綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

 若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉(ろうぜき)たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙(つつが)なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みにかぞえてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子(なでしこ)、石竹(せきちく)、桔梗、矢車草、風露草(ふうろそう)、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀(くじゃく)草、黄蜀葵(おうしょつき)、女郎花(おみなえし)、男郎花(おとこえし)、秋海棠(しゅうかいどう)、水引、鶏頭、葉鶏頭、白粉(おしろい)、鳳仙花、紫苑、萩、芒(すすき)、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――まずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上(のぼ)っているのもあるから、いかによく整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩(おお)い重なって、歌によむ「八重葎(やえむぐら)しげれる宿」と云いそうな姿である。
 そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀(もくせい)、山茶花(さざんか)、八つ手、躑躅(つつじ)、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへよくも栽え込んだものだな。」と、わたしは自分ながら感心した。
 狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅かに無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
 わたしの家ばかりでなく、近所の住居といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、白まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれは斯うして救われるのほかはないのであろうか。
 わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引きの電車がひびく。夜は十二時半頃まで各方面からのぼって来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力(ばりき)である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上にいっそう強く響いて来るのである。
 病中不眠勝ちのわたしは此の頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだよい。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそりと鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、ガタガタといい、ガラガラという響きを立てて、ほとんど絶え間も無しに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊に馬力は速力が遅く、且(かつ)は幾台もつながって通るので、枕にひびいている時間が長い。
 病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃(すいみつとう)や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市(あさいち)に間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、ないし十余台もつながって行くのは、途中で奪われない用心であると云う。いずれにしても、それが此の頃のわたしを悩ますことはひと通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口にはいるか。」
 私は寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里(パリ)に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄(もや)が一面にとざしている大きい並木の街(まち)に、馬の鈴の音(ね)がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。その以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
 おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立(いらだ)たせるばかりである。

     雁と蝙蝠

 七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用(どよう)に入ってから最も涼しい日であった。昼のうちは陰っていたが、宵には薄月(うすづき)のひかりが洩れて、涼しい夜風がすだれ越しにそよそよと枕元へ流れ込んで来る。
 病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮らしているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は涼しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳(かや)を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸し暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶えだえになった頃から少しうとうとして、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗がにじんでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇(うちわ)を使っていると、トタン葺(ぶ)きの家根に雨の音がはらはらと聞える。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
 それは雁(がん)の鳴く声で、お堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。お堀に雁の群れが降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群れに離れた孤雁(こがん)が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかにふた声三声つづけて叫んだ。
 しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛(う)かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺きやトタン葺きの家根も見えなかった。家根といえば瓦葺きか板葺きである。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸(ようや)く薄れて来るころに、幾羽の雁の群れが列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷(ちまた)に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄(こうがい)取らしょ。」
 わたしも大きい口をあいて呼んだ。雁の行(つら)は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵(ふくへい)ありとでも思うのか、前列後列が俄かに行を乱して翔(かけ)りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍(う)って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群れが遠くなるまで見送りながら立ち尽くしていると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
 秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀(まれ)になった。まして往来のまんなかに突っ立って、「笄取らしょ。」などと声を嗄(か)らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
 雁で思い出したが、蝙蝠(こうもり)も夏の宵の景物の一つであった。
 江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸(かし)をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのがほとんど紋切り型のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中にはたくさん棲んでいたそうで、外国やシナの話にもあるように、化け物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年古(ふ)る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話が幾らも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生き血を吸うのであるから、一種の吸血鬼と云ってもよい。相馬(そうま)の古御所(ふるごしょ)の破れた翠簾(すいれん)の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるもので、昔の画家の働きである。
 しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいものと見なされている。私たちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
 夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙りが仄白(ほのじろ)く流れ出て、家の前には涼み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは街(まち)を横切り、あるいは軒端(のきば)を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名(いみょう)の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒(さんしょ)食わしょ。」

 前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひらと軽く飛び去って、容易に打ち落すことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋(どろわらじ)を投げるがよいと云うことになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓(くつ)を拾って来て、「こうもり来い。」と呼びながら投げ付ける。うまくあたって地に落ちて来ることもあるが、又すぐに飛び揚がってしまって、十(とお)に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところで、どうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
 その泥草鞋があやまって、往来の人に打ちあたる場合も少なくない。白地の帷子(かたびら)を着た紳士の胸や、白粉(おしろい)をつけた娘の横面(よこづら)などへ泥草鞋がぽんと飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明らかに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡(まわ)りさんは別にそれを咎(とが)めなかったので、私たちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
 街路樹に柳を栽えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はいない。
 こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでも云いそうな響きを立てて、深夜の町を軋(きし)って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車(かたわぐるま)の怪談を、私は思い出した。

