綺堂むかし語り
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著者名:岡本綺堂 

目次

□ 思い出草
 思い出草
 島原の夢
 昔の小学生より
 三崎町の原
 御堀端三題
 銀座
 夏季雑題
 雷雨
 鳶
 旧東京の歳晩
 新旧東京雑題
 ゆず湯
□ 旅つれづれ
 昔の従軍記者
 苦力とシナ兵
 満洲の夏
 仙台五色筆
 秋の修善寺
 春の修善寺
 妙義の山霧
 磯部の若葉
 栗の花
 ランス紀行
 旅すずり
 温泉雑記
□ 暮らしの流れ
 素人脚本の歴史
 人形の趣味
 震災の記
 十番雑記
 風呂を買うまで
 郊外生活の一年
 薬前薬後
 私の机
 読書雑感
 回想・半七捕物帳
 歯なしの話
 我が家の園芸
 最後の随筆
[#改丁、ページの左右中央に]

   □ 思い出草
[#改丁]


思い出草


     赤蜻蛉

 私は麹町(こうじまち)元園町(もとぞのちょう)一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷(ちまた)に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
 江戸(えど)時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川(とくがわ)幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓(ひら)かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
 わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇(へび)が出る、狐(きつね)が出る、兎(うざぎ)が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊(ざる)を持って花を摘みに行ったことを微(かす)かに記憶している。その草叢(くさむら)の中には、ところどころに小さい池や溝川(どぶがわ)のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
 蟹(かに)や蜻蛉(とんぼ)もたくさんにいた。蝙蝠(こうもり)の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋(わらじ)を提(さ)げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹竿(ざお)を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞(うんか)の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩(たた)き落すと、五分か十分のあいだに忽(たちま)ち数十匹の獲物(えもの)があった。今日(こんにち)の子供は多寡(たか)が二疋(ひき)三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼ日和(びより)であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛(う)かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。

     茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗を呉(く)れた。おてつ牡丹餅(ぼたもち)の茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店(かどみせ)で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢(おおぜい)集まって来る。その傍(わき)に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉(まゆ)を落して歯を染めた、小作りの年増(としま)であった。聟(むこ)を貰(もら)ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児(こ)を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚(おさな)い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽(う)えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃(は)いているのを見た。汁粉(しるこ)と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨(うま)くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多(めった)に食いに行ったことはなかった。
 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋(よろずや)という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌(はんじょう)している。おてつ親子は麻布(あざぶ)の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
 わたしの貰(もら)った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父(おとっ)さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意(こんい)にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶(どびん)や茶碗などを知己(しるべ)の人々に分配した。O君の阿父(おとっ)さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
 汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣(つか)っている。しかし此(こ)の茶碗には幾人の唇(くちびる)が触れたであろう。
 今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼(しんきろう)のように朦朧(もうろう)と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金(ぶんきん)高島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐(しず)かにはいって来た。娘の長い袂(たもと)は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松(ひさまつ)のような丁稚(でっち)がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁(えん)に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先(ま)ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭(ふ)いて、逃げるようにこそこそと出て行った。
 講武所(こうぶしょ)ふうの髷(まげ)に結(ゆ)って、黒木綿(もめん)の紋付、小倉(こくら)の馬乗り袴(ばかま)、朱鞘(しゅざや)の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯(ほおば)の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇(てっせん)を持っていた。悠々と蒲団(ふとん)の上にすわって、角(つの)細工の骸骨(がいこつ)を根付(ねつけ)にした煙草(たばこ)入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽(らいさんよう)の詩を吟じた。
 町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿(おはぐろ)を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上(のぼ)って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河(ひらかわ)の天神さまへも参詣して行こうと云った。
 おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨(とき)の声が揚がった。焙烙(ほうろく)調練が始まったらしい。
 わたしは巻煙草を喫(の)みながら、椅子(いす)に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇(くちびる)を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。

     芸妓

 有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋(げいしゃや)もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原(よしわら)に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮(やぼ)な町では無かったらしい。
 また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町(したまち)は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用(もち)いたれ、奥の住居(すまい)ではたいてい行燈(あんどう)をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯(ガス)燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯(ちょうちん)を持ってゆく。寄席(よせ)に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日(こんにち)のように追剥(おいは)ぎや出歯亀(でばかめ)の噂(うわさ)などは甚(はなは)だ稀(まれ)であった。
 遊芸の稽古(けいこ)所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津(ときわづ)の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番唸(うな)ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿(しんじゅく)へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡(ほろ)びてゆく。浪花節の寄席が繁昌(はんじょう)する。
 半鐘(はんしょう)の火の見梯子(ばしご)と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌(あく)る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜(からすうり)が真っ赤に熟して、蔓(つる)や葉が搦(から)み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関(せき)運漕店の旗竿が高く樹(た)っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。

     西郷星

 かの西南戦役(せんえき)は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋(えぞうしや)の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行(はや)った唄に、
□紅(あか)い帽子(シャッポ)は兵隊さん、西郷に追われて、
 トッピキピーノピー。
 今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半(よなか)に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋(たけばし)内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾(よぎ)をかぶって蚊帳(かや)の中に小さくなっていると、暫(しばらく)くしてパチパチの音も止(や)んだ。これは近衛(このえ)兵の一部が西南役(えき)の論功行賞(ろんこうこうしょう)に不平を懐(いだ)いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
 やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星(ほうきぼし)が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星(さいごうぼし)と呼んで、さき頃のハレー彗星(すいせい)のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野(きりの)篠原(しのはら)らが雲の中に現われている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙(きんがみ)を着けて金モールと見せ、附け髭(ひげ)をして西郷の如く拵(こしら)え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論(もちろん)、一種の玩具(おもちゃ)に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
 そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱(しか)られたので、買わずにしまった。

     湯屋

 湯屋(ゆうや)の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗(こぎれい)な姐(ねえ)さんが二、三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐(やかん)が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列(なら)べてある。のちに思えば例の三馬(さんば)の「浮世風呂」をその儘(まま)で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲(しょうぶ)を花瓶(かびん)に挿(さ)していたのを記憶している。松平紀義(まつだいらのりよし)のお茶(ちゃ)の水(みず)事件で有名な御世梅(ごせめ)お此(この)という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口(ざくろぐち)と云うものがあって、夜などは湯煙(ゆげ)が濛々(もうもう)として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画(か)いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝(すいこでん)の花和尚(かおしょう)と九紋龍(くもんりゅう)、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子(ガラス)戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     紙鳶

 春風が吹くと、紙鳶(たこ)を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草(ななくさ)、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国(やすくに)神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具(おもちゃ)屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人(いちあきうど)のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒(しるしばんてん)を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓(うなり)を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶(じだこ)、絵紙鳶、奴(やっこ)紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大(おお)紙鳶は、職人か、もしくは大家(たいけ)の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供(おおども)小供(こども)入り乱れて、到るところに糸を手繰(たぐ)る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子(はご)の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々(せきせきりょうりょう)。往来で迂闊(うかつ)に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒(さら)されて、両手に胼(ひび)を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻(えりまき)をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐(ふとこ)ろ手をして、無意味にうろうろしている今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     獅子舞

 獅子(しし)というものも甚だ衰えた。今日(こんにち)でも来るには来るが、いわゆる一文獅子(いちもんじし)というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦(かね)を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面(めん)をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口(かどぐち)で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠(まり)を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
 元園町には竹内(たけうち)さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸(やしき)へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸(はし)を投(ほお)り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀(こわ)されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵(ののし)られる世の中となった。眉が険(けわ)しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった。
 万歳(まんざい)は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已(すで)に昔のおもかげはなかった。

     江戸の残党

 明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷(まげ)を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋(こいき)な男で、手甲脚絆(てっこうきゃはん)のかいがいしい扮装(いでたち)をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇(しぶうちわ)を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳(い)い声であった。
 元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶(あいさつ)をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処(どこ)かきりりとして小粋なところが、普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
 これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷(よつや)へ納涼(すずみ)ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しき)りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭(ぜに)を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。
 わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視(み)た父は、一間(けん)ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣(や)ったらば直(す)ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札(さつ)を掴(つか)んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否(いな)や一散(いっさん)に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
 この男を見た時に、「霜夜鐘(しものよのかね)」の芝居に出る六浦(むつら)正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫(ちゃたてむし)」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。

     長唄の師匠

 元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋(きねや)お路久(ろく)という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花(はな)さんと云うのが評判の美人であった。この界隈(かいわい)の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃(みやけかほ)女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。

     お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗(しょうけつ)になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風(そめかぜ)と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議(せんぎ)すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡(りょうけん)は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松(ひさまつ)に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏(なつ)でもお俊(しゅん)でも小春(こはる)でも梅川(うめがわ)でもいい訳であるが、お染という名が一番可憐(かれん)らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃(たお)すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗(すこぶ)るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大(おお)コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易(へきえき)したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
 すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに□(よ)りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入(ちんにゅう)を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論(もちろん)、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽(あお)って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島(むこうじま)の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲(みめぐり)の堤下(どてした)を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭(てぬぐい)をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒のそばには白い梅が咲いていた。その風情(ふぜい)は今も眼に残っている。
 その後にもインフルエンザは幾たびも流行を繰り返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に□(よ)りつくには、やはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。

     どんぐり

 時雨(しぐれ)のふる頃となった。
 この頃の空を見ると、団栗(どんぐり)の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると、ちょうど英国大使館の横手へ出る。この横町が元園町と五番町(ごばんちょう)との境で、大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀(くろべい)がある。江戸の絵図によると、昔は藤村(ふじむら)なにがしという旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本(いしもと)陸軍大臣が住んでいたこともあった。板塀の内には眼隠しとして幾株の古い樫(かし)の木が一列をなして栽(う)えられている。おそらく江戸時代からの遺物であろう。繁った枝や葉は塀を越えて往来の上に青く食(は)み出している。
 この横町は比較的に往来が少ないので、いつも子供の遊び場になっていた。わたしも幼い頃には毎日ここで遊んだ。ここで紙鳶(たこ)をあげた、独楽(こま)を廻した。戦争ごっこをした、縄飛びをした。われわれの跳ねまわる舞台は、いつもかの黒塀と樫の木とが背景になっていた。
 時雨(しぐれ)のふる頃になると、樫の実が熟して来る。それも青いうちは誰も眼をつけないが、熟してだんだんに栗のような色になって来ると、俗にいう団栗なるものが私たちの注意を惹(ひ)くようになる。初めは自然に落ちて来るのをおとなしく拾うのであるが、しまいにはだんだんに大胆になって、竹竿を持ち出して叩き落す、あるいは小石に糸を結んで投げつける。椎(しい)の実よりもやや大きい褐色(かっしょく)の木の実が霰(あられ)のようにはらはらと降って来るのを、われ先にと駈け集まって拾う。懐ろへ押し込む者もある。紙袋へ詰め込む者もある。たがいに其の分量の多いのを誇って、少年の欲を満足させていた。
 しかし白樫(しらかし)は格別、普通のどんぐりを食うと唖になるとか云い伝えられているので、誰も口へ入れる者はなかった。多くは戦争ごっこの弾薬に用いるのであった。時には細い短い竹を団栗の頭へ挿して小さい独楽を作った。それから弥次郎兵衛(やじろべえ)というものを作った。弥次郎兵衛という玩具(おもちゃ)はもう廃(すた)ったらしいが、その頃には子供たちの間になかなか流行ったもので、どんぐりで作る場合には先ず比較的に拉の大きいのを選んで、その横腹に穴をあけて左右に長い細い竹を斜めに挿し込み、その竹の端(はし)には左右ともに同じく大きい団栗の実を付ける。で、その中心になった団栗を鼻の上に乗せると、左右の団栗の重量が平均してちっとも動かずに立っている。無論、頭をうっかり動かしてはいけない、まるで作りつけの人形のように首を据(す)えている。そうして、多くの場合には二、三人で歩きくらべをする。急げば首が動く。動けば弥次郎兵衛が落ちる。落ちれば負けになるのである。ずいぶん首の痛くなる遊びであった。
 どんぐりはそんな風にいろいろの遊び道具をわれわれに与えてくれた。横町の黒塀の外は、秋から冬にかけて殊(こと)に賑(にぎ)わった。人家の多い町なかに住んでいる私たちに取っては、このどんぐりの木が最も懐かしい友であった。
「早くどんぐりが生(な)ればいいなあ。」
 私たちは夏の頃から青い梢(こずえ)を見上げていた。この横町には赤とんぼも多く来た。秋風が吹いて来ると、私たちは先ず赤とんぼを追う。とんぼの影がだんだんに薄くなると、今度は例のどんぐりに取りかかる。どんぐりの実が漸く肥えて、褐色の光沢(つや)が磨いたように濃くなって来ると、とかくに陰った日がつづく。薄い日が洩(も)れて来たかと思うと、又すぐに陰って来る。そうして、雨が時々にはらはらと通ってゆく。その時には私たちはあわてて黒塀のわきに隠れる。樫の技や葉は青い傘をひろげて私たちの小さい頭の上を掩(おお)ってくれる。雨が止むと、私たちはすぐに其の恩人にむかって礫(つぶて)を投げる。どんぐりは笑い声を出してからからと落ちて来る。湿(ぬ)れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
 そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿(ぬ)れる、手足は泥だらけになる。家(うち)へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。

     大綿

 時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮(はす)の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕(とら)える子供らが「オボー三尺下(さ)※[#小書き片仮名ン、25-6]がれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
 作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
 名古屋(なごや)の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿(おおわた)」と呼んでいる。その羽虫は裳(もすそ)に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯(まま)食わしょ」と唄った。
 オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂(たもと)をあげて打つのが習いであった。
 その頃は男の児も筒袖(つつそで)は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店(うらだな)の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八(や)つ口(くち)の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切(きれ)が付いていた。
 それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒(ほうき)を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮(ふる)うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
 横町で鮒(ふな)売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁(し)み渡った。
 日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
 その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套(がいとう)の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失(う)せなかったのである。(明治43・11俳誌「木太刀」、その他)[#改ページ]


島原の夢


「戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)」や「東都歳事記(とうとさいじき)」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎(かぶき)の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離(わかれ)をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
 おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃(かく)されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯(ガス)燈がひかり、洋服や洋傘傘(こうもりがさ)やトンビが流行しても、詮(せん)ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食(は)み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊(いささ)か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞(ことば)を知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏(ふ)み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾(かつ)てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒(さ)め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座(しんとみざ)、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷(さじき)五人詰一間(ひとま)の値(あた)い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻(かみよ)りでこしらえた太い鼻緒の草履(ぞうり)をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占(つじうら)せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾(はなのれん)をかけて、さるやとか菊岡(きくおか)とか梅林(ばいりん)とかいう家号を筆太(ふでぶと)にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主(ざぬし)や俳優(やくしゃ)に贈られたいろいろの幟(のぼり)が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町(しんとみちょう)だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原(しまばら)とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地(つきじ)の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青(こんじょう)の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸(かし)の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣(ゆかた)を着て、日よけの頬かむりをして粋(いき)な莨入(たばこい)れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴(あめ)屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹(あか)や藍(あい)で書いた庵(いおり)看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓(いなりずし)を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細(しさい)に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇(うちわ)も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町(しばいまち)の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切(いっさい)通過しない。たまたま此処(ここ)を過ぎる人力車があっても、それは徐(しず)かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳(そら)んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽(ひ)いてゆくのをしばしば聞いた。
 秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額(ひたい)にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間(どま)に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋(やつはし)との籠(かご)をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊(はいかい)している。彼らにかぎらず、すべて幕間(まくあい)の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋(きょうばし)区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺(す)れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎(とが)めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
 やがて舞台の奥で柝(き)の音(ね)がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋(つな)がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方(でかた)のうちでも、如才(じょさい)のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶(なお)いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳(おど)らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」吉野川(よしのがわ)の場である。岩にせかれて咽(むせ)び落ちる山川を境いにして、上(かみ)の方(かた)の背山にも、下(しも)の方の妹山(いもやま)にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段(ひなだん)が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾(すだれ)がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文(ぶみ)をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇(ちゃう)の袴をつけた美少年が殊勝(しゅしょう)げに経巻(きょうかん)を読誦(どくじゅ)している。高島(たかしま)屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次(さだんじ)の久我之助(こがのすけ)である。
 姫は太宰(だざい)の息女雛鳥(ひなどり)で、中村福助(ふくすけ)である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒(しんこま)屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
 背山の方(かた)は大判司清澄(だいはんじきよずみ)――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮(かり)花道にあらわれたのは織物の□□(かみしも)をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌(はま)ったような彼の姿、それは中村芝翫(しかん)である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰(だざい)の後室(こうしつ)定高(さだか)で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川団十郎(だんじゅうろう)である。大判司に対して、成駒(なりこま)屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田(なりた)屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟(ひっきょう)、親の子のと云うは人間の私(わたくし)、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接(つ)ぎ木をいたさねば、太宰の家(いえ)が立ちませぬ。」と、定高は凛(りん)とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎俳優(やくしゃ)のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門(うたえもん)だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。(大正12・11「随筆」)[#改ページ]


昔の小学生より


 十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有(ゆう)していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列(つら)なっている。巌谷小波(いわやさざなみ)氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
 それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具(そな)えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
 ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町(ひらかわちょう)に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
 そのほかに元園町に堀江小学、山元町(やまもとちょう)に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所(てならいしなんじょ)から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処(ここ)に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
 その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但(ただ)し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
 進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるから、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅(いっちょうら)の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使(こづかい)に至るまでも髪を刈り、髭(ひげ)を剃(そ)って、試験中は服装を改(あらた)めていた。
 授業時間や冬季夏季の休暇は、今日(こんにち)と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭(きょうべん)で背中を引っぱたかれた。癇癪(かんしゃく)持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃりと食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
 今日ならば、生徒虐待(ぎゃくたい)とか云って忽(たちま)ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於(お)いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚(はなは)だ恐れられた。
 生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯(いたずら)をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎(よだれ)くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤(そろばん)を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮(しょせん)はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
 もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂(いわゆる)いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
 学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅(おど)すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
 教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒(さら)してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店(うらだな)の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯(へこおび)をしめていたが、商家の子は大抵角帯(かくおび)をしめていた。
 靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折(はしょ)り、あるいは袴の股立(ももだ)ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎(とが)めなかった。
 運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤(どて)を作って、大きい樫(かし)の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処(そこ)らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍(そば)などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路(みち)が悪い。そこで転んだり起(た)ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、午(ひる)の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍(いくさ)ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠(まり)をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴(あば)れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢(おおぜい)が隊を組んで、他の学校へ喧嘩(けんか)にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父(おやじ)の脇差(わきざし)を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
 その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。(昭和2・10「時事新報」)[#改ページ]


