綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

これを雨月物語(うげつものがたり)式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝(なんじ)、見よ。源氏(げんじ)の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪(のろ)いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
 拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷(あわせ)羽織を着るほどであったが、晴れると俄(にわ)かにまた暑くなる。芭蕉(ばしょう)翁は「木曾(きそ)殿と背中あはせの寒さ哉(かな)」と云ったそうだが、わたしは蒲(かば)殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
 午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干(らんかん)に倚(よ)って見あげると、東南につらなる塔(とう)の峰(みね)や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
 宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺(しゅぜんじ)に参詣した。名刺を通じて古宝物(こほうもつ)の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃(いんぎん)に断わられた。
 去って日枝(ひえ)神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂(いい)にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
 挽物(ひきもの)細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂(かつら)川の水のうえには薄い靄(もや)が這っている。
 修善寺がよいの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駆(か)けて来た。
 夜は机にむかって原稿などをかく、今夜は大湯(おおゆ)換えに付き入浴八時かぎりと触れ渡された。

     (二)

 二十七日。六時に起きて入浴。きょうも晴れつづいたので、浴客はみな元気がよく、桂川の下流へ釣に行こうというのもあって、風呂場はすこぶる賑わっている。ひとりの西洋人が悠然としてはいって来たが、湯の熱いのに少しおどろいた体(てい)であった。
 朝飯まえに散歩した。路は変らぬ河岸であるが、岩に堰(せ)かれ、旭日(あさひ)にかがやいて、むせび落つる水のやや浅いところに家鴨(あひる)数十羽が群れ遊んでいて、川に近い家々から湯の烟(けむ)りがほの白くあがっているなど、おのずからなる秋の朝の風情を見せていた。岸のところどころに芒(すすき)が生えている。近づいて見ると「この草取るべからず」という制札を立ててあって、後(のち)の月見(つきみ)の材料にと貯えて置くものと察せられた。宿に帰って朝飯の膳にむかうと、鉢にうず高く盛った松茸に秋の香が高い。東京の新聞二、三種をよんだ後、頼家(よりいえ)の墓へ参詣に行った。
 桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、的場(まとば)の前などをぬけて、塔の峰の麓に出た。ところどころに石段はあるが、路は極めて平坦で、雑木(ぞうき)が茂っているあいだに高い竹藪がある。槿(むくげ)の花の咲いている竹籬(たけがき)に沿うて左に曲がると、正面に釈迦堂がある。頼家の仏果(ぶっか)円満を願うがために、母政子(まさこ)の尼が建立(こんりゅう)したものであると云う。鎌倉(かまくら)の覇業を永久に維持する大いなる目的の前には、あるに甲斐(かい)なき我が子を捨て殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと推し量ると、ふだんは虫の好かない傲慢(ごうまん)の尼将軍その人に対しても、一種同情の感をとどめ得なかった。
 さらに左に折れて小高い丘にのぼると、高さ五尺にあまる楕円形の大石に征夷大将軍源左金吾(げんさきんご)頼家尊霊と刻み、煤(すす)びた堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を打った古い幕が張ってある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺町の方を見おろして立っている。あたりには杉や楓(かえで)など枝をかわして生い茂って、どこかで鴉(からす)が啼(な)いている。
 すさまじいありさまだとは思ったが、これに較べると、範頼の墓は更に甚だしく荒れまさっている。叔父御よりも甥(おい)の殿の方がまだしもの果報があると思いながら、香を手向(たむ)けて去ろうとすると、入れ違いに来て磬(けい)を打つ参詣者があった。
 帰り路で、ある店に立ってゆで栗を買うと実に廉(やす)い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の紙が二ヵ所ばかり裂けている。眼に立つほどの破れではないが、それにささやく風の音がややもすれば耳について、秋は寂しいものだとしみじみ思わせるうちに、宿の男が来て貼りかえてくれた。向う座敷は障子をあけ放して、その縁側に若い女客が長い洗い髪を日に乾かしているのが、榎(えのき)の大樹を隔ててみえた。
 午後は読書に倦(う)んで肱枕(ひじまくら)を極(き)めているところへ宿の主人が来た。主人はよく語るので、おかげで退屈を忘れた。
 きょうも水の音に暮れてしまったので、電燈の下(もと)で夕飯をすませて、散歩がてら理髪店へゆく。大仁(おおひと)理髪組合の掲示をみると、理髪料十二銭、またそのわきに附記して、「但し角刈とハイカラは二銭増しの事」とある。いわゆるハイカラなるものは、どこへ廻っても余計に金の要ることと察せられた。店先に張子の大きい達磨(ダルマ)を置いて、その片眼を白くしてあるのは、なにか願(がん)掛けでもしたのかと訊(き)いたが、主人も職人も笑って答えなかった。楽隊の声が遠くきこえる。また例の活動写真の広告らしい。
 理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷やびやと肌にしみて、水に落ちる家々の灯かげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面にきらめいていた。
 宿に帰って入浴、九時を合図に寝床にはいると、廊下で、「按摩(あんま)は如何(いかが)さま」という声がきこえた。

     (三)

