綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

目次

□ 思い出草
 思い出草
 島原の夢
 昔の小学生より
 三崎町の原
 御堀端三題
 銀座
 夏季雑題
 雷雨
 鳶
 旧東京の歳晩
 新旧東京雑題
 ゆず湯
□ 旅つれづれ
 昔の従軍記者
 苦力とシナ兵
 満洲の夏
 仙台五色筆
 秋の修善寺
 春の修善寺
 妙義の山霧
 磯部の若葉
 栗の花
 ランス紀行
 旅すずり
 温泉雑記
□ 暮らしの流れ
 素人脚本の歴史
 人形の趣味
 震災の記
 十番雑記
 風呂を買うまで
 郊外生活の一年
 薬前薬後
 私の机
 読書雑感
 回想・半七捕物帳
 歯なしの話
 我が家の園芸
 最後の随筆
[#改丁、ページの左右中央に]

   □ 思い出草
[#改丁]


思い出草


     赤蜻蛉

 私は麹町(こうじまち)元園町(もとぞのちょう)一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷(ちまた)に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
 江戸(えど)時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川(とくがわ)幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓(ひら)かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
 わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇(へび)が出る、狐(きつね)が出る、兎(うざぎ)が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊(ざる)を持って花を摘みに行ったことを微(かす)かに記憶している。その草叢(くさむら)の中には、ところどころに小さい池や溝川(どぶがわ)のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
 蟹(かに)や蜻蛉(とんぼ)もたくさんにいた。蝙蝠(こうもり)の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋(わらじ)を提(さ)げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹竿(ざお)を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞(うんか)の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩(たた)き落すと、五分か十分のあいだに忽(たちま)ち数十匹の獲物(えもの)があった。今日(こんにち)の子供は多寡(たか)が二疋(ひき)三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼ日和(びより)であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛(う)かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。

     茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗を呉(く)れた。おてつ牡丹餅(ぼたもち)の茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店(かどみせ)で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢(おおぜい)集まって来る。その傍(わき)に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉(まゆ)を落して歯を染めた、小作りの年増(としま)であった。聟(むこ)を貰(もら)ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児(こ)を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚(おさな)い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽(う)えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃(は)いているのを見た。汁粉(しるこ)と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨(うま)くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多(めった)に食いに行ったことはなかった。
 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋(よろずや)という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌(はんじょう)している。おてつ親子は麻布(あざぶ)の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
 わたしの貰(もら)った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父(おとっ)さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意(こんい)にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶(どびん)や茶碗などを知己(しるべ)の人々に分配した。O君の阿父(おとっ)さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
 汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣(つか)っている。しかし此(こ)の茶碗には幾人の唇(くちびる)が触れたであろう。
 今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼(しんきろう)のように朦朧(もうろう)と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金(ぶんきん)高島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐(しず)かにはいって来た。娘の長い袂(たもと)は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松(ひさまつ)のような丁稚(でっち)がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁(えん)に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先(ま)ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭(ふ)いて、逃げるようにこそこそと出て行った。
 講武所(こうぶしょ)ふうの髷(まげ)に結(ゆ)って、黒木綿(もめん)の紋付、小倉(こくら)の馬乗り袴(ばかま)、朱鞘(しゅざや)の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯(ほおば)の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇(てっせん)を持っていた。悠々と蒲団(ふとん)の上にすわって、角(つの)細工の骸骨(がいこつ)を根付(ねつけ)にした煙草(たばこ)入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽(らいさんよう)の詩を吟じた。
 町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿(おはぐろ)を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上(のぼ)って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河(ひらかわ)の天神さまへも参詣して行こうと云った。
 おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨(とき)の声が揚がった。焙烙(ほうろく)調練が始まったらしい。
 わたしは巻煙草を喫(の)みながら、椅子(いす)に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇(くちびる)を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。

