綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋(たけばし)内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾(よぎ)をかぶって蚊帳(かや)の中に小さくなっていると、暫(しばらく)くしてパチパチの音も止(や)んだ。これは近衛(このえ)兵の一部が西南役(えき)の論功行賞(ろんこうこうしょう)に不平を懐(いだ)いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
 やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星(ほうきぼし)が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星(さいごうぼし)と呼んで、さき頃のハレー彗星(すいせい)のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野(きりの)篠原(しのはら)らが雲の中に現われている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙(きんがみ)を着けて金モールと見せ、附け髭(ひげ)をして西郷の如く拵(こしら)え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論(もちろん)、一種の玩具(おもちゃ)に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
 そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱(しか)られたので、買わずにしまった。

     湯屋

 湯屋(ゆうや)の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗(こぎれい)な姐(ねえ)さんが二、三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐(やかん)が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列(なら)べてある。のちに思えば例の三馬(さんば)の「浮世風呂」をその儘(まま)で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲(しょうぶ)を花瓶(かびん)に挿(さ)していたのを記憶している。松平紀義(まつだいらのりよし)のお茶(ちゃ)の水(みず)事件で有名な御世梅(ごせめ)お此(この)という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口(ざくろぐち)と云うものがあって、夜などは湯煙(ゆげ)が濛々(もうもう)として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画(か)いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝(すいこでん)の花和尚(かおしょう)と九紋龍(くもんりゅう)、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子(ガラス)戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     紙鳶

 春風が吹くと、紙鳶(たこ)を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草(ななくさ)、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国(やすくに)神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具(おもちゃ)屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人(いちあきうど)のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒(しるしばんてん)を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓(うなり)を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶(じだこ)、絵紙鳶、奴(やっこ)紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大(おお)紙鳶は、職人か、もしくは大家(たいけ)の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供(おおども)小供(こども)入り乱れて、到るところに糸を手繰(たぐ)る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子(はご)の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々(せきせきりょうりょう)。往来で迂闊(うかつ)に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒(さら)されて、両手に胼(ひび)を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻(えりまき)をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐(ふとこ)ろ手をして、無意味にうろうろしている今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     獅子舞

 獅子(しし)というものも甚だ衰えた。今日(こんにち)でも来るには来るが、いわゆる一文獅子(いちもんじし)というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦(かね)を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面(めん)をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口(かどぐち)で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠(まり)を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
 元園町には竹内(たけうち)さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸(やしき)へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸(はし)を投(ほお)り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀(こわ)されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵(ののし)られる世の中となった。眉が険(けわ)しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった。
 万歳(まんざい)は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已(すで)に昔のおもかげはなかった。

     江戸の残党

 明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷(まげ)を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋(こいき)な男で、手甲脚絆(てっこうきゃはん)のかいがいしい扮装(いでたち)をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇(しぶうちわ)を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳(い)い声であった。
 元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶(あいさつ)をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処(どこ)かきりりとして小粋なところが、普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
 これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷(よつや)へ納涼(すずみ)ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しき)りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭(ぜに)を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。
 わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視(み)た父は、一間(けん)ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣(や)ったらば直(す)ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札(さつ)を掴(つか)んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否(いな)や一散(いっさん)に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
 この男を見た時に、「霜夜鐘(しものよのかね)」の芝居に出る六浦(むつら)正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫(ちゃたてむし)」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。

     長唄の師匠

 元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋(きねや)お路久(ろく)という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花(はな)さんと云うのが評判の美人であった。この界隈(かいわい)の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃(みやけかほ)女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。

     お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗(しょうけつ)になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風(そめかぜ)と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議(せんぎ)すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡(りょうけん)は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松(ひさまつ)に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏(なつ)でもお俊(しゅん)でも小春(こはる)でも梅川(うめがわ)でもいい訳であるが、お染という名が一番可憐(かれん)らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃(たお)すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗(すこぶ)るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大(おお)コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易(へきえき)したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
 すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに□(よ)りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入(ちんにゅう)を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論(もちろん)、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽(あお)って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島(むこうじま)の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲(みめぐり)の堤下(どてした)を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭(てぬぐい)をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒のそばには白い梅が咲いていた。その風情(ふぜい)は今も眼に残っている。
 その後にもインフルエンザは幾たびも流行を繰り返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に□(よ)りつくには、やはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。

