三浦老人昔話
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著者名:岡本綺堂 

 早々に飯を食ってしまって、藤崎さんはこゝを出ました。かの四人連が下谷の池の端から来た客だということを芝居茶屋の若い衆から聞いているので、藤崎さんは先廻りをして広徳寺前のあたりにうろ/\していると、この頃の天気癖で細かい雨がぽつ/\降って来ました。今と違って、あの辺は寺町ですから夜はさびしい。藤崎さんはある寺の門の下に這入って、雨宿りでもしているようにたゝずんでいると、時々に提灯をつけた人が通ります。その光をたよりに、来る人の姿を一々あらためていると、やがて三四人の笑い声がきこえました。それが彼の四人づれの声であることをすぐに覚って、藤崎さんは手拭で顔をつゝみました。
 人は四人、提灯は一つ。それがだん/\に近寄ってくるのを二三間やり過して置いて、藤崎さんはうしろから足早に附けて行ったかと思うと、亭主らしい男はうしろ袈裟に斬られて倒れました。わっと云って逃げようとするおかみさんも、つゞいて其場に斬り倒されました。連の男と妹娘は、人殺し人殺しと怒鳴りながら、跣足になって前とうしろへ逃げて行く。どっちを追おうかと少しかんがえているうちに、その騒ぎを聞きつけて、近所の珠数屋が戸をあけて、これも人殺し人殺しと怒鳴り立てる。ほかからも人のかけてくる足音が聞える。藤崎さんも我身があやういと思ったので、これも一目散に逃げてしまいました。
 下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所があって、俗に磯馴(そな)れの番所といいます。その番所前も無事に通り越して、もう安心だと思うと、藤崎さんは俄にがっかりしたような心持になりました。だんだんに強くなってくる雨に濡れながら、しずかに歩いているうちに、後悔の念が胸先を衝きあげるように湧いて来ました。
「おれは馬鹿なことをした。」
 当座の口論や一分の意趣で刃傷沙汰に及ぶことはめずらしくない。しかし仮にも武士たるものが、歌舞伎役者の上手下手をあらそって、町人の相手をふたりまでも手にかけるとは、まことに類の少い出来事で、いくら仇討の芝居を見たからと云って、とんだ仇討をしてしまったものです。藤崎さんも今となっては後悔のほかはありません。万一これが露顕しては恥の上塗りであるから、いっそ今のうちに切腹しようかとも思ったのですが、先ず兎もかくも家へ帰って、母にもそのわけを話して暇乞いをした上で、しずかに最期を遂げても遅くはあるまいと思い直して、夜のふけるころに市ヶ谷の屋敷へ帰って来ました。
 奉公人どもを先ず寝かしてしまって、藤崎さんは今夜の一件をそっと話しますと、阿母(おっか)さんも一旦はおどろきましたが、はやまって無暗に死んではならない、組頭によくその事情を申立てゝ、生きるも死ぬもその指図を待つがよかろうと云うことになって、その晩はそのまゝ寝てしまいました。夜があけてから藤崎さんは組頭の屋敷へ行って、一切のことを正直に申立てると、組がしらも顔をしかめて考えていました。
 当人に腹を切らせてしまえばそれ迄のことですが、組頭としては成るべく組下の者を殺したくないのが人情です。殊に事件が事件ですから、そんなことが表向きになると、当人ばかりか組頭の身の上にも何かの飛ばっちりが降りかゝって来ないとも限りません。そこで組頭は藤崎さんに意見して、先ず当分は素知らぬ顔をして成行を窺っていろ。いよ/\詮議が厳重になって、お前のからだに火が付きそうになったらば、おれが内証で教えてやるから、その時に腹を切れ。かならず慌てゝはならないと、くれ/″\も意見して帰しました。
 母の意見、組頭の意見で、藤崎さんも先ず死ぬのを思いとまって、内心びく/\もので幾日を送っていました。斬られたのは下谷の紙屋の若夫婦で、娘はおかみさんの妹、連の男は近所の下駄屋の亭主だったそうです。斬られた夫婦は即死、ほかの二人は運よく逃れたので、町方でもこの二人について色々詮議をしましたが、何分にも暗いのと、不意の出来事に度をうしなっていたのとで、何がなにやら一向わからないと云うのです。それでも芝居の喧嘩の一件が町方の耳に這入って、芝居茶屋の方を一応吟味したのですが、茶屋でも何かのかゝり合を恐れたとみえて、そのお武家は初めてのお客であるから何処の人だか知らないと云い切ってしまったので、まるで手がかりがありません。第一、その侍が果して斬ったのか、それとも此頃流行る辻斬のたぐいか、それすら確かに見きわめは付かないので、紙屋の夫婦はとう/\殺され損と云う事になってしまいました。
 それを聞いて、藤崎さんも安心しました。組頭もほっとしたそうです。それに懲りて、藤崎さんは好きな芝居を一生見ないことに決めまして、組頭や阿母(おっか)さんの前でも固く誓ったと云うことです。それは初めにも申した通り、文久二年の出来事で、それから六年目が慶応四年、すなわち明治元年で、江戸城あけ渡しから上野の彰義隊一件、江戸中は引っくり返るような騒ぎになりました。そのとき藤崎さんは彰義隊の一人となって、上野に立籠りました。六年前に死ぬべき命を今日まで無事に生きながらえたのであるから、こゝで徳川家のために死のうという決心です。
 官軍がなぜ彰義隊を打っちゃって置くのか、今に戦争がはじまるに相違ないと江戸中でも頻りにその噂をしていました。わたくしも下谷に住んでいましたから、前々から荷作りをして、さあと云ったらすぐに立退く用意をしていたくらいです。そのうちに形勢がだん/\切迫して来て、いよ/\明日(あす)か明後日(あさって)には火蓋が切られるだろうという五月十四日の午(ひる)前から、藤崎さんはどこかへ出て行って、日が暮れても帰って来ません。
「あいつ気怯れがして脱走したかな。」
 隊の方ではそんな噂をしていると、夜が更けてから柵を乗り越して帰って来ました。聞いてみると、猿若町の芝居を見て来たというのです。こんな騒ぎの最中でも、猿若町の市村座と守田座はやはり五月の芝居を興行していて、市村座は例の権十郎、家橘、田之助、仲蔵などという顔ぶれで、一番目は「八犬伝」中幕は田之助が女形で「大晏寺堤」の春藤次郎右衛門をする。二番目は家橘――元の羽左衛門です――が「伊勢音頭」の貢をするというので、なか/\評判は好かったのですが、時節柄ですから何うも客足が付きませんでした。藤崎さんは上野に立籠っていながら、その噂を聴いてかんがえました。
「一生の見納めだ。好きな芝居をもう一度みて死のう。」
 隊をぬけ出して市村座見物にゆくと、なるほど景気はよくない。併しこゝで案外であったのは、あれほど嫌いな河原崎権十郎が八犬伝の犬山道節をつとめて、藤崎さんをひどく感心させたことでした。しばらく見ないうちに、権十郎はめっきり腕をあげていました。これほどの俳優(やくしゃ)を下手だの、大根だのと罵ったのを、藤崎さんは今更恥しく思いました。やっぱり紙屋の夫婦の眼は高い。権十郎は偉い。そう思うにつけても藤崎さんはいよ/\自分の昔が悔まれて、舞台を見ているうちに自然と涙がこぼれたそうです。そうして、権十郎と紙屋の夫婦への申訳に、どうしても討死をしなければすまないと、覚悟の臍(ほぞ)をかためたそうです。
 そのあくる日は官軍の総攻撃で、その戦いのことは改めて申すまでもありません。藤崎さんは真先に進んで、一旦は薩州の兵を三橋のあたりまで追いまくりましたが、とう/\黒門口で花々しく討死をしました。それが五月十五日、丁度彼の紙屋の夫婦を斬った日で、しかも七回忌の祥月命日にあたっていたと云うのも不思議です。
 もう一つ変っているのは、藤崎さんの死骸のふところには市村座の絵番附を入れていたと云うことです。彰義隊の戦死者のふところに経文をまいていたのは沢山ありました。これは上野の寺内に立籠っていた為で、なるほど有りそうなことですが、芝居の番附を抱いていたのは藤崎さん一人でしょう。番附の捨てどころがないので、何ということなしに懐中(ふところ)へ捻じ込んで置いたのか、それとも最後まで芝居に未練があったのか、いずれにしても江戸っ子らしい討死ですね。
 河原崎権十郎は後に日本一の名優市川団十郎になりました。
[#改段]

春色梅ごよみ

       一

 思い出すと、そのころの大久保辺はひどく寂しかった。躑躅(つゝじ)のひと盛りを過ぎると、まるで火の消えたように鎮まり返って、唯やかましく聞えるのはそこらの田に啼く蛙の声ばかりであった。往来のまん中にも大きな蛇が蜿(のた)くっていて、わたしは時々におどろかされたことを記憶している。幾度もいうようであるが、まったくこゝらは著しく変った。
 それでも幾分か昔のおもかげが残っていて、今でも比較的に広い庭園や空地を持っている家では、一種の慰み半分に小さい野菜畑などを作って素人園芸を楽しんでいるのも少くない。わたしの家(うち)のあき地にも唐もろこしを栽(う)えてあって、このごろはよほど伸びた長い葉があさ風に青く乱れているのも、又おのずからなる野趣がないでもない。三浦老人の旧宅にも唐蜀黍(とうもろこし)が栽えてあって、秋の初めにたずねてゆくと、老人はその出来のいゝのを幾分か御自慢の気味で、わたしを畑へ案内して見せたこともあった。焼いて食わせてくれたこともあった。家へのみやげにと云って大きいのを七八本も抱えさせられて、少々有難迷惑に感じたこともあった。
 それも今では懐しい思い出の一つとなった。わたしはこのごろ自分の庭のあき地を徘徊して、朝に夕にめっきりと伸びてゆく唐もろこしの青い姿を見るたびに、三浦老人その人のすがたや、その当時はまだ青二才であった自分の若い姿などが見かえられて、今後更に二十余年を経過したらば、こゝらのありさまも又どんなに変化するかなどと云うことも考えさせられる。
 これから紹介するのは、今から二十幾年前の秋、その唐もろこしの御馳走になりながら、縁さきにアンペラの座蒲団をしいて、三浦老人とむかい合っていたときに聴かされた昔話の一つである。その頃に比べると、こゝらの藪蚊はよほど減った。それだけは土地繁昌のおかげである。

 老人は語った。
 これはこゝから余り遠くないところのお話で、新宿の新屋敷――と云っても、あなた方にはお判りにならないかも知れませんが、つまり今日の千駄ヶ谷の一部を江戸時代には新屋敷と唱えていました。そこには大名の下屋敷もある、旗本の屋敷もある。ほかに御家人の屋敷も沢山ありましたが、なんと云っても場末ですから随分さびしい。往来のところ/″\に草原がある、竹藪がある。うら手の方には田圃がみえる、田川が流れているという道具立ですから、大抵お察しください。その六軒町というところに高松勘兵衛という二百俵取りの御家人が住んでいました。
 いつぞやは御家人たちの内職のお話をしたことがありましたが、この人は槍をよく使うので近所の武家の子供たちを弟子にとっている。流儀は木下流――木下淡路守利常(としつね)という人が槍術の一流をはじめたので、それを木下流というのです。この人は内職でなく、もと/\武芸が好きで、慾を離れて弟子を取立てゝいたのですから、人間は律儀一方で武士気質の強い人、御新造はおみのさんと云って夫婦のあいだに姉弟の子どもがある。姉さんはお近さんと云って二十四、弟は勘次郎と云って十八歳、そのまん中にまだひとり女の子があったのですが、それは早くに死んだそうです。お父(とっ)さんはまだ四十五六の勤め盛りですから、息子の部屋住みは当然でしたが、姉さんのお近さんはもう二十四にもなってなぜ自分の家に居残っているかと云うと、これはこの春まで御奉公に出ていたからです。
 武家の娘でも奉公に出ます。勿論、町人の家に奉公することはありませんが、自分の上役の屋敷に奉公するのは珍しくありません。御家人のむすめが旗本屋敷に奉公するなどは幾らもありました。一つは行儀見習いの為で、高松のお近さんも十七の春から薙刀の出来るのを云い立てに、本郷追分の三島信濃守という四千石の旗本屋敷へ御奉公にあがりまして、お嬢さま附となっていました。旗本も四千石となると立派なもので、殆ど一種の大名のようなものです。大名はどんなに小さくとも大名だけの格式を守って行かなければならず、参覲交代もしなければなりませんから、内証はなか/\苦しい。したがって、一万石や二万石ぐらいの木葉大名よりも、四千石五千石の旗本の方がその生活は却って豊なくらいでした。
 三島の屋敷も評判の物堅い家風でした。高松さんもそれを知って自分の娘を奉公に出したのですが、まったく奥も表も行儀が正しく、武道の吟味が強い。お近さんはお嬢さまのお相手をして薙刀の稽古を励む。ほかの腰元たちも一緒になって薙刀や竹刀(しない)撃の稽古をする。まるで鏡山の芝居を観るようです。奥さまは勿論ですが、殿さまも時々に奥へお入りになって、女どもの試合を御覧になるのですから、女たちも一層熱心に稽古をする。女でさえも其通りですから、まして男でこの屋敷に奉公するほどのものは、足軽仲間にいたるまで竹刀の持ち様は確かに心得ているというわけで、まことに武張った屋敷でした。
「武家に奉公するものは武芸を怠ってはならぬ。まして今の時世であるから、なんどき何事が起らないとも限らぬ。男も女もその用心を忘れまいぞ。」
 これが殿さまや奥さまの意見で、屋敷のもの一統へ常日頃から厳重に触れ渡されているのです。お近さんという娘は子供のときからお父(とっ)さんの仕付をうけていますから、こういう屋敷にはおあつらえ向きで、主人の首尾もよく、自分も満足して、忠義一図に幾年のあいだを勤め通して、薙刀や竹刀撃に娘ざかりの月日を送っていました。これはお近さんに限らず、御殿奉公をする者はみなそうでしたろうが、取りわけてこの屋敷は武芸専門というのですから、勤め向きも余計に骨が折れたろうと思われます。併しどの奉公人もそれを承知で住み込んだものばかりですから、別に苦労とも思わなかったのです。お近さんなどは宿下りで自分の家へ帰ったときに、それを自慢らしく両親に吹聴し、親たちも一緒になって喜んでいたくらいでした。
 それで済めば天下泰平、いや、些(ちっ)とぐらいの騒動が起っても大丈夫であったのですが、こゝに一つの事件が出来(しゅったい)した。というのは、この屋敷のお嬢さまが病気になったのです。なにしろ殿さまも奥さまも前に云ったような気風の人たちですから、どうも今時のわかい者は気に入らない。したがって、今日までに縁組の相談があっても、あんな柔弱な奴のところへは嫁に遣れないとか、あんな不心得の人間を婿には出来ないとか、色々むずかしいことを云って断ってしまうので、自然に縁遠い形になって、お嬢さまは二十一になるまで親の手許にいて、相変らず薙刀や竹刀撃の稽古をつゞけている。そのうちに何という病気か判らない、その頃の詞(ことば)で云うとぶら/\病というのに罹って、どうも気分がすぐれない、顔の色もよくない。どっと寝付くほどの大病でもないが、なにしろ半病人のすがたで、薙刀のお稽古もこの頃は休み勝になりました。
「これは静かなところでゆる/\と御養生遊ばすに限ります。」
 医者もこう勧め、両親もそう思って、お嬢さまはしばらく下屋敷の方に出養生ということになりました。大きい旗本はみな下屋敷を持っています。三島家の下屋敷は雑司ヶ谷にありました。お近さんもお嬢さまのお供をして雑司ヶ谷へゆくことになったのは、安政四年の桜の咲く頃で、そこらの畑に菜の花が一面に咲いているのをお嬢さまは珍しがったということでした。

       二

 どこでも下屋敷は地所を沢山に取っていますから庭も広い、空地も多い。庭には桜や山吹が咲きみだれている。天気のいゝ日にはお嬢さまも庭に出て、木の陰や池のまわりなどをそゞろ歩きして、すこしは気分も晴れやかになるだろうと思いの外、うらゝかな日に庭へ出て、あたゝかい春風に吹かれていると、却って頭が重くなるとか云って、お嬢様はめったに外へも出ない。たゞ垂れ籠めて鬱陶しそうに春の日永を暮している。殊に花時の癖で、今年の春も雨が多い。そばに附いている者までが自然に気が滅入って、これもお嬢さま同様にぶら/\病にでもなりそうになって来ました。医者は三日目に一度ずつ見まわりに来てくれるが、お嬢さまは何うもはっきりとしない。するとある日のことでした。きょうも朝から絹糸のような春雨が音も無しにしと/\と降っている。お嬢さまは相変らず鬱陶しそうに黙っている。お近さんをはじめ、そばに控えている二三人の腰元もたゞぼんやりと黙っていました。
 こんなときには琴を弾くとか、歌でも作るとか、なにか相当の日ぐらしもある筈ですが、屋敷の家風が例の通りですから、そんな方のことは誰もみな不得手です。屋敷奉公のものは世間を知らないから世間話の種もすくない。勿論、こゝでは芝居の噂などが出そうもない。たゞ詰らなそうに睨み合っているところへ、お仙という女中がお茶を運んで来ました。お仙は始終この下屋敷の方に詰めているのでした。
「どうも毎日降りまして、さぞ御退屈でいらせられましょう。」
 みんなも退屈し切っているところなので、このお仙を相手にして色々の話をしているうちに、なにかの切っかけからお仙はそのころ流行の草双紙の話をはじめました。それは例の種員(たねかず)の「しらぬひ譚(ものがたり)」で、どの人も生れてから殆ど一度も草双紙などを手に取ったこともない人達なので、その面白さに我を忘れて、皆うっとりと聴き惚れていました。
 お嬢様もその草双紙の話がひどく御意に入ったとみえて、日が暮れてからも又その噂が出ました。
「仙をよんで、さっきの話のつゞきを聴いてはどうであろう。」
 誰も故障をいう者はなくて、お仙はお嬢さまの前によび出されました。そうして、五つ(午後八時)の時計の鳴る頃まで、青柳春之助や鳥山秋作の話をしたのですが、それが病み付きになってしまって、それからはお仙が毎日「しらぬひ譚」のお話をする役目をうけたまわることになりました。お仙がどうしてこんな草双紙を読んでいたかというと、この女は三島家の知行所から出て来た者ではなくて、下谷の方から――実はわたくしの家の近所のもので、この話もその女から聞いたのです。――奉公にあがっている者ですから、家にいたときに草双紙も読んでいる。芝居もとき/″\には覗いている。そういうわけですから、例の「しらぬひ譚」も知っていて、測らずもそれがお役に立ったのです。
 一体お仙はどんな風にその話をしたのか知りませんが、なにしろ聴く人たちの方は薙刀や竹刀のほかには今までなんにも知らなかった連中ばかりですから、初めて聴かされた草双紙の話が馬鹿に面白い。みんなは口をあいて聴いているという始末。しかしお仙も「しらぬひ譚」を暗記しているわけでもないのですから、話に曖昧なところも出て来る。聴いている方では焦(じれ)ったくなる。それが高じて、とう/\その「しらぬひ譚」の草双紙を借りて読もうということになって、お仙がそのお使を云い付かって、牛込辺のある貸本屋を入れることになりました。
 どこの大名でも旗本でも下屋敷の方は取締りがずっと緩(ゆる)やかで、下屋敷ではまあ何をしてもいゝと云うことになっていました。殊にそれがお嬢さまの気保養にもなると云うので、下屋敷をあずかっている侍達もその貸本屋の出入りを大目に見ていたらしいのです。くどくも云う通り、お嬢様をはじめ、お附の女たち一同は生れてから初めて草双紙などというものを手に取ったので、先ず第一に絵が面白い、本文も面白い。みんな夢中になって草双紙の話ばかりしている。貸本屋の方では好いお得意が出来たと思って、色々の草双紙を持ち込んでくる。それでもまあ「田舎源氏」や何かのうちは好かったのですが、だん/\進んで来て、人情本などを持ち込むようになる。先ず「娘節用(むすめせつよう)」が序開きで、それから「春色梅ごよみ」「春色辰巳園(たつみのその)」などというものが皆んなの眼に這入って、お近さんまでが狂訓亭主人の名を識るようになると、若い女の多いこの下屋敷の奥には一種の春色が漲って来ました。今迄は半病人であったお嬢さまの顔色も次第に生々して、とき/″\には笑い声もきこえる。このごろは貸本屋があまりに繁く出入りをするので、困ったものだと内々は顔をしかめている侍たちも、それがためにお嬢さまの御病気がだん/\によくなると云うのですから、押切ってそれを遮るわけにも行かないで、まあ黙って観ているのでした。
 そうして、夏も過ぎ、秋も過ぎましたが、お嬢さまはまだ本郷の屋敷へ戻ろうと云わない。お附の女中達も本郷へお使に行ったときには、好い加減の嘘をこしらえて、お嬢さまの御病気はまだほんとうに御本復にならないなどと云っている。本郷へ帰れば殿様や奥様の監視の下に又もや薙刀や竹刀をふり廻さなければならない。それよりも下屋敷に遊んでいて、夏の日永、秋の夜永に、狂訓亭主人の筆の綾をたどって、丹次郎や米八の恋に泣いたり笑ったりしている方が面白いというわけで、武芸を忘れてはならぬという殿様や奥様の教訓よりも、狂訓亭の狂訓の方が皆んなの身にしみ渡ってしまったのです。
 そのなかでもその狂訓に強く感化されたのは、彼のお近さんでした。どうしたものか、この人が最も熱心な狂訓亭崇拝者になり切ってしまって、読んでいるばかりでは堪能が出来なくなったとみえて、わざ/\薄葉(うすよう)の紙を買って来て、それを人情本所謂小本の型に切って、原本をそのまゝ透き写しにすることになったのです。お近さんは手筋が好い、その器用と熱心とで根気よく丹念に一枚ずつ写して行って、幾日かゝったのか知りませんが、兎も角もその年の暮までに梅暦四編十二冊、しかも口絵から插絵まで残らず綺麗に写しあげてしまったそうです。今のお近さんの宝というのは、御奉公に出るときにお父(とっ)さんから譲られた二字国俊――おそらく真物(ほんもの)ではあるまいと思われますが――の短刀と、「春色梅ごよみ」十二冊の写本とで、この二つは身にも換えがたいと云うくらいの大切なものでした。
「どうも困ったものだ。」と、下屋敷の侍達はいよ/\眉をひそめました。
 いくら下屋敷だからと云って、あまりに猥な不行儀なことが重なると、打っちゃって置くわけには行かない。殊に三島の屋敷は前にも申す通り、武道の吟味の強い家風ですから、そんなことが上屋敷の方へきこえると、こゝをあずかっている者どもの越度(おちど)にもなるので、もう何とかしなければなるまいかと内々評定しているうちに、貸本屋の方ではいよ/\増長して、このごろは春色何とかいうもの以上に春色を写してあるらしい猥な書物をこっそりと持ち込んで来るのを発見したので、侍達ももう猶予していられなくなって、貸本屋は出入りを差止められてしまいました。お仙もあやうく放逐されそうになったが、これはお嬢さまのお声がかりで僅かに助かりました。
 貸本屋の出入りが止まるとなると、お近さんの写本がいよ/\大切なものになって、お近さんは内証でそれを読んで聞かせて皆んなを楽しませていました。――野にすてた笠に用あり水仙花、それならなくに水仙の、霜除けほどなる佗住居――こんな文句は皆んなも暗記してしまうほどになりました。そうしているうちに、こんなことが自然に上屋敷の方へ洩れたのか、或は侍たちも持て余して密告したのか、いずれにしてもお嬢様を下屋敷に置くのは宜しくないというので、病気全快を口実に本郷の方へ引き戻されることになりました。それは翌年の二月のことで、丁度出代り時であるのでお近さんともう一人、お冬とかいう女中がお暇(いとま)になりました。下屋敷の方ではお仙がとう/\放逐されてしまいました。
 普通の女中とは違って、お近さんはお嬢さまのお嫁入りまでは御奉公する筈で、場合によってはそのお嫁入り先までお供するかも知れないくらいであったのに、それが突然にお暇になった。表向きはお人減(ひとべら)しというのであるが、どうも彼の貸本屋一件が祟りをなして、お近さんともう一人の女中がその主謀者と認められたらしいのです。それは彼のお仙の放逐をみても察しられます。
 いつの代でもそうでしょうが、取分けてこの時代に主人が一旦暇をくれると云い出した以上、家来の方ではどうすることも出来ません。お近さんはおとなしくこの屋敷をさがるより外はないので、自分の荷物を取りまとめて新屋敷の親許へ帰りました。その葛籠(つゞら)の底には彼の「春色梅ごよみ」の写本が忍んでいました。

       三

 お父(とっ)さんの高松さんは物堅い人物ですから、娘が突然に長の暇を申渡されたに就てすこしく不審をいだきまして、一応はお近さんを詮議しました。
「どうも腑に落ちないところがある、奉公中に何かの越度(おちど)でもあったのではないか。」
「そんなことは決してござりません。」と、お近さんは堅く云い切りました。「時節柄、お人減しと申すことで、それは奥様からもよくお話がござりました。」
 まったくこの時節柄であるから、諸屋敷で人減しをすることも無いとは云えない。殊に三島の屋敷のことであるから、武具馬具を調えるために他の物入りを倹約する、その結果が人減しとなる。そんなことも有りそうに思われるので、高松さんも娘の詮議は先ずそのくらいにして置きました。阿母(おっか)さんも正直な人ですから、別にわが子を疑うようなこともなく、それで無事に済んでしまったのですが、それから三月四月と過ぎるうちに、お父さんの気に入らないようなことが色々出来たのです。
 高松さんの屋敷では槍を教えるので、毎日十四五人の弟子が通ってくる。そのなかで肩あげのある子供達が来たときには、お近さんはその稽古場を覗いても見ませんが、十八九から二十歳ぐらいの若い者が来ると、お近さんは出て行って何かの世話を焼く。時には冗談などを云うこともあるので、お父さんは苦い顔をして叱りました。
「稽古場へ女などが出てくるには及ばない。」
 それでも矢はり出て来たり、覗きに来たりするので、その都度に高松さんは機嫌を悪くしました。ある時、久振りで薙刀を使わせてみると、まるで手のうちは乱れている。もと/\薙刀を云い立てに奉公に出たくらいで、その後も幾年のあいだ、お嬢さまに附いて稽古を励んでいたというのに、これは又どうしたものだと高松さんも呆れてしまいました。そればかりでなく万事が浮ついて、昔とはまるで別の人間のようにみえるので、お父さんはいよ/\機嫌を悪くしました。
「どうも飛んだことをした。こうと知ったら奉公などに出すのではなかった。」
 高松さんは時々に顔をしかめて、御新造に話すこともありました。そのうちに六月の末になる。旧暦の六月末ですから、土用のうちで暑さも強い。師匠によると土用休みをするのもあるが、高松さんは休まない。きょうも朝の稽古をしまって、汗を拭きに裏手の井戸端へ出ました。場末の組屋敷ですから地面は広い。うらの方は畑になって矢はり唐蜀黍(とうもろこし)などが栽えてある。その畑のなかに白地の単衣をきた女が忍ぶように立っている。それがお近さんであることは、高松さんにはすぐに判ったのですが、向うでは些(ちっ)とも気が注かないで、何か一心に読み耽っているらしい。以前ならばそのまゝに見過してしまったのでしょうが、此頃はひどく信用を墜しているお近さんがわざ/\畑のなかへ出て、唐蜀黍のかげに隠れるようにして何か読んでいる。それがお父さんの注意をひいたので、高松さんは抜足をして竊(そっ)とそのうしろへ廻って行きました。
 日を避け、人目をよけて、お近さんが唐蜀黍の畑のなかで一心に読んでいたのは例の写本の一冊でした。こんなものが両親の眼に止まっては大変ですから、お近さんは自分の葛籠(つゞら)の底ふかく秘めて置いて、人に見付からないようなところへ持ち出して、そっと読んでいる。そこを今朝は運悪くお父さんに見付けられたのです。
「これはなんだ。」
 だしぬけにその本を取り上げられてしまったので、お近さんはもう何うすることも出来ない。しかし「春色梅ごよみ」という外題を見ただけでは、お父さんにもその内容は一向わからないのですから、お近さんも何とか頓智をめぐらして、巧く誤魔かしたいと思ったのですが、困ったことには本文ばかりでなく、男や女の插絵が這入っている。それをみただけでも大抵は想像が付く筈です。お近さんも返事に支えておど/\していると、高松さんは娘の襟髪をつかみました。
「怪しからん奴だ。こんなものを何うして持っている。さあ、来い。」
 内へ引摺って来て、高松さんは厳重に吟味をはじめました。お近さんは強情に黙っていたが、それでお父さんが免す筈がない。弟の勘次郎を呼んで、姉の葛籠をあらためて見ろという。もう斯うなっては運の尽きで、お近さんの秘密はみな暴露してしまいました。なにしろその写本があわせて十二冊もあるので、高松さんも一時は呆れるばかりでしたが、やがて両の拳を握りつめながら、むすめの顔を睨みつけました。
「いや、これで判った。三島の屋敷から不意に暇を出されたのも、こういう不埓があるからだ。女の身として、まして武家の女の身として、かような猥な書物を手にするなどとは、呆れ返った奴だ。」
 さん/″\叱り付けた上で、高松さんは弟に云いつけて、その写本全部を庭さきで焼き捨てさせました。お近さんが丹精した「春色梅ごよみ」十二冊は、炎天の下で白い灰になってしまったのです。お近さんは縁側に手をついたまゝで黙っていましたが、それがみんな灰になってゆくのを見たときには、涙をほろ/\とこぼしたそうです。それを横眼に睨んで、お父さんは又叱りました。
「なにが悲しい。なにを泣く。たわけた奴め。」
 阿母さんはさすがに女で、なんだか娘がいじらしいようにも思われて来たのですが、問題が問題ですから何とも取りなす術もない。その場は先ずそれで納まったのですが、高松さんは苦り切っていて、その日一日は殆ど誰とも口をきかない。お近さんは自分の部屋に這入って泣いている。今日の詞(ことば)で云えば、一家は暗い空気に包まれているとでもいう形で、その日も暮れてしまいました。
 その夜なかの事です。昼間の一件でむしゃくしゃするのと、今夜は悪く蒸暑いのとで、高松さんは夜のふけるまで眠られずにいると、裏口の雨戸をこじ明けるような音がきこえたので、もしや賊でも這入ったのかと、すぐに蚊帳をくゞって出て、長押(なげし)にかけてある手槍の鞘を払って、台所の方へ出てみると、一つの黒い影が今や雨戸をあけて出ようとするところでした。生憎に今夜は暗い晩でその姿もよくは判らないが、兎もかくも台所の広い土間から表へ出てゆく影だけは見えたので、高松さんはうしろから声をかけました。
「誰だ。」
 相手はなんにも返事もしないで、土間に積んである薪の一つを把(と)って、高松さんを目がけて叩き付けると、暗いので避け損じて、高松さんはその薪ざっぽうで左の腕を強く打たれました。名をきいても返事をしない、しかも手向いをする以上は、もう容赦はありません。高松さんは土間に飛び降りて追いかけると、相手は素疾く表へぬけて出る。なにしろ暗いので、もし取逃すといけないと思ったので、高松さんはその跫音をたよりに、持っている槍を投げ付けると、さすがは多年の手練で、その投槍に手堪えがあったと思うと、相手は悲鳴をあげて倒れました。
 この騒ぎに家中の者が起きてみると、ひとりの女が投槍に縫われて倒れていました。背から胸を貫かれたのですから、勿論即死です。それはお近さんで、着換え二三枚を入れた風呂敷づつみを抱えていました。
 お近さんは家出をして、どこへ行こうとしたのか、それは判りません。併しお仙の話によると、それより五六日ほど前に、お仙が大木戸の親類まで行ったとき、途中でお近さんに逢ったそうです。お近さんはひどく懐しそうに話しかけて、わたしは再び奉公に出たいと思うが、どこかに心当りはあるまいか。屋敷にはかぎらない、町家でもいゝと云うので、町家でもよければ心あたりを探してみようと答えて別れたことがあると云いますから、或いはお仙のところへでも頼って行く積りであったかも知れません。別に男があったというような噂はなかったそうです。
 お父さんに声をかけられた時、こっちの返事の仕様によっては真逆に殺されもしなかったでしょうに、手向いをしたばっかりに飛んでもないことになってしまいました。しかしお近さんの身になったら、その薪ざっぽうを叩き付けたのが、せめてもの腹癒せであったかも知れません。
「これもわたしが種を蒔いたようなものだ。」
 お仙はあとで切(しき)りに悔んでいました。三島のお嬢さまはその後どうしたか知りません。お近さんのお父さんは十五代将軍の上洛のお供をして、明治元年の正月、彼の伏見鳥羽の戦いで討死したと云うことです。
[#改段]

旗本の師匠

       一

 あるときに三浦老人がこんな話をした。
「いつぞや『置いてけ堀』や『梅暦』のお話をした時に、御家人たちが色々の内職をするといいましたが、その節も申した通り、同じ内職でも刀を磨(と)いだり、魚を釣ったりするのは、世間体のいゝ方でした。それから、髪を結うのもいゝことになっていました。陣中に髪結いはいないから、どうしてもお互いに髪を結い合うより外はない。それですから、武士が他人の髪を結っても差支えないことになっている。勿論、女や町人の頭をいじるのはいけない。更に上等になると、剣術柔術の武芸や手習学問を教える。これも一種の内職のようなものですが、こうなると立派な表芸で、世間の評判も好し、上のおぼえもめでたいのですから、一挙両得ということにもなります。」
「やはり月謝を取るのですか。」と、わたしは訊いた。
「所詮は内職ですから月謝を取りますよ。」と、老人は答えた。
「小身の御家人たちは内職ですが、御家人も上等の部に属する人や、または旗本衆になると、大抵は無月謝です。旗本の屋敷で月謝を取ったのは無いようです。武芸ならば道場が要る、手習学問ならば稽古場が要る。したがって炭や茶もいる、第一に畳が切れる。まだそのほかに、正月の稽古はじめには余興の福引などをやる。歌がるたの会をやる。初午(うま)には強飯(こわめし)を食わせる。三月の節句には白酒をのませる。五月には柏餅を食わせる。手習の師匠であれば、たなばた祭もする。煤はらいには甘酒をのませる、餅搗きには餅を食わせるというのですから、師匠は相当の物入りがあります。それで無月謝、せい/″\が盆正月の礼に半紙か扇子か砂糖袋を持って来るぐらいのことですから、慾得づくでは出来ない仕事です。ことに手習子(てならいこ)でも寄せるとなると、主人ばかりではない、女中や奥様までが手伝って世話を焼かなければならないようにもなる。毎日随分うるさいことです。」
「そういうのは道楽なんでしょうか。」
「道楽もありましょうし、人に教えてやりたいという奇特の心掛けの人もありましょうし、上(かみ)のお覚えをめでたくして自分の出世の蔓にしようと考えている人もありましょうし、それは其人によって違っているのですから、一概にどうと云うわけにも行きますまい。又そのなかには、自分の屋敷を道場や稽古場にしていると云うのを口実に、知行所から余分のものを取立てるのもある。むかしの人間は正直ですから、おれの殿様は剣術や手習を教えて、大勢の世話をしていらっしゃるのだから、定めてお物入りも多かろうと、知行所の者共も大抵のことは我慢して納めるようにもなる。こういうのは、弟子から月謝を取らないで、知行所の方から月謝を取るようなわけですが、それでも知行所の者は不服を云わない。江戸のお屋敷では何十人の弟子を取っていらっしゃるそうだなどと、却って自慢をