青蛙堂鬼談
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著者名:岡本綺堂 

 わたくしは明治元年の生れで丁度十九の夏でございましたから、その頃のことはよく知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が続々出るというありさまで、まったく怖ろしいことでした。これから申上げるのはその時のお話でございます。
 わたくしの家は小谷(おだに)と申しまして、江戸時代から代々の医師でございました。父は若い時に長崎へ行って修業して来ましたそうで、明治になりましてから軍医を志願しまして、西南戦争にも従軍しました。そのとき、日向(ひゅうが)の延岡で流弾にあたって左の足に負傷しまして、一旦は訳もなく癒ったのですが、それからどうも左の足に故障が出来まして、跛足(びっこ)という程でもないのですが、片足がなんだか吊れるような具合いで、とうとう思い切って明治十七年から辞職することになりました。それでも幾らか貯蓄(たくわえ)もあり、年金も貰えるので、小体(こてい)に暮らしてゆけば別に困るという程でもありませんでしたが、これから無職で暮らして行こうとするには、やはりそれだけの陣立てをしなければなりません。父は母と相談して、新宿の番衆町に地所付きの家を買いました。
 御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ建ち続いておりますけれども、それはそれは寂しいところでございました。
 わたくしの父の買いました家は昔の武家屋敷で、門の左右は大きい竹藪に囲まれて、その奥に七間(ま)の家(いえ)があります。地面は五百二十坪とかあるそうで、裏手の方は畑になっておりましたが、それでもまだまだ広いあき地がありました。ここらには狸や狢(むじな)も棲んでいるということで、夜は時どき狐の鳴き声もきこえました。そういうわけで、父は静かでよいと言っておりましたが、母やわたくしにはちっと静か過ぎて寂しゅうございました。お富という女中がひとりおりましたが、これは二十四五の頑丈な女で、父と一緒に畑仕事などもしてくれました。
 番衆町へ来てから足かけ三年目が明治十九年、すなわち大コレラの年でございます。暑さも暑し、辺鄙(へんぴ)なところに住んでおりますので、めったに市内のまん中へは出ませんから、世間のこともよく判らないのでございますが、毎日の新聞を見ますと、市内のコレラはますます熾(さかん)になるばかりで、容易にやみそうもありません。
 八月の末の夕方でございました。母とわたくしが広い縁側へ出て、市内のコレラの噂をして、もういい加減におしまいになりそうなものだなどと言っておりますと、縁に腰をかけていたお富がこんなことを言い出しました。
「でも、奥さん、ここらにはコレラになりたいと言っている人があるそうでございますよ。」
「まあ、馬鹿なことを……。」と、母は思わず笑い出しました。「誰がコレラになりたいなんて……。冗談にも程がある。」
「いいえ、それが本当らしいのでございますよ。この右の横町の飯田という家(うち)を御存じでしょう。」
 と、お富はまじめで言いました。「あの家の御新造(ごしんぞ)ですよ。」
 この時代には江戸のなごりで、御新造(ごしんぞ)という詞(ことば)がまだ用いられていました。それは奥さんの次で、おかみさんの上です。つまり奥さん、御新造さん、おかみさんという順序になるので、飯田さんという家(うち)はなかなか立派に暮らしているのですが、その女あるじが、囲い者らしいというので、近所では奥さんともいわず、おかみさんともいわず、中を取って御新造さんと呼んでいるのでした。
「なぜまた、あの御新造がそんなことを言うのかしら、やっぱり冗談だろう。」と、母はやはり笑っていました。
 わたくしも、むろん冗談だと思っておりました。ところが、お富の言うところを聴きますと、それがどうも冗談ではないらしいというのでございます。
 飯田さんというのは、わたくしの横町をはいりますと、その中ほどにまた右の方へ曲る横町がありまして、その横町の南側にある大きい家で、門の両わきは杉の生け垣になっておりますが、裏手にはやはり大きい竹藪がございまして、門も建物も近年手入れをしたらしく、わたくしどもの古家(ふるいえ)よりもよほど立派にみえます。御新造さんというのは二十八九か三十ぐらいの粋(いき)な人で、以前は日本橋とかで芸妓をしていたとかいう噂でした。この人が女あるじで、ほかにお元お仲という二人の女中がおりました。お元はもう五十以上のばあやで、お仲はまだ十八九の若い女でしたが、御新造さんがコレラになりたいと言っていることは、そのお仲という女中がお富に話したのだそうでございます。
 なぜだか知りませんけれど、御新造さんはこのごろ口癖のようにコレラになりたいと言う。どうしたらコレラになれるだろうなぞと言う。それがだんだんに劫(こう)じて来て、お元ばあやの止めるのをきかずに、お刺身や洗肉(あらい)をたべる。天ぷらを食べる。胡瓜(きゅうり)もみを食べる――この時代にはそんなものを食べると、コレラになると言ったものでした。それを平気でわざとらしく食べるのをみると、御新造さんは洒落や冗談でなく、ほんとうにコレラになるのを願っているように思われるので、年の若いお仲という女中はもう堪らなくなりました。万一コレラになったらば、それで御新造さんは本望かも知れないが、ほかの事とは違って傍(はた)の者が難儀です。御新造さんがコレラになって、それが自分たちにうつったら大変であるから、今のうちに早く暇を取って立去りたいと、お仲は泣きそうな顔をしていたというのでございます。
 その話をきいて、母もわたくしもいやな心持になりました。
「あすこの家(うち)の奉公人ばかりじゃあない。あの家でコレラなんぞが始まったら近所迷惑だ。」と母も顔をしかめました。「それにしても、あの御新造はなぜそんなことを言うのだろうね。気でも違ったのじゃあないかしら。」
「そうですね。なんだか変ですねえ。」と、わたくしも言いました。まったく正気の沙汰とは-思われないからでございます。
「ところが、お仲さんの話では、別に気がおかしいような様子はみえないということです。」と、お富は言いました。「なんでも浅草の方に大層えらい行者(ぎょうじゃ)がありますそうで、御新造はこの間そこへ何かお祷(いの)りを頼みに行って来て、それからコレラになりたいなんて言い出したらしいというのでございます。その行者が何か変なことを言ったのじゃありますまいか。」
「でも、自分がコレラになりたいと言うのはおかしいじゃないか。」
 母はそれを疑っているようでございました。わたくしにもその理屈がよく呑み込めませんでした。いずれにしても、同町内のすぐ近所にコレラになりたいと願っている人が住んでいるなぞというのは、どうも薄気味の悪いことでございます。
「なにしろ、いやだねえ。」と、母は再び顔をしかめていました。
「まったくいやでございます。お仲さんはどうしても今月いっぱいでお暇をもらうと言っておりましたが、御主人が承知しますかしら。」と、お富も不安らしい顔をしていました。
 そのうちに父が風呂から上がってまいりましたので、母からその話をしますと、父はすぐに笑い出しました。
「あの女中は何か自分にしくじりがあって、急に暇を出されるような事になったので、そのごまかしにいい加減なでたらめを言うのだ。嘘ももう少しほんとうらしいことを考えればいいのに……。やっぱり年が若いからな。」
 父は頭から問題にもしないので、話もまずそれぎりになってしまいました。
 成程そういえばそんな事がないとも言われません。自分に落度があって暇を出されても、主人の方が悪いように言い触らすのは奉公人の習いですから、飯田の御新造のコレラ話もどこまでが本当だかわからない。こう思うと、わたくし共もそれについてあまり深く考えないようになりました。