     停車場の趣味

 以前は人形や玩具(おもちゃ)に趣味をもって、新古東西の瓦楽多(がらくた)をかなりに蒐集していたが、震災にその全部を灰にしてしまってから、再び蒐集するほどの元気もなくなった。殊に人形や玩具については、これまで新聞雑誌に再三書いたこともあるから、今度は更に他の方面について少しく語りたい。
 これは果たして趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかく私は汽車の停車場というものに就いてすこぶる興味をもっている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
 そんな理窟はしばらく措(お)いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、ひと列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗り降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。そういう停車場はすぐに人家のある町や村へつづいていない所もある。降りても人力車(くるま)一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲きみだれている。小さい建物、大きい桜、その上を越えて遠い近い山々が青く霞(かす)んでみえる。停車場のわきには粗末な竹垣などが結ってあって、汽車のひびきに馴れている鶏が平気で垣をくぐって出たりはいったりしている。駅員が慰み半分に作っているらしい小さい菜畑なども見える。
 夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅(さるすべり)や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅(まっか)に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒(すすき)の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重(ひろしげ)が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿をいちいち写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。
 停車場はその土地の象徴であると、わたしは前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致(ふうち)にすこぶる注意を払っているらしいのもあるが、その注意があまりに人工的になって、わざとらしく曲がりくねった松を栽えたり、檜葉(ひば)をまん丸く刈り込んだりしてあるのは、折角ながら却っておもしろくない。やはり周囲の野趣(やしゅ)をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない。汽車そのものが文明的の交通機関であるからと云って、停車場の風致までを生半可(なまはんか)な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
 大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見いだせないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうして、そこには単なる混雑以外に一種の活気が見いだされる。汽車に乗る人、降りる人、かならずしも活気のある人たちばかりでもあるまい。親や友達の死を聞いて帰る人もあろう。自分の病いのために帰郷する人もあろう。地方で失敗して都会へ職業を求めに来た人もあろう。千差万別、もとより一概には云えないのであるが、その人たちが大きい停車場の混雑した空気につつまれた時、たれもかれも一種の活気を帯びた人のように見られる。単に、あわただしいと云ってしまえばそれ迄であるが、わたしはその間に生き生きした気分を感じて、いつも愉快に思う。
 汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛のひびきが遠く消えて、見送りの人々などが静かに帰ってゆく。その寂しいような心持もまたわるくない。
 わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしには余り面白くない中くらいのところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤(どて)の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少なくなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。(大正15・8「時事新報」)[#改ページ]


