綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

 妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱(くつぬぎ)から硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐(あおぎり)の枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだやまない。私たちはまっすぐに立っているに堪えられないで、門柱に身を寄せて取りすがっていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢(おおぜい)が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動がようやくに鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王(やしゃおう)がうつ向きに倒れて、その首が悼(いた)ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
 と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根からつづいて震い落される瓦の黒い影が鴉(からす)の飛ぶようにみだれて見えた。
 こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我れも人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しく落着いたらしく、思い思いに椅子(いす)や床几(しょうぎ)や花筵(はなむしろ)などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき□(あが)っていた。三番町の方角にも煙りがみえた。取分けて下町(したまち)方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙りか、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。
 そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。ほとんど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上(かざかみ)に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分かれているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出して来た。ビールやサイダーの壜(びん)を運び出すのもあった。わたしの家からも梨(なし)を持ち出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰り返された。わたしば花むしろのうえに坐って、「地震加藤(かとう)」の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電燈のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅(まっか)にあぶられているのが鮮やかにみえて、時どきに凄(すさ)まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰(あま)すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群れのうちから若い人はひとり起(た)ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村(いちむら)君で、その住居は土手(どて)三番町であるが、火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再び熾(さか)んになったという。それでも、まだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬が駆ける。提灯が飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがい眼(まなこ)でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵(ちどりがふち)公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押し寄せてくる。
 うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂(ごみざか)上の三井(みつい)邸のうしろに迫って、怒涛(どとう)のように暴れ狂う焔(ほのお)のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
 迂回(うかい)してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡(たか)をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
 あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎(まば)らに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかき分けて、しきりにばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
 誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駈けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄(にわ)かに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭(ろうそく)の火が微(かす)かにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一の場合には紀尾井町(きおいちょう)の小林蹴月(こばやししゅうげつ)君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻(ね)じ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
 どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺(うじしゅうい)物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。(大正12・10「婦人公論」)[#改ページ]


十番雑記


 昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
 虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取(はかど)らない。いよいよ晦日(みそか)であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古(ほご)同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓(かぐう)していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
 わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳(ねこやなぎ)』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。

     仮住居

 十月十二日の時雨(しぐれ)ふる朝に、私たちは目白(めじろ)の額田六福(ぬかだろっぷく)方を立ち退いて、麻布宮村町(みやむらちょう)へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
 崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多(めった)に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博(こうのよしひろ)君の紹介でようよう此処(ここ)に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋(きょうじや)の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯(こ)うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
 その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥(たらい)やバケツや七輪(しちりん)のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅(おびや)かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好(よ)いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢(じゅばん)や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有(みぞう)の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいらながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗(むやみ)にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
 まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災(りさい)以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改(あらた)まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥(ふしょう)な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
 今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈(おごり)の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
 父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々(きゅうきゅう)として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。(大正十二年十二月二十日)
     箙(えびら)の梅

狸坂くらやみ坂や秋の暮
 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟(そうくつ)であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列(なら)んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢(ひ)かれるか、路ばたの大溝(おおどぶ)へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
 そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多(がらくた)というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟(さと)った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
 その鬱憤(うっぷん)をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘(ぬかるみ)で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空(むな)しく引っ返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長(てんちょう)祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走(しわす)もだんだんに数(かぞ)え日(び)に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにか斯(こ)うにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花を把(と)り出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾(つぼみ)もかなりに傷められて、梶原源太(かじわらげんた)が「箙(えびら)の梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
 この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄(なかじまとしお)が来て待っていた。
「渋谷(しぶや)の道玄坂(どうげんざか)辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
 こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。(十二月二十三日)
     明治座

 この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢(ちょうずばち)に厚い氷を見た。
 午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞(せきばく)として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火(たきび)の烟(けむ)りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
 足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信(ただのぶ)の道行(みちゆき)、躄(いざり)の仇討、鳥辺山(とりべやま)心中、夜の部は信長記(しんちょうき)、浪華(なにわ)の春雨(はるさめ)、双面(ふたおもて)という番組も大きく貼り出してある。
 左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
 私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾(と)うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲(みなぎ)るのを覚えた。
 わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物(さくぶつ)の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇(ひま)はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
 わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復(かえ)って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。

「いや、まだほかにもある。」
 こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
 震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘(まま)になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
 わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古(ほご)同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯(こ)うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業(よなべ)をしているのであろうなどとも思った。
 さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。(昭和12・10刊『思い出草』所収)[#改ページ]


風呂を買うまで


 わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町(あさくさせんぞくまち)辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨(うらや)んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
 わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪(のろ)っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の鬼子母神(きしもじん)附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯(みそのゆ)という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄(すすき)を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予(かね)て知っているので、薄(うす)ら寒い秋風に靡(なび)いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
 わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓(ざっとう)で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越(こし)の湯(ゆ)と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚(ゆず)湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲(しょうぶ)湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。

