綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

     水

 満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札(ふだ)を立てることになっていた。
 私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
 人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
 今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店(ふらんてん)で飲んだ噴き井戸の水などは清冽(せいれつ)珠(たま)のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。

     蛇

 海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめと降りつづく。
 わたしたちの宿舎のとなりに老子(ろうし)の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇(こや)みになったので、泥濘(でいねい)の路を踏んで香を献(ささ)げに来る者も多い。縁日商人も店を列(なら)べている。大道芸人の笙(しょう)を吹くもの、蛇皮線(じゃびせん)をひく者、四(よ)つ竹(だけ)を鳴らす者なども集まっている。
 その群れのうちに蛇人(だにん)――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面(はくめん)の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒(しょうしゃ)たる姿であった。
 兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌(てのひら)の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴(せいそう)の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。

     雨

 満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
 夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨(にわかあめ)が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡(たか)をくくって徒渉(としょう)を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
 遼陽の南門外に宿っている時、宵(よい)から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青(まっさお)な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅(おびや)かされた。

     東京陵

 遼陽の城外に東京陵(トンキンりょう)という古陵がある。昔ここに都していた遼(りょう)(契丹(きったん))代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
 伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女(きゅうじょ)に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音(ね)にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
 わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
 その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、
「好的(ハオデー)」と、主人はまた笑った。(昭和7・6「都新聞」)[#改ページ]


仙台五色筆


 仙台(せんだい)の名産のうちに五色筆(ごしきふで)というのがある。宮城野(みやぎの)の萩、末の松山(まつやま)の松、実方(さねかた)中将の墓に生(お)うる片葉の薄(すすき)、野田(のだ)の玉川(たまがわ)の葭(よし)、名取(なと)りの蓼(たで)、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島(まつしま)記念大会に招かれて、仙台、塩竈(しおがま)、松島、金華山(きんかざん)などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
 わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟(こせき)に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判(わか)らない。

     三人の墓

 仙台の土にも昔から大勢(おおぜい)の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜(ひそ)んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜(くや)しくないと思う人は三人ある。曰(いわ)く、伊達政宗(だてまさむね)。曰く、林子平(はやししへい)。曰く、支倉六右衛門(はせくらろくえもん)。今度もこの三人の墓を拝した。
 政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書(こもんじょ)にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の子供にも錦戸太郎(にしきどたろう)、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館(たて)次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
 いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍(どくがんりゅう)などという水滸伝(すいこでん)式の渾名(あだな)を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿(ずいほうでん)というのに斂(おさ)められている。さきごろの出水に頽(くず)された広瀬(ひろせ)川の堤(どて)を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然(げんぜん)とそびえている。
 わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈(たけ)抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
 彼は五十以上であろう。色のやや蒼(あお)い、痩形(やさがた)の男で、短く苅った鬢(びん)のあたりは斑(まだら)に白く、鼻の下の髭(ひげ)にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣(ひとえもの)に小倉(こくら)の袴(はかま)を着けて、白足袋(たび)に麻裏の草履(ぞうり)を穿(は)いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
 わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記(しる)した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面(おもて)を掠(かす)めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉(せみ)が破(や)れた笛を吹くように咽(むせ)んでいた。
 さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭(こうべ)をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝(らいはい)していた。
 私の眼からは涙がこぼれた。
 この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒(ざら)しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
 土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯(きょうがみね)の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄(きよ)めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
 こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。

 林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿(むくげ)の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
 黒い門柱がぬっと立ったままで、扉(とびら)は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅(さるすべり)の大木が真紅(まっか)に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎(ろくむさい)友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑(しおん)や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政(だじょう)大臣三条実美(さんじょうさねとみ)篆額(てんがく)、斎藤竹堂(さいとうちくどう)撰文、一方は陸奥守(むつのかみ)藤原慶邦(ふじわらよしくに)篆額、大槻磐渓(おおつきばんけい)撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立(きつりつ)している。なにさま堂々たるものである。
 林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽(くず)れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
 わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。

 ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
 案内を乞うと、白地の単衣(ひとえもの)を着た束髪(そくはつ)の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪(たけやぶ)に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
 墓地を左に折れると、石の柵(さく)をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五輪(りん)の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所(ありか)も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風(ふう)・空(くう)の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
 この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺(あたり)に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹(つつし)んで墓の前に供えた。
 秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。

     三人の女

 仙台や塩竈(しおがま)や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
 塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」の付近に比丘尼(びくに)坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
 伝えて云う。天慶(てんぎょう)の昔、平将門(たいらのまさかど)が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太(たわらとうた)の矢先にかかった。娘は陸奥(みちのく)に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵(いおり)を結んで、謀叛(むほん)人と呼ばれた父の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いながら、往き来の旅人(たびびと)に甘酒を施していた。比丘尼塚の主(ぬし)はこの尼であると。
 わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬(そうま)へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王(へいしんのう)将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥(むつ)の秋風に法衣(ころも)の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
 鎌倉(かまくら)の東慶(とうけい)寺には、豊臣秀頼(とよとみひでより)の忘れ形見という天秀尼(てんしゅうに)の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷(にな)って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
 尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧(おぼろ)月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人(あきうど)が、ここの軒にたたずんで草鞋(わらじ)の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由(よし)なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻(せば)められた謀叛(むほん)人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
 かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎(しぼ)んだ白菊であった。

 これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
 松島の観音堂のほとりに「軒場(のきば)の梅」という古木がある。紅蓮尼(こうれんに)という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行(さいぎょう)法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟(でわのくにきさがた)の町に生まれた、商人(あきうど)の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音詣(もう)でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥(むつ)松島の掃部(かもん)という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂(たもと)を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
 その時に、象潟の商人は尽きぬ名残(なごり)を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦(むつ)み暮らそうではないか。
 掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎(こたろう)は我が不在(るす)の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢(はか)なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯(き)かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已(すで)に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
 哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難(ひなん)しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気(けなげ)な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
 子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
 観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵(いおり)を結んだ。
さけかしな今はあるじと眺むべし
     軒端の梅のあらむかぎりは
 嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
 比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸(げこ)のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。

 最後には「先代萩」で名高い政岡(まさおか)を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本(まるほん)で名高い局(つぼね)政岡とは三沢初子(みさわはつこ)のことだそうで、その墓は榴(つつじ)ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
 初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達綱宗(つなむね)の側室(そばめ)で、その子の亀千代(かめちよ)(綱村(つなむら))が二歳で封(ほう)をつぐや、例のお家騒動が出来(しゅったい)したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達安芸(あき)らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡(あさおか)で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
 こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽(たちま)ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母(めのと)ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
 仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿(むくげ)の籬(まがき)とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。

     塩竈神社の神楽

 わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧(あお)暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙(いろがみ)で造った花紅葉(はなもみじ)を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕(たなばた)の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻(しき)りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
 その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹(ばいたらようじゅ)や、泉の三郎の鉄燈籠(かなどうろう)や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽(かぐら)堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
 同行の麗水(れいすい)・秋皐(しゅうこう)両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中(さなか)であった。果たして神楽というのか、舞楽(ぶがく)というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
 囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗(しょうき)のような、烏天狗(からすてんぐ)のような、一種不可思議の面(おもて)を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣(ひとえもの)を袒(はだ)ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅(あか)で染められた唐草模様の襦袢(じゅばん)(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲(かさ)ねていた。頭には黒または唐黍(もろこし)色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘(ざや)の刀を佩(さ)していた。
 この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃(はや)しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞(ことば)が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗(すこぶ)る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅(こが)なものであった。
 かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川(いいのがわ)の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
 私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。