 二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊によろしいように思われて身神爽快。天気もまたよい。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
 月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁(おおひと)行きの馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂を吹いている。宿の女どもは門(かど)に立ち、または途中まで見送って、「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」などと口々に云っている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月ひと月と居馴染(いなじ)めば、これもまた一種の別れである。涙もろい女客などは、朝夕親しんだ宿の女どもと云い知れぬ名残(なごり)の惜しまれて、馬車の窓から幾たびか見返りつつ揺られて行くのもあった。
 修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断わられたのも、これが為であるとうなずかれた。
 転じて新井別邸の前、寄席のまえを過ぎて、見晴らし山というのに登った。半腹の茶店に休むと、今来た町の家々は眼の下につらなって、修禅寺の甍(いらか)はさすがに一角をぬいて聳(そび)えていた。
 この茶店には運動場があって、二十歳(はたち)ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳(すそ)にまつわる萩や芒(すすき)がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険(けわ)しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪(もっけ)の幸いであった。帰りは下り坂を面白半分に駈け降りると、あぶなく滑って転びそうになること両三度、降りてしまったら汗が流れた。
 山を降りると田圃路(たんぼみち)で、田の畔(くろ)には葉鶏頭の真紅(まっか)なのが眼に立った。もとの路を還らずに、人家のつづく方を北にゆくと、桜ヶ岡(さくらがおか)の麓を過ぎて、いつの間にか向う岸へ廻ったとみえて、図(はか)らずも頼家の墓の前に出た。きのう来て、今日もまた偶然に来た。おのずからなる因縁浅からぬように思われて、ふたたび墓に香をささげた。
 頼家の墓所は単に塔の峰の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡(しげつがおか)と云うそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来たり弔って、空ゆく月を打ち仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我が子の上よ。」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡と云うことになったとか。蕭条(しょうじょう)たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我が子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。かれが斯くまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条(ほうじょう)に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼(ひでより)と相抱いて城と倶(とも)にほろびた淀君(よどぎみ)の方が、人の母としては却って幸いであったかもしれない。
 帰り路に虎渓橋(こけいきょう)の上でカーキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客がある筈であるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買い切りにした料簡(りょうけん)になって、全身を湯にひたしながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、いい心持を通り越して、すこし茫となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
 主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶え間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別(わか)ちはないが、昼はやがて夜となった。
 食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執(と)り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音(ね)が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過させ給うであろうと思いやると、われわれが問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫(はたおりむし)が鳴いていた。
 わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履ばきの浴客が二、三人はいってゆく。私も続いてはいろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆(がま)のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿に逃げ帰った。
 帰って机にむかえば、下の離れ座敷でもまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑やかな晩である。
 十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢(あふ)れるかと思うような大雨となった。(掲載誌不詳、『十番随筆』所収)[#改ページ]


春の修善寺


 十年ぶりで三島(みしま)駅から大仁(おおひと)行きの汽車に乗り換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場(だいば)駅附近を過ぎると、此処(ここ)らももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地(あきち)に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫(ふる)えている小さい竹藪は、折りからの強い西風にふき煽(あお)られて、今にも折れるかとばかりに撓(たわ)みながら鳴っている。広い桑畑には時どき小さい旋風をまき起して、黄龍のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。
 このいかにも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているという、のびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかに沼津(ぬまづ)の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸(あしたかまる)が駿河(するが)湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田(しもだ)に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟(ほんぜんかいご)した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効(じこう)を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞き合せると、当時の被害者はとうに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生まれではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立(こんりゅう)して、自分の安心(あんじん)を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、幾らかの金を作った。彼はその金をふところにしてかの愛鷹丸に乗り込むと、駿河の海は怒って暴(あ)れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナ(旧約聖書の中の予言者)を乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも、罪ある人ばかりでなく、乗組みの大勢をも併せて海のなかへ投げ落してしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引揚げられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業(ざいごう)の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどに酷(むご)いものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。
 南条(なんじょう)駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟(すなけむ)りが巻きあがっている。その黄いろい渦が今は仄白(ほのじろ)くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套(がいとう)の袖をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗(わび)しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振り照らす提灯の灯(ひ)のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫(ふる)えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自動車に乗った。

 修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は、十年前の秋、この古い墓のまえに額(ぬか)づいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津(あいづ)の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
 その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋(うなぎや)が一軒あったばかりで、丘の周囲にはほとんど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀(まつ)られて、堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪(さ)めかかった色がいかにも品のよい、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間にか取払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋(たず)ねるよすがもなかった。なんの掩(おお)いをも持たない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。いろいろの新しい建物が丘の中腹までひしひしと押しつめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。
 頼家公の墳墓の領域がだんだんに狭(せば)まってゆくのは、町がだんだんに繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉ももたない、一個の旅人(たびびと)に過ぎない。十年前にくらべると、町はいちじるしく賑やかになった。多くの旅館は新築をしたのもある。建て増しをしたのもある。温泉倶楽部(クラブ)も出来た、劇場も出来た。こうして年毎に発展してゆく此の町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲(しの)んでいる一個の貧しい旅びとであることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓と向い合ってしばらく黙って立っていた。
 それでも墓のまえには三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとして不図(ふと)見かえると、入口の太い柱のそばに一つの箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家おみくじ」と書いてあった。その傍の小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
 源氏の将軍が預言者であったか、売卜(うらない)者であったか、わたしは知らない。しかし此の町の人たちは、果たして頼家公に霊あるものとして斯(こ)ういうものを設けたのであろうか、あるいは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、カラカラという音がして、下の口から小さく封じた活版刷のお神籤(みくじ)が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どのお神籤にもみんな凶が出るに相違ないと思った。
 修禅寺はいつ詣(まい)っても感じのよいお寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、このお寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽(さわや)かな感じをあたえるのが却って雄大荘厳の趣を示している。衆生(しゅじょう)をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくので無くて、赫灼(かくやく)たる光明を高く仰がしめると云うような趣がいかにも尊げにみえる。
 きょうも明るい日が大きい甍(いらか)を一面に照らして、堂の家根(やね)に立っている幾匹の唐獅子(からじし)の眼を光らせている。脚絆を穿いたお婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍(あい)のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具(おもちゃ)の刀をさげた小児(こども)がお百度石に倚りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
 避寒の客が相当にあるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行(ごんぎょう)の知らせらしい。ほかの時はわたしもいちいち記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に明るくなるからである。
 春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇がおりて来て、桂川の水にも鼠色の靄(もや)がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨(あひる)の群れの白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電燈の花が明るく咲いて、町は俄かに夜のけしきを作って来る。旅館はひとしきり忙(せわ)しくなる。大仁から客を運び込んでくる自動車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯けむりが白く迷っているばかりである。
 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
 それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂が籠(こも)っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
 修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物をか呼び出すかも知れない。宵っ張りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。(大正7・3「読売新聞」)[#改ページ]