私の机


 ある雑誌社から「あなたの机は」という問合せが来たので、こんな返事をかいて送る。
 天神机――今はあと方もなくなってしまいましたが、私が子供の時代には、まだそれが一般に行なわれていて、手習いをする子は皆それに向かったものです。わたしもその一人でした。今でも「寺子屋」の芝居をみると、何だか昔がなつかしいように思われます。
 これも今はあまり流行(はや)らないようですが、以前は普通に用いる机は桐材が一番よいと云う事になっていました。木肌(きはだ)が柔らかなので、倚りかかる場合その他にも手当りが柔らかでよいと云うのでした。その代りに疵(きず)が付き易い。文鎮をおとしてもすぐに疵が付くというわけですから、少し不注意に取扱うと疵だらけになる。それが桐材の欠点で、自然にすたれて来たのでしょう。それから一閑張(いっかんば)りの机が一時は流行しました。それも柔らかでよいのと、軽くてよいのと、値段が割合に高くないのとで、一時は非常に持て囃(はや)されましたが、何分にも紙を貼ったものであるから傷み易い。水などを零(こぼ)すと、すぐにぶくぶくと膨(ふく)れる。そんな欠点があるので、これもやがて廃(すた)れました。それでもまだ小机やチャブ台用としては幾分か残っているようです。
 わたしは十五のときに一円五十銭で買った桐の机を多年使用していました。下宿屋を二、三度持ちあるいたり、三、四度も転居したりしたので、ほとんど完膚(かんぷ)なしと云うほどに疵だらけになっていましたが、それが使い馴れていて工合(ぐあい)がよいので、ついそのままに使いつづけていました。しかし十五の時に買った机ですから少し小さいのが何分不便で、大きな本など拡げる場合には、机の上をいちいち片付けてかからなければならない。とうとう我慢が出来なくなって、大正十二年の春、近所の家具屋に註文して大きい机を作らせました。木材はなんでもよいと云ったら、□(せん)で作って来たので、非常に重い上に実用専一のすこぶる殺風景なものが出来あがりました。その代り、机の上が俄かに広くなったので、仕事をするときに参考書などを幾冊も拡げて置くには便利になった。
 さりとて、三十七、八年も親しんでいた古机を古道具屋の手にわたすにも忍びないので、そのまま戸棚の奥に押し込んで置くと、その年の九月が例の震災で、新旧の机とも灰となってしまいました。新の方に未練はなかったが、旧の方は久しい友達で、若いときからその机の上でいろいろのものを書いた思い出――誰でもそうであろうが、取り分けわれわれのような者は机というものに対していろいろの思い出が多いので、それが灰になってしまったと云うことは、かなりに私のこころを寂しくさせました。
 震災の後、目白の額田六福の家に立ち退いているあいだは、そこの小机を借りて使っていましたが、十月になって麻布へ移転する時、何を措(お)いても机はすぐに入用であるので、高田の四つ家町(まち)へ行って家具屋をあさり歩きました。勿論、その当時のことであるから択り好みは云っていられない。なんでも机の形をしていれば好(よ)いぐらいの考えで、十二円五十銭の机を買って来た。これも材質は□で、それにラックスを塗ったもので、すこぶる頑丈に出来ているのです。もう少し体裁のよいのもあったのですが、私は背が高いので机の脚も高くなければ困る。そういう都合で、脚の高いのを取得(とりえ)に先ずそれを買い込んで、そのまま今日まで使っているわけです。その後にいくらか優(ま)しの机を見つけないでもありませんが、震災以来、三度も居所を変えて、いまだに仮越しの不安定の生活をつづけているのですから、震災記念の安机が丁度相当かとも思って、現にこの原稿もその机の上で書いているような次第です。
 わたしは近眼のせいもありましょうが、机は明るいところに据えなければ、読むことも書くことも出来ません。光線の強いのを嫌う人もありますが、わたしは薄暗いようなところでは何だか頼りないような気がして落着かれません。それですから、一日のうちに幾度も机の位置をかえることがあります。したがって、余りに重い机は持ち運ぶに困るのですが、机にむかった感じを云えば、どうも重くて大きい方がドッシリとして落着かれるようです。チャブ台の上などで原稿をかく人がありますが、私には全然できません。それがために、旅行などをして困ることがあります。
 もう一つ、これは年来の習慣でしょうが、わたしは自宅にいる場合、飯を食うときのほかは机の前を離れたことはほとんどありません。読書するとか原稿を書くとか云うのでなく、ただぼんやりとしているときでも必ず机の前に坐っています。鳥で云えば一種の止まり木とでも云うのでしょう。机の前を離れると、なんだかぐら付いているようで、自分のからだを持て余してしまうのです。妙な習慣が付いたものです。(大正14・9「婦人公論」)[#改ページ]


