三浦老人昔話
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著者名:岡本綺堂 

 まったくこの時節柄であるから、諸屋敷で人減しをすることも無いとは云えない。殊に三島の屋敷のことであるから、武具馬具を調えるために他の物入りを倹約する、その結果が人減しとなる。そんなことも有りそうに思われるので、高松さんも娘の詮議は先ずそのくらいにして置きました。阿母(おっか)さんも正直な人ですから、別にわが子を疑うようなこともなく、それで無事に済んでしまったのですが、それから三月四月と過ぎるうちに、お父さんの気に入らないようなことが色々出来たのです。
 高松さんの屋敷では槍を教えるので、毎日十四五人の弟子が通ってくる。そのなかで肩あげのある子供達が来たときには、お近さんはその稽古場を覗いても見ませんが、十八九から二十歳ぐらいの若い者が来ると、お近さんは出て行って何かの世話を焼く。時には冗談などを云うこともあるので、お父さんは苦い顔をして叱りました。
「稽古場へ女などが出てくるには及ばない。」
 それでも矢はり出て来たり、覗きに来たりするので、その都度に高松さんは機嫌を悪くしました。ある時、久振りで薙刀を使わせてみると、まるで手のうちは乱れている。もと/\薙刀を云い立てに奉公に出たくらいで、その後も幾年のあいだ、お嬢さまに附いて稽古を励んでいたというのに、これは又どうしたものだと高松さんも呆れてしまいました。そればかりでなく万事が浮ついて、昔とはまるで別の人間のようにみえるので、お父さんはいよ/\機嫌を悪くしました。
「どうも飛んだことをした。こうと知ったら奉公などに出すのではなかった。」
 高松さんは時々に顔をしかめて、御新造に話すこともありました。そのうちに六月の末になる。旧暦の六月末ですから、土用のうちで暑さも強い。師匠によると土用休みをするのもあるが、高松さんは休まない。きょうも朝の稽古をしまって、汗を拭きに裏手の井戸端へ出ました。場末の組屋敷ですから地面は広い。うらの方は畑になって矢はり唐蜀黍(とうもろこし)などが栽えてある。その畑のなかに白地の単衣をきた女が忍ぶように立っている。それがお近さんであることは、高松さんにはすぐに判ったのですが、向うでは些(ちっ)とも気が注かないで、何か一心に読み耽っているらしい。以前ならばそのまゝに見過してしまったのでしょうが、此頃はひどく信用を墜しているお近さんがわざ/\畑のなかへ出て、唐蜀黍のかげに隠れるようにして何か読んでいる。それがお父さんの注意をひいたので、高松さんは抜足をして竊(そっ)とそのうしろへ廻って行きました。
 日を避け、人目をよけて、お近さんが唐蜀黍の畑のなかで一心に読んでいたのは例の写本の一冊でした。こんなものが両親の眼に止まっては大変ですから、お近さんは自分の葛籠(つゞら)の底ふかく秘めて置いて、人に見付からないようなところへ持ち出して、そっと読んでいる。そこを今朝は運悪くお父さんに見付けられたのです。
「これはなんだ。」
 だしぬけにその本を取り上げられてしまったので、お近さんはもう何うすることも出来ない。しかし「春色梅ごよみ」という外題を見ただけでは、お父さんにもその内容は一向わからないのですから、お近さんも何とか頓智をめぐらして、巧く誤魔かしたいと思ったのですが、困ったことには本文ばかりでなく、男や女の插絵が這入っている。それをみただけでも大抵は想像が付く筈です。お近さんも返事に支えておど/\していると、高松さんは娘の襟髪をつかみました。
「怪しからん奴だ。こんなものを何うして持っている。さあ、来い。」
 内へ引摺って来て、高松さんは厳重に吟味をはじめました。お近さんは強情に黙っていたが、それでお父さんが免す筈がない。弟の勘次郎を呼んで、姉の葛籠をあらためて見ろという。もう斯うなっては運の尽きで、お近さんの秘密はみな暴露してしまいました。なにしろその写本があわせて十二冊もあるので、高松さんも一時は呆れるばかりでしたが、やがて両の拳を握りつめながら、むすめの顔を睨みつけました。
「いや、これで判った。三島の屋敷から不意に暇を出されたのも、こういう不埓があるからだ。女の身として、まして武家の女の身として、かような猥な書物を手にするなどとは、呆れ返った奴だ。」
 さん/″\叱り付けた上で、高松さんは弟に云いつけて、その写本全部を庭さきで焼き捨てさせました。お近さんが丹精した「春色梅ごよみ」十二冊は、炎天の下で白い灰になってしまったのです。お近さんは縁側に手をついたまゝで黙っていましたが、それがみんな灰になってゆくのを見たときには、涙をほろ/\とこぼしたそうです。それを横眼に睨んで、お父さんは又叱りました。
「なにが悲しい。なにを泣く。たわけた奴め。」
 阿母さんはさすがに女で、なんだか娘がいじらしいようにも思われて来たのですが、問題が問題ですから何とも取りなす術もない。その場は先ずそれで納まったのですが、高松さんは苦り切っていて、その日一日は殆ど誰とも口をきかない。お近さんは自分の部屋に這入って泣いている。今日の詞(ことば)で云えば、一家は暗い空気に包まれているとでもいう形で、その日も暮れてしまいました。
 その夜なかの事です。昼間の一件でむしゃくしゃするのと、今夜は悪く蒸暑いのとで、高松さんは夜のふけるまで眠られずにいると、裏口の雨戸をこじ明けるような音がきこえたので、もしや賊でも這入ったのかと、すぐに蚊帳をくゞって出て、長押(なげし)にかけてある手槍の鞘を払って、台所の方へ出てみると、一つの黒い影が今や雨戸をあけて出ようとするところでした。生憎に今夜は暗い晩でその姿もよくは判らないが、兎もかくも台所の広い土間から表へ出てゆく影だけは見えたので、高松さんはうしろから声をかけました。
「誰だ。」
 相手はなんにも返事もしないで、土間に積んである薪の一つを把(と)って、高松さんを目がけて叩き付けると、暗いので避け損じて、高松さんはその薪ざっぽうで左の腕を強く打たれました。名をきいても返事をしない、しかも手向いをする以上は、もう容赦はありません。高松さんは土間に飛び降りて追いかけると、相手は素疾く表へぬけて出る。なにしろ暗いので、もし取逃すといけないと思ったので、高松さんはその跫音をたよりに、持っている槍を投げ付けると、さすがは多年の手練で、その投槍に手堪えがあったと思うと、相手は悲鳴をあげて倒れました。
 この騒ぎに家中の者が起きてみると、ひとりの女が投槍に縫われて倒れていました。背から胸を貫かれたのですから、勿論即死です。それはお近さんで、着換え二三枚を入れた風呂敷づつみを抱えていました。
 お近さんは家出をして、どこへ行こうとしたのか、それは判りません。併しお仙の話によると、それより五六日ほど前に、お仙が大木戸の親類まで行ったとき、途中でお近さんに逢ったそうです。お近さんはひどく懐しそうに話しかけて、わたしは再び奉公に出たいと思うが、どこかに心当りはあるまいか。屋敷にはかぎらない、町家でもいゝと云うので、町家でもよければ心あたりを探してみようと答えて別れたことがあると云いますから、或いはお仙のところへでも頼って行く積りであったかも知れません。別に男があったというような噂はなかったそうです。
 お父さんに声をかけられた時、こっちの返事の仕様によっては真逆に殺されもしなかったでしょうに、手向いをしたばっかりに飛んでもないことになってしまいました。しかしお近さんの身になったら、その薪ざっぽうを叩き付けたのが、せめてもの腹癒せであったかも知れません。
「これもわたしが種を蒔いたようなものだ。」
 お仙はあとで切(しき)りに悔んでいました。三島のお嬢さまはその後どうしたか知りません。お近さんのお父さんは十五代将軍の上洛のお供をして、明治元年の正月、彼の伏見鳥羽の戦いで討死したと云うことです。
[#改段]