妙義の山霧


     (上)

 妙義町(みょうぎまち)の菱屋(ひしや)の門口(かどぐち)で草鞋(わらじ)を穿いていると、宿の女が菅笠(すげがさ)をかぶった四十五、六の案内者を呼んで来てくれました。ゆうべの雷(かみなり)は幸いにやみましたが、きょうも雨を運びそうな薄黒い雲が低くまよって、山も麓も一面の霧に包まれています。案内者とわたしは笠をならべて、霧のなかを爪さき上がりに登って行きました。
 私は初めてこの山に登る者です。案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山(はくうんざん)の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、小さい日光(にっこう)とも云うべき建物です。こういう場所には必ずあるべきはずの杉の大樹が、天と地とを繋ぎ合せるように高く高く生い茂って、社前にぬかずく参拝者の頭(こうべ)の上をこんもりと暗くしています。私たちはその暗い木の下蔭をたどって、山の頂きへと急ぎました。
 杉の林は尽きて、さらに雑木(ぞうき)の林となりました。路のはたには秋の花が咲き乱れて、芒(すすき)の青い葉は旅人(たびびと)の袖にからんで引き止めようとします。どこやらでは鶯(うぐいす)が鳴いています。相も変らぬ爪さき上がりに少しく倦(う)んで来たわたしは、小さい岩に腰を下ろして巻煙草をすいはじめました。霧が深いのでマッチがすぐに消えます。案内者も立ち停まって同じく煙管(きせる)を取り出しました。
 案内者は正直そうな男で、煙草のけむりを吹く合い間にいろいろの話をして聞かせました。妙義登山者は年々殖(ふ)える方であるが暑中は比較的にすくない、一年じゅうで最も登山者の多いのは十月の紅葉の時節で、一日に二百人以上も登ることがある。しかし昔にくらべると、妙義の町はたいそう衰えたそうで、二十年前までは二百戸以上をかぞえた人家が今では僅かに三十二戸に減ってしまったと云います。
「なにしろ貸座敷が無くなったので、すっかり寂(さび)れてしまいましたよ。」
「そうかねえ。」
 わたしは巻煙草の吸殻(すいがら)を捨てて起つと、案内者もつづいて歩き出しました。山霧は深い谷の底から音も無しに動いて来ました。
 案内者は振り返りながらまた話しました。上州(じょうしゅう)一円に廃娼を実行したのは明治二十三年の春で、その当時妙義の町には八戸の妓楼(ぎろう)と四十七人の娼妓があった。妓楼の多くは取り毀されて桑畑となってしまった。磯部(いそべ)や松井田(まついだ)からかよって来る若い人々のそそり唄も聞えなくなった。秋になると桑畑には一面に虫が鳴く。こうして妙義の町は年毎に衰えてゆく。
 谷川の音が俄かに高くなったので、話し声はここで一旦消されてしまいました。頂上の方からむせび落ちて来る水が岩や樹の根に堰(せ)かれて、狭い山路を横ぎって乱れて飛ぶので、草鞋(わらじ)を湿(ぬ)らさずに過ぎる訳には行きませんでした。案内者は小さい石の上をひょいひょいと飛び越えて行きます。わたしもおぼつかない足取りで其の後を追いましたが、草鞋はぬれていい加減に重くなりました。
 水の音をうしろに聞きながら、案内者はまた話し出しました。維新前の妙義町は更に繁昌したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本(さかもと)、軽井沢(かるいざわ)、沓掛(くつかけ)の宿々(しゅくじゅく)を経て追分(おいわけ)にかかるのが順路ですが、そのあいだには横川(よこかわ)の番所があり、碓氷(うすい)の関所があるので、旅人の或る者はそれらの面倒を避けて妙義の町から山伝いに信州の追分へ出る。つまり此の町が関の裏路になっていたのです。山ふところの夕暮れに歩み疲れた若い旅人が青黒い杉の木立(こだち)のあいだから、妓楼の赤い格子を仰ぎ視た時には、沙漠でオアシスを見いだしたように、かれらは忙(いそ)がわしくその軒下に駈け込んで、色の白い山の女に草鞋の紐(ひも)を解かせたでしょう。
「その頃は町もたいそう賑やかだったと、年寄りが云いますよ。」
「つまり筑波(つくば)の町のような工合だね。」
「まあ、そうでしょうよ。」
 霧はいよいよ深くなって、路をさえぎる立木の梢(こずえ)から冷たい雫(しずく)がばらばらと笠の上に降って来ました。草鞋はだんだんに重くなりました。
「旦那、気をおつけなさい。こういう陰った日には山蛭(やまびる)が出ます。」
「蛭が出る。」
 わたしは慌てて自分の手足を見廻すと、たった今、ひやりとしたのは樹のしずくばかりではありませんでした。普通よりはやや大きいかと思われる山蛭が、足袋と脚絆との間を狙って、左の足首にしっかりと吸い付いていました。吸い付いたが最後、容易に離れまいとするのを無理に引きちぎって投げ捨てると、三角に裂けた疵口(きずぐち)から真紅(まっか)な血が止め度もなしにぽとぽとと流れて出ます。
「いつの間にか、やられた。」