読書雑感


 なんと云っても此の頃は読書子に取っては恵まれた時代である。円本は勿論、改造文庫、岩波文庫、春陽堂文庫のたぐい、二十銭か三十銭で自分の読みたい本が自由に読まれるというのは、どう考えても有難いことである。
 趣味から云えば、廉価版の安っぽい書物は感じが悪いという。それも一応は尤(もっと)もであるが、読書趣味の普及された時代、本を読みたくても金が無いという人々に取っては、廉価版は確かに必要である。また、著者としても、豪華版を作って少数の人に読まれるよりも、廉価版を作って多数の人に読まれた方がよい。五百人六百人に読まれるよりも、一万人二万人に読まれた方が、著者としては本懐でなければならない。
 それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確かに恵まれていると思う。わたしは明治五年の生まれで、十七、八歳すなわち明治二十一、二年頃から、三十歳前後すなわち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃にはもちろん廉価版などというものは無い。第一に古書の翻刻が甚だ少ない。
 したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋(たず)ねなければならない。
 その原本は少ない上に、価(あたい)も廉(やす)くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛(みかわやきゅうべえ))という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
 私にかぎらず、原本は容易に獲(え)られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行なわれた。蔵書家に就いてその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜(ひょうぼう)している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませてやるが、貸出しはいっさい断わるというのである。そうなると、その家を訪問して読ませて貰うのほかは無い。
 日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費(ついや)してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少ないことになるにはすこぶる困った。
 なにしろ馴染(なじ)みの浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家と云っても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々(ろくろく)に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを食わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
 そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前に云うような冷遇と優待を受けながら、根(こん)よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜書きをすることもある。万年筆などの無い時代であるから、矢立(やたて)と罫紙(けいし)を持参で出かける。そうした思い出のある抜書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
 そういう時代に、博文館から日本文字全書、温知(おんち)叢書、帝国文庫などの翻刻物を出してくれたのは、われわれに取って一種の福音(ふくいん)であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見いだされなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けて置かれるというだけでも、確かに有難いことであった。
 その後、古書の翻刻も続々行なわれ、わたしの懐ろにも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀(そうてい)などには余り重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
 前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日(こんにち)では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であると云わなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきでは無い。
 博文館以外にも、その当時に古書を翻刻してくれた人々は、その目的が那辺(なへん)にあろうとも、われわれに取ってはみな忘れ難い恩人であった。その人々も今は大かた此の世にいないであろう。その書物も次第に堙滅(いんめつ)して、今は古本屋の店頭にもその形をとどめなくなった。私もその翻刻書類を随分蒐集していたが、それもみな震災の犠牲になってしまったのは残り惜しい。
 わたしは比較的に好運の人間で、これまでに余りひどい目に逢ったことも無かったが、震災のために、多年の日記、雑記帳、原稿のたぐいから蔵書一切を焼き失ったのは、一生一度の償(つぐな)い難き災禍であった。この恨みは綿々として尽きない。(昭和8・3「書物展望」)[#改ページ]


回想・半七捕物帳


     捕物帳の成り立ち

 初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然(ゆうぜん)と湧(わ)き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論(もちろん)、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
 しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を獲(あさ)って、かのラスト・ギャリーや、グリーン・フラダや、爐畔(ろはん)物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取(はかど)らず、最初からでは約ひと月を費(ついや)して、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終りました。
 そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞(おそ)れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。
 その年の六月三日から、まず「お文(ふみ)の魂(たましい)」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文芸倶楽部の編集主任をしていた森暁紅(ぎょうこう)君から何か連載物を寄稿しろという注文があったので、「半七捕物帳」という題名の下(もと)にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化(ばけ)師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。
 そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
 半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚(はなは)だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
 前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。(昭和2・8「文芸倶楽部」)
     半七招介状

 明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(そうざい)(岡田)へ午飯(ひるめし)を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
 その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠(まちどお)さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来(こ)ない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利(とくり)を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口(ちょこ)をなめている形である。
 花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々(そうぞう)しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向(いっこう)いけません。この徳利(とっくり)も退屈しのぎに列(なら)べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸(げこ)はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役(かたきやく)で、白塗りの色男はみんな素面(しらふ)ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
 こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩(や)せぎすの中背(ちゅうぜい)で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛(まぎ)れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊(き)いた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
 だんだん話しているうちに、この老人は文政(ぶんせい)六年未年(ひつじどし)の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体(からだ)に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰(ばち)が中(あた)る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
 話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見日和(びより)は珍らしい。わたくしはこれから向島(むこうじま)へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
 二人は吾妻橋(あづまばし)を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢(おご)ってくれる積りらしく、老人は言問団子(ことといだんご)に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若(うめわか)まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄りのお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ。」
 長い堤(つつみ)を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴(やっこ)うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕飯を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄(もや)のなかに沈んでいた。
「さあ、入相(いりあい)がボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
「いいえ、わたしも真直(まっす)ぐに帰ります。」
 老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前(もんぜきまえ)から相乗りの人力車に乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
 言問では団子の馳走になり、奴では鰻の馳走になり、帰りの車代も老人に払わせたのであるから、若い記者はそのままでは済まされないと思って、次の日曜に心ばかりの手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であった。先日聞いておいた番地をたよりに、尋ねたずねて行き着くと、庭は相当に広いが、四間(よま)ばかりの小さな家に、老人は老婢(ばあや)と二人で閑静に暮らしているのであった。
「やあ、よくおいでなすった。こんな処は堀の内のお祖師(そし)さまへでも行く時のほかは、あんまり用のない所で……。」と、老人は喜んで記者を迎えてくれた。
 それが縁となって、記者はしばしばこの老人の家を尋ねることになった。老人は若い記者にむかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らしているらしい。江戸時代には建具屋を商売にしていたと、自分では説明していたが、その過去に就いては多く語らなかった。
 老人の友達のうちに町奉行所の捕方(とりかた)すなわち岡っ引の一人があったので、それからいろいろの捕物の話を聞かされたと云うのである。
「これは受け売りですよ。」
 こう断わって、老人は「半七捕物帳」の材料を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
 老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃(ふ)を知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然(はっきり)と答え得ないのは右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
 但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。(昭和11・8「サンデー毎日」)[#改ページ]