旗本の師匠

       一

 あるときに三浦老人がこんな話をした。
「いつぞや『置いてけ堀』や『梅暦』のお話をした時に、御家人たちが色々の内職をするといいましたが、その節も申した通り、同じ内職でも刀を磨(と)いだり、魚を釣ったりするのは、世間体のいゝ方でした。それから、髪を結うのもいゝことになっていました。陣中に髪結いはいないから、どうしてもお互いに髪を結い合うより外はない。それですから、武士が他人の髪を結っても差支えないことになっている。勿論、女や町人の頭をいじるのはいけない。更に上等になると、剣術柔術の武芸や手習学問を教える。これも一種の内職のようなものですが、こうなると立派な表芸で、世間の評判も好し、上のおぼえもめでたいのですから、一挙両得ということにもなります。」
「やはり月謝を取るのですか。」と、わたしは訊いた。
「所詮は内職ですから月謝を取りますよ。」と、老人は答えた。
「小身の御家人たちは内職ですが、御家人も上等の部に属する人や、または旗本衆になると、大抵は無月謝です。旗本の屋敷で月謝を取ったのは無いようです。武芸ならば道場が要る、手習学問ならば稽古場が要る。したがって炭や茶もいる、第一に畳が切れる。まだそのほかに、正月の稽古はじめには余興の福引などをやる。歌がるたの会をやる。初午(うま)には強飯(こわめし)を食わせる。三月の節句には白酒をのませる。五月には柏餅を食わせる。手習の師匠であれば、たなばた祭もする。煤はらいには甘酒をのませる、餅搗きには餅を食わせるというのですから、師匠は相当の物入りがあります。それで無月謝、せい/″\が盆正月の礼に半紙か扇子か砂糖袋を持って来るぐらいのことですから、慾得づくでは出来ない仕事です。ことに手習子(てならいこ)でも寄せるとなると、主人ばかりではない、女中や奥様までが手伝って世話を焼かなければならないようにもなる。毎日随分うるさいことです。」
「そういうのは道楽なんでしょうか。」
「道楽もありましょうし、人に教えてやりたいという奇特の心掛けの人もありましょうし、上(かみ)のお覚えをめでたくして自分の出世の蔓にしようと考えている人もありましょうし、それは其人によって違っているのですから、一概にどうと云うわけにも行きますまい。又そのなかには、自分の屋敷を道場や稽古場にしていると云うのを口実に、知行所から余分のものを取立てるのもある。むかしの人間は正直ですから、おれの殿様は剣術や手習を教えて、大勢の世話をしていらっしゃるのだから、定めてお物入りも多かろうと、知行所の者共も大抵のことは我慢して納めるようにもなる。こういうのは、弟子から月謝を取らないで、知行所の方から月謝を取るようなわけですが、それでも知行所の者は不服を云わない。江戸のお屋敷では何十人の弟子を取っていらっしゃるそうだなどと、却って自慢をしている位で、これだけでも今とむかしとは人気が違いますよ。いや、その無月謝のお師匠様について、こんなお話があります。」

 赤坂一ツ木に市川幾之進という旗本がありました。大身というのではありませんが、二百五十石ほどの家柄で、持明院流の字をよく書くところから、前に云ったように手跡(しゅせき)指南をすることになりました。この人はまことに心がけの宜しい方で、それを出世の蔓にしようなどという野心があるでも無し、蔵前取(くらまえど)りで知行所を持たないのですから、それを口実に余分のものを取立てるという的(あて)があるでも無し、つまりは自分の好きで、自分の身銭を切って大勢の弟子の面倒をみていると云うわけでした。
 市川さんはその頃四十前後、奥さんはお絹さんと云って三十五六、似たもの夫婦という譬の通り、この奥さんも深切に弟子たちの世話を焼くので、まことに評判がよろしい。お照さんという今年十六の娘があって、これも女中と一緒になって稽古場の手伝いをしていました。市川さんの屋敷はあまり広くないので、十六畳ほどのところを稽古場にしている。勿論、それを本業にしている町の師匠とは違いますから、弟子はそんなに多くない。町の師匠ですと、多いのは二百人ぐらい、少くも六七十人の弟子を取っていますが、市川さんなどの屋敷へ通ってくるのは大抵二三十人ぐらいでした。
 そこで鳥渡(ちょっと)お断り申して置きますが、こういう師匠の指南をうけに来るものは、かならず武家の子どもに限ったことはありません。町人職人の子どもでも弟子に取るのが習いでした。師匠が旗本であろうが、御家人であろうが、弟子師匠の関係はまた格別で、そのあいだに武家と町人との差別はない。已に手跡を指南するという以上は、大工や魚屋の子どもが稽古に来ても、旗本の殿様がよろこんで教えたものです。それですから、こういう屋敷の稽古になると、武家の息子や娘も来る、町人や職人の子供も来るというわけで、師匠によっては武家と町人との席を区別するところもあり、又は無差別に坐らせるところもありましたが、男の子と女の子とは必ず別々に坐らせることになっていました。市川さんの屋敷では武家も町人も無差別で、なんでも入門の順で天神机を列べさせることになっていたそうです。
