って彼の郷里までたずねて行こうと決心した。幸いにここからはさのみ遠いところではないので、僕は妙義の山を降って松井田から汽車に乗って、信州を越えて越後へはいった。○○教の支社をたずねて、赤座朔郎に逢いたいと申入れると、世話役のような男が出て来て、講師の赤座はもう死んだというのであった。いや、赤座ばかりでない、妹の伊佐子もこの世にはいないというのを聞かされて、僕は頭がぼうとする程に驚かされた。
 赤座の兄妹はどうして死んだか。その事情については、世話役らしい男もとかくに言い渋っていたが、僕があくまでも斬り込んで詮議するので、彼もとうとう包み切れないでその事情をくわしく教えてくれた。
 この春、赤座が僕に話した通り、彼は妻を迎えようとしても適当な女が見あたらない。妹も兄が妻帯するまでは他へ嫁入りするのを見あわせて、兄の世話をしているという決心であった。こうして、兄妹は仲よく暮らしていた。そのうちに、町の或る銀行に勤めている内田という男がやはりおなじ信者である関係から、伊佐子を自分の妻に貰いたいと申込んだが、赤座はその人物をあまり好まなかったとみえて体(てい)よく断った。内田はそれでも思い切れないで、さらに直接伊佐子に交渉したが、伊佐子も同じく断った。
 兄にも妹にも撥(は)ね付けられて、内田は失望した。その失望から彼は根もないことを捏造(ねつぞう)して、赤座兄妹を傷つけようと企(たく)らんだ。彼は土地の新聞社に知人があるのを幸いに、○○教の講師兄妹のあいだに不倫の関係があるということをまことしやかに報告した。妹が年頃になっても他へ縁付かないのはそのためであると言った。おなじ信徒の報告であるから新聞社の方でもうっかり信用して、その記事を麗々しく掲げたので、たちまち土地の大評判になった。
 信徒の多数はそれを信じなかったが、ともかくもこんな噂を伝えられるということは非常な迷惑であった。ひいては布教の上にも直接間接の影響をあたえるのは判り切っていた。支社の方では新聞社に交渉して、まずその記事の出所を確かめようとしたが、これは新聞の習いとして原稿の出所を明白に説明することを拒(こば)んだ。事実が相違しているならば、取消しは出すと言つた。
 それから幾日かの後に、その新聞紙上に五、六行の取消し記事が掲載されたが、そんな形式的の事では赤座は満足できなかった。しかし彼は決して人を怨まなかった。彼はそれを自分の信ずる神の罰だと思った。自分の信仰が至らないために○○教の神から大いなる刑罰を下されたのであると信じていた。彼は堪えがたい恐懼(きょうく)と煩悶とにひと月あまりをかさねた末に、彼は更に最後の審判をうけるべく怖ろしい決心を固めた。
 彼はいつも神前に礼拝する時に着用する白い狩衣(かりぎぬ)のようなものを身につけて、それに石油をしたたかに注ぎかけておいて、社の広庭のまん中に突っ立って、自分で自分のからだにマッチの火をすり付けたのであった。聞いただけでも実に身の毛のよだつ話で、彼はたちまち一面の火焔に包まれてしまった。それを見つけて妹の伊佐子が駈け付けた時はもう遅かった。それでも何とかして揉み消そうと思ったのか、あるいは咄嗟(とっさ)のあいだに何かの決心を据えたのか、伊佐子は燃えている兄のからだを抱えたままで一緒に倒れた。
 他の人々がおどろいて駈けつけた時はいよいよ遅かった。兄はもう焼けただれて息がなかった。妹は全身に大火傷(おおやけど)を負って虫の息であった。すぐに医師を呼んで応急手当を加えた上で、ともかくも町の病院へかつぎ込んだが、伊佐子はそれから四時間の後に死んだ。
 その凄惨の出来事は前の記事以上に世間をおどろかして、赤座の死因についてはいろいろの想像説が伝えられたが、所詮(しょせん)はかの新聞記事が敬虔(けいけん)なる○○教の講師を殺したということに世間の評判が一致したので、新聞社でもさすがにその軽率を悔んで、半ば謝罪的に講師兄妹の死を悼むような記事を掲げた。それと同時におそらくその社のある者が洩らしたのであろう。かの新聞記事は内田の投書であるという噂がまた世間に伝えられたので、彼も土地にはいたたまれなくなったらしく、自分の勤めている銀行には無断で、一週間ほど以前にどこへか姿を隠した。
「その内田という男の居処はまだ知れませんか。」と、僕は訊いた。
「知れません。」と、それを話した世話役は答えた。「銀行の方には別に不都合はなかったようですから、まったく世間の評判が怖ろしかったのであろうと思われます。」
「内田はいくつぐらいの男ですか。」
「二十八九です。」
「家出をした時には、どんな服装をしていたか判りませんか。」と、僕はまた訊いた。
「銀行から家へ帰らずに、すぐに東京行きの汽車に乗り込んだらしいのですが、銀行を出た時には鼠色の洋服を着て、中折帽子をかぶっていたそうです。」
 僕の総身(そうみ)は氷のように冷たくなった。