三崎町の原


 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田(かんだ)の三崎町(みさきちょう)まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊(うかつ)であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷(ちまた)に立って、自動車やトラックに脅(おびや)かされてうろうろしながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世(かくせい)の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤(どて)で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊(くびくく)りの松などという忌(いや)な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬(か)んだ。追剥(おいは)ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町(ふじみちょう)の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷(ほんごう)の春木座(はるきざ)へゆくためであった。
 春木座は今日(こんにち)の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊(とりくま)という男が、大阪から中通(ちゅうどお)りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札(はんふだ)を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜(ひのき)舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉(やす)いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
 芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠(おこた)らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯(ほおば)の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿諭、須田町(すだちょう)の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻(うかい)であるから、どうしても九段下(くだんした)から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
 その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろう筈はない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟(そうくつ)、追剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる。狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける。冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持っているでもないから、追剥ぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根(こん)よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することが出来た。
 三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでも、かの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座(みさきざ)が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄(にわ)かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠(ぼうばく)たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野(むさしの)の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いことかも知れないが、目前(もくぜん)にその変遷をよく知っている私たちに取っては、一種の感慨がないでもない。殊にわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
 暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼に浮かんだ。(昭和2・1「不同調」)[#改ページ]


御堀端三題


     一 柳のかげ

 海に山に、涼風に浴した思い出もいろいろあるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日(こんにち)の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門(さくらだもん)外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
 堀端(ほりばた)の柳は半蔵門(はんぞうもん)から日比谷(ひびや)まで続いているが、此処(ここ)の柳はその反対の側に立っているのである。どういう訳でこれだけの柳が路ばたに取り残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端はすこぶる狭く、路幅はほとんど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
 冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘(こうもりがさ)を杖(つえ)にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台(くるまやたい)が出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
 それにつづく日比谷公園は長州(ちょうしゅう)屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂(みやけざか)の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝(おおどぶ)は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺(かわうそ)が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻(うなぎ)が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持(おかもち)をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿(のた)くっているのを、私は見た。
 そのほかには一種の軽子(かるこ)、いわゆる立ち※[#小書き片仮名ン、47-11]坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮(けわ)しかった。そこで、下町から重い荷車を挽(ひ)いて来た者は、ここから後押(あとお)しを頼むことになる。立ち※[#小書き片仮名ン、47-14]坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ち※[#小書き片仮名ン、47-16]坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
 立ち※[#小書き片仮名ン、47-18]坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍(わき)には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ち※[#小書き片仮名ン、48-2]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
 私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附(すきやばしみつけ)をはいって有楽町(ゆうらくちょう)を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
 日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗(のぞ)きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ち※[#小書き片仮名ン、48-11]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八厘(りん)、その一杯が実に甘露の味であった。
 長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉(せみ)の声がきこえる。重い革包(カバン)を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯(さっ)と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳(おど)りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ち※[#小書き片仮名ン、49-1]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼(うっそう)というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳(くどく)を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
 少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座(ぎんざ)辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年(せきねん)の涼味を偲(しの)ぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ち※[#小書き片仮名ン、49-11]坊も立っていた。
 その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れる溝(どぶ)の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧(おの)や鋸(のこ)がこの古木に祟(たた)って、浄瑠璃(じょうるり)に聞き慣れている「丗三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」の悲劇をここに演出した。立ち※[#小書き片仮名ン、49-17]坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
 それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後幾たびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の涼風は今もその街路樹の梢におとずれているのであろうが、私に涼味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。(昭和12・8「文藝春秋」)
     二 怪談

 お堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。但し本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
 わたしが二十歳(はたち)の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附(みつけ)の跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などはもちろん往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も少ない。ときどきに人力車の提灯が人魂(ひとだま)のように飛んで行くくらいである。
 しかも其の時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨(こさめ)の飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄(にわ)かにうしろから足音が聞えた。足駄(あしだ)の音ではなく、草履(ぞうり)か草鞋(わらじ)であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
 傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗(ききょう)を染め出した中形(ちゅうがた)の単衣(ひとえもの)を着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっとした。右にも左にも灯のひかりの無い堀端で、女の着物の染め模様などが判ろう筈がない。幽霊か妖怪か、いずれ唯者(ただもの)ではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強くおびやかしたのである。
 まさかにきゃっと叫んで逃げる程でもなかったが、わたしは再び振り返る勇気もなく、ただ真っ直ぐに足を早めてゆくと、女もわたしを追うように付いて来る。女の癖になかなか足がはやい。そうなると、私はいよいよ気味が悪くなった。江戸時代には三宅坂下の堀に河獺(かわうそ)が棲んでいて、往来の人を嚇(おど)したなどという伝説がある。そんなことも今更に思い出されて、わたしはひどく臆病になった。
 この場合、唯一(ゆいいつ)の救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私のあとを付けて来る怪しい女の正体も、ありありと照らし出されるに相違ない。私はいよいよ急いで派出所の前までたどり着いた。ここで大胆に再び振り返ると、女の顔は傘にかくされてやはり見えないが、その着物は確かに白地で、桔梗の中形にも見誤まりはなかった。彼女は痩形(やせがた)の若い女であるらしかった。
 正体は見届けたが、不安はまだ消えない。私は黙って歩き出すと、女はやはり付いて来た。わたしは気味の悪い道連れ(?)をうしろに背負いながら、とうとう三宅坂下までたどり着いたが、女は河獺にもならなかった。坂上の道はふた筋に分かれて、隼町(はやぶさちょう)の大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分かれわかれになった。
 まずほっとして歩きながら、さらに考え直すと、女は何者か知れないが、暗い夜道のひとり歩きがさびしいので、おそらく私のあとに付いて来たのであろう。足の早いのが少し不思議だが、私にはぐれまいとして、若い女が一生懸命に急いで来たのであろう。さらに不思議なのは、彼女は雨の夜に足駄を穿かないで、素足に竹の皮の草履をはいていた事である。しかも着物の裾(すそ)をも引き揚げないで、湿(ぬ)れるがままにびちゃびちゃと歩いていた。誰かと喧嘩して、台所からでも飛び出して来たのかも知れない。
 もう一つの問題は、女の着物が暗い中ではっきりと見えたことであるが、これは私の眼のせいかも知れない。幻覚や錯覚と違って、本当の姿がそのままに見えたのであるから、私の頭が怪しいという理窟になる。わたしは女を怪しむよりも、自分を怪しまなければならない事になった。
 それを友達に話すと、君は精神病者になるなぞと嚇(おど)された。しかもそんな例はあとにも先にもただ一度で、爾来(じらい)四十余年、幸いに蘆原(あしわら)将軍の部下にも編入されずにいる。(昭和11・8「モダン日本」)
     三 三宅坂

 次は怪談ではなく、一種の遭難談である。読者には余り面白くないかも知れない。
 話はかなりに遠い昔、明治三十年五月一日、わたしが二十六歳の初夏の出来事である。その日の午前九時ごろ、わたしは人力車に乗って、半蔵門外の堀端を通った。去年の秋、京橋に住む知人の家に男の児が生まれて、この五月は初(はつ)の節句であると云うので、私は祝い物の人形をとどけに行くのであった。わたしは金太郎の人形と飾り馬との二箱を風呂敷につつんで抱えていた。
 わたしの車の前を一台の車が走って行く。それには陸軍の軍医が乗っていた。今日(こんにち)の人はあまり気の付かないことであるが、人力車の多い時代には、客を乗せた車夫がとかくに自分の前をゆく車のあとに付いて走る習慣があった。前の車のあとに付いてゆけば、前方の危険を避ける心配が無いからである。しかもそれがために、却って危険を招く虞(おそ)れがある。わたしの車なども其の一例であった。
 前は軍医、あとは私、二台の車が前後して走るうちに、三宅坂上の陸軍衛戍(えいじゅ)病院の前に来かかった時、前の車夫は突然に梶棒(かじぼう)を右へ向けた。軍医は病院の門に入るのである。今日と違って、その当時の衛戍病院の入口は、往来よりも少しく高い所にあって、さしたる勾配(こうばい)でもないが一種の坂路をなしていた。
 その坂路にかかって、車夫が梶棒を急転した為に、車はずるりと後戻りをして、そのあとに付いて来た私の車の右側に衝突すると、はずみは怖ろしいもので、双方の車はたちまち顛覆(てんぷく)した。軍医殿も私も路上に投げ出された。
 ぞっとしたのは、その一刹那である。単に投げ出されただけならば、まだしも災難が軽いのであるが、私の車のまたあとから外国人を乗せた二頭立ての馬車が走って来たのである。軍医殿は幸いに反対の方へ落ちたが、私は路上に落ちると共に、その馬車が乗りかかって来た。私ははっと思った。それを見た往来の人たちも思わずあっと叫んだ。私のからだは完全に馬車の下敷きになったのである。
 馬車に乗っていたのは若い外国婦人で、これも帛(きぬ)を裂くような声をあげた。私を轢(ひ)いたと思ったからである。私も無論に轢かれるものと覚悟した。馬車の馬丁(ばてい)もあわてて手綱をひき留めようとしたが、走りつづけて来た二頭の馬は急に止まることが出来ないで、私の上をズルズルと通り過ぎてしまった。馬車がようよう止まると、馬丁は馭者(ぎょしゃ)台から飛び降りて来た。外国婦人も降りて来た。私たちの車夫も駈け寄った。往来の人もあつまって来た。
 誰の考えにも、私は轢かれたと思ったのであろう。しかも天佑というのか、好運というのか、私は無事に起き上がったので、人々はまたおどろいた。私は馬にも踏まれず、車輪にも触れず、身には微傷だも負わなかったのである。その仔細は、私のからだが縦(たて)に倒れたからで、もし横に倒れたならば、首か胸か足かを車輪に轢かれたに相違なかった。私が縦に倒れた上を馬車が真っ直ぐに通過したのみならず、馬の蹄(ひづめ)も私を踏まずに飛び越えたので、何事も無しに済んだのである。奇蹟的という程ではないかも知れないが、私は我れながら不思議に感じた。他の人々も、「運が好かったなあ。」と口々に云った。
 この当時のことを追想すると、私は今でもぞっとする。このごろの新聞紙上で交通事故の多いのを知るごとに、私は三十数年前の出来事を想いおこさずにはいられない。シナにこんな話がある。大勢の集まったところで虎の話が始まると、その中の一人がひどく顔の色を変えた。聞いてみると、その人はかつて虎に出逢って危うくも逃れた経験を有していたのである。私も馬車に轢かれそうになった経験があるので、交通事故には人一倍のショックを感じられてならない。
 そのとき私のからだは無事であったが、抱えていた五月人形の箱は無論投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ行っては途中の出来事を話さなかった。初の節句の祝い物が途中で毀れたなどと云っては、先方の人たちが心持を悪くするかも知れないと思ったからである。その男の児は成人に到らずして死んだ。(昭和10・8「文藝春秋」)[#改ページ]


銀座


 わたしは明治二十五年から二十八年まで満三年間、正しく云えば京橋区三十間堀(さんじっけんぼり)一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲(ひがしなか)通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の銀座である。その記憶を一々ならべ立ててもいられないから、ここでは歳末年始の風景その他を語ることにする。
 由来、銀座の大通りに夜店の出るのは、夏の七月、八月、冬の十二月、この三ヵ月に限られていて、その以外の月には夜店を出さないのが其の当時の習わしであったから、初秋の夜風が氷屋の暖簾(のれん)に訪ずれる頃になると、さすがの大通りも宵から寂寥(せきりょう)、勿論そぞろ歩きの人影は見えず、所用ある人々が足早に通りすぎるに過ぎない。商店は電燈をつけてはいたが、今から思えば夜と昼との相違で、名物の柳の木蔭などは薄暗かった。裏通りはほとんどみな住宅で、どこの家でもランプを用いていたから、往来はいっそう暗かった。
 その薄暗い銀座も十二月に入ると、急に明るくなる。大通りの東側は勿論、西側にも露店がいっぱいに列ぶこと、今日の歳末と同様である。尾張町(おわりちょう)の角や、京橋の際(きわ)には、歳(とし)の市(いち)商人の小屋も掛けられ、その他の角々にも紙鳶(たこ)や羽子板などを売る店も出た。この一ヵ月間は実に繁昌で、いわゆる押すな押すなの混雑である。二十日(はつか)過ぎからはいよいよ混雑で、二十七、八日ごろからは、夜の十時、十一時ごろまで露店の灯が消えない。大晦日(おおみそか)は十二時過ぎるまで賑わっていた。
 但しその賑わいは大晦日かぎりで、一夜明ければ元の寂寥にかえる。さすがに新年早々はどこの店でも門松(かどまつ)を立て、国旗をかかげ、回礼者の往来もしげく、鉄道馬車は満員の客を乗せて走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘たちがある。小さい紙鳶をあげている子供がある。それを咎める者もなく、さのみ往来の妨害にもならなかったのを考えると、新年の混雑も今日とは全然比較にならない事がよく判るであろう。大通りでさえ其の通りであるから、裏通りや河岸通りは追い羽根と紙鳶の遊び場所で、そのあいだを万歳(まんざい)や獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
 新年の賑わいは昼間だけのことで、日が暮れると寂しくなる。露店も元日以後は一軒も出ない。商店も早く戸を閉める。年始帰りの酔っ払いがふらふら迷い歩いている位のもので、午後七、八時を過ぎると、大通りは暗い街(まち)になって、その暗いなかに鉄道馬車の音がひびくだけである。
 今日と違って、その頃は年賀郵便などと云うものもなく、大抵は正直に年始まわりに出歩いたのであるから、正月も十日過ぎまでは大通りに回礼者の影を絶たず、昼は毎日賑わっていたが、日が暮れると前に云った通りの寂寥、露店も出なければ散歩の人も出ず、寒い夜風のなかに暗い町の灯が沈んで見える。今日では郊外の新開地へ行っても、こんなに暗い寂しい新年の宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべしである。
 その頃、銀座通りの飲食店といえば、東側に松田という料理屋がある。それを筆頭として天ぷら屋の大新、同じく天虎、藪蕎麦(やぶそば)、牛肉屋の古川、鳥屋の大黒屋ぐらいに過ぎず、西側では料理屋の千歳、そば屋の福寿庵、横町へはいって例の天金、西洋料埋の清新軒。まずザッとこんなものであるから、今日のカフェーのように遊び半分にはいるという店は皆無で、まじめに飲むか食うかのほかはない。吉川のおますさんという娘が評判で、それが幾らか若い客を呼んだという位のことで、他に色っぽい噂はなかった。したがって、どこの飲食店も春は多少賑わうと云う以外に、春らしい気分も漂っていなかった。こう云うと、甚だ荒涼寂寥たるものであるが、飲食店の姐(ねえ)さん達も春は小綺麗な着物に新しい襷(たすき)でも掛けている。それを眺めて、その当時の人々は春だと思っていたのである。
 その正月も過ぎ、二月も過ぎ、三月も過ぎ、大通りの柳は日ましに青くなって、世間は四月の春になっても、銀座の町の灯は依然として生暖かい靄の底に沈んでいるばかりで、夜はそぞろ歩きの人もない。ただ賑わうのは毎月三回、出世地蔵の縁日の宵だけであるが、それとても交通不便の時代、遠方から来る人もなく、往来のまん中で犬ころが遊んでいた。
 今日の銀座が突然ダーク・チェンジになって、四十余年前の銀座を現出したら、銀ブラ党は定めて驚くことであろう。(昭和11・1「文藝春秋」)[#改ページ]