 こう云いながらふと気が付くと、左の腕もむずむずするようです。袖をまくって覗いて見ると、どこから這い込んだのか二の腕にも黒いのがまた一匹。慌てて取って捨てましたが、ここからも血が湧いて出ます。案内者の話によると、蛭の出るのは夏季の陰った日に限るので、晴れた日には決して姿を見せない。丁度きょうのような陰ってしめった日に出るのだそうで、わたしはまことに有難い日に来合せたのでした。
 なにしろ血が止まらないのには困りました。見ているうちに左の手はぬらぬらして真紅になります。もう少しの御辛抱ですと云いながら案内者は足を早めて登って行きます。わたしもつづいて急ぎました。
 路はやがて下(くだ)りになったようですが、わたしはその「もう少し」というところを目的(めあて)に、ただ夢中で足を早めて行きましたからよくは記憶していません。それから愛宕(あたご)神社の鳥居というのが眼にはいりました。ここらから路は二筋に分かれているのを、私たちは右へ取って登りました。路はだんだんに嶮(けわ)しくなって来て、岩の多いのが眼につきました。
 妙義葡萄酒(ぶどうしゅ)醸造所というのに辿(たど)り着いて、ふたりは縁台に腰をかけました。家のうしろには葡萄園があるそうですが、表構えは茶店のような作り方で、ここでは登山者に無代(ただ)で梅酒というのを飲ませます。喉(のど)が渇いているので、わたしは舌鼓を打って遠慮なしに二、三杯飲みました。そのあいだに案内者は家内から藁(わら)を二、三本貰って来て、藁の節を蛭の吸い口に当てて堅く縛ってくれました。これはどこでもやることで、蛭の吸い口から流れる血はこうして止めるよりほかは無いのです。血が止まって、わたしも先ずほっとしました。
 それにしても手足に付いた血の痕(あと)を始末しなければなりません。足の方はさのみでもありませんでしたが、手の方はべっとり紅くなっています。水を貰って洗おうとすると、ただ洗っても取れるものではない、一旦は水を口にふくんで、いわゆる啣(ふく)み水(みず)にして手拭(てぬぐい)か紙に湿(しめ)し、しずかに拭き取るのが一番よろしいと、案内者が教えてくれました。その通りにしてハンカチーフで拭き取ると、なるほど綺麗に消えてしまいました。
「むかしは蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎の啣み水で洗って貰ったもんです。」
 案内者は煙草を吸いながら笑いました。わたしもさっきの話を思い出さずにはいられませんでした。
 信州路から上州へ越えてゆく旅人が、この山蛭に吸われた腕の血を妙義の女に洗って貰ったのは、昔からたくさんあったに相違ありません。うす暗い座敷で行燈(あんどう)の火が山風にゆれています。江戸絵を貼った屏風(びょうぶ)をうしろにして、若い旅人が白い腕をまくっていると、若い遊女が紅さした口に水をふくんで、これを三栖紙(みすがみ)にひたして男の腕を拭いています。窓のそとでは谷川の音がきこえます。こんな舞台が私の眼の前に夢のように開かれました。
 しかも其の美しい夢はたちまちに破られました。案内者は笠を持って起(た)ち上がりました。
「さあ、旦那、ちっと急ぎましょう。霧がだんだんに深くなって来ます。」
 旅人と遊女の舞台は霧に隠されてしまいました。わたしも草鞋の紐を結び直して起ちました。足もとには岩が多くなって来ました。頭の上には樹がいよいよ繁って来ました。わたしは山蛭を恐れながら進みました。谷に近い森の奥では懸巣(かけす)が頻(しき)りに鳴いています。鸚鵡(おうむ)のように人の口真似をする鳥だとは聞いていましたが、見るのは初めてです。枝から枝へ飛び移るのを見ると、形は鳩(はと)のようで、腹のうす赤い、羽のうす黒い鳥でした。小鳥を捕って食う悪鳥だと云うことです。ジィジィという鳴く音を立てて、なんだか寂しい声です。
 岩が尽きると、また冷たい土の路になりました。ひと足踏むごとに、土の底からにじみ出すようなうるおいが草鞋に深く浸み透って来ます。狭い路の両側には芒(すすき)や野菊のたぐいが見果てもなく繁り合って、長く長く続いています。ここらの山吹(やまぶき)は一重が多いと見えて、みんな黒い実を着けていました。
 よくは判りませんが、一旦くだってから更に半里ぐらいも登ったでしょう。坂路はよほど急になって、仰げば高い窟(いわや)の上に一本の大きな杉の木が見えました。これが中(なか)の嶽(たけ)の一本杉と云うので、われわれは既に第二の金洞山(きんとうざん)に踏み入っていたのです。金洞山は普通に中の嶽と云うそうです。ここから第三の金□山(きんけいざん)は真正面に見えるのだそうですが、この時に霧はいよいよ深くなって来て、正面の山どころか、自分が今立っている所の一本杉の大樹さえも、半分から上は消えるように隠れてしまって、枝をひろげた梢は雲に駕(の)る妖怪のように、不思議な形をしてただ朦朧(もうろう)と宙に泛(う)かんでいるばかりです。峰も谷も森も、もうなんにも見えなくなってしまいました。「山あひの霧はさながら海に似て」という古人の歌に嘘はありません。しかも浪かと誤まる松風の声は聞えませんでした。山の中は気味の悪いほどに静まり返って、ただ遠い谷底で水の音がひびくばかりです。ここでも鶯の声をときどきに聞きました。

     (下)