     どんぐり

 時雨(しぐれ)のふる頃となった。
 この頃の空を見ると、団栗(どんぐり)の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると、ちょうど英国大使館の横手へ出る。この横町が元園町と五番町(ごばんちょう)との境で、大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀(くろべい)がある。江戸の絵図によると、昔は藤村(ふじむら)なにがしという旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本(いしもと)陸軍大臣が住んでいたこともあった。板塀の内には眼隠しとして幾株の古い樫(かし)の木が一列をなして栽(う)えられている。おそらく江戸時代からの遺物であろう。繁った枝や葉は塀を越えて往来の上に青く食(は)み出している。
 この横町は比較的に往来が少ないので、いつも子供の遊び場になっていた。わたしも幼い頃には毎日ここで遊んだ。ここで紙鳶(たこ)をあげた、独楽(こま)を廻した。戦争ごっこをした、縄飛びをした。われわれの跳ねまわる舞台は、いつもかの黒塀と樫の木とが背景になっていた。
 時雨(しぐれ)のふる頃になると、樫の実が熟して来る。それも青いうちは誰も眼をつけないが、熟してだんだんに栗のような色になって来ると、俗にいう団栗なるものが私たちの注意を惹(ひ)くようになる。初めは自然に落ちて来るのをおとなしく拾うのであるが、しまいにはだんだんに大胆になって、竹竿を持ち出して叩き落す、あるいは小石に糸を結んで投げつける。椎(しい)の実よりもやや大きい褐色(かっしょく)の木の実が霰(あられ)のようにはらはらと降って来るのを、われ先にと駈け集まって拾う。懐ろへ押し込む者もある。紙袋へ詰め込む者もある。たがいに其の分量の多いのを誇って、少年の欲を満足させていた。
 しかし白樫(しらかし)は格別、普通のどんぐりを食うと唖になるとか云い伝えられているので、誰も口へ入れる者はなかった。多くは戦争ごっこの弾薬に用いるのであった。時には細い短い竹を団栗の頭へ挿して小さい独楽を作った。それから弥次郎兵衛(やじろべえ)というものを作った。弥次郎兵衛という玩具(おもちゃ)はもう廃(すた)ったらしいが、その頃には子供たちの間になかなか流行ったもので、どんぐりで作る場合には先ず比較的に拉の大きいのを選んで、その横腹に穴をあけて左右に長い細い竹を斜めに挿し込み、その竹の端(はし)には左右ともに同じく大きい団栗の実を付ける。で、その中心になった団栗を鼻の上に乗せると、左右の団栗の重量が平均してちっとも動かずに立っている。無論、頭をうっかり動かしてはいけない、まるで作りつけの人形のように首を据(す)えている。そうして、多くの場合には二、三人で歩きくらべをする。急げば首が動く。動けば弥次郎兵衛が落ちる。落ちれば負けになるのである。ずいぶん首の痛くなる遊びであった。
 どんぐりはそんな風にいろいろの遊び道具をわれわれに与えてくれた。横町の黒塀の外は、秋から冬にかけて殊(こと)に賑(にぎ)わった。人家の多い町なかに住んでいる私たちに取っては、このどんぐりの木が最も懐かしい友であった。
「早くどんぐりが生(な)ればいいなあ。」
 私たちは夏の頃から青い梢(こずえ)を見上げていた。この横町には赤とんぼも多く来た。秋風が吹いて来ると、私たちは先ず赤とんぼを追う。とんぼの影がだんだんに薄くなると、今度は例のどんぐりに取りかかる。どんぐりの実が漸く肥えて、褐色の光沢(つや)が磨いたように濃くなって来ると、とかくに陰った日がつづく。薄い日が洩(も)れて来たかと思うと、又すぐに陰って来る。そうして、雨が時々にはらはらと通ってゆく。その時には私たちはあわてて黒塀のわきに隠れる。樫の技や葉は青い傘をひろげて私たちの小さい頭の上を掩(おお)ってくれる。雨が止むと、私たちはすぐに其の恩人にむかって礫(つぶて)を投げる。どんぐりは笑い声を出してからからと落ちて来る。湿(ぬ)れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
 そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿(ぬ)れる、手足は泥だらけになる。家(うち)へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。

     大綿

 時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮(はす)の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕(とら)える子供らが「オボー三尺下(さ)※[#小書き片仮名ン、25-6]がれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
 作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
 名古屋(なごや)の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿(おおわた)」と呼んでいる。その羽虫は裳(もすそ)に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯(まま)食わしょ」と唄った。
 オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂(たもと)をあげて打つのが習いであった。
 その頃は男の児も筒袖(つつそで)は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店(うらだな)の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八(や)つ口(くち)の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切(きれ)が付いていた。
 それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒(ほうき)を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮(ふる)うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
 横町で鮒(ふな)売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁(し)み渡った。
 日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
 その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套(がいとう)の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失(う)せなかったのである。(明治43・11俳誌「木太刀」、その他)[#改ページ]