 一体、町家の子どもは町の師匠に通うのが普通ですが、下町と違って山の手には町の師匠が少いという事情もあり、たといその師匠があっても、御屋敷へ稽古に通わせる方が行儀がよくなると云って、わざ/\武家の指南所へ通わせる親達もある。痩せても枯れても旗本の殿様や奥様が涎れくりの世話を焼いてくれて、しかもそれが無月謝というのだから有難いわけです。その代りに仕付方(しつけかた)はすこし厳しい。なにしろ御師匠さまは刀をさしているのだから怖い。それがまた当人の為にもなると、喜んでいる親もあるのでした。市川さんのところにも町の子どもが七八人通っていましたが、市川さんも奥さんも真直な気性の人でしたから、武家の子供も町家の子供もおなじように教えます。そのあいだに些(ちっ)とも分け隔てがない。それですから、町家の親達はいよ/\喜んでいました。
 それだけならば、至極結構なわけで、別にお話の種になるような事件も起らない筈ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では強飯(こわめし)をたいて、なにかの煮染(にし)めものを取添えて、手習子たちに食べさせました。きょうは御稽古は休みです。土地のお祭りですから、どこの家(うち)でも強飯ぐらいは拵えるのですが、子供たちはお師匠さまのお屋敷で強飯の御馳走になって、それから勝手に遊びに出る。それが年々の例になっているので、今年もいつもの通りにあつまって来る。奥さんやお嬢さんや女中が手伝って、めい/\の前に強飯とお煮染めをならべる。いくら行儀がいゝと云っても、子供たちのことではあり、殊にきょうはお祭りだというのですから、大勢がわあ/\騒ぎ立てる。それでも不断の日とは違うから、誰も叱らない。子供たちは好い気になって騒ぐ。そのうちに、今井健次郎という今年十二になる男の児が三河屋綱吉という同い年の児の強飯のなかへ自分の箸を突っ込んだ。それが喧嘩のはじまりで、ふたりがとう/\組討になると、健次郎の方にも四五人、綱吉の方にも三四人の加勢が出て、畳の上でどたばたという大騒ぎが始まりました。
 健次郎はこの近所に屋敷を持っている百石取りの小さい旗本の忰で、綱吉は三河屋という米屋の忰です。師匠はふだんから分け隔てのないように教えていても、屋敷の子と町家の子とのあいだには自然に隔てがある。さあ喧嘩ということになると、武家の子は武家方、町家の子は町家方、たがいに党を組んでいがみ合うようになります。きょうも健次郎の方には武家の子どもが加勢する。綱吉の方には町家の子どもが味方するというわけで、奥さんや女中が制してもなか/\鎮まらない。そのうちに健次郎をはじめ、武家の子供たちが木刀をぬきました。子供ですから木刀をさしている。それを抜いて振りまわそうとするのを見て、師匠の市川さんももう捨て置かれなくなりました。
「これ、鎮まれ、鎮まれ。騒ぐな。」
 いつもならば叱られて素直に鎮まるのですが、きょうはお祭で気が昂(た)っているのか、どっちもなか/\鎮まらない。市川さんは壁にかけてあるたんぽ[#「たんぽ」は底本では「たんぼ」]槍を把(と)って、木刀をふりまわしている二三人を突きました。突かれた者はばた/\倒れる。これで先ず喧嘩の方は鎮まりました。突かれた者は泣顔をしているのを、奥さんがなだめて帰してやる。町家の組も叱られて帰る。どっちにも係り合わなかった者は、おとなしいと褒められて帰る。壁にかけてあるたんぽ槍は単に嚇しの為だと思っていたら、今日はほんとうに突かれたので、子供たちも内々驚いていました。
 その日はそれで済みましたが、あくる朝、黒鍬(くろくわ)の組屋敷にいる大塚孫八という侍がたずねて来て、御主人にお目にかゝりたいと云い込みました。黒鍬組は円通寺の坂下にありまして、御家人のなかでも小身者が多かったのです。市川さんは兎もかくも二百五十石の旗本、まるで格式が違います。殊に大塚の忰孫次郎はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚は一層丁寧に挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから大塚はこんなことを云い出しました。
「せがれ孫次郎めは親どもの仕付方が行きとゞきませぬので、御覧の通りの不行儀者、さだめてお目にあまることも数々であろうと存じまして、甚だ赤面の次第でござります。」
 それを序開きに、彼はきのうの一条について師匠に詰問をはじめたのです。前にもいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいているのですが、その口上の趣意は正しく詰問で、今井の子息健次郎どのが三河屋のせがれ綱吉と喧嘩をはじめ、武家の子供、町家の子供がそれに加勢して挑み合った折柄に、師匠の其許はたんぽ槍を繰り出して、武家の子ども二三人を突き倒された。本人の健次郎どのは云うに及ばず、手前のせがれ孫次郎もその槍先にかゝったのである。それがために孫次郎は脾腹を強く突かれて、昨夜から大熱を発して苦しんでいる。勿論、一旦お世話をねがいましたる以上、不行儀者の御折檻は如何ようなされても、かならずお恨みとは存じないのであるが、喧嘩両成敗という掟にはずれて、その砌りに町家の子どもには何の御折檻も加えられず、武家の子供ばかりに厳重の御仕置をなされたのは如何なる思召でござろうか。弟子の仕付方はそれで宜しいのでござろうか。念のためにそれを伺いたいと云うのでした。
 市川さんは黙って聴いていました。