「そうすると、妙義へ君をたずねて行ったのは、その内田という男なのかね。」
 青蛙堂の主人はその話のとぎれるのを待ちかねたようにたずねると、第三の男は大きい溜息をつきながらうなずいた。
「そうだ。僕の話を聴いて、彼の親戚と銀行の者とが僕と一緒に妙義へ来てみると、蝋燭谷の谷底に積たわっていた死体は、たしかに内田に相違ないということが判った。しかし彼がなぜ僕をたずねて来たのか、それは誰にも判らない。僕にも無論わからなかった。それが怖ろしい秘密だよ。赤座兄妹の身の上にそんな変事があろうとは僕は夢にも知らないでいた。そこへ赤座――僕の眼には確かにそう見えた――が不意にたずねて来た。しかもそれは赤座自身ではない、却って赤座の仇(かたき)であって、原因不明の変死を遂げてしまった。その秘密を君はどう解釈するかね。」
「兄妹の魂がかれを誘い出して来たとでもいうのかね。」と、主人は考えながら言った。
「まずそうだ。僕もそう解釈していた。それにしても、赤座は僕に一度逢いたいので、そのたましいが彼のからだに乗りうつって来たのか。あるいは自分たちの死を報告するために、彼を使いによこしたのか。内田という男がどうして僕の居どころを知っていたのか。僕にはどうもはっきり判らないので、その後もいろいろの学者たちに逢ってその説明を求めたが、どの人も僕に十分の満足をあたえるほどの解答を示してくれない。
 しかし大体の意見はこういうことに一致しているらしい。すなわち内田という人間は一種の自己催眠にかかって、そういう不思議の行動を取ったのであろう、というのだ。内田は一旦の出来ごころで、赤座の兄妹を傷つけようと企てたが、その結果が予想以上に大きくなって、兄妹があまりに物凄い死に方をしたので、彼も急におそろしくなった。彼もおなじ宗教の信者であるだけに、いよいよその罪をおそろしく感じたかも知れない。そうして、兄妹の怨恨がかならず自分の上に報(むく)って来るというようなことを強く信じていたかも知れない。その結果、彼は赤座に導かれたような心持になって、ふらふらと僕をたずねて来た。彼がどうして僕の居処を知っていたかというのは、おなじ信者ではあり、且(かつ)は妹に結婚を申込むくらいの間柄であるから、赤座の家へも親しく出入りをしていて、僕が妙義の宿からたびたび送った絵葉書を見たことがあるかも知れない。僕が赤座の親友であることを知っていたかも知れない。自己催眠にかかった彼は赤座に導かれて赤座の親友をたずねるつもりで、妙義の山までわざわざ来たのだろう。
 ――と、こういうことになっているんだが、僕は催眠術をくわしく研究していないから、果してどうだか判らない。外国へ行ったときに心霊専門に研究している学者たちにも訊いてみたが、その意見はまちまちで、やはり正確な判断を下すまでに至らなかったのは残念だ。しかし学者の意見はどうであろうとも、実際、かの内田が自己催眠に罹(かか)っていたにしても――僕の眼にそれが赤座の姿と見えたのはどういう訳だろう。あるいは自己催眠の結果、内田自身ももう赤座になり澄ましたような心持になって、言語動作から風采までが自然に赤座に似て来たのだろうか。それとも僕もその当時、一種の催眠術にかかっていたのだろうか。」
[#改ページ]

   猿(さる)の眼(め)