     芸妓

 有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋(げいしゃや)もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原(よしわら)に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮(やぼ)な町では無かったらしい。
 また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町(したまち)は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用(もち)いたれ、奥の住居(すまい)ではたいてい行燈(あんどう)をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯(ガス)燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯(ちょうちん)を持ってゆく。寄席(よせ)に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日(こんにち)のように追剥(おいは)ぎや出歯亀(でばかめ)の噂(うわさ)などは甚(はなは)だ稀(まれ)であった。
 遊芸の稽古(けいこ)所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津(ときわづ)の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番唸(うな)ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿(しんじゅく)へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡(ほろ)びてゆく。浪花節の寄席が繁昌(はんじょう)する。
 半鐘(はんしょう)の火の見梯子(ばしご)と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌(あく)る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜(からすうり)が真っ赤に熟して、蔓(つる)や葉が搦(から)み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関(せき)運漕店の旗竿が高く樹(た)っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。

     西郷星

 かの西南戦役(せんえき)は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋(えぞうしや)の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行(はや)った唄に、
□紅(あか)い帽子(シャッポ)は兵隊さん、西郷に追われて、
 トッピキピーノピー。
 今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半(よなか)に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋(たけばし)内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾(よぎ)をかぶって蚊帳(かや)の中に小さくなっていると、暫(しばらく)くしてパチパチの音も止(や)んだ。これは近衛(このえ)兵の一部が西南役(えき)の論功行賞(ろんこうこうしょう)に不平を懐(いだ)いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
 やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星(ほうきぼし)が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星(さいごうぼし)と呼んで、さき頃のハレー彗星(すいせい)のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野(きりの)篠原(しのはら)らが雲の中に現われている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙(きんがみ)を着けて金モールと見せ、附け髭(ひげ)をして西郷の如く拵(こしら)え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論(もちろん)、一種の玩具(おもちゃ)に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
 そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱(しか)られたので、買わずにしまった。

     湯屋

 湯屋(ゆうや)の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗(こぎれい)な姐(ねえ)さんが二、三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐(やかん)が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列(なら)べてある。のちに思えば例の三馬(さんば)の「浮世風呂」をその儘(まま)で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲(しょうぶ)を花瓶(かびん)に挿(さ)していたのを記憶している。松平紀義(まつだいらのりよし)のお茶(ちゃ)の水(みず)事件で有名な御世梅(ごせめ)お此(この)という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口(ざくろぐち)と云うものがあって、夜などは湯煙(ゆげ)が濛々(もうもう)として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画(か)いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝(すいこでん)の花和尚(かおしょう)と九紋龍(くもんりゅう)、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子(ガラス)戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     紙鳶

 春風が吹くと、紙鳶(たこ)を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草(ななくさ)、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国(やすくに)神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具(おもちゃ)屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人(いちあきうど)のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒(しるしばんてん)を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓(うなり)を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶(じだこ)、絵紙鳶、奴(やっこ)紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大(おお)紙鳶は、職人か、もしくは大家(たいけ)の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供(おおども)小供(こども)入り乱れて、到るところに糸を手繰(たぐ)る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子(はご)の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々(せきせきりょうりょう)。往来で迂闊(うかつ)に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒(さら)されて、両手に胼(ひび)を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻(えりまき)をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐(ふとこ)ろ手をして、無意味にうろうろしている今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     獅子舞

 獅子(しし)というものも甚だ衰えた。今日(こんにち)でも来るには来るが、いわゆる一文獅子(いちもんじし)というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦(かね)を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面(めん)をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口(かどぐち)で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠(まり)を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
 元園町には竹内(たけうち)さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸(やしき)へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸(はし)を投(ほお)り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀(こわ)されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵(ののし)られる世の中となった。眉が険(けわ)しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった。
 万歳(まんざい)は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已(すで)に昔のおもかげはなかった。