夏季雑題


     市中の夏

 市中に生まれて市中に暮らして来た私たちは、繁華熱鬧(はんかねつとう)のあいだにもおのずからなる涼味を見いだすことに多年馴らされている。したがって、盛夏の市中生活も遠い山村水郷は勿論、近い郊外に住んでいる人々が想像するほどに苦しいものではないのである。
 地方の都市は知らず、東京の市中では朝早くから朝顔(あさがお)売りや草花売りが来る。郊外にも売りに来るが、朝顔売りなどはやはり市中のもので、ほとんど一坪の庭をも持たないような家つづきの狭い町々を背景として、かれらが売り物とする幾鉢かの白や紅やむらさきの花の色が初めてあざやかに浮き出して来るのである。郊外の朝顔売りは絵にならない。夏のあかつきの薄い靄(もや)がようやく剥(は)げて、一町内の家々が大戸(おおど)をあける。店を飾り付ける。水をまく。そうして、きょう一日の活動に取りかかろうとする時、かの朝顔売りや草花売りが早くも車いっぱいの花を運んで来る。花も葉もまだ朝の露が乾かない。それを見て一味(いちみ)の涼を感じないであろうか。
 売りに来るものもあれば、無論、買う者もある。買われたひと鉢あるいはふた鉢は、店の主人または娘などに手入れをされて、それから幾日、長ければひと月ふた月のあいだも彼らの店先を飾って、朝夕の涼味を漂わしている。近ごろは店の前の街路樹を利用して、この周囲に小さい花壇を作って、そこに白粉(おしろい)や朝鮮朝顔や鳳仙花(ほうせんか)のたぐいを栽えているのもある。
 釣荵(つりしのぶ)は風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と画趣と涼味とを多分に併せ持っているのは、かの虎耳草(ゆきのした)であることを記憶しなければならない。村園にあれば勿論、たとい市中にあってもそれが人家の庭園に叢生(そうせい)する場合には、格別の値いあるものとして観賞されないらしいが、ひとたび鮑(あわび)の貝に養われて人家の軒にかけられた時、俄かに風趣を添うること幾層倍である。鮑の貝と虎耳草、富貴の家にはほとんど縁のないもので、いわゆる裏店(うらだな)に於いてのみそれを見るようであるが、その裏長屋の古い軒先に吊るされて、苔(こけ)の生えそうな古い鮑の貝から長い蔓は垂れ、白い花はこぼれかかっているのを仰ぎ視れば、誰でも涼しいという心持を誘い出されるに相違ない。周囲が穢(きた)なければ穢ないほど、花の涼しげなのがいよいよ眼立ってみえる。いつの頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流を諸人に教え伝えたのであろう。
 虫の声、それを村園や郊外の庭に聴く時、たしかに幽寂(ゆうじゃく)の感をひくが、それが一つならず、二つならず、無数の秋虫一度にみだれ咽(むせ)んで、いわゆる「虫声満レ地」とか「虫声如レ雨」とかいう境(きょう)に至ると、身にしみるような涼しさは掻き消されてしまう憾みがある。むしろ白日炎天に汗をふきながら下町の横町を通った時、どこかの窓の虫籠できりぎりすの声がひと声、ふた声、土用(どよう)のうちの日盛りにも秋をおぼえしめるのは、まさにこの声ではあるまいか。
 秋虫一度にみだれ鳴くのは却って涼味を消すものであると、私は前に云った。しかもその騒がしい虫の声を市中の虫売りの家台(やたい)のうちに聴く場合には、まったくその趣を異(こと)にするのである。夜涼をたずねる市中の人は、往来の少ない幽暗の地を選ばないで、却って燈火のあかるい雑沓(ざっとう)の巷へ迷ってゆく。そこにはさまざまの露店が押し合って列んでいる。人もまた押し合って通る。その混雑のあいだに一軒の虫売りが市松障子(いちまつしょうじ)の家台をおろしている。松虫、鈴虫、草雲雀(くさひばり)のたぐいが掛行燈(かけあんどう)の下に声をそろえて鳴く。ガチャガチャ虫がひときわ高く鳴き立てている。周囲がそうぞうしい為であるかも知れないが、この時この声はちっとも騒がしくないばかりか、昼のように明るい夜の町のまんなかで俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足を停めるものは子供ばかりではあるまい。楊誠斎(ようせいさい)の詩に「時に微涼あり、是れ風ならず。」とあるのは、こういう場合にも適応されると思う。
 夏の夜店で見るから涼しげなものは西瓜(すいか)の截(た)ち売りである。衛生上の見地からは別に説明する人があろう。私たちは子供のときから何十たびか夜店の西瓜を買って食ったが、幸いに赤痢(せきり)にもチブスにもならないで、この年まで生きて来た。夜の灯に照らされた西瓜の色は、物の色の涼しげなる標本と云ってもよい。唐蜀黍(とうもろこし)の付け焼きも夏の夜店にふさわしいものである。強い火に焼いて売るのであるから、本来は暑苦しそうな筈であるが、街路樹などの葉蔭に小さい店を出して唐もろこしを焼いているのを見れば、決して暑い感じは起らない。却ってこれも秋らしい感じをあたえるものである。
 金魚も肩にかついで売りあるくよりも、夜店に金魚桶(おけ)をならべて見るべきものであろう。幾つもの桶をならべて、緋鯉(ひごい)、金魚、目高のたぐいがそれぞれの桶のなかに群がり遊んでいるのを、夜の灯にみると一層涼しく美しい。一緒に大きい亀の子などを売っていれば、更におもしろい。
 こんなことを一々かぞえたてていたら際限がない。
 心頭(しんとう)を滅却すれば火もおのずから涼し。――そんなむずかしい悟(さと)りを開くまでもなく、誰でもおのずから暑中の涼味を見いだすことを知っている。とりわけて市中に住むものは、山によらず、水に依らずして、到るところに涼味を見いだすことを最もよく知っているのである。
 わたしは滅多に避暑旅行などをしたことは無い。

     夏の食いもの

 ひろく夏の食いものと云えば格別、それを食卓の上にのみ限る場合には、その範囲がよほど狭くなるようである。
 勿論、コールドビーフやハムサラダでビールを一杯飲むのもいい。日本流の洗肉(あらい)や水貝(みずがい)も悪くない。果物にパンぐらいで、あっさりと冷やし紅茶を飲むのもいい。
 その人の趣味や生活状態によって、食い物などはいろいろの相違のあるものであるから、もちろん一概には云えないことであるが、旧東京に生長した私たちは、やはり昔風の食い物の方が何だか夏らしく感じられる。とりわけて、夏の暑い時節にはその感が多いようである。
 今日の衛生論から云うと余り感心しないものであろうが、かの冷奴(ひややっこ)なるものは夏の食い物の大関である。奴豆腐を冷たい水にひたして、どんぶりに盛る。氷のぶっ掻きでも入れれば猶さら贅沢(ぜいたく)である。別に一種の薬味として青紫蘇(あおじそ)か茗荷(みょうが)の子を細かに刻んだのを用意して置いて、鰹節(かつおぶし)をたくさんにかき込んで生醤油(きじょうゆ)にそれを混ぜて、冷え切った豆腐に付けて食う。しょせんは湯豆腐を冷たくしたものに過ぎないが、冬の湯豆腐よりも夏の冷奴の方が感じがいい。湯豆腐から受取る温か味よりも、冷奴から受取る涼し味の方が遥(はる)かに多い。樋口一葉(ひぐちいちよう)女史の「にごり江」のうちにも、源七(げんしち)の家の夏のゆう飯に、冷奴に紫蘇の香たかく盛り出すという件(くだ)りが書いてあって、その場の情景が浮き出していたように記憶している。
「夕顔や一丁残る夏豆腐」許六(きょろく)の句である。
 ある人は洒落(しゃれ)て「水貝」などと呼んでいるが、もとより上等の食いものではない。しかもほんとうの水貝に比較すれば、その価が廉(やす)くて、夏向きで、いかにも民衆的であるところが此の「水貝」の生命で、いつの時代に誰が考え出したのか知らないが、江戸以来何百年のあいだ、ほとんど無数の民衆が夏の一日の汗を行水(ぎょうずい)に洗い流した後、ゆう飯の膳(ぜん)の上にならべられた冷奴の白い肌に一味(いちみ)の清涼を感じたであろうことを思う時、今日ラッパを吹いて来る豆腐屋の声にも一種のなつかしさを感ぜずにはいられない。現にわたしなども、この「水貝」で育てられて来たのである。但し近年は胃腸を弱くしているので、冬の湯豆腐に箸を付けることはあっても、夏の「水貝」の方は残念ながら遠慮している。
 冷奴の平民的なるに対して、貴族的なるは鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)である。前者(ぜんしゃ)の甚だ淡泊なるに対して、後者(こうしゃ)は甚だ濃厚なるものであるが、いずれも夏向きの食い物の両大関である。むかしは鰻を食うのと駕籠(かご)に乗るのとを平民の贅沢と称していたという。今はさすがにそれほどでもないが、鰻を食ったり自動車に乗ったりするのは、懐中の冷たい時にはやはりむずかしい。国学者の斎藤彦麿(さいとうひこまろ)翁はその著「神代余波」のうちに、盛んに蒲焼の美味を説いて、「一天四海に比類あるべからず」と云い、「われ六、七歳のころより好みくひて、八十歳まで無病なるはこの霊薬の効験にして、草根木皮(そうこんぼくひ)のおよぶ所にあらず」とも云っている。今日でも彦麿翁の流れを汲んで、長生きの霊薬として鰻を食う人があるらしい。それほどの霊薬かどうかは知らないが、「一天四海に比類あるべからず」だけは私も同感である。しかもそれは昔のことで、江戸前ようやくに亡び絶えて、旅うなぎや養魚場生まれの鰻公(まんこう)が到るところにのたくる当世と相成っては、「比類あるべからず」も余ほど割引きをしなければならないことになった。
 次に瓜(うり)である。夏の野菜はたくさんあるが、そのうちでも代表的なのは瓜と枝豆であろう。青々した枝豆の塩ゆでも悪くない。しかも見るから夏らしい感じをあたえるものは、胡瓜(きゅうり)と白瓜である。胡瓜は漬け物のほかに、胡瓜揉(も)みという夏向きの旨い調理法がむかしから工夫されていて、かの冷奴と共に夏季の食膳の上には欠くべからざる民衆的の食い物となっている。白瓜は漬け物のほかに使い道はないようであるが、それだけでも十分にその役目を果たしているではないか。そのほかに茄子(なす)や生姜(しょうが)のたぐいがあるとしても、夏の漬け物はやはり瓜である。茄子の濃(こ)むらさき、生姜の薄くれない、皆それぞれに美しい色彩に富んでいるが、青く白く、見るから清々(すがすが)しいのは瓜の色におよぶものはない。味はすこしく茄子に劣るが、その淡い味がいかにも夏のものである。
 百人一首の一人、中納言朝忠(あさただ)卿は干瓜を山のごとくに積んで、水漬けの飯をしたたかに食って人をおどろかしたと云うが、その干瓜というのは、かの雷干(かみなりぼし)のたぐいかも知れない。白瓜を割(さ)いて炎天に干すのを雷干という。食ってはさのみ旨いものでもないが、一種の俳味のあるもので、誰が云い出したか雷干とは面白い名をつけたものだと思う。

     花火

 俳諧(はいかい)では花火を秋の季に組み入れているが、どうもこれは夏のものらしい。少なくとも東京では夏の宵の景物(けいぶつ)である。
 哀えたと云っても、両国の川開きに江戸以来の花火のおもかげは幾分か残っている。しかし私は川開き式の大花火をあまり好まない。由来、どこの土地でも大仕掛けの花火を誇りとする傾きがあるらしいが、いたずらに大仕掛けを競うものには、どうも風趣が乏しいようである。花火はむしろ子供たちがもてあそぶ細い筒の火にかぎるように私は思う。
 わたしの子供の頃には、花火をあげて遊ぶ子供たちが多かった。夏の長い日もようやく暮れて、家々の水撒(みずま)きもひと通り済んで、町の灯がまばらに燦(きら)めいてくると、子供たちは細い筒の花火を持ち出して往来に出る。そこらの涼み台では団扇(うちわ)の音や話し声がきこえる。子供たちは往来のまん中に出るのもある、うす暗い立木のかげにあつまるものもある。そうして、思い思いに花火をうち揚げる。もとより細い筒であるから、火は高くあがらない。せいぜいが二階家の屋根を越えるくらいで、ぽんと揚がるかと思うと、すぐに開いて直ぐに落ちる。まことに単純な、まことに呆気(あっけ)ないものではあるが、うす暗い町で其処(そこ)にも此処(ここ)にもこの小さい火の飛ぶ影をみるのは、一種の涼しげな気分を誘い出すものであった。
 白地の浴衣(ゆかた)を着た若い娘が虫籠をさげて夜の町をゆく。子供の小さい花火は、その行く手を照らすかのように低く飛んでいる。――こう書くと、それは絵であるというかも知れない。しかし私たちの子供のときには、こういう絵のような風情はめずらしくなかった。絵としてはもちろん月並(つきなみ)の画題でもあろうが、さて実際にそういう風情をみせられると、決して悪くは感じない。まわり燈籠、組みあげ燈籠、虫籠、蚊いぶしの煙り、西瓜の截ち売り、こうしたものが都会の夏の夜らしい気分を作り出すとすれば、子供たちの打ち揚げる小さい花火もたしかにその一部を担任していなければならない。
 花火は普通の打ち揚げのほかに、鼠花火、線香花火のあることは説明するまでもあるまい。鼠花火はいたずら者が人を嚇(おど)してよろこぶのである。線香花火は小さい児や女の児をよろこばせるのである。そのほかに幽霊花火というのもあった。これはお化け花火とも云って、鬼火のような青い火がただトロトロと燃えて落ちるだけであるが、いたずら者は暗い板塀や土蔵の白壁のかげにかくれて、蚊に食われながらその鬼火を燃やして、臆病者の通りかかるのを待っているのであった。
 学校の暑中休暇中の仕事は、勉強するのでもない、避暑旅行に出るのでもない、活動写真にゆくのでもない。昼は泳ぎにゆくか、蝉やとんぼを追いまわしに出る。そうして、夜はきっと花火をあげに出る。いわゆる悪戯(いたずら)っ子(こ)として育てられた自分たちの少年時代を追懐して、わたしは決してそれを悔(くや)もうとは思わない。
 その時代にくらべると、今は世の中がまったく変ってしまった。大通りには電車が通る。横町にも自動車や自転車が駆け込んでくる。警察官は道路の取締りにいそがしい。春の紙鳶も、夏の花火も、秋の独楽(こま)も、だんだんに子供の手から奪われてしまった。今でも場末のさびしい薄暗い町を通ると、ときどきに昔なつかしい子供の花火をみることもある。神経の尖(とが)った現代の子供たちはおそらくこの花火に対して、その昔の私たちほどの興味を持っていないであろうと思われる。「花火間もなき光かな」などと云って、むかしから花火は果敢(はか)ないものに謳(うた)われているが、その果敢ないものの果敢ない運命もやがては全くほろび尽くして、花火といえば両国(りょうごく)式の大仕掛けの物ばかりであると思われるような時代が来るであろう。どんなに精巧な螺旋(ぜんまい)仕掛けのおもちゃが出来ても、あの粗末な細い竹筒が割れて、あかい火の光がぽんとあがるのを眺めていた昔の子供たちの愉快と幸福とを想像することは出来まい。
 花火は夏のものであると私は云った。しかし、秋の宵の花火もまた一種の風趣がないでもない。鉢の朝顔の蔓がだんだんに伸びて、あさ夕はもう涼風が単衣(ひとえもの)の襟にしみる頃、まだ今年の夏を忘れ得ない子供たちが夜露のおりた町に出て、未練らしく花火をあげているのもある。勿論、その火の数は夏の頃ほどに多くない。秋の蛍――そうした寂しさを思わせるような火の光がところどころに揚がっていると、暗い空から弱い稲妻がときどきに落ちて来て、その光を奪いながら共に消えてゆく。子供心にも云い知れない淡い哀愁を誘い出されるのは、こういう秋の宵であった。(大正14・5「週刊朝日」)[#改ページ]


