三浦老人昔話
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:岡本綺堂 

       二

 それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通りの療治では、とてもいけない。人参をのませれば屹(きっ)と癒ると思うが、それを云って聞かせても所詮無駄だと思ったから、黙って来ました。」
 人参は高価の薬で、うら店(だな)ずまいの者が買い調えられる筈がないから、見殺しは気の毒だと思いながらも、それを教えずに帰って来たというのでした。その話を聴かされて、おつねは喜びもし、嘆きもしました。まったく今の身のうえで高価の人参などを買いとゝのえる力はありません。人参にも色々ありますが、その頃では廉(やす)くとも三両か五両、良い品になると十両二十両とも云うほどの値ですから、なか/\容易に手に入れられるものではない。ましてこの姉弟がどんなに工面しても才覚しても、そんな大金の調達の出来ないのは判り切っています。それでも何うかしておふくろを助けたい一心で、おつねは色々にかんがえ抜いた挙句に、思いついたのが例の身売です。
 人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう/\その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは鳥渡(ちょっと)可愛らしい眼鼻立で、みがき上げれば相当に光りそうな娘なので、自分も自然そんな気になったのかも知れません。それでも迂濶にそんなことは出来ませんから、念のために医者の家へ行って、おふくろの命は屹(きっ)と人参で取留められるでしょうかと聞きますと、十に九つまでは請合うと桂斎先生が答えたそうです。おつねは喜んで帰って来て、弟にその話をすると、久松も喜んだり嘆いたりで、しばらくは思案に迷ったのですが、姉の決心が固いのと、それより外には人参代を調達する智慧も工夫もないのとで、これもとう/\思い切って、姉に身売をさせることになってしまいました。
 おつねは長屋の人にたのんで、山谷(さんや)あたりにいる女衒(ぜげん)に話して貰って、よし原の女郎屋へ年季一杯五十両に売られることになりました。家の名は知りませんが、大町小店(だいちょうこみせ)で相当に流行る店だったそうです。式(かた)のごとくに女衒の判代や身付(みづき)の代を差引かれましたが、残った金を医者のところへ持って行って、宜しくおねがい申しますと云うと、桂斎先生は心得て、そのうちから八両とかを受取って、すぐに人参を買って病人に飲ませてくれたが、おふくろの病気は矢はりよくならない。久松も心配して、色々に医者にせがむので、先生はまた十両をうけ取って人参を調剤したのですが、それも験(げん)がみえない。おふくろはいよ/\悪くなるばかりで、それから半月ほどの後にとう/\此世の別れになってしまったので、久松は泣いても泣き尽せない位で、とりあえず吉原の姉のところへ知らせてやりましたが、まだ初店(はつみせ)ですから出てくることは出来ません。長屋の人たちの手をかりて、久松は兎もかくもおふくろの葬式をすませました。
 こうなると、おつねの身売は無駄なことになったようなわけで、これから十年の長いあいだ苦界(くがい)の勤めをしなければならないのですから、姉思いの久松は身を切られるように情(なさけ)なく思いました。それから惹いて、医者を怨むような気にもなりました。
「人参をのませれば屹(きっ)と癒ると請合って置きながら、あの医者はおふくろを殺した。それがために姉さんまでが吉原へ行くようになった。あの医者の嘘つき坊主め。あいつはおふくろの仇だ。姉さんのかたきだ。」
 今日(こんにち)はそんなこともありませんが、病人が死ぬとその医者を怨むのが昔の人情で、川柳にも「見す/\の親のかたきに五分礼(ふんれい)」などというのがあります。まして斯ういう事情が色々にからんでいるので、年の行かない久松は一層その医者を怨むようにもなり、自然それを口に出すようにもなったので、糸屋の主人は久松に同情もし、また意見もしました。
「人間には寿命というものがある。人参を飲んで屹(きっ)と癒るものならば、高貴のお方は百年も長命する筈だが、そうはならない。公方(くぼう)様でもお大名でも、定命(じょうみょう)が尽きれば仕方がない。金の力でも買われないのが人の命だ。人参まで飲ませても癒らない以上は、もうあきらめるの外はない。むやみに医者を怨むようなことを云ってはならない。」
 理窟はその通りですが、どうも久松には思い切りが付きませんでした。姉の身売の金がまだ幾らか残っているのを主人にあずけて、自分は相変らず奉公していましたが、おふくろは此世に無し、姉には逢われず、まったく頼りのないような身の上になってしまったので、久松はもう働く張合もぬけて、ひどく元気のない人間になりました。毎月おふくろの墓まいりに行って、泣いて帰るのがせめてもの慰めで、いっそ死んでしまおうかなどと考えたこともありましたが、姉は生きている。年季が明ければ姉は吉原から帰ってくる。それを楽みに、久松はさびしいながらも矢はり生きていました。
 そのうちに、又こんなことが久松の耳に這入りました。初めておふくろの病気をみていた小池という医者が、途中で取換えられたのを面白く思っていなかったのでしょう、それに同商売忌敵(いみがたき)というような意味もまじっていたのでしょう。その後近所の人達にむかって、あの病人に人参をのませて何になる。いくら人参だと云っても万病に効のあるというものではない。利かない薬をあてがうのは、見す/\病家に無駄な金を使わせるようなものだ。高価な薬をあたえれば、医者のふところは膨らむが、病家の身代は痩せる。医は仁術で、金儲け一点張りではいけないなどと云う。それが自然に久松にもきこえましたから、いよ/\心持を悪くしました。それでは桂斎の医者坊主め、みす/\利かないのを知っていながら、金儲けのために高い人参を売り付けたのかも知れないという疑いも起ってくる。桂斎先生は決してそんな人物ではないのですが、ふだんから怨んでいるところへ前のような噂が耳にひゞくので、年の行かない久松としては、そんな疑いを起すのも無理はありません。商売の累(わずら)いと云いながら、桂斎先生も飛んだ敵(かたき)をこしらえてしまいました。
 それでもまあそれだけのことならば、蔭で怨んでいるだけで済んだのですが、桂斎先生のためにも、久松姉弟のためにも、こゝに又とんでもない事件が出来(しゅったい)したのです。それはその年十月の大地震――この地震のことはどなたも御承知ですから改めて申上げませんが、江戸中で沢山の家が潰れる、火事が起る、死人や怪我人が出来る。そのなかでも吉原の廓(くるわ)は丸潰れの丸焼けで、こゝだけでもおびたゞしい死人がありました。おつねの勤めている店も勿論つぶれて、おつねは可哀そうに焼け死にました。久松の店も潰れたが、幸いに怪我人はありませんでした。桂斎先生の家は半分かたむいたゞけで、これも運よく助かりました。
 おふくろは死ぬ、それから半年ばかりのうちに姉もつゞいて死んだので、久松は一人法師(ぼっち)になってしまいました。おふくろのない後は、たゞ一本の杖柱とたのんでいた姉にも死別れて、久松はいよ/\力がぬけ果てゝ、自分ひとりの助かったのを却って悔むようになりました。おまけに姉のおつねが以前奉公していた芝口の酒屋は、土台がしっかりしていたと見えて、今度の地震にも家根瓦をすこし震い落されたゞけでびくともせず、運よく火事にも焼け残ったので、久松はいよ/\あきらめ兼ねました。姉も今までの主人に奉公していれば無事であったものを、吉原へ行ったればこそ非業の死を遂げたのである。姉はなんのために吉原へ売られて行ったのか。高価の人参は母の病を救い得ないばかりか、却って姉の命をも奪う毒薬になったのかと思うと、久松は日本朝鮮にあらんかぎりの人参を残らず焼いてゞもしまいたい程に腹が立ちました。その人参を売りつけた医者坊主がます/\憎い奴のように思われて来ました。
 糸屋の店では一旦小梅の親類の家(うち)へ立退いたので、久松も一緒に附いて行きました。場所柄だけに、店の方はすぐに仮普請に取りかゝって、十二月には兎もかくも商売をはじめるようになったので、主人や店の者は日本橋へ戻りましたが、焼跡の仮小屋同様のところでは女子供がこの冬を過されまいというので、主人の女房や娘子供は矢はり小梅の方に残っていることになりました。それがために小僧もひとり残されることになったので、久松がその役にあたって、あくる年の正月を小梅で迎えました。そのうちに三月の花が咲いて、陽気もだん/\にあたゝかくなり、世間の景気も春めいて来たので、主人の家族もみんなこゝを引払うことになって、久松もはじめて日本橋の店へ戻ってくると、土地が近いだけに憎い怨めしい医者坊主めのことが一層強く思い出されます。勿論、小梅にいるあいだも毎日忘れたことはなかったのですが、近間へ戻ってくると又一倍にその執念が強くなって来ました。
 三月末の陰(くも)った日に、久松が店の使で表へ出ると、途中で丁度、桂斎先生に逢いました。はっと思いながらも、よんどころなしに会釈をすると、先生の方では気が注かなかったのか、それともそんな小僧の顔はもう見忘れてしまったのか、素知らぬ風でゆき過ぎたので、久松は赫(かっ)となりました。使をすませて主人の店へ一旦帰って、奥にいる女房のまえに出て、去年からあずけてある金のうちで一両だけを渡して貰いたいと云いました。なんにするのだと聞くと、おふくろの一周忌がもう近づいたから、お長屋の人にたのんで石塔をこしらえて貰うのだという返事です。久松の孝行は女房もかねて知っているので、それは奇特のことだと云ってすぐに一両の金を出してやると、久松はそれを持って再び表へ出ましたが、もとの長屋へは行かないで、近所の刀屋へ行って道中指のような脇差を一本買いました。
 その脇差をふところに忍ばせて、久松は新乗物町へ行って桂斎先生の出入りをうかゞっていると、日のくれる頃から春雨が音もせずに降って来ました。先生の出て行くところを狙ったのですが、どうも工合が悪かったので、雨にぬれながら親父橋(おやじばし)の袂に立っていて、その帰るところを待ちうけて、今年十五の小僧が首尾よく相手を仕留めたのです。
 久松はそれから人形町通りの店へ帰って、平気でいつもの通りに働いていたのですが、間もなく吉五郎という人の手で召捕られました。町奉行所の吟味に対して、あの桂斎という藪医者はおふくろと姉の仇(かたき)だから殺しましたと、久松は悪びれずに申立てたそうです。なにぶんにもまだ十六にも足らない者ではあり、係りの役人達も大いにその情状を酌量してくれたのですが、理窟の上から云えば筋違いで、そんなことで一々かたき討をされた日には、医者の人種(ひとだね)が尽きてしまうわけですから、どうしても正当のかたき討と認めることは出来ないのでした。
「それにしても、母と姉との仇討ならば、なぜすぐに自訴して出なかったか。」と、係りの役人は聞きました。
 かたきを討ってから、久松は川づたいに逃げ延びて、人の見ないところで脇差を川のなかへ投げ込んで、自分もつゞいて川へ飛び込もうとすると、暗い水のうえに姉のおつねが花魁(おいらん)のような姿でぼんやりあらわれて、飛び込んではならないと云うように頻りに手を振るので、死のうとする気は急に鈍った。かんがえてみると、今こゝで自分が死んでしまえば、おふくろや姉の墓まいりをする者はなくなる。迂濶に死急ぎをしてはならない。生きられるだけは生きているのがおふくろや姉への孝行だと思い直して、早々にそこを立去って、なに食わぬ顔をして主人の店へ戻っていたと、久松はこう申立てたそうです。姉のすがたが見えたか見えないか、それは勿論わかりませんが、或は久松の眼にはほんとうに見えたのかも知れません。
 奉行所ではその裁き方によほど困ったようでした。唯の意趣斬にするのも不便、さりとて仇討として赦すわけにも行かないので、一年あまりもそのまゝになっていましたが、安政四年の夏になって、久松はいよ/\遠島ということにきまりました。島へ行ってから何うしたか知りませんが、おそらく赦(しゃ)に逢って帰ったろうと思います。
[#改段]