 一本杉の下(もと)には金洞舎という家があります。この山の所有者の住居で、かたわら登山者の休憩所に充ててあるのです。二人はここの縁台を仮りて弁当をつかいました。弁当は菱屋で拵(こしら)えてくれたもので、山女(やまめ)の塩辛く煮たのと、玉子焼と蓮根(れんこん)と奈良漬の胡瓜(きゅうり)とを菜(さい)にして、腹のすいているわたしは、折詰の飯をひと粒も残さずに食ってしまいました。わたしはここで絵葉書を買って記念のスタンプを捺(お)して貰いました。東京の友達にその絵葉書を送ろうと思って、衣兜(かくし)から万年筆を取り出して書きはじめると、あたかもそれを覗き込むように、冷たい霧は黙ってすうと近寄って来て、わたしの足から膝へ、膝から胸へと、だんだんに這い上がって来ます。葉書の表は見るみる湿(ぬ)れて、インキはそばから流れてしまいます。わたしは癇癪をおこして書くのをやめました。そうして、自分も案内者もこの家も、あわせて押し流して行きそうな山霧の波に向き合って立ちました。
 わたしは日露戦役の当時、玄海灘(げんかいなだ)でおそろしい濃霧に逢ったことを思い出しました。海の霧は山よりも深く、甲板の上で一尺さきに立っている人の顔もよく見えない程でした。それから見ると、今日の霧などはほとんど比べ物にならない位ですが、その時と今とはこっちの覚悟が違います。戦時のように緊張した気分をもっていない今のわたしは、この山霧に対しても甚だしく悩まされました。
 二人がここを出ようとすると、下の方から七人連れの若い人が来ました。磯部の鉱泉宿でゆうべ一緒になった日本橋辺の人たちです。これも無論に案内者を雇っていましたが、行く路は一つですからこっちも一緒になって登りました。途中に菅公硯(すずり)の水というのがあります。菅原道真(すがわらみちざね)は七歳の時までこの麓に住んでいたのだそうで、麓には今も菅原村の名が残っていると云います。案内者は正直な男で、「まあ、ともかくも、そういう伝説(いいつたえ)になっています。」と、余り勿体(もったい)ぶらずに説明してくれました。
「さあ、来たぞ。」
 前の方で大きな声をする人があるので、わたしも気がついて見あげると、名に負う第一の石門(せきもん)は蹄鉄(ていてつ)のような形をして、霧の間から屹(きっ)と聳(そび)えていました。高さ十丈(じょう)に近いとか云います。見聞の狭いわたしは、はじめてこういう自然の威力の前に立ったのですから、唯あっと云ったばかりで、ちょっと適当な形容詞を考え出すのに苦しんでいるうちに、かの七人連れも案内者も先に立ってずんずん行き過ぎてしまいます。私もおくれまいと足を早めました。案内者をあわせて十人の人間は、鯨(くじら)に呑まれる鰯(いわし)の群れのように、石門の大きな口へだんだんに吸い込まれてしまいました。第一の石門を出る頃から、岩の多い路はいちじるしく屈曲して、あるいは高く、あるいは低く、さらに半月形をなした第二の石門をくぐると、蟹(かに)の横這いとか、釣瓶(つるべ)さがりとか、片手繰りとか、いろいろの名が付いた難所に差しかかるのです。なにしろ碌々(ろくろく)に足がかりも無いような高いなめらかな岩の間を、長い鉄のくさりにすがって降りるのですから、余り楽ではありません。案内者はこんなことを云って嚇(おど)しました。
「いまは草や木が茂っていて、遠い谷底が見えないからまだ楽です。山が骨ばかりになってしまって、下の方が遠く幽(かす)かに見えた日には、大抵な人は足がすくみますよ。」
 成程そうかも知れません。第二第三の石門をくぐり抜ける間は、わたしも少しく不安に思いました。みんなも黙って歩きました。もし誤まってひと足踏みはずせば、わたしもこの紀行を書くの自由を失ってしまわなければなりません。第四の石門まで登り詰めて、武尊岩(ぶそんいわ)の前に立った時には、人も我れも汗びっしょりになっていました。日本武尊(やまとたけるのみこと)もこの岩まで登って来て引っ返されたと云うので、武尊岩の名が残っているのだそうです。そのそばには天狗の花畑というのがあります。いずこの深山(みやま)にもある習いで、四季ともに花が絶えないので此の名が伝わったのでしょう。今は米躑躅(こめつつじ)の細かい花が咲いていました。
 日本武尊にならって、わたしもここから引っ返しました。当人がしいて行きたいと望めば格別、さもなければ妄(みだ)りにこれから先へは案内するなと、警察から案内者に云い渡してあるのだそうです。
 下山(げざん)の途中は比較的に楽でした。来た時とは全く別の方向を取って、水の多い谷底の方へ暫(しばら)く降って行きますと、さらに草や木の多い普通の山路に出ました。どんなに陰った日でも、正午前後には一旦明るくなるのだそうですが、今日はあいにくに霧が晴れませんでした。面白そうに何か騒いでいる、かの七人連れをあとに残して、案内者と私とは霧の中を急いで降りました。足の方が少しく楽になったので、わたしはまた例のおしゃべりを始めますと、案内者もこころよく相手になって、帰途(かえり)にもいろいろの話をしてくれました。その中にこんな悲劇がありました。