     二

 それから三日目の夕方に、わたくしはお富を連れて新宿の大通りまで買物に出ました。夕方といってもまだ明るい時分で、暑い日の暮れるのを鳴き惜しむような蝉(せみ)の声が、そこらで忙しそうに聞えていました。
 横町をもう五、六間で出ぬけようとする時に、むこうから二人づれの女がはいって来ました。お富が小声で注意するように、お嬢さんと呼びますので、わたくしも気がついてよく見ますと、それはかの飯田の御新造と女中のお仲です。
 近所に住んでいながら、特別に親しく附合いもしておりませんので、わたくし共はただ無言で会釈(えしゃく)してすれ違いましたが、お仲という女中はいかにも沈み切った、今にも泣き出しそうな顔をして主人のあとに付いてゆくのが、なんだか可哀そうなようにも見えました。
「お嬢さん。ごらんなさい。あの御新造の顔を……。」と、お富はふりかえりながら小声でまた言いました。
 まったくお富の言う通り、飯田の御新造の顔容(かおだち)はしばらくの間にめっきりとやつれ果てて、どうしてもただの人とは思われないような、影のうすい人になっておりました。
「もうコレラになっているのじゃありますまいか。」と、お富は言いました。
「まさか。」
 とは言いましたが、飯田の御新造の身の上について、わたくしも一種の不安を感ぜずにはいられませんでした。コレラは嘘にしても、なにかの重い病気に罹っているに相違ないとわたくしは想像しました。婦人病か肺病ではあるまいかなぞとも考えました。
 そういうたぐいの病気で容易に癒りそうもないところから、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなって死んでしまいたいというような愚痴が出たのを、女中たちが一途に真(ま)に受けて、御主人はコレラになりたいと願っているなぞと言い触らしたのであろうとも考えてみました。しかし生魚や天ぷらを無暗にたべるという以上、ほんとうにコレラになって死のうと思っているのかも知れないなぞとも考えられました。
 九月になってもコレラはなかなかおしまいになりませんので、大抵の学校は九月一日からの授業開始を当分延期するような始末でした。おまけに今までは山の手方面には比較的少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿の方にも黄いろい紙を貼つけた家が目につくようになってまいりました。
 その当時は、コレラ患者の出た家には丁度かし家札のような形に黄いろい紙を貼り付けておくことになっておりましたので、往来をあるいていて、黄いろい紙の貼ってある家の前を通るのは、まことにいやな心持でございました。そういうわけで、怖ろしいコレラがだんだんに眼と鼻のあいだへ押寄せて来ましたので、気の弱いわたくし共はまったくびくびくもので、早く寒くなってくれればいいと、ただそればかりを念じておりました。
「飯田さんのお仲さんはやっぱり勤めていることになったそうです。」
 ある日、お富がわたくしに報告しました。お仲はどうしても八月かぎりで暇を取るつもりでいたところが、御新造がお仲にむかって、お前はどうしてもこの家を出てゆく気か、わたしももう長いことはないのだからどうぞ辛抱していてくれ。これほど頼むのを無理に振切って出てゆくというなら、わたしはきっとおまえを怨むからそう思っているがいいと、たいへんに怖い顔をして睨まれたので、お仲はぞっとしてしまって、仕方なしにまた辛抱することになったというのでございます。
 お富はまたこんなことを話しました。
「あの御新造はゆうべ狢(むじな)を殺したそうですよ。」
「むじなを……。どうして……。」と、わたくしは訊きました。
「なんでもきのうの夕方、もう薄暗くなった時分に、どこからかむじなが……。もっとも小さい子だそうですが、庭先へひょろひょろ這い出して来たのを、御新造がみつけて、ばあやさんとお仲さんに早く捉(つか)まえろと言うので、よんどころなしに捉まえると、御新造は草刈鎌を持ち出して来て、力まかせにその子むじなの首を斬り落してしまったそうで……。お仲さんはまたぞっとしたということです。全くあの御新造はどうかしているんですね。どうしても唯事じゃありませんよ。」
「そうかも知れないねえ。」
 飯田の御新造は病気が募(つの)って来て、むやみに神経が興奮して、こんな気違いじみた乱暴な残酷なことをするようになったのかも知れないと、わたくしは何だか気の毒にもなりました。しかしそんな乱暴が増長すると、しまいにはどんなことを仕出(しで)かすか判らない。自分の家へ火でも付けられたら大変だ――わたくしはそんなことも考えるようになりました。
 忘れもしない、九月十二日の午前八時頃でございました。使に出たお富が顔の色をかえて帰って来まして、息を切ってわたくし共にまた報告しました。
「飯田さんの御新造がとうとうコレラになりました。ゆうべの夜半から吐いたり下したりして……。嘘じゃありません。警察や役場の人たちが来て大騒ぎです。」
「まあ。大変……。」
 わたくしも驚いて門の外まで出て見ますと、狭い横町の入口には大勢の人が集まって騒いでおりまして、石炭酸の臭(にお)いが眼にしみるようです。病人は避病院へ送られるらしく、黄いろい紙の旗を立てた釣台も来ておりました。なんだか怖ろしくなって、わたくしは早々に内へ逃げ込んでしまいました。
 飯田の御新造は真症コレラで避病院へ運び込まれましたが、その晩の十時ごろに死んだそうでございます。御本人はそれで本望かも知れませんが、交通遮断やら消毒やらで近所は大迷惑でございました。それも自然に発病したというのならば、おたがいの災難で仕方もないことですが、この御新造は自分から病気になるのを願っていたらしいという噂が世間にひろまって、近所からひどく怨まれたり、憎まれたりしました。
「飛んでもない気ちがいだ。」と、わたくしの父も言いました。
 ところが、その後にお仲という女中の口からこういう事実が伝えられて、わたくしどもを不思議がらせました。前にも申す通り、その当時は黄いろい紙にコレラと黒く書いて、新患者の出た家の門(かど)に貼り付けることになっておりました。飯田の御新造はいつの間にかその黄いろい紙を二枚用意していて、一枚は自分の家(うち)に貼って、他の一枚は柳橋のこうこういう家の門に貼ってくれと警察の人に頼んだそうです。
 何を言うのかとも思ったのですが、警察の方から念のために柳橋へ聞合せると、果してその家にもコレラの新患者が出たというので、警察でもびっくりしたそうでございます。その新患者は柳橋の芸妓だということでした。