置いてけ堀

       一

「躑躅(つゝじ)がさいたら又おいでなさい。」
 こう云われたのを忘れないで、わたしは四月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅い襷の女中達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸(かめいど)の藤、それから堀切(ほりきり)の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利がいゝ方であるので、下町からわざ/\上(のぼ)ってくる見物もなか/\多かった。藤や菖蒲は単にその風趣を賞するだけであったが、躑躅には色々の人形細工がこしらえてあるので、秋の団子坂の菊人形と相対して、夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。
 ふだんは寂しい停車場にも、きょうは十五六台の人車(くるま)が列んでいて、つい眼のさきの躑躅園まで客を送って行こうと、うるさいほどに勧めている。茶屋の姐さんは呼ぶ、車夫(くるまや)は附き纏う、そのそう/″\しい混雑のなかを早々に通りぬけて、つゝじ園のつゞいている小道を途中から横にきれて、おなじみの杉の生垣のまえまで来るあいだに、私はつゝじのかんざしをさしている女たちに幾たびも逢った。
 門をあけて、いつものように格子の口へゆこうとすると、庭の方から声をかけられた。
「どなたです。すぐに庭の方へおまわりください。」
「では、御めん下さい。」
 わたしは枝折戸をあけて、すぐに庭先の方へまわると、老人は花壇の芍薬の手入れをしているところであった。
「やあ、いらっしゃい。」
 袖にまつわる虻(あぶ)を払いながら、老人は縁さきへ引返して、泥だらけの手を手水鉢(ちょうずばち)で洗って、わたしをいつもの八畳の座敷へ通した。老人は自分で起って、忙しそうに茶を淹(い)れたり、菓子を運んで来たりした。それがなんだか気の毒らしくも感じられたので、私はすゝめられた茶をのみながら訊いた。
「きょうはばあやはいないんですか。」
「ばあやは出ましたよ。下町にいるわたくしの娘が孫たちをつれて躑躅を見にくるとこのあいだから云っていたのですが、それが今日の日曜にどや/\押掛けて来たもんですから、ばあやが案内役で連れ出して行きましたよ。近所でいながら燈台下暗しで、わたくしは一向不案内ですが、今年も躑躅はなか/\繁昌するそうですね。あなたもこゝへ来がけに御覧になりましたか。」
「いゝえ。どこも覗きませんでした。」と、わたしは笑いながら答えた。
「まっすぐにこゝへ。」と、老人も笑いながらうなずいた。「まあ、まあ、その方がお利口でしょうね。いくら人形がよく出来たところで、躑躅でこしらえた牛若弁慶五条の橋なんぞは、あなた方の御覧になるものじゃありますまいよ。はゝゝゝゝゝ。」
「しかし、お客来(きゃくらい)のところへお邪魔をしましては。」
「なに、構うものですか。」と、老人は打消すように云った。
「決して御遠慮には及びません。あの連中が一軒一軒に口をあいて見物していた日にはどうしても半日仕事ですから、めったに帰ってくる気づかいはありませんよ。わたくし一人が置いてけ堀(ぼり)をくって、退屈しのぎに泥いじりをしているところへ、丁度あなたが来て下すったのですから、まあゆっくりと話して行ってください。」
 老人はいつもの通りに元気よく色々のむかし話をはじめた。老人が唯(た)った今、置いてけ堀をくったと云ったのから思い出して、わたしは彼の「置いてけ堀」なるものに就いて質問を出すと、かれは笑いながら斯う答えた。

