綺堂むかし語り
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:岡本綺堂 

     五

 次に記(しる)すのは、ほんとうの怪談らしい話である。
 安政(あんせい)三年の初夏である。江戸番町(ばんちょう)の御厩谷(おんまやだに)に屋敷を持っている二百石の旗本根津民次郎(ねづたみじろう)は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所(ほんじょ)の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸いに一命に別条はなかったが、左の背から右の腰へかけて打撲傷を負った。
 その当時はさしたることでも無いように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。それが打ち身のようになって、暑さ寒さに祟(たた)られては困るというので、支配頭(がしら)の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本と云っても小身(しょうしん)であるから、伊助(いすけ)という中間(ちゅうげん)ひとりを連れて出た。
 道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋(わらじ)をぬいだ。その宿の名はわかっているが、今も引きつづいて立派に営業を継続しているから、ここには秘して置く。
 宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷のひと間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝ちで、きょうも宵から細雨(こさめ)が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床にはいろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せにやると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
「便所に化け物が出たそうです。」
「化け物が出た……。」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」
「その姿は見えないのですが……。」
「一体どうしたというのだ。」
 その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へかよって、そとから第一の便所の戸を開(あ)けようとしたが、開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をコツコツと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、ほかの客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々はすこしく不思議を感じて来た。
 かまわないから開けてみろと云うので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、ほかの客もあつまって来た。宿の者も出て来た。
「なにぶん山の中でございますから、折りおりにこんなことがございます。」
 宿の者はこう云っただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
 その以来、逗留客は奥の客便所へゆくことを嫌って、宿の者の便所へかようことにしたが、根津は血気盛りといい、且(かつ)は武士という身分の手前、自分だけは相変らず奥の便所へ通っていると、それから二日目の晩にまたもやその戸が開かなくなった。
「畜生、おぼえていろ。」
 根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。
「畜生、弱い奴だ。」と根津は笑った。
 根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴(ふいちょう)していたので、友達らは皆その話を知っていた。
 それから十二年の後である。明治元年の七月、越後(えちご)の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方(しろかた)に加わっていた。落城の前日、彼は一緒に脱走して来た友達に語った。
「ゆうべは不思議な夢をみたよ。君たちも知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しいことに出逢ったが、ゆうべはそれと同じ夢をみた。場所も同じく、すべてがその通りであったが、ただ変っているのは……僕が思い切ってその便所の戸をあけると、中には人間の首が転がっていた。首は一つで、男の首であった。」
「その首はどんな顔をしていた。」と、友達のひとりが訊いた。
 根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。

     六

 昔はめったに無かったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰(しんじゅうざた)である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死に場所を選ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ない。
 心中もその宿を出て、近所の海岸から入水(じゅすい)するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を舞台に使用されると、旅館は少なからぬ迷惑を蒙(こうむ)ることになる。
 地名も旅館の名もしばらく秘して置くが、わたしが曾(かつ)てある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れない筈であるから、ここは確かに閑静であるという。成程それは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽地物(ひきぢもの)屋へ買物に立ち寄った時、偶然にあることを聞き出した。ひと月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であると云うことがわかった。
 その何番は私の隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣り座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺(うかが)ったが、別に眼につくような異状もなかった。
 その日もやがて夜となって、夏の温泉場は大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣りの座敷で女の軽い咳(せき)の声がきこえる。勿論、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがて又その咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまんなかへ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。
 わたしが隣り座敷へ夜中に再三出入りしたことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実のもとに、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことを云い触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何んにも云わなかった。私も云わなかった。
 これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の塩原(しおばら)温泉の件(くだ)りが読売新聞紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヵ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一(はざまかんいち)とおなじように、隣り座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたならば、私はどんな処置を取ったであろうか。貫一のように何千円の金を無雑作に投げ出す力がないとすれば、所詮は宿の者に密告して、ひとまず彼らの命をつなぐというような月並の手段を取るのほかはあるまい。貫一のような金持でなければ、ああいう立派な解決は付けられそうもない。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。(昭和6・7「朝日新聞」)[#改丁、ページの左右中央に]

   □ 暮らしの流れ
[#改丁]