     三

 お仲は飯田の御新造が番衆町へ引っ越して来てからの奉公人で、むかしの事はなんにも知らないのでしたが、お元というばあやはその以前から長く奉公していた女で、いっさいの事情を承知していたのでございます。なにしろ病気が病気ですから誰も悔みに来る者もなく、お元とお仲との二人ぎりで寂しい葬式をすませたのですが、そのお通夜の晩にお元が初めて御新造の秘密をお仲に打明けたそうでございます。
 御新造は世間の噂の通り、以前は柳橋の芸妓であったということで、ある立派な官員さんの御贔屓になって、とうとう引かされることになったのです。その官員さんという方は、その後だんだん偉くなって、明治の末年まで生きておいででして、そのお家(いえ)は今でも立派に栄えておりますから、そのお名前をあらわに申上げるのは遠慮いたさなければなりませんので、ここではただ立派な官員さんと申すだけのことに致しておきましょう。その官員さんの囲いもの――そのころは権妻(ごんさい)という詞(ことば)が流行っておりました。――になって、この番衆町に地面や家を買ってもらって、旦那様はときどきに忍んで来たというわけでございました。
 それで四、五年は無事であったのですが、この春ごろから旦那様の車がだんだんに遠ざかって、六月頃からはぱったりと足が止まってしまいました。飯田の御新造も心配していろいろ探索してみると、旦那様は柳橋の芸妓に新しいお馴染が出来たということが判りました。しかもその芸妓は、御新造が勤めをしているころに妹分同様にして引立ててやった若い女だと判ったので、御新造は歯がみをして口惜(くや)しがったそうでございます。
 もっとも旦那様から月々のお手当はやはり欠かさずに届けて来るので、生活に困るというようなことはなかったのですが、妹分の女に旦那を取られたのが無暗に口惜しかったらしい。それは無理もないことですが、この御新造は人一倍に嫉妬ぶかい質(たち)とみえまして、相手の芸妓が憎くてならなかったのです。
 旦那様が番衆町の方から遠のいたのは、わたくしの想像した通り、御新造に頑固な婦人病があったからで、これまでにもいろいろの療治をしたのですが、どうしても癒らないばかりか、年々に重ってゆくという始末なので、旦那様もふたたび元地の柳橋へ行って新しいお馴染をこしらえたような訳で、旦那様の方にもまあ無理のないところもあるのでございましょう。それでも月々のお手当はとどこおりなく呉れて、ちっとも不自由はさせていないのですから、御新造も旦那様を怨もうとはしなかったのですが、どう考えても相手の女が憎い、怨めしい。そのうちに一方の病気はだんだんに重って来る。御新造はいよいよ焦々(いらいら)して、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなってしまいたいと言い暮らしているうちに、いくらか神経も狂ったのかも知れません、ほんとうにコレラになる気になったらしく、お元ばあやの止めるのもきかないで、この際むやみに食べては悪いというものを遠慮なしに食べるようになったのでございます。
 むじなの子の首を鎌でむごたらしく斬ったなどというのも、やはり神経が狂っているせいでしたろうが、むじながその芸妓にでも見えたのか、それともむじなをその芸妓になぞらえて予譲(よじょう)の衣(きぬ)というような心持であったのか、そこまでは判りません。
 いずれにしても、御新造はその本望通りコレラになってしまったのでございます。浅草の偉い行者というのはどんな人か、またどんなお祈りをするのか知りませんが、御新造はその行者に秘密のお祷りでも頼んで、自分の死ぬときには相手の女も一緒に連れて行くことが出来るという事を信じていたらしいのです。
 それで、あらかじめ黄いろい紙を二枚用意しておいて、いざというときには、一枚を柳橋のこうこういう家の門(かど)に貼ってくれと頼むことにしたのであろうと思われます。御新造に呪われたのか、それとも自然の暗合か、とにかくその芸妓も同日にコレラに罹ったのは事実で、やはりその夜なかに死んだそうでございます。
 お元というばあやは御新造の遺言(ゆいごん)で、その着物から持物全部を貰って国へ帰りました。このばあやは柳橋時代から御新造に仕えていた忠義者で、生れは相模(さがみ)の方だとか聞きました。お仲はお元からいくらかの形見(かたみ)を分けてもらって、またどこへか奉公に出たようでした。残っている地面と家作は御新造の弟にゆずられることになりましたが、この弟は本所辺で馬具屋をしている男で、評判の道楽者であったそうですから、半年と経たないうちに、その地面も家作もみな人手にゆずり渡してしまいました。
 そうなると、世間では碌なことは言いません。あすこの家は、飯田の御新造の幽霊が出るの何のと取留めもないことを言い触らす者がございます。しかしその後に引移って来た藤岡さんという方の奥さんが、五年目の明治二十四年にインフルエンザでなくなり、またそのあとへ来た陸軍中佐の方が明治二十七年の日清戦争で戦死し、その次に来た松沢という人が株の失敗で自殺したのは事実でございます。
 わたくしも二十年ほど前にそこを立退きましたので、その後のことは存じません。近年はあの辺がめっきり開けましたので、飯田さんの家というのも今はどこらになっているのか、まるで見当が付かなくなってしまいました。おそらく竹藪が伐り払われると共に取毀されたのでございましょう。
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   笛塚(ふえづか)

     一

 第十一の男語る。

 僕は北国の者だが、僕の藩中にこういう怪談が伝えられている。いや、それを話す前に、かの江戸の名奉行根岸肥前守のかいた随筆「耳袋(みみぶくろ)」の一節を紹介したい。
「耳袋」のうちにはこういう話が書いてある。美濃(みの)の金森兵部少輔の家が幕府から取潰されたときに、家老のなにがしは切腹を申渡された。その家老が検視の役人にむかって、自分はこのたび主家の罪を身に引受けて切腹するのであるから、決してやましいところはない。むしろ武士として本懐に存ずる次第である。しかし実を申せば拙者には隠れたる罪がある。若いときに旅をしてある宿屋に泊ると、相宿(あいやど)の山伏が何かの話からその太刀をぬいて見せた。それが世にすぐれた銘刀であるので、拙者はしきりに欲しくなって、相当の価でゆずり受けたいと懇望したが、家重代(いえじゅうだい)の品であるというので断られた。それでもやはり思い切れないので、あくる朝その山伏と連れ立って人通りのない松原へ差しかかったときに、不意に彼を斬り殺してその太刀を奪い取って逃げた。それは遠い昔のことで、幸いに今日(こんにち)まで誰にも覚られずに月日を送って来たが、今更おもえば罪深いことで、拙者はその罪だけでもかような終りを遂げるのが当然でござると言い残して、尋常に切腹したということである。これから僕が話すのも、それにやや似通っているが、それよりも、さらに複雑で奇怪な物語であると思ってもらいたい。