     一

 第四の女は語る。

 わたくしは文久(ぶんきゅう)元年酉歳(とりどし)の生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解(がかい)になりました明治元年が八つの年で、吉原の切解(きりほど)きが明治五年の十月、わたくしが十二の冬でございました。御承知でもございましょうが、この年の十一月に暦(こよみ)が変りまして、十二月三日が正月元日となったのでございます。いえ、どうも年をとりますとお話がくどくなってなりません。前置きはまずこのくらいに致しまして、本文(ほんもん)に取りかかりましょう。まことに下(くだ)らない話で、みなさまがたの前で子細らしく申上げるようなことではないのでございますが、席順が丁度わたくしの番に廻ってまいりましたので、ほんの申訳ばかりにお話をいたしますのですから、どうぞお笑いなくお聴きください。
 まことにお恥かしいことでございますが、その頃わたくしの家は吉原の廓内(くるわうち)にありまして、引手(ひきて)茶屋を商売にいたしておりました。江戸の昔には、吉原の妓楼(ぎろう)や引手茶屋の主人にもなかなか風流人がございまして、俳諧をやったり書画をいじくったりして、いわゆる文人墨客(ぶんじんぼっかく)というような人たちとお附合いをしたものでございます。わたくしの祖父や父もまずそのお仲間でございまして、歌麿のかいた屏風だとか、抱一(ほういつ)上人のかいた掛軸だとかいうようなものが沢山(たくさん)にしまってありました。
 祖父はわたくしが三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛と申しました。それが代々の主人の名だそうでございます。なにしろ急に世の中が引っくり返ったような騒ぎですから、世間一統がひどい不景気で、芝居町や吉原やすべての遊び場所がみんな火の消えたような始末。おまけに新富町には新島原の廓が新しく出来ましたので、その方へお客を引かれる。わたくしの父なぞは、いっそもう商売をやめてしまおうかなぞと言ったくらいでしたが、母や同商売の人にも意見されて、もう少し世の成行きを見ていようといううちに、京橋のまん中に遊廓なぞを置くのはよくないというので、新島原は間もなくお取潰しになりまして、妓楼はみんな吉原へ移されることになりました。
 これで少しは息がつけるかと思っていると、明治五年には前に申した通りの切解きで……。今までの遊女や芸妓は人身売買であるからよろしくないというので、一度にみんな解放を命ぜられました。こんにちでは娼妓(しょうぎ)解放と申しますが、そのころは普通一般に切解きと申しておりました。さあ、これがまた大変で、早くいえば吉原の廊がぶっ潰されるような大騒ぎでございました。
 しかしその時代のことですから、何事もお上(かみ)のお指図次第で、だれも苦情の申しようはございません。勿論、それで吉原が潰れっ切りになったわけではなく、ふたたび備えを立て直して相変らず商売をつづけて行くことになったのですが、前々から廃業したいという下心(したごころ)があったところへ、こんな騒ぎがまたも出来(しゅったい)したので、父の市兵衛はいよいよ見切を付けまして、百何十年もつづけて来た商売をとうとうやめることに決心しました。さりとて不馴れの商売なぞをうっかり始めるのは不安心で、士族の商法という生きた手本がたくさんありますから、田町(たまち)と今戸(いまど)辺に五、六軒の家作があるのを頼りに、小体(こてい)のしもた家暮らしをすることになりました。
 父は若いときから俳諧が好きでして、下手か上手か知りませんが、三代目夜雪庵の門人で羅香と呼んでおりまして、すでに立机(りゅうぎ)の披露も済ませているのですから、曲りなりにも宗匠格でございます。そこでこの場合、自分の好きな道にゆっくり遊びたいというのと、二つには芸が身を助けるというような意味もまじって、俳諧の宗匠として世を渡ることにしましたが、今までとは違って小さい家へ引籠るのですから、余計な荷物の置きどころがないのと、邪魔なものは売払ってお金にしておく方がいいというので、不用のがらくたは勿論のこと、祖父の代から集めていました、書画や骨董のたぐいも大抵売払ってしまいました。
 御承知でもございましょうが、明治初年の書画骨董ときたらほんとうの捨て売りで、菊池容斎や渡辺崋山の名画が一円五十銭か二円ぐらいで古道具屋の店(たな)ざらしになっている時節でしたから、歌麿も抱一上人もあったものでございません、みんな二束三文に売払ってしまったのでございます。その時分でも母などは何だか惜しいようだと言っておりましたが、父は思い切りのいい方で、未練なしに片っぱしから処分しましたが、それでも自分の好きな書画七、八点と屏風一双(そう)と骨董類五、六点だけを残しておきました。
 その骨董類は、床の置物とか花生けとか文台とかいうたぐいの物でしたが、そのなかに一つ、木彫りの猿の仮面(めん)がありました。それは父が近いころに手に入れたもので、なんでもその前年、明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い筵(むしろ)を敷いて、ちっとばかりの古道具をならべている夜店が出ていました。芝居に出る浪人者のように月代(さかやき)を長くのばして、肌寒そうな服装(みなり)をした四十恰好の男が、九つか十歳(とお)ぐらいの男の子と一緒に、筵の上にしょんぼりと坐って店番をしています。
 その頃にはそういう夜店商人がいくらも出ていましたので、これも落ちぶれた士族さんが家の道具を持出して来たのであろうと、父はすぐに推量して、気の毒に思いながらその店をのぞいて見ると、目ぼしい品はもう大抵売尽してしまったとみえて、店には碌な物も列(なら)んでいませんでしたが、そのなかにただ一つ古びた仮面がある。それが眼について父は立止りました。
「これはお払いになるのでございますか。」
 相手が普通の夜店商人でないとみて、父も丁寧にこう訊(き)いたのです。すると、相手も丁寧に会釈(えしゃく)して、どうぞお求めくださいと言いましたので、父はふたたび会釈してその仮面を手に取って、うす暗い燈火(あかり)のひかりで透かしてみると、時代も相応に付いているものらしく、顔一面が黒く古びていましたが、彫りがなかなかよく出来ているので、骨董好きの父はふらふらと買う気になりました。
「失礼ながらおいくらでございますか。」
「いえ、いくらでもよろしゅうございます。」
 まことに士族の商人(あきんど)らしい挨拶です。そこへ付け込んで値切り倒すほどの悪い料簡もないのと、いくらか気の毒だと思う心もあるのとで、父はそれを三歩(ぶ)に買おうと言いますと、相手は大層よろこんで、いや三歩には及ばない、二歩で結構だというのを、父は無理にすすめて三歩に買うことにしました。なんだかお話が逆(さか)さまのようですが、この時分にはこんなことが往々あったそうでございます。
 いよいよ売買の掛合いが済んでから、父は相手に訊(き)きました。
「このお面は古くからお持ち伝えになっているのでございますか。」
「さあ、いつの頃に手に入れたものか判りません。実はこんなものが手前方に伝わっていることも存じませんでしたが、御覧の通りに零落(れいらく)して、それからそれへと家財を売払いますときに、古長持の底から見つけ出したのです。」
「箱にでもはいっておりましたか。」
「箱はありません。ただ欝金(うこん)のきれに包んでありました。少し不思議に思われたのは、猿の両眼を白い布(きれ)で掩って、その布の両端をうしろで結んで、ちょうど眼隠しをしたような形になっていることです。いつの頃に誰がそんなことをしておいたのか、別になんにも言い伝えがないので、ちっとも判りません。一体それが二歩三歩の値のあるものかどうだか、それすらも手前には判らないのです。」
 売る人はあくまでも正直で、なにもかも打ち明けて話しました。
 それだけのことを聞かされて、その仮面を受取って、父は吉原の家へ帰って来ましたが、あくる日になってよく見ると、ゆうべ薄暗いところで見たのとは余ほど違っていて、かなりに古いものには相違ないのですが、刀の使い方もずいぶん不器用で、さのみの上作とは思われません。これが三歩では少し買いかぶったと今さら後悔するような心持になったのですが、むこうが二歩でいいと言うのをこちらから無理に買上げたのですから、苦情の言いようもありません。「こんなものは仕方がない。まあ、困っている士族さんに恵んであげたと思えばいいのだ。」
 こう諦めて、父はその仮面を戸棚の奥へ押込んでおいたままで、自分でももう忘れてしまったくらいでしたが、今度いよいよ吉原の店をしまうという段になって、いろいろの書画骨董類を整理するときに、ふと見つけ出したのが彼(か)の仮面で、もちろんほかの品々と一緒に売払ってしまうはずでしたが、いざという時になると、父はなんだか惜しくてならぬような気になったそうです。
 そこで、これはまあこのままに残しておこうと言って、前に申した通り、五、六点の骨董のうちに加えて持ち出すことになったのでした。なぜそれが急に惜しくなったのか、自分にもその時の心持はよく判らないと、父は後になって話しました。
 とにかくそういう訳で、わたくし共の一家が多年住みなれた吉原の廊を立退きましたのは明治六年の四月、新しい暦では花見月の中頃でございました。今度引移りましたのは今戸の小さい家で、間かずは四間(よま)のほかに四畳半の離(はなれ)屋がありまして、そこの庭先からは、隅田川がひと目に見渡されます。父はこの四量半に閉じこもって、宗匠の机を据えることになりました。