 置いてけ堀といえば、本所七不思議のなかでも、一番有名になっていますが、さてそれが何処だということは確かに判っていないようです。一体、本所の七不思議というのからして、ほんとうには判っていないのです。誰でも知っているのは、置いてけ堀、片葉の芦、一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷ぐらいのもので、ほかの二つは頗る曖昧です。ある人は津軽家の太鼓、消えずの行燈だとも云いますし、ある書物には津軽家の太鼓を省いて、松浦家の椎の木を入れています。又ある人は足洗い屋敷を省いて、津軽と松浦と消えずの行燈とをかぞえているようです。この七不思議を仕組んだものには「七不思議葛飾譚(かつしかものがたり)」という草双紙がありましたが、それには何々をかぞえてあったか忘れてしまいました。所詮無理に七つの数にあわせたのでしょうから、一つや二つはどうでもいゝので、その曖昧なところが即ち不思議の一つかも知れません。
 そういうわけですから、置いてけ堀だって何処のことだか確かには判らないのです。御承知の通り、本所は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で今道心(いまどうしん)をたずねるようなもので、なか/\知れそうもありません。元来この置いてけ堀というにも二様の説があります。その一つは、その辺に悪(わる)旗本の屋敷があって、往来の者をむやみに引摺り込んでいかさま博奕をして、身ぐるみ脱いで置いて行かせるので、自然に置いてけ堀という名が出来たというのです。もう一つは、その辺の堀に何か怪しい主(ぬし)が棲んでいて、日の暮れる頃に釣師が獲物の魚をさげて帰ろうとすると、それを置いて行けと呼ぶ声が水のなかで微かにきこえると云うのです。どっちがほんとうか知りませんが、後の怪談の方が広く世間に伝わっていて、わたくし共が子供のときには、本所へ釣に行ってはいけない、置いてけ堀が怖いぞと嚇(おど)かされたものでした。
 その置いてけ堀について、こんなお話があります。嘉永二年酉歳(とりどし)の五月のことでした。本所入江町の鐘撞堂の近辺に阿部久四郎という御家人がありまして、非番の時にはいつでも近所の川や堀へ釣に出る。と云うと、大変に釣道楽のようにもきこえますが、実はそれが一つの内職で、釣って来た鯉や鮒はみんな特約のある魚屋へ売ってやることになっているのです。武士は食わねど高楊枝などと云ったのは昔のことで、小身の御家人たちは何かの内職をしなければ立ち行きませんから、みなそれぞれに内職をしていました。四谷怪談の伊右衛門のように傘を張るのもあれば、花かんざしをこしらえるのもある。刀をとぐのもあれば、楊子を削るのもある。提灯を張るのもある。小鳥を飼うのもあれば、草花を作るのもある。阿部という人が釣に出るのも矢はりその内職でしたが、おなじ内職でも刀を磨いたり[#「磨いたり」は底本では「磨いだり」]、魚を釣ったりしているのは、まあ世間体のいゝ方でした。
 五月は例のさみだれが毎日じめ/\降る。それがまた釣師の狙い時ですから、阿部さんはすっかり簑笠のこしらえで、びくと釣竿を持って、雨のふるなかを毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本杭(ぐい)には鯉の寄りがわるい。綾瀬の方まで上るのは少し足場が遠いので、このごろは専ら近所の川筋をあさることにしていました。そこで、五月のなかば、何でも十七八日ごろのことだそうです。その日は法恩寺橋から押上(おしあげ)の方へ切れた堀割の川筋へ行って、朝から竿をおろしていると、鯉はめったに当らないが、鰻や鯰(なまず)が面白いように釣れる。内職とは云うものゝ、もと/\自分の好きから始めた仕事ですから、阿部さんは我を忘れて釣っているうちに、雨のふる日は早く暮れて、濁った水のうえはだん/\に薄暗くなって来ました。
 今とちがって、その辺は一帯の田や畑で、まばらに人家がみえるだけですから、昼でも随分さびしいところです。まして此頃は雨がふり続くので、日が暮れかゝったら滅多に人通りはありません。阿部さんは絵にかいてある釣師の通りに、大きい川柳をうしろにして、若い芦のしげった中に腰をおろして、糸のさきの見えなくなるまで釣っていましたが、やがて気がつくと、あたりはもう暮れ切っている。まだ残り惜しいがもうこゝらで切上げようかと、水に入れてあるびくを引きあげると、ずっしりと重い。
 きょうは案外の獲物があったなと思う途端に、どこかで微かな哀れな声がきこえました。
「置いてけえ。」
 阿部さんもぎょっとしました。子供のときから本所に育った人ですから、置いてけ堀のことは勿論知っていましたが、今までこゝらの川筋は大抵自分の釣場所にしていても、曽て一度もこんな不思議に出逢ったことは無かったのに、きょう初めてこんな怪しい声を聴いたというのはまったく不思議です。しかし阿部さんは今年二十二の血気ざかりですから、一旦はぎょっとしても、又すぐに笑い出しました。
「はゝ、おれもよっぽど臆病だとみえる。」
 平気でびくを片附けて、それから釣竿を引きあげると、鈎(はり)にはなにか懸っているらしい。川蝦でもあるかと思って糸を繰りよせてみると、鈎のさきに引っかゝっているのは女の櫛でした。ありふれた三日月型の黄楊(つげ)の櫛ですが、水のなかに漬かっていたにも似合わず、油で気味の悪い程にねば/\していました。
「あゝ、又か。」
 阿部さんは又すこし厭な心持になりました。実をいうと、この櫛は午(ひる)前に一度、ひるすぎに一度、やはり阿部さんの鈎にかゝったので、その都度に川のなかへ投げ込んでしまったのです。それがいよ/\釣仕舞というときになって、又もや三度目で鈎にかゝったので、阿部さんも何だか厭な心持になって、うす暗いなかでその櫛を今更のように透して見ました。油じみた女の櫛、誰でもあんまり好い感じのするものではありません。殊にそれが川のなかから出て来たことを考えると、ます/\好い心持はしないわけです。隠亡堀(おんぼうぼり)の直助権兵衛という形で、阿部さんはその櫛をじっと眺めていると、どこからかお岩の幽霊のような哀れな声が又きこえました。
「置いてけえ。」
 今までは知らなかったが、それではこゝが七不思議の置いてけ堀であるのかと、阿部さんは屹(きっ)と眼を据えてそこらを見まわしたが、暗い水の上にはなんにも見えない、細い雨が音もせずにしと/\と降っているばかりです。阿部さんは再び自分の臆病を笑って、これもおれの空耳であろうと思いながら、その櫛を川のなかへ投げ込みました。
「置いていけと云うなら、返してやるぞ。」
 釣竿とびくを持って、笑いながら行きかけると、どこかで又よぶ声がきこえました。
「置いてけえ。」
 それをうしろに聞きながして、阿部さんは平気ですた/\帰りました。