雷雨


 夏季に入っていつも感じるのは、夕立(ゆうだち)と雷鳴の少なくなったことである。私たちの少年時代から青年時代にかけては、夕立と雷鳴がずいぶん多く、いわゆる雷嫌いをおびやかしたものであるが、明治末期から次第に減じた。時平公(しへいこう)の子孫万歳である。
 地方は知らず、都会は周囲が開けて来る関係上、気圧や気流にも変化を生じたとみえて、東京などは近年たしかに雷雨が少なくなった。第一に夕立の降り方までが違って来た。むかしの夕立は、今までカンカン天気であったかと思うと、俄かに蝉の声がやむ、頭の上が暗くなる。おやッと思う間に、一朶(いちだ)の黒雲が青空に拡がって、文字通りの驟雨沛然(しゅううはいぜん)、水けむりを立てて瀧のように降って来る。
 往来の人々はあわてて逃げる。家々では慌(あわ)てて雨戸をしめる、干物(ほしもの)を片付ける。周章狼狽(しゅうしょうろうばい)、いやもう乱痴気騒ぎであるが、その夕立も一時間とはつづかず、せいぜい二十分か三十分でカラリと晴れて、夕日が赫(かっ)と照る、蝉がまた啼き出すという始末。急がずば湿(ぬ)れざらましを旅人の、あとより晴るる野路の村雨(むらさめ)――太田道灌(おおたどうかん)よく詠んだとは、まったく此の事であった。近年こんな夕立はめったにない。
 空がだんだんに曇って来て、今に降るかと用意していても、この頃の雷雨は待機の姿勢を取って容易に動かない。三、四十分ないし一時間の余裕をあたえて、それからポツポツ降り出して来るという順序で、昔のような不意撃ちを食わせない。いわんや青天(せいてん)の霹靂(へきれき)などは絶無である。その代りに揚がりぎわもよくない。雷も遠くなり、雨もやむかと見えながら、まだ思い切りの悪いようにビショビショと降っている。むかしの夕立の男性的なるに引きかえて、このごろの夕立は女性的である。雷雨一過の後も爽(さわや)かな涼気を感ずる場合が少なく、いつまでもジメジメして、蒸し暑く、陰鬱で、こんな夕立ならば降らないほうが優(ま)しだと思うことがしばしばある。
 こう云うと、ひどく江戸っ子で威勢がいいようであるが、正直をいえば私はあまり雷を好まない。いわゆる雷嫌いという程でもないが、聞かずに済むならば聞きたくない方で、電光がピカリピカリ、雷鳴がゴロゴロなどは、どうも愉快に感じられない。しかも夕立には雷電を伴うのが普通であるから、自然に夕立をも好まないようになる。殊に近年の夕立のように、雨後の気分がよくないならば、降ってくれない方が仕合せである。雷ばかりでなく、わたしは風も嫌いである。夏の雷、冬の風、いずれも私の平和を破ること少なくない。
 むかしの子供は雷を呼んでゴロゴロ様とか、かみなり様とか云っていたが、わたしが初めてかみなり様とお近付き(?)になったのは、六歳の七月、日は記憶しないが、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日(こんにち)の旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、家の周囲にも空地(あきち)が多かった。
 わたしの家と西隣りの家とのあいだにも、五、六間の空地があって、隣りの家には枸杞(くこ)の生垣(いけがき)が青々と結いまわしてあった。わたしはその枸杞の実を食べたこともあった。その生垣の外にひと株の大きい柳が立っている。それが自然の野生であるか、あるいは隣りの家の所有であるか、そんなこともよく判らなかったが、ともかくも相当の大木で、夏から秋にかけては油蝉やミンミンやカナカナや、あらん限りの蝉が来てそうぞうしく啼いた。柳の近所にはモチ竿や紙袋を持った子供のすがたが絶えなかった。前にいう七月のある日、なんでも午後の三時頃であったらしい。大夕立の真っ最中、その柳に落雷したのである。
 雷雨を恐れて、わたしの家では雨戸をことごとく閉じていたので、落雷当時のありさまは知らない。唯(ただ)すさまじい雷鳴と共に、家内が俄かに明るくなったように感じただけであったが、雨が晴れてから出てみると、かの柳は真っ黒に焦(こ)げて、大木の幹が半分ほども裂けていた。わたしは子供心に戦慄(せんりつ)した。その以来、わたしはかみなり様が嫌いになった。
 それでも幸いに、ひどい雷嫌いにもならなかったが、さりとて平然と落着いているような勇士にはなれなかった。雷鳴を不愉快に感ずることは、昔も今も変りがない。その私が暴雷におびやかされた例が三回ある。
 その一は、明治三十七年の九月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽(りょうよう)陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。これは夕立というのではなく、午後二時頃からシトシトと降り出した雨が、暮るると共に烈(はげ)しく降りしきって、九時を過ぎる頃から大雷雨となった。
 雷光は青く、白く、あるいは紅(あか)く、あるいは紫に、みだれて裂けて、乱れて飛んで、暗い村落をいろいろに照らしている。雨はごうごうと降っている。雷はすさまじく鳴りはためいて、地震のような大きい地ひびきがする。それが夜の白らむまで、八、九時間も小歇(こや)みなしに続いたのであるから、実に驚いた。大袈裟(おおげさ)にいえば、最後の審判の日が来たのかと思われる程であった。もちろん眠られる筈もない。わたしは頭から毛布を引っかぶって、小さくなって一夜をあかした。
「毎日大砲の音を聞き慣れている者が、雷なんぞを恐れるものか。」
 こんなことを云って強がっていた連中も、仕舞いにはみんな降参したらしく、夜の明けるまで安眠した者は一人もなかった。夜が明けて、雨が晴れて、ほっとすると共にがっかりした。
 その二は、明治四十一年の七月である。午後八時を過ぎる頃、わたしは雨を衝(つ)いて根岸(ねぎし)方面から麹町へ帰った。普通は池(いけ)の端(はた)から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野(うえの)の広小路(ひろこうじ)から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成(おなり)街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなって来たので、臆病な私は用心して眼鏡(めがね)をはずした。
 もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵ながら往来も途絶えて、時どきに電車が通るだけである。眼の先もみえないように降りしきるので、車夫も思うようには進まれない。ようように五軒町(ごけんちょう)附近まで来かかった時、ゆく先がぱっと明るくなって、がんというような霹靂一声、車夫はたちまちに膝を突いた。車は幌(ほろ)のままで横に倒れた。わたしも一緒に投げ出された。幌が深いので、車外へは転げ出さなかったが、ともかくもはっと思う間にわたしの体は横倒しになっていた。二、三丁さきの旅籠町(はたごちょう)辺の往来のまんなかに落雷したのである。
 わたしは別に怪我(けが)もなかった。車夫も膝がしらを少し擦り剥(む)いたぐらいで、さしたる怪我もなかった。落雷が大地にひびいて、思わず膝を折ってしまったと、車夫は話した。しかし大難が小難で済んだわけで、もし私の車がもう一、二丁も南へ進んでいたら、どんな禍(わざわ)いを蒙(こうむ)ったか判らない。二人はたがいに無事を祝して、豪雨のなかをまた急いだ。
 その三は、大正二年の九月、仙台(せんだい)の塩竃(しおがま)から金華山(きんかざん)参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜である。午後十時頃から山もくずれるような大雷雨となった。
「なに、直ぐに晴れます。」
 社務所の人は慰めてくれたが、なにしろ場所が場所である。孤島の雷雨はいよいよ凄愴(せいそう)の感が深い。あたまの上の山からは瀧のように水が落ちて来る、海はどうどうと鳴っている。雷は縦横無尽に駈けめぐってガラガラとひびいている。文字通りの天地震動である。こんなありさまで、あしたは無事に帰られるかと危ぶまれた。天候の悪いときには幾日も帰られないこともあるが、社務所の倉には十分の食料がたくわえてあるから、決して心配には及ばないと云い聞かされて、心細いなかにも少しく意を強うした。
 社務所の人の話に嘘はなかった。さすがの雷雨も十二時を過ぎる頃からだんだんに衰えて、枕もとの時計が一時を知らせる頃には、山のあたりで鹿の鳴く声がきこえた。喜んで窓をあけて見ると、空は拭(ぬぐ)ったように晴れ渡って、旧暦八月の月が昼のように明るく照らしていた。私はあしたの天気を楽しみながら、窓に倚(よ)って徐(しず)かに鹿の声を聞いた。その爽(さわや)かな心持は今も忘れないが、その夜の雷雨のおそろしさも、おなじく忘れ得ない。
 白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並(すぎなみ)のあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北多摩(たま)郡の武蔵野町から杉並区の荻窪(おぎくぼ)、阿佐ヶ谷(あさがや)のあたりであるらしい。甲信(こうしん)盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総(ぼうそう)の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行するにしたがって雷雲も次第に稀薄になるように思われる。但し俗に「北鳴り」と称して、日光(にっこう)方面から押し込んで来る雷雲は別物である。(昭和11・7「サンデー毎日」)[#改ページ]





 去年の十月頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町(にほんばしかきがらちょう)のある商家の物干へ一羽の大きい鳶(とび)が舞い降りたのを店員大勢が捕獲して、警察署へ届け出たというのである。ある新聞には、その鳶の写真まで掲げてあった。
 そのとき私が感じたのは、鳶という鳥がそれほど世間から珍しがられるようになった事である。今から三、四十年前であったら、鳶なぞがそこらに舞っていても、降りていても、誰も見返る者もあるまい。云わば鴉(からす)や雀(すずめ)も同様で、それを捕獲して警察署へ届け出る者もあるまい。鳶は現在保護鳥の一種になっているから、それで届け出たのかも知れないが、昔なら恐らくそれを捕獲しようと考える者もあるまい。それほどに鳶は普通平凡の鳥類と見なされていたのである。
 私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように見ている。天気晴朗の日には一羽や二羽はかならず大空に舞っていた。トロトロトロと云うような鳴き声も常に聞き慣れていた。鳶が鳴くから天気がよくなるだろうなぞと云った。
 鳶に油揚(あぶらげ)を攫(さら)われると云うのは嘘ではない。子供が豆腐屋へ使いに行って笊(ざる)や味噌(みそ)こしに油揚を入れて帰ると、その途中で鳶に攫って行かれる事はしばしばあった。油揚ばかりでなく、魚屋(さかなや)が人家の前に盤台(はんだい)をおろして魚をこしらえている処へ、鳶が突然にサッと舞いくだって来て、その盤台の魚や魚の腸(はらわた)なぞを引っ掴んで、あれという間に虚空(こくう)遥かに飛び去ることも珍しくなかった。鷲(わし)が子供を攫って行くのも恐らく斯(こ)うであろうかと、私たちも小さい魂(きも)をおびやかされたが、それも幾たびか見慣れると、やあまた攫われたなぞと面白がって眺めているようになった。往来で白昼掻っ払いを働く奴を東京では「昼とんび」と云った。
 小石川(こいしかわ)に富坂町(とみざかまち)というのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔はここらの森にたくさんの鳶が棲んでいた為であるという。してみると、江戸時代には更にたくさんの鳶が飛んでいたに相違ない。鳶ばかりでなく、鶴(つる)も飛んでいたのである。明治以後、鶴を見たことはないが、鳶は前に云う通り、毎日のように東京の空を飛び廻っていたのである。
 鳶も鷲と同様に、いわゆる鷙鳥(しちょう)とか猛禽(もうきん)とか云うものにかぞえられ、前に云ったような悪(わる)いたずらをも働くのであるが、鷲のように人間から憎まれ恐れられていないのは、平生から人家に近く棲んでいるのと、鷲ほどの兇暴を敢(あえ)てしない為であろう。子供の飛ばす凧(たこ)は鳶から思い付いたもので、日本ではトンビ凧といい、漢字では紙鳶と書く。英語でも凧をカイトという。すなわち鳶と同じことである。それを見ても、遠い昔から人間と鳶とは余ほどの親しみを持っていたらしいが、文明の進むに連れて、人間と鳶との縁がだんだんに遠くなった。
 日露戦争前と記憶している。麹町の英国大使館の旗竿に一羽の大きい鳶が止まっているのを見付けて、英国人の館員や留学生が嬉(うれ)しがって眺めていた。留学生の一人が私に云った。
「鳶は男らしくていい鳥です。しかし、ロンドン附近ではもう見られません。」
 まだ其の頃の東京には鳶のすがたが相当に見られたので、英国人はそんなに鳶を珍しがったり、嬉しがったりするのかと、私は心ひそかに可笑(おか)しく思った位であったが、その鳶もいつか保護鳥になった。東京人もロンドン人と同じように、鳶を珍しがる時代が来たのである。もちろん鳶に限ったことではなく、大都会に近いところでは、鳥類、虫類、魚類が年々に亡びて行く。それは余儀なき自然の運命であるから、特に鳶に対して感傷的の詠嘆を洩らすにも及ばないが、初春の空にかのトンビ凧を飛ばしたり、大きな口をあいて「トンビ、トロロ」と歌った少年時代を追懐すると、鳶の衰滅に対して一種の悲哀を感ぜずにはいられない。
 むかしは矢羽根に雉(きじ)または山鳥の羽(はね)を用いたが、それらは多く得られないので、下等の矢には鳶の羽を用いた。その鳶の羽すらも払底(ふってい)になった頃には、矢はすたれて鉄砲となった。そこにも需要と供給の変遷が見られる。
 私はこのごろ上目黒(かみめぐろ)に住んでいるが、ここらにはまだ鳶が棲んでいて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞っている。雨のふる日でもトロトロと鳴いている。私は旧友に逢ったような懐かしい心持で、その鳶が輪を作って飛ぶ影をみあげている。鳶はわが巣を人に見せないという俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで来る鳶は近所の西郷山に巣を作っているらしい。その西郷山もおいおいに拓(ひら)かれて分譲地となりつつあるから、やがてはここらにも鳶の棲家を失うことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追いやらるるのほかはあるまい。
 私はよく知らないが、金鵄(きんし)勲章の鵄は鳶のたぐいであると云う。然らば、たとい鳶がいずこの果てへ追いやられても、あるいはその種族が絶滅に瀕(ひん)しても、その雄姿は燦(さん)として永久に輝いているのである。鳶よ、憂うる勿(なか)れ、悲しむ勿れと云いたくもなる。
 きょうも暮春の晴れた空に、二羽の鳶が舞っている。折りから一台の飛行機が飛んで来たが、かれらはそれに驚かされたような気色(けしき)も見せないで、やはり悠々として大きい翼を空中に浮かべていた。(昭和11・5「政界往来」)[#改ページ]


旧東京の歳晩


 昔と云っても、遠い江戸時代のことはわたしも知らない。ここでいう昔は、わたし自身が目撃した明治十年ごろから三十年頃にわたる昔のことである。そのつもりで読んで貰いたい。
 その頃のむかしに比べると、最近の東京がいちじるしく膨脹(ぼうちょう)し、いちじるしく繁昌して来たことは云うまでもない。その繁昌につれて、東京というものの色彩もまたいちじるしく華やかになった。家の作り方、ことに商店の看牌(かんばん)や店飾りのたぐいが、今と昔とはほとんど比較にならないほどに華やかになった。勿論、一歩あやまって俗悪に陥ったような点もみえるが、いずれにしても賑やかになったのは素晴らしいものである。今から思うと、その昔の商店などは何商売にかかわらず、いずれも甚だ質素な陰気なもので、大きな店ほど何だか薄暗いような、陰気な店構えをしているのが多かった。大通りの町々と云っても、平日(へいじつ)は寂しいもので――その当時は相当に賑やかいと思っていたのであるが――人通りもまた少なかった。
 それが年末から春初にかけては、俄かに景気づいて繁昌する。平日がさびしいだけに、その繁昌がひどく眼に立って、いかにも歳の暮れらしい、忙がしい気分や、または正月らしい浮いた気分を誘い出すのであった。今日(こんにち)のように平日から絶えず賑わっていると、歳の暮れも正月も余りいちじるしい相違はみえないが、くどくも云う通り、ふだんが寝入っているだけに、暮れの十五、六日頃から正月の十五、六日まで約一ヵ月のあいだは、まったく世界が眼ざめて来たように感じられたものである。
 今日のように各町内連合の年末大売出しなどというものはない。楽隊で囃(はやし)し立てるようなこともない。大福引きで箪笥や座蒲団をくれたり、商品券をくれたりするようなこともない。しかし二十日(はつか)過ぎになると、各商店では思い思いに商品を店いっぱいに列べたり、往来まで食(は)み出すように積みかさねたりする。景気づけにほおずき提灯をかけるのもある。福引きのような大当りはないが、大抵の店では買物相当のお景物をくれることになっているので、その景品をこれ見よとばかりに積み飾って置く。それがまた馬鹿に景気のいいもので、それに惹(ひ)かされると云うわけでもあるまいが、買手がぞろぞろと繋がってはいる。その混雑は実におびただしいものであった。
 それらの商店のうちでも、絵草紙屋――これが最も東京の歳晩を彩(いろど)るもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得ない思い出の一つである。絵草紙屋は歳の暮れにかぎられた商売ではないが、どうしても歳の暮れに無くてはならない商売である事を知らなければならない。錦絵の板元(はんもと)では正月を当て込みにいろいろの新版を刷り出して、小売りの絵草紙屋の店先を美しく飾るのが習いで、一枚絵もある、二枚つづきもある、三枚つづきもある。各劇場の春狂言が早くきまっている時には、先廻りをして三枚つづきの似顔絵を出すこともある。そのほかにいろいろの双六(すごろく)も絵草紙屋の店先にかけられる。そのなかには年々歳々おなじ版をかさねているような、例のいろは短歌や道中双六(すごろく)のたぐいもあるが、何か工夫して新しいものを作り出すことになっているので、武者絵(むしゃえ)双六、名所双六、お化け双六、歌舞伎双六のたぐい、主題はおなじでも画面の違ったものを撰んで作る。ことに歌舞伎双六は羽子板とおなじように、大抵はその年の当り狂言を撰むことになっていて、人物はすべて俳優(やくしゃ)の似顔であること勿論である。その双六だけでも十種、二十種の多きに達して、それらが上に下に右に左に掛け連ねられて、師走の風に軽くそよいでいる。しかもみな彩色(さいしき)の新版であるから、いわゆる千紫万紅(せんしばんこう)の絢爛(けんらん)をきわめたもので、眼も綾(あや)というのはまったく此の事であった。
 女子供は勿論、大抵の男でもよくよくの忙がしい人でないかぎりは、おのずとそれに吸い寄せられて、店先に足を停めるのも無理はなかった。絵草紙屋では歌がるたも売る、十六むさしも売る、福笑いも売る、正月の室内の遊び道具はほとんどみなここに備わっていると云うわけであるから、子供のある人にかぎらず、歳晩年始の贈り物を求めるために絵草紙屋の前に立つ人は、朝から晩まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう芝(しば)まで行ったことがあった。
 歳(とし)の市(いち)を観ないでも、餅搗(もちつ)きや煤掃(すすは)きの音を聞かないでも、ふところ手をして絵草紙屋の前に立ちさえすれば、春の来るらしい気分は十分に味わうことが出来たのである。江戸以来の名物たる錦絵がほろびたと云うのは惜しむべきことに相違ないが、わたしは歳晩の巷(ちまた)を行くたびに特にその感を深うするもので、いかに連合大売出しが旗や提灯で飾り立てても、楽隊や蓄音器で囃し立てても、わたしをして一種寂寥の感を覚えしめるのは、東京市中にかの絵草紙屋の店を見いだし得ないためであるらしい。
 歳晩の寄席――これにも思い出がある。いつの頃から絶えたか知らないが、昔は所々の寄席に大景物(だいけいぶつ)ということがあった。十二月の下席(しもせき)は大抵休業で、上(かみ)十五日もあまりよい芸人は出席しなかったらしい。そこで、第二流どころの芸人の出席する寄席では、客を寄せる手段として景物を出すのである。
 中入りになった時に、いろいろの景品を高座に持ち出し、前座の芸人が客席をまわって、めいめいに籤(くじ)を引かせてあるく。そうして、その籤の番号によって景品をくれるのであるが、そのなかには空くじもたくさんある。中(あた)ったものには、安物の羽子板や、紙鳶や、羽根や、菓子の袋などをくれる。箒や擂(す)りこ木や、鉄瓶や、提灯や、小桶や、薪や、炭俵や、火鉢などもある。安物があたった時は仔細ないが、すこしいい物をひき当てた場合には、空くじの連中が妬(ねた)み半分に声をそろえて、「やってしまえ、やってしまえ。」と呶鳴(どな)る。自分がそれを持ち帰らずに、高座の芸人にやってしまえと云うのである。そう云われて躊躇(ちゅうちょ)していると、芸人たちの方では如才なくお辞儀をして、「どうもありがとうございます。」と、早々にその景品を片付けてしまうので、折角いい籤をひき当てても結局有名無実に終ることが多い。それを見越して、たくさんの景品のうちにはいかさま物もならべてある。羊羹(ようかん)とみせかけて、実は拍子木を紙につつんだたぐいの物が幾らもあるなどと云うが、まさかそうでもなかったらしい。
 わたしも十一の歳のくれに、麹町の万よしという寄席で紙鳶をひき当てたことを覚えている。それは二枚半で、龍という字凧であった。わたしは喜んで高座の前へ受取りにゆくと、客席のなかで例の「やってしまえ。」を呶鳴るものが五、六人ある。わたしも負けない気になって、「子供が紙鳶を取って、やってしまう奴があるものか。」と、大きな声で呶鳴りかえすと、大勢の客が一度に笑い出した。高座の芸人たちも笑った。ともかくも無事に、その紙鳶を受取って元の席に戻ってくると、なぜそんな詰まらないことを云うのだと、一緒に行っていた母や姉に叱られた。その紙鳶はよくよく私に縁が無かったとみえて、あくる年の正月二日に初めてそれを揚げに出ると、たちまちに糸が切れて飛んでしまった。
 近年は春秋二季の大掃除というものがあるので――これは明治三十二年の秋から始まったように記憶している。――特に煤掃(すすは)きをする家は稀であるらしいが、その頃はどこの家でも十二月にはいって煤掃きをする。手廻しのいい家は月初めに片付けてしまうが、もう数(かぞ)え日(び)という二十日過ぎになってトントンバタバタと埃(ほこり)を掃き立てている家がたくさんある。商店などは昼間の商売が忙がしいので、日がくれてから提灯をつけて煤掃きに取りかかるのもある。なにしろ戸々(ここ)で思い思いに掃き立てるのであるから、その都度(つど)に近所となりの迷惑は思いやられるが、お互いのことと諦(あきら)めて別に苦情もなかったらしい。
 江戸時代には十二月十三日と大抵きまっていたのを、維新後にはその慣例が頽(くず)れてしまったので、お互いに迷惑しなければならないなどと、老人たちは呟(つぶや)いていた。
 もう一つの近所迷惑は、かの餅搗きであった。米屋や菓子屋で餅を搗くのは商売として已(や)むを得ないが、そのころには俗にひきずり餅というのが行なわれた。搗屋が臼(うす)や釜(かま)の諸道具を車につんで来て、家々の門内や店先で餅を搗くのである。これは依頼者の方であらかじめ糯米(もちごめ)を買い込んでおくので、米屋や菓子屋にあつらえるよりも経済であると云うのと、また一面には世間に対する一種の見栄もあったらしい。又なんという理窟もなしに、代々の習慣でかならず自分の家で搗かせることにしているのもあったらしい。勿諭、この搗屋も大勢あったには相違ないが、それでも幾人か一組になって、一日に幾ヵ所も掛いて廻るのであるから、夜のあけないうちから押し掛けて来る。そうして、幾臼かの餅を搗いて、祝儀を貰って、それからそれへと移ってゆくので、遅いところへ来るのは夜更(よふ)けにもなる。なにしろ大勢がわいわい云って餅を搗き立てるのであるから、近所となりに取っては安眠妨害である。殊に釜の火を熾(さか)んに焚(た)くので、風のふく夜などは危険でもある。しかしこれに就(つ)いても近所から苦情が出たという噂も聞かなかった。
 運が悪いと、ゆうべは夜ふけまで隣りの杵(きね)の音にさわがされ、今朝は暗いうちから向うの杵の音に又おどろかされると云うようなこともあるが、これも一年一度の歳の暮れだから仕方がないと覚悟していたらしい。現にわたしなども霜夜の枕にひびく餅の音を聴きながら、やがて来る春のたのしみを夢みたもので――有明(ありあけ)は晦日(みそか)に近し餅の音――こうした俳句のおもむきは到るところに残っていた。
 冬至(とうじ)の柚湯(ゆずゆ)――これは今も絶えないが、そのころは物価が廉(やす)いので、風呂のなかには柚がたくさんに浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚(おうよう)であったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂じゅうをさがし廻って僅(わず)かに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥(うんでい)の相違であった。
 冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れの忙(せわ)しいあいだに何となく春らしい暢(のび)やかな気分を誘い出すものであった。
 わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日の劇(はげ)しい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。(大正13・12「女性」)[#改ページ]