素人脚本の歴史


 雑誌の人が来て、何か脚本の話を書けという。ともかくも安請合いに受け合ったものの、さて何を書いてよいか判らない。現在日本の演劇(しばい)をどう書いてよいのか、自分も実は宇宙に迷って行き悩んでいるのであるから、とてもここで大きい声で脚本の書き方などを講釈するわけには行かない。何か偉そうなことをうっかり喋(しゃ)べってしまって、その議論が自分自身でも明日はすっかり変ってしまうようなことが無いとも限らない。で、そんな危(あぶ)ないことには手を着けないことにして、ここでは自分がこれまで書いた七、八十種の脚本に就いて、一種の経験談のようなものを書き列(なら)べて見ようかとも思ったが、それも長くなるのでやめた。ここではただ、素人(しろうと)の書いた脚本がどうして世に出るようになったかという歴史を少しばかり書く。
 わたしはここで自分の自叙伝を書こうとするのではない。しかし自分の関係したことを主題にして何か語ろうという以上、自然に多く自分を説くことになるかも知れない。それはあらかじめお含み置きを願っておきたい。

 わたしが脚本というものに筆を染めた処女作は「紫宸殿(ししんでん)」という一幕物で、頼政(よりまさ)の鵺(ぬえ)退治を主題にした史劇であった。後に訂正して、明治二十九年九月の歌舞伎新報に掲載されたが、勿論(もちろん)、どこの劇場でも採用される筈(はず)はなかった。その翌年の二月、條野採菊(じょうのさいぎく)翁が伊井蓉峰(いいようほう)君に頼まれて「茲江戸子(ここがえどっこ)」という六幕物を書くことになった。故榎本武揚(えのもとたけあき)子爵の五稜郭(ごりょうかく)戦争を主題(テーマ)にしたものである。採菊翁は多忙だということで、榎本虎彦(とらひこ)君と私とが更に翁の依頼をうけて二幕ずつを分担して執筆することになった。筋は無論、翁から割当てられたもので、自分たち二人はほとんどその口授のままを補綴(ほてい)したに過ぎなかった。劇場は後の宮戸座(みやとざ)であった。
 それが三月の舞台に上(のぼ)ったのを観ると、わたしは失望した。私が書いた部分はほとんど跡形もないほど変っていた。私はそれを榎本君に話すと、榎本君は笑いながら「それだから僕は観に行かないよ」と云った。榎本君は福地桜痴(ふくちおうち)先生に従って、楽屋の空気にもう馴れている人である。榎本君の眼には、年の若い私の無経験がむしろ可笑(おかし)く思われたかも知れなかった。採菊翁自身が執筆の部分はどうだか知れないが、榎本君が担当の部分にも余程の大鉈(おおなた)を加えられていたらしかった。勿論、この時代にはそれがむしろ普通のことで、素人(しろうと)――榎本君は素人ではないが、その当時はまだ其の伎倆(ぎりょう)を認められていなかった――が寄り集まって書いた脚本が、こういう風に鉈を加えられたり、鱠(なます)にされたりするのは、あらかじめ覚悟してかからなければならないのであった。わたしが榎本君に対して不平らしい口吻(こうふん)を洩らしたのは、要するに演劇(しばい)の事情というものに就(つ)いて私の盲目を証拠立てているのであった。
「素人の書いたものは演劇にならない。」
 それが此の時代に於いては動かすべからざる格言(モットー)として何人(なんぴと)にも信ぜられていた。劇場内部のいわゆる玄人(くろうと)は勿論のこと、外部の素人もみんなそう信じていた。今日(こんにち)の眼から観れば、みずから侮(あなど)ること甚(はなは)だしいようにも思われるかも知れないが、なんと理窟を云っても劇場当事者の方で受付けてくれないのであるから、外部の素人は田作(ごまめ)の歯ぎしりでどうにもならない。たとい鉈でぶっかかれても鱠にきざまれても、採用されれば非常の仕合せで、鉈にも鱠にも最初から問題にされてはいないのであった。もっとも福地先生はこういうことを云っていられた。
「いくら楽屋の者が威張っても仕方がない。今のままでいれば、やがて素人の世界になるよ。」
 しかし、この世界がいつ自分たちの眼の前に開かれるか。ほとんど見当が付かなかった。福地先生は外部から脚本を容れることを拒(こば)むような人ではなかった。むしろ大抵の場合には「結構です」と云って推薦するのを例としていた。しかも推薦されるような脚本はちっとも提供されなかった。それには二種の原因があった。第一には、たとい福地先生は何と云おうとも、劇場全体に素人を侮蔑(ぶべつ)する空気が充満していて、外部から輸入される一切の脚本は先ず敬して遠ざけるという方針が暗々のうちに成立っていたのである。第二には、どんな鉈を受けても、鱠にされても、何でもかでも上場されればいいと云って提出されるような脚本は、実際に於いて其の品質が劣っていた。また、ある程度まで其の品質に見るべきものがあるような脚本を書き得る人は、鉈や鱠の拷問(ごうもん)に堪えられなかった。
 以上の理由で、どの道、外部から新しい脚本を求めるということは不可能の状態にあった。劇場当事者の方でも強(し)いて求めようとはしなかった。いわゆる玄人と素人との間には大いなる溝(みぞ)があった。
 もう一つには、団菊左(だんきくさ)と云うような諸名優が舞台を踏まえていて、たとい脚本そのものはどうであろうとも、これらの技芸に対する世間の信仰が相当の観客を引き寄せるに何らの不便を感ぜしめなかったからである。こういう種々の原因が絡(から)み合って、内部と外部との中間には、袖萩(そではぎ)が取りつくろっている小柴垣(こしばがき)よりも大きい関が据えられて、戸を叩くにも叩かれぬ鉄(くろがね)の門が高く鎖(と)ざされていたのであった。
「どうぞお慈悲にただ一言(ひとこと)……。」
 お君(きみ)の袖乞いことばを真似るのが忌(いや)な者は、黙って門の外に立っているよりほかはなかった。