 僕の国では謡曲や能狂言がむかしから流行する。したがって、謡曲や狂言の師匠もたくさんある。やはりそれらからの関係であろう、武士のうちにも謡曲はもちろん、仕舞(しまい)ぐらいは舞う者もある。笛をふく者もある。鼓をうつ者もある。その一人に矢柄喜兵衛という男があった。名前はなんだか老人らしいが、その時はまだ十九の若侍で御馬廻りをつとめていた。父もおなじく喜兵衛といって、せがれが十六の夏に病死したので、まだ元服したばかりのひとり息子が父の名をついで、とどこおりなく跡目を相続したのである。それから足かけ四年のあいだ、二代目の若い喜兵衛も無事に役目を勤め通して、別に悪い評判もなかったので、母も親類も安心して、来年の二十歳(はたち)にもなったならば、しかるべき嫁をなどと内々心がけていた。
 前にいったような国風であるので、喜兵衛も前髪のころから笛を吹き習っていた。他藩であったら或いは柔弱のそしりを受けたかも知れないが、ここの藩中では全然無芸の者よりも、こうした嗜(たしな)みのある者がむしろ侍らしく思われるくらいであったから、彼がしきりに笛をふくことを誰もとがめる者はなかった。
 むかしから丸年(まるどし)の者は歯並みがいいので笛吹きに適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で、子供のときから他人(ひと)も褒める、親たちも自慢するというわけであったから、その道楽だけは今も捨てなかった。
 天保(てんぽう)の初年のある秋の夜である。月のいいのに浮かされて、喜兵衛は自分の屋敷を出た。手には秘蔵の笛を持っている。夜露をふんで城外の河原へ出ると、あかるい月の下に芒(すすき)や芦(あし)の穂が白くみだれている。どこやらで虫の声もきこえる。喜兵衛は笛をふきながら河原を下(しも)の方へ遠く降ってゆくと、自分のゆく先にも笛の音(ね)がきこえた。
 自分の笛が水にひびくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。吹く人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛はさとって、彼はその笛の持主を知りたくなった。
 笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しもに茂る芒のあいだから洩れて来るのであった。自分とおなじように今夜の月に浮かれて出て、夜露にぬれながら吹き楽しむ者があるのか、さりとは心僧いことであると、喜兵衛はぬき足をして芒叢(すすきむら)のほとりに忍びよると、そこには破筵(やれむしろ)を張った低い小屋がある。いわゆる蒲鉾(かまぼこ)小屋で、そこに住んでいる者は宿無しの乞食であることを喜兵衛は知っていた。
 そこからこういう音色の洩れて来ようとは頗る意外に感じられたので、喜兵衛は不審そうに立停まった。
「まさかに狐や狸めがおれをだますのでもあるまい。」
 こっちの好きに付け込んで、狐か川獺(かわうそ)が悪いたずらをするのかとも疑ったが、喜兵衛も武士である。腰には家重代の長曽弥虎徹(ながそねこてつ)をさしている。なにかの変化(へんげ)であったらば一刀に斬って捨てるまでだと度胸をすえて、彼はひと叢しげる芒をかきわけて行くと、小屋の入口のむしろをあげて、ひとりの男が坐りながらに笛を吹いていた。
「これ、これ。」
 声をかけられて、男は笛を吹きやめた。そうして、油断しないような身構えをして、そこに立っている喜兵衛をみあげた。
 月のひかりに照らされた彼の風俗はまぎれもない乞食のすがたであるが、年のころは二十七八で、その人柄がここらに巣を組んでいる普通の宿無しや乞食のたぐいとはどうも違っているらしいと喜兵衛はひと目に見たので、おのずと詞もあらたまった。
「そこに笛を吹いてござるのか。」
「はい。」と、笛をふく男は低い声で答えた。
「あまりに音色が冴えてきこえるので、それを慕ってここまでまいった。」と、喜兵衛は笑みを含んで言った。
 その手にも笛を持っているのを、男の方でも眼早く見て、すこしく心が解けたらしい。彼の詞も打解けてきこえた。
「まことにつたない調べで、お恥かしゅうござります。」
「いや、そうでない。せんこくから聴くところ、なかなか稽古を積んだものと相見える。勝手ながらその笛をみせてくれまいか。」
「わたくし共のもてあそびに吹くものでござります。とてもお前さま方の御覧に入るるようなものではござりませぬ。」
 とは言ったが、別に否(いな)む気色(けしき)もなしに、彼はそこらに生えている芒の葉で自分の笛を丁寧に押しぬぐって、うやうやしく喜兵衛のまえに差出した。
 その態度が、どうしてただの乞食でない。おそらく武家の浪人が何かの子細で落ちぶれたのであろうと喜兵衛は推量したので、いよいよ行儀よく挨拶した。
「しからば拝見。」
 彼はその笛を受取って、月のひかりに透かしてみた。それから一応断った上で、試みにそれを吹いてみると、その音律がなみなみのものでない、世にも稀なる名管(めいかん)であるので、喜兵衛はいよいよ彼を唯者でないと見た。自分の笛ももちろん相当のものではあるが、とてもそれとは比べものにならない。喜兵衛は彼がどうしてこんなものを持っているのか、その来歴を知りたくなった。一種の好奇心も手伝って、彼はその笛を戻しながら、芒を折敷いて相手のそばに腰をおろした。
「おまえはいつ頃からここに来ている。」
「半月ほど前からまいりました。」
「それまではどこにいた。」と、喜兵衛はかさねて訊いた。
「このような身の上でござりますから、どこという定めもござりませぬ。中国から京大阪、伊勢路(いせじ)、近江路、所々をさまよい歩いておりました。」
「お手前は武家でござろうな。」と、喜兵衛は突然に訊いた。
 男はだまっていた。この場合、なんらの打消しの返事をあたえないのは、それを承認したものと見られるので、喜兵衛は更にすり寄って訊いた。
「それほどの名笛を持ちながら、こうして流浪していらるるには、定めて子細がござろう。御差支えがなくばお聴かせ下さらぬか。」
 男はやはり黙っていたが、喜兵衛から再三その返事をうながされて、彼は渋りながらに口を開いた。
「拙者はこの笛に祟られているのでござる。」