歯なしの話


 七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄かに痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
 九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
 わたしの母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅でも何でもバリバリと齧(かじ)った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦しめられて、上下に幾枚の義歯を嵌(は)め込んでいた。その義歯は柘植(つげ)の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯(むしば)の患者であった。
 思えば六十余年の間、私はむし歯のために如何ばかり苦しめられたかわからない。むし歯は自然に抜けたのもあり、医師の手によって抜かれたのもあり、年々に脱落して、現在あます所は上歯二枚と下歯六枚、他はことごとく入歯である。その上歯二枚が一度に抜けたのであるから、上頤(うわあご)は完全に歯なしとなって、総入歯のほかはない。
 世に総入歯の人はいくらもある。現にわたしの親戚知人のうちにも幾人かを見いだすのであるが、たとい一枚でも二枚でも自分の生歯があって、それに義歯を取付けているうちは、いささか気丈夫であるが、それがことごとく失われたとなると、一種の寂寥(せきりょう)を覚えずにはいられない。大きくいえば、部下全滅の将軍と同様の感がある。
 馬琴(ばきん)も歯が悪かった。「里見八犬伝」の終りに記されたのによると、「逆上(のぼぜ)口痛の患ひ起りしより、年五十に至りては、歯はみな年々にぬけて一枚もあらずなりぬ」とある。馬琴はその原因を読書執筆の過労に帰しているが、単に過労のためばかりでなく、生来が歯質の弱い人であったものと察せられる。五十にして総入歯になった江戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるのほかはない。殊に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生まれ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種の寂寥の感は消えない。
 私をさんざん苦しめた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数(かず)かず、その脱落の歴史については、また数かずの思い出がある。それをいちいち語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
 北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦(よみがえ)って来るのである。
 明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房(ターシーファン)という村に移って、劉という家の一室に止宿していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこにひと月ほどを送った。
 先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日を云い得ないが、なんでも九月二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこしながらはいって来て、今夜は中秋(ちゅうしゅう)であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
 山中ばかりでなく、陣中にも暦日(れきじつ)がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、まず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを持ち構えていた。
 きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申し分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人もあったが、うそか本当か判らない。いずれにしても、銀盤とか玉盤とか形容するよりも、銅盤とか銅鏡とかいう方が当っているらしい。それが高く闊(ひろ)い碧空に大きく輝いているのである。
 この家の主人夫婦、男の児、女の児、主人の弟、そのほかに幾人の雇人らが袖をつらねて門前に出た。彼らは形を正して、その月を拝していた。それから私たちを母屋(おもや)へ招じ入れて、中秋の宴を開くことになったが、案の如くに種々の御馳走が出た。豚、羊、鶏、魚、野菜のたぐい、あわせて十種ほどの鉢や皿が順々に運び出されて、私たちは大いに満腹した。そうしてお世辞半分に「好々的(ホーホーデー)」などと叫んだ。
 宴会は八時半頃に終って、私たちは愉快にこの席を辞して去った。中には酩酊して、自分たちの室(へや)へ帰ると直ぐに高鼾(たかいびき)で寝てしまった者もあった。あるいは満腹だから少し散歩して来るという者もあった。私も容易に眠られなかった。それは満腹のためばかりでなく、右の奥の下歯が俄かに痛み出したのである。久し振りで種々の御馳走にあずかって、いわゆる餓虎(がこ)の肉を争うが如く、遠慮もお辞儀もなしに貪(むさぼ)り食らった祟(たた)りが忽ちにあらわれ来たったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持ち合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
 歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたらよいかも知れないと思って、私はよほど腫(は)れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的(あて)ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますますあかるく、門前の小川の水はきらきらと輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
 わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろりと抜け落ちた。私は直ぐにそれをつまんで白菜(パイサイ)の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっとしたように見あげると、今朝の空も紺青(こんじょう)に高く晴れていた。

 もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
 大正八年八月、わたしが欧洲から帰航の途中、三日ばかりは例のモンスーンに悩まされて、かなり難儀の航海をつづけた後、風雨もすっかり収まって、明日はインドのコロンボに着くという日の午後である。
 私はモンスーン以来痛みつづけていた右の奥歯のことを忘れたように、熱海丸の甲板を愉快に歩いていた。船医の治療を受けて、きょうの午(ひる)頃から歯の痛みも全く去ったからである。食堂の午飯(ひるめし)も今日は旨く食べられた。暑いのは印度洋であるから仕方がない。それでも空は青々と晴れて、海の風がそよそよと吹いて来る。暑さにゆだって昼寝でもしているのか、甲板に散歩の人影も多くない。
 モンスーンが去ったのと歯の痛みが去ったのと、あしたはインドへ着くという楽しみとで、私は何か大きい声で歌いたいような心持で、甲板をしばらく横行闊歩していると、偶然に右の奥の上歯が揺らぐように感じた。今朝まで痛みつづけた歯である。指でつまんで軽く揺すってみると、案外に安々と抜けた。
 なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。そのいろいろの思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り燈籠のように私の頭のなかに閃(ひらめ)いて通った。
 私はその歯を把(と)って海へ投げ込んだ時、あたかも二尾(ひき)の大きい鱶(ふか)が蒼黒い背をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべく余りに大きい口をあいて、厨(くりや)から投げあたえる食い残りの魚肉を猟(あさ)っていた。私の歯はそのまま千尋(ちひろ)の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫くそこに立ち尽くしていた。
 前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であった為に、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、余り多くの思い出を作りたくないものである。(昭和12・7「報知新聞」)[#改ページ]


我が家の園芸


 上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸(ひがん)過ぎから花壇の種蒔(たねま)きをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。種をまいて相当の肥料をあたえて置けば、まず普通の花は咲くので、われわれのような素人でも苦労はないわけである。
 そこで、毎年欲張って二十種ないし三十種の種をまいて、庭一面を藪(やぶ)のようにしているのであるが、それでは藪蚊の棲み家を作るおそれがあるので、今年はあまり多くを蒔かないことにした。それでも糸瓜(へちま)と百日草だけは必ず栽えようと思っている。
 わたしは昔の人間であるせいか、西洋種の草花はあまり好まない。チューリップ、カンナ、ダリアのたぐいも多少は栽えるが、それに広い地面を分譲しようとは思わない。日本の草花でも優しげな、なよなよしたものは面白くない。桔梗(ききょう)や女郎花(おみなえし)のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄(すすき)、それに次いでは日まわりと鶏頭(けいとう)である。
 こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々(ばんばん)承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
 まず第一には糸瓜である。私はむかしから糸瓜をおもしろいものとして眺めていたが、自分の庭に栽えるようになったのは十年以来のことで、震災以後、大久保百人町に仮住居(かりずまい)をしている当時、庭のあき地を利用して、唐蜀黍(とうもろこし)の畑を作り、糸瓜の棚を作った。その棚はわたし自身が書生を相手にこしらえたもので、素人の作った棚が無事に保(も)つかといささか不安を感じていたところが、棚はその秋の強い風雨にも恙(つつが)なく、糸瓜の蔓も葉も思うさま伸びて拡がって、大きい実が十五、六もぶらりと下がったので、私たちは子供のように手をたたいて嬉しがった。
 その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞いとして式亭三馬(しきていさんば)自画讃の大色紙の複製を貰った。それは糸瓜でなく、夕顔の棚の下に農家の夫婦が涼んでいる図で、いわゆる夕顔棚の下涼みであろう。それに三馬自筆の狂歌が書き添えてある。
なりひさご、なりにかまはず、すゞむべい
        風のふくべの木蔭たづねて
 これを見て、わたしは再び糸瓜の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭には糸瓜を栽えるほどの余地をあたえられなかった。そのまま幾年を送るうちに、一昨年から上目黒へ移り住むことになったので、今度は本職の植木屋に頼んで相当の棚を作らせると、果たして其の年の成績はよかった。昨年の出来もよかった。
 わたしの家ばかりでなく、ここらには同好の人々が多いとみえて、所々に糸瓜を栽えている。棚を作っているのもあり、あるいは大木にからませているのもあり、軒から家根へ這わせているのもあるから、皆それぞれにおもしろい。由来、糸瓜というものはぶらりと下がっている姿が、なんとなく間が抜けて見えるので、とかくに軽蔑される傾きがあって、人を罵る場合にも「へちま野郎」などと云うが、そのぶらりとしたところに一種の俳味があり、一種の野趣があることを知らなければならない。その実ばかりでなく、大きい葉にも、黄いろい花にも野趣横溢(おういつ)、静かにそれを眺めていると、まったく都会の塵(ちり)の浮世を忘れるの感がある。糸瓜を軽蔑する人々こそ却って俗人ではあるまいかと思う。
 次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々(そうそう)として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花(ほうせんか)などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
 炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下(もと)に咲き誇っているのは、いかにも鮮(あざや)かである。しょせんは野人の籬落(まがき)に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
 その次は薄(すすき)で、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根(しゅっこん)の多年草であるが、もとより種まきの世話もなく、年々歳々生い茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれてほとんど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものでは無いとさえも云われているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。