     孔雀船の舟唄

 塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰(ほうおう)丸と孔雀(くじゃく)丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
 伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二艘(そう)の御座船(ござぶね)を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即(すなわ)ちそれである。風流の仙台太守(たいしゅ)は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型(ひながた)に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
 われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来(しゅったい)を急いだ為に船べりに黒漆(こくしつ)を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に何の注意をも払わなかった。
 船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森(もり)知事が起(た)って、かの老人たちを紹介した。今日(こんにち)この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節(ひとふし)を聴いて貰いたいとのことであった。
 素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔(けいけん)の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭(あか)かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説(よろいくど)き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
□やら目出たやな。初春の好き日をとしの着長(きせなが)は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも軍(いくさ)に勝色(かついろ)の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、冑(かぶと)の星の菊の座も、えい、華やかにこそ威毛(おどしげ)の、思ふ仇(かたき)を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣(つるぎ)は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。 わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
 政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕(まんまく)が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫(ろ)をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
 それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢(ろかい)を把(と)らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃(かみしも)も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧(ふる)い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
 私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃(たいはい)した古廟に白髪の伶人(れいじん)が端坐して簫(ふえ)の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
 この唄は、この老人たちの生命(いのち)と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
 しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍(なまぬる)い肉声に歌われて、いわゆる緑酒(りょくしゅ)紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優(まし)かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。

     金華山の一夜

 金華山(きんかざん)は登り二十余町、さのみ嶮峻(けんしゅん)な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立(きつりつ)しているので、その眼界はすこぶる闊(ひろ)い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓(ふもと)の霧は山腹の細雨(こさめ)となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
 海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷(らい)が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
 これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴(あ)れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿(おじか)半島にむかって合図の鐘を撞(つ)くと、半島の南端、鮎川(あゆかわ)村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉(やまどり)の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
 こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社(やしろ)の創建は遠い上代(じょうだい)のことで、その年時も明らかでないと云う。尤(もっと)もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯(こ)ういう場所を撰んで、神を勧請(かんじょう)したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光明媚(めいび)の地、もしくは山谷嶮峻の地を相(そう)して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木(こ)の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島(はなれじま)に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻(はば)められて、ほとんど流人(るにん)同様の艱難(かんなん)を嘗(な)めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋(ちひろ)の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
 今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
 雷雨は漸(ようや)くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。(大正2・10「やまと新聞」)[#改ページ]


秋の修善寺


     (一)

(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆(いず)の修善寺(しゅうぜんじ)温泉に浴し、養気館の新井(あらい)方にとどまる。所作為(しょざい)のないままに、毎日こんなことを書く。
 二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖(ふすま)にかいた墨絵の雁(かり)と相対すること約半時間。おちこちに鶏(とり)が勇ましく啼(な)いて、庭の流れに家鴨(あひる)も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
 六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三尺(じゃく)ほどの蓮根(れんこん)をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の室菖蒲(あやめ)の前(まえ)は豆州長岡(ずしゅうながおか)に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内(かわうち)村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太(いのはやた)ほどにもない雑兵葉武者(ぞうひょうはむしゃ)のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈(じょうろう)の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好(よ)い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸(ガラスど)越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
 朝飯をすました後、例の範頼(のりより)の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋(いも)畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花(ひがんばな)がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊(ひいらぎ)や柘植(つげ)などの下枝に掩(おお)われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻(しき)りに鳴いていた。
 この時、この場合、何人(なんぴと)も恍(こう)として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語(うげつものがたり)式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝(なんじ)、見よ。源氏(げんじ)の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪(のろ)いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
 拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷(あわせ)羽織を着るほどであったが、晴れると俄(にわ)かにまた暑くなる。芭蕉(ばしょう)翁は「木曾(きそ)殿と背中あはせの寒さ哉(かな)」と云ったそうだが、わたしは蒲(かば)殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
 午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干(らんかん)に倚(よ)って見あげると、東南につらなる塔(とう)の峰(みね)や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
 宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺(しゅぜんじ)に参詣した。名刺を通じて古宝物(こほうもつ)の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃(いんぎん)に断わられた。
 去って日枝(ひえ)神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂(いい)にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
 挽物(ひきもの)細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂(かつら)川の水のうえには薄い靄(もや)が這っている。
 修善寺がよいの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駆(か)けて来た。
 夜は机にむかって原稿などをかく、今夜は大湯(おおゆ)換えに付き入浴八時かぎりと触れ渡された。