     二

 それから小(こ)ひと月ばかりは何かごたごたしていましたが、それがようよう落着くと五月のなかばで、新暦でも日中はよほど夏らしくなってまいりました。
 父は今まで世間の附合いを広くしていたせいでございましょう、今戸へ引移りましてからも尋ねて来る人がたくさんあります。俳諧のお友だちも大勢みえます。吉原を立退いたらばさぞ寂しいことだろうと、わたくしも子供心に悲しく思っていたのですが、そういうわけで人出入りもなかなか多く、思ったほどには寂しいこともないので、母もわたくしも内々よろこんでおりますうちに、こんな事件が出来(しゅったい)したのでございます。
 前にも申した通り、今度の家は四間で、玄関の寄付きが三畳、女中部屋が四畳半、茶の間が六畳、座敷が八畳という間取りでございまして、その八畳の間に両親とわたくしが一緒に寝ることになっていました。そこへ一人の泊り客が出来ましたので、まさかに玄関へ寝かすわけにもいかず、茶の間へも寝かされず、父が机を控えている離れの四畳半が夜は明いているので、そこへ泊めることにしたのでございます。
 その泊り客は四谷の井田さんという質屋の息子で、これも俳諧に凝(こ)っている人なので、夕方からたずねて来て、好きな話に夜がふける。おまけに雨が強く降って来る。唯今とちがって、電車も自動車もない時代でございますから、今戸から四谷まで帰るのは大変だというので、こちらでもお泊りなさいと言い、井田さんの方でも泊めてもらおうということになったのです。
 女中に案内されて、井田さんは離れの四畳半に寝る。わたくし共はいつもの通りに八畳に寝る。女中ふたりは台所のとなりの四畳半に寝る。雨には風がまじって来たとみえて、雨戸をゆするような音も聞えます。場所が今戸の河岸(かし)ですから、隅田川の水がざぶんざぶんと岸を打つ音が枕に近くひびきます。なんだか怖いような晩だと思いながら、わたくしは寝床へはいっていつかうとうとと眠りますと、やがて父と母との話し声で眼がさめました。
「井田さんはどうかしたんでしょうか。」と、母が不安らしく言いますと、「なんだかうなっているようだな。」と、父も不審そうに言っています。
 それを聴いて、わたくしはまたにわかに怖くなりました。夜がふけて、雨や風や浪の音はいよいよ高くきこえます。
「ともかくも行ってみよう。」
 父は枕もとの手燭(てしょく)をとぼして、縁側へ出ました。母も床の上に起き直って様子をうかがっているようです。離れといっても、すぐそこの庭先にあるので、父は傘もささないで出て行って、離れへはいって何か井田さんと話しているようでしたが、雨風の音に消されてよくも聞えませんでした。そのうちに父は帰って来て、笑いながら母に話していました。
「井田さんも若いな。何かあの座敷に化物(ばけもの)が出たというのだ。冗談じゃあない。」
「まあ、どうしたんでしょう。」
 母は半信半疑のように考えていると、父はまた笑いました。
「若いといっても、もう二十二だ。子供じゃあない。つまらないことを言って、夜なかに人騒がせをしちゃあ困るよ。」
 父も母もそれぎり寝てしまったようですが、わたくしはいよいよ怖くなって寝られませんでした。ほんとうにお化けが出たのかしら。こんな晩だからお化けが出ないとも限らない。そう思うと眼が冴えて、小さい胸に動悸を打って、とても再び眠ることは出来ません。
 早く夜が明けてくれればいいと祈っていると、浅草の鐘が二時を撞く。その途端に離れの方では、何かどたばたいうような音がまた聞えたので、わたくしははっと思って、髪のこわれるのもいとわずに、あたまから夜具を引っかぶって小さくなっていますと、父も母もこの物音で眼をさましたようです。
「また何か騒ぎ出したのか。どうも困るな。」
 父は口(くち)叱言(こごと)を言いながら再び手燭をつけて出ましたが、急におどろいたような声を出して、母をよびました。母もおどろいて縁側へ出たかと思うと、また引っ返してあわただしく行燈(あんどん)をつけました。どうも唯事ではないらしいので、わたくしも竦(すく)んでばかりいられなくなって、怖いもの見たさに夜具からそっと首を出しますと、父は雨にぬれながら井田さんを抱え込んで来ました。
 井田さんは、真っ蒼になって、ただ黙っているのですが、離れから庭へころげ落ちたとみえて、寝衣(ねまき)の白い浴衣が泥だらけになっています。母は女中たちを呼びおこして、台所から水を汲んで来て井田さんの手足を洗わせる。ほかの寝衣を着かえさせる。暫くごたごたした後に、井田さんもようよう落ちついて、水を一杯くれという。水を飲んでほっとしたようでしたが、それでも井田さんの顔はまだ水色をしていました。
「おまえ達はもういいから、あっちへ行ってお休み。」
 父は女中たちを部屋へさがらせて、それから井田さんにむかって一体どうしたのかと訊きますと、井田さんは低い声で言い出しました。
「どうもたびたび、お騒がせ申しまして相済みません。さっきも申した通り、あの四畳半の離れに寝かしていただいて、枕についてうとうと眠ったかと思いますと、急になんだか寝苦しくなって、誰かが髪の毛をつかんで引抜くように思われるので、夢中で声をあげますと、それがあなた方にも聞えまして、宗匠がわざわざ起きて来て下さいました。宗匠は夢でも見たのだろうとおっしやいましたが、夢か現(うつつ)か自分にもはっきりとは判りませんでした。それから再び枕につきましたが、どうも眼が冴えて眠られません。幾度も寝がえりをしているうちに、またなんだか胸が重っ苦しくなって、髪の毛が掻きむしられるように思われますので、今度は一生懸命になって、からだを半分起き直らせて、枕もとをじっと窺いますと、暗いなかで何か光るものがあります。はて、なにか知らんと怖ごわ見あげると、柱にかけてある猿の面……。その二つの眼が青い火のように光り輝いて、こっちを睨みつけているのでございます。わたしはもう堪らなくなりましてあわてて飛び出そうとしましたが、雨戸の栓がなかなか外(はず)れない。ようようこじ明けて庭先へ転げ出すと、土は雨に濡れているので滑って倒れて……重ねがさね御厄介をかけるようなことになりました。」
 井田さんの話が嘘でないらしいことは、その顔色を見ても知れます。
 洒落や冗談にそんな人騒がせをするような人でないこともふだんから判っているので、父も不思議そうに聴いていましたが、ともかくも念のために見届けようと言って起(た)ちあがりました。母はなんだか不安らしい顔をして、父の袂をそっと引いたようでしたが、父は物に屈しない質(たち)でしたから、かまわずに振切って離れの方へ出て行きましたが、やがて帰って来て、うなるように溜息をつきました。
「どうも不思議だな。」
 わたくしはまたぎょっとしました。父がそういう以上、それがいよいよ本当であるに相違ありません。母も井田さんも黙って父の顔をながめているようでした。
 仮面は戸棚の奥にしまい込んでおいたのを、今度初めて離れの柱にかけたのですが、誰も四畳半に寝る者はないので、その眼が光るかどうだか、小ひと月のあいだも知らずに済んでいたのですが、今夜この井田さんを寝かしたために、初めてその不思議を見つけ出したというわけです。木彫りの猿の眼が鬼火のように青く光るとは、聞いただけでも気味のわるい話です。
 なにしろ夜が明けたらばもう一度よく調べてみようということになって、井田さんを茶の間の六畳に寝かし付けて、その晩はそれぎり無事にすみましたが、東が白んで、雨風の音もやんで、八幡さまの森に明鴉の声がきこえる頃まで、わたくしはおちおち眠られませんでした。