十郎の簑(みの)にや編まん青薄
 これは角田竹冷(すみたちくれい)翁の句であるが、まったく初夏の青すすきには優しい風情がある。それが夏を過ぎ、秋に入ると、ほとんど傍若無人ともいうべき勢いで生い拡がってゆく有様、これも一種の爽快を感ぜずにはいられない。殊に尾花がようやく開いて、朝風の前になびき、夕月の下(もと)にみだれている姿は、あらゆる草花のうちで他にたぐいなき眺めである。
 すすきは夏もよし、秋もよいが、冬の霜を帯びた枯れすすきも、十分の画趣と詩趣をそなえている。枯れかかると直ぐに刈り取って風呂の下に投げ込むような徒(やから)は倶(とも)に語るに足らない。しかも商売人の植木屋とて油断はならない。現に去年の冬の初めにも、池のほとりの枯れすすきを危うく刈り取られようとするのを発見して、わたしがあわてて制止したことがある。彼らもこの愛すべき薄を無名の雑草なみに取扱っているらしい。
 市内の狭い庭園は薄を栽えるに適しないので、わたしは箱根や湯河原(ゆがわら)などから持ち来たって移植したが、いずれも年々に痩せて行くばかりであった。上目黒に移ってから、近所の山や草原や川端をあさって、野生の大きい幾株を引き抜いて来た。誰も知っていることであろうが、薄の根を掘るのはなかなかの骨折り仕事で、書生もわたしもがっかりしたが、それでもどうにか引き摺って来て、池のほとり、垣根の隅、到るところに栽え込むと、ここらはさすがに旧郊外だけに、その生長はめざましく、あるものは七、八尺の高きに達して、それが白馬の尾髪をふり乱したような尾花をなびかせている姿は、わが家の庭に武蔵野の秋を見る心地(ここち)である。あるものは小さい池の岸を掩って、水に浮かぶ鯉(こい)の影をかくしている。あるものは四つ目垣に乗りかかって、その下草を圧している。生きる力のこれほどに強大なのを眺めていると、自分までがおのずと心強いようにも感じられて来るではないか。
 すすきに次いで雄姿堂々たる草花は、鶏頭(けいとう)と向日葵(ひまわり)である。いずれも野生的であり、男性的であること云うまでも無い。ひまわりも震災直後はバラックの周囲に多く栽えられて一種の壮観を呈していたが、区画整理のおいおい進捗(しんちょく)すると共に、その姿を東京市内から消してしまって、わずかに場末の破(や)れた垣根のあたりに、二、三本ぐらいずつ栽え残されているに過ぎなくなった。しかも盛夏の赫々(かっかく)たる烈日のもとに、他の草花の凋(しお)れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
 鶏頭も美しいものである。これにも種々あるらしいが、やはり普通の深紅(しんく)色がよい。オレンジ色も美しい。これも初霜の洗礼を受けて、その濃い色を秋の日にかがやかしながら、見あぐるばかりに枝や葉を高く大きくひろげた姿は、まさに目ざましいと礼讃(らいさん)するほかは無い。わたしの庭ばかりでなく、近所の籬(まがき)には皆これを栽えているので、秋日散歩の節には諸方の庭をのぞいて歩く。それが私の一つの楽しみである。葉鶏頭は鶏頭に比してやや雄大のおもむきを欠くが、天然の錦を染め出した葉の色の美しさは、なんとも譬(たと)えようがない。しかも私の庭の葉鶏頭は、どういうわけか年々の成績がよろしくない。他からいい種を貰って来ても、余り立派な生長を遂げない。私はこれのみを遺憾(いかん)に思っている。
 わたしの庭の草花は勿論これにとどまらないが、わたしの最も愛するものは以上の数種で、いずれも花壇に栽えられているものでは無い。それにつけても、考えられるのは自然の心である。自然は人の労力を費すこと少なく、物資を費すこと少なきものを択(えら)んで、最も面白く、最も美しく作っている。それは人間にあたえられる自然の恩恵である。人間はその恩恵にそむいて、無用の労力を費し、無用の時間を費し、無用の金銭を費して、他の変り種のような草花の栽培にうき身をやつしているのである。そうして、自然の恩恵を無条件に受け入れて楽しむものを、あるいは素人と云い、あるいは俗物と嘲(あざけ)っているのである。こう云うのはあながちに私の負け惜しみではあるまい。(昭10・3「サンデー毎日」)[#改ページ]