     二

 男は石見(いわみ)弥次右衛門という四国の武士であった。彼も喜兵衛とおなじように少年のころから好んで笛を吹いた。
 弥次右衛門が十九歳の春のゆうぐれである。彼は菩提寺に参詣して帰る途中、往来のすくない田圃(たんぼ)なかにひとりの四国遍路の倒れているのを発見した。見すごしかねて立寄ると、彼は四十に近い男で、病苦に悩み苦しんでいるのであった。弥次右衛門は近所から清水を汲んで来て飲ませ、印籠(いんろう)にたくわえの薬を取出してふくませ、いろいろに介抱してやったが、男はますます苦しむばかりで、とうとうそこで息を引取ってしまった。
 彼は弥次右衛門の親切を非常に感謝して、見ず知らずのお武家さまが我れわれをこれほどにいたわってくだされた。その有難い御恩のほどは何ともお礼の申上げようがない。ついては甚だ失礼であるが、これはお礼のおしるしまでに差上げたいと言って、自分の腰から袋入りの笛をとり出して弥次右衛門にささげた。
「これは世にたぐいなき物でござる。しかし、くれぐれも心(こころ)して、わたくしのような終りを取らぬようになされませ。」
 彼は謎のような一句を残して死んだ。弥次右衛門はその生国(しょうこく)や姓名を訊いたが、彼は頭(かぶり)を振って答えなかった。これも何かの因縁であろうと思ったので、弥次右衛門はその亡骸(なきがら)の始末をして、自分の菩提寺に葬ってやった。
 身許不明の四国遍路が形見(かたみ)にのこした笛は、まったく世にたぐい稀なる名管であった。かれがどうしてこんなものを持っていたのかと、弥次右衛門も頗る不審に思ったが、いずれにしても偶然の出来事から意外の宝を獲たのをよろこんで、彼はその笛を大切に秘蔵していると、それから半年ほど後のことである。弥次右衛門がきょうも菩提寺に参詣して、さきに四国遍路を発見した田圃なかに差しかかると、ひとりの旅すがたの若侍が彼を待ち受けているように立っていた。
「御貴殿は石見弥次右衛門殿でござるか。」と、若侍は近寄って声をかけた。
 左様でござると答えると、かれは更に進み寄って、噂にきけば御貴殿は先日このところにおいて四国遍路の病人を介抱して、その形見として袋入りの笛を受取られたということであるが、その四国遍路はそれがしの仇でござる。それがしは彼の首と彼の所持する笛とを取るために、はるばると尋ねてまいったのであるが、かたきの本人は既に病死したとあれば致し方がない、せめてはその笛だけでも所望いたしたいと存じて、先刻からここにお待ち受け申していたのでござると言った。
 藪から棒にこんなことを言いかけられて、弥次右衛門の方でも素直に渡すはずがない。彼は若侍にむかって、お身はいずこのいかなる御仁(ごじん)で、またいかなる子細でかの四国遍路をかたきと怨まれるか、それを承った上でなければ何とも御挨拶は出来ないと答えたが、相手はそれを詳しく説明しないで、なんでもかの笛を渡してくれと遮二無二(しゃにむに)彼に迫るのであった。
 こうなると弥次右衛門の方には、いよいよ疑いが起って、彼はこんなことを言いこしらえて大切の笛を騙(かた)り取ろうとするのではあるまいかとも思ったので、お身の素姓、かたき討の子細、それらが確かに判らないかぎりは、決してお渡し申すことは相成らぬと手強くはねつけると、相手の若侍は顔の色を変えた。
 この上はそれがしにも覚悟があると言って、かれは刀の柄に手をかけた。問答無益(むやく)とみて、弥次右衛門も身がまえした。それからふた言三言いい募った後、ふたつの刀が抜きあわされて、素姓の知れない若侍は血みどろになって弥次右衛門の眼のまえに倒れた。
「その笛は貴様に祟るぞ。」
 言い終って彼は死んだ。訳もわからずに相手を殺してしまって、弥次右衛門はしばらく夢のような心持であったが、取りあえずその次第を届け出ると、右の通りの事情であるから弥次右衛門に咎めはなく、相手は殺され損で落着(らくちゃく)した。彼に笛をゆずった四国遍路は何者であるか、のちの若侍は何者であるか、勿論それは判らなかった。
 相手を斬ったことはまずそれで落着したが、ここに一つの難儀が起った。というのは、この事件が藩中の評判となり、主君の耳にもきこえて、その笛というのを一度みせてくれと云う上意が下(くだ)ったことである。単に御覧に入れるだけならば別に子細はないが、殿のお部屋さまは笛が好きで、価(あたい)を問わずに良い品を買い入れていることを弥次右衛門はよく知っていた。迂闊にこの笛を差出すと、殿の御所望という口実で、お部屋さまの方へ取上げられてしまうおそれがある。さりとて仮りにも殿の上意とあるものを、家来の身として断るわけにはいかない。弥次右衛門もこれには当惑したが、どう考えてもその笛を手放すのが惜しかった。
 こうなると、ほかに仕様はない。年の若い彼はその笛をかかえて屋敷を出奔した。一管の笛に対する執着のために、彼は先祖伝来の家禄を捨てたのである。
 むかしと違って、そのころの諸大名はいずれも内証が逼迫(ひっぱく)しているので、新規召抱えなどということはめったにない。弥次右衛門はその笛をかかえて浪人するよりほかはなかった。彼は九州へ渡り、中国をさまよい、京大阪をながれ渡って、わが身の生計(たつき)を求めるうちに、病気にかかるやら、盗難に逢うやら、それからそれへと不運が引きつづいて、石見弥次右衛門という一廉(ひとかど)の侍がとうとう乞食の群に落ち果ててしまったのである。
 そのあいだに彼は大小までも手放したが、その笛だけは手放そうとしなかった。そうして、今やこの北国にさまよって来て、今夜の月に吹き楽しむその音色を、測(はか)らずも矢柄喜兵衛に聴き付けられたのであった。
 ここまで話して来て、弥次右衛門は溜息をついた。
「さきに四国遍路が申残した通り、この笛には何かの祟りがあるらしく思われます。むかしの持主は何者か存ぜぬが、手前の知っているだけでも、これを持っていた四国遍路は路ばたで死ぬ。これを取ろうとして来た旅の侍は手前に討たれて死ぬ。手前もまたこの笛のために、かような身の上と相成りました。それを思えば身の行く末もおそろしく、いっそこの笛を売放すか、折って捨てるか、二つに一つと覚悟したことも幾たびでござったが、むざむざと売放すも惜しく、折って捨つるはなおさら惜しく、身の禍いと知りつつも身を放さずに持っております。」
 喜兵衛も溜息をつかずには聴いていられなかった。むかしから刀についてはこんな奇怪な因縁話を聴かないでもないが、笛についてもこんな不思議があろうとは思わなかったのである。
 しかし年のわかい彼はすぐにそれを否定した。おそらくこの乞食の浪人は、自分にその笛を所望されるのを恐れて、わざと不思議そうな作り話をして聞かせたので、実際そんな事件があったのではあるまいと思った。
「いかに惜い物であろうとも、身の禍いと知りながら、それを手放さぬというのは判らぬ。」と、かれは詰(なじ)るように言った。
「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は言った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦められております。」
「絶えず苦しめられる……。」
「それは余人にはお話のならぬこと。またお話し申しても、所詮(しょせん)まこととは思われますまい。」
 それぎりで弥次右衛門は黙(だま)ってしまった。喜兵衛も黙っていた。ただ聞こえるのは虫の声ばかりである。河原を照らす月のひかりは霜をおいたように白かった。
「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。
「もう夜がふけた。」
 喜兵衛も鸚鵡(おうむ)がえしに言った。彼は気がついて起ちあがった。