     三

 夜が明けると、きょうは近頃にないくらいのいいお天気で、隅田川の濁った水の上に青々した大空が広くみえました。夏の初めの晴れた朝は、まことに気分のさわやかなものでございます。
 ゆうべろくろく寝ませんので、わたくしはなんだか頭が重いようでございましたが、座敷の窓から川を見晴らして、涼しい朝風にそよそよ吹かれていますと、次第に気分もはっきりとなって来ました。そのうちに朝のお膳の支度が出来まして、父と井田さんとは差向いで御飯をたべる。わたくしがそのお給仕をすることになりました。
 御飯のあいだにもゆうべの話が出まして、父はあの猿の仮面を手に入れた由来をくわしく井田さんに話していました。
「あなた一人でなく、現にわたくしも見たのですから、心の迷いとか、眼のせいだとかいう訳にはいきません。」と、父は箸をやすめて言いました。「それで思いあたることは、あの面を売った士族の人が、いつの頃に誰がしたのか知らないが、猿の面には白布をきせて目隠しをしてあったと言いました。そのときには別になんとも思いませんでしたが、今になって考えると、あの猿の眼には何かの不思議があるので、それで目隠しをしておいたのかも知れません。」
「はあ、そんな事がありましたか。」と、井田さんも箸をやすめて考えていました。「そういう訳では、売った人の居どころはわかりますまいね。」
「判りません。なにしろおとどしの暮れのことですから、その後にも広小路をたびたび通りましたが、そんな古道具屋のすがたを再び見かけたことはありませんでした。商売の場所をかえたか、それとも在所へでも引っ込んだかでしょうね。」
 御飯が済んでから、父と井田さんは離れへ行って、明るい所で猿の仮面の正体を見届けることになりましたので、母もわたくしも女中たちも怖いもの見たさに、あとからそっと付いて行って遠くから覗いておりますと、父も井田さんも声をそろえて、どうも不思議だ不思議だと言っています。
 どうしたのかと訊いてみると、その仮面がどこへか消えてなくなったというのです。井田さんが戸をこじ開けてころげ出してから、夜のあけるまで誰もその離れへ行った者はないのですから、こっちのどさくさまぎれに何者かが忍び込んで盗んで行ったのかとも思われますが、ほかの物はみんな無事で、ただその仮面一つだけが紛失したのは、どうもおかしいと父は首をかしげていました。しかしいくら詮議しても、評議しても、無いものはないのですから、どうも仕方がございません。ただ不思議ふしぎを繰返すばかりで、なんにも判らずじまいになってしまいました。
 けさになっても井田さんは、気分がまだほんとうに好くないらしく、蒼い顔をして早々に帰りましたので、父も母も気の毒そうに見送っていました。
 それが因(もと)というわけでもないでしょうが、井田さんはその後間もなくぶらぶら病いで床について、その年の十月にとうとういけなくなってしまいました。その辞世の句は、上五文字をわすれましたが「猿の眼に沁む秋の風」というのだったそうで、父はまた考えていました。
「辞世にまで猿の眼を詠むようでは、やっぱり猿の一件が祟(たた)っていたのかも知れない。」
 そうは言っても、父は相変らず離れの四畳半に机をひかえて、好きな俳諧に日を送っているうちに、お弟子もだんだんに出来ました。どうにかこうにか一人前の宗匠株になりましたのでございます。
 それから三年ほどは無事に済みまして、明治十年、御承知の西南戦争のあった年でございます。その時に父は四十一、わたくしは十七になっておりましたが、その年の三月末に孝平という男がぶらりと尋ねてまいりました。以前は吉原の幇間であったのですが、師匠に破門されて廓(くるわ)にもいられず、今では下谷(したや)で小さい骨董屋のようなことを始め、傍らには昔なじみのお客のところを廻って野幇間(のだいこ)の真似もしているという男で、父とは以前から知っているのです。それが久振りで顔を出しまして、実はこんなものが手に入りましたからお目にかけたいと存じて持参しましたという。いや、お前も知っている通り、わたしは商売をやめるときに代々持ち伝えていた書画骨董類もみんな手放してしまったくらいだから、どんな掘出し物だか知らないが、わたしのところへ持って来ても駄目だよ、と父は一旦断りましたが、まあともかくも品物をみてくれ、あなたの気に入らなかったらどこへか世話をしてくれと、孝平は臆面なしに頼みながら、風呂敷をあけてもったいらしく取出したのは、一つの古びた面箱でした。
「これはさるお旗本のお屋敷から出ましたもので、箱書には大野出目(でめ)の作とございます。出どころが確かでございますから、品はお堅いと存じますが……。」
 紐を解いて、蓋をあけて取出した仮面(めん)をひと目みると、父はびっくりしました。それはかの猿の仮面に相違ないのです。