最後の随筆


     目黒の寺

 住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに「目黒町誌」をたよりにして、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。殊に新市域に編入されてからは、碑衾町(ひぶすまちょう)をも包含することになったので、私のような出不精の者には容易に廻り切れない。
 ほかの土地はともあれ、せめて自分の居住する区内の地理だけでもひと通りは心得て置くべきであると思いながら、いまだに果たし得ないのは甚だお恥かしい次第である。その罪ほろぼしと云うわけでもないが、目黒の寺々について少しばかり思い付いたことを書いてみる。

 目黒には有名な寺が多い。まず第一には目黒不動として知られている下目黒の瀧泉寺、祐天上人開山として知られている中目黒の祐天(ゆうてん)寺、政岡の墓の所在地として知られている上目黒の正覚寺などを始めとして、大小十六の寺院がある。私はまだその半分ぐらいしか尋(たず)ねていないので、詳しいことを語るわけには行かないが、いずれも由緒の古い寺々で、旧市内の寺院とはおのずから其の趣を異にし、雑沓(ざっとう)を嫌う私たちにはよい散歩区域である。ただ、どこの寺でも鐘を撞(つ)かないのがさびしい。

目黒には寺々あれど鐘鳴らず
   鐘は鳴らねど秋の日暮るる

 前にいった瀧泉寺門前の料理屋角伊勢(かどいせ)の庭内に、例の権八(ごんぱち)小紫(こむらさき)の比翼塚(ひよくづか)が残っていることは、江戸以来あまりにも有名である。近頃はここに花柳界も新しく開けたので、比翼塚に線香を供える者がますます多くなったらしい。さびしい目黒村の古塚の下に、久しく眠っていた恋人らの魂も、このごろの新市内の繁昌には少しく驚かされているかも知れない。
 正覚寺にある政岡の墓地には、比翼塚ほどの参詣人を見ないようであるが、近年その寺内に裲襠(うちかけ)姿の大きい銅像が建立(こんりゅう)されて、人の注意を惹くようになった。云うまでもなく、政岡というのは芝居の仮名(かめい)で、本名は三沢初子である。初子の墓は仙台にもあるが、ここが本当の墳墓であるという。いずれにしても、小紫といい、政岡といい、芝居で有名の女たちの墓地が、さのみ遠からざる所に列んでいるのも、私にはなつかしく思われた。

草青み目黒は政岡小むらさき
   芝居の女のおくつき所

 寺を語れば、行人坂(ぎょうにんざか)の大円寺をも語らなければならない。行人坂は下目黒にあって、寛永(かんえい)の頃、ここに湯殿山(ゆどのさん)行人派の寺が開かれた為に、坂の名を行人と呼ぶことになったという。
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