 ところが、やがて其の厳しい門を押し破って、和田(わだ)合戦の板額(はんがく)のように闖入(ちんにゅう)した勇者があらわれた。その闖入者は松居松葉(まついしょうよう)君であった。この門破りが今日の人の想像するような、決して容易なものではない。松葉君の悪戦は実に想像するに余りある位で、彼はブラツデーネスになったに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太(あくげんた)」を上場することになった。俳優は初代の左団次(さだんじ)一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位(げんざんみ)」を書いた。つづいて「後藤又兵衛(ごとうまたべえ)」や「敵国降伏」や「ヱルナニー」が出た。
「素人の書いたものでも商売になる。」
 こういう理屈がいくらか劇場内部の人たちにも理解されるようになって来た。わたしは松葉君よりも足かけ四年おくれて、明治三十五年の歌舞伎座一月興行に「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」という四幕物を上場することになった。これに就(つ)いては岡鬼太郎(おかおにたろう)君が大いに力がある。その春興行には五世菊五郎(きくごろう)が出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫(しかん)(後の歌右衛門(うたえもん))、梅幸(ばいこう)、八百蔵(やおぞう)(後の中車(ちゅうしゃ))、松助(まつすけ)、家橘(かきつ)(後の羽左衛門(うざえもん))、染五郎(そめごろう)(後の幸四郎(こうしろう))というような顔触れで、二番目は円朝(えんちょう)物の「荻江(おぎえ)の一節(ひとふし)」と内定していたのであるが、それも余り思わしくないと云うので、当時の歌舞伎座専務の井上竹二郎(いのうえたけじろう)氏から何か新しいものはあるまいかと鬼太郎君に相談をかけると、鬼太郎君は引受けた。かねて條野採菊翁と私の三人合作で書いてみようと云っていた「金鯱」というものがあるので、鬼太郎君は其の筋立てをすぐに話すと、井上氏はそれを書いて見せてくれと云った。
 それはかの柿(かき)の木金助(ききんすけ)が紙鳶(たこ)に乗って、名古屋の城の金の鯱鉾(しゃちほこ)を盗むという事実を仕組んだもので、鬼太郎君は序幕と三幕目を書いた。三幕目は金助が鯱鉾を盗むところで、家橘の金助が常磐津(ときわづ)を遣(つか)って奴凧(やっこだこ)の浄瑠璃めいた空中の振事(ふりごと)を見せるのであった。わたしは二幕目の金助の家を書いた。ここはチョボ入りの世話場(せわば)であった。採菊翁は最後の四幕目を書く筈であったが、半途で病気のために筆を執ることが出来なくなったので、私が年末の急稿でそのあとを綴(と)じ合せた。
 この脚本を上演するに就いては、内部では相当に苦情があったらしく聞いている。俳優側からも種々の訂正が持ち出されたらしい。しかし井上氏は頑(がん)として受付けなかった。この二番目の脚本にはいっさい手を着けてはならないと云い渡した。そうして、とうとうそれを押し通してしまった。
 井上氏はその当時にあって、実に偉い人であったと思う。
 その演劇(しばい)は正月の八日が初日であったように記憶している。その前年の暮れに、私が途中で榎本君に逢うと、彼は笑いながら「君、怒っちゃいけないよ」と云った。果たして稽古の際に楽屋へ行くと、我々の不愉快を誘い出すようなことが少なくなかった。手を着けてはならないと井上氏が宣告して置いたにも拘(かかわ)らず、俳優(やくしゃ)や座付作者たちから種々の訂正を命ぜられた。我々もよんどころなく承諾した。三幕目の常磐津は座の都合で長唄に変更することになったのは我々もかねて承知していたが、狂言作者の一人は脚本を持って来て「これをどうぞ長唄にすぐ書き直してください」と、皮肉らしく云った。つまりお前たちに常磐津と長唄とが書き分けられるかと云う肚(はら)であったらしい。我々も意地になって承知した。その場で鬼太郎君が筆を執って、私も多少の助言をして、二十分ばかりでともかくも其の唄の件(くだり)だけを全部書き直して渡した。すると、つづいて番附のカタリをすぐに書いてくれと云った。そうして「これは立作者(たてつくり)の役ですから」と、おなじく皮肉らしく云った。我々はすぐにカタリを書いて渡した。すると、先に渡した唄をまた持って来て一、二ヵ所の訂正を求めた。