島原の夢


「戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)」や「東都歳事記(とうとさいじき)」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎(かぶき)の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離(わかれ)をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃(かく)されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯(ガス)燈がひかり、洋服や洋傘傘(こうもりがさ)やトンビが流行しても、詮(せん)ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食(は)み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊(いささ)か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞(ことば)を知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏(ふ)み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾(かつ)てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒(さ)め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座(しんとみざ)、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷(さじき)五人詰一間(ひとま)の値(あた)い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻(かみよ)りでこしらえた太い鼻緒の草履(ぞうり)をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占(つじうら)せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾(はなのれん)をかけて、さるやとか菊岡(きくおか)とか梅林(ばいりん)とかいう家号を筆太(ふでぶと)にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主(ざぬし)や俳優(やくしゃ)に贈られたいろいろの幟(のぼり)が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町(しんとみちょう)だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原(しまばら)とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地(つきじ)の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青(こんじょう)の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸(かし)の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣(ゆかた)を着て、日よけの頬かむりをして粋(いき)な莨入(たばこい)れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴(あめ)屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹(あか)や藍(あい)で書いた庵(いおり)看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓(いなりずし)を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細(しさい)に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇(うちわ)も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町(しばいまち)の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切(いっさい)通過しない。たまたま此処(ここ)を過ぎる人力車があっても、それは徐(しず)かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳(そら)んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽(ひ)いてゆくのをしばしば聞いた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額(ひたい)にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間(どま)に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋(やつはし)との籠(かご)をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊(はいかい)している。彼らにかぎらず、すべて幕間(まくあい)の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋(きょうばし)区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺(す)れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎(とが)めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥で柝(き)の音(ね)がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋(つな)がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方(でかた)のうちでも、如才(じょさい)のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶(なお)いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳(おど)らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」吉野川(よしのがわ)の場である。岩にせかれて咽(むせ)び落ちる山川を境いにして、上(かみ)の方(かた)の背山にも、下(しも)の方の妹山(いもやま)にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段(ひなだん)が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾(すだれ)がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文(ぶみ)をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇(ちゃう)の袴をつけた美少年が殊勝(しゅしょう)げに経巻(きょうかん)を読誦(どくじゅ)している。高島(たかしま)屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次(さだんじ)の久我之助(こがのすけ)である。
 姫は太宰(だざい)の息女雛鳥(ひなどり)で、中村福助(ふくすけ)である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒(しんこま)屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
 背山の方(かた)は大判司清澄(だいはんじきよずみ)――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮(かり)花道にあらわれたのは織物の□□(かみしも)をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌(はま)ったような彼の姿、それは中村芝翫(しかん)である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰(だざい)の後室(こうしつ)定高(さだか)で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川団十郎(だんじゅうろう)である。大判司に対して、成駒(なりこま)屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田(なりた)屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟(ひっきょう)、親の子のと云うは人間の私(わたくし)、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接(つ)ぎ木をいたさねば、太宰の家(いえ)が立ちませぬ。」と、定高は凛(りん)とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎俳優(やくしゃ)のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門(うたえもん)だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。(大正12・11「随筆」)[#改ページ]


昔の小学生より


 十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有(ゆう)していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列(つら)なっている。巌谷小波(いわやさざなみ)氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
 それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具(そな)えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
 ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町(ひらかわちょう)に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
 そのほかに元園町に堀江小学、山元町(やまもとちょう)に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所(てならいしなんじょ)から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処(ここ)に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
 その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但(ただ)し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
 進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅(いっちょうら)の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使(こづかい)に至るまでも髪を刈り、髭(ひげ)を剃(そ)って、試験中は服装を改(あらた)めていた。
 授業時間や冬季夏季の休暇は、今日(こんにち)と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭(きょうべん)で背中を引っぱたかれた。癇癪(かんしゃく)持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃりと食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
 今日ならば、生徒虐待(ぎゃくたい)とか云って忽(たちま)ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於(お)いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚(はなは)だ恐れられた。
 生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯(いたずら)をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎(よだれ)くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤(そろばん)を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮(しょせん)はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
 もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂(いわゆる)いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
 学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅(おど)すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
 教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒(さら)してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店(うらだな)の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯(へこおび)をしめていたが、商家の子は大抵角帯(かくおび)をしめていた。
 靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折(はしょ)り、あるいは袴の股立(ももだ)ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎(とが)めなかった。
 運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤(どて)を作って、大きい樫(かし)の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処(そこ)らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍(そば)などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路(みち)が悪い。そこで転んだり起(た)ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、午(ひる)の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍(いくさ)ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠(まり)をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴(あば)れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢(おおぜい)が隊を組んで、他の学校へ喧嘩(けんか)にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父(おやじ)の脇差(わきざし)を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
 その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。(昭和2・10「時事新報」)[#改ページ]