「旦那は妙義神社の前に田沼(たぬま)神官の碑というのが建っているのをご覧でしたろう。あの人は可哀そうに斬(き)り殺されたんです。明治三十一年の一月二十一日に……。」
「どうして斬られたんだね。」
「相手はまあ狂人ですね。神官のほかに六人も斬ったんですもの。それは大変な騒ぎでしたよ。」
 妙義町ひらけて以来の椿事(ちんじ)だと案内者は云いました。その日は大雪の降った日で、正午を過ぎる頃に神社の外で何か大きな声を出して叫ぶ者がありました。神官の田沼万次郎(まんじろう)が怪しんで、折柄そこに居合せた宿屋の番頭に行って見て来いと云い付けました。番頭が行って見ると、ひとりの若い男が袒(はだ)ぬぎになって雪の中に立っているのです。その様子がどうも可怪(おかし)いので、お前は誰だと声をかけると、その男はいきなりに刀を引き抜いて番頭を目がけて斬ってかかりました。番頭は驚いて逃げたので幸いに無事でしたが、その騒ぎを聞いて社務所から駈け付けて来た山伏の何某(なにがし)は、出合いがしらに一と太刀斬られて倒れました。これが第一の犠牲でした。
 男はそれから血刀を振りかざして、まっしぐらに社務所へ飛び込みました。そうして、不意に驚く人々を片端から追い詰めて、あたるに任せて斬りまくったのです。田沼神官と下女とは庭に倒れました。神官の兄と弟は敵を捕えようとして内と庭とで斬られました。またそのほかにも二人の負傷者ができました。庭から門前の雪は一面に紅くひたされて、見るからに物すごい光景を現じました。血に狂った男はまだ鎮まらないで、相手嫌わずに雪の中を追い廻すのですから、町の騒ぎは大変でした。
 半鐘が鳴る。消防夫が駈け付ける。町の者は思い思いの武器を持って集まる。四方八方から大勢が取り囲んで攻め立てたのですが、相手は死に物狂いで容易に手に負えません。そのうちに一人の撃ったピストルが男の足にあたって思わず小膝を折ったところへ、他の一人の槍がその脇腹にむかって突いて来ました。もうこれ迄(まで)です。男の血は槍や鳶口(とびぐち)や棒や鋤(すき)や鍬(くわ)を染めて、からだは雪に埋められました。検視の来る頃には男はもう死んでいました。
 神官と山伏と下女とは即死です。ほかの四人は重傷ながら幸いに命をつなぎ止めました。わたしの案内者も負傷者を病院へ運んだ一人だそうです。
「そこで、その男は何者だね。」
 わたしは縁台に腰をかけながら訊きました。くだりの路も途中からはもと来た路と一つになって、私たちはふたたび一本杉の金洞舎の前に出たのです。案内者も腰をおろして、茶を飲みながらまた話しました。
 磯部から妙義へ登る途中に、西横野(にしよこの)という村があります。かの惨劇の主人公はこの村の生まれで、前年の冬に習志野(ならしの)の聯隊から除隊になって戻って来た男です。この男の兄というのは去年から行くえ不明になっているので、母もたいそう心配していました。すると、前に云った二十一日の朝、彼は突然に母にむかって、これから妙義へ登ると云い出したのです。この大雪にどうしたのかと母が不思議がりますと、実はゆうべ兄(にい)さんに逢ったと云うのです。ゆうべの夢に、妙義の奥の箱淵(はこぶち)という所へ行くと、黒い淵の底から兄さんが出て来て、おれに逢いたければ明日(あした)ここへ尋ねて来て、淵にむかって大きな声でおれを呼べ、きっと姿を見せてやろうと云う。そんなら行こうと堅く約束したのだから、どうしても行かなければならないと云い張って、母が止めるのも肯(き)かずにとうとう出て行ったのです。それからどうしたのかよく判りません。人を斬った刀は駐在所の巡査の剣を盗み出したのだと云います。
 しかし其の箱淵へ尋ねて行く途中であったのか、あるいは淵に臨んで幾たびか兄を呼んでも答えられずに、むなしく帰る途中であったのか、それらのことはやはり判りません。とにかくに意趣(いしゅ)も遺恨もない人間を七人までも斬ったと云うのは、考えてもおそろしい事です。気が狂ったに相違ありますまい。しかも大雪のふる日に妙義の奥に分け登って、底の知れない淵にむかって、恋しい兄の名を呼ぼうとした弟の心を思いやれば、なんだか悲しい悼(いた)ましい気もします。殺された人々は無論気の毒です。殺した人も可哀そうです。その箱淵という所へ行って見たいような気もしましたが、ずっと遠い山奥だと聞きましたからやめました。
 帰途(かえり)にも葡萄酒醸造所に寄って、ふたたび梅酒の御馳走になりました。アルコールがはいっていないのですから、わたしには口当りがたいそう好(よ)いのです。少々ばかりのお茶代を差し置いてここを出る頃には、霧も雨に変って来たようですから、いよいよ急いで宿へ帰り着いたのは丁度午後三時でした。登山したのは午前九時頃でしたから、かれこれ六時間ほどを山めぐりに費した勘定です。
 菱屋で暫く休息して、わたしは日の暮れないうちに磯部へ戻ることにしました。案内者に別れて、菱屋の門(かど)を出ると、笠の上にはポツポツという音がきこえます。蛭ではありません。雨の音です。山の上からは冷たい風が吹きおろして来ました。貸座敷の跡だと云うあたりには、桑の葉がぬれて戦(そよ)いでいました。(大正3・9「木太刀」)[#改ページ]