「こんなべらぼうな文句じゃ踊れないと橘屋(たちばなや)が云いますから」と、その作者はべらぼうという詞(ことば)に力を入れて云った。
 金助を勤める家橘が果たしてそう云ったかどうだか知らないが、ともかくも其の作者は家橘がそう云った事として我々に取次いだ。べらぼうと云われて、我々もさすがにむっとした。榎本君に注意されたのはここだなと私は思った。いっそ脚本を取り返して帰ろうかと二人は相談したが、その時は鬼太郎君よりも私は軟派であった。もう一つには、榎本君の注意が頭に泌みているせいでもあろう。結局、鬼太郎君を宥(なだ)めてべらぼうの屈辱を甘んじて受けることになった。そうして、先方の註文通りに再び訂正することになった。
 それは暮れの二十七日で、二人が歌舞伎座を出たのは夜の八時過ぎであった。晴れた晩で、銀座の町は人が押し合うように賑わっていたが、わたしは何だか心寂しかった。銀座で鬼太郎君に別れた。その頃はまだ電車が無いので、私は暗い寒い堀端(ほりばた)を徒歩で麹町(こうじまち)へ帰った。前に云った宮戸座の時は、ほんの助手に過ぎないのであって、曲がりなりにも自分たちが本当に書いたものを上場されるのは今度が初めてである。私は嬉(うれ)しい筈であった。嬉しいと感じるのが当り前だと思った。しかし私はなんだか寂しかった。いっそ脚本を撤回してしまえばよかったなどとも考えた。
「もう脚本は書くまい。」
 わたしはお堀の暗い水の上で啼いている雁(がん)の声を聴きながら、そう思った。
 正月になって、歌舞伎座がいよいよ開場すると、我々の二番目もさのみ不評ではなかった。勿論、こんにちから観れば冷汗が出るほどに、俗受けを狙った甘いものであるから、ひどい間違いはなかったらしい。評判が悪くないので、わたしはお堀の雁の声をもう忘れてしまって、つづけて何か書こうかなどと鬼太郎君とも相談したことがあった。しかし、そうは問屋で卸(おろ)さなかった。鉄の門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが作者部屋の問題になって、外部の素人の作を上場するほどなら、自分たちの作も続々上場して貰いたいとか云う要求を提出されて、井上氏もその鎮圧に苦しんだとか聞いている。そんな事情で、われら素人の脚本はもう歌舞伎座で上演される見込みは絶えてしまった。
 その当時に帝国劇場はなかった。新富座はたしか芝鶴(しかく)が持主で、又五郎(またごろう)などの一座で興行をつづけていて、ここではとても新しい脚本などを受付けそうもなかった。
「差当り芝居を書く見込みはない。」
 わたしは一旦あきらめた。その頃は雑誌でも脚本を歓迎してくれなかった。いよいよ上演と決まった脚本でなければ掲載してくれなかった。どっちを向いても、脚本を書くなどと云うことは無駄な努力であるらしく思われた。私も脚本を断念して、小説を書こうと思い立った。
 明治三十六年に菊五郎と団十郎とが年を同じゅうして死んだ。これで劇界は少しく動揺するだろうと窺っていると、内部はともあれ、表面にはやはりいちじるしい波紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外(もりおうがい)博士の「日蓮辻説法(にちれんつじせっぽう)」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二(みきたけじ)君の斡旋(あっせん)に因(よ)るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹(ひ)いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
 その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅(わず)かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。