宿無しも今日はゆず湯の男哉
 二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖(とが)り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽(さわや)かな気分になった。
 麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町(おおくぼひゃくにんまち)に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅(つつじ)の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快(こころよ)かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
 湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
 わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水(ぎょうずい)を使うことにした。大盥(おおだらい)に湯をなみなみと湛(たた)えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努(つと)めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛(う)かび出さない。
 行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕(かめ)が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁(コウリャン)を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜(すいか)や唐茄子(とうなす)が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興(いっきょう)として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁(ふち)などに手足を触れると、火傷(やけど)をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
 しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。

宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
(大正13・7「読売新聞」)[#改ページ]


郊外生活の一年


 震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測(はか)らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物(たまもの)と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
 はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒(はるさむ)がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州(びしゅう)侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦(あかれんが)の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼索莫(さくばく)、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
 省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場(しゃてきば)のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処(ここ)まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣(いけがき)を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌(も)え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶(とんび)が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
 五月になると、大久保名物の躑躅(つつじ)の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色(かばいろ)の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗(のぞ)きあるいた。
 庭の広いのと空地(あきち)の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍(とうもろこし)や夏大根の種をまき、茄子(なす)や瓜(うり)の苗を植えた。ゆうがおの種も播(ま)き、へちまの棚も作った。不精者(ぶしょうもの)のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭(いと)わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎(くき)や蔓(つる)がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
 夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙(かわず)の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝(どぶ)で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍(ほたる)も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
 幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気(のんき)に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱(ひでり)つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面(てきめん)に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水(まきみず)を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅(おびや)かされるのであると、土地の人は話した。
 蛙や蛍とおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。全然鳴かないと云うのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫(はたおりむし)などが無暗(むやみ)に飛び込んで来たものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊(やぶか)も案外に少なかった。わたしの家で蚊やりを焚いたのは、前後ふた月に過ぎなかったように記憶している。
 秋になっては、コスモスと紫苑(しおん)がわたしの庭を賑わした。夏の日ざかりに向日葵(ひまわり)が軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。紫苑といえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株も叢(むら)をなしているときは、かの向日葵などと一様に、むしろ男性的の雄大な趣を示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉の蔭から雲のようにたなびき出ているのを遠く眺めると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からは余りに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てから私はこの紫苑がひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑を栽(う)えたいと思っている。
 唐蜀黍もよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く煙りを唯ながめているばかりであった。糸瓜(へちま)も大きいのが七、八本ぶらさがって、そのなかには二尺を越えたのもあった。
 郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ寂しさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭の枯れ芒(すすき)が木枯らしを恐れるようになると、再びかの荒涼索莫がくり返されて、宵々ごとに一種の霜気(そうき)が圧して来る。朝々ごとに庭の霜柱が深くなる。晴れた日にも珍しい小鳥がさえずって来ない。戸山ヶ原は青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落すと、わずかに生き残った枯れ草が北風と砂煙りに悼(いた)ましくむせんで、かの科学研究所の煉瓦や製菓会社の煙突が再び眼立って来る。夜は火の廻りの柝(き)の音が絶えずきこえて、霜に吠える家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりも確かに強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
 郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗(せっとう)に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物(いちもつ)をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野(なかの)の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版(とうしゃばん)の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好(よ)うございます。」
 私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮(しょせん)は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。(大正14・4「読売新聞」)[#改ページ]


薬前薬後


     草花と果物

 盂蘭盆(うらぼん)の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆(たお)れた。急性の胃痙攣(いけいれん)である。医師の応急手当てで痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥(かゆ)を啜(すす)る、おなじような養生法を半月以上も繰り返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病人によい時季と云うのもあるまいが、暑中の病人は一層難儀である。わたしはかなりに疲労してしまった。今でも机にむかって、まだ本当に物を書くほどの気力がない。
 病臥中、はじめの一週間ほどは努(つと)めて安静を守っていたが、日がだんだんに経つにつれて、気分のよい日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪余りのところへ一面に草花を栽えている。
 若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉(ろうぜき)たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙(つつが)なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みにかぞえてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子(なでしこ)、石竹(せきちく)、桔梗、矢車草、風露草(ふうろそう)、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀(くじゃく)草、黄蜀葵(おうしょつき)、女郎花(おみなえし)、男郎花(おとこえし)、秋海棠(しゅうかいどう)、水引、鶏頭、葉鶏頭、白粉(おしろい)、鳳仙花、紫苑、萩、芒(すすき)、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――まずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上(のぼ)っているのもあるから、いかによく整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩(おお)い重なって、歌によむ「八重葎(やえむぐら)しげれる宿」と云いそうな姿である。
 そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀(もくせい)、山茶花(さざんか)、八つ手、躑躅(つつじ)、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへよくも栽え込んだものだな。」と、わたしは自分ながら感心した。
 狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅かに無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
 わたしの家ばかりでなく、近所の住居といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、白まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれは斯うして救われるのほかはないのであろうか。
 わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引きの電車がひびく。夜は十二時半頃まで各方面からのぼって来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力(ばりき)である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上にいっそう強く響いて来るのである。
 病中不眠勝ちのわたしは此の頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだよい。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそりと鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、ガタガタといい、ガラガラという響きを立てて、ほとんど絶え間も無しに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊に馬力は速力が遅く、且(かつ)は幾台もつながって通るので、枕にひびいている時間が長い。
 病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃(すいみつとう)や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市(あさいち)に間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、ないし十余台もつながって行くのは、途中で奪われない用心であると云う。いずれにしても、それが此の頃のわたしを悩ますことはひと通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口にはいるか。」
 私は寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里(パリ)に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄(もや)が一面にとざしている大きい並木の街(まち)に、馬の鈴の音(ね)がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。その以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
 おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立(いらだ)たせるばかりである。

