青蛙堂鬼談
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著者名:岡本綺堂 

   青蛙神(せいあじん)


     一

「速達!」
 三月三日の午(ひる)ごろに、一通の速達郵便がわたしの家の玄関に投げ込まれた。

 拝啓。春雪霏々(ひひ)、このゆうべに一会なかるべけんやと存じ候。万障を排して、本日午後五時頃より御参会くだされ度(たく)、ほかにも五、六名の同席者あるべくと存じ候。但し例の俳句会には無之(これなく)候。
 まずは右御案内まで、早々、不一(ふいつ)。
    三月三日朝
青蛙堂主人
 話の順序として、まずこの差出人の青蛙堂主人について少し語らなければならない。井(い)の中の蛙(かわず)という意味で、井蛙(せいあ)と号する人はめずらしくないが、青いという字をかぶらせた青蛙(せいあ)[#「青蛙」は底本では「井蛙」]の号はすくないらしい。彼は本姓を梅沢君といって、年はもう四十を五つ六つも越えているが、非常に気の若い、元気のいい男である。その職業は弁護士であるが、十年ほど前から法律事務所の看板をはずしてしまって、今では日本橋辺のある大商店の顧問という格で納まっている。ほかにも三、四の会社に関係して、相談役とか監査役とかいう肩書を所持している。まずは一廉(ひとかど)の当世紳士である。梅沢君は若いときから俳句の趣味があったが、七、八年前からいよくその趣味が深くなって、忙しい閑(ひま)をぬすんで所々の句会へも出席する。自宅でも句会をひらく。俳句の雅号を金華(きんか)と称して、あっぱれの宗匠顔をしているのである。
 梅沢君は四、五年前に、支那から帰った人のみやげとして広東製の竹細工を貰った。それは日本ではとても見られないような巨大な竹の根をくりぬいて、一匹の大きい蝦蟆(がま)を拵らえたものであるが、そのがまは鼎(かなえ)のような三本足であった。一本の足はあやまって折れたのではない、初めから三本の足であるべく作られたものに相違ないので、梅沢君も不思議に思った。呉れた人にもその訳はわからなかった。いずれにしても面白いものだというので、梅沢君はそのがまを座敷の床の間に這わせておくと、ある支那通の人が教えてくれた。
「それは普通のがまではない。青蛙というものだ。」
 その人は清(しん)の阮葵生(げんきせい)の書いた「茶余客話」という書物を持って来て、梅沢君に説明して聞かせた。
 それにはこういうことが漢文で書いてあった。
 ――杭州に金華将軍なるものあり。けだし青蛙の二字の訛りにして、その物はきわめて蛙に類す。ただ三足なるのみ。そのあらわるるは、多く夏秋の交(こう)にあり。降(くだ)るところの家は□酒(じゅっしゅ)一盂を以てし、その一方を欠いてこれを祀る。その物その傍らに盤踞(ばんきょ)して飲み啖(くら)わず、しかもその皮膚はおのずから青より黄となり、さらに赤となる。祀るものは将軍すでに酔えりといい、それを盤にのせて湧金(ゆうきん)門外の金華太侯の廟内に送れば、たちまちにその姿を見うしなう。而して、その家は数日の中に必ず獲(う)るところあり。云々(うんぬん)――。
 これで三本足のがまの由来はわかった。それのみならず更に梅沢君をよろこばせたのは、その霊あるがまが金華将軍と呼ばれることであった。梅沢君の俳号を金華というのに、あたかもそこへ金華将軍の青蛙が這い込んで来たのは、まことに不思議な因縁であるというので、梅沢君はその以来大いにこのがまを珍重することになって、ある書家にたのんで青蛙堂という額を書いてもらった。自分自身も青蛙堂主人と号するようになった。
 その青蛙堂からの案内をうけて、わたしは躊躇した。案内状にも書いてある通り、きょうは朝から細かい雪が降っている。主人はこの雪をみて俄かに今夜の会合を思い立ったのであろうが、青蛙堂は小石川の切支丹坂をのぼって、昼でも薄暗いような木立ちの奥にある。こういう日のゆう方からそこへ出かけるのは、往きはともあれ、復(かえ)りが難儀だと少しく恐れたからである。例の俳句会ならば無論に欠席するのであるが、それではないとわざわざ断り書きがしてある以上、何かほかに趣向があるのかも知れない。三月三日でも梅沢君に雛祭りをするような女の子はない。まさかに桜田浪士の追悼会を催すわけでもあるまい。そんなことを考えているうちに、いい塩梅(あんばい)に雪も小降りになって来たらしいので、わたしは思い切って出かけることにした。
 午後四時頃からそろそろと出る支度をはじめると、あいにくに雪はまたはげしく降り出して来た。その景色を見てわたしはまた躊躇したが、ええ構わずにゆけと度胸を据えて、とうとう真っ白な道を踏んで出た。小石川の竹早町で電車にわかれて、藤坂を降りる、切支丹坂をのぼる、この雪の日にはかなりに難儀な道中をつづけて、ともかくも青蛙堂まで無事にたどり着くと、もう七、八人の先客があつまっていた。
「それでも皆んな偉(えら)いよ。この天気にこの場所じゃあ、せいぜい五、六人だろうと思っていたところが、もう七、八人も来ている。まだ四、五人は来るらしい。どうも案外の盛会になったよ。」と、青蛙堂主人は、ひどく嬉しそうな顔をして私を迎えた。
 二階へ案内されて、十畳と八畳をぶちぬきの座敷へ通されて、さて先客の人々を見わたすと、そのなかの三人ほどを除いては、みな私の見識らない人たちばかりであった。学者らしい人もある。実業家らしい人もある。切髪の上品なお婆さんもいた。そうかと思うと、まだ若い学生のような人もある。なんだか得体(えたい)のわからない会合であると思いながら、まずひと通りの挨拶をして座に着いて、顔なじみの人たちと二つ三つ世間話などをしているうちに、私のあとからまた二、三人の客が来た。そのひとりは識っている人であったが、ほかの二人はどこの何という人だが判らなかった。
 やがて主人から、この天気にようこそというような挨拶があって、それから一座の人々を順々に紹介した。それが済んで、酒が出る、料理の膳が出る。雪はすこし衰えたが、それでも休みなしに白い影を飛ばしているのが、二階の硝子戸越しにうかがわれた。あまりに酒を好む人がないとみえて酒宴は案外に早く片付いて、さらに下座敷の広間へ案内されて、煙草をすって、あついレモン茶をすすって、しばらく休息していると、主人は勿体らしく咳(しわぶ)きして一同に声をかけた。
「実はこのような晩にわざわざお越しを願いましたのは外(ほか)でもございません。近頃わたくしは俳句以外、怪談に興味を持ちまして、ひそかに研究しております。就きましては一夕(いっせき)怪談会を催しまして、皆さまの御高話を是非拝聴いたしたいと存じておりましたところ、あたかもきょうは春の雪、怪談には雨の夜の方がふさわしいかとも存じましたが、雪の宵もまた興あることと考えまして、急に思いついてお呼び立て申したような次第でございます。わたくしばかりでなく、これにも聴き手が控えておりますから、どうか皆さまに、一席ずつ珍しいお話をねがいたいと存しますが、いかがでございましょうか。」
 主人が指さす床の間の正面には、かの竹細工の三本足のがまが大きくうずくまっていて、その前には支那焼らしい酒壺が供えてある。欄間には青蛙堂と大きく書いた額が掛かっている。主人のほかに、この青蛙を聴き手として、われわれはこれから怪談を一席ずつ弁じなければならないことになったのである。雛祭りの夜に怪談会を催すも変っているが、その聴き手には三本足の金華将軍が控えているなどは、いよいよ奇抜である。主人の注文に対して、どの人も無言のうちに承諾の色目をみせたが、さて自分からまず進んでその皮切りを勤めようという者もない。たがいに顔をみあわせて譲り合っているような形であるので、主人の方から催促するように第一番に出る人を指名することになった。
「星崎さん。いかがでしょう。あなたからまず何かお話し下さるわけには……。この青蛙をわたくしに教えて下すったのはあなたですから、その御縁であなたからまず願いましょう。今晩は特殊の催しですから、そういう材料をたくさんお持ちあわせの方々ばかりを選んでお招き申したのですが、誰か一番に口を切るかたがないと、やはり遠慮勝になってお話が進行しませんようですから。」
 真先に引き出された星崎さんというのは、五十ぐらいの紳士である。かれは薄白くなっている髯(ひげ)をなでながら微笑した。
「なるほどそう言われると、この床の間の置物にはわたしが縁のふかい方かも知れません。わたしは商売の都合で、若いときには五年ほども上海の支店に勤めていたことがあります。その後にも二年に一度ぐらいは必ず支那へゆくことがあるので、支那の南北は大抵遍歴しました。そういうわけで支那の事情もすこしは知っています。御主人が唯今おっしやった通り、その青蛙の説明をいたしたのも私です。」
「それですから、今夜のお話はどうしてもあなたからお始めください。」と、主人はかさねて促した。
「では、皆さまを差措いて、失礼ながら私が前座を勤めることにしましょう。一体この青蛙に対する伝説は杭州地方ばかりでなく、広東地方でも青蛙神といって尊崇しているようです。したがって、昔から青蛙についてはいろいろの伝説が残っています。勿論、その多くは怪談ですから、ちょうど今夜の席上にはふさわしいかも知れません。その伝説のなかでも成るべく風変わりのものをちょっとお話し申しましょう。」
 星崎さんはひと膝ゆすり出て、まず一座の人々の顔をしずかに見まわした。その態度がよほど場馴れているらしいので、わたしも一種の興味をそそられて、思わずその人の方に向き直った。