磯部の若葉


 きょうもまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部(いそべ)の若葉を音もなしに湿(ぬ)らしている。家々の湯の烟りも低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時どきに薄く眼をあいて夏らしい光りを微かに洩らすかと思うと、又すぐに睡(ねむ)そうにどんよりと暗くなる。鶏が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀(さえず)っても、上州(じょうしゅう)の空は容易に夢から醒めそうもない。
「どうも困ったお天気でございます。」
 人の顔さえ見れば先ず斯(こ)ういうのが此の頃の挨拶になってしまった。廊下や風呂場で出逢う逗留(とうりゅう)の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰り返している。わたしも無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、此処(ここ)で毎日原稿紙にペンを走らしている私は、ほかの湯治客ほどに雨の日のつれづれに苦しまないのであるが、それでも人の口真似をして「どうも困ります」などと云っていた。
 実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年じゅうで最も忙がしい養蚕(ようさん)季節で、なるべく湿(ぬ)れた桑の葉をお蚕(こ)さまに食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も、決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味をもっていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、わたしも真面目に「どうも困ります」と云うことにした。
 どう考えても、きょうも晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到る処の桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義(みょうぎ)の山も西に見えない。赤城(あかぎ)、榛名(はるな)も東北に陰っている。蓑笠(みのかさ)の人が桑を荷(にな)って忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑は莚(むしろ)につつんであるが、柔らかそうな青い葉は茹(ゆ)でられたようにぐったりと湿れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来る、いわゆる「上毛(じょうもう)の三名山」なるものを呪わしく思うようになった。

 磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野(ながの)や高崎(たかさき)、前橋(まえばし)から見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場に着くと直ぐに桜の多いのが誰の眼にもはいる。路ばたにも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉はすべて桜若葉であると云ってもいい。雪で作ったような向い翅(ばね)の鳩の群れがたくさんに飛んで来ると、湯の町を一ぱいに掩っている若葉の光りが生きたように青く輝いて来る。ごむほおずきを吹くような蛙(かわず)の声が四方に起ると、若葉の色が愁(うれ)うるように青黒く陰って来る。
 晴れの使いとして鳩の群れが桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が、暫く取り払われるのである。その使いも今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義みちにつづく南の高い崖みちは薄黒い若葉に埋められている。
 旅館の庭には桜のほかに青梧(あおぎり)と槐(えんじゅ)とを多く栽(う)えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫(ふる)えている。そのほかに梅と楓と躑躅(つつじ)と、これらが寄り集まって夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門(かど)を一歩出ると、自然はこの町の初夏を桜若葉で彩(いろど)ろうとしていることが直ぐにうなずかれる。
 雨が小歇(こや)みになると、町の子供や旅館の男が箒(ほうき)と松明(たいまつ)とを持って桜の毛虫を燔(や)いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓(げいしゃ)が湯にゆく。白い鳩が餌(えさ)をあさる。黒い燕(つばめ)が往来なかで宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く、梟(ふくろう)が鳴く。門付(かどづ)けの芸人が来る。碓氷川(うすいがわ)の河鹿(かじか)はまだ鳴かない。

 おととしの夏ここへ来たときに下磯部の松岸寺(しょうがんじ)へ参詣したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰った日で、桑畑を吹いて来るしめった風は、宿の浴衣(ゆかた)の上にフランネルをかさねた私の肌に冷やびやと沁(し)みる夕方であった。
 寺は安中(あんなか)みちを東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内まで余ほど侵入しているらしく見えた。しかし、由緒ある古刹(こさつ)であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱(ささきもりつな)と大野九郎兵衛(おおのくろべえ)との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久(けんきゅう)のむかし此の磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔(こけ)の蒼い墓石は五輪塔のような形式でほとんど完全に保存されている。これに列(なら)んで其の妻の墓もある。その傍には明治時代に新しく作られたという大きい石碑もある。
 しかし私に取っては、大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹(ひ)いた。墓は大きい台石の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据えてあって、石の表には慈望遊謙(じぼうゆうけん)墓、右に寛延(かんえん)○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年かよく読めない。墓のありかは本堂の横手で、大きい杉の古木をうしろにして、南にむかって立っている。その傍にはまた高い桜の木が聳えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差し出ている。周囲にはたくさんの古い墓がある。杉の立木は昼を暗くする程に繁っている。「仮名手本忠臣蔵」の作者竹田出雲(たけだいずも)に斧九太夫(おのくだゆう)という名を与えられて以来、ほとんど人非人のモデルであるように、あまねく世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄(げんろく)武士は、ここを永久の住み家と定めているのである。
 一昨年初めて参詣した時には、墓のありかが知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品のよい若僧(にゃくそう)で、いろいろ詳しく話してくれた。その話に拠(よ)ると、その当時のこの磯部には浅野(あさの)家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因って、大野は浅野家滅亡の後ここに来て身を落ちつけたらしい。そうして、大野とも云わず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙(ゆうけん)と称する一個の僧となって、小さい草堂(そうどう)を作って朝夕に経を読み、かたわらには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆(じきひつ)の手本というものが今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、いろいろの慈善をも施した、碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号を刻んであるのを見ると、よほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因って其の亡骸(なきがら)をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね。」と、わたしは云った。
「そうかも知れません。」
 僧は彼に同情するような柔らかい口振りであった。たとえ不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、わたしは厚く礼を云って僧と別れた。僧の痩せた姿は大きな芭蕉(ばしょう)の葉のかげへ隠れて行った。
 自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸(ふじと)の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人として歴史家に讃美されている。復讐(ふくしゅう)の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃(じょうるり)の作者にまで筆誅されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐(いつわ)らざる意見を問い糺(ただ)して見ようかと思ったが、彼の迷惑を察してやめた。
 今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧(もと)のままで、大野の墓の花筒には白いつつじが生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。わたしは僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾(すそ)に芍薬(しゃくやく)が紅(あか)く咲いていた。