     江戸の残党

 明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷(まげ)を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋(こいき)な男で、手甲脚絆(てっこうきゃはん)のかいがいしい扮装(いでたち)をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇(しぶうちわ)を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳(い)い声であった。
 元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶(あいさつ)をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処(どこ)かきりりとして小粋なところが、普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
 これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷(よつや)へ納涼(すずみ)ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しき)りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭(ぜに)を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。
 わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視(み)た父は、一間(けん)ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣(や)ったらば直(す)ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札(さつ)を掴(つか)んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否(いな)や一散(いっさん)に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
 この男を見た時に、「霜夜鐘(しものよのかね)」の芝居に出る六浦(むつら)正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫(ちゃたてむし)」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。

     長唄の師匠

 元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋(きねや)お路久(ろく)という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花(はな)さんと云うのが評判の美人であった。この界隈(かいわい)の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃(みやけかほ)女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。

     お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗(しょうけつ)になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風(そめかぜ)と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議(せんぎ)すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡(りょうけん)は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松(ひさまつ)に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏(なつ)でもお俊(しゅん)でも小春(こはる)でも梅川(うめがわ)でもいい訳であるが、お染という名が一番可憐(かれん)らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃(たお)すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗(すこぶ)るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大(おお)コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易(へきえき)したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
 すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに□(よ)りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入(ちんにゅう)を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論(もちろん)、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽(あお)って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島(むこうじま)の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲(みめぐり)の堤下(どてした)を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭(てぬぐい)をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒のそばには白い梅が咲いていた。その風情(ふぜい)は今も眼に残っている。
 その後にもインフルエンザは幾たびも流行を繰り返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に□(よ)りつくには、やはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。

     どんぐり

 時雨(しぐれ)のふる頃となった。
 この頃の空を見ると、団栗(どんぐり)の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると、ちょうど英国大使館の横手へ出る。この横町が元園町と五番町(ごばんちょう)との境で、大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀(くろべい)がある。江戸の絵図によると、昔は藤村(ふじむら)なにがしという旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本(いしもと)陸軍大臣が住んでいたこともあった。板塀の内には眼隠しとして幾株の古い樫(かし)の木が一列をなして栽(う)えられている。おそらく江戸時代からの遺物であろう。繁った枝や葉は塀を越えて往来の上に青く食(は)み出している。
 この横町は比較的に往来が少ないので、いつも子供の遊び場になっていた。わたしも幼い頃には毎日ここで遊んだ。ここで紙鳶(たこ)をあげた、独楽(こま)を廻した。戦争ごっこをした、縄飛びをした。われわれの跳ねまわる舞台は、いつもかの黒塀と樫の木とが背景になっていた。
 時雨(しぐれ)のふる頃になると、樫の実が熟して来る。それも青いうちは誰も眼をつけないが、熟してだんだんに栗のような色になって来ると、俗にいう団栗なるものが私たちの注意を惹(ひ)くようになる。初めは自然に落ちて来るのをおとなしく拾うのであるが、しまいにはだんだんに大胆になって、竹竿を持ち出して叩き落す、あるいは小石に糸を結んで投げつける。椎(しい)の実よりもやや大きい褐色(かっしょく)の木の実が霰(あられ)のようにはらはらと降って来るのを、われ先にと駈け集まって拾う。懐ろへ押し込む者もある。紙袋へ詰め込む者もある。たがいに其の分量の多いのを誇って、少年の欲を満足させていた。
 しかし白樫(しらかし)は格別、普通のどんぐりを食うと唖になるとか云い伝えられているので、誰も口へ入れる者はなかった。多くは戦争ごっこの弾薬に用いるのであった。時には細い短い竹を団栗の頭へ挿して小さい独楽を作った。それから弥次郎兵衛(やじろべえ)というものを作った。弥次郎兵衛という玩具(おもちゃ)はもう廃(すた)ったらしいが、その頃には子供たちの間になかなか流行ったもので、どんぐりで作る場合には先ず比較的に拉の大きいのを選んで、その横腹に穴をあけて左右に長い細い竹を斜めに挿し込み、その竹の端(はし)には左右ともに同じく大きい団栗の実を付ける。で、その中心になった団栗を鼻の上に乗せると、左右の団栗の重量が平均してちっとも動かずに立っている。無論、頭をうっかり動かしてはいけない、まるで作りつけの人形のように首を据(す)えている。そうして、多くの場合には二、三人で歩きくらべをする。急げば首が動く。動けば弥次郎兵衛が落ちる。落ちれば負けになるのである。ずいぶん首の痛くなる遊びであった。
 どんぐりはそんな風にいろいろの遊び道具をわれわれに与えてくれた。横町の黒塀の外は、秋から冬にかけて殊(こと)に賑(にぎ)わった。人家の多い町なかに住んでいる私たちに取っては、このどんぐりの木が最も懐かしい友であった。
「早くどんぐりが生(な)ればいいなあ。」
 私たちは夏の頃から青い梢(こずえ)を見上げていた。この横町には赤とんぼも多く来た。秋風が吹いて来ると、私たちは先ず赤とんぼを追う。とんぼの影がだんだんに薄くなると、今度は例のどんぐりに取りかかる。どんぐりの実が漸く肥えて、褐色の光沢(つや)が磨いたように濃くなって来ると、とかくに陰った日がつづく。薄い日が洩(も)れて来たかと思うと、又すぐに陰って来る。そうして、雨が時々にはらはらと通ってゆく。その時には私たちはあわてて黒塀のわきに隠れる。樫の技や葉は青い傘をひろげて私たちの小さい頭の上を掩(おお)ってくれる。雨が止むと、私たちはすぐに其の恩人にむかって礫(つぶて)を投げる。どんぐりは笑い声を出してからからと落ちて来る。湿(ぬ)れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
 そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿(ぬ)れる、手足は泥だらけになる。家(うち)へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。