新旧東京雑題


     祭礼

 東京でいちじるしく廃(すた)れたものは祭礼(まつり)である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王(さんのう)、神田の明神(みょうじん)、深川(ふかがわ)の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
 震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車(はなだし)ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳(ひ)き出すというわけではなく、氏子(うじこ)の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
 わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残(なご)りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨(おおあらし)があって、東京府下だけでも丸潰(つぶ)れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
 山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
 深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿(みこし)が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡(しょうもう)したことと察せられる。
 そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日(せきじつ)の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会(ぎおんえ)や大阪(おおさか)の天満(てんま)祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。

     湯屋

 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬(さんば)の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯(せんとう)とか湯屋(ゆうや)とかいうのが普通で、元禄(げんろく)のむかしは知らず、文化文政(ぶんかぶんせい)から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
 五月節句の菖蒲(しょうぶ)湯、土用のうちの桃(もも)湯、冬至の柚(ゆず)湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止(や)められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
 むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方(さんぼう)が据えてあって、客の方では「お拈(ひね)り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰(き)するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
 朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
 江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。

     そば屋

 そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦(そば)屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛(もり)・掛(かけ)は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
 私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚(きたな)いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺(あざむ)かずである。山路愛山(やまじあいざん)氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁(ほうちょう)で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞(ことば)はいつか消滅するであろう。
 人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物(たねもの)を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖(ふ)えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭(ぜに)のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
 地方の人が多くなった証拠として、饂飩(うどん)を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀(おかめ)とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
 かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方(かみがた)では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴(ふうりん)そばとか夜鷹(よたか)そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥(もくあみ)の「嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」は明治十四年の作であるが、その招魂社(しょうこんしゃ)鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
 そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。(昭和2・4「サンデー毎日」)[#改ページ]


ゆず湯


     一

 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡手拭(ぬれてぬぐい)で額(ひたい)をふきながら出て来た。
「旦那、徳(とく)がとうとう死にましたよ。」
「徳さん……。左官屋の徳さんが……。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
 こんなことを云いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸(ガラスど)越しに白く見えた。
 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲(みなぎ)って、輪切りの柚(ゆず)があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎(かげろう)のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実(このみ)の強い匂いが籠(こも)っているのも快(こころよ)かった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿(しめ)していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「今日(こんにち)は。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。
 彼は近所の山口(やまぐち)という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊(き)いた。
「ええ、けさ七時頃に……。」
「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
 鸚鵡(おうむ)返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船(みずぶね)のそばへたくさんの小桶をならべて、真赤(まっか)に茹(ゆで)られた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸(ひた)っていた。
 表には師走(しわす)の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至(とうじ)の獅子舞の囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」
 わたしは徳さんの死から惹(ひ)いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
 お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父(おとっ)さんは立派な左官の棟梁(とうりょう)株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家(ひらや)を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰(しっくい)の俵や土舟(つちぶね)などが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋(くちいれや)があった。どういうわけか、お玉さんの家(うち)とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
 わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母(おっか)さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
 阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ず美(い)い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんに肖(に)ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳(はたち)ぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉(おしろい)をつけていた。
 となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまりいい感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との交際(つきあい)を避け、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たち子供仲間から左官屋の鬼婆と綽名(あだな)されていた。
 お玉さんの家の格子のまえには古風の天水桶があった。私たちがもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんはたちまちに格子をあけて、「誰だい、いたずらするのは……」と、かみ付くように呶鳴りつけた。雨のふる日に路地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでも障(さわ)る音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに、たびたびこの阿母さんから「誰だい」と叱られた。
 徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにも一切(いっさい)かかりあったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や端唄(はうた)を歌ったりしていた。お玉さんが家(うち)じゅうで一番陽気な質(たち)らしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし阿母さんや兄さんがこういう風変りであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。時どきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。
 この一家は揃(そろ)って綺麗好きであった。阿母さんは日に幾たびも格子のまえを掃いていた。お玉さんも毎日かいがいしく洗濯や張り物などをしていた。それで決して髪を乱していたこともなく、毎晩かならず近所の湯に行った。徳さんは朝と晩とに一日二度ずつ湯にはいった。
 徳さん自身は棟梁株ではなかったが、一人前の職人としては相当の腕をもっているので、別に生活に困るような風はみせなかった。お玉さんもいつも小綺麗な装(なり)をしていた。近所の噂によると、お玉さんは一度よそへ縁付いて子供まで生んだが、なぜだか不縁になって帰って来たのだと云うことであった。そのせいか、私がお玉さんを知ってからもう三、四年も経っても、嫁にゆくような様子は見えなかった。お玉さんもだんだんに盛りを通り過ぎて、からだの幅のいよいよ広くなってくるのばかりが眼についた。
 そのうちに誰が云い出したのか知らないが、お玉さんには旦那があるという噂が立った。もちろん旦那らしい人の出入りする姿を見かけた者はなかった。お玉さんの方から泊まりにゆくのだと、ほんとうらしく吹聴(ふいちょう)する者もあった。その旦那は異人さんだなどと云う者もあった。しかしそれには、どれも確かな証拠はなかった。この怪(け)しからぬ噂がお玉さん一家の耳にも響いたらしく、その後のお玉さんの様子はがらりと変って、買物にでも出るほかには、滅多にその姿を世間へ見せないようになった。近所の人たちに逢っても情(すげ)なく顔をそむけて、今までのようなにこにこした笑い顔を見せなくなった。三味線の音もちっとも聞かせなくなった。
 なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝(ひえ)神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込(うしごめ)の赤城下(あかぎした)にあった赤城座という小芝居の俳優(やくしゃ)を雇うことになった。俳優はみんな十五、六の子供で、嵯峨(さが)や御室(おむろ)の花盛り……の光国と瀧夜叉(たきやしゃ)と御注進の三人が引抜いてどんつくの踊りになるのであった。この年の夏は陽気がおくれて、六月なかばでも若い衆たちの中形(ちゅうがた)のお揃い着がうすら寒そうにみえた。宵宮(よみや)の十四日には夕方から霧のような細かい雨が花笠の上にしとしとと降って来た。
 踊り屋台は湿れながら町内を練り廻った。囃子の音が浮いてきこえた。屋台の軒にも牡丹(ぼたん)のような紅い提灯がゆらめいて、「それおぼえてか君様(きみさま)の、袴も春のおぼろ染……」瀧夜叉がしどけない細紐(しごき)をしゃんと結んで少しく胸をそらしたときに、往来を真黒(まっくろ)にうずめている見物の雨傘が一度にゆらいだ。
「うまいねえ。」
「上手だねえ。」
「そりゃほんとの役者だもの。」
 こんな褒(ほ)め詞(ことば)がそこにもここにも囁(ささや)かれた。
 お玉さんの家の人たちも格子のまえに立って、同じくこの踊り屋台を見物していたが、お玉さんの阿母さんはさも情けないと云うように顔をしかめて、誰に云うともなしに舌打ちしながら小声で罵った。
「なんだろう、こんな小穢(こぎたな)いものを……。芸は下手でも上手でも、お祭りには町内の娘さん達が踊るもんだ。こんな乞食芝居みたいなものを何処(どっ)からか引っ張って来やあがって、お祭りも無いもんだ。ああ、忌(いや)だ、忌だ。長生きはしたくない。」
 こう云って阿母さんは内へついと引っ込んでしまった。お玉さんも徳さんもつづいてはいってしまった。
「鬼婆ァめ、お株を云ってやあがる。長生きがしたくなければ、早くくたばってしまえ。」と、花笠をかぶった一人が罵った。
 それが讖(しん)をなしたわけでもあるまいが、阿母さんはその年の秋からどっと寝付いた。その頃には庭の大きい柿の実もだんだん紅(あか)らんで、近所のいたずら小僧が塀越しに竹竿を突っ込むこともあったが、阿母さんは例の「誰だい」を呶鳴る元気もなかった。そうして、十一月の初めにはもう白木の棺にはいってしまった。さすがに見ぬ顔もできないので、葬式には近所の人が五、六人見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんなもおどろかされた。当日の会葬者一同には白強飯(しろこわめし)と煮染(にしめ)の弁当が出た。三十五日には見事な米饅頭(よねまんじゅう)と麦饅頭との蒸物(むしもの)に茶を添えて近所に配った。
 万事が案外によく行きとどいているので、近所の人たちも少し気の毒になったのと、もう一つは口やかましい阿母さんがいなくなったと云うのが動機になって、以前よりは打ち解けて附き合おうとする人も出来たが、なぜかそれも長くつづかなかった。三月(みつき)半年と経つうちに、近所の人はだんだんに遠退(とおの)いてしまって、お玉さんの兄妹(きょうだい)は再び元のさびしい孤立のすがたに立ち帰った。
 それでも或る世話好きの人がお玉さんに嫁入りさきを媒妁しようと、わざわざ親切に相談にゆくと、お玉さんは切り口上でことわった。
「どうせ異人の妾(めかけ)だなんて云われた者を、どこでも貰って下さる方はありますまい。」
 その人も取り付く島がないので引き退がった。これに懲(こ)りて誰もその後は縁談などを云い込む人はなかった。
 詳しく調べたならば、その当時まだほかにもいろいろの出来事があったかも知れないが、学校時代のわたしは斯(こ)うした問題に就いてあまり多くの興味をもっていなかったので、別に穿索(せんさく)もしなかった。むかしのお玉さん一家に関して、わたしの幼い記憶に残っているのは先ずこのくらいのことに過ぎなかった。
 こんなことをそれからそれへと手繰り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのに驚いて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂へはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのように死んだんですね。」
「行き倒れ……。」と、わたしは又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変らず自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで今朝も家を出て、薬罐(やかん)をさげてよろよろと歩いてくると、床屋(とこや)の角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に寄り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたと頽(くず)れるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店へかかえ込んで、それから私の家(うち)へ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
 こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にもいい心持に浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。

     二

 家へ帰ってからも、徳さんとお玉さんのことが私の頭にまつわって離れなかった。殊にきょうの柚湯については一つの思い出があった。
 わたしは肩揚げが取れてから下町(したまち)へ出ていて、山の手の実家へは七、八年帰らなかった。それが或る都合で再び帰って住むようになった時には、私ももう昔の子供ではなかった。十二月のある晩に遅く湯に行った。今では代が変っているが、湯屋はやはりおなじ湯屋であった。わたしは夜の湯は嫌いであるが、その日は某所の宴会へ行ったために帰宅が自然遅くなって、よんどころなく夜の十一時頃に湯に行くことになった。その晩も冬至の柚湯で仕舞湯(しまいゆ)に近い濁った湯風呂の隅には、さんざん煮くたれた柚の白い実が腐った綿のように穢(きたな)らしく浮いていた。わたしは気味悪そうにからだを縮めてはいっていた。もやもやした白い湯気が瓦斯のひかりを陰らせて、夜ふけの風呂のなかは薄暗かった。
 □常から主(ぬし)の仇(あだ)な気を、知っていながら女房に、なって見たいの慾が出て、神や仏をたのまずに、義理もへちまの皮羽織……
 少し錆(さび)のある声で清元(きよもと)を唄っている人があった。音曲(おんぎょく)に就いてはまんざらのつんぼうでもない私は、その節廻しの巧いのに驚かされた。じっと耳をかたむけながら其の声の主を湯気のなかに透かしてみると、それはかの徳さんであった。徳さんが唄うことは私も子供のときから知っていたが、こんなにいい喉(のど)をもっていようとは思いも付かなかった。琵琶(びわ)歌や浪花節が無遠慮に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から聞こうとは、まったく思いがけないことであった。
 私のほかには商家の小僧らしいのが二人はいっているきりであった。徳さんはいい心持そうに続けて唄っていた。しみじみと聴いているうちに、私はなんだか寂しいような暗い気分になって来た。お玉さんの兄妹(きょうだい)が今の元園町に孤立しているのも、無理がないようにも思われて来た。
「どうもおやかましゅうございました。」
 徳さんはいい加減に唄ってしまうと、誰に云うとも無しに挨拶して、流し場の方へすたすた出て行ってしまった。そうして、手早くからだを拭いて揚がって行った。私もやがてあとから出た。路地へさしかかった時には、徳さんの家はもう雨戸を閉めて燈火(あかり)のかげも洩れていなかった。霜曇りとも云いそうな夜の空で、弱々しい薄月のひかりが庭の八つ手の葉を寒そうに照らしていた。
 わたしは毎日、大抵明るいうちに湯にゆくので、その柚湯の晩ぎりで再び徳さんの唄を聴く機会がなかった。それから半年以上も過ぎた或る夏の晩に又こんなことがあった。わたしが夜の九時頃に涼みから帰ってくると、徳さんの家のなかから劈(つんざ)くような女の声がひびいた。格子の外には通りがかりの人や近所の子供がのぞいていた。
「なんでえ、畜生。ざまあ見やがれ、うぬらのような百姓に判るもんか。」
 それはお玉さんの声らしいので、私はびっくりした。なにか兄妹喧嘩でも始めたのかとも思った。店先に涼んでいる八百屋のおかみさんに聞くと、おかみさんは珍しくもないという顔をして笑っていた。
「ええ、気ちがいがまたあばれ出したんですよ。急に暑くなったんで逆上(のぼ)せたんでしょう。」
「お玉さんですか。」
「もう五、六年まえから可怪(おかし)いんですよ。」
 わたしは思わず戦慄した。わたしにはそれが初耳であった。お玉さんはわたしが下町へ行っているあいだに、いつか気ちがいになっていたのであった。私が八百屋のおかみさんと話しているうちにも、お玉さんはなにかしきりに呶鳴っていた。息もつかずに「べらぼう、畜生」などと罵っていた。徳さんの声はちっとも聞こえなかった。
 家(うち)へ帰って其の話をすると、家の者もみんな知っていた。お玉さんの気ちがいと云うことは町内に隠れもない事実であったが、その原因は誰にも判らなかった。しかし別に乱暴を働くと云うのでもなく、夏も冬も長火鉢の前に坐って、死んだように鬱(ふさ)いでいるかと思うと、時々だしぬけに破(わ)れるような大きい声を出して、誰を相手にするとも無しに「なんでえ、畜生、べらぼう、百姓」などと罵りはじめるのであった。兄の徳さんも近頃は馴れたとみえて、別に取り鎮めようともしない。気のおかしい妹一人に留守番をさせて、平気で仕事に出てゆく。近所でも初めは不安に思ったが、これもしまいには馴れてしまって別に気に止める者もなくなった。
 お玉さんは自分で髪を結う、行水(ぎょうずい)をつかう、気分のよい時には針仕事などもしている。そんな時にはなんにも変ったことはないのであるが、ひと月かふた月に一遍ぐらい急にむらむらとなって例の「畜生、べらぼう」を呶鳴り始める。それが済むと、狐が落ちたようにけろりとしているのであった。気ちがいというほどのことではない、一種のヒステリーだろうと私は思っていた。気ちがいにしても、ヒステリーにしても、一人の妹があの始末ではさぞ困ることだろうと、わたしは徳さんに同情した。ゆず湯で清元を聴かされて以来、わたしは徳さんの一家を掩(おお)っている暗い影を、悼(いた)ましく眺めるようになって来た。
「畜生……べらぼう」
 お玉さんはなにを罵っているのであろう、誰を呪(のろ)っているのであろう。進んでゆく世間と懸けはなれて、自分たちの周囲に対して無意味の反抗をつづけながら、自然にほろびてゆく、いわゆる江戸っ児の運命をわたしは悲しく思いやった。お祭りの乞食芝居を痛罵(つうば)した阿母さんは、鬼ばばァと謳(うた)われながら死んだ。清元の上手な徳さんもお玉さんも、不幸な母と同じ路をあゆんでゆくらしく思われた。取り分けてお玉さんは可哀そうでならなかった。母は鬼婆、娘は狂女、よくよく呪われている母子(おやこ)だと思った。
 お玉さんは一人も友達をもっていなかったが、私の知っているところでは徳さんには三人の友達があった。一人は地主の長左衛門(ちょうざえもん)さんで、もう七十に近い老人であった。格別に親しく往来をする様子もなかったが、徳さんもお玉さんもこの地主さまにはいつも丁寧に頭をさげていた。長左衛門さんの方でもこの兄妹の顔をみれば打ち解けて話などをしていた。
 もう一人は上田(うえだ)屋という貸本屋の主人であった。上田屋は江戸時代からの貸本屋で、番町(ばんちょう)一円の屋敷町を得意にして、昔はなかなか繁昌したものだと伝えられている。わたしが知ってからでも、土蔵付きの大きい角店で、見るからに基礎のしっかりとしているらしい家構えであった。わたしの家でも此処(ここ)からいろいろの小説などを借りたことがあった。わたしが初めて読んだ里見八犬伝もここの本であった。活版本がだんだんに行なわれるに付けて、むかしの貸本屋もだんだんに亡びてしまうので、上田屋もとうとう見切りをつけて、日清戦争前後に店をやめてしまった。しかしほかにも家作(かさく)などをもっているので、店は他人にゆずって、自分たちは近所でしもた家暮らしをすることになった。ここの主人ももう六十を越えていた。徳さんの兄妹は時々ここへ遊びに行くらしかった。もう一人はさっき湯で逢った建具屋のおじいさんであった。この建具屋の店にも徳さんが腰をかけている姿を折りおりに見た。
 こう列べて見渡したところで、徳さんの友達には一人も若い人はなかった。地主の長左衛門さんも、上田屋の主人も、徳さんとほとんど親子ほども歳が違っていた。建具屋の親方も十五、六の歳上であった。したがって、これらの老いたる友達は、頼りない徳さんをだんだんに振り捨てて、別の世界へ行ってしまった。上田屋の主人が一番さきに死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。