     三

 浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一刻(とき)ほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。彼は覆面して身軽によそおっていた。「仇討(かたきうち)襤褸錦(つづれのにしき)」の芝居でみる大晏寺堤(だいあんじづつみ)の場という形で、彼は抜足をして蒲鉾小屋へ忍び寄った。
 喜兵衛はかの笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは、所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を闇討にして奪い取るのほかはないと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、彼もいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とはいえ、相手は宿無しの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくてすむ。こう思うと、彼はいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って、再びここヘ襲ってきたのであった。
 嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によると、かの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な闇討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである、葉ずれの音をさせないように、彼はそっと芒をかきわけて、まず小屋のうちの様子をうかがうと、笛の音はやんでいる。小屋の入口には筵をおろして内はひっそりとしている。
 と思うと、内では低い唸(うな)り声がきこえた。それがだんだに高くなって、弥次右衛門はしきりに苦しんでいるらしい。それは病苦でなくて、一種の悪夢にでもおそわれているらしく思われたので、喜兵衛はすこしく躊躇した。かの笛のために、彼はあしかけ十年のあいだ、絶えず苦められているという、さっきの話も思いあわされて、喜兵衛はなんだか薄気味悪くもなったのである。
 息をこらしてうかがっていると、内ではいよいよ苦しみもがくような声が激しくなって、弥次右衛門は入口の筵をかきむしるようにはねのけて、小屋の外へころげ出して来た。そうして、その怖ろしい夢はもう醒めたらしく、彼はほっと息をついてあたりを見まわした。
 喜兵衛は身をかくす暇がなかった。今夜の月は、あいにく冴え渡っているので、竹槍をかい込んで突っ立っている彼の姿は、浪人の眼の前にありありと照らし出された。
 こうなると、喜兵衛はあわてた。見つけられたが最後、もう猶予は出来ない。彼は持っている槍を取直してただひと突きと繰出すと、弥次右衛門は早くも身をかわして、その槍の穂をつかんで強く曳いたので、喜兵衛は思わずよろめいて草の上に小膝をついた。
 相手が予想以上に手剛いので、喜兵衛はますます慌てた。彼は槍を捨てて刀に手をかけようとすると、弥次右衛門はすぐに声をかけた。
「いや、しばらく……。御貴殿は手前の笛に御執心か。」
 星をさされて、喜兵衛は一言もない。抜きかけた手を控えて暫く躊躇していると、弥次右衛門はしずかにいった。
「それほど御執心ならば、おゆずり申す。」
 弥次右衛門は小屋へはいって、かの笛を取出して来て、そこに黙ってひざまずいている喜兵衛の手に渡した。
「先刻の話をお忘れなさるな。身に禍いのないように精々お心を配りなされ。」
「ありがとうござる。」と、喜兵衛はどもりながら言った。
「人の見ぬ間に早くお帰りなされ。」と、弥次右衛門は注意するように言った。
 もうこうなっては相手の命令に従うよりほかはない。喜兵衛はその笛を押しいただいて殆んど機械(からくり)のように起ちあがって、無言で丁寧に会釈(えしゃく)して別れた。

 屋敷へ戻る途中、喜兵衛は一種の慚愧(ざんき)と悔恨とに打たれた。世にたぐいなしと思われる名管を手に入れた喜悦と満足とを感じながら、また一面には、今夜の自分の恥かしい行為が悔まれた。相手が素直にかの笛を渡してくれただけに、斬取り強盗にひとしい重々の罪悪が彼のこころにいよいよ強い呵責(かしゃく)をあたえた。それでもあやまって相手を殺さなかったのが、せめてもの仕合せであるとも思った。
 夜があけたならば、もう一度かの浪人をたずねて今夜の無礼をわび、あわせてこの笛に対する何かの謝礼をしなければならないと決心して、彼は足を早めて屋敷へ戻ったが、その夜はなんだか眼が冴えておちおちと眠られなかった。
 夜のあけるのを待ちかねて、喜兵衛は早々にゆうべの場所へたずねて行った。その懐中には小判三枚を入れていた。河原には秋のあさ霧がまだ立ち迷っていて、どこやらで雁(がん)の鳴く声がきこえた。
 芒をかきわけて小屋に近寄ると、喜兵衛はにわかにおどろかされた。石見弥次右衛門は小屋の前に死んでいたのである。彼は喜兵衛が捨てて行った竹槍を両手に持って、我れとわが喉(のど)を突き貫いていた。

 そのあくる年の春、喜兵衛は妻を迎えて、夫婦の仲もむつまじく、男の子ふたりを儲けた。そうして何事もなく暮らしていたが、前の出来事から七年目の秋に、彼は勤め向きの失策から切腹しなければならないことになった。彼は自宅の屋敷で最期(さいご)の用意にかかったが、見届けの役人にむかって最期のきわに一曲の笛を吹くことを願い出ると、役人はそれを許した。
 笛は石見弥次右衛門から譲られたものである。喜兵衛は心しずかに吹きすましていると、あたかも一曲を終ろうとするときに、その笛は、怪しい音を立てて突然ふたつに裂けた。不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。
九百九十年 終(にしておわる)       浜主 喜兵衛は斯道(しどう)の研究者であるだけに、浜主の名を知っていた。尾張(おわり)の連(むらじ)浜主(はまぬし)はわが朝に初めて笛をひろめた人で斯道の開祖として仰がれている。今年は天保九年で、今から逆算すると九百九十年前は仁明天皇の嘉祥元年、すなわちかの浜主が宮中に笛を奏したという承和十二年から四年目に相当する。浜主は笛吹きであるが、初めのうちは自ら作って自ら吹いたのである。この笛に浜主の名が刻まれてある以上、おそらく彼の手に作られたものであろうが、笛の表ならば格別、細い管(くだ)のなかにどうしてこれだけの漢字を彫ったか、それが一種の疑問であった。
 さらに不思議なのは、九百九十年にして終るという、その九百九十年目があたかも今年に相当するらしいことである。浜主はみずからその笛を作って、みずからその命数を定めたのであろうか。今にして考えると、かの石見弥次右衛門の因縁話も嘘ではなかったらしい。怪しい因縁を持ったこの笛は、それからそれへとその持主に禍いして、最後の持主のほろぶる時に、笛もまた九百九十年の命数を終ったらしい。
 喜兵衛は、あまりの不思議におどろかされると同時に、自分がこの笛と運命を共にするのも逃れがたき因縁であることを覚った。彼は見届けの役人に向って、この笛に関する過去の秘密を一切うち明けた上で、尋常に切腹した。
 それが役人の口から伝えられて、いずれも奇異の感に打たれた。喜兵衛と生前親しくしていた藩中の誰かれがその遺族らと相談の上で、二つに裂けたかの笛をつぎあわせて、さきに石見弥次右衛門が自殺したと思われる場所にうずめ、標(しるし)の石をたてて笛塚の二字を刻ませた。その塚は明治の後までも河原に残っていたが、二度の出水のために今では跡方もなくなったように聞いている。
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   龍馬(りゅうめ)の池(いけ)