 孝平はそれをどこかで手に入れて、大野出目の作なぞといういい加減の箱をこしらえて、高い値に売込もうというたくらみと見えました。そんなことは骨董屋商売として珍しくもないことですから、父もさのみに驚きもしませんでしたが、ただおどろいたのは、その仮面がどこをどう廻りまわって、再びこの家へ来たかということです。
 その出所をきびしく詮議されて、孝平の化けの皮もだんだんにはげて来て、実は四谷通りの夜店で買ったのだと白状に及びました。その売手はどんな人だと訊きますと、年ごろは四十六七、やがて五十近いかと思われる士族らしい男だというのです。男の児を連れていたかと訊くと、自分ひとりで筵の上に坐っていたという。その人相などをいろいろ聞きただすと、どうも上野に夜店を出していた男らしく思われるのです。いくらで買ったと訊きますと、十五銭で買ったということでした。十五銭で買った仮面を箱に入れて、大野出目の作でございなぞは、なんぼこの時代でもずいぶんひどいことをする男で、これだから師匠に破門されたのかも知れません。
 なんにしても、そんなものはすぐに突き戻してしまえばよかったのですが、その猿の仮面がほんとうに光るかどうか、父はもう一度ためしてみたいような気になったので、ともかくも二、三日あずけておいてくれと言いますと、孝平は二つ返事で承知して、その仮面を父にわたして帰りました。
 母はそのとき少し加減が悪くて、寝たり起きたりしていたのですが、あとでその話を聞いていやな顔をしました。
「あなた、なぜそんな物をまた引取ったのです。」
「引取ったわけじやない。まったく不思議があるかないか、試して見るだけのことだ。」と、父は平気でいました。
 以前と違って、わたくしももう十七になっていましたから、ただむやみに怖い怖いばかりでもありませんでしたが、井田さんの死んだことなぞを考えると、やっぱり気味が悪くてなりませんでした。父は以前の通りその仮面を離れの四畳半にかけておいて、夜なかに様子を見にゆくことにしまして、母と二人で八畳の間に床をならべて寝ました。わたくしはもう大きくなっているので、この頃は茶の間の六畳に寝ることにしていました。
 旧暦では何日にあたるか知りませんが、その晩は生(なま)あたたかく陰っていて、低い空には弱い星のひかりが二つ三つ洩れていました。おまえ達はかまわず寝てしまえと父は言いましたが、仮面の一件がどうも気になるので、床へはいっても寝付かれません。そのうちに十二時の時計が鳴るのを合図に、次の間に寝ていた父はそっと起きてゆくようですから、わたくしも少し起き返って、じっと耳をすましてうかがっていますと、父は抜足をして庭へ出て、離れの方へ忍んでゆくようです。
 そうして四畳半の戸をしずかに開けたかと思う途端に、次の間であっという母の声がきこえたので、思わず飛び起きて襖をあけて見ましたが、行燈は消えているのでよく判りません。あわてて手探りで火をとぼしますと、母は寝床から半分ほどもからだを這い出させて、畳の上に俯伏(うつぶ)しに倒れていましたが、誰かに髻(たぶさ)をつかんで引摺り出されたように、丸髪がめちやめちやにこわれています。わたくしは泣き声をあげて呼びました。
「おっかさん、おっかさん。どうしたんですよ。」
 その声におどろいて女中たちも起きて来ました。父も庭口から戻って来ました。水や薬をのませて介抱して、母はやがて正気にかえりましたが、その話によると誰かが不意に母の丸髷を引っ掴んで、ぐいぐいと寝床から引摺り出したということです。
「むむう。」と、父は溜息をつきました。「どうも不思議だ。猿の眼はやっぱり青く光っていた。」
 わたくしはまたぞっとしました。
 あくる日、父は孝平を呼んでその事を話しますと、孝平も青くなって慄(ふる)えあがりました。こんなものを残しておくのはよくないから、いっそ打毀(ぶちこわ)して焚いてしまおうと父が言いますと、もともと十五銭で買ったものですから、孝平にも異存はありません。父と二人で庭先へ出て、その仮面をいくつにも叩き割って、火をかけてすっかり焼いた上で、その灰は隅田川に流してしまいました。
「それにしても、その古道具屋というのは変な奴ですね。あなたに面を売ったのと同じ人間だかどうだか、念のために調べて見ようじゃありませんか。」
 孝平は父を誘い出して、その晩わざわざ山の手まで登って行きましたが、四谷の大通りにそんな古道具屋の夜店は出ていませんでした。ここの処に出ていたと孝平の教えた場所は、丁度かの井田さんの質屋のそばであったので、さすがの父もなんだかいやな心持になったそうです。母はその後どうということもありませんでしたが、だんだんにからだが弱くなりまして、それから三年目に亡くなりました。