     (二)

 二十七日。六時に起きて入浴。きょうも晴れつづいたので、浴客はみな元気がよく、桂川の下流へ釣に行こうというのもあって、風呂場はすこぶる賑わっている。ひとりの西洋人が悠然としてはいって来たが、湯の熱いのに少しおどろいた体(てい)であった。
 朝飯まえに散歩した。路は変らぬ河岸であるが、岩に堰(せ)かれ、旭日(あさひ)にかがやいて、むせび落つる水のやや浅いところに家鴨(あひる)数十羽が群れ遊んでいて、川に近い家々から湯の烟(けむ)りがほの白くあがっているなど、おのずからなる秋の朝の風情を見せていた。岸のところどころに芒(すすき)が生えている。近づいて見ると「この草取るべからず」という制札を立ててあって、後(のち)の月見(つきみ)の材料にと貯えて置くものと察せられた。宿に帰って朝飯の膳にむかうと、鉢にうず高く盛った松茸に秋の香が高い。東京の新聞二、三種をよんだ後、頼家(よりいえ)の墓へ参詣に行った。
 桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、的場(まとば)の前などをぬけて、塔の峰の麓に出た。ところどころに石段はあるが、路は極めて平坦で、雑木(ぞうき)が茂っているあいだに高い竹藪がある。槿(むくげ)の花の咲いている竹籬(たけがき)に沿うて左に曲がると、正面に釈迦堂がある。頼家の仏果(ぶっか)円満を願うがために、母政子(まさこ)の尼が建立(こんりゅう)したものであると云う。鎌倉(かまくら)の覇業を永久に維持する大いなる目的の前には、あるに甲斐(かい)なき我が子を捨て殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと推し量ると、ふだんは虫の好かない傲慢(ごうまん)の尼将軍その人に対しても、一種同情の感をとどめ得なかった。
 さらに左に折れて小高い丘にのぼると、高さ五尺にあまる楕円形の大石に征夷大将軍源左金吾(げんさきんご)頼家尊霊と刻み、煤(すす)びた堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を打った古い幕が張ってある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺町の方を見おろして立っている。あたりには杉や楓(かえで)など枝をかわして生い茂って、どこかで鴉(からす)が啼(な)いている。
 すさまじいありさまだとは思ったが、これに較べると、範頼の墓は更に甚だしく荒れまさっている。叔父御よりも甥(おい)の殿の方がまだしもの果報があると思いながら、香を手向(たむ)けて去ろうとすると、入れ違いに来て磬(けい)を打つ参詣者があった。
 帰り路で、ある店に立ってゆで栗を買うと実に廉(やす)い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の紙が二ヵ所ばかり裂けている。眼に立つほどの破れではないが、それにささやく風の音がややもすれば耳について、秋は寂しいものだとしみじみ思わせるうちに、宿の男が来て貼りかえてくれた。向う座敷は障子をあけ放して、その縁側に若い女客が長い洗い髪を日に乾かしているのが、榎(えのき)の大樹を隔ててみえた。
 午後は読書に倦(う)んで肱枕(ひじまくら)を極(き)めているところへ宿の主人が来た。主人はよく語るので、おかげで退屈を忘れた。
 きょうも水の音に暮れてしまったので、電燈の下(もと)で夕飯をすませて、散歩がてら理髪店へゆく。大仁(おおひと)理髪組合の掲示をみると、理髪料十二銭、またそのわきに附記して、「但し角刈とハイカラは二銭増しの事」とある。いわゆるハイカラなるものは、どこへ廻っても余計に金の要ることと察せられた。店先に張子の大きい達磨(ダルマ)を置いて、その片眼を白くしてあるのは、なにか願(がん)掛けでもしたのかと訊(き)いたが、主人も職人も笑って答えなかった。楽隊の声が遠くきこえる。また例の活動写真の広告らしい。
 理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷やびやと肌にしみて、水に落ちる家々の灯かげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面にきらめいていた。
 宿に帰って入浴、九時を合図に寝床にはいると、廊下で、「按摩(あんま)は如何(いかが)さま」という声がきこえた。