     三

 わたしの家(うち)では父が死んだのちに、おなじ路地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口(みずぐち)がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見合せる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
 その年の秋に強い風雨(あらし)があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点(しみ)が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうと云うことになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんは快(こころよ)く来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換(かわ)したのであった。
 徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮(けわ)しい、頤(あご)の尖(とが)った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細(かぼそ)くみえた。紺の匂いの新しい印半纏をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。私から繕(つくろ)いの注文をいちいち聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
 徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますますよかった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。
 徳さんは勘定を受取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさん切って来てくれて、「渋くってとても食べられません、花活けへでもお挿しください。」と云った。
 なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に挿した。
「妹はこの頃どんな塩梅(あんばい)ですね。」と、そのとき私はふいと訊(き)いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘(わがまま)者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が、仕合せかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
 それからだんだんに話してみると、徳さんは妹のことをさのみ苦労にしてもいないらしかった。気のおかしくなるのは当り前だぐらいに思っているらしかった。時どきに大きな声などを出して呶鳴ったり騒いだりしても、近所に対して気の毒だとも思っていないらしかった。しかし徳さんが妹を可愛がっていることは私にもよく判った。かれは妹が可哀そうだから、自分もこの歳まで独身でいると云った。その代りに少しは道楽もしましたと笑っていた。
 これが縁になって、徳さんは私たちとも口を利くようになった。途中で会っても彼は丁寧に時候の挨拶などをした。わたしの家へ仕事に来てから半月ばかりも後のことであったろう、私がある日の夕方銀座から帰ってくると、町内の酒屋の角で徳さんに逢った。
 徳さんも仕事の帰りであるらしく、印半纏を着て手には薄(すすき)のひと束を持っていた。十月の日はめっきり詰まって、酒屋の軒ランプにはもう灯(ひ)がはいっていた。徳さんの持っている薄の穂が夕闇のなかに仄白(ほのじろ)くみえた。
「今夜は十三夜ですか。」と、私はふと思い出して云った。
「へえ、片月見になるのも忌(いや)ですから。」
 徳さんは笑いながら薄をみせた。二人は云い合わしたように暗い空をみあげた。後(のち)の月(つき)は雨に隠れそうな雲の色であった。私はさびしい心持で徳さんと並んであるいた。袷(あわせ)でももう薄ら寒いような心細い秋風が、すすきの白い穂をそよそよと吹いていた。
 路地の入口へ来ると、あかりもまだつけない家の奥で、お玉さんの尖った声がひびいた。
「なんでえ、なに云ってやあがるんでえ。畜生。馬鹿野郎。」
 お玉さんがまた狂い出したかと思うと、私はいよいよ寂しい心持になった。もう珍しくもないので、薄暗い表には誰も覗いている者もなかった。徳さんは黙って私に会釈(えしゃく)して格子をあけてはいった。格子のあく音がきこえると同時に、南向きの窓が内からがらりと明いた。前にも云った通り、窓は南に向いているので、路地を通っている私は丁度その窓から出た女の顔と斜めに向き合った。女の歯の白いのがまず眼について物凄(ものすご)かった。
 わたしは毎朝家を出て、夕方でなければ帰って来ない。お玉さんは滅多(めった)に外へ出たことはない。お玉さんがこのごろ幽霊のように窶(やつ)れているということは、家の者の話には聞いていたが、わたしは直接にその変った姿をみる機会がなくて過ぎた。それを今夜初めて見たのである。お玉さんの平べったい顔は削られたように痩せて尖って、櫛巻(くしまき)にしているらしい髪の毛は一本も乱さずに掻き上げられていた。その顔の色は気味の悪いほどに白かった。
「旦那、旦那。」と、お玉さんはひどく若々しい声で呼んだ。
 私も呼ばれて立ちどまった。
「あなたは洋服を着ているんですか。」
 その時、私は和服を着ていたので、わたしは黙って蝙蝠のように両袖(そで)をひろげて見せた。お玉さんはかの白い歯をむき出してにやにやと笑った。
「洋服を着て通りゃあがると、あたまから水をぶっ掛けるぞ。気をつけやあがれ。」
 窓はぴっしゃり閉められた。お玉さんの顔は消えてしまった。私は物に魘(おそ)われたような心持で早々に家へ帰った。その当時、わたしは毎日出勤するのに、和服を着て出ることもあれば、洋服を着て出ることもあった。お玉さんから恐ろしい宣告を受けて以来、わたしは洋服を着るのを一時見合せたが、そうばかりもゆかない事情があるので、よんどころなく洋服を着て出る場合には、なるべく足音をぬすんでお玉さんの窓の下をそっと通り抜けるようにしていた。
 それからひと月ばかり経って、寒い雨の降る日であった。わたしは雨傘をかたむけてお玉さんの窓ぎわを通ると、さながら待ち設けていたかのように、窓が不意に明いたかと思うと、柄杓(ひしゃく)の水がわたしの傘の上にざぶりと降って来た。幸いに傘をかたむけていたので、さしたることも無かったが、その時わたしは和服を着ていたにも拘(かかわ)らず、こういう不意討ちの難に出会ったのであった。その以来、自分はもちろん、家内の者にも注意して、お玉さんの窓の下はいつも忍び足で通ることにしていた。それでも時どきに内から鋭い声で叱り付けられた。
「馬鹿野郎。百姓。水をぶっかけるぞ。しっかりしろ。」
 口で云うばかりでない、実際に水の降って来ることがたびたびあった。酒屋の小さい御用聞きなどは寒中に頭から水を浴びせられて泣いて逃げた。近所の子供などは口惜(くや)しがって、窓へ石を投げ込むのもあった。お玉さんも負けずに何か罵りながら、内から頻りに水を振りまいた。石と水との闘いが時どきにこの狭い路地のなかで演ぜられた。
 そのうちにお玉さんの家は路地のそばを三尺通り切り縮められることになった。それは路地の奥の土蔵付きの家へ新しく越して来た某実業家の妾が、人力車の自由に出入りのできるだけに路地の幅をひろげて貰いたいと地主に交渉の結果、路地の入口にあるお玉さんの家をどうしても三尺ほどそぎ取らなければならないことになったのである。こういう手前勝手の要求を提出した人は、地主に対しても無論に高い地代を払うことになったに相違なかった。お玉さんの家の修繕費用も先方で全部負担すると云った。
「長左衛門さんがおいでなら、わたくしも申すこともありますが、今はもう仕様がありません。」と、徳さんは若い地主からその相談を受けた時に、存外素直に承知した。しかし修繕の費用などは一銭も要らないと、きっぱり撥(は)ね付けた。
 それからひと月の後に路地は広くなった。お玉さんの家はそれだけ痩せてしまった。その年の夏も暑かったが、お玉さんの家の窓は夜も昼も雨戸を閉めたままであった。お玉さんの乱暴があまり激しくなったので、徳さんは妹が窓から危険な物を投げ出さない用心に、路地にむかった窓の雨戸を釘付けにしてしまったのであった。お玉さんは内から窓をたたいて何か呶鳴っていた。
 暑さが募るにつれて、お玉さんの病気もいよいよ募って来たらしかった。この頃では家のなかで鉄瓶や土瓶を投げ出すような音もきこえた。ときどきには跣足(はだし)で表へ飛び出すこともあった。建具屋のおじいさんももう見ていられなくなって、無理に徳さんをすすめて妹を巣鴨(すがも)の病院へ入れさせることにした。今の徳さんには入院料を支弁する力もない。さりとて仮りにも一戸(こ)を持っている者の家族には施療(せりょう)を許されない規定になっているので、徳さんはとうとうその家を売ることになった。そうして、建具屋のおじいさんの尽力で、お玉さんはいよいよ巣鴨へ送られた。それは九月はじめの陰った日で、お玉さんはこの家を出ることを非常に拒(こば)んだ。ようように宥(なだ)めて人力車に乗せると、お玉さんは幌(ほろ)をかけることを嫌った。
「畜生。べらぼう。百姓。ざまあ見やがれ。」
 お玉さんは町じゅうの人を呪うように大きな声で叫びつづけながら、傲然(ごうぜん)として人力車にゆられて行った。わたしは路地の口に立って見送った。建具屋のおじいさんと徳さんとは人力車のあとに付いて行った。
「妹もながなが御厄介になりました。」
 巣鴨から帰って来て、徳さんは近所へいちいち挨拶にまわった。そうして、その晩のうちに世帯をたたんで、元の貸本屋の上田屋の二階に同居した。そのあとへは更に手入れをして質屋の隠居さんが越して来た。近所ではあるが町内が違うので、わたしはその後徳さんの姿を見かけることはほとんど無かった。

 それからまた二年過ぎた。そうして、柚湯の日に徳さんの死を突然きいたのである。徳さんの末路は悲惨であった。しかし徳さんもお玉さんもあくまで周囲の人間を土百姓と罵って、自分たちだけがほんとうの江戸っ児であると誇りつつ、長い一生を強情に押し通して行ったかと思うと、単に悲惨というよりも、むしろ悲壮の感がないでもない。
 そのあくる日の午後にわたしは再び建具屋のおじいさんに湯屋で逢った。おじいさんは徳さんの葬式から今帰ったところだと云った。
「徳の野郎、あいつは不思議な奴ですよ。なんだか貧乏しているようでしたけれど、いよいよ死んでから其の葛籠(つづら)をあらためると、小新しい双子(ふたこ)の綿入れが三枚と羽織が三枚、銘仙の着物と羽織の揃ったのが一組、帯が三本、印半纏が四枚、ほかに浴衣が五枚と、それから現金が七十円ほどありましたよ。ところが、今までめったに寄り付いたことのねえ奴らが、やれ姪(めい)だの従弟(いとこ)だのと云って方々からあつまって来て、片っ端からみんな持って行ってしまいましたよ。世の中は薄情に出来てますね。なるほど徳の野郎が今の奴らと附き合わなかった筈ですよ。」
 わたしは黙って聴いていた。そうして、お玉さんは此の頃どうしているかと訊いた。
「お玉は病院へ行ってから、からだはますます丈夫になって、まるで大道臼(うす)のように肥ってしまいましたよ。」
「病気の方はどうなんです。」
「いけませんね。もうどうしても癒らないでしょうよ。まあ、あすこで一生を終るんですね。」と、おじいさんは溜息をついた。「だが、当人としたら其の方が仕合せかも知れませんよ。」
「そうかも知れませんね。」
 二人はそれぎり黙って風呂へはいった。(掲載誌不詳、『十番随筆』所収)[#改丁、ページの左右中央に]

   □ 旅つれづれ
[#改丁]


昔の従軍記者


     *

 ××さん。
 仰せの通り、今回の事変(支那事変)について、北支方面に、上海(シャンハイ)方面に、従軍記者諸君や写真班諸君の活動は実にめざましいもので、毎日の新聞を見るたびに、他人事(ひとごと)とは思われないように胸を打たれます。取分けて私などは自分の経験があるだけに、人一倍にその労苦が思いやられます。
 その折柄、あたかもあなたから「昔の従軍記者」に就(つ)いておたずねがありましたので、自分が記憶しているだけの事を左にお答え申します。御承知の通り、日露戦争の当時、わたしは東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲(まんしゅう)の戦地に派遣されましたので、なんと云っても其の当時のことが最も多く記憶に残っていますが、お話の順序として、まず日清戦争当時のことから申上げましょう。
 日清戦争当時は初めての対外戦争であり、従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありませんでした。朝鮮に東学党の乱が起って、清(しん)国がまず出兵する、日本でも出兵して、二十七年六月十二日には第五師団の混成旅団が仁川(じんせん)に上陸する。こうなると、鶏林(けいりん)(朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時は従軍記者というわけではなく、各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。
 そのうちに事態いよいよ危急に迫って、七月二十九日には成歓牙山(せいかんがさん)のシナ兵を撃ち攘(はら)うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に附属して、初めて従軍記者ということになりました。戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第二第三の従軍記者を送って来る。これらはみな陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者と名乗って渡航したのでした。
 これらの従軍記者は宇品(うじな)から御用船に乗り込んで、朝鮮の釜山(ふざん)または仁川に送られたのですが、前にもいう通り、何分にも初めての事で、従軍記者に対する規律というものが無いので、その扮装(ふんそう)も思い思いでした。どの人もみな洋服を着ていましたが、腰に白木綿(もめん)の上帯を締めて、長い日本刀を携えているのがある。槍(やり)を持っているのがある。仕込杖(しこみづえ)をたずさえているのがある。今から思えば嘘(うそ)のようですが、その当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁(あかつき)に軍隊がどの程度まで保護してくれるか判らない。万一負け軍(いくさ)とでもなった場合には、自衛行動をも執らなければならない。非戦闘員とて油断は出来ない。まかり間違えばシナ兵と一騎討ちをするくらいの覚悟が無ければならないので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。実際、その当時はシナ兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断は出来ないのですから、この位の威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別にそれを咎(とが)めませんでした。

     *

 前にもいう通り、従軍新聞記者に対する待遇や規定がハッキリしていないので、その配属部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔物扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、と云ったような心持があって、めいめいが自由行動を執るという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにも行かない。それがために、軍隊側にも困ることがあり、記者側にも困ることがあり、陣中におけるいろいろの挿話が生み出されたようでした。
 明治三十三年の北清事件当時にも、各新聞社から従軍記者を派出しましたが、これは戦争というほどの事でもないので、やはり日清戦争当時と同様、特に規律とか規定とか云うようなものも設けられませんでした。
 次は三十七、八年の日露戦争で、この時から従軍新聞記者に対する待遇その他が一定されました。従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。その代りに軍人と同様、軍隊の規律にいっさい服従すべしと云うことになりました。もう一つ、従軍記者は一社一人に限るというのです。こうなると、画家も写真班も同行することを許されないわけです。
 これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。軍の方では第一軍、第二軍、第三軍、第四軍を編成して、それが別々の方面へ向って出動するのに、一人の記者が掛持(かけもち)をすることは出来ません。そこで、まず自分の社から一人の従軍願いを出して置いて、さらに他の新聞社の名儀を借りるという方法を案出しました。
 京阪は勿論(もちろん)、地方でも有力の新聞社はみな従軍願いを出していますが、地方の小さい新聞社では従軍記者を出さないのがある。その新聞社の名儀で出願すれば、一社一人は許されるので、東京の新聞社は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日新聞社からは黒田(くろだ)甲子郎君がすでに従軍願いを出して、第一軍配属と決定しているので、わたしは東京通信社の名をもって許可を受けました。
 東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、遠い地方の新聞社員と称して、従軍願いを出す者が続々あらわれる。陸軍省でその新聞社の所在地を訊(き)かれても、御本人はハッキリと答えることが出来ないと云うような滑稽(こっけい)もありました。陸軍側でもその魂胆を承知していたでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことが出来たのでした。
 勿論、それは内地を出発するまでのことで、戦地へ行き着くと皆それぞれに正体をあらわして、自分は朝日だとか日日だとか名乗って通る。配属部隊の方でも怪しみませんでした。しかし袖印(そでじるし)だけは届け出での社名を用いることになっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅(あか)く縫った帛(きれ)を巻いていました。日清戦争当時と違って、槍や刀などを携帯することはいっさい許されません。武器はピストルだけを許されていたので、私たちは腰にピストルを着けていました。