       二

 質のわるい弟子どもを師匠が折檻するのはめずらしくはない、町の師匠でも弓の折れや竹切れで引っぱたくのは幾らもあります。かみなり師匠のあだ名を取っているような怖い先生になると、自分の机のそばに薪ざっぽうを置いているのさえある。まして、武家の師匠がたんぽ槍でお見舞い申すぐらいのことは、その当時としては別に問題にはなりません。大塚もそれを兎やこう云うのではないが、なぜ町家の子供をかばって、武家の子どもばかりを折檻したかと詰問したいのです。どこの親もわが子は可愛い。現に自分のせがれは病人になるほどの酷(ひど)い目に逢っているのに、相手の方はみな無事に帰されたという。それはいかにも片手落ちの捌きではないかという不満が胸一ぱいに漲っているのです。もう一つには、なんと云っても相手は町人の子どもである。町人の子どもと武士の子どもが喧嘩をした場合に、武家の師匠が町人の贔屓をして、武士の子供を手ひどく折檻するのは其意を得ないという肚もあります。かた/″\して大塚は早朝からその掛合いに来たのでした。
 相手に云うだけのことは云わせて置いて、それから市川さんはその当時の事情をよく説明して聞かせました。自分は師匠として、決してどちらの贔屓をするのでもないが、この喧嘩は今井健次郎がわるい。他人の強飯のなかに自分の箸を突っ込むなどは、あまりに行儀の悪いことである。子供同士であるから喧嘩は已むを得ないとしても、稽古場でむやみに木刀をぬくなどはいよ/\悪い。お手前はなんと心得てわが子に木刀をさゝせて置くか知らぬが、子供であるから木刀をさしているので、大人の真剣もおなじことである。わたしの稽古場では木刀をぬくことは固く戒めてある。それを知りつゝ妄りに木刀をふりまわした以上、その罪は武家の子供等にあるから、わたしは彼等に折檻を加えたので、決して町人の子どもの贔屓をしたのではない。その辺は思い違いのないようにして貰いたいと云いました。
「御趣意よく相判りました。」と、大塚は一応はかしらを下げました。「町人の子どもは仕合せ、なんにも身に着けて居りませぬのでなあ。」
 かれは忌(いや)な笑いをみせました。大塚に云わせると、所詮は子ども同士の喧嘩で、武家の子どもは木刀をさしていたから抜いたのである。町家の子供はなんにも持っていないから空手で闘ったのである。町家の子供とても何かの武器を持っていれば、やはりそれを振りまわしたに相違ない。木刀をぬいたのは勿論わるいが、それらの事情をかんがえたら、特に一方のみを厳しく折檻するのは酷である。こう思うと、かれの不満は依然として消えないのです。
 もう一つには、こゝへ稽古にくる武家の子どもは、武士と云っても、貧乏旗本や小身の御家人の子弟が多い。町家の子どもの親達は、彼の三河屋をはじめとして皆相当の店持ですから、名こそ町人であるがその内証は裕福です。したがって、その親たちが平生から色々の附届けをするので、師匠もかれらの贔屓をするのであろうという、一種の僻(ひが)みも幾分かまじっているのです。それやこれやで、大塚は市川さんの説明を素直に受け入れることが出来ない。仕舞にはだん/\に忌味(いやみ)を云い出して、当世は武士より町人の方が幅のきく世の中であるから、せい/″\町人の御機嫌を取る方がよかろうと云うようなことを仄(ほの)めかしたので、市川さんは立腹しました。
 くどくも云うようですが、黒鍬というのは御家人のうちでも身分の低い方で、人柄もあまりよくないのが随分ありました。大塚などもその一人で、表面はどこまでも下手に出ていながら、真綿で針を包んだようにちくり/\と遣りますから、正直な市川さんはすっかり怒ってしまったのです。
「わたしの云うことが判ったならば、それで好し。判らなければ以後は子供をこゝへ遣すな。もう帰れ、帰れ。」
 こうなれば喧嘩ですが、大塚も利口ですからこゝでは喧嘩をしません。一旦はおとなしく引揚げましたが、その足で近所の今井の屋敷へ出向きました。今井のせがれは喧嘩の発頭人ですから、第一番にたんぽ槍のお見舞をうけたのですが、家へ帰ってそんなことを云うと叱られると思って、これは黙っていましたから、親たちも知らない。そこへ大塚が来てきのうの一件を報告して、手前のせがれはそれが為に寝付いてしまったが、御当家の御子息に御別条はござらぬかという。今井は初めてそれを知って、せがれの健次郎を詮議すると、当人も隠し切れないで白状に及びましたが、幸いにこれには別条はなかった。しかし大塚の話をきいて、今井も顔の色を悪くしました。
 今井の屋敷の主人は佐久馬と云って、今年は四十前後の分別盛り、人間も曲った人ではありませんでしたが、今日の詞(ことば)でいえば階級思想の強い人で、武士は食わねど高楊枝、貧乏旗本と軽しめられても武士の家ということを非常の誇りとしている人物。したがって平生から町人どもを眼下に見下している。その息子が町人の子と喧嘩をして、師匠が町人の方の贔屓をして、わが子にたんぽ槍の仕置を加えたと云うことを知ると、どうも面白くない。おまけに大塚が色々の尾鰭をつけて、そばから煽るようなことを云いましたから、今井はいよ/\面白くない。しかし流石に大塚とは違いますから、子どもの喧嘩に親が出て、自分がむやみに市川さんの屋敷へ掛合いにゆくようなことはしませんでした。
「幾之進殿の仕付方、いさゝか残念に存ずる廉がないでもござらぬが、一旦その世話をたのんだ以上、兎やこう申しても致方があるまい。」
 今井は穏かに斯う云って大塚を帰しました。しかし伜の健次郎をよび付けて、きょうから市川の屋敷へは稽古にゆくなと云い渡しました。大塚のせがれは病中であるから、無論に行きません。これで武家の弟子がふたり減ったわけです。今井を煽動しても余り手堪(ごた)えがないので、大塚は更に自分の組内をかけまわって、市川の屋敷では町家の子供ばかりを大切にして、武家の子どもを疎略にするのは怪しからぬと触れてあるいたので、黒鍬の組内の子供達はひとりも通って来なくなりました。今井は流石に触れて歩くようなことはしませんが、何かのついでには其話をして、市川の仕付方はどうも面白くないと云うような不満を洩すので、それが自然に伝わって、武家の子どもはだん/\に減るばかり。二月三月の後には、市川さんと特別に懇意にしている屋敷の子が二三人通って来るだけで、その他の弟子はみな町家の子になってしまいました。なんと云っても武家の師匠ですから、武家の子どもがストライキを遣って、町家の子供ばかりが通って来るのでは少し困ります。それでも市川さんは無頓着に稽古をつゞけていました。
 一ツ木辺は近年あんなに繁華になりましたが、昔は随分さびしいところで、竹藪などが沢山にありました。現に太田蜀山人の書いたものをみると、一ツ木の藪から大蛇があらわれて、三つになる子供を呑んだと云うことがあります。子供を呑んだのは嘘かほんとうか知りませんけれども、兎も角もそんな大蛇も出そうなところでした。その年の秋のひるすぎ、市川さんの屋敷から遠くないところの路ばたに、四五人の子供が手習草紙をぶら下げながら草花などをむしっていました。それはみな町家の弟子で、帰りに道草を食っていてはならぬ、かならず真直に家へ帰れよ、と師匠から云い渡されているのですが、やはり子供ですから然(そ)うは行きません。殊にきょうは天気がいゝので、稽古の帰りに遊んでいる。そのなかには三河屋の綱吉もいました。ほかにもこの間の喧嘩仲間が二人ほどまじっていました。
 この子供たちが余念もなしに遊んでいると、竹藪の奥から五六人の子供が出て来ました。どれもみな手拭で顔をつゝんで、その上に剣術の面をつけているので、人相は鳥渡(ちょっと)わからない。それが木刀や竹刀を持って飛び出して来て、町家の子供達をめちゃ/\になぐり付けました。そのなかでも三河屋の綱吉は第一に目指されて、殆ど正気をうしなうほどに打ち据えられてしまいました。
 子供達はおどろいて泣きながら逃げまわる。それでも素疾(ばし)っこいのが師匠の屋敷へ逃げて帰って、そのことを訴えたので、居あわせた仲間ふたりと若党とがすぐに其場へ駈けつけると、乱暴者はもう逃げてゆくところでした。そのなかに餓鬼大将らしい十六七の少年が一人まじっている。そのうしろ姿が彼の大塚孫次郎の兄の孫太郎らしく思われたが、これは真先に逃げてしまったので、確かなことは判りませんでした。
 こういうわけで、相手はみな取逃してしまったので、撲られた方の子供たちを介抱して屋敷へ一旦連れて帰ると、三河屋の綱吉が一番ひどい怪我をして顔一面に腫れあがっている。次は伊丹屋という酒屋の伜で、これも半死半生になっている。その他は幸いに差したることでもないので、それ/″\に手当をして送り帰しましたが、三河屋と伊丹屋からは釣台をよこして子供を引取ってゆくという始末。どちらの親たちも工面が好いので、出来るだけの手当をしたのですが、やはり運が無いとみえて、三河屋の伜はそれから二日目の朝、伊丹屋のせがれは三日目の晩に、いずれも息を引取ってしまいました。
 さあ、そうなると事が面倒です。いくら子供だからと云って人間ふたりの命騒ぎですから、中々むずかしい詮議になったのですが、なにを云うにも相手をみな取逃したので、確かな証拠がない。前々からの事情をかんがえると、その下手人も大抵は判っているのですが、無証拠では何うにも仕様がない。且は町人の悲しさに、三河屋も伊丹屋も結局泣寝入りになってしまったのは可哀そうでした。
 それから惹いて、市川さんも手習の指南をやめなければならない事になりました。市川さんは支配頭のところへ呼び出されて、お手前の手跡指南は今後見合わせるようにとの諭達を受けました。理窟を云っても仕様がないので、市川さんはその通りにしました。
 それで済んだのかと思っていると、市川さんはやがて又、小普請入りを申付けられました。これも手跡指南の問題にかゝり合があるのか無いのか判りませんが、なにしろお気の毒のことでした。いつの代にもこんなことはあるのでしょうね。
[#改段]