     (三)

 二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊によろしいように思われて身神爽快。天気もまたよい。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
 月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁(おおひと)行きの馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂を吹いている。宿の女どもは門(かど)に立ち、または途中まで見送って、「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」などと口々に云っている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月ひと月と居馴染(いなじ)めば、これもまた一種の別れである。涙もろい女客などは、朝夕親しんだ宿の女どもと云い知れぬ名残(なごり)の惜しまれて、馬車の窓から幾たびか見返りつつ揺られて行くのもあった。
 修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断わられたのも、これが為であるとうなずかれた。
 転じて新井別邸の前、寄席のまえを過ぎて、見晴らし山というのに登った。半腹の茶店に休むと、今来た町の家々は眼の下につらなって、修禅寺の甍(いらか)はさすがに一角をぬいて聳(そび)えていた。
 この茶店には運動場があって、二十歳(はたち)ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳(すそ)にまつわる萩や芒(すすき)がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険(けわ)しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪(もっけ)の幸いであった。帰りは下り坂を面白半分に駈け降りると、あぶなく滑って転びそうになること両三度、降りてしまったら汗が流れた。
 山を降りると田圃路(たんぼみち)で、田の畔(くろ)には葉鶏頭の真紅(まっか)なのが眼に立った。もとの路を還らずに、人家のつづく方を北にゆくと、桜ヶ岡(さくらがおか)の麓を過ぎて、いつの間にか向う岸へ廻ったとみえて、図(はか)らずも頼家の墓の前に出た。きのう来て、今日もまた偶然に来た。おのずからなる因縁浅からぬように思われて、ふたたび墓に香をささげた。
 頼家の墓所は単に塔の峰の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡(しげつがおか)と云うそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来たり弔って、空ゆく月を打ち仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我が子の上よ。」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡と云うことになったとか。蕭条(しょうじょう)たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我が子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。かれが斯くまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条(ほうじょう)に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼(ひでより)と相抱いて城と倶(とも)にほろびた淀君(よどぎみ)の方が、人の母としては却って幸いであったかもしれない。
 帰り路に虎渓橋(こけいきょう)の上でカーキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客がある筈であるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買い切りにした料簡(りょうけん)になって、全身を湯にひたしながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、いい心持を通り越して、すこし茫となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
 主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶え間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別(わか)ちはないが、昼はやがて夜となった。
 食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執(と)り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音(ね)が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過させ給うであろうと思いやると、われわれが問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫(はたおりむし)が鳴いていた。
 わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履ばきの浴客が二、三人はいってゆく。私も続いてはいろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆(がま)のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿に逃げ帰った。
 帰って机にむかえば、下の離れ座敷でもまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑やかな晩である。
 十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢(あふ)れるかと思うような大雨となった。(掲載誌不詳、『十番随筆』所収)[#改ページ]


春の修善寺


 十年ぶりで三島(みしま)駅から大仁(おおひと)行きの汽車に乗り換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場(だいば)駅附近を過ぎると、此処(ここ)らももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地(あきち)に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫(ふる)えている小さい竹藪は、折りからの強い西風にふき煽(あお)られて、今にも折れるかとばかりに撓(たわ)みながら鳴っている。広い桑畑には時どき小さい旋風をまき起して、黄龍のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。
 このいかにも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているという、のびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかに沼津(ぬまづ)の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸(あしたかまる)が駿河(するが)湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田(しもだ)に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟(ほんぜんかいご)した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効(じこう)を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞き合せると、当時の被害者はとうに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生まれではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立(こんりゅう)して、自分の安心(あんじん)を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、幾らかの金を作った。彼はその金をふところにしてかの愛鷹丸に乗り込むと、駿河の海は怒って暴(あ)れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナ(旧約聖書の中の予言者)を乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも、罪ある人ばかりでなく、乗組みの大勢をも併せて海のなかへ投げ落してしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引揚げられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業(ざいごう)の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどに酷(むご)いものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。
 南条(なんじょう)駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟(すなけむ)りが巻きあがっている。その黄いろい渦が今は仄白(ほのじろ)くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套(がいとう)の袖をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗(わび)しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振り照らす提灯の灯(ひ)のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫(ふる)えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自動車に乗った。