       二

 小身と云っても場末の住居(すまい)ですから、阿部さんの組屋敷は大縄(おおなわ)でかなりに広い空地を持っていました。お定まりの門がまえで、門の脇にはくゞり戸がある。両方は杉の生垣で、丁度唯今のわたくしの家(うち)のような恰好に出来ています。門のなかには正面の玄関口へ通うだけの路を取って、一方はそこで相撲でも取るか、剣術の稽古でもしようかと云うような空地(あきち)、一方は畑になっていて、そこで汁の実の野菜でも作ろうというわけです。阿部さんはまだ独身で、弟の新五郎は二三年まえから同じ組内の正木という家へ養子にやって、当時はお幾という下女と主従二人暮しでした。
 お幾という女は今年二十九で、阿部さんの両親が生きているときから奉公していたのですが、嫁入先があるというので、一旦ひまを取って国へ帰ったかと思うと、半年ばかりで又出て来て、もとの通りに使って貰うことになって、今の阿部さんの代まで長年(ちょうねん)しているのでした。容貌(きりょう)はまず一通りですが、幾年たっても江戸の水にしみない山出しで、その代りにはよく働く。女のいない世帯のことを一手に引受けて、そのあいだには畑も作る。もと/\小身のうえに、独身で年のわかい阿部さんは、友だちの附合や何かで些(ちっ)とは無駄な金もつかうので、内職の鯉や鰻だけではなか/\内証が苦しい。したがって、下女に払う一年一両の給金すらも兎角とゞこおり勝になるのですが、お幾は些とも厭な顔をしないで、まえにも云う通り、見得にも振りにも構わずに、世帯のことから畑の仕事まで精出して働くのですから、まったく徳用向きの奉公人でした。
「お帰りなさいまし。」
 くゞり戸を推して這入る音をきくと、お幾はすぐに傘をさして迎いに出て来て、主人の手から重いびくをうけ取って水口の方へ持って行く。阿部さんも簑笠でぐっしょり濡れていますから、これも一緒に水口へまわると、お幾は蝋燭をつけて来て、大きい盥に水を汲み込んで、びくの魚を移していたが、やがて小声で「おやっ」と云いました。
「旦那さま。どうしたのでございましょう。びくのなかにこんなものが……。」
 手にとって見せたのは黄楊(つげ)の櫛なので、阿部さんも思わず口のうちで「おやっ」と云いました。それはたしかに例の櫛です。三度目にも川のなかへ抛り込んで来た筈だのに、どうしてそれが又自分のびくのなかに這入って来たのか。それとも同じような櫛が幾枚も落ちていて、何かのはずみでびくのなかに紛れ込んだのかも知れないと思ったので、阿部さんは別にくわしいことも云いませんでした。
「そんなものが何うして這入ったのかな。掃溜へでも持って行って捨てゝしまえ。」
「はい。」
 とは云ったが、お幾は蝋燭のあかりでその櫛をながめていました。そうして、なんと思ったか、これを自分にくれと云いました。
「まだ新しいのですから、捨てゝしまうのは勿体のうございます。」
 櫛を拾うのは苦を拾うとか云って、むかしの人は嫌ったものでした。お幾はそんなことに頓着しないとみえて、自分が貰いたいという。阿部さんは別に気にも止めないで、どうでも勝手にするがいゝと云うことになりました。きょうは獲物が多かったので、盥のなかには鮒や鯰やうなぎが一杯になっている。そのなかには可成りの目方のありそうな鰻もまじっているので、阿部さんもすこし嬉しいような心持で、その二三匹をつかんで引きあげて見ているうちに、なんだかちくりと感じたようでしたが、それなりに手を洗って居間へ這入りました。夕飯の支度は出来ているので、お幾はすぐに膳ごしらえをしてくる。阿部さんはその膳にむかって箸を取ろうとすると、急に右の小指が灼けるように痛んで、生血がにじみ出しました。
「痛い、痛い。どうしたのだろう。」
 主人がしきりに痛がるので、お幾もおどろいてだん/\詮議すると、たった今、盥のなかの鰻をいじくっている時に、なにかちくりと触ったものがあるという。そこで、お幾は再び蝋燭をつけて、台所の盥をあらためてみると、鰻のなかには一匹の蝮(まむし)がまじっていたので、びっくりして声をあげました。
「旦那様、大変でございます。蝮が這入っております。」
「蝮が……。」と、阿部さんもびっくりしました。まさかに自分の釣ったのではあるまい。そこらの草むらに棲んでいた蝮がびくのなかに這入りこんでいたのを、鰻と一緒に盥のなかへ移したのであろう。お幾は運よく咬まれなかったが、自分は鰻をいじくっているうちに、指が触って咬まれたのであろう。これは大変、まかり間違えば命にもかゝわるのだと思うと、阿部さんも真青になって騒ぎ出しました。
「お幾。早く医者をよんで来てくれ。」
「蝮に咬まれたら早く手当をしなければなりません。お医者のくるまで打っちゃって置いては手おくれになります。」
 お幾は上総(かずさ)の生れで、こういうことには馴れているとみえて、すぐに主人の痛んでいる指のさきに口をあてゝ、その疵口から毒血をすい出しました。それから小切(こぎれ)を持ち出して来て、指の附根をしっかりと縛(くゝ)りました。それだけの応急手当をして置いて、雨のふりしきる暗いなかを医者のところへ駈けて行きました。阿部さんは運がよかったのです。お幾がすぐにこれだけの手当をしてくれたので、勿論その命にかゝわるような大事件にはなりませんでした。医者が来て診察して、やはり蝮の毒とわかったので、小指を半分ほど切りました。その当時でも、医者はそのくらいの療治を心得ていたのです。
 大難が小難、小指の先ぐらいは吉原の花魁(おいらん)でも切ります。それで命が助かれば実に仕合せと云わなければなりません。医者もこれで大丈夫だと受合って帰り、阿部さんもお幾も先ずほっとしましたが、なるべく静かに寝ていろと医者からも注意されたので、阿部さんはすぐに床を敷かせて横になりました。本所は蚊の早いところですから、四月の末から蚊帳を吊っています。阿部さんは蚊帳のなかでうと/\していると、気のせいか、すこしは熱も出たようです。宵から雨が強くなったとみえて、庭のわか葉をうつ音がぴしゃ/\ときこえます。すると、どことも無しに、こんな声が阿部さんの耳にきこえました。