 明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹(ひ)くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山(てんもくさん)」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私の劇作の舞台に上(のぼ)せられた第二回目で、作者自身が武田勝頼(たけだかつより)に扮するつもりであったが、その当時わたしは東京日日新聞社に籍を置いていたので、社内からは種々の苦情が出たのに辟易(へきえき)して、急に鬼太郎君に代って貰(もら)うことにした。
 山崎紫紅(やまざきしこう)君の「上杉謙信(うえすぎけんしん)」が世に出たのも此の年であったと記憶している。舞台は真砂座(まさござ)で伊井蓉峰君が謙信に扮したのである。これが好評で、紫紅君は明くる三十九年の秋に『七つ桔梗(ききょう)』という史劇集を公(おおや)けにした。松葉君はこの年の四月、演劇研究のために洋行した。文芸協会はこの年の十一月、歌舞伎座で坪内逍遥(つぼうちしょうよう)博士の「桐一葉(きりひとは)」を上演した。
 若葉会は更に東京毎日新聞社演劇会と変って、同じ年の十二月、明治座で第一回を開演することになったので、私は史劇「新羅三郎(しんらさぶろう)」二幕を書いた。つづいて翌四十年七月の第二回(新富座)には「阿新丸(くまわかまる)」二幕を書いた。同年十月の第三回(東京座)には「十津川(とつかわ)戦記」三幕を書いた。同時に紫紅君の「甕破柴田(かめわりしばた)」一幕を上場した。勿論、これらはいずれも一種の素人芝居に過ぎないので、普通の劇場とは没交渉のものであったが、それでもたび重なるに連れて、いわゆる素人の書いた演劇というものが玄人の眼にも、だんだんに泌みて来たと見えて、その年の十二月、紫紅君は新派の河合武雄(かわいたけお)君に頼まれて史劇「みだれ笹」一幕(市村座)を書いた。山岸荷葉(やまぎしかよう)君もこの年、小団次(こだんじ)君らのために「ハムレット」の翻訳史劇(明治座)を書いた。
 翌四十一年の正月、左団次君が洋行帰りの第一回興行を明治座で開演して、松葉君が史劇「袈裟(けさ)と盛遠(もりとお)」二幕を書いた。三月の第二回興行には紫紅君の「歌舞伎物語」四幕が上場された。その年の七月、かの川上音二郎(かわかみおとじろう)君が私をたずねて来て、新たに革新興行の旗揚げをするに就いて、維新当時の史劇を書いてくれと云った。私は承知してすぐに「維新前後」(奇兵隊と白虎隊)六幕を書いた。前の奇兵隊の方は現存の関係者が多いので、すこぶる執筆の自由を妨げられたが、後の白虎隊の方は勝手に書くことが出来た。それは九月の明治座で上演された。
 もう此の後は新しいことであるから、くだくだしく云うまでもない。要するに茲(ここ)らが先ずひとくぎりで、四十二年以来は素人の脚本を上場することが別に何らの問題にもならなくなった。鉄の扉もだんだんに弛(ゆる)んで、いつとは無しに開かれて来た。勿論、全然開放とまでは行かないが、潜(くぐ)り門ぐらいはどうやらこうやら押せば明くようになって来た。
 普通の劇場は一般の観客を相手の営利事業であるから、芸術本位の脚本を容れると云うまでにはまだ相当の時間を要するに相違ないが、ともかくも商売になりそうな脚本ならば、それが誰の作であろうとも、あまり躊躇(ちゅうちょ)しないで受取るようになったのは事実である。一方には文芸協会その他の新劇団が簇出(そうしゅつ)して、競って新脚本を上演して、外部から彼らを刺戟(しげき)したのも無論あずかって力がある。又それに連れて、この数年来、幾多の新しい劇作家があらわれたのは誰しも知っているところである。
 新進気鋭の演劇研究者の眼から観たらば、わが劇壇の進歩は実に遅々(ちち)たるもので、実際歯がゆいに相違ない。しかし公平に観たところを云えば、成程それは兎の如くに歩んではいないが、確実に亀の如くには歩んでいると思われる。亀の歩みも焦(じれ)ったいには相違ないが、それでも一つ処に停止していないのは事実である。十六年前に、わたしがお堀端で雁の声を聴いた時にくらべると、表面はともあれ、内部は驚かれるほどに変っている。更に十年の後には、どんなに変るかも知れないと思っている。その当時、自分がひどく悲観した経験があるだけに、現在の状態もあながちに悲観するには及ばない。たとい亀の歩みでも、牛の歩みでも、歩一歩ずつ進んでいるには相違ないと云うことだけは信じている。ただ、焦ったい。しかしそれも已(や)むを得ない。
 これまで書いて来たことは、専(もっぱ)ら歌舞伎劇の方面を主にして語ったものである。新派の方は当座の必要上、昔から新作のみを上場していたのは云うまでもない。しかし、その新派の方に却ってこの頃は鉄の扉が閉じられて来たらしく、いつもいつも同じような物を繰り返しているようになって来た。今のありさまで押して行くと、歌舞伎の門の方が早く開放されるらしい。私はその時節の来るのを待っている。(大正7・11「新演芸」)[#改ページ]