     雁と蝙蝠

 七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用(どよう)に入ってから最も涼しい日であった。昼のうちは陰っていたが、宵には薄月(うすづき)のひかりが洩れて、涼しい夜風がすだれ越しにそよそよと枕元へ流れ込んで来る。
 病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮らしているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は涼しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳(かや)を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸し暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶えだえになった頃から少しうとうとして、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗がにじんでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇(うちわ)を使っていると、トタン葺(ぶ)きの家根に雨の音がはらはらと聞える。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
 それは雁(がん)の鳴く声で、お堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。お堀に雁の群れが降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群れに離れた孤雁(こがん)が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかにふた声三声つづけて叫んだ。
 しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛(う)かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺きやトタン葺きの家根も見えなかった。家根といえば瓦葺きか板葺きである。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸(ようや)く薄れて来るころに、幾羽の雁の群れが列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷(ちまた)に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄(こうがい)取らしょ。」
 わたしも大きい口をあいて呼んだ。雁の行(つら)は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵(ふくへい)ありとでも思うのか、前列後列が俄かに行を乱して翔(かけ)りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍(う)って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群れが遠くなるまで見送りながら立ち尽くしていると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
 秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀(まれ)になった。まして往来のまんなかに突っ立って、「笄取らしょ。」などと声を嗄(か)らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
 雁で思い出したが、蝙蝠(こうもり)も夏の宵の景物の一つであった。
 江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸(かし)をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのがほとんど紋切り型のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中にはたくさん棲んでいたそうで、外国やシナの話にもあるように、化け物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年古(ふ)る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話が幾らも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生き血を吸うのであるから、一種の吸血鬼と云ってもよい。相馬(そうま)の古御所(ふるごしょ)の破れた翠簾(すいれん)の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるもので、昔の画家の働きである。
 しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいものと見なされている。私たちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
 夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙りが仄白(ほのじろ)く流れ出て、家の前には涼み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは街(まち)を横切り、あるいは軒端(のきば)を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名(いみょう)の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒(さんしょ)食わしょ。」

 前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひらと軽く飛び去って、容易に打ち落すことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋(どろわらじ)を投げるがよいと云うことになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓(くつ)を拾って来て、「こうもり来い。」と呼びながら投げ付ける。うまくあたって地に落ちて来ることもあるが、又すぐに飛び揚がってしまって、十(とお)に一つも子供たちの手には捕えられない。たとい捕え得たところで、どうなるものでもないのであるが、それでも夢中になって追いあるく。
 その泥草鞋があやまって、往来の人に打ちあたる場合も少なくない。白地の帷子(かたびら)を着た紳士の胸や、白粉(おしろい)をつけた娘の横面(よこづら)などへ泥草鞋がぽんと飛んで行っても、相手が子供であるから腹も立てない。今日ならば明らかに交通妨害として、警官に叱られるところであろうが、昔のいわゆるお巡(まわ)りさんは別にそれを咎(とが)めなかったので、私たちは泥草鞋をふりまわして夏のゆうぐれの町を騒がしてあるいた。
 街路樹に柳を栽えている町はあるが、その青い蔭にも今は蝙蝠の飛ぶを見ない。勿論、泥草鞋や馬の沓などを振りまわしているような馬鹿な子供はいない。
 こんなことを考えているうちに、例の馬力が魔の車とでも云いそうな響きを立てて、深夜の町を軋(きし)って来た。その昔、京の町を過ぎたという片輪車(かたわぐるま)の怪談を、私は思い出した。

     停車場の趣味

 以前は人形や玩具(おもちゃ)に趣味をもって、新古東西の瓦楽多(がらくた)をかなりに蒐集していたが、震災にその全部を灰にしてしまってから、再び蒐集するほどの元気もなくなった。殊に人形や玩具については、これまで新聞雑誌に再三書いたこともあるから、今度は更に他の方面について少しく語りたい。
 これは果たして趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかく私は汽車の停車場というものに就いてすこぶる興味をもっている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それがすこぶるおもしろい。尊い寺は門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
 そんな理窟はしばらく措(お)いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、ひと列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗り降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。そういう停車場はすぐに人家のある町や村へつづいていない所もある。降りても人力車(くるま)一台も無いようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲きみだれている。小さい建物、大きい桜、その上を越えて遠い近い山々が青く霞(かす)んでみえる。停車場のわきには粗末な竹垣などが結ってあって、汽車のひびきに馴れている鶏が平気で垣をくぐって出たりはいったりしている。駅員が慰み半分に作っているらしい小さい菜畑なども見える。
 夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅(さるすべり)や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅(まっか)に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒(すすき)の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。
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