「置いてけえ。」
 かすかに眼をあいて見まわしたが、蚊帳の外には誰もいないらしい。やはり空耳だと思っていると、又しばらくして同じような声がきこえました。
「置いてけえ。」
 阿部さんも堪らなくなって飛び起きました。そうして、あわたゞしくお幾をよびました。
「おい、おい。早く来てくれ」
 広くもない家ですから、お幾はすぐに女部屋から出て来ました。
「御用でございますか。」
 蚊帳越しに枕もとへ寄って来たお幾の顔が、ほの暗い行燈の火に照されて、今夜はひどく美しくみえたので、阿部さんも変に思ってよく見ると、やはりいつものお幾の顔に相違ないのでした。
「誰かそこらに居やしないか。よく見てくれ。」
 お幾はそこらを見まわして、誰もいないと云ったが、阿部さんは承知しません。次の間から、納戸から、縁側から、便所から、しまいには戸棚のなかまでも一々あらためさせて、鼠一匹もいないことを確かめて、阿部さんも先ず安心しました。
「まったくいないか。」
「なんにも居りません。」
 そういうお幾の顔が又ひどく美しいようにみえたので、阿部さんはなんだか薄気味悪くなりました。まえにも云う通り、お幾は先ず一通りの容貌(きりょう)で、決して美人というたぐいではありません。殊に見得にも振りにもかまわない山出しで、年も三十に近い。それがどうしてこんなに美しく見えるのか、毎日見馴れているお幾の顔を、今さら見違える筈もない。熱があるのでおれの眼がぼうとしているのかも知れないと阿部さんは思いました。
 門のくゞりを推す音がきこえたので、お幾が出てみると、主人の弟の正木新五郎が見舞に来たのでした。お幾は医者へ行く途中で、正木の家の中間に出逢ったので、主人が蝮に咬まれたという話をすると、中間もおどろいて注進に帰ったのですが、生憎に新五郎はその時不在で、四つ(午後十時)近い頃にようやく戻って来て、これもその話におどろいて夜中すぐに見舞にかけ着けて来たというわけです。新五郎は今年十九ですが、もう番入りをして家督を相続していました。兄よりは一嵩(ひとかさ)も大きい、見るから強そうな侍でした。
「兄さん。どうした。」
「いや、ひどい目に逢ったよ。」
 兄弟は蚊帳越しで話していると、そこへお幾が茶を持って来ました。その顔が美しいばかりでなく、阿部さんの眼のせいか、姿までが痩形で、如何にもしなやかに見えるのです。どうも不思議だと思っていると、阿部さんの耳に又きこえました。
「置いてけえ」
 阿部さんは不図かんがえました。
「新五郎。おまえ今夜泊まってくれないか。いや、看病だけならお幾ひとりで沢山だが、おまえには別に頼むことがある。おれの大小や、長押(なげし)にかけてある槍なんぞを、みんな何処かへ隠してくれ。そうして万一おれが不意にあばれ出すようなことがあったら、すぐに取って押さえてくれ。おとなしく云うことを肯かなかったら、縄をかけて厳重に引っくゝってくれ。かならず遠慮するな。屹(きっ)とたのむぞ。」
 なんの訳かよく判らないが、新五郎は素直に受合って、兄の指図通りに大小や槍のたぐいを片附けてしまいました。自分はこゝに泊り込むつもりですから新五郎は兄と一つ蚊帳に這入る。用があったら呼ぶからと云って、お幾を女部屋に休ませる。これで家のなかもひっそりと鎮まった。入江町の鐘が九つ(午後十二時)を打つ。阿部さんはしばらくうと/\していましたが、やがて眼がさめると、少し熱があるせいか、しきりに喉が渇いて来ました。女部屋に寝ているものをわざ/\呼び起すのも面倒だと思って、阿部さんはとなりに寝ている弟をよびました。
「新五郎、新五郎。」
 新五郎はよく寝入っているとみえて、なか/\返事をしません。
 よんどころなく大きい声でお幾をよびますと、お幾はやがて起きて来ました。主人の用を聞いて、すぐに茶碗に水を入れて来ましたが、そのお幾の寝みだれ姿というのが又一層艶っぽく見えました。と思うと、また例の声が哀れにきこえます。
「置いてけえ。」
 心の迷いや空耳とばかりは思っていられなくなりました。眼のまえにいるお幾は、どうしてもほんとうのお幾とは見えません。置いてけの声も、こうしてたび/\聞える以上、どうしても空耳とは思われません。阿部さんは起き直って蚊帳越しに訊きました。
「おまえは誰だ。」
「幾でございます。」
「嘘をつけ、正体をあらわせ。」
「御冗談を……。」
「なにが冗談だ。武士に祟ろうとは怪しからぬ奴だ。」
 阿部さんは茶碗を把(と)って叩き付けようとすると、その手は自由に働きません。さっきから寝入った振りをして兄の様子をうかゞっていた新五郎が、いきなり跳ね起きて兄の腕を取押さえてしまったのです。押さえられて、阿部さんはいよ/\焦れ出しました。
「新五郎。邪魔をするな。早く刀を持って来い。」
 新五郎は聴かない振りをして、黙って兄を抱きすくめているので、阿部さんは振り放そうとして身を藻掻きました。
「えゝ、放せ、放せ。早く刀を持って来いというのに……。刀がみえなければ、槍を持って来い。」
 さっきの云い渡しがあるから、新五郎は決して手を放しません。兄が藻掻けば藻掻くほど、しっかりと押さえ付けている。なにぶんにも兄よりは大柄で力も強いのですから、いくら焦っても仕方がない。阿部さんは無暗に藻がき狂うばかりで、おめ/\と弟に押さえられていました。
「放せ。放さないか。」と、阿部さんは気ちがいのように怒鳴りつゞけている。その耳の端では「置いてけえ。」という声がきこえています。
「これ、お幾。兄さんは蝮の毒で逆上したらしい。水を持って来て飲ませろ。」と、新五郎も堪りかねて云いました。
「はい、はい。」
 お幾は阿部さんの手から落ちた茶碗を拾おうとして、蚊帳のなかへからだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の黄楊(つげ)の櫛でした。