人形の趣味


 ××さん。
 どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろという御註文でしたが、実のところ、わたしは何も専門的に玩具(おもちゃ)や人形を研究したり蒐集(しゅうしゅう)したりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形を可愛がっているのは事実です。
 勿論、人に吹聴(ふいちょう)するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形を可愛がると云うようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲(たけだいずも)は机のうえに人形をならべて浄瑠璃をかいたと伝えられています。イプセンのデスクの傍(わき)にも、熊が踊ったり、猫がオルガンを弾いたりしている人形が控えていたと云います。そんな先例が幾らもあるだけに、わたしも何んだかそれらの大家(たいか)の真似をしているように思われるのも忌(いや)ですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列(なら)べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や蒐集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申して置きます。したがって、人形や玩具などに就いてなにかの通(つう)をならべるような資格はありません。
 人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択(よ)り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。二銭八厘――なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子供の頃、明治十八、九年頃までは、どういう勘定から割り出して来たものか、縁日などで売っている安い玩具は、大抵二銭八厘と相場が決まっていたものでした。更に廉(やす)いのは一銭というのもありました。勿論、それより高価のもありましたが、われわれは大抵二銭八厘から五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子供たちにくらべると、これがほんとうの「幼稚(ようち)」と云うのかも知れません。しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲(しの)ぶよすがはありません。とにかく子供のときからそんな習慣が付いているので、わたしは幾つになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九(つづ)や二十歳(はたち)の大供(おおども)になってもやはり玩具屋を覗(のぞ)く癖が失(う)せませんでした。
 そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものは怖ろしいもので、それがだんだんに年を経るにしたがって、机の上に人形がないと何んだか物足らないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つ列べるならばまだいいのですが、どうもそれでは物足らない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初の頃は、脚本などをかく場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優(やくしゃ)の代りにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形が控えていないと、なんだか極(き)まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「窮すれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄(かばん)に入れて同道して行きます。
 人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮りにも人形と名のつくものならば何んでもいいので、別に故事来歴(こじらいれき)などを詮議しているのではありません。要するに店仕舞いのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多(がらくた)がただ雑然と押し合っているだけのことですから、何かおめずらしい人形がありますかなどと訊かれると、早速返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱を引っくり返したようだというのは、全くわたしの書棚で、初めて来た人に、「お子供衆が余程たくさんおありですか」などと訊かれて、いよいよ赤面することがあります。
 その瓦楽多のなかでも、わたしが一番可愛がっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっと面白いものです。先年三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城(かいじょう)の城外に老子(ろうし)の廟(びょう)があって、その祭日に人形をまわしに来たシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例の癖がむらむらと起ったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首のなかから二つだけを無理に売って貰いました。なにしろ土焼きですから、よほど丁寧に保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながら毀(こわ)れてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の星野麦人(ほしのばくじん)君の手を経て、神戸の堀江(ほりえ)君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られました。これも三つばかりは毀れていましたが、南京(ナンキン)で買ったのだとか云うことで、わたしが満洲で見たものとちっとも変りませんでした。わたしは一旦紛失したお家(いえ)の宝物(ほうもつ)を再びたずね出したように喜んで、もろもろの瓦楽多のなかでも上坐に押し据えて、今でも最も敬意を表しています。殊にそのなかの孫悟空(そんごくう)は、わたしが申歳(さるどし)の生まれである因縁から、取分けて寵愛(ちょうあい)しているわけです。
 そのほかの人形は――京(きょう)、伏見(ふしみ)、奈良(なら)、博多(はかた)、伊勢(いせ)、秋田(あきた)、山形(やまがた)など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼(いまどやき)もたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見が面白いと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなって来たようです。伏見の饅頭(まんじゅう)人形などは取分けて面白いと思います。伊勢の生子(うぶこ)人形も古風で雅味があります。庄内(しょうない)の小芥子(こけし)人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、その裳(すそ)の方を持って肩をたたくと、その人形の首が丁度いい工合に肩の骨にコツコツとあたります。勿論、非常に小さいものもありますから、肩を叩くのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かける時には持ってゆくと云います。こんなたぐいを穿索(せんさく)したら、各地方にいろいろの面白いものがありましょう。
 広東(カントン)製の竹彫りの人形にもなかなか精巧に出来たのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒なものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆(がま)仙人が最も器用に出来ています。先年外国へ行った時にも、なにか面白いものはないかと方々探しあるきましたが、どうもこれはと云うほどのものを見当りませんでした。戦争のために玩具の製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈(ばっこ)しているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んで来ることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買って来ましたけれど、取り立てて申し上げるほどのものではありません。
 なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代(いえじゅうだい)というようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董(こっとう)趣味で古い人形をあつめる人、ただ何が無しに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしは勿論、その最後の種類に属すべきものです。で、甚だ我田引水(がでんいんすい)のようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとか云うので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとは云われまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖に過ぎないので、古い硯(すずり)を愛するのも、古い徳利(とっくり)を愛するのも、所詮(しょせん)は同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形として可愛がってやらなければなりません。その意味に於いて、人形の新古や、値の高下(こうげ)や、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかに可愛らしいとか面白いとかいう点を発見したならば、連れて帰って可愛がってやることです。
 舞楽(ぶがく)の面を毎日眺めていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものに就いてなにか悟(さと)るところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、可愛らしい人形を眺めていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしは何か気分がむしゃくしゃするような時には、伏見人形の鬼(おに)や、今戸焼の狸(たぬき)などを机のうえに列べます。そうして、その鬼や狸の滑稽(こっけい)な顔をつくづく眺めていると、自然に頭がくつろいで来るように思われます。
 くどくも云う通り、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧に出来ているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい註文を持出すから面倒になるので、わたしから云えばそれらは真の人形好きではありません。勿論、わたしのように瓦楽多をむやみに陳列するには及びませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚のうえに飾って、朝夕に愛玩するのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとか廉(やす)いとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。廉いものを飾って置いては見っともないなどと云っているようでは、倶(とも)に人形の趣味を語るに足らないと思います。廉い人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、その数(かず)も二つか三つでもよろしい。それを坐右に飾って朝夕に愛玩することを、わたしは皆さんにお勧め申したいと思います。
 不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉(かき)に親しませるという方法が近年行なわれて来たようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にも努めて人形を愛玩させる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをお勧め申したいと思っています。なんの木偶(でく)の坊(ぼう)――とひと口に云ってしまえばそれ迄(まで)ですが、生きた人間にも木偶の坊に劣ったのがないとは云えません。魂のない木偶の坊から、われわれは却って生きた魂を伝えられることがないとも限りません。
 我田引水と云われるのを承知の上で、私はここに人形趣味を大いに鼓吹(こすい)するのであります。(大正9・10「新家庭」) この稿をかいたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年九月一日をなごりに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
わびしさや袖の焦げたる秋の雛(ひな)
(『十番随筆』所収)[#改ページ]