 修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は、十年前の秋、この古い墓のまえに額(ぬか)づいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津(あいづ)の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
 その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋(うなぎや)が一軒あったばかりで、丘の周囲にはほとんど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀(まつ)られて、堂の軒には笹龍胆(ささりんどう)の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪(さ)めかかった色がいかにも品のよい、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間にか取払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋(たず)ねるよすがもなかった。なんの掩(おお)いをも持たない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。いろいろの新しい建物が丘の中腹までひしひしと押しつめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。
 頼家公の墳墓の領域がだんだんに狭(せば)まってゆくのは、町がだんだんに繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉ももたない、一個の旅人(たびびと)に過ぎない。十年前にくらべると、町はいちじるしく賑やかになった。多くの旅館は新築をしたのもある。建て増しをしたのもある。温泉倶楽部(クラブ)も出来た、劇場も出来た。こうして年毎に発展してゆく此の町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲(しの)んでいる一個の貧しい旅びとであることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓と向い合ってしばらく黙って立っていた。
 それでも墓のまえには三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとして不図(ふと)見かえると、入口の太い柱のそばに一つの箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家おみくじ」と書いてあった。その傍の小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
 源氏の将軍が預言者であったか、売卜(うらない)者であったか、わたしは知らない。しかし此の町の人たちは、果たして頼家公に霊あるものとして斯(こ)ういうものを設けたのであろうか、あるいは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、カラカラという音がして、下の口から小さく封じた活版刷のお神籤(みくじ)が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どのお神籤にもみんな凶が出るに相違ないと思った。
 修禅寺はいつ詣(まい)っても感じのよいお寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、このお寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽(さわや)かな感じをあたえるのが却って雄大荘厳の趣を示している。衆生(しゅじょう)をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくので無くて、赫灼(かくやく)たる光明を高く仰がしめると云うような趣がいかにも尊げにみえる。
 きょうも明るい日が大きい甍(いらか)を一面に照らして、堂の家根(やね)に立っている幾匹の唐獅子(からじし)の眼を光らせている。脚絆を穿いたお婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍(あい)のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具(おもちゃ)の刀をさげた小児(こども)がお百度石に倚りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
 避寒の客が相当にあるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行(ごんぎょう)の知らせらしい。ほかの時はわたしもいちいち記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に明るくなるからである。
 春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇がおりて来て、桂川の水にも鼠色の靄(もや)がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨(あひる)の群れの白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電燈の花が明るく咲いて、町は俄かに夜のけしきを作って来る。旅館はひとしきり忙(せわ)しくなる。大仁から客を運び込んでくる自動車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯けむりが白く迷っているばかりである。
 修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
 それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬(やるせ)ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂が籠(こも)っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
 修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物をか呼び出すかも知れない。宵っ張りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。(大正7・3「読売新聞」)[#改ページ]


妙義の山霧


     (上)

 妙義町(みょうぎまち)の菱屋(ひしや)の門口(かどぐち)で草鞋(わらじ)を穿いていると、宿の女が菅笠(すげがさ)をかぶった四十五、六の案内者を呼んで来てくれました。ゆうべの雷(かみなり)は幸いにやみましたが、きょうも雨を運びそうな薄黒い雲が低くまよって、山も麓も一面の霧に包まれています。案内者とわたしは笠をならべて、霧のなかを爪さき上がりに登って行きました。
 私は初めてこの山に登る者です。
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