三崎町の原


 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田(かんだ)の三崎町(みさきちょう)まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊(うかつ)であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷(ちまた)に立って、自動車やトラックに脅(おびや)かされてうろうろしながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世(かくせい)の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤(どて)で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊(くびくく)りの松などという忌(いや)な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬(か)んだ。追剥(おいは)ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町(ふじみちょう)の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷(ほんごう)の春木座(はるきざ)へゆくためであった。
 春木座は今日(こんにち)の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊(とりくま)という男が、大阪から中通(ちゅうどお)りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札(はんふだ)を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜(ひのき)舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉(やす)いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
 芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠(おこた)らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯(ほおば)の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿諭、須田町(すだちょう)の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻(うかい)であるから、どうしても九段下(くだんした)から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
 その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろう筈はない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟(そうくつ)、追剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる。狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける。冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持っているでもないから、追剥ぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根(こん)よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することが出来た。
 三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでも、かの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座(みさきざ)が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄(にわ)かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠(ぼうばく)たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野(むさしの)の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いことかも知れないが、目前(もくぜん)にその変遷をよく知っている私たちに取っては、一種の感慨がないでもない。殊にわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
 暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼に浮かんだ。(昭和2・1「不同調」)[#改ページ]


御堀端三題


     一 柳のかげ

 海に山に、涼風に浴した思い出もいろいろあるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日(こんにち)の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門(さくらだもん)外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
 堀端(ほりばた)の柳は半蔵門(はんぞうもん)から日比谷(ひびや)まで続いているが、此処(ここ)の柳はその反対の側に立っているのである。どういう訳でこれだけの柳が路ばたに取り残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端はすこぶる狭く、路幅はほとんど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
 冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘(こうもりがさ)を杖(つえ)にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台(くるまやたい)が出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
 それにつづく日比谷公園は長州(ちょうしゅう)屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂(みやけざか)の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝(おおどぶ)は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺(かわうそ)が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻(うなぎ)が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持(おかもち)をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿(のた)くっているのを、私は見た。
 そのほかには一種の軽子(かるこ)、いわゆる立ち※[#小書き片仮名ン、47-11]坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮(けわ)しかった。そこで、下町から重い荷車を挽(ひ)いて来た者は、ここから後押(あとお)しを頼むことになる。立ち※[#小書き片仮名ン、47-14]坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ち※[#小書き片仮名ン、47-16]坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
 立ち※[#小書き片仮名ン、47-18]坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍(わき)には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ち※[#小書き片仮名ン、48-2]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
 私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附(すきやばしみつけ)をはいって有楽町(ゆうらくちょう)を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
 日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗(のぞ)きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ち※[#小書き片仮名ン、48-11]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八厘(りん)、その一杯が実に甘露の味であった。
 長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉(せみ)の声がきこえる。重い革包(カバン)を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯(さっ)と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳(おど)りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ち※[#小書き片仮名ン、49-1]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼(うっそう)というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳(くどく)を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
 少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座(ぎんざ)辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年(せきねん)の涼味を偲(しの)ぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ち※[#小書き片仮名ン、49-11]坊も立っていた。
 その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れる溝(どぶ)の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧(おの)や鋸(のこ)がこの古木に祟(たた)って、浄瑠璃(じょうるり)に聞き慣れている「丗三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」の悲劇をここに演出した。立ち※[#小書き片仮名ン、49-17]坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
 それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後幾たびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の涼風は今もその街路樹の梢におとずれているのであろうが、私に涼味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。(昭和12・8「文藝春秋」)
     二 怪談

 お堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。但し本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
 わたしが二十歳(はたち)の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附(みつけ)の跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などはもちろん往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も少ない。ときどきに人力車の提灯が人魂(ひとだま)のように飛んで行くくらいである。
 しかも其の時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨(こさめ)の飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄(にわ)かにうしろから足音が聞えた。足駄(あしだ)の音ではなく、草履(ぞうり)か草鞋(わらじ)であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
 傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗(ききょう)を染め出した中形(ちゅうがた)の単衣(ひとえもの)を着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっとした。
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