震災の記


 なんだか頭がまだほんとうに落着かないので、まとまったことは書けそうもない。
 去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳(とお)の年に日本橋で安政(あんせい)の大(おお)地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風の強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、又そのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落着いていられない。
 わたしが今まで経験したなかで、最も強い地震としていつまでも記憶に残っているのは、明治二十七年六月二十日の強震である。晴れた日の午後一時頃と記憶しているが、これも随分(ずいぶん)ひどい揺れ方で、市内に潰(つぶ)れ家もたくさんあった。百六、七十人の死傷者もあった。それに伴って二、三ヵ所にボヤも起ったが、一軒焼けか二軒焼けぐらいで皆消し止めて、ほとんど火事らしい火事はなかった。多少の軽いゆり返しもあったが、それも二、三日の後には鎮まった。三年まえの尾濃(びのう)震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちにそれもおのずと鎮まった。勿論、安政度の大震とはまるで比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれてから初めてこれほどの強震に出逢ったので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、しきりに地震の惨害を吹聴(ふいちょう)したのであった。その以来、わたしに取って地震というものが、一層おそろしくなった。わたしはいよいよ地震ぎらいになった。したがって、去年四月の強震のときにも、わたしは書きかけていたペンを捨てて庭先へ逃げ出した。
 こういう私がなんの予覚もなしに大正十二年九月一日を迎えたのであった。この朝は誰も知っている通り、二百十日前後にありがちの何となく穏かならない空模様で、驟雨(しゅうう)が折りおりに見舞って来た。広くもない家のなかはいやに蒸し暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸を閉め切って下座敷の八畳に降りて、二、三日まえから取りかかっている週刊朝日の原稿を書きつづけていた。庭の垣根から棚のうえに這いあがった朝顔と糸瓜(へちま)の長い蔓(つる)や大きい葉がもつれ合って、雨風にざわざわと乱れてそよいでいるのも、やがて襲ってくる暴風雨(あらし)を予報するように見えて、わたしの心はなんだか落ちつかなかった。
 勉強して書きつづけて、もう三、四枚で完結するかと思うところへ、国民図書刊行会の広谷君が雨を冒して来て、一時間ほど話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町山元町(やまもとちょう)に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯(ひるめし)を食っているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさし込んで来た。どこかで蝉(せみ)も鳴き出した。
 わたしは箸(はし)を措(お)いて起(た)った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段(はしごだん)を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏(はばた)きをするような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖(ふすま)も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。
 勿論、わたしはすぐに引っ返して階子をかけ降りた。玄関の電燈は今にも振り落されそうに揺れている。天井から降ってくるらしい一種のほこりが私の眼鼻にしみた。
「地震だ。ひどい地震だ。早く逃げろ。」
 妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱(くつぬぎ)から硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐(あおぎり)の枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。女中も裏口から出て来た。震動はまだやまない。私たちはまっすぐに立っているに堪えられないで、門柱に身を寄せて取りすがっていると、向うのA氏の家からも細君や娘さんや女中たちが逃げ出して来た。わたしの家の門構えは比較的堅固に出来ている上に、門の家根が大きくて瓦の墜落を避ける便宜があるので、A氏の家族は皆わたしの門前に集まって来た。となりのM氏の家族も来た。大勢(おおぜい)が門柱にすがって揺られているうちに、第一回の震動がようやくに鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無難であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王(やしゃおう)がうつ向きに倒れて、その首が悼(いた)ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
 と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起ったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取りすがった。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。A氏の家根瓦がばらばらと揺れ落された。横町の角にある玉突場の高い家根からつづいて震い落される瓦の黒い影が鴉(からす)の飛ぶようにみだれて見えた。
 こうして震動をくり返すからは、おそらく第一回以上の烈震はあるまいという安心と、我れも人も幾らか震動に馴れて来たのと、震動がだんだんに長い間隔を置いて来たのとで、近所の人たちも少しく落着いたらしく、思い思いに椅子(いす)や床几(しょうぎ)や花筵(はなむしろ)などを持ち出して来て、門のまえに一時の避難所を作った。わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき□(あが)っていた。三番町の方角にも煙りがみえた。取分けて下町(したまち)方面の青空に大きい入道雲のようなものが真っ白にあがっているのが私の注意をひいた。雲か煙りか、晴天にこの一種の怪物の出現を仰ぎみた時に、わたしは云い知れない恐怖を感じた。
 そのうちに見舞の人たちがだんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。ほとんど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、いちじるしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上(かざかみ)に位しているのとで、誰もさほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分かれているのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろを一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持ち出して来た。ビールやサイダーの壜(びん)を運び出すのもあった。わたしの家からも梨(なし)を持ち出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰り返された。わたしば花むしろのうえに坐って、「地震加藤(かとう)」の舞台を考えたりしていた。
 こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電燈のつかない町は暗くなった。あたりがだんだんに暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅(まっか)にあぶられているのが鮮やかにみえて、時どきに凄(すさ)まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰(あま)すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群れのうちから若い人はひとり起(た)ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