 旅館の門を出て右の小道をはいると、丸い石を列べた七、八段の石段がある。登り降りは余り便利でない。それを登り尽くした丘の上に、大きい薬師堂が東にむかって立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口(わにぐち)が懸かっている。木連(きつれ)格子の前には奉納の絵馬もたくさんに懸かっている。めの字を書いた額も見える。千社札(せんじゃふだ)も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖(がけ)をめぐらしているが、境内はさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。わたしは時にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。
 それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい。髪は油気の薄い銀杏(いちょう)がえしに結って、紺飛白(こんがすり)の単衣(ひとえもの)に紅い帯を締めていた。その風体はこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造にかよっている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌(きりょう)は決して醜(みにく)い方ではなかった。娘は湿れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しくひざまずいていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけた鬢(びん)に白い雫(しずく)を宿しているのも何だか酷(むご)たらしい姿であった。わたしは暫く立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。
 堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒には桑籠(くわかご)がたくさん積まれて、若い女房が蚕棚(かいこだな)の前に襷(たすき)がけで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。
 どこかで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさアさアと降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片付け始めた。(大正5・6「木太刀」)[#改ページ]


栗の花


 栗(くり)の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。秋の木の実を見るまでは、それらはほとんど雑木(ぞうき)に等(ひと)しいもののように見なしていましたが、その軽蔑(けいべつ)の眼は欧洲大陸へ渡ってから余ほど変って来ました。この頃の私は決して栗の木を軽蔑しようとは思いません。必ず立ちどまって、その梢をしばらく瞰(み)あげるようになりました。
 ひと口に栗と云っても、ここらの国々に多い栗の木は、普通にホース・チェストナットと呼ばれて、その実を食うことは出来ないと云います。日本でいうどんぐりのたぐいであるらしく思われる。しかしその木には実に見事な大きいのがたくさんあって、花は白と薄紅との二種あります。倫敦(ロンドン)市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼を拭(ぬぐ)わせられたのは、キウ・ガーデンをたずねた時でした。
 五月中旬からロンドンも急に夏らしくなって、日曜日の新聞を見ると、ピカデリー・サーカスにゆらめく青いパラソルの影、チャーリング・クロスに光る白い麦藁(むぎわら)帽の色、ロンドンももう夏のシーズンに入ったと云うような記事がみえました。その朝に高田商会のT君がわざわざ誘いに来てくれて、きょうはキウ・ガーデンへ案内してやろうと云う。
 早速に支度をして、ベーカーストリートの停車場から運ばれてゆくと、ガーデンの門前にゆき着いて、先ずわたしの眼をひいたのは、かのホース・チェストナットの並木でした。日本の栗の木のいたずらにひょろひょろしているのとは違って、こんもりと生い茂った木振(きぶ)りといい、葉の色といい、それが五月の明るい日の光にかがやいて、真昼の風に青く揺らめいているのはいかにも絵にでもありそうな姿で、私はしばらく立ち停まってうっかりと眺めていました。
 その日は帰りにハンプトン・コートへも案内されました。コートに接続して、プッシー・パークと云うのがあります。この公園で更に驚かされたのは、何百年を経たかと思われるような栗の大木が大きな輪を作って列(なら)んでいることでした。見れば見るほど立派なもので、私はその青い下蔭に小さくたたずんで、再びうっかりと眺めていました。ハンプトン・コートには楡(にれ)の立派な立木もありますが、到底この栗の林には及びませんでした。
 あくる日、近所の理髪店へ行って、きのうはキウ・ガーデンからハンプトン・コートを廻って来たという話をすると、亭主はあの立派なチェストナットを見て来たかと云いました。ここらでもその栗の木は名物になっているとみえます。その以来、わたしも栗の木に少なからぬ注意を払うようになって、公園へ行っても、路ばたを歩いても、いろいろの木立(こだち)のなかで先ず栗の木に眼をつけるようになりました。
 それから一週間ほどたって、私は例のストラッドフォード・オン・アヴォンに沙翁(さおう)の故郷をたずねることになりました。そうして、ここでアーヴィングが「スケッチ・ブック」の一節を書いたとか伝えられているレッド・ホース・ホテルという宿屋に泊まりました。日のくれる頃、案内者のM君O君と一緒にアヴォンの河のほとりを散歩すると、日本の卯(う)の花に似たようなメー・トリーの白い花がそこらの田舎家の垣からこぼれ出して、うす明るいトワイライトの下(もと)にむら消えの雪を浮かばせているのも、まことに初夏のたそがれらしい静寂な気分を誘い出されましたが、更にわたしの眼を惹(ひ)いたのはやはり例の栗の立木でした。河のバンクには栗と柳の立木がつづいています。
 ここらの栗もプッシー・パークに劣らない大木で、この大きい葉のあいだから白い花がぼんやりと青い水の上に映って見えます。その水の上には白鳥が悠々と浮かんでいて、それに似たような白い服を着た若い女が二人でボートを漕(こ)いでいます。M君の動議で小船を一時間借りることになって、栗の木の下にある貸船屋に交渉すると、亭主はすぐに承知して、そこに繋(つな)いである一艘の小船を貸してくれて、河下の方へあまり遠く行くなと注意してくれました。承知して、三人は船に乗り込みましたが、私は漕ぐことを知らないので、櫂(かい)の方は両君にお任せ申して、船のなかへ仰向けに寝転んでしまいました。
 もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。両君の櫂もあまり上手ではないらしいのですが、流れが非常に緩いので、船は静かに河下へくだって行きます。云い知れないのんびりした気分になって、私は寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲のしたに聳えています。その塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。
 船はいい加減のところまで下ったので、さらに方向を転じて上流の方へ遡(さかのぼ)ることになりました。灯の少ないここらの町はだんだんに薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯ひと固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色(けしき)もみえないので、水明かりのする船端(ふなばた)には名も知れない羽虫の群れが飛び違っています。
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