「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん/\に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」
「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。
「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう/\判らずじまいであったということです。その櫛と、置いてけえと呼ぶ声と、そこにも何かの関係があるのか無いのか、それもわかりません。櫛と、蝮と、置いてけ堀と、とんだ三題話のようですが、そこに何にも纏まりのついていないところが却って本筋の怪談かも知れませんよ。それでも阿部さんが早く気がついて、なんだか自分の気が可怪(おか)しいようだと思って、前以て弟に取押方をたのんで置いたのは大出来でした。左もなかったら、むやみ矢鱈に刀でも振りまわして、どんな大騒ぎを仕出来(しでか)したかも知れないところでした。阿部さんはそれに懲りたとみえて、その後は内職の釣師を廃業したということです。」
 なるほど老人の云った通り、この長い話を終るあいだに、躑躅見物の女連は帰って来なかった。
[#改段]

落城の譜

       一

「置いてけ堀」の話が一席すんでも、女たちはまだ帰らない。その帰らない間にわたしは引揚げようと思ったのであるが、老人はなか/\帰さない。色々の話がそれからそれへはずんで行った。
「いや、あなたが昨日おいでになると、丁度こゝに面白い人物が来ていたのですがね。その人は森垣幸右衛門と云って――明治以後はその名乗りを取って、森垣道信(みちのぶ)というむずかしい名に換えてしまいましたが――わたくしの久しいお馴染なんです。維新後は一時横浜へ行っていたのですが、その時にかんがえ付いたのでしょう。東京へ帰って来てから時計屋をはじめて、それがうまく繁昌して、今では大森の方へ別荘のようなものをこしらえて、まあ楽隠居という体で気楽に暮しています。なに、わたくしと同じようだと仰しゃるか。どうして、どうして、わたくしなどは何うにか斯うにか息をついていると云うだけで、とても森垣さんの足もとへも寄附かれませんよ。その森垣さんが躑躅見物ながら昨日久しぶりで尋ねてくれて、色々のむかし話をしました。その人にはこういう変った履歴があるのです。まあ、お聴きなさい。」

 わたくしはもうその年月を忘れてしまったのですが、きのう森垣さんに云われて、はっきりと思い出しました。それは文久元年の夏のことで、その頃わたくしは何うも毎晩よく眠られない癖が付きましてね、まあ今日(こんにち)ならば神経衰弱とでも云うのでしょうか、なんだか頭が重っ苦しくって気が鬱(ふさ)いで、なにをする元気もないので、気晴しのために近所の小さい講釈場へ毎日通ったことがありました。今も昔もおなじことで、講釈場の昼席などへ詰めかけている連中は、よっぽどの閑人(ひまじん)か怠け者か、雨にふられて仕事にも出られないという人か、まあそんな手合(てあい)が七分でした。
 わたくしなどもそのお仲間で、特別に講釈が好きというわけでもないのですが、前に云ったような一件で、家(うち)にいてもくさ/\する、さりとて的(あて)なしに往来をぶら/\してもいられないと云うようなことで、半分は昼寝をするような積りで毎日出かけていたのでした。それでも半月以上もつゞけて通っているうちに、幾人も顔なじみが出来て、家にいるよりは面白いということになりました。昼席には定連が多いので、些(ちっ)とつゞけて通っていると、自然と懇意の人が殖えて来ます。その懇意のなかに一人のお武家がありました。
 お武家は三十二三のお国風の人で、袴を穿いていませんが、いつも行儀よく薄羽織をきていました。勤番の人でもないらしい。おそらく浪人かと思っていましたが、この人もよほど閑(ひま)な体だとみえて、大抵毎日のように詰めかけている。しかもわたくしの隣に坐っていることも屡□あるので、自然特別に心安くなりましたが、どこの何ういう人だか云いもせず聞きもせず、たゞ一通りの時候の挨拶や世間話をするくらいのことでした。ところが、ある日の高座で前講(ぜんこう)のなんとかいう若い講釈師が朝鮮軍記の碧蹄館(へきていかん)の戦いを読んだのです。
 明(みん)の大軍三十万騎が李如松(りじょしょう)を大将軍として碧蹄館へくり出してくる。日本の方では小早川隆景、黒田長政、立花宗茂と云ったような九州大名が陣をそろえて待ちうける。いや、とてもわたくしが修羅場をうまく読むわけには行かないから、張扇(はりおうぎ)をたゝき立てるのは先ずこのくらいにして、さて本文に這入りますと、なにを云うにも敵の大軍が野にも山にも満ち/\ているので、さすがの日本勢もそれを望んで少しく気怯(おく)れがしたらしい。大将の小早川隆景が早くもそれを看て取って、味方の勇気を挫かせないために、わざと後(うしろ)向きに陣を取らせた。こうすれば敵はみえない。なるほど巧いことをかんがえたと講釈師は云いますが、嘘かほんとうか、それはあなたの方がよく御承知でしょう。そこで小早川は貝をふく者に云いつけて、出陣の貝を吹かせようとしたが、こいつも少し怯(おび)えているとみえて、貝を持つ手がふるえている。これはいけない。勇気をはげます貝の音が万一いつもよりも弱いときは、ます/\士気を弱める基(もとい)であると思ったので、小早川自身がその法螺貝を取って、馬上で高くふき立てると、それが北風に冴えて、味方は勿論、敵の陣中までもひゞき渡る。明の三十万騎は先ずこれに胆をひしがれて、この戦いに大敗北をするという一条。それを上手な先生がよんだらば定めて面白いのでしょうが、なにしろ前講の若い奴が、横板に飴で、途切れ途切れに読むのですから遣切れません。その面白くないことおびたゞしい。
 おまけに夏の暑い時、日の長い時と来ているのですから、大抵のものは薄ら眠くなって、いゝ心持そうにうと/\と居睡りを始める。そのなかで、彼のお武家だけは膝もくずさないで聴いています。尤もふだんから行儀のいゝ人でしたが、とりわけて今日は行儀を正しくして一心に聴きすましているばかりか、小早川がいよ/\貝をふくという件(くだり)になると、親の遺言を聴くか、ありがたい和尚様のお説教でも聴くときのように、じっと眼をすえて、息をのみ込んで、一心不乱に耳をすましているという形であるので、わたくしも少し不思議に思いました。しかし根がお武家であるので、こういう軍談には人一倍の興を催しているのかとも思って、深くは気にも留めませんでした。
 七つ(午後四時)過ぎに席がはねて、わたくしはそのお武家と一緒に表へ出て、小半町ほども話しながら来ると、このごろの空の癖で、大粒の雨がぽつり/\と降り出して来ました。西の方には夕日が光っているのですから、大したことはあるまいとは思いながらも、丁度わたくしの家の路地のそばでしたから、兎もかくも些(ちっ)とのあいだ雨やどりをしてお出でなさいと、相手が辞退するのを無理に誘って路地のなかにあるわたくしの家へ連れ込みました。連れて来ていゝ事をしました。ふたりが家の格子をくゞると、ゆう立はぶち撒けるように強く降って来ました。
「おかげさまで助かりました。」
 お武家はあつく礼を云って、雨の晴れるまで話していました。やがて時分時になったので、奴豆腐に胡瓜揉みと云ったような台所料理のゆう飯を出すと、お武家はいよ/\気の毒そうに、幾たびか礼を云って箸をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので、それを頼ってこの間から厄介になっているとのことでした。そのうちに雨もやんで、涼しそうな星がちら/\と光って来たので、お武家は繰返して礼を云って帰りました。
 唯それだけのことで、こっちでは左のみ恩にも被せていなかったのですが、そのお武家はひどく義理がたい人とみえて、あくる日の早朝に菓子の折を持って礼に来たので、わたくしもいさゝか恐縮しました。奥へ通して色々の話をしているうちに、双方がます/\打解けて、お武家は自分の身の上話をはじめました。このお武家が前に云った森垣幸右衛門という人で、その頃はまだ内田という苗字であったのです。
 森垣さんは奥州のある大藩の侍で、貝の役をつとめていたのです。いくさの時に法螺貝をふく役です。一口にほらを吹くと云いますけれど、本式に法螺を吹くのはなか/\むずかしい。山伏の法螺でさえ容易でない、まして軍陣の駈引に用いる法螺と来ては更にむずかしい[#「むずかしい」は底本では「むずしい」]ことになっていました。やはり色々の譜があるので、それを専門に学んだものでなければ滅多に吹くことは出来ません。拙者は貝をつかまつると云えば、立派に武士の云い立てになったものです。森垣さんはその貝の役の家に生まれて去年の秋までは無事につとめていたのですが、人間というものは判らないもので、なまじいに貝が上手であったために、飛んでもないことを仕出来すようになったのです。