     大綿

 時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮(はす)の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕(とら)える子供らが「オボー三尺下(さ)※[#小書き片仮名ン、25-6]がれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
 作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
 名古屋(なごや)の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿(おおわた)」と呼んでいる。その羽虫は裳(もすそ)に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯(まま)食わしょ」と唄った。
 オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂(たもと)をあげて打つのが習いであった。
 その頃は男の児も筒袖(つつそで)は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店(うらだな)の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八(や)つ口(くち)の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切(きれ)が付いていた。
 それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒(ほうき)を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮(ふる)うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
 横町で鮒(ふな)売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁(し)み渡った。
 日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
 その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套(がいとう)の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失(う)せなかったのである。(明治43・11俳誌「木太刀」、その他)[#改ページ]


島原の夢


「戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)」や「東都歳事記(とうとさいじき)」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎(かぶき)の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離(わかれ)をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃(かく)されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯(ガス)燈がひかり、洋服や洋傘傘(こうもりがさ)やトンビが流行しても、詮(せん)ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食(は)み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊(いささ)か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞(ことば)を知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏(ふ)み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾(かつ)てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒(さ)め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座(しんとみざ)、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷(さじき)五人詰一間(ひとま)の値(あた)い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻(かみよ)りでこしらえた太い鼻緒の草履(ぞうり)をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占(つじうら)せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾(はなのれん)をかけて、さるやとか菊岡(きくおか)とか梅林(ばいりん)とかいう家号を筆太(ふでぶと)にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主(ざぬし)や俳優(やくしゃ)に贈られたいろいろの幟(のぼり)が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町(しんとみちょう)だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原(しまばら)とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地(つきじ)の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青(こんじょう)の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸(かし)の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣(ゆかた)を着て、日よけの頬かむりをして粋(いき)な莨入(たばこい)れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴(あめ)屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹(あか)や藍(あい)で書いた庵(いおり)看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓(いなりずし)を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細(しさい)に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇(うちわ)も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町(しばいまち)の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切(いっさい)通過しない。たまたま此処(ここ)を過ぎる人力車があっても、それは徐(しず)かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳(そら)んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽(ひ)いてゆくのをしばしば聞いた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額(ひたい)にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間(どま)に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋(やつはし)との籠(かご)をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊(はいかい)している。彼らにかぎらず、すべて幕間(まくあい)の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋(きょうばし)区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺(す)れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎(とが)めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥で柝(き)の音(ね)がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋(つな)がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方(でかた)のうちでも、如才(じょさい)のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶(なお)いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳(おど)らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」吉野川(よしのがわ)の場である。岩にせかれて咽(むせ)び落ちる山川を境いにして、上(かみ)の方(かた)の背山にも、下(しも)の方の妹山(いもやま)にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段(ひなだん)が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾(すだれ)がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文(ぶみ)をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇(ちゃう)の袴をつけた美少年が殊勝(しゅしょう)げに経巻(きょうかん)を読誦(どくじゅ)している。高島(たかしま)屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次(さだんじ)の久我之助(こがのすけ)である。
 姫は太宰(だざい)の息女雛鳥(ひなどり)で、中村福助(ふくすけ)である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒(しんこま)屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
 背山の方(かた)は大判司清澄(だいはんじきよずみ)――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮(かり)花道にあらわれたのは織物の□□(かみしも)をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌(はま)ったような彼の姿、それは中村芝翫(しかん)である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰(だざい)の後室(こうしつ)定高(さだか)で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川団十郎(だんじゅうろう)である。大判司に対して、成駒(なりこま)屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田(なりた)屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟(ひっきょう)、親の子のと云うは人間の私(わたくし)、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接(つ)ぎ木をいたさねば、太宰の家(いえ)が立ちませぬ。」と、定高は凛(りん)とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎俳優(やくしゃ)のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門(うたえもん)だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。(大正12・11「随筆」)[#改ページ]