     一

 第十二の男は語る。

 わたしは写真道楽で――といっても、下手の横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足が出来ないので、忙しい仕事の暇をぬすんで各地方を随分めぐり歩きました。そのあいだにはいろいろの失策談や冒険談もあるのですが、今夜の話題にふさわしいお話というのは、今から四年ほど前の秋、福島県の方面へ写真旅行を企てたときの事です。
 そのときに自分ひとりで出かけたのですが、白河(しらかわ)の町には横田君という人がいる。わたしは初対面の人ですが、友人のE君は前からその人を知っていて、白河へ行ったならば是非たずねてみろと言って、丁寧な紹介状を書いてくれたので、わたしは帰り路にそこを訪ねると、横田君の家は土地でも旧家らしい呉服屋で、商売もなかなか手広くやっているらしい。わたしの紹介された人はそこの若主人で、これも写真道楽の一人ですから、初対面のわたしを非常に歓待してくれまして、別棟になっている奥座敷へ泊めていろいろの御馳走をしてくれる。まったく気の毒なくらいでした。
 日が暮れてから横田君はわたしの座敷へ来て、夜のふけるまで話していましたが、そのうちに横田君はこんなことを言い出しました。
「どうもこの近所には写真の題になるようないい景色のところもありません。しかし折角おいでになったのですから、何か変ったところへ御案内したい。これから五里半以上、やがて六里ほどもはいったところに龍馬の池というのがあります。少し遠方ですが、途中までは乗合馬車がかよっていますから、歩くところはまず半分ぐらいでしょう。どうです、一度行って御覧になりませんか。」
「わたしは旅行馴れていますから、少しぐらい遠いのは驚きません。そこで、その龍馬の池というのは景色のいいところなんですか。」
「景色がいいというよりも、大きい木が一面に繁っていて、なんだか薄暗いような、物凄いところです。昔は非常に大きい池だったそうですが、今ではまあ東京の不忍池(しのばずのいけ)よりも少し広いくらいでしょう。遠い昔には龍が棲んでいた。――おそらく大きい蛇か、山椒(さんしょう)の魚(うお)でも棲んでいたのでしょうが、ともかくも龍が棲んでいたというので、昔は龍の池と呼んでいたそうですが、それが中ごろから転じて龍馬の池ということになったのです。それについて一種奇怪の伝説が残っています。今度あなたを御案内したいというのも、実はそのためなのですが……。あなたはお疲れでお眠くはありませんか。」
「いえ、わたしは夜ふかしをすることは平気です。その奇怪な伝説というのはどんなことですか。」と、わたしも好奇心をそそられて訊きました。
「さあ、それをお話し申しておかないと、御案内の価値がないようなことにもなりますから、一応はお耳に入れておきたいと思います。」
 今夜も十時を過ぎて、庭には鳴き弱ったこおろぎの声がきこえる。九月の末でも、ここらでは火鉢を引寄せたいくらいの夜寒(よさむ)が人に迫ってくるように感じられました。横田君は一と息ついて、さらにその龍馬の池の秘密を説きはじめました。
「なんでも奥州の秀衡(ひでひら)の全盛時代だといいますから、およそ八百年ほどもまえのことでしょう。かの龍の池から一町あまりも離れたところに、黒太夫という豪農がありました。九郎というのではなく、黒と書くのだそうです。御承知の通り、奥州は馬の産地で、近所の三春(みはる)には大きい馬市が立っていたくらいですから、黒太夫の家にもたくさんの馬が飼ってありました。それからまた、龍の池のほとりには一つの古い社(やしろ)がありました。いつの頃に建てられたものか知りませんが、よほど古い社であったそうで、土地の者は龍神の社とも水神の社とも呼んでいましたが、その社の前に木馬(もくば)が立っていました。普通ならば御神馬(ごしんめ)と唱えて、ほんとうの生きた馬を飼っておくのですが、ここのはほんとうの馬と同じ大きさの木馬で、いつの昔に誰が作ったのか知りませんが、その彫刻は実に巧妙なもので、ほとんど生きているかと思われるほどであったそうです。したがって、この木馬が時どきに池の水を飲みに出るとか、正月元日には三度いななくとか、いろいろの噂が伝えられて、土地の者はそれを信じていたのです。
 ところがその木馬がある時どこへか姿を隠してしまった。前の伝説がありますから、おそらくどこへか出て行って、再び戻って来るものと思っていると、それが三月たっても半年たっても再び姿をみせない。元来が小さい社で神官も別当もいるわけではないのですから、馬がどうして見えなくなったか、その事情は勿論わからない。まさか盗まれたわけでもあるまい。盗んだところでどうにもなりそうもない。霊ある木馬はこの池の底へ沈んでしまったのではあるまいか、という説が多数を占めて、まずそのままになっていると、その年の秋には暴風雨があって、池の水が溢れ出して近村がことごとく水にひたされる。そのほかにも悪い病いが流行(はや)る。かの木馬の紛失以来、いろいろの災厄がつづくので、土地の者も不安に襲われました。
 とりわけて心配したのはかの黒太夫で、なにぶんにも所有の土地も広く、家族も多いのですから、なにかの災厄のおこるたびに、その被害が最も大きい。そこで村の者どもとも相談して、黒太夫の一手でかの木馬を新しく作って、龍神の社前に供えるということになりました。しかしその頃の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん平泉(ひらいずみ)には相当の仏師もいたのですが、今までのが優れた作であるだけに、それに劣らないような腕前の職人を物色するということになると、なかなか適当の人間が見あたらない。
 これには黒太夫も困っていると、ある晩にひとりの山伏が来て一夜のやどりを求めたので、黒太夫もこころよく泊めてやる。そうして、なにかの話からかの木馬の話をすると、山伏のいうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や番匠(ばんじょう)やいろいろの職人が下って来る。そのなかに祐慶という名高い仏師がいる。この人は仏ばかりでなく、花鳥や龍や鳳凰や、すべての彫刻の名人として知られているから、この人の通るのを待ち受けて、なんとか頼んでみてはどうだ。わたしは宇都宮で逢ったから、おそらく一日二日のうちにはここへ来るだろうというのです。
 それをきいて黒太夫は非常によろこびました。山伏はあくる朝、ここを立ってしまいましたが、黒太夫はすぐに支度をして、家内の者四、五人を供につれて、街道筋へ出張って待ちうけていると、果してその祐慶という人が通りかかりました。黒太夫が想像していたのとは違って、まだ二十四五の若い男で、これがそれほど偉い人かと少しく疑われるくらいでしたが、ともかくも呼びとめて木馬の彫刻をたのみますと、祐慶は、先をいそぐからというので断りました。それをいろいろに口説いて、なにしろその場所を一度見てくれといって、無理に自分の屋敷まで連れて来ることになったのです。
 祐慶は案内されて、かの龍神の社へ行って、龍の池のあたりを暫く眺めていましたが、それほどお頼みならば作ってもよろしい。しかし馬ばかり作ったのでは再び立去るおそれがあるから、どうしてもその手綱(たづな)を控えている者を添えなければならないが、それでも差支えないかと念を押したそうです。
 もちろん、差支えはないと言うほかないので、万事よろしく頼むことになりますと、祐慶は彫刻をするために生きた人間と生きた馬を手本に貸してくれという。つまり今日(こんにち)のモデルといったわけです。前にも申した通り、黒太夫の家にはたくさんの馬が飼ってある。その中から裕慶は白鹿毛(しろかげ)の大きい馬を選び出しました。そこで、その綱を取っている者は誰にしたらいいかという詮議になると、祐慶は大勢の馬飼いのうちから捨松というのを選びました。
 捨松はことし十五の少年で、赤児のときに龍神の社の前に捨ててあったのを黒太夫の家で拾いあげて、捨て子であるから捨松という名をつけて、今日まで育てて来たので、ほんとうの子飼いの奉公人です。そういうわけで、親もわからない、身許も判らない人間ですから、黒太夫も不憫を加えて召使っている。当人も一生懸命に働いている。また不思議にこの捨松は馬をあつかうことが上手で、まだ年もいかない癖に、どんな悍(かん)の強い馬でも見ごとに鎮めるというので、大勢の馬飼(うまかい)のなかでも褒め者になっている。それらの事情から祐慶もかれを選定することになったのかも知れません。いずれにしても、青年の仏師は少年の馬飼と白鹿毛の馬とをモデルにして、いよいよかの木馬の製作に取りかかったのは、旧暦の七月の末、ここらではもうすっかりと秋らしくなった頃でした。」