「お話はこれだけでございます。その猿の眼には何か薬でも塗ってあったのではないかと言う人もありましたが、それにしても、その仮面が消えたり出たりしたのが判りません。井田さんの髪の毛を掻きむしったり、母の髻(たぶさ)を掴んだりしたのも、何者の仕業(しわざ)だか判りません。いかがなものでしょう。」
「まったく判りませんな。」
 青蛙堂主人も溜息まじりに答えた。
[#改ページ]

   蛇精(じゃせい)


     一

 第五の男は語る。

 わたしの郷里には蛇に関する一種の怪談が伝えられている。勿論、蛇と怪談とは離れられない因縁になっていて、蛇に魅(みこ)まれたとか、蛇に祟(たた)られたとかいうたぐいの怪談は、むかしから数え尽されないほどであるが、これからお話をするのは、その種の怪談と少しく類を異(こと)にするものだと思ってもらいたい。
 わたしの郷里は九州の片山里(かたやまざと)で、山に近いのと気候のあたたかいのとで蛇の類がすこぶる多い。しかしその種類は普通の青大将や、やまかがしや、なめらや、地もぐりのたぐいで、人に害を加えるようなものは少ない。蝮(まむし)に咬まれたという噂を折りおりに聞くが、かのおそろしいはぶなどは棲んでいない。蠎蛇(うわばみ)にはかなり大きいのがいる。近年はだんだんにその跡を絶ったが、むかしは一丈五尺乃至(ないし)二丈ぐらいのうわばみが悠々とのたくっていたということである。
 その有害無害は別として、誰にでも嫌われるのは蛇である。ここらの人間は子供のときから見馴れているので、他国の者ほどにはそれを嫌いもせず、恐れもしないのであるが、それでも蝮とうわばみだけは恐れずにはいられない。蝮は毒蛇であるから、誰でも恐れるのは当然であるが、しかしここらでは蝮のために命をうしなったとか、不具(かたわ)になったとかいう例は甚だ少ない。むかしから皆その療治法を心得ていて、蝮にかまれたと気が付くとすぐに応急の手当を加えるので、大低は大難が小難ですむらしい。殊に蝮は紺の匂いを嫌うというので、蝮の多そうな山などへはいるときには紺の脚絆(きゃはん)や紺足袋をはいて、樹の枝の杖などを持って行って、見あたり次第にぶち殺してしまうのである。ほかの土地には蝮捕りとか蛇捕りとかいう一種の職業があるそうであるが、ここらにそんな商売はない。蛇を食う者もない。まむし酒を飲む者もない。ただぶち殺して捨てるだけである。
 蝮は山ばかりでなく、里にもたくさん棲んでいるが、馴れている者は手拭をしごいて二つ折りにして、わざとその前に突きつけると、蝮は怒ってたちまちにその手拭にかみつく。その途端にぐいと引くと白髪(しらが)のような蝮の歯は手拭に食い込んだままで、もろくも抜け落ちてしまうのである。毒牙をうしなった蝮は、武器をうしなった軍人とおなじことで、その運命はもう知れている。こういうわけであるから、ここらの人間はたとい蝮を恐れるといっても、他国の者ほどには強く恐れていない。かれは一面に危険なものであると認められていながら、また一面には与(くみ)し易きものであると侮られてもいる。蝮が怖いなどというと笑われるくらいである。
 しかし、かのうわばみにいたっては、蝮と同日(どうじつ)の論ではない。その強大なるものは家畜を巻き殺して呑む。あるときは、子供を呑むこともある。それを退治するのは非常に困難で、前にいった蝮退治のような手軽の事では済まないのであるから、ここらの人間もうわばみに対してはほんとうに恐れている。その恐怖から生み出された古来の伝説がまたたくさんに残っていて、それがいよいよ彼らの恐怖を募らせているらしい。
 それがために、いつの代から始まったのか知らないが、ここらの村では旧暦の四月のはじめ、かのうわばみがそろそろ活動を姶めようとする頃に、蛇祭というのを執行するのが年々の例で、長い青竹を胴にしてそれに草の葉を編みつけた大蛇の形代(かたしろ)をこしらえ、なんとかいう唄を歌いながら大勢がそれを引摺って行って、近所の大川へ流してしまう。その草の葉を肌守(はだまもり)のなかに入れておくと、大蛇に出逢わないとか、魅(みこ)まれないとかいうので、女子供は争ってむしり取る。こんな年中行事が遠い昔から絶えず繰返されているのを見ても、いかにかのうわばみがここらの人間に禍いし、いかにここらの人間に恐れられているかを想像することが出来るであろう。
 そのなかでただひとり、かのうわばみをちっとも恐れない人間――むしろうわばみの方から恐れられているかも知れない、と思われるような人間がこの村に棲んでいた。彼は本名を吉次郎というのであるが、一般の人のあいだにはその渾名(あだな)の蛇吉をもって知られていた。彼は二代目の蛇吉で、先代の吉次郎は四十年ほど前にどこからか流れ込んで来て、屋根屋を職業にしていたのであるが、ある動機からうわばみ退治の名人であると認められて、夏のあいだはうわばみ退治がその本職のようになってしまった。
 その吉次郎は既に世を去って、そのせがれの吉次郎がやはり父のあとを継いで屋根屋とうわばみ退治とを兼業にしていたが、その手腕はむしろ先代をしのぐというので、二代目の蛇吉は大いに村の人々から信頼されていた。かれは六十に近い老母と二人暮らしで、ここらの人間としてはまず普通の生活をしていたが、いつか本職の屋根屋を廃業して、うわばみ退治専門になった。彼は夏の間だけ働いて、冬のあいだは寝て暮らした。