 最後の見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村(いちむら)君で、その住居は土手(どて)三番町であるが、火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
 十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再び熾(さか)んになったという。それでも、まだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る。荷車を押してくる。荷物をかついでくる。馬が駆ける。提灯が飛ぶ。いろいろのいでたちをした男や女が気ちがい眼(まなこ)でかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵(ちどりがふち)公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押し寄せてくる。
 うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂(ごみざか)上の三井(みつい)邸のうしろに迫って、怒涛(どとう)のように暴れ狂う焔(ほのお)のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白くみえた。
 迂回(うかい)してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない。風上であるの、風向きが違うのと、今まで多寡(たか)をくくっていたのは油断であった。――こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
 あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。わたしは床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横たわっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎(まば)らに人家が立っていた。わたしが今立っている酒屋のところには、おてつ牡丹餅の店があった。そこらには茶畑もあった。草原にはところどころに小さい水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかき分けて、しきりにばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
 誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駈けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄(にわ)かに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭(ろうそく)の火が微(かす)かにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
 万一の場合には紀尾井町(きおいちょう)の小林蹴月(こばやししゅうげつ)君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻(ね)じ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
 どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
 わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺(うじしゅうい)物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。(大正12・10「婦人公論」)[#改ページ]


十番雑記


 昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
 虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取(はかど)らない。いよいよ晦日(みそか)であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古(ほご)同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓(かぐう)していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
 わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳(ねこやなぎ)』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
 その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。

     仮住居

 十月十二日の時雨(しぐれ)ふる朝に、私たちは目白(めじろ)の額田六福(ぬかだろっぷく)方を立ち退いて、麻布宮村町(みやむらちょう)へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
 崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多(めった)に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博(こうのよしひろ)君の紹介でようよう此処(ここ)に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
 今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋(きょうじや)の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯(こ)うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
 その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥(たらい)やバケツや七輪(しちりん)のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅(おびや)かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好(よ)いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢(じゅばん)や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
 目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有(みぞう)の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいらながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗(むやみ)にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
 まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災(りさい)以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改(あらた)まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥(ふしょう)な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:399 KB

担当:undef