       二

 貝の役はひとりでなく、幾人もあります。わたくしも素人で詳しいことは知りませんが、やはり貝の師範役というものがあって、それについて子供のときから稽古するのだそうです。森垣さんの藩中では大館(おおだて)宇兵衛という人が師範役でした。その人は貝の名人で、この人が貝を吹くと六里四方にきこえるとか、この人が貝を吹いたら羽黒山の天狗山伏が聴きに来たとか、いろ/\の云い伝えがあるそうです。年を取っても不思議に息のつゞく人でしたが、三年まえに七十幾歳とかいう高齢で死にました。この人に子はありましたが、歯が悪くて貝の役は勤められず、若いときから他の役にまわされていたので、その家にある貝の秘曲を伝え受けることが出来ませんでした。
 わが子にゆずることの出来ないのは初めから判っているので、宇兵衛という人は大勢の弟子のなかから然るべきものを見たてて置きました。見立てられたのが森垣さんで、宇兵衛は自分の死ぬ一年ほど前に、森垣さんを自分の屋敷へよびよせて、貝の秘曲を伝授しました。伝授すると云っても、その譜をかいてある巻物(まきもの)をゆずるのです。座敷のまん中にむかい合って、弟子はその巻物をひろげて一心に見ていると、師匠が一度ふいて聞かせる。たゞそれだけのことですが、秘曲をつたえられるほどの素養のある者ならば、その譜を見ただけでも十分に吹ける筈だそうです。笙の秘曲なぞを伝えるのも矢はりそれだそうで、例の足柄山で新羅三郎義光が笙の伝授をする図に、義光と時秋とがむかい合って笙を吹いているのは間違っていて、義光は笙をふき、時秋は秘曲の巻(まき)を見ているのが本当だということですが、どうでしょうか。
 宇兵衛は三つの秘曲を伝授して、その二つだけは吹いて聞かせましたが、最後の一つは吹かないで、たゞその譜のかいてある巻物をあたえただけでした。
「これは一番大切なものであって、しかも妄りに吹くことは出来ぬものである。万一の場合のほかは決して吹くな。おれも生涯に一度も吹いたことは無かった。おまえも吹く時のないように神仏に祈るがよい。」
 それは落城の譜というのでありました。城がいよ/\落ちるというときに、今が最後の貝をふく。なるほど、これは大切なものに相違ありません。そうして、めったに吹くことの出来ないものです。これを吹くようなことがあっては大変です。貝の役としては勿論心得ていなければならないのですが、それを吹くことの無いように祈っていなければなりません。
「万一の場合のほかに決して吹くな。」
 師匠はくり返して念を押すと、森垣さんもかならず吹かないと誓を立てゝ、その譜の巻物をゆずられました。それも畢竟は森垣さんの伎倆が師匠に見ぬかれたからで、芸道の面目、身の名誉、森垣さんも人に羨まれているうちに、その翌年には師匠の宇兵衛が歿しました。こうなると森垣さんの天下で、ゆく/\は師匠のあとを嗣いで師範役をも仰せつけられるだろうと噂されていましたが、前にも云った通り、こゝに飛んでもない事件が出来(しゅったい)したのです。
 森垣さんは師匠から三つの秘曲をつたえられましたが、そのなかで最も大切に心得ろと云われた例の落城の譜――それはどうしても吹くことが出来ない。泰平無事のときに落城の譜をふくと云うことは、城の滅亡を歌うようなもので、武家に取っては此上もない不吉です。ある意味に於いては主人のお家を呪うものとも見られます。師匠が固く戒めたのもそこの理窟で、それは森垣さんも万々心得ているのですが、そこが人情、吹くなと云われると何うも吹いて見たくて堪らない。それでも三年ほどは辛抱していたのですが、もう我慢が仕切れなくなって来ました。うっかり吹いたらばどんなお咎めをうけるかも知れない、まかり間違えば死罪になるかも知れない。それを承知していながら、何分にも我慢が出来ない。どうも困ったことになったものです。
 それでも初めのうちは一生懸命に我慢して、巻物の譜を眺めるだけで堪(こら)えていたのですが、仕舞にはどうしても堪え切れなくなって来ました。なんでも八月十四日の晩だそうです。あしたが十五夜で、今夜も宵から月のひかりが皎々と冴えている。森垣さんは縁側に出てその月を仰いでいると、空は見果てもなしに高く晴れている。露のふかい庭では虫の声がきこえる。森垣さんはしばらくそこに突っ立っているうちに、例の落城の譜のことを思い出すと、もう矢も楯も堪らなくなりました。今夜こそはどうしても我慢が出来なくなりました。
「その時は我ながら夢のようでござった。」と、森垣さんはわたくしに話しました。
 まったく夢のような心持で、森垣さんは奥座敷の床の間にうや/\しく飾ってある革の手箱のなかから彼の巻物をとり出して、それを先ずふところに押込み、ふだんから大切にしている法螺の貝をかゝえ込んで、自分の屋敷をぬけ出しました。夢のようだとは云っても、さすがに本性は狂いません。城下でむやみに吹きたてると大変だと思ったので、なるべく遠いところへ行って吹くつもりで、明るい月のひかりをたよりに、一里あゆみ、二里あゆみ、とう/\城下から三里半ほど距(はな)れたところまで行き着くと、そこはもう山路でした。路の勝手はかねて知っているので、森垣さんはその山路をのぼって、中腹の平なところへ出ると、そこには小さい古い社(やしろ)があります。うしろには大木がしげり合っていますが、東南は開けていて、今夜の月を遮るようなものはありません。城の櫓も、城下の町も、城下の川も、夜露のなかにきら/\と光ってみえます。それを遠くながめながら、森垣さんは社の縁に腰をおろしました。
「こゝなら些(ちっ)とぐらい吹いても、誰にも覚られることはあるまい。」
 譜はもう暗記するほどに覚えているのですが、それでも念のためにその巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。
 それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ/\明るくなる、吹く人もだん/\興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く/\吹き出すと、夜がおい/\に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。
 その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ごろ何者が貝をふくのかと、いずれも不思議に思いました。家来達がすぐに櫓にかけ上って、貝の音のきこえる方角を聞きさだめると、それは城下から三里あまりを隔てゝいる山の方角であることが判りました。なんにもせよ、夜陰に及んで妄りに貝をふきたてゝ城下をさわがす曲者(くせもの)は、すぐ召捕れという下知があったところへ、家老のなにがしが俄に殿の御前へ出て、容易ならぬことを言上しました。
「唯今きこえまする貝の音は一通りの音色ともおぼえませぬ。」
 勿論、それが落城の譜であるか何うかは確かに判らなかったのですが、さすがは家老でも勤めている人だけに、それが尋常の貝の音ではないことだけは覚ったとみえたのです。扨そうなると、騒ぎはいよ/\大きくなって、召捕の人数がすぐに駈け向かうことになりました。
 そんなことゝは些(ちっ)とも知らない森垣さんは、吹くだけ吹いて満足して、年来の胸のかたまりが初めて解けたような心持で、足も軽く戻って来る途中、召捕の人数に出逢いました。貝を持っているのが証拠で、なんとも云いぬけることが出来ず、森垣さんはその場から城内へ引っ立てられました。これはしまったと、森垣さんももう覚悟をきめたのですが、それでも途中で気がついて、ふところに忍ばせてある落城の譜の一巻を竊(そっ)と路ばたの川のなかへ投げ込みました。夜のことで、幸いに誰にも覚られず、殊にそこは山川の流れがうず巻いて、深い淵のようになっている所であったので、巻物は忽ちに底ふかく沈んでしまいました。

       三

 城内へ引っ立てられて、森垣さんは厳重の吟味をうけましたが、月のよいのに浮かれて山へのぼり、低く吹いているつもりの貝の音が次第に高くなって、お城の内外をさわがしたる罪は重々おそれ入りましたと申立てたばかりで、落城の譜のことはなんにも云いませんでした。家老はどうも普通の貝の音でないと云うのですが、所詮は素人で、それがなんの譜であるかと云うことは確かに判りません。もと/\秘曲のことですから、ほかに知っている者のあろう筈はありません。もしそれが落城の譜であると知れたら、どんな重い仕置をうけるか判らなかったのですが、何分にも無証拠ですから、森垣さんはとう/\強情を張り通してしまいました。それでも唯では済みません。夜中みだりに貝を吹きたてゝ城下をさわがしたという廉で、お役御免のうえに追放を申渡されました。
 森垣さんは飛んだことをしたと今更後悔しましたが、どうにも仕方がない。それでも独り身の気安さに、ふだんから親くしている人達から内証で恵んでくれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が落城することになったのも、なにかの因縁かも知れません。
「いや、一生の不覚、面目次第もござらぬ。」と、森垣さんも額を撫でていました。
 こう判ってみると、わたくしも気の毒になりました。屋敷をしくじったと云っても、別に悪いことをしたと云うのでもない。この先、いつまでも浪人しているわけにも行くまいから、なんとか身の立つようにしてあげたいと思ってだん/\相談すると、森垣さんは再び武家奉公をする気はないという。しかしこの人は字をよく書くので、手習の師匠でもはじめては何うだろうと云うことになりました。幸いわたくしの町内に森垣さんという手習の師匠があって、六七十人の弟子を教えていましたが、これはもう老人、先年その娘のお政というのに婿を取ったのですが、折合がわるくて離縁になり、二度目の婿はまだ決らないので、娘は二十六になるまで独身でいる。こゝへ世話をしたら双方の都合もよかろうと、わたくしが例のお世話焼きでこっちへも勧め、あっちをも説きつけて、この縁談は好い塩配にまとまりました。森垣さんはそれ以来、本姓の内田をすてゝ養家の苗字を名乗ることになったのです。
「朝鮮軍記の講釈で、小早川隆景が貝を吹く件(くだり)をきいている時には、自分のむかしが思い出されて、もう一度貝をふく身になりたいと思いましたが、それはその時だけのことで、武家奉公はもう嫌です。まったく今の身の方が気楽です。」と、その後に森垣さんはしみ/″\と云いました。
 そういう関係から森垣さんとは特別に近しく附合って、今日では先方は金持、こちらは貧乏人ですが、相変らず仲よくしているわけです。わたくしは世話ずきで、むかしから色々の人の世話もしましたが、森垣さんのような履歴を持っているのは、まあ変った方ですね。
 森垣さんのお話はこれぎりですが、この法螺の貝について別に可笑しいお話があります。それはある与力のわかい人が組頭の屋敷へ逢いに行った時のことです。御承知でもありましょうが、旗本でも御家人でも、その支配頭や組頭には毎月幾度という面会日があって、それをお逢いの日といいます。組下のもので何か云い立てることがあるものは、その面会日にたずねて行くことになっているのですが、ほかに云い立てることはありません、なにかの芸を云い立てゝ役附にして貰うように頼みに行くのです。定めてうるさいことだろうと思われますが、自分の組内から役附のものが沢山出るのはその組頭の名誉になるので、組頭は自分の組下の者にむかって何か申立てろと催促するくらいで、面会日にたずねて行けば、よろこんで逢ってくれたそうです。
 そこで、その与力は組がしらの屋敷に逢いに行ったのです。こう云うことを頼みに行くのは、いずれも若い人ですから、組頭のまえに出てやゝ臆した形で、小声で物を云っていました。
「して、お手前の申立ては。」と、組頭が訊きました。
「手前は貝をつかまつります。」
 組頭は老人で、すこしく耳が遠いところへ、こっちが小声で云っているので能く聴き取れない。二度も三度も訊きかえし、云い返して、両方がじれ込んで来たので、組頭は自分の耳を扇で指して、おれは耳が遠いから傍へ来て大きい声で云えと指図したので、若い与力はすゝみ出てまた云いました。
「手前は貝をつかまつる。」
「なに。」と組頭は首をかしげた。
 まだ判らないらしいので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。
「手前は法螺をふく。」
「馬鹿。」
 与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと撲(ぶ)たれました。撲たれた方はびっくりしていると、撲った方は苦り切って叱りつけました。
「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」
 相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は烟(けむ)にまかれて早々に帰りました。すると、その晩になって、組がしらから使が来て、なにがしにもう一度逢いたいから来てくれと云うのです。今度行ったらどんな目に逢うかと思ったのですが、上役からわざ/\の使ですから断るわけにも行かないので、内心びく/\もので出かけて行くと、昼間とは大違いで、組頭はにこ/\しながら出て来ました。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:232 KB

担当:undef