昔の小学生より


 十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有(ゆう)していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列(つら)なっている。巌谷小波(いわやさざなみ)氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
 それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具(そな)えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
 ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町(ひらかわちょう)に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
 そのほかに元園町に堀江小学、山元町(やまもとちょう)に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所(てならいしなんじょ)から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処(ここ)に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
 その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但(ただ)し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
 進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅(いっちょうら)の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使(こづかい)に至るまでも髪を刈り、髭(ひげ)を剃(そ)って、試験中は服装を改(あらた)めていた。
 授業時間や冬季夏季の休暇は、今日(こんにち)と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭(きょうべん)で背中を引っぱたかれた。癇癪(かんしゃく)持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃりと食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
 今日ならば、生徒虐待(ぎゃくたい)とか云って忽(たちま)ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於(お)いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚(はなは)だ恐れられた。
 生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯(いたずら)をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎(よだれ)くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤(そろばん)を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮(しょせん)はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
 もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂(いわゆる)いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
 学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅(おど)すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
 教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒(さら)してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店(うらだな)の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯(へこおび)をしめていたが、商家の子は大抵角帯(かくおび)をしめていた。
 靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折(はしょ)り、あるいは袴の股立(ももだ)ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎(とが)めなかった。
 運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤(どて)を作って、大きい樫(かし)の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処(そこ)らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍(そば)などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路(みち)が悪い。そこで転んだり起(た)ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、午(ひる)の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍(いくさ)ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠(まり)をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴(あば)れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢(おおぜい)が隊を組んで、他の学校へ喧嘩(けんか)にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父(おやじ)の脇差(わきざし)を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
 その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。(昭和2・10「時事新報」)[#改ページ]


三崎町の原


 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田(かんだ)の三崎町(みさきちょう)まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊(うかつ)であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷(ちまた)に立って、自動車やトラックに脅(おびや)かされてうろうろしながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世(かくせい)の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤(どて)で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊(くびくく)りの松などという忌(いや)な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬(か)んだ。追剥(おいは)ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町(ふじみちょう)の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷(ほんごう)の春木座(はるきざ)へゆくためであった。
 春木座は今日(こんにち)の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊(とりくま)という男が、大阪から中通(ちゅうどお)りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札(はんふだ)を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜(ひのき)舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉(やす)いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
 芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠(おこた)らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯(ほおば)の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿諭、須田町(すだちょう)の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻(うかい)であるから、どうしても九段下(くだんした)から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。

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