     *

 従軍記者の携帯品は、ピストルのほかに雨具、雑嚢(ざつのう)または背嚢(はいのう)、飯盒(はんごう)、水筒、望遠鏡で、通信用具は雑嚢か背嚢に入れるだけですから、たくさんに用意して行くことが出来ないので困りました。万年筆はまだ汎(ひろ)く行なわれない時代で、万年筆を持っている者は一人もありませんでした。鉛筆は折れ易くて不便であるので、どの人も小さい毛筆を用いていました。従って、矢立(やたて)を持つ者もあり、小さい硯(すずり)と墨を使っている者もあり、今から思えばずいぶん不便でした。
 しかしまた、一利一害の道理で、われわれは机にむかって通信を書く場合はほとんど無い。シナ家屋のアンペラの上に俯伏(うつぶ)して書くか、或いは地面に腹這(ば)いながら書くのですから、ペンや鉛筆では却(かえ)って不便で、むしろ柔かい毛筆を用いた方が便利だと云う場合もありました。紙は原稿紙などを用いず、巻紙に細かく書きつづけるのが普通でした。
 宿舎は隊の方から指定してくれた所に宿泊することになっていて、妄(みだ)りに宿所を更(か)えることは出来ません。大抵は村落の農家でした。しかし戦闘継続中は隊の方でもそんな世話を焼いていられないので、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟(こびょう)に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相(ねぞう)の悪い一人が関羽(かんう)の木像を蹴倒(けたお)して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場(とば)になっていたらしいのです。
 食事は監理部へ貰(もら)いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄(とり)や生(なま)の野菜をくれることがある。米は焚(た)かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力(クーリー)を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
 苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭(こうしゅうてい)、一人は丁禹良(ていうりょう)というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎(じゅうろう)、他を五郎(ごろう)という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我(そが)兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
 東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰(いいようほう)の新派一座が中洲(なかず)の真砂座(まさござ)で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇(かたき)の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合(あんごう)しているには驚きました。但(ただ)し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討などという芝居はありませんでした。

     *

「なにか旨(うま)い物が食いたいなあ。」
 そんな贅沢(ぜいたく)を云っているのは、駐屯無事の時で、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時には唐蜀黍(とうもろこし)を焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋(つな)いだこともありました。沙河(しゃか)会戦中には、農家へはいって一椀の水を貰(もら)ったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け廻られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです。そんな場合でも露西亜兵(ロシアへい)携帯の黒パンはどうしても喉(のど)に通りませんでした。シナ人が常食の高梁(コーリャン)も再三試食したことがありますが、これは食えない事もありませんでした。戦闘が始まると、シナ人はみな避難してしまうので、その高梁飯も戦闘中には求めることが出来ず、空腹をかかえて駈けまわることになるのです。
 燈火は蝋燭(ろうそく)か火縄で、物をかく時は蝋燭を用い、暗夜に外出する時には火縄を用いるのですが、この火縄を振るのが案外にむずかしく、緩(ゆる)く振れば消えてしまい、強く振れば振り消すと云うわけで、五段目の勘平(かんぺい)のような器用なお芝居は出来ません。今日(こんにち)ならば懐中電燈もあるのですが、不便なことの多い時代、殊(こと)に戦地ですから已(や)むを得ないのです。火縄を振るのは路(みち)を照らす為ばかりでなく、野犬を防ぐためです。満洲の野原には獰猛(どうもう)な野犬の群れが出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗(な)めているので、ますます獰猛、ほとんど狼にひとしいので、我々を恐れさせました。そのほかには、蝎(さそり)、南京(ナンキン)虫、虱(しらみ)など、いずれも夜となく、昼となく、我々を悩ませました。蝎に螫(さ)されると命を失うと云うので、虱や南京虫に無神経の苦力らも、蝎と聞くと顔の色を変えました。
「新聞記者に危険はありませんか。」
 これはしばしばたずねられますが、決して危険がないとは云えません。従軍記者も安全の場所にばかり引き籠っていては、新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒(おか)して奔走しなければなりません。文字通りに、砲烟弾雨(ほうえんだんう)の中をくぐることもしばしばあります。日清戦争には二六新報の遠藤(えんどう)君が威海衛(いかいえい)で戦死しました。日露戦争には松本日報の川島(かわしま)君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私もその時、小銃弾に帽子を撃ち落されましたが、幸いに無事でした。その弾丸がもう一寸(いっすん)と下がっていたら、唯今(ただいま)こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにも、こういう危険に遭遇して、危く免れた人々は幾らもあります。殊に今日(こんにち)は空爆ということもありますから、いよいよ油断はなりません。
 今度の事変にも、北支に、上海に、もう幾人かの死傷者を出したようです。この事変がどこまで拡大するか知れませんが、従軍記者諸君のあいだに此の以上の犠牲者を出さないようにと、心から祈って居ります。(昭和12・8稿・『思ひ出草』所収)[#改ページ]


苦力とシナ兵


     一

 昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔(こんじゃく)の感が無いでもない。それは文字通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
 それについての思い出話を新聞紙上にも書いたが、それからそれへと繰り出して考えると、まだ云い残したことが随分(ずいぶん)ある。そのなかで苦力(クーリー)のことを少しばかり書いてみる。
 シナの苦力は世界的に有名なもので、それがどんなものであるかは誰でも知っているのであるから、今あらためてその生活などに就いて語ろうとするのではない。ただ、ひと口に苦力といえば、最も下等な人間で、横着で、狡猾(こうかつ)で、吝嗇(りんしょく)で、不潔で、ほとんど始末の付かない者のように認められているらしいが、必ずしもそんな人間ばかりで無いと云うことを、私の実験によって語りたいと思うのである。
 私が戦地にある間に、前後三人の苦力を雇った。最初は王福(おうふく)、次は高秀庭(こうしゅうてい)、次は丁禹良(ていうりょう)というのであった。
 最初の王福は一番若かった。彼は二十歳で、金州(きんしゅう)の生まれであると云った。戦時であるから、かれらも用心しているのかも知れないが、極めて柔順で、よく働いた。一日の賃銀は五十銭であったが、彼は朝から晩まで実によく働いて、われわれ一行七人の炊事から洗濯その他の雑用を、何から何まで彼一人で取(とり)り賄(まかな)ってくれた。
 彼は煙草(たばこ)をのむので、私があるとき菊世界という巻莨(まきたばこ)一袋をやると、彼は拝して受取ったが、それを喫(の)まなかった。自分の兄は日本軍の管理部に雇われているから、あしたの朝これを持って行ってやりたいと云うのである。われわれの宿所から管理部までは十町ほども距(はな)れている。彼は翌朝、忙がしい用事の隙(すき)をみて、その莨を管理部の兄のところへ届けに行った。
 それから二、三日の後、私が近所を散歩していると、彼は他の苦力と二人づれで、路(みち)ばたの露店の饅頭(まんとう)を食っていたが、私の姿をみると直(す)ぐに駈けて来た。連れの苦力は彼の兄であった。兄は私にむかって、丁寧に先日の莨の礼を述べた。いかに相手が苦力でも、一袋の莨のために兄弟から代るがわるに礼を云われて、私はいささか極まりが悪かった。
 その後、注意して見ると、彼は時どきに兄をたずねて、二人が連れ立って何か食いに行くらしい。どちらが金を払うのか知らないが、兄弟仲のいいことは明らかに認められた。私は兄の顔をみると、莨をやることにしていたが、二、三回の後に兄はことわった。
 大人(たいじん)の莨の乏しいことは私たちも知っていると、彼は云うのである。実際、戦地では莨に不自由している。彼はさらに片言(かたこと)の日本語で、こんな意味のことを云った。
「管理部の人、みな莨に困っています。この莨、わたくしに呉れるよりも、管理部の人にやってください。」
 私は無言でその顔をながめた。勿論、多少のお世辞もまじっているであろうが、苦力の口から斯(こ)ういう言葉を聞こうとは思わなかったのである。これまでとかくに彼らを侮(あなど)っていたことを、私は心ひそかに恥じた。
 金州の母が病気だという知らせを聞いて、王の兄弟は暇(ひま)を取って郷里に帰った。帰る時に、兄も暇乞(いとまご)いに来たが、兄は特に私にむかって、大人はからだが弱そうであるから、秋になったらば用心しろと注意して別れた。
 王福の次に雇われて来たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東(さんとう)省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海(シャンハイ)に働いていたそうで、ブロークンながらも少しく英語を話すので調法であった。これも極めて柔順で、すこぶる怜悧(れいり)な人間であった。
 高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽(りょうよう)攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤(てんびん)棒で肩にかついだ。そうして、軍の移動と共に前進していたのであるが、この戦争が始まると、雨は毎日降りつづいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も濡(ぬ)れていた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。私もその一人で、鞍山店(あんざんてん)附近にさしかかった時には九度二分の熱になってしまった。
 他の人々も私の病気を心配して、このままで雨に晒(さら)されているのは良くあるまいというので、苦力の高を添えて私を途中にとどめ、他の人々は前進することになった。鞍山店は相当に繁昌している土地らしいが、ここらの村落の農家はみな何処(どこ)へか避難して、どの家にも人の影はみえない。高は雨の中を奔走して、比較的に綺麗な一軒のあき家を見つけて来てくれた。そこへ私を連れ込んで、彼は直ぐに高梁(コーリャン)を焚いて湯を沸かした。珈琲(コーヒー)に砂糖を入れて飲ませてくれた。前方では大砲や小銃の音が絶え間なしにきこえる。雨はいよいよ降りしきる。こうして半日を寝て暮らすうちに、その日もいつか夜になった。高は蝋燭をとぼして、夕飯の支度にかかった。
 日が暮れると共に、わたしは一種の不安を感じ始めた。以前の王福の正直は私もよく知っていたが、今度の高秀庭の性質はまだ本当にわからない。私の荷物は勿論、一行諸君の荷物もひと纏めにして、彼がみな預かっているのである。私が病人であるのを幸いに、夜なかに持ち逃げでもされては大変である。九度以上の熱があろうが、苦しかろうが、今夜は迂濶(うかつ)に眠られないと、私は思った。
 そうは思いながらも、高の煮てくれた粥(かゆ)を食って、用意の薬を飲むと、なんだかうとうとと眠くなって来た。ふと気が付くと、枕もとの蝋燭が消えている。マッチを擦って時計をみると、今夜はもう九時半を過ぎている、高の姿はみえない。はっと思って、私は直ぐに飛び起きた。
 しかし荷物の包みはそのままになっている。調べてみると、品物には異状はないらしい。それでやや安心したが、それにしても彼はどこへ行ったのであろう。二、三度呼んでみたが返事もない。台所の土間にも姿はみえない。この雨の夜にどこへも行くはずはない、あるいは何かの事情で私を置き去りにして行ったのかとも思った。なにしろ、これだけの荷物がある以上、油断してはいられないと思ったので、私は毛布を着て起き直った。砲声はやや衰えたが、雨の音は止まない。夜の寒さは身にしみて来た。
 それから二時間ほどの後である。高は濡(ぬ)れて帰って来た。彼は一枚の毛布を油紙のようなものに包んで抱えていた。
 これで事情は判明した。彼は昼間から私の容体を案じていたのであるが、日が暮れていよいよ寒くなって来たので、彼は私のために更に一枚の毛布を工面(くめん)に行ったのである。われわれの食物その他はすべて管理部で支給されるのであるから、彼は管理部をたずねて行った。戦闘開始中は管理部も後方に引き下がっているのであるから、彼は暗い寒い雨の夜に一里余の路を引返して、ようように管理部のありかを探し当てたが、管理部でも毛布までは支給されないという。第一、余分の毛布もないのである。それでも彼はいろいろに事情を訴えて、一枚の古毛布を借りて来て、病める岡大人――岡本の一字を略して云う――に着せてくれる事になったのである。
 私は感謝を通り越して、なんだか悲しいような心持になった。前にもいう通り、私たちはとかくに苦力らを侮蔑する心持がある。その誤りをさきに王福の兄弟に教えられ、今はまた、高秀庭に教えられた。いたずらに皮相を観て其の人を侮蔑する――自分はそんな卑しい、浅はかな心の所有者であるかと思うと、私は涙ぐましくなった。その涙は感激の涙でなく、一種の自責の涙であった。
 私は高のなさけに因(よ)って、その夜は二枚の毛布をかさねて眠った。あくる朝は一度ほども熱が下がったのと、前方の戦闘がいよいよ激烈になって来たのとで、私は病いを努(つと)めて前進することにした。高は彼(か)の古毛布を斜めに背負って、天秤の荷物をかついで、私のあとに続いて来た。雨はまだやまなかった。
 最後の丁禹良はやや魯鈍(ろどん)に近い人間で、特に取立てて語るほどの事もなかったが、いわゆる馬鹿正直のたぐいで、これも忠実勤勉であった。それでも「わたしも今に高のようになりたい」などと云っていた。高秀庭はその勤勉が管理部の眼にもとまり、私たちの方でも推薦して苦力頭の一人に採用されたからである。苦力頭は軍隊使用の苦力らの取締役のようなもので、胸には徽章(きしょう)をつけ、手には紫の総(ふさ)の付いている鞭(むち)を持っている。丁のような人の眼にも、それが羨(うらや)ましく見えたのであろう。
 彼らに就いては、まだ語ることもあるが、余り長くなるからこの位にとどめて置く。いずれにしても、私たちの周囲にいた苦力らは前に云ったような次第で、ことごとく忠実善良の人間ばかりであった。私たちの運がよかったのかも知れないが、あながちにそうばかりとも思われない。
 多数のなかには、横着な者も狡猾な者もいるには相違ないが、苦力といえば一概に劣等の人間と決めてしまうのは、正しい観察ではないと思われる。それと反対に、私は苦力という言葉を聞くと、王福の兄弟や、高秀庭や、丁禹良らの姿が眼に浮かんで、苦力はみな善良の人間のように思われてならない。これも勿論、正しい観察ではあるまいが――。