刺青の話

       一

 そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな刺青(ほりもの)をしている者があったという記事が掲げられたことがある。それが話題となって、三浦老人は語った。
「今どきの若い人にはめずらしいことですね。昔だって無暗(むやみ)に刺青をしたものではありませんが、それでも今とは違いますから、銭湯にでも行けば屹(きっ)と一人や二人は背中に墨や朱を入れたのが泳いでいたものです。中には年の行かない小僧などをつかまえて、大供が面白半分に彫るのがある。素人に彫られては堪らない。小僧はひい/\云って泣く。実に乱暴なことをしたものです。刺青をしているのは仕事師と駕籠屋、船頭、職人、遊び人ですが、職人も堅気な人間は刺青などをしません。刺青のある職人は出入りをさせないなどと云う家(うち)もありますから、好(い)い職人になろうと思うものは迂濶に刺青などは出来ないわけです。武家の仲間(ちゅうげん)などにも刺青をしているものがありました。堅気の商人(あきんど)のせがれでありながら、若いときの無分別に刺青をしてしまって、あとで悔んでいるのもある。いや、それについて可笑(おかし)いお話があります。なんでも浅草辺のことだそうですが、祭礼のときに何か一(ひと)趣向しようというので、町内の若い者たちが評議の末に、三十人ほどが背中をならべて一匹の大蛇を彫ることになったのです。三十人が鱗(うろこ)のお揃いを着ていて、それが肌ぬぎになってずらりと背中を列べると、一匹の大蛇の刺青になるという趣向、まったく奇抜には相違ないので、祭礼の当日には見物人をあっと云わせたのですが、さあ其後が困った。三十人が一度に列んでいれば一匹の形になるが、ひとり一人に離れてしまうと何うにもならない。それでも蛇のあたまを彫った者はまあ可(い)いのですが、そのほかの者はみんな胴ばかりだから困る。背中のまん中を蛇の胴が横ぎっているだけでは絵にも形にもならない。と云って、一旦彫ってしまったものは仕方がない。図柄によって何とか彫り足して誤魔かすことも出来ますが、大蛇の胴ではどうも困ると洒落れたいくらいで、これらは一生の失策でしょう。併しこんな可笑しいお話ばかりではない、刺青の為には又こんな哀れなお話もあります。わたくしは江戸時代に源七という刺青師(ほりものし)を識っていまして、それから聴いたお話ですが……。その源七というのは見あげるような大坊主で、冬になると河豚(ふぐ)をさげて歩いているという、いかにも江戸っ子らしい、面白い男でしたよ。」
 老人が源七から聴いたという哀話は大体こういう筋であった。

 あれはたしか文久……元年か二年頃のことゝおぼえています。申すまでもなく、電車も自動車もない江戸市中で、唯一の交通機関というのは例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を利かしたもんでした。多分その初音屋の暖簾下か出店かなんかだろうと思いますが、芝神明の近所に初島(はつしま)という駕籠屋がありました。なか/\繁昌する店で、いつも十五六人の若い者が転がっていて、親父は清蔵、むすこは清吉と云いました。清吉は今年十九で、色の白い、細面の粋(いき)な男で、こういう商売の息子にはおあつらえ向きに出来上っていたんですが、唯一つの瑕(きず)というのは身体(からだ)に刺青(ほりもの)のないことでした。なぜというのに、この男は子供のときから身体が弱くって、絶えず医者と薬の御厄介になっていたので、両親も所詮こゝの家の商売は出来まいと諦めて、子供の時から方々へ奉公に出した。が、どうも斯ういう道楽稼業の家に育ったものには、堅気の奉公は出来にくいものと見えて、どこへ行っても辛抱がつゞかず、十四五の時から家へ帰って清元のお稽古かなんかして、唯ぶら/\遊んでいるうちに、蛙の子は蛙で、やっぱり親の商売を受け嗣ぐようになってしまった。年は若し、男は好し、稼業が稼業だから相当に金まわりは好し、先ず申分のない江戸っ子なんですが、裸稼業には無くてならぬ刺青が出来ない。刺青をすれば死ぬと、医者から固く誡められているのです。
 前にも申す通り、この時代の職人や仕事師には、どうしても喧嘩と刺青との縁は離れない。とりわけて裸稼業の駕籠屋の背中に刺青がないと云うのは、亀の子に甲羅が無いのと同じようなもので、先ず通用にはならぬと云っても好いくらいです。いくら大きい店の息子株でも、駕籠屋は駕籠屋で、いざと云うときには、お客に背中を見せなければならない。裸稼業の者に取っては、刺青は一種の衣服(きもの)で、刺青のない身体をお客の前に持出すのは、普通の人が衣服を着ないで人の前に出るようなものです。まあ、それほどで無いとしても、刺青のない駕籠屋と、掛声の悪い駕籠屋というものは、甚だ幅の利かないものに数えられている。清吉は好い男で、若い江戸っ子でしたが、可哀そうに刺青がないから、どうも肩身が狭い。掛声なんぞは練習次第でどうにでもなるが、刺青の方はそうは行かない。体質の弱い人間が生身(なまみ)に墨や朱を注(さ)すと、生命にかゝわると昔からきまっているんだから、どうにも仕様がない。
 背中一面の刺青(ほりもの)をみて、威勢が好いとか粋(いき)だとかいう人は、その威勢の好い男や粋な大哥(あにい)になるまでの苦しみを十分に察してやらなければなりません。同じく生身をいじめるのでも、灸を据えるのとは少し訳が違います。第一に非常に金がかゝる。時間がかゝる。銭の二百や三百持って行ったって、物の一寸と彫ってくれるものではありません。又、どんなに金を積んだからと云って、一度に八寸も一尺も彫れる訳のものではありません。そんな乱暴なことをすれば、忽ちに大熱を発して死んでしまうと伝えられているのです。要するに少しずつ根気よく彫って行くのが法で、いくら焦っても急いでも、半月や一月で倶利迦羅紋々の立派な阿哥(おあにい)さんが無造作に出来上るというわけにも行かないのです。
 刺青師は無数の細い針を束ねた一種の簓(さゝら)のようなものを用いて、しずかに叮嚀に人の肉を突き刺して、これに墨や朱をだん/\に注(さ)して行くのですが、朱を注すのは非常の痛みで、大抵の強情我慢の荒くれ男でも、朱入りの刺青を仕上げるまでには、鬼の眼から涙を幾たびか零(こぼ)すと云います。しかも大抵の人は中途で屹(きっ)と多少の熱が出て、飯も食えないような半病人になる。こんな苦しみを幾月か辛抱し通して、こゝに初めて一人前の江戸っ子になるのですから、どうして中々のことではありません。
 こんなわけだから、生きた身体に刺青などと云うことは、とても虚弱な人間のできる芸ではない。清吉も近来はよほど丈夫になったと人も云い、自分もそう信じているのですが、土台の体格が孱弱(かよわ)く出来ているのですから、迚(とて)も刺青などという荒行(あらぎょう)の出来る身体ではない。勿論、方々の医師(いしゃ)にも診て貰ったが、どこでも申合わしたように、お前のからだには決して刺青なぞをしてはならぬ、そんな乱暴なことをすると命がないぞと、脅(おど)かすように誡められるのですが、当人はどうも思い切れないので、方々の刺青師にも相談してみたが、これも一応は清吉の身体をあらためて、お前さんはいけねえとかぶりを掉(ふ)るのです。医師にも誡められ、刺青師にも断られたのだから、もう仕様がない。あたら江戸っ子も日蔭の花のように、明るい世界へは出られない身の上、これが寧(いっ)そしがない半端人足だったら、どうも仕方がないと諦めてしまうかも知れないが、なまじい相当の家に生れて、立派な大哥(あにさん)株で世間が渡られる身体だけになお/\辛いわけです。
 店に転がっている大勢の若い者は、みんなその背中を墨や朱で綺麗に彩色している。ある者は雲に竜を彫ってある。ある者は巖(いわ)に虎を彫っている。ある者は義経を背負(しょ)っている。ある者は弁慶を背負っている。ある者は天狗を描いている。ある者は美人を描いている。こういうのが沢山ごろ/\しているなかで、大哥と呼ばれる清吉ひとりが、生れたまゝの生白い肌を晒していると云うのは、幅の利かないことおびたゞしい。若い者だから無理はありません。清吉はひとに内証で涙を拭いていることもあったそうです。
 この初島の近処に梅の井とかいう料理茶屋があって、これも可なりに繁昌していたそうですが、そこの娘にお金(きん)ちゃんという美(い)い女がいました。清吉とは一つ違いの十八で……。と云ってしまえば、大抵まあお話は判っているでしょう。まあ、なにしろそんなことで、お金清吉という相合傘が出来たと思ってください。両方の親達も薄々承知で、まあ出来たものならばゆく/\は一緒にしてやろう位に思っていたのです。芝居でするように、こゝで敵役の悪(わる)侍なんぞが邪魔に這入らないんですから、お話が些(ちっ)と面白くもないようですが、どうも仕方がありません。ところが、こゝに一つの捫着(もんちゃく)が起った。と云うのは、なんでも或日のこと、その梅の井の門口で酔っ払いが二三人で喧嘩を始めたところへ、丁度に彼の清吉が通りあわせて、見てもいられないから留男に這入ると、相手は酔っているので何かぐず/\云ったので、清吉も癪に障って肌をぬいだ。すると、相手はせゝら笑って、「へん、刺青もねえ癖に、乙う大哥(あにい)ぶって肌をぬぐな。」とか、なんとか云ったそうです。
 それを聞くと清吉は赫(かっ)となって、まるで気ちがいのようになって、穿いている下駄を把って相手を滅茶々々になぐり付けたので、相手も少し気を呑まれたのでしょう、おまけに酔っているから迚もかなわない。這々の体で起きつ転びつ逃げてしまったので、まあその場は納まりました。梅の井の家内の者も門に出て、初めからそれを見ていたのですが、その時に家の女房、即ちお金のおふくろがなんの気なしに、「あゝ、清さんも好い若い者だが、ほんとうに刺青のないのが瑕(きず)だねえ。」と、こう云った。それがお金の耳にちらりと這入ると、これもなんだか赫として、自分の可愛い男に刺青のないと云うことが、恥かしいような、口惜いような、云うに云われない辛さを感じたのです。