 彼はどういう手段でうわばみを退治するかというと、それには二つの方法があるらしい。その一つは、うわばみの出没しそうな場所を選んで、そこに深い穴をほり、そのなかで一種の薬を焼くのである。うわばみはその匂いをかぎ付けて、どこからか這い出して来て、そのおとし穴の底にのたり込むと、穴が深いので再び這いあがることが出来ないばかりか、その薬の香に酔わされて遂に麻痺したようになる。そうなれば生かそうと殺そうと彼の自由である。ただしその薬がどんなものであるか、彼は堅く秘して人に洩らさなかった。
 単にこれだけのことであれば、その秘密の薬さえ手に入れば誰にでも出来そうなことで、特に蛇吉の手腕を認めるわけにはいかないが、第二の方法は彼でなければ殆んど不可能のことであった。たとえばうわばみが村のある場所にあらわれたという急報に接して、今更にわかにおとし穴を作ったり、例の秘薬を焼いたりしているような余裕のない場合にはどうするかというと、彼は一挺の手斧(ちょうな)を持ち、一つの麻袋を腰につけて出かけるのである。麻袋の中には赭土(あかつち)色をした粉薬(こなぐすり)のようなものが貯えてあって、まず蛇の来る前路にその粉薬を一文字にふりまく。それから四、五間ほど引下がったところにまた振りまく。さらに四、五間離れたところにまたふり撒く。こうして、蛇の前路に三本の線を引いて敵を待つのである。
「おれはきっと二本目でくい止めてみせる。三本目を越して来るようでは、おれの命があぶない。」
 かれは常にこういっていた。そうして、かの手斧を持って、第一線を前にして立っていると、うわばみは眼をいからせて向って来るが、第一線の前に来てすこし躊躇する。その隙をみて、かれは猶予なく飛びかかって敵の真っ向をうち砕くのである。もし第一線を躊躇せずに進んで来ると、彼は後ろ向きのままで蛇よりも早くするすると引下がって、更に第二線を守るのである。第一線を乗り越えた敵も、第二線に来るとさすがに躊躇する。躊躇したが最後、蛇吉の斧はその頭の上に打ちおろされるのである。彼の言う通り、大抵のうわばみは第一線にほろぼされ、たとい頑固にそれを乗り越えて来ても、第二線の前にはかならずその頭をうしなうのであった。
 口でいうとこの通りであるが、なにしろ正面から向って来る蛇に対してまず第一線で支え、もし危いと見ればすぐに退いて第二線を守るというのであるから、飛鳥といおうか、走蛇といおうか、すこぶる敏捷に立廻らなければならない。蛇吉の蛇吉たるところはここにあると言ってよい。
 ところが、ある時、その第二線をも平気で乗り越えて来た大蛇があったので、見物している人々は手に汗を握った。蛇吉も顔の色を変えた。彼はあわてて退いて第三線を守ると、敵は更に進んで乗り越えた。
「ああ、駄目だ。」
 人々は思わず溜息をついた。
 蛇吉が退治に出るときは、いつでも赤裸(あかはだか)で、わずかに紺染めの半股引を穿いているだけである。きょうもその通りの姿であったが、最後の一線もいよいよ破られて万事休すと見るや、彼は手早くその半股引をぬぎ取って、なにか呪文のようなことを唱えて跳り上がりながら、その股のまん中から二つに引裂くと、そのうわばみも口の上下から二つに裂けて死んだ。蛇吉はひどく疲れたように倒れてしまったが、人々に介抱されてやがて正気にかえった。
 その以来、人々はいよいよ蛇吉を畏敬するようになった。彼が振りまく粉薬も一種の秘薬で、蛇を毒するものに相違ない。その毒に弱るところを撃ち殺すという、その理窟は今までにも大抵判っていたが、今度のことは何とも判断が付かなかった。九死一生の場になって、彼がなにかの呪文を唱えながら自分の股引を二つに引裂くと、蛇もまた二つに引裂かれて死んだ。
 こうなると、一種の魔法といってもいい。もちろん、彼に訊いたところで、その説明をあたえないのは知れ切っているので、誰もあらためて詮議する者もなかったが、彼はどうもただの人間ではないらしいという噂が、諸人の口から耳へとささやかれた。
「蛇吉は人間でない。あれは蛇の精だ。」
 こんなことをいう者も出て来た。

     二

 人間でも、蛇の精でも、蛇吉の存在はこの村の幸いであるから、誰も彼に対して反感や敵意をいだく者もなかった。万一彼の感情を害したら、どんな祟りをうけるかも知れないという恐怖もまじって、人々はいよいよ彼を尊敬するようになった。かの股引の一件があってから半年ほどの後に、蛇吉の母は頓死のように死んで、村じゅうの人々からねんごろに弔(とむら)われた。
 母のないあとは蛇吉ひとりである。かれはもう三十を一つ二つ越えている。本来ならばとうに嫁を貰っているはずであるが、なにぶんにも蛇吉という名がわずらいをなして、村内はもちろん、近村からも進んで縁談を申込む者はなかった。彼は村の者からも尊敬されている。うわばみの種の尽きない限りは、その生活も保証されている。しかも彼と縁組をするということになると、さすがに二の足を踏むものが多いので、彼はこの年になるまで独身であった。
「今まではおふくろがいましたから何とも思わなかったが、自分ひとりになるとどうもさびしい。第一に朝晩の煮炊きにも困ります。誰か相当の嫁をお世話下さいませんか。」と、彼はあるとき庄屋の家へ来て頼んだ。
 庄屋も気の毒に思った。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:251 KB

担当:undef