     二

 今度は少しくシナの兵士について語りたい。
 シナの兵隊も苦力と共に甚だ評判の悪いものである。シナ兵は怯懦(きょうだ)である、曰(いわ)く何、曰く何、一つとしてよいことは無いように云われている。しかも彼らの無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪いためであって、彼らの罪ではない。
 現在のシナのような、軍隊組織や制度の下(もと)にあっては、いかなる兵でも恐らく勇敢には戦い得まいと思う。個人としてのシナ兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるか知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教えよく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
 それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。由来、文を重んずるはシナの国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に武を嫌い、武を憎むように慣らされている。シナの人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢不当兵(へいにあたらず)」とは昔から云うことであるが、いやしくも兵と名が付けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、ほとんど盗賊類似のように考えられている。そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
 私は遼陽城外の劉(りゅう)という家(うち)に二十日余り滞在していたことがある。農であるが、先ずここらでは相当の大家(たいけ)であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩(ほうばい)と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。私たちのそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。早く云えば、継子(ままこ)が他人を慕うというような風である。
 これには何か仔細(しさい)があるかと思って、あるとき他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那様で世を送られる身の上であるが、若気(わかげ)の誤まり――と、他の雇人は云った。――十五、六歳の頃から棒を習った。それまではまだ好(よ)いのであるが、それから更に進んで兵となって、奉天(ほうてん)歩隊に編入された。所詮(しょせん)、両親も兄も許す筈はないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
 それから二、三年の後、彼は伍長か何かに昇進して、軍服をつけて、赤い毛を垂れた軍帽をかぶって、久しぶりで実家をおとずれると、両親も兄も逢わなかった。雇人らに命じて、彼を門外へ追い出させた。さらに転じて近所の親類をたずねると、どこの家でも門を閉じて入れなかった。彼はすごすごと立ち去った。
 それからまた二、三年、前後五、六年の軍隊生活を送った後に、彼は兵に倦(あ)きたか、故郷が恋しくなったか、軍服をぬいで実家へ帰って来たが、実家では入れなかった。親類も相手にしなかった。それでも土地の二、三人が彼を憫(あわ)れんで、彼のために実家や親類に嘆願して、今後は必ず改心するという誓言の下(もと)に、両親や兄のもとに復帰することを許された。先ず勘当が赦(ゆる)されたという形である。
 しかも彼は直ちに劉家の次男たる待遇を受けることを許されなかった。帰参は叶(かな)ったというものの、当分は他の雇人と同格の待遇で、雇人同様に立ち働かなければならなかった。彼はその命令に服従して、朝から晩まで泥だらけになって働いているのである。当分と云っても、もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十歳になるまではそのままであろうという。
 その話を聞かされて、私はいよいよ可哀そうになった。いかに国風とは云いながら、兵になったと云うことがそれ程の罪であろうか。それに伴って、何か他に悪事でも働いたというならば格別、単に軍服を身に纏ったと云うだけのことで、これほどの仕置を加えるのは余りに残酷であると思った。彼が肩身を狭くして、一種の継子のような風をして、他国人の私たちを恋しがるのも無理はない。その以来、私は努めて彼に対して親しい態度を執るようにすると、彼もよろこんで私に接近して来た。
 ある日、私が城内へ買物にゆくと、その帰り途で彼に逢った。彼も何か買物にやられたとみえて、大きい包みをかついでいた。それでも直ぐに私のそばへ駈け寄って来て、私の荷物を持ってくれた。一緒に帰る途中、私は彼にむかって「お前も骨が折れるだろう。」と慰めるように云うと、彼は「私が悪いのだ。」と答えた。彼自身も飛んだ心得違いをしたように後悔しているらしかった。
 これはほんの一例に過ぎないが、良家の子が兵となれば、結局こんなことになるのである。入営の送迎に旗を立ててゆく我が国風とは、あまりに相違しているではないか。いかなる名将勇士でも、国民の後援がなければ思うようの働きは出来ない。その国民がこの如くに兵を嫌い兵を憎むようでは、士気の振わないのも当然であるばかりか、まじめな人間は兵にならない。兵の素質の劣悪もまた当然であると云うことを、私はつくづく感じた。
 平和を愛するのはいい。しかしこれほどに武を憎む国民は世界の優勝国民になり得ない。シナはあまりに文弱であり過ぎる。これと反対の一例を私が実験しているだけに、この際いよいよその感を深うしたのである。
 劉家へ来るひと月ほど以前に、私は海城(かいじょう)北方の李家屯(りかとん)という所に四日ばかり滞在したことがある。これも相当の大家であったが、私が宿泊の第一日には家人は全く姿をみせず、老年の雇人ひとりが来て形式的の挨拶をしただけで、万事の待遇が甚だ冷淡であった。
 その第二日に、その家の息子らしい十二、三歳の少年が私の居室の前に遊んでいた。彼は私の持っている扇をみて、しきりに欲しそうな顔をしているので、私はその白扇に漢詩の絶句をかいてやると、彼はよろこんで貰って行った。すると、一時間あまりの後に、その家の長男という二十二、三歳の青年が衣服をあらためて挨拶に来て、先刻の扇の礼を云った。青年は相当の教育を受けているらしく、自由に筆談が出来るので、だんだん話し合ってみると、この一家の人々は私がカーキー服を来て半武装をしているのを見て、やはり軍人であると思っていたらしい。しかも白扇の題詩を見るに及んで、私が軍人でないことを知ったというのである。日本の軍人に漢詩を作る人はたくさんあるが、シナにはないと見える。
 ともかくも私が文字の人であることを知ると共に、一家内の待遇が一変した。長男が去ると、やがてまた入れ代って主人が挨拶に来た。日が暮れる頃には酒と肉を贈って来た。他の雇人らも私をみるといちいち丁寧に挨拶するようになった。長男の青年は毎朝かならず挨拶に来て、何か御用は無いかと云った。私がいよいよ出発する時には、主人や息子たちは衣服をあらためて門前まで送って来た。他の雇人らも総出で私に敬礼した。
 敬意を表されて腹の立つ者はない。私もその当時は内々得意であったが、後に遼陽城外の劉家に来て、かの奉天歩隊の勘当息子をみるに及んで、彼らが余りに文を重んじ、武を軽んずるの甚しきを憐(あわ)れむような心持にもなって来た。これではシナの兵は弱い筈である。
 多年の因習、一朝(いっちょう)に一洗することは不可能であるとしても、新興国の当路者がここに意を致すことなくんば、富国はともあれ、強兵の実は遂に挙がるまいと思われる。(昭和8・1「文藝春秋」)[#改ページ]


満洲の夏


     池

 この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私も一種今昔の感に堪えない。わたしの思い出は可なり古い。日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。
 満洲の夏――それを語るごとに、いつも先ず思い出されるのは得利寺(とくりじ)の池である。得利寺は地名で、今ではここに満鉄の停車場がある。わたしは八月の初めにここを通過したが、朝から晴れた日で、午後の日盛りはいよいよ暑い。文字通り、雨のような汗が顔から一面に流れ落ちて来た。
「やあ、池がある!」
 沙漠でオアシスを見いだしたように、私たちはその池をさして駈けてゆくと、池はさのみ広くもないが、岸には大きい幾株の柳がすずしい蔭を作って、水には紅白の荷花(はすばな)が美しく咲いていた。
 汗をふきながら池の花をながめて、満洲にもこんな涼味に富んだ所があるかと思った。池のほとりには小さい塾のようなものがあって、先生は半裸体で子どもに三字経を教えていた。わたしはこの先生に一椀の水を貰って、その返礼に宝丹一個を贈って別れた。
 その池、その荷花――今はどうなっているであろう。

     龍

 蓋平(がいへい)に一宿した時である。ここらの八月はじめは日が長い。晴れた日がほんとうに暮れ切るのは、午後十時頃である。
 その午後六時半頃から約四十分ほど薄暗くなったかと思うと、また再び明るくなった。海の方面に大雨が降ったらしいという。やがて七時半に近い頃である。あたりの土着民が俄(にわ)かに騒ぎ出した。
「龍(ロン)! 龍(ロン)!」
 みな口々に叫んで表へかけ出すので、私も好奇心に駆られて出てみると、西の方角――おそらく海であろうと思われる方角にあたって、大空に真黒(まっくろ)な雲が長く大きく動いている。その黒雲のあいだを縫って、金色の光るものが切れぎれに長くみえる。勿論、その頭らしい物は見えないが、金龍の胴とも思われるものが見えつ隠れつ輝いているのである。
 雲は墨よりも黒く、金色は燦(さん)として輝いている。太陽の光線がどういう反射作用をするのか知らないが、見るところ、まさに描ける龍である。
 龍を信ずる満洲人が「龍!」と叫ぶのも無理はないと、私は思った。

     蝎

 南京虫は日本にもたくさん輸入されているから、改めて紹介するまでもないが、満洲の夏において最も我々をおびやかしたものは蝎(さそり)であった。南京虫を恐れない満洲の民も、蝎と聞けば恐れて逃げる。
 蝎も南京虫とおなじく、人家の壁の崩れや、柱の割れ目などに潜(ひそ)んでいる。時には枯草などをたばねた中にも隠れている。しかも南京虫とは違って、その毒は生命に関する。私はある騎兵が右手の小指を蝎に螫(さ)されて、すぐに剣をぬいてその小指を切断したのを見た。
 蝎の毒は蝮(まむし)に比すべきものである。殊に困るのは、その形が甚だ小さく、しかも人家の内に棲息(せいそく)していることである。蝎の年を経たものは大きさ琵琶(びわ)の如しなどと、シナの書物にも出ているが、そんなのは滅多にあるまい。私の見たのは、いずれもこおろぎぐらいであった。
 土地の人は格別、日本人が蝎に襲われたという噂を、近来あまり聞かないのは幸いである。満洲開発と共に、こういう毒虫は絶滅させなければなるまい。
 蝎は敵に囲まれた時は自殺する。おのが尻尾(しっぽ)の剣先をおのが首に突き刺して仆(たお)れるのである。動物にして自殺するのは、恐らく蝎のほかにあるまい。蝎もまた一種の勇者である。

     水

 満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札(ふだ)を立てることになっていた。
 私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
 人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
 今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店(ふらんてん)で飲んだ噴き井戸の水などは清冽(せいれつ)珠(たま)のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。

     蛇

 海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめと降りつづく。
 わたしたちの宿舎のとなりに老子(ろうし)の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇(こや)みになったので、泥濘(でいねい)の路を踏んで香を献(ささ)げに来る者も多い。縁日商人も店を列(なら)べている。大道芸人の笙(しょう)を吹くもの、蛇皮線(じゃびせん)をひく者、四(よ)つ竹(だけ)を鳴らす者なども集まっている。
 その群れのうちに蛇人(だにん)――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面(はくめん)の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒(しょうしゃ)たる姿であった。
 兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌(てのひら)の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴(せいそう)の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。

     雨

 満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
 夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨(にわかあめ)が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡(たか)をくくって徒渉(としょう)を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
 遼陽の南門外に宿っている時、宵(よい)から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青(まっさお)な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅(おびや)かされた。

     東京陵

 遼陽の城外に東京陵(トンキンりょう)という古陵がある。昔ここに都していた遼(りょう)(契丹(きったん))代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
 伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女(きゅうじょ)に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音(ね)にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
 わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
 その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、
「好的(ハオデー)」と、主人はまた笑った。(昭和7・6「都新聞」)[#改ページ]


仙台五色筆


 仙台(せんだい)の名産のうちに五色筆(ごしきふで)というのがある。宮城野(みやぎの)の萩、末の松山(まつやま)の松、実方(さねかた)中将の墓に生(お)うる片葉の薄(すすき)、野田(のだ)の玉川(たまがわ)の葭(よし)、名取(なと)りの蓼(たで)、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島(まつしま)記念大会に招かれて、仙台、塩竈(しおがま)、松島、金華山(きんかざん)などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
 わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟(こせき)に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判(わか)らない。

     三人の墓

 仙台の土にも昔から大勢(おおぜい)の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜(ひそ)んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜(くや)しくないと思う人は三人ある。曰(いわ)く、伊達政宗(だてまさむね)。曰く、林子平(はやししへい)。曰く、支倉六右衛門(はせくらろくえもん)。今度もこの三人の墓を拝した。
 政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書(こもんじょ)にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の子供にも錦戸太郎(にしきどたろう)、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館(たて)次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
 いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍(どくがんりゅう)などという水滸伝(すいこでん)式の渾名(あだな)を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿(ずいほうでん)というのに斂(おさ)められている。さきごろの出水に頽(くず)された広瀬(ひろせ)川の堤(どて)を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然(げんぜん)とそびえている。
 わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈(たけ)抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
 彼は五十以上であろう。色のやや蒼(あお)い、痩形(やさがた)の男で、短く苅った鬢(びん)のあたりは斑(まだら)に白く、鼻の下の髭(ひげ)にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣(ひとえもの)に小倉(こくら)の袴(はかま)を着けて、白足袋(たび)に麻裏の草履(ぞうり)を穿(は)いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
 わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記(しる)した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面(おもて)を掠(かす)めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉(せみ)が破(や)れた笛を吹くように咽(むせ)んでいた。
 さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭(こうべ)をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝(らいはい)していた。
 私の眼からは涙がこぼれた。
 この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒(ざら)しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
 土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯(きょうがみね)の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄(きよ)めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
 こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。

 林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿(むくげ)の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
 黒い門柱がぬっと立ったままで、扉(とびら)は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅(さるすべり)の大木が真紅(まっか)に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎(ろくむさい)友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑(しおん)や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政(だじょう)大臣三条実美(さんじょうさねとみ)篆額(てんがく)、斎藤竹堂(さいとうちくどう)撰文、一方は陸奥守(むつのかみ)藤原慶邦(ふじわらよしくに)篆額、大槻磐渓(おおつきばんけい)撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立(きつりつ)している。なにさま堂々たるものである。
 林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽(くず)れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
 わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。

 ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
 案内を乞うと、白地の単衣(ひとえもの)を着た束髪(そくはつ)の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪(たけやぶ)に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
 墓地を左に折れると、石の柵(さく)をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五輪(りん)の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所(ありか)も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風(ふう)・空(くう)の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
 この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺(あたり)に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹(つつし)んで墓の前に供えた。
 秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。

     三人の女

 仙台や塩竈(しおがま)や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
 塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」の付近に比丘尼(びくに)坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
 伝えて云う。天慶(てんぎょう)の昔、平将門(たいらのまさかど)が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太(たわらとうた)の矢先にかかった。娘は陸奥(みちのく)に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵(いおり)を結んで、謀叛(むほん)人と呼ばれた父の菩提(ぼだい)を弔(とむら)いながら、往き来の旅人(たびびと)に甘酒を施していた。比丘尼塚の主(ぬし)はこの尼であると。
 わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬(そうま)へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王(へいしんのう)将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥(むつ)の秋風に法衣(ころも)の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
 鎌倉(かまくら)の東慶(とうけい)寺には、豊臣秀頼(とよとみひでより)の忘れ形見という天秀尼(てんしゅうに)の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷(にな)って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘瀧夜叉姫(たきやしゃひめ)よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
 尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧(おぼろ)月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人(あきうど)が、ここの軒にたたずんで草鞋(わらじ)の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由(よし)なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻(せば)められた謀叛(むほん)人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
 かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎(しぼ)んだ白菊であった。

 これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
 松島の観音堂のほとりに「軒場(のきば)の梅」という古木がある。紅蓮尼(こうれんに)という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行(さいぎょう)法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟(でわのくにきさがた)の町に生まれた、商人(あきうど)の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音詣(もう)でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥(むつ)松島の掃部(かもん)という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂(たもと)を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
 その時に、象潟の商人は尽きぬ名残(なごり)を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦(むつ)み暮らそうではないか。
 掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎(こたろう)は我が不在(るす)の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢(はか)なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯(き)かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已(すで)に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
 哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難(ひなん)しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気(けなげ)な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
 子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
 観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵(いおり)を結んだ。
さけかしな今はあるじと眺むべし
     軒端の梅のあらむかぎりは
 嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
 比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸(げこ)のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。

 最後には「先代萩」で名高い政岡(まさおか)を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本(まるほん)で名高い局(つぼね)政岡とは三沢初子(みさわはつこ)のことだそうで、その墓は榴(つつじ)ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
 初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達綱宗(つなむね)の側室(そばめ)で、その子の亀千代(かめちよ)(綱村(つなむら))が二歳で封(ほう)をつぐや、例のお家騒動が出来(しゅったい)したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達安芸(あき)らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡(あさおか)で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
 こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽(たちま)ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母(めのと)ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
 仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿(むくげ)の籬(まがき)とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。

     塩竈神社の神楽

 わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧(あお)暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙(いろがみ)で造った花紅葉(はなもみじ)を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕(たなばた)の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻(しき)りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
 その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹(ばいたらようじゅ)や、泉の三郎の鉄燈籠(かなどうろう)や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽(かぐら)堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
 同行の麗水(れいすい)・秋皐(しゅうこう)両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中(さなか)であった。果たして神楽というのか、舞楽(ぶがく)というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
 囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗(しょうき)のような、烏天狗(からすてんぐ)のような、一種不可思議の面(おもて)を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣(ひとえもの)を袒(はだ)ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅(あか)で染められた唐草模様の襦袢(じゅばん)(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲(かさ)ねていた。頭には黒または唐黍(もろこし)色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘(ざや)の刀を佩(さ)していた。
 この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃(はや)しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞(ことば)が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗(すこぶ)る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅(こが)なものであった。
 かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川(いいのがわ)の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
 私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。

     孔雀船の舟唄

 塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰(ほうおう)丸と孔雀(くじゃく)丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
 伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二艘(そう)の御座船(ござぶね)を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即(すなわ)ちそれである。風流の仙台太守(たいしゅ)は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型(ひながた)に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
 われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来(しゅったい)を急いだ為に船べりに黒漆(こくしつ)を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に何の注意をも払わなかった。
 船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森(もり)知事が起(た)って、かの老人たちを紹介した。今日(こんにち)この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節(ひとふし)を聴いて貰いたいとのことであった。
 素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔(けいけん)の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭(あか)かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説(よろいくど)き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
□やら目出たやな。初春の好き日をとしの着長(きせなが)は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも軍(いくさ)に勝色(かついろ)の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、冑(かぶと)の星の菊の座も、えい、華やかにこそ威毛(おどしげ)の、思ふ仇(かたき)を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣(つるぎ)は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。 わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
 政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕(まんまく)が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫(ろ)をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
 それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢(ろかい)を把(と)らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃(かみしも)も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧(ふる)い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
 私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃(たいはい)した古廟に白髪の伶人(れいじん)が端坐して簫(ふえ)の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
 この唄は、この老人たちの生命(いのち)と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
 しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍(なまぬる)い肉声に歌われて、いわゆる緑酒(りょくしゅ)紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優(まし)かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。

     金華山の一夜

 金華山(きんかざん)は登り二十余町、さのみ嶮峻(けんしゅん)な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立(きつりつ)しているので、その眼界はすこぶる闊(ひろ)い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓(ふもと)の霧は山腹の細雨(こさめ)となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
 海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷(らい)が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
 これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴(あ)れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿(おじか)半島にむかって合図の鐘を撞(つ)くと、半島の南端、鮎川(あゆかわ)村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉(やまどり)の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
 こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社(やしろ)の創建は遠い上代(じょうだい)のことで、その年時も明らかでないと云う。尤(もっと)もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯(こ)ういう場所を撰んで、神を勧請(かんじょう)したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光明媚(めいび)の地、もしくは山谷嶮峻の地を相(そう)して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木(こ)の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島(はなれじま)に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻(はば)められて、ほとんど流人(るにん)同様の艱難(かんなん)を嘗(な)めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋(ちひろ)の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
 今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
 雷雨は漸(ようや)くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。(大正2・10「やまと新聞」)[#改ページ]


秋の修善寺


     (一)

(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆(いず)の修善寺(しゅうぜんじ)温泉に浴し、養気館の新井(あらい)方にとどまる。所作為(しょざい)のないままに、毎日こんなことを書く。
 二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖(ふすま)にかいた墨絵の雁(かり)と相対すること約半時間。おちこちに鶏(とり)が勇ましく啼(な)いて、庭の流れに家鴨(あひる)も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
 六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三尺(じゃく)ほどの蓮根(れんこん)をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の室菖蒲(あやめ)の前(まえ)は豆州長岡(ずしゅうながおか)に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内(かわうち)村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太(いのはやた)ほどにもない雑兵葉武者(ぞうひょうはむしゃ)のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈(じょうろう)の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好(よ)い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸(ガラスど)越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
 朝飯をすました後、例の範頼(のりより)の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋(いも)畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花(ひがんばな)がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊(ひいらぎ)や柘植(つげ)などの下枝に掩(おお)われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻(しき)りに鳴いていた。
 この時、この場合、何人(なんぴと)も恍(こう)として鎌倉時代の人となるであろう。
是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

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担当:FIRTREE