       二

 勿論、清吉が堅気の人でしたら、刺青のないと云うことも別に問題にもならず、お金もなんとも思わなかったのでしょうが、相手が駕籠屋の息子だけにどうも困りました。お金のおふくろも固(もと)より悪気で云ったわけではない、ゆく/\は自分の娘の婿になろうという人を嘲弄するような料簡で云ったのではない、なんの気も無しに口が滑っただけのことで、それはお金もよく知っていたのですが、それでもなんだか口惜いような、きまりが悪いような、自分の男と自分とが同時に嘲弄されたように感じられたのです。それもおとなしい娘ならば、胸に思っただけのことで済んだのかも知れませんが、お金は頗る勝気の女で、赫となるとすぐに門口へかけ出して、幾らかおふくろに面当ての気味もあったのでしょう、「清ちゃん、なぜお前さんは刺青をしないんだねえ。」と、今や肌を入れようとする男の背中を、平手でぴしゃりと叩いたのです。
 事件は唯それだけのことで、惚れている女に背中を叩かれたと云うだけのことですが、何うもそれだけのことでは済まなくなった。前にもいう通り、梅の井の家内の者も大勢そこに出ている。喧嘩を見る往来の人もあつまっている。その大勢が見ているまん中で、自分の惚れている女に「刺青がない。」と云われたのは、胸に焼鉄(やきがね)と云おうか、眼のなかに錐と云おうか、兎にかくに清吉にとっては急処を突かれたような痛みを感じました。
 お金のおふくろは清吉やお金を嘲弄するつもりで云ったのではなかったが、お金の耳にはそれが一種の嘲弄のようにきこえる。お金も亦、清吉を侮辱するつもりでは無かったのですが、清吉の身にはそれが嘲弄のように感じられる。つまりは感情のゆき違いと云ったようなわけで、左(さ)らでも逆上(のぼ)せている清吉はいよ/\赫となりました。そうなると男は気が早い。物をも云わずにお金の島田をひっ掴んで、往来へ横っ倒しに捻じ倒すと、あいにくに水が撤いてあったので、お金は可哀そうに帯も着物も泥まぶれになる。それでも、利かない気の女だから倒れながら怒鳴りました。
「清ちゃん、あたしをどうするんだえ。腹が立つなら寧(いっ)そ男らしく殺しておくれ。」
 清吉はもう逆上(のぼ)せ切っていたと見えて、勿論、ほんとうに殺す気でもなかったのでしょうが、うぬっと云いながら又ぞろ自分の下駄を把(と)ったので、梅の井の人達もおどろいて飛び出して、右左から清吉を抱き縮(すく)めてしまったが、こうなると又おふくろが承知しない。
「清ちゃん、なんだって家(うち)の娘をこんなひどい目に逢わせたんだえ。刺青(ほりもの)が無いから無いと云ったのがどうしたんだ。お前さんはなんと思っているか知らないが、これはあたしの大事の娘なんだよ。指でも差すと承知しないから……。巫山戯(ふざけ)た真似をおしでないよ。」
 お金と清吉との関係を万々承知ではあるけれども、自分の見る前で可愛い娘をこんな目に逢わされては、母の身として堪忍ができない。こっちも江戸っ子で、料理茶屋のおかみさんです。腹立ちまぎれに頭から罵倒(こきおろ)すように怒鳴り付けたから、いよ/\事件は面倒になって来ました。清吉も黙ってはいられない。
「えゝ、撲ろうが殺そうが俺の勝手だ。この阿魔はおれの女房だ。」
「洒落たことをお云いでない。おまえさんは誰を媒妁人(なこうど)に頼んで、いつの幾日に家のお金を女房に貰ったんだ。神明様の手洗い水で顔でも洗っておいでよ。ほんとうに馬鹿々々しい。」
 おふくろは畳みかけて罵倒したのです。いくら口惜がっても清吉は年が若い、口のさきの勝負では迚(とて)もこゝのおふくろに敵わないのは知れている。それでも負けない気になって二言三言云い合っているうちに、周囲(まわり)にはいよ/\人立ちがして来たので、おふくろの方でも焦れったくなって来た。
「お前さんのような唐人を相手にしちゃあいられない。なにしろ、お金はあたしの娘なんだからね。当人同士どんな約束があるか知らないが、お金を貰いたけりゃあその背中へ立派に刺青をしておいでよ。」
 おふくろは勝鬨のような笑い声を残して、奥へずん/\這入ってしまうと、お金はなんにも云わずに、つゞいて行ってしまった。取残された清吉は身顫いするほどに口惜がりました。
「うぬ、今に見ろ。」
 その足ですぐに駈け込んだのが源七老爺(じい)さんの家でした。老爺さんはその頃宇田川横町に住んでいて、近所の人ですからお互いに顔は知っていたのです。
 おなじ悪口でも、いっそ馬鹿とか白痴(たわけ)とか云われたのならば、清吉も左ほどには感じなかったかも知れないのですが、ふだんから自分も苦に患(や)んでいる自分の弱味を真正面(まとも)から突かれたので、その悪口が一層手ひどくわが身に堪えたのでしょう。源七にむかって、なんでも可(い)いから是非刺青(ほりもの)をしてくれと頼んだのですが、老爺(じい)さんも素直に諾(うん)とは云わなかったそうです。
「お前さんはからだが弱いので、刺青をしないと云うことも予て聞いている。まあ、止したほうが可いでしょうよ。」
 こんな一通りの意見は、逆上(のぼ)せ切っている清吉の耳に這入ろう筈がありません、邪(じゃ)が非(ひ)でも刺青をしてくれ、それでなければ男の一分(ぶん)が立たない。死んでも構わないから彫ってくれと、斯う云うのです。源七も仕方がないから、まあ兎も角も念のためにその身体をあらためて見ると、なるほど不可(いけ)ない。こんな孱弱(かよわ)いからだに朱や墨を注(さ)すのは、毒を注すようなものだと思ったが、当人は死んでも構わないと駄々を捏ねているのですから、この上にもうなんとも云いようがない。それでも商売人は馴れているから、先ずこんなことを云いました。
「それほどお望みなら彫ってあげても可(い)いが、きょうはお前さんが酔っているようだからおよしなさい。」
 清吉は酔っていないと云いました。今朝から一杯も酒を飲んだことはないと云ったのですが、源七はその背中の肉を撫でて見て、少しかんがえました。
「いえ、酒の気があります。酒を飲まないにしても、味淋の這入ったものを何か喫(た)べたでしょう。少しでも酒の気があっては、彫れませんよ。」
 酒と違って、味淋は普通の煮物にも使うものですから、果して食ったか食わないか、自分にもはっきりとは判らない。これには清吉も些(ちっ)と困った。
「味淋の気があっても不可ませんか。」
「不可ません。すこしでも酔っているような気があると、墨はみんな散ってしまいます。」
 刺青師が無分別の若者を扱うには、いつも此の手を用いるのだそうです。この論法で、きょうも不可(いけ)ない、あしたも不可ないと云って、二度も三度も追い返すと、しまいには相手も飽きて、来なくなる。それでも強情に押掛けてくる奴には、先ず筋彫りをすると云って、人物や花鳥の輪廓を太い線で描く。その場合にはわざと太い針を用いて、精々痛むようにちくり/\と肉を刺すから堪らない。大抵のものは泣いてしまいます。縦令(よしん)ば歯を食い縛って堪えても、身体の方が承知しないで、きっと熱が発(で)る、五六日は苦しむ。これで大抵のものは降参してしまうのです。源七もこの流儀で、味淋の気があるを口実にして、一旦は先ず体よく清吉を追い返したのですが、なか/\この位のことで諦めるのではない。あくる日もその明くる日も毎日毎日根よく押掛けて来るので、源七老爺(じい)さんも仕舞には根負けをしてしまって、それほど執心ならば兎もかくも彫ってみましょうという事になりました。
 そこで源七は先ず筋彫りにかゝった。一体なにを彫るのかと云って雛形の手本をみせると、清吉は「嵯峨や御室(おむろ)」の光国と滝夜叉を彫ってくれと云う注文を出しました。おなじ刺青でも二人立と来ては大仕事で、殊に滝夜叉は傾城(けいせい)の姿ですから、手数がなか/\かゝる。無論、手間賃は幾らでもいゝと云うのですが、この男の痩せた生白い背中に、それほど手の込んだ二人立が乗る訳のものではないので、もう些(ちっ)と軽いものをと色々に勧めたのですが、清吉はどうしても肯かない。是非とも「嵯峨や御室」を頼むと強情を張るので、源七はまた弱らせられました。併しあとで考えると、それにも一応理窟のあることで、彼のお金は一昨年(おととし)のお祭に踊屋台に出た。それが右の「嵯峨や御室」で、お金は滝夜叉を勤めて大層評判が好かったのだそうです。そう云う因縁があるので、清吉は自分の背中にも是非その滝夜叉を彫って貰いたいと望んだわけでした。
 源七もいよ/\根負けがして、まあなんでも可(い)い、当人の註文通りに滝夜叉でも光国でも彫ることにして、例の筋彫りで懲りさしてしまおうと云う料簡で、先ず下絵に取りかゝりました。それから例の太い針でちくり/\と突っ付きはじめたが、清吉は眼を瞑(つぶ)って、歯を食いしばって、じっと我慢をしている。痛むかと訊いても、痛くないと答える。それでも元来無理な仕事をするのですから、強情や我慢ばかりで押通せる訳のものではありません。半月も立たないうちに幾度もひどい熱が出て、清吉は殆ど半病人のようになってしまったが、それでも根よく通って来ました。
 当人の親たちも大変心配して、そんな無理をすると身体に障るだろうと、たび/\意見をしたのですが、清吉はどうしても肯かない。例の通り、死んでもかまわないと強情を張り通しているのだから、周囲(まわり)の者も手を付けることが出来ない。親たちも店の者もたゞ心配しながら日を送っているうちに、清吉はだん/\に弱って来ました。顔の色は真蒼になって、今年十九の若い者が杖をついて歩くようになった。それでも毎日かゝさず通って来るので、源七はその強情におどろくと云うよりも、なんだか可哀そうになって来ました。この上につゞけて彫っていれば、どうしても死ぬよりほかはない。最初からもう一月の余になるが、滝夜叉の全身の筋彫りがよう/\出来上ったぐらいのもので、これから光国の筋彫りを済まして、更に本当の色ざしを終るまでには、幾日かゝるか判ったものではない。清吉がその総仕上げまで生きていられないことは知れきっているので、なんとかしてこゝらで思い切らしたいものだと、源七も色々に考えていると、なんでも冬のなかばで、霙(みぞれ)まじりの寒い雨が降る日だったそうです。清吉はもう歩く元気もない、殊に雨が降っているせいでもありましょう、自分の家の駕籠に乗せられて源七の家へ来ました。なんぼなんでも最(も)う見てはいられないので、半分死んでいるような清吉にむかって、わたしは医者ではないから、ひとの身体のことはよく判らないが、多年の商売の経験で大抵の推量は付く。おまえさんがこの上無理に刺青をすれば、どうしても死ぬに決まっているが、それでも構わずに遣る気か、どうだと云って、噛んで含めるように意見をすると、当人ももう大抵覚悟をしていたとみえて、今度はあまり強情を張りませんでした。
 この時に清吉は初めて彼のお金の一条をうちあけて、自分はどうしてもこの身体に刺青をして、梅の井の奴等に見せてやろうと思ったのだが、それももう出来そうもない。滝夜叉も光国も出来上らないうちに死んでしまうらしい。ついては「嵯峨や御室」の方を中止して、左の腕に位牌、右の腕に石塔を彫って貰いたいと、やつれた顔に涙をこぼして頼んだそうです。源七老爺さんも「その時にはわたしも泣かされましたよ。」とわたしに話しました。
 どうで死ぬと覚悟をしている人の頼みだから、源七も否とは云わなかった。その後も清吉は駕籠で通って来るので、源七も一生懸命の腕をふるって、位牌と石塔とを彫りました。それがようやく出来あがると、清吉は大変によろこんで、あつく礼を云って帰ったが、それから二日ほど経って死んでしまいました。初島の家から報せてやると、梅の井のお金もおふくろも駈けつけて来ましたが、今更泣いても謝っても追っ付くわけのものではありません。菩提寺の和尚様は筆を執って、仏の左右の腕に彫られている位牌と石塔とに戒名をかいて遣ったということです。
[#改段]