     二

「祐慶がどういう風にして製作に従事したかという事は詳しく伝わっていませんが、屋敷内の森のなかに新しく細工場を作らせて、モデルの捨松と白鹿毛のほかには誰も立入ることを許しませんでした。主人の黒太夫も覗くことは出来ない。こうして七、八、九、十、十一と、あしかけ五カ月の後に、人間と馬との彫刻が出来あがりました。時によると夜通しで仕事をつづけている事もあるらしく、夜ふけに鑿(のみ)や槌の音が微かにきこえるのが、なんだか物凄いようにも感じられたということでした。
 いよいよ製作が成就(じょうじゅ)して、五カ月ぶりで初めて細工場を出て来た祐慶は、髪や髭は伸び、頬は落ち、眼は窪んで、にわかに十年も年を取ったように見えたそうですが、それでもその眼は生きいきと光りかがやいていました。モデルの少年も馬もみな元気がいいので、黒太夫一家でもまず安心しました。出来あがった木馬はもちろん、その手綱を控えている馬飼のすがた形もまったくモデルをそのままで、さながら生きているようにも見えたので、それを見た人々はみな感嘆の声をあげたそうです。
 黒太夫も大層よろこんで手厚い礼物(れいもつ)を贈ると、祐慶は辞退して何にも受取らない。彼は自分の長く伸びた髭をすこし切って、これをそこらの山のなかに埋めて、小さい石を立てておいてくれ、別に誰の墓ともしるすに及ばないと、こう言いおいて早々にここを立去ってしまいました。不思議なことだとは思ったが、その言う通りにして小さい石の標(しるし)を立て、誰が言い出したともなしにそれを髭塚と呼ぶようになりました。
 そこで、吉日を選んでかの木馬を社前に据えつける事になったのは十二月の初めで、近村の者もみな集まるはずにしていると、その前夜の夜半からにわかに雪がふり出しました。ここらで十二月に雪の降るのは珍しくもないのですが、暁け方からそれがいよいよ激しくなって、眼もあけないような大吹雪となったので、黒太夫の家でもどうしようかと躊躇していると、ここらの人たちは雪に馴れているのか、それとも信仰心が強いのか、この吹雪をも恐れないで近村はもちろん、遠いところからも続々あつまって来るので、もう猶予してもいられない。午(ひる)に近いころになって、黒太夫の家では木馬を運び出すことになりました。いい塩梅に雪もやや小降りになったので、人々もいよいよ元気が出て、かの木像と木馬を大きい車に積みのせて、今や屋敷の門から挽き出そうとする時、馬小屋のなかでにわかに高いいななきの声がきこえたかと思うと、これまでモデルに使われていた白鹿毛が何かの物の怪(け)でも付いたように狂い立って、手綱を振切って門の外へ飛び出したのです。
 人々も驚いて、あれあれというところへ、かの捨松が追って来ました。馬は龍の池の方へ向ってまっしぐらに駈けてゆく。捨松もつづいて追ってゆく。雪はまたひとしきり激しくなって、人も馬も白い渦のなかに巻き込まれて、時どきに見えたり隠れたりする。捨松は途中で手綱を掴んだらしいのですが、きょうは容易に取鎮めることが出来ず、狂い立つ奔馬に引きずられて吹雪のなかを転んだり起きたりして駈けてゆく。ほかの馬飼も捨松に加勢するつもりで、あとから続いて追いかけたのですが、雪が激しいのと、馬が早いのとで、誰も追い付くことが出来ない。ただうしろの方から、おういおうい、と声をかけるばかりでした。
 そのうちに吹雪はいよいよ激しくなって、白い大浪が馬と人とを巻き込んだかと思うと、二つながら忽ちにその影を見失った。どうも池のなかへ吹き込まれたらしいのです。騒ぎはますます大きくなって、大勢がいろいろに詮議したのですが、捨松も白鹿毛も、結局ゆくえ不明に終りました。
 やはり以前の木馬と同じように池の底に沈んだのであろうと諦めて、新しく作られた木像と木馬を龍神の社前に据えつけて、ともかくもきょうの式を終りましたが、もしやこれもまた抜け出すようなことはないかと、黒太夫の家からは朝に晩に見届けの者を出していましたが、木像も木馬も別条なく、社を守るように立っているので、まず安心はしたものの、それにつけても捨松と白鹿毛の死が悲しまれました。
 誰が見ても、その木像と木馬はまったく捨松と白鹿毛によく似ているので、あるいは名人の技倆によって、人も馬もその魂を作品の方に奪われてしまって、わが身はどこへか消え失せたのではないかなどと言う者もありました。それからまた付会(ふかい)して、今度の木馬も時どきにいななくとか、木像の捨松が口をきいたとか、いろいろの噂が伝えられるようになりました。
 そこで、その名人の仏師はどうしたかというと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に、仕事に取りかかってからも、一向に捗(はか)がゆかない。まるで気ぬけのした人間のように見えたので、いよいよ秀衡の機嫌を損じて、とうとう殺されてしまったという噂です。彼が立ちぎわに髭を残して行ったのから考えると、自分自身にも内々その覚悟があったのかも知れません。かの池を以前は単に龍の池と呼んでいたのですが、この事件があって以来、さらに馬という字を付け加えて、龍馬の池と呼ぶようになったのだそうです。」
「で、その木像と木馬も今も残っているのですか。」と、わたしはこの話の終るのを待ちかねて訊きました。
「それにはまたお話があります。」と、横田君は静かに言いました。「あとで聞くと、その祐慶という仏師は日本の人ではなく、宋(そう)から渡来した者だそうです。日本人ならば髪を切りそうなところを、髭を切って残したというのから考えても、なるほど唐(から)の人らしく思われます。それから七八百年の月日を過ぎるあいだに、土地にもいろいろの変遷があって、黒太夫の家は単に黒屋敷跡という名を残すばかりで、とうの昔にほろびました。龍馬の池も山崩れや出水のためにいくたびかその形をかえて、今では昔の半分にも足らないほどに小さくなってしまいました。
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