 支那の地名や人名は皆さんにお馴染みが薄くて、却って話の興をそぐかと思いますから、なるべく固有名詞は省略して申上げることにしましょう。と、星崎さんは劈頭(へきとう)にまず断った。
 時代は明(みん)の末で、天下が大いに乱れんとする時のお話だと思ってください。江南の金陵、すなわち南京の城内に張訓という武人があった。ある時、その城をあずかっている将軍が饗宴をひらいて、列席の武官と文官一同に詩や絵や文章を自筆でかいた扇子一本ずつをくれた。一同ひどく有難がって、めいめいに披(ひら)いてみる。張訓もおなじく押し頂いて披(ひら)いて見ると、どうしたわけか自分の貰った扇だけは白扇で、なにも書いてない。裏にも表にも無い。これには甚だ失望したが、この場合、上役の人に対して、それを言うのも礼を失うと思ったので、張訓はなにげなくお礼を申して、ほかの人たちと一緒に退出した。しかし何だか面白くないので、家へ帰るとすぐにその妻に話した。
「将軍も一度にたくさんの扇をかいたので、きっと書き落したに相違ない。それがあいにくにおれに当ったのだ。とんだ貧乏くじをひいたものだ。」
 詰まらなそうに溜息をついていると、妻も一旦は顔の色を陰らせた。妻はことし十九で三年前から張と夫婦になったもので、小作りで色の白い、右の眉のはずれに大きいほくろのある、まことに可愛らしい女であったが、夫の話をきいて少し考えているうちに、まただんだんにいつもの晴れやかな可愛らしい顔に戻って、かれは夫を慰めるように言った。
「それはあなたのおっしゃる通り、将軍は別に悪意があってなされた事ではなく、たくさんのなかですから、きっとお書き落しになったに相違ありません。あとで気がつけば取換えて下さるでしょう。いいえ、きっと取換えてくださいます。」
「しかし気がつくかしら。」
「なにかの機(はずみ)に思い出すことがないとも限りません。それについて、もし将軍から何かお尋ねでもありましたら、そのときには遠慮なく、正直にお答えをなさる方がようございます。」
「むむ。」
 夫は気のない返事をして、その晩はまずそのままで寝てしまった。それから二日ほど経つと、張訓は将軍の前によび出された。
「おい。このあいだの晩、おまえにやった扇には何が書いてあったな。」
 こう訊かれて、張訓は正直に答えた。
「実は頂戴の扇面には何にも書いてございませんでした。」
「なにも書いてない。」と、将軍はしばらく考えていたが、やがて、しずかにうなずいた。「なるほど、そうだったかも知れない。それは気の毒なことをした。では、その代りにこれを上げよう。」
 前に貰ったのよりも遥かに上等な扇子に、将軍が手ずから七言絶句(しちごんぜっく)を書いたのをくれたので、張訓はよろこんで頂戴して帰って、自慢らしく妻にみせると、妻もおなじように喜んだ。
「それだから、わたくしが言ったのです。将軍はなかなか物覚えのいいかたですから。」
「そうだ、まったく物覚えがいい。大勢のなかで、どうして白扇がおれの手にはいったことを知っていたのかな。」
 そうは言っても、別に深く詮索(せんさく)するほどのことではないので、それはまずそのままで済んでしまった。それから半年ほど経つと、かの闖賊(ちんぞく)という怖ろしい賊軍が蜂起して、江北は大いに乱れて来たので、南方でも警戒しなければならない。太平が久しくつづいて、誰も武具の用意が十分であるまいというので、将軍から部下の者一同に鎧一着ずつを分配してくれることになった。張訓もその分配をうけたが、その鎧がまた悪い。古い鎧が破れている。それをかかえて、家へ帰って、またもや妻に愚痴をこぼした。
「こんなものが、大事のときの役に立つものか。いっそ紙の鎧を着た方がましだ。」
 すると、妻はまた慰めるように言った。
「それは将軍が一々にあらためて渡したわけでもないのでしょうから、あとで気がつけばきっと取換えて下さるでしょう。」
「そうかも知れないな。いつかの扇子の例もあるから。」
 そう言っていると、果して二、三日の後に、張訓は将軍のまえに呼び出されて、この間の鎧はどうであったかと、また訊(き)かれた。張訓はやはり正直に答えると、将軍は子細ありげに眉をよせて、張の顔をじっと眺めていたが、やがて詞(ことば)をあらためて訊いた。
「おまえの家では何かの神を祭っているか。」
「いえ、一向に不信心でございまして、なんの神ほとけも祭っておりません。」
「どうも不思議だな。」
 将軍のひたいの皺はいよいよ深くなった。そのうちに何を思い付いたか、かれはまた訊いた。
「おまえの妻はどんな女だ。」
 突然の問いに、張訓はいささか面喰らったが、これは隠すべき筋でもないので、正直に自分の妻の年頃や人相などを申立てると、将軍は更に訊いた。
「そうして、右の眉の下に大きいほくろはないか。」
「よく御存じで……。」と、張訓もおどろいた。
「むむ、知っている。」と、将軍は大きくうなずいた。「おまえの妻はこれまで、二度もおれの枕もとへ来た。」
 驚いて、呆れて、張訓はしばらく相手の顔をぼんやりと見つめていると、将軍も不思議そうにその子細を説明して聞かせた。
「実は半年ほど前に、おまえ達を呼んでおれの扇子をやったことがある。その明くる晩のことだ。ひとりの女がおれの枕もとへ来て、昨日張訓に下さいました扇子は白扇でございました。どうぞ御直筆のものとお取換えをねがいますと、言うかと思うと夢がさめた。そこで、念のためにお前をよんで訊いてみると、果してその通りだという。そのときにも少し不思議に思ったが、まずそのままにしておくと、またぞろその女がゆうべも来て、先日張訓に下さいました鎧は朽ち破れていて物の用にも立ちません。どうぞしかるべき品とお取換えをねがいますと言う。そこで、おまえに訊いてみると、今度もまたその通りだ。あまりに不思議がつづくので、もしやと思って詮議すると、その女はまさしくお前の妻だ。年ごろといい、人相といい、眉の下のほくろまでが寸分違(たが)わないのだから、もう疑う余地はない。おまえの妻はいったいどういう人間だか知らないが、どうも不思議だな。」
 子細をきいて、張訓もいよいよ呆れた。
「まったく不思議でございます。よく詮議をいたしてみましょう。」
「いずれにしても鎧は換えてやる。これを持ってゆけ。」
 将軍から立派な鎧をわたされて、張訓はそれをかかえて退出したが、頭はぼんやりして半分は夢のような心持であった。三年越し連れ添って、なんの変ったこともない貞淑な妻が、どうしてそんな事をしたのか。さりとて将軍の詞に嘘があろうとは思われない。家へ帰る途中でいろいろ考えてみると、なるほど思い当ることがある。半年前の扇子の時にも、今度の鎧の問題にも、妻はいつでも先を見越したようなことを言って自分を慰めてくれる。それがどうもおかしい。たしかに不思議だ。これは一と詮議しなければならないと、張訓は急いで帰ってくると、妻はその鎧を眼早く見つけてにっこり笑った。
 その可愛らしい笑い顔は鬼とも魔とも変化(へんげ)とも見えないので、張訓はまた迷った。しかし彼のうたがいはまだ解けない。殊に将軍の手前に対しても、なんとかこの解決を付けなければならないと思ったので、かれは妻を一と間(ま)へ呼び込んで、まずその夢の一条を話すと、妻も不思議そうな顔をして聞いていた。そうして、こんなことを言った。
「いつかの扇子のときも、今度の鎧についても、あなたは大層心もちを悪くしておいでのようでしたから、どうかしてお心持の直るようにして上げたいと、わたくしも心から念じていました。その真心が天に通じて、自然にそんな不思議があらわれたのかも知れません。わたくしも自分の念がとどいて嬉しゅうございます。」
 そう言われてみると、夫もその上に踏み込んで詮議の仕様もない。唯わが妻のまごころを感謝するほかはないので、結局その場はうやむやに済んでしまったが、張訓はどうも気が済まない。その後も注意して妻の挙動をうかがっているうちに、前にも言う通りのわけで世の中はだんだんに騒がしくなる。将軍も軍務に忙しいので、張訓の妻のことなどを詮議してもいられなくなった。張訓もまた自分の務めが忙しいので、朝は早く出て、夕はおそく帰る。こうして半月あまりを暮していると、五月にはいって梅雨が毎日ふり続く。それも今日はめずらしく午後から小やみになって、夕方には薄青い空の色がみえて来た。
 張訓も今日はめずらしく自分の仕事が早く片付いて、まだ日の暮れ切らないうちに帰ってくると、いつもはすぐに出迎えをする妻がどうしてか姿を見せない。内へはいって庭の方をふとみると、庭の隅には大きい柘榴(ざくろ)の木があって、その花は火の燃えるように紅く咲きみだれている。妻はその花の蔭に身をかがめて、なにか一心にながめているらしいので、張訓はそっと庭に降り立って、ぬき足をして妻のうしろに近寄ると、柘榴の木の下には大きいがまが傲然としてうずくまっている。その前に酒壺をそなえて、妻は何事をか念じているらしい。張訓はこの奇怪なありさまに胸をとどろかしてなおも注意して窺うと、そのがまは青い苔のような色をして、しかも三本足であった。
 それが例の青蛙であることを知っていたら、何事もなしに済んだかも知れなかったが、張訓は武人で、青蛙神も金華将軍もなんにも知らなかった。かれの眼に映ったのは自分の妻が奇怪な三本足のがまを拝している姿だけである。このあいだからの疑いが初めて解けたような心持で、かれはたちまちに自分の剣をぬいたかと思うと、若い妻は背中から胸を突き透されて、ほとんど声を立てる間もなしに柘榴の木の下に倒れた。その死骸の上に紅い花がはらはらと散った。
 張訓はしばらく夢のように突っ立っていたが、やがて気がついて見まわすと、三本足のがまはどこへか影を隠してしまって、自分の足もとにころげているのは妻の死骸ばかりである。それをじっと眺めているうちに、かれは自分の短慮を悔むような気にもなった。妻の挙動は確かに奇怪なものに相違なかったが、ともかくも一応の詮議をした上で、生かすとも殺すとも相当の処置を取るべきであったのに、一途(いちず)にはやまって成敗してしまったのはあまりに短慮であったとも思われた。しかし今更どうにもならないので、かれは妻のなきがらの始末をして、翌日それをひそかに将軍に報告すると、将軍はうなずいた。
「おまえの妻はやはり一種の鬼であったのだ。」

     二

 それから張訓の周囲にはいろいろの奇怪な出来事が続いてあらわれた。かれの周囲にはかならず三本足のがまが付きまとっているのである。室内にいれば、その榻(とう)のそばに這っている。庭に出れば、その足もとに這って来る。外へ出れば、やはりそのあとから付いてくる。あたかも影の形にしたがうが如きありさまで、どこへ行ってもかれのある所にはかならず、青いがまのすがたを見ないことはない。それも最初は一匹であったが、後には二匹となり、三匹となり、五匹となり、十匹となり、大きいのもあれば小さいのもある。それがぞろぞろと繋(つな)がって、かれのあとを付けまわすので、張訓も持てあました。
 その怪しいがまの群れは、かれに対して別に何事をするのでもない。唯のそのそと付いて来るだけのことであるが、何分にも気味がよくない。もちろん、それは張訓の眼にみえるだけで、ほかの者にはなんにも見えないのである。かれも堪らなくなって、ときどき剣をぬいて斬り払おうとするが、一向に手ごたえがない。ただ自分の前にいたがまがうしろに位置をかえ、左にいたのが右へ移るに過ぎないので、どうにもこうにもそれを駆逐する方法がなかった。
 そのうちに彼らはいろいろの仕事をはじめて来た。張訓が夜寝ていると、大きいがまがその胸のうえに這いあがって、息が止まるかと思うほどに強く押し付けるのである。食卓にむかって飯を食おうとすると、小さい青いがまが無数にあらわれて、皿や椀のなかへ片っ端から飛び込むのである。それがために夜もおちおちは眠られず、飯も碌々には食えないので、張訓も次第に痩せおとろえて半病人のようになってしまった。それが人の目に立つようにもなったので、かれの親友の羊得というのが心配して、だんだんその事情を聞きただした上で、ある道士をたのんで祈祷を行ってもらったが、やはりその効はみえないで、がまは絶えず張訓の周囲に付きまとっていた。
 一方、かの闖賊(ちんぞく)は勢いますます猖獗(しょうけつ)になって、都もやがて危いという悲報が続々来るので、忠節のあつい将軍は都へむけて一部隊の援兵を送ることになった。張訓もその部隊のうちに加えられた。病気を申立てて辞退したらよかろうと、羊得はしきりにすすめたが、張訓は肯かずに出発することにした。かれは武人気質(かたぎ)で、報国の念が強いのと、もう一つには、得体(えたい)も知れないがまの怪異に悩まされて、いたずらに死を待つよりも帝城のもとに忠義の死屍を横たえた方が優(ま)しであるとも思ったからであった。かれは生きて再び還らない覚悟で、家のことなども残らず始末して出た。羊得も一緒に出発した。
 その一隊は長江を渡って、北へ進んでゆく途中、ある小さい村落に泊ることになったが、人家が少ないので、大部分は野営した。柳の多い村で、張訓も羊得も柳の大樹の下に休息していると、初秋の月のひかりが鮮(あざや)かに鎧の露を照らした。張訓の鎧はかれの妻が将軍の夢まくらに立って、とりかえてもらったものである。そんなことを考えながらうっとりと月を見あげていると、そばにいる羊得が訊いた。
「どうだ。例のがまはまだ出て来るか。」
「いや、江を渡ってからは消えるように見えなくなった。」
「それはいいあんばいだ。」と、羊得もよろこばしそうに言った。
「こっちの気が張っているので、妖怪も付け込むすきがなくなったのかも知れない。やっばり出陣した方がよかったな。」
 そんなことを言っているうちに、張訓は俄かに耳をかたむけた。
「あ、琵琶の音(ね)がきこえる。」
 それが羊得にはちっともきこえないので、大方おまえの空耳であろうと打ち消したが、張訓はどうしても聞こえると言い張った。しかもそれは自分の妻の撥音(ばちおと)に相違ない、どうも不思議なこともあるものだと、かれはその琵琶の音にひかれるように、弓矢を捨ててふらふらとあるき出した。羊得は不安に思って、あわててそのあとを追って行ったが、張の姿はもう見えなかった。
「これは唯事でないらしい。」
 羊得は引っ返して三、四人の朋輩を誘って、明るい月をたよりにそこらを尋ねあるくと、村を出たところに古い廟があった。あたりは秋草に掩われて、廟の軒も扉もおびただしく荒れ朽ちているのが月の光りに明らかに見られた。虫の声は雨のようにきこえる。もしやと思って草むらを掻きわけて、その廟のまえまで辿りつくと、さきに立っている羊得があっと声をあげた。
 廟の前にはがまのような形をした大きい石が蟠(わだか)まっていて、その石の上に張訓の兜が載せてあった。そればかりでなく、その石の下には一匹の大きい青いがまがあたかもその兜を守るが如くにうずくまっているのを見たときに、人々は思わず立ちすくんだ。羊得はそれが三本足であるかどうかを確かめようとする間もなく、がまのすがたは消えるように失せてしまった。人々は言い知れない恐怖に打たれて、しばらく顔を合せていたが、この上はどうしても廟内を詮索しなければならないので、羊得は思い切って扉をあけると、他の人々も怖々ながら続いてはいった。
 張訓は廟のなかに冷たい体を横たえて、眠ったように死んでいた。おどろいて介抱したが、かれはもうその眠りから醒めなかった。よんどころなくその死骸を運んで帰って、一体あの廟には何を祭ってあるのかと村のものに訊くと、単に青蛙神の廟であると言い伝えられているばかりで、誰もその由来を知らなかった。廟内はまったく空虚で何物を祭ってあるらしい様子もなく、この土地でも近年は参詣する者もなく、ただ荒れるがままに打ち捨ててあるのだということであった。青蛙神――それが何であるかを羊得らも知らなかったが、大勢の兵卒のうちに杭州出身の者があって、その説明によって初めてその子細が判った。張訓の妻が杭州生れであることは羊得も知っていた。
「これで、このお話はおしまいです。そういうわけですから、皆さんもこの青蛙神に十分の敬意を払って、怖るべき祟りをうけないよう御用心をねがいます。」
 こう言い終って、星崎さんはハンカチーフで口のまわりを拭きながら、床の間の大きいがまを見かえった。
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   利根(とね)の渡(わたし)


     一

 星崎さんの話のすむあいだに、また三、四人の客が来たので座敷はほとんどいっぱいになった。星崎さんを皮切りにして、これらの人々が代る代るに一席ずつの話をすることになったのであるから、まったく怪談の惣仕舞(そうじまい)という形である。勿論、そのなかには紋切形のものもあったが、なにか特色のあるものだけを私はひそかに筆記しておいたので、これから順々にそれを紹介したいと思う。
 しかし初対面の人が多いので、一度その名を聞かされただけでは、どの人が誰であったやら判然(はっきり)しないのもある。またその話の性質上、談話者の姓名を発表するのを遠慮しなければならないような場合もあるので、皮切りの星崎さんは格別、ほかの人々の姓名はすべて省略して、単に第二の男とか第三の女とかいうことにしておきたい。
 そこで、第二の男は語る。

 享保(きょうほ)の初年である。利根川のむこう河岸(がし)、江戸の方角からいえば奥州寄りの岸のほとりに一人の座頭(ざとう)が立っていた。坂東太郎という利根の大河もここは船渡しで、江戸時代には房川(ぼうかわ)の渡しと呼んでいた。奥羽街道と日光街道との要所であるから、栗橋の宿(しゅく)には関所がある。その関所をすぎて川を渡ると、むこう河岸は古河の町で、土井家八万石の城下として昔から繁昌している。かの座頭はその古河の方面の岸に近くたたずんでいるのであった。
 座頭が利根川の岸に立っている。――ただそれだけのことならば格別の問題にもならないかも知れない。かれは年のころ三十前後で、顔色の蒼黒い、口のすこしゆがんだ、痩形の中背の男で、夏でも冬でも浅黄の頭巾(ずきん)をかぶって、草鞋(わらじ)ばきの旅すがたをしているのであるが、朝から晩までこの渡し場に立ち暮らしているばかりで、かつて渡ろうとはしない。
 相手が盲人であるから、船頭は渡し賃を取らず渡してやろうと言っても、彼は寂しく笑いながら黙って頭(かぶり)をふるのである。それも一日や二日のことではなく、一年、二年、三年、雨風をいとわず、暑寒を嫌わず、彼はいかなる日でもかならずこの渡し場にその痩せた姿をあらわすのであった。
 こうなると、船頭どもも見のがすわけにはいかない。一体なんのために毎日ここヘ出てくるのかと、しばしば聞きただしたが、座頭はやはり寂しく笑っているばかりで、さらに要領を得るような返事をあたえなかった。しかし彼の目的は自然に覚られた。
 奥州や日光の方面から来る旅びとはここから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から来る旅びとは栗橋から渡し船に乗り込んでここに着く。その乗り降りの旅人を座頭は一々に詮議しているのである。
「もし、このなかに野村彦右衛門というお人はおいでなされぬか。」
 野村彦右衛門――侍らしい苗字であるが、そういう人はかつて通り合せないとみえて、どの人もみな答えずに行き過ぎてしまうのである。それでも座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。それが前にもいう通り、幾年という長い月日のあいだ一日もかかさないのであるから、誰でもその根気のよいのに驚かされずにはいられなかった。
「座頭さんは何でその人をたずねるのだ。」
 こうした質問も船頭どもからしばしばくり返されたが、彼はたただいつもの通り、笑っているばかりで、決してその口を開こうとはしなかった。彼は元来無口の男らしく、毎日この渡し場に立ち暮らしていながら、顔は見えずとも声だけはもう聞き慣れているはずの船頭どもに対しても、かつて馴れなれしい詞(ことば)を出したことはなかった。こちらから何か話しかけても、かれは黙って笑うかうなずくかで、なるべく他人(ひと)との応答を避けているようにもみえるので、船頭どもも後には馴れてしまって、彼に向って声をかける者もない。彼も結局それを仕合せとしているらしく、毎日ただひとりで寂しくたたずんでいるのであった。
 いったい彼はどこに住んで、どういう生活をしているのかそれも判らない。どこから出て来て、どこへ帰るのか、わざわざそのあとを付けて行った者もないので、誰にもよく判らなかった。ここの渡しは明け六つに始まって、ゆう七つに終る。彼はそのあいだここに立ち暮らして、渡しの止まるのを合図にどこへか消えるように立去ってしまうのである。朝から晩までこうしていても、別に弁当の用意をして来るらしくもみえない。渡し小屋に寝起きをしている平助という爺(じい)さんが余りに気の毒に思って、あるとき大きい握り飯を二つこしらえてやると、その時ばかりは彼も大層よろこんでその一つを旨そうに食った。そうして、その礼だと言って一文銭を平助に出した。もとより礼を貰う料簡もないので、平助はいらないと断ったが、かれは無理に押付けて行った。
 それが例となって、平助の小屋では毎日大きい握り飯を一つこしらえてやると、彼はきっと一文の銭を置いて行く。いくら物価の廉(やす)い時代でも、大きい握り飯ひとつの値が一文では引合わないわけであるが、平助の方では盲人に対する一種の施しと心得て、毎日こころよくその握り飯をこしらえてやるばかりでなく、湯も飲ませてやる、炉の火にもあたらせてやる。こうした親切が彼の胸にもしみたと見えて、ほかの者とはほとんど口をきかない彼も、平助じいさんだけには幾分か打解けて暑さ寒さの挨拶をすることもあった。
 往来のはげしい街道であるから、渡し船は幾艘も出る。しかし他の船頭どもは夕方から皆めいめいの家へ引揚げてしまって、この小屋に寝泊りをしているのは平助じいさんだけであるので、ある時彼は座頭に言った。
「お前さんはどこから来るのか知らないが、眼の不自由な身で毎日往ったり来たりするのは難儀だろう。いっそ、この小屋に泊ることにしたらどうだ。わたしのほかには誰もいないのだから遠慮することはない。」
 座頭はしばらく考えた後に、それではここに泊らせてくれと言った。平助はひとり者であるから、たとい盲目でも話し相手の出来たのを喜んで、その晩から自分の小屋に泊らせて、出来るだけの面倒をみてやることにした。こうして、利根の川端(かわばた)の渡し小屋に、老いたる船頭と身許不明の盲人とが、雨のふる夜も風の吹く夜も一緒に寝起きするようになって、ふたりの間はいよいよ打解けたわけであるが、とかくに無口の座頭はあまり多くは語らなかった。勿論、自分の来歴や目的については、堅く口を閉じていた。平助の方でも無理に聞き出そうともしなかった。しいてそれを詮議すれば、彼はきっとここを立去ってしまうであろうと察したからである。
 それでも唯一度、なにかの夜話のついでに、平助は彼に訊(き)いたことがあった。
「お前さんはかたき討かえ。」
 座頭はいつもの通りにさびしく笑って頭(かぶり)をふった。その問題もそれぎりで消えてしまった。
 平助じいさんが彼を引取ったのは、盲人に対する同情から出発していたには相違なかったが、そのほかに幾分かの好奇心も忍んでいたので、彼は同宿者の行動に対してひそかに注意の眼をそそいでいたが、別に変ったこともないようであった。座頭は朝から夕まで渡し場へ出て、倦(う)まず怠らずに野村彦右衛門の名を呼びつづけていた。
 平助は毎晩一合の寝酒で正体もなく寝入ってしまうので、夜半(よなか)のことはちっとも知らなかったが、ある夜ふけにふと眼をさますと、座頭は消えかかっている炉の火をたよりに、何か太い針のようなものを一心に磨(と)いでいるようであったが、人一倍に勘のいいらしい彼は、平助が身動きしたのを早くも覚って、たちまちにその針のようなものを押隠した。
 その様子がただならないようにみえたので、平助は素知らぬ顔をして再び眠ってしまったが、その夜半にかの盲人がそっと這い起きて来て、自分の寝ている上に乗りかかって、かの針のようなものを左の眼に突き透すとみて、夢が醒めた。そのうなされる声に座頭も眼をさまして、探りながらに介抱してくれた。平助はその夢についてなんにも語らなかったが、その以来なんとなくかの座頭が怖ろしくなって来た。
 彼はなんのために針のようなものを持っているのか、盲人の商売道具であるといえばそれまでであるが、あれほどに太い針を隠し持っているのは少しく不似合いのことである。あるいは偽盲(にせめくら)で実は盗賊のたぐいではないかなどと平助は疑った。いずれにしても彼を同宿させるのを平助は薄気味悪く思うようになったが、自分の方から勧めて引入れた以上、今更それを追出すわけにもいかないので、まずそのままにしておくと、ある秋の宵である。
 この日は昼から薄寒い雨がふりつづいて、渡しを越える人も少なかったが、暮れてはまったく人通りも絶えた。河原には水が増したらしく、そこらの石を打つ音が例よりも凄まじく響いた。小屋の前の川柳に降りそそぐ雨の音も寂しくきこえて、馴れている平助もおのずと佗しい思いを誘い出されるような夜であった。肌寒いので炉の火を強く焚いて、平助は宵から例の一合の酒をちびりちびりと飲みはじめると、ふだんから下戸だといっている座頭は黙って炉の前に坐っていた。
「あ。」
 座頭はやがて口のうちで言った。それに驚かされて、平助も思わず顔をあげると、小屋の外には何かぴちゃぴちゃいう音が雨のなかにきこえた。
「何かな。魚かな。」と、座頭は言った。
「そうだ。魚だ。」と、平助は起(た)ちあがった。「この雨で水が殖えたので、なにか大きい奴が跳ねあがったと見えるぞ。」
 平助はそこにかけてある蓑(みの)を引っかけて、小さい掬(すく)い網を持って小屋を出ると、外には風まじりの雨が暗く降りしきっているので、いつもほどの水明かりも見えなかったが、その薄暗い岸の上に一尾(ぴき)の大きい魚の跳ねまわっているのが、おぼろげにうかがわれた。
「ああ、鱸(すずき)だ。こいつは大きいぞ。」
 鱸は強い魚であることを知っているので、平助も用心して抑えにかかったが、魚は予想以上に大きく、どうしても三尺を越えているらしいので、小さい網では所詮(しょせん)掬うことは出来そうもなかった。うっかりすると網を破られるおそれがあるので、かれは網を投げすててその魚をだこうとすると、魚は尾鰭を振って自分の敵を力強く跳ね飛ばしたので、平助は湿(ぬ)れている草にすべって倒れた。
 その物音を聞きつけて座頭も表へ出て来たが、盲目の彼は暗いなかを恐れるはずはなかった。彼は魚の跳ねる音をたよりに探り寄ったかと思うと、難なくそれを取抑えてしまったので、盲人として余りに手際(てぎわ)がよいと、平助はすこし不思議に思いながら、ともかくも大きい魚を小屋の内へかかえ込むと、それは果して鱸であった。鱸の眼には右から左へかけて太い針が突き透されているのを見たときに、平助は何とはなしにぞっとした。魚は半死半生に弱っていた。
「針は魚の眼に刺さっていますか。」と、座頭は訊いた。
「刺さっているよ。」と、平助は答えた。
「刺さりましたか、確かに、眼玉のまん中に……。」
 見えない眼をむき出すようにして、座頭はにやりと笑ったので、平助はまたぞっとした。

     二

 盲人は勘(かん)のよいものである。そのなかでもこの座頭は非常に勘のよいらしいことを平助もかねて承知していたが、今夜の手際(てぎわ)をみせられて彼はいよいよ舌をまいた。もとより盲人であるから、暗いも明るいも頓着はあるまいが、それにしてもこの暗い雨のなかで、勢よく跳ねまわっている大きい魚をつかまえて、手探りながらにその眼のまっ只中を突き透したのは、世のつねの手練でない。彼が人の目を忍んで磨ぎすましているあの針が、これほどの働きをするかと思うと、幾たびかうなされた。
「とんだ者を引摺り込んでしまった。」
 平助は今さら後悔したが、さりとて思い切って彼を追い出すほどの勇気もなかった。却ってその後は万事に気をつけて、その御機嫌を取るように努めているくらいであった。
 座頭がこの渡し場にあらわれてから足かけ三年、平助の小屋に引取られてから足かけ二年、あわせて丸四年ほどの年月が過ぎたのちに、彼は春二月のはじめ頃から風邪(かぜ)のここちで患(わずら)い付いた。それは余寒の強い年で、日光や赤城から朝夕に吹きおろして来る風が、広い河原にただ一軒のこの小屋を吹き倒すかとも思われた。その寒いのもいとわずに、平助は古河の町まで薬を買いに行って、病んでいる座頭に飲ませてやった。
 そんなからだでありながら、座頭は杖にすがって渡し場へ出てゆくことを怠らなかった。
「この寒いのに、朝から晩まで吹きさらされていては堪(たま)るまい。せめて病気の癒るまでは休んではどうだね。」
 平助は見かねて注意したが、座頭はどうしても肯(き)かなかった。日ましに痩せ衰えてくる体を一本の杖にあやうく支えながら、彼は毎日とぼとぼと出て行ったが、その強情もとうとう続かなくなって、朝から晩まで小屋のなかに倒れているようになった。
「それだから言わないことではない。まだ若いのに、からだを大事にしなさい。」と、平助じいさんは親切に看病してやったが、彼の病気はいよいよ重くなって行くらしかった。
 渡し場へ出られなくなってから、座頭は平助にたのんで毎日一尾(ぴき)ずつの生きた魚を買って来てもらった。冬から春にかけては、ここらの水も枯れて川魚も捕れない。海に遠いところであるから、生きた海魚などはなおさら少ない。それでも平助は毎日さがしてあるいて、生きた鯉や鮒や鰻などを買ってくると、座頭はかの針をとり出して一尾ずつにその眼を貫いて捨てた。殺してしまえば用はない、あとは勝手に煮るとも焼くともしてくれと言ったが、座頭の執念のこもっているようなその魚を平助はどうも食う気にはなれないので、いつもそれを眼の前の川へ投げ込んでしまった。
 一日に一尾、生きた魚の眼を突き潰しているばかりでなく、さらに平助をおどろかしたのは、座頭がその魚を買う代金として五枚の小判を彼に渡したことである。午飯(ひるめし)に握り飯一つを貰っていた頃には、毎日一文ずつの代を支払っていたが、小屋に寝起きをするようになってからは、平助と一つ鍋で三度の飯を食っていながら、座頭は一文の金をも払わなくなった。勿論、平助の方でも催促しなかった。座頭は今になってそれを言い出して、お前さんにはたくさんの借りがある。ついてはわたしの生きているあいだはこの金で魚を買って、残った分は今までの食料として受取ってくれと言った。あしかけ二年の食料といったところで知れたものである。それに対して五枚の小判を渡されて、平助は胆(きも)をつぶしたが、ともかくもその言う通りにあずかっておくと、座頭は半月ばかりの後にいよいよ弱り果てて、きょうかあすかという危篤の容体になった。
 旧暦の二月、あしたは彼岸の入りというのに、ことしの春の寒さは身にこたえて、朝から吹き続けている赤城(あかぎ)颪(おろし)は、午過ぎから細かい雪さえも運び出して来た。時候はずれの寒さが病人に障ることを恐れて、平助は例よりも炉の火を強く焚いた。渡しが止まって、ほかの船頭どもは早々に引揚げてしまうと、春の日もやがて暮れかかって、雪はさのみにも降らないが、風はいよいよ強くなった。それが時々にごうごうと吼(ほ)えるように吹きよせて来ると、古い小屋は地震のようにぐらぐらと揺れた。
 その小屋の隅に寝ている座頭は弱い声で言った。
「風が吹きますね。」
「毎日吹くので困るよ。」と、平助は炉の火で病人の薬を煎じながら言った。「おまけに今日はすこし雪が降る。どうも不順な陽気だから、お前さんなんぞは尚さら気をつけなければいけないぞ。」
「ああ、雪が降りますか。雪が……。」と、座頭は溜息をついた。「気をつけるまでもなく、わたしはもうお別れです。」
「そんな弱いことを言ってはいけない。もう少し持ちこたえれば陽気もきっと春めいて来る。暖かにさえなれば、お前さんのからだも、自然に癒るにきまっている。せいぜい今月いっぱいの辛抱だよ。」
「いえ、なんと言って下すっても、わたしの寿命はもう尽きています。しょせん癒るはずはありません。どういう御縁か、お前さんにはいろいろのお世話になりました。つきましては、わたしの死にぎわに少し聴いておいてもらいたいことがあるのですが……。」
「まあ、待ちなさい。薬がもう出来た時分だ。これを飲んでからゆっくり話しなさい。」
 平助に薬をのませてもらって、座頭は風の音に耳をかたむけた。
「雪はまだ降っていますか。」
「降っているようだよ。」と、平助は戸の隙間から暗い表をのぞきながら答えた。
「雪のふるたびに、むかしのことがひとしお身にしみて思い出されます。」と、座頭はしずかに話し出した。
「今まで自分の名をいったこともありませんでしたが、わたしは治平といって、以前は奥州筋のある藩中に若党(わかとう)奉公をしていた者です。わたしがここヘ来たのは三十一の年で、それから足かけ五年、今年は三十五になりますが、今から十三年前、わたしが二十二の春、やはり雪の降った寒い日にこの両方の眼をなくしてしまったのです。わたしの主人は野村彦右衛門と云って、その藩中でも百八十石取りの相当な侍で、そのときは二十七歳、御新造(ごしんぞ)はお徳さんといって、わたしと同年の二十二でした。御新造は容貌(きりょう)自慢……いや、まったく自慢してもいくらいの容貌よしで、武家の御新造としてはちっと派手過ぎるという評判でしたが、御新造はそんなことに頓着なく、子供のないのを幸いにせいぜい派手に粧(つく)っていました。その美しい女振りを一つ屋敷で朝に晩に見ているうちに、わたしにも抑え切れない煩悩(ぼんのう)が起りました。相手は人妻、しかも主人、とてもどうにもならないことは判り切っているのですが、それがどうしても思い切れないので、自分でも気がおかしくなったのではないかと思われるように、ただ無暗にいらいらして日を送っていると、忘れもしない正月の二十七日、この春は奥州にめずらしく暖かい日がつづいたのですが、前の晩から大雪がふり出してたちまちに二尺ほども積ってしまいました。雪国ですから雪に驚くこともありません。ただそのままにしておいてもよいのですが、せめて縁さきに近いところだけでも掃きよせておこうと思って、わたしは箒(ほうき)を持って庭へ出ると、御新造はこの雪で持病の癪気(しゃくけ)が起ったということで、六畳の居間で炬燵(こたつ)にあたっていましたが、わたしの箒の音をきいて縁さきの雨戸をあけて、どうで積もると決まっているものをわざわざ掃くのは無駄だからやめろというのです。それだけならばよかったのですが、さぞ寒いだろう、ここヘ来て炬燵にあたれと言ってくれました。相手は冗談半分に言ったのでしょうが、それを聞いてわたしは無暗に嬉しくなりまして、からだの雪を払いながら半分は夢中で縁側へあがりました。灰のような雪が吹き込むので、すぐに雨戸をしめて炬燵のそばへはいり込むと、御新造はわたしの無作法に呆れたようにただ黙ってながめていました。まったくその時にはわたしも気が違っていたのでしょう。」
 死にかかっている座頭の口から、こんな色めいた話を聞かされて、平助じいさんも意外に思った。

     三

 座頭はまた語りつづけた。
「わたしはこの途(ず)を外してはならないと思って、ふだんから思っていることを一度にみんな言ってしまいました。家来に口説かれて、御新造はいよいよ呆れたのかも知れません。やはり何にも言わずに坐っているので、わたしは焦れ込んでその手を捉えようとすると、御新造は初めて声を立てました。その声を聞きつけて、ほかの者も駈けて来て、有無(うむ)をいわさずに私を縛りあげて、庭の立木につないでしまいました。両手をくくられて、雪のなかにさらされて、所詮(しょせん)わが命はないものと覚悟していると、やがて主人は城から退(さが)って来ました。主人は子細を聞いて、わたしを縁先へ引出させて、貴様のような奴を成敗するのは刀の汚れだから免(ゆる)してやるが、左様な不埒な料簡をおこすというのも、畢竟(ひっきょう)はその眼が見えるからだ。今後再び心得違いをいたさぬように貴様の眼だまをつぶしてやると言って、小柄(こづか)をぬいてわたしの両方の眼を突き刺しました。」
 今もその眼から血のなみだが流れ出すように、座頭は痩せた指で両方の眼をおさえた。平助もこのむごたらしい仕置(しおき)に身ぶるいして、自分の眼にも刃物を刺されたように痛んで来た。かれは溜息をつきながら訊いた。
「それからどうしなすった。」
「にわか盲にされて放逐されて、わたしは城下の親類の家へ引渡されました。命には別条なく、疵の療治も済みましたが、にわか盲ではどうすることも出来ません。宇都宮に知りびとがあるので、そこへ頼って行って按摩の弟子になりまして、それからまた江戸へ出て、ある検校(けんぎょう)の弟子になりました。二十二の春から三十一の年まで足かけ十年、そのあいだに一日でも仇(かたき)のことを忘れたことはありませんでした。仇は元の主人の野村彦右衛門。いっそ一と思いに成敗するならば格別、こんなむごたらしい仕置をして、人間ひとりを一生の不具者にしたかと思うと、どうしてもその仇を取らなければならない。といって、相手は立派な侍で、武芸も人並以上にすぐれていることを知っていますから、眼のみえない私が仇を取るにはどうしたらよいか、いろいろ考え抜いた揚句に、思いついたのが針でした。宇都宮でも江戸でも針の稽古をしていましたから、その針の太いのをこしらえておいて、不意に飛びかかってその眼玉を突く。そう決めてから、暇(ひま)さえあれば針で物を突く稽古をしていると、人の一心はおそろしいもので、しまいには一本の松葉でさえも狙いをはずさずに突き刺すようになりましたが、さて今度はその相手に近寄る手だてに困りました。彦右衛門は屋敷の用向きで江戸と国許のあいだをたびたび往復することを知っていましたので、この渡し場に待っていて、船に乗るか、船から降りるか、そこを狙って本意を遂げようと、師匠の検校には国へ帰るといって暇を貰いまして、ここヘ来ましてから足かけ五年、毎日根気よく渡し場へ出て行って、上(のぼ)り下(くだ)りの旅人を一々にあらためていましたが、野村とも彦右衛門ともいう者にどうしても出逢わないうちに、自分の命が終ることになりました。いや、こんなことは自分の胸ひとつに納めておけばよいのですが、誰かに一度は話しておきたいような気もしましたので、とんだ長話をしてしまいました。かえすがえすもお前さんには御世話になりました。あらためてお礼を申します。」
 言うだけのことを言ってしまって、彼はにわかに疲労したらく、そのまま横向きになって木枕に顔を押し付けた。平助も黙って自分の寝床にはいった。
 夜半から雪もやみ、風もだんだんに吹きやんで、この一軒家をおどろかすものもなかった。利根の川水も凍ったように、流れの音を立てなかった。
 河原の朝は早く明けて、平助はいつもの通りに眼をさますと、病人はしずかに眠っているらしかった。あまり静かなので、すこし不安に思って覗いてみると、座頭はかの針で自分の頸(くび)すじを突いていた。多年その道の修業を積んでいるので、彼は脈どころの急所を知っていたらしく、ただ一本の針で安々と死んでいるのであった。

 他の船頭どもにも手伝ってもらって、平助は座頭の死骸を近所の寺へ葬った。勿論、かの針も一緒にうずめた。平助は正直者であるので、座頭が形見の小判五枚には手を触れず、すべて永代(えいたい)の回向(えこう)料としてその寺に納めてしまった。
 それから六年、かの座頭がこの渡し場に初めてその姿をあらわしてから十一年目の秋である。八月の末に霖雨(りんう)が降りつづいたので、利根川は出水して沿岸の村々はみな浸された。平助の小屋も押し流された。それがために房川の船渡しは十日あまりも止っていたが、九月になって秋晴れの日がつづいたので、ようやくに船を出すことになると、両岸の栗橋と古河とにつかえていた上り下りの旅人は川のあくのを待ちかねて、さきを争って一度に乗り出した。
「あぶねえぞ、気をつけろよ。水はまだほんとに引いていねえのに、どの船もみんないっぱいだからな。」
 平助じいさんは岸に立ってしきりに注意していると、古河の方から漕ぎ出した一捜の船はまだ幾間も進まないうちに、強い横浪のあおりをうけて、あれという間に転覆した。平助のいう通り水はまだほんとうに引いていないので、船頭どものほかにも村々の若い者らが用心のために出張(でば)っていたので、それを見ると皆ばらばらと飛び込んで、あわや溺れそうな人々を見あたり次第に救い出して、もとの岸へかつぎあげた。手当を加えられて、どの人もみな正気にかえったが、そのなかでただひとりの侍はどうしても生きなかった。身なりも卑しくない四十五六の男で、ふたりの供を連れていた。
 供の者はいずれも無事で、その二人の口から、かの溺死者の身の上が説明された。かれは奥州の或る藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかかって、この頃ではほとんど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へのぼる途中、ここで測らずも禍(わざわ)いに逢ったのである。盲目同様であるから、道中は駕籠に乗せられて、ふたりの家来にたすけられて来たのであるが、この場合、相当に水練の心得もあるはずの彼がどうして自分ひとり溺死したかと、家来も怪しむように語った。
 それとはまたすこし違った意味で、平助じいさんは彼の死を怪しんだ。ほかの乗合いがみんな救われた中で、野村彦右衛門という盲目の侍だけがどうして溺れ死んだか、それを思うと、平助はまたにわかにぞっとした。彼は供の家来にむかって、このお方には奥さまがあるかとひそかに訊くと、御新造さまは遠いむかしに御離縁になったと答えた。いつの頃にどういうことで離縁になったのか、そこまでは平助も押して訊くわけにはいかなかった。
 旅先のことであるから、家来どもは主人のなきがらを火葬にして、遺骨を国許へ持ち帰ると言っていた。平助は近所の寺へまいって、かの座頭の墓にあき草の花をそなえて帰った。
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   兄妹(きょうだい)の魂(たましい)


     一

 第三の男は語る。

 これは僕自身が逢着(ほうちゃく)した一種奇怪の出来事であるから、そのつもりで聴いてくれたまえ。僕の友だちの赤座という男の話だ。
 赤座は名を朔郎といって、僕と同時に学校を出た男だ。卒業の後は東京で働くつもりであったが、卒業の半年ほど前に郷里の父が突然死んだので、彼はどうしても郷里へ帰って、実家の仕事を引嗣がなければならない事情ができて、学校を出るとすぐに郷里へ帰った。赤座の郷里は越後のある小さい町で、彼の父は○○教の講師というものを勤めていて、その支社にあつまって来る信徒たちに向ってその教義を講釈していたのであった。○○教の組織は僕もよく知らない。素人の彼が突然に郷里へ帰ってすぐに父の跡目を受嗣ぐことが出来るものかどうか、その辺の事情はくわしく判らなかったが、ともかくも彼が郷里へ帰ってから僕のところへよこした手紙によると、彼はとどこおりなく父のあとを襲って、○○教の講師というものになったらしい。
 もっとも、彼は僕とおなじく文科の出身で、そういう家の伜だけに、ふだんから宗教についても相当の研究を積んでいたらしいから、まず故障なしに父の跡目相続が出来たのであろう。しかし彼はその仕事をあまり好んでいないらしく、仲のいい友だち七、八人が催した送別会の席上でも、どうしても一旦は帰らなければならない面倒な事情を話して、しきりに不平や愚痴をならべていた。
「なに、二、三年のうちに何とか解決をつけて、また出て来るよ。雪のなかに一生うずめられて堪るものか。」
 こんなことを彼は言っていた。郷里へ帰った後もわれわれのところヘ、手紙をしばしばよこして、いろいろの事情から容易に現在の職をなげうつことが出来ないなどと、ひどく悲観したようなことを書いて来た。
 赤座の実家には老母と妹がある。このふたりの女は無論に○○教の信仰者で、右ひだりから無理に彼をおさえつけて、どうしてもその職を去ることを許さないらしい。それに対して、彼にも非常の煩悶(はんもん)があったらしく、こんなことなら、なんのために生きているのか判らない。いっそ自分のあずかっている社(やしろ)に火をつけて、自分も一緒に焼け死んでしまった方がましかも知れないなどと、ずいぶん過激なことを書いてよこしたこともあったように記憶している。送別会に列席した七、八人の友だちも職業や家庭の事情で皆それぞれに諸方へ散ってしまって、依然東京に居残っているものは村野という男と僕とたった二人、しかも村野はひどく筆不精(ぶしょう)な質(たち)で、赤座の手紙に対して三度に一度ぐらいしか返事をやらないので、自然に双方のあいだが疎(うと)くなって、しまいまで彼と手紙の往復をつづけているものは僕一人であったらしい。
 赤座の手紙は、毎月一度ぐらいずつ必ず僕の手にとどいた。僕もその都度(つど)にかならず返事をかいてやった。こうして二年ほどつづいている間に、彼の心機はどう転換したものか、自分が現在の境遇に対して不満を訴えることが、だんだんに少なくなった。しまいには愚痴らしいことは一と言もいわず、むしろその教えのために自分の一生涯をささげようと決心しているらしくも思われた。○○教というのはどんな宗教か知らないが、ともかくも彼がその信仰によって生きることが出来れば幸いであると、僕もひそかによろこんでいた。
 彼が郷里へ帰ってから三年目に母は死んだ。その後も妹と二人暮らしで、支社につづいた社宅のような家に住んでいることを僕は知っていた。それからまた二年目の三月に、彼は妹を連れて上京した。勿論、それは突然なことではなく、来年の春は教社の用向きでぜひ上京する。妹もまだ一度も東京を知らないから、見物ながら一緒につれてゆくということは、前の年の末から前触れがあったので、僕は心待ちに待っていると、果して三月の末に赤座の兄妹(きょうだい)は越後から出て来た。汽車の着く時間はわかっていたので、僕は上野まで出迎えにゆくと、彼が昔とちっとも変っていないのにまずおどろかされた。
 ○○教の講師を幾年も勤めているというのであるから、定めて行者(ぎょうじゃ)かなんぞのように、長い髪でも垂れているのか、髯(ひげ)でもぼうぼうと生やしているのか、冠のような帽子でもかぶっているのか、白い袴でも穿いているのか。――そんな想像はみんなはずれて、彼はむかし通りの五分刈り頭で、田舎仕立てながらも背広の新しい洋服を着て、どこにも変った点はちっとも見いだされなかった。ただ鼻の下にうすい髯(ひげ)をたくわえたのが少しく彼をもったいらしく見せているだけで、彼はやはり学生時代とおなじように若々しい顔の持主であった。
「やあ。」
「やあ。」
 こんな簡単な挨拶が交換された後に、彼は自分のそばに立っている小柄の娘を僕に紹介した。それが彼の妹の伊佐子というので、年は十九であるそうだが、いかにも雪国の女を代表したような色白のむすめで、可愛らしい小さい眼と細い眉とをもっていた。
「いい妹さんだね。」
「むむ。母がいなくなってから、家(うち)のことはみんな此女(これ)に頼んでいるんだ。」と、赤座はにこにこしながら言った。
 一緒に電車に乗って僕の家まで来るあいだにも、この兄妹が特別の親しみをもっているらしいことは僕にもよく想像された。それから約一ヵ月も僕の家に滞在して、教社の用向きや東京見物に春の日を暮らしていたが、たしか四月の十日と記憶している。僕は兄妹を誘って向島の花見に出かけると、それほどの強い降りでもなかったが、その途中から俄雨に出逢ったので、よんどころなしに或る料理屋へ飛び込んで、二時間ばかり雨やみを待っているあいだに、赤座は妹の身の上についてこんなことを話した。
「こんな者でも相応なところから嫁に貰いたいと申込んで来るが、何しろ此女(これ)がいなくなると僕が困るからね。この女(こ)も僕の家内がきまるまでは他へ縁付かないと言っている。ところで、僕の家内というのがまたちょっと見つからない。
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