雷見舞

       一

 六月の末であった。
 梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ/\云う音がきこえ出した。どうしようかと少し躊躇したが、大したこともあるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。
 傘は用意して来たが、この大雨を衝いて出るほどの勇気もないので、わたしは停車場の構内でしばらく雨やどりをすることにした。そのころの構内は狭いので、わたしと同じような雨やどりが押合っているばかりか、往来の人たちまでが屋根の下へどや/\と駈け込んで来たので、ぬれた傘と湿(ぬ)れた袖とが摺れ合うように混雑していた。
 わたしの額には汗がにじんで来た。
 わたしのそばには老女が立っていた。老女はもう六十を越えているらしいが、あたまには小さい丸髷をのせて、身なりも貧しくない、色のすぐれて白い、上品な婦人であった。かれはわたしと肩をこすり合うようにして立っているので、なんとも無しに一種の挨拶をした。
「どうも悪いお天気でございますね。」
「そうです。急にふり出して困ります。」と、わたしも云った。
「きょう一日はどうにか持つだろうと思っていましたのに……。」
 こんなことを云っているうちにも、雷(らい)はかなりに強く鳴って通った。その一つは近所へ落ちたらしかった。老女は白い顔を真蒼にそめ換えて、殆どわたしのからだへ倒れかゝるように倚(よ)りかゝって眼をとじていた。雷の嫌いな女、それはめずらしくもないので、わたしはたゞ気の毒に思ったばかりであった。実はわたし自身もあまり雷は好きでないので、いゝ加減に通り過ぎてくれゝばいゝと内心ひそかに祈っていると、雨は幸いに三十分を過ぎないうちに小降りになって、雷の音もだん/\に東の空へ遠ざかったので、気の早い人達はそろ/\動きはじめた。わたしもやがて空をみながら歩き出すと、老女もつゞいて出て来た。かれも小さい洋傘(こうもり)を持っていた。
 構外へ出ると、雲の剥げた隙間から青い空の色がところ/″\に洩れて、路ばたの草の露も明るく光っていた。わたしも他の人達とあとや先になって、雨あがりの路をたどってゆくと、一台の人車(くるま)がわたしたちを乗り越して通り過ぎた。雨ももう止んで、その車には幌がおろしてなかったので、車上の人が彼の老女であることはすぐに判った。老女はわたしに黙礼をして通った。
 三浦老人の家(うち)は往来筋にあたっていないので、その横町へまがる時には、もう私と一緒にあるいている人はなかった。往来が少いだけに、横町は殊に路が悪かった。そのぬかるみを注意して飛び渡りながら、ふと向うをみると、丁度彼の家の門前から一台の空車が引返して来るところであった。客はもう門をくゞってしまったので、そのうしろ姿もみえなかったが、車夫の顔には見おぼえがあった。かれは彼の老女をのせて来た者に相違なかった。
 あの女も三浦老人の家へ来たのか。
 わたしは鳥渡(ちょっと)不思議なようにも感じた。停車場で一緒に雨やどりをして、たとい一言でも挨拶した女が、やはり同じ家をたずねてゆく人であろうとは思わなかった。勿論そんな偶然はあり勝のことではあろうが、この場合、かれと我とのあいだに何か一種の糸が繋がってゞもいるように思われないこともなかった。かれはどういう人であろうかと、私はあるきながら想像した。かれは老人の親戚であろうか、知人の細君か未亡人であろうか。それとも――老人がむかしの恋人ではあるまいか――斯うかんがえて来たときに、わたしは思わず微笑して自分の空想を嘲(あざけ)った。
 いずれにしても、来客のあるところへ押掛けてゆくのは良くない。いっそ引返そうかとも思ったが、雨にふり籠められ、雷(らい)におびやかされ、ぬかるみを辿ってこゝまで来たことを考えると、このまゝ空しく帰る気にもなれなかったので、わたしは邪魔をするのを承知の上で、思い切ってそのあとから門をくゞることにした。雨もやみ、傘を持っているにも拘らず、停車場から僅かの路を人車(くるま)に乗ってくるようでは、かの老女もあまり生活に困らない人であろうなどと、わたしは又想像した。
 門を這入って案内を求めると、おなじみの老婢(ばあや)が出て来た。いつもは笑って私を迎える彼女が、きょうは少し迷惑そうな顔をして、その返事に躊躇しているようにもみえるので、わたしは今更に後悔して、やはり門前から引返せばよかったと思ったが、もう何うすることも出来ないので、奥へ取次ぎにゆく彼女のうしろ姿を気の毒のような心持で見送っていると、やがて彼女(かれ)は再び出て来て、いつもの通りにわたしを案内した。
「御用のお客様じゃないのでしょうか。お邪魔のようならば又うかゞいますが……。」と、わたしは遅まきながら云った。
「いいえ、よろしいそうでございます。どうぞ。」と、老婢は先に立って行った。
 いつもの座敷には、あるじの老人と客の老女とが向い合っていた。老女はわたしの顔をみて、これも一種の不思議を感じたように挨拶した。停車場で出逢った話をきいて、三浦老人も笑い出した。
「はゝあ、それは不思議な御縁でしたね。むかしから雨宿りなぞというものは色々の縁をひくものですよ。人情本なんぞにもよくそんな筋があるじゃありませんか。」
「それでもこんなお婆さんではねえ。」
 老女は声をあげて笑った。年にも似合わない華やかな声がわたしの注意をひいた。
「先刻(さっき)はまことに失礼をいたしました。」と、女はかさねて云った。「わたくしはかみなり様が大嫌いで、ごろ/\と云うとすぐに顔の色が変りますくらいで、若いときには夏の来るのが苦になりました。それに、当節とちがいまして、昔はかみなり様が随分はげしく鳴りましたから、まったく半病人で暮す日がたび/\ございました。」
「ほんとうにお前さんの雷(らい)嫌いは格別だ。」と、三浦老人も笑った。「なにしろ、それがために侍ひとりを玉無しにしたんだからね。」
「あゝ、もうその話は止しましょうよ。」と、女は顔をしかめて手を振った。
「まあ、いゝさ。」と、老人はやはり笑っていた。「こちらはそういう話が大変にお好きで、麹町からわざ/\この大久保まで、時代遅れのじいさんの昔話を聴きにおいでなさるのだ。おまえさんも罪ほろぼしに一つお聞かせ申したら何うだね。」
「是非聴かして頂きたいものですね。」と、わたしも云った。この老女の口から何かのむかし話を聞き出すということが、一層わたしの興味を惹いたからであった。
「だって、あなた。別に面白いお話でもなんでも無いんですから。」と、女は迷惑そうに顔をしかめながら笑っていた。
「どうしても聴かして下さるわけには行かないんでしょうか。」と、私も笑いながら催促した。
「困りましたね。まったく詰まらないお話なんですから。」
「詰まらなくてもようござんすから。」
「だって、いけませんよ。ねえ、三浦さん。」と、かれは救いを求めるように老人の顔をみた。
「そう押合っていては果てしがない。」と、老人は笑いながら仲裁顔に云った。「じゃあ、一旦云い出したのが私の不祥で、今更何うにも仕様がないから、わたしが代理で例のおしゃべりをすることにしましょうよ。おまえさんも係り合だから、おとなしくこゝに坐っていて、わたしの話の間違っているところがあったら、一々そばから直してください、逃げてはいけませんよ。」
 いよ/\迷惑そうな顔をしている女をそこに坐らせて置いて、老人はいつもの滑らかな調子で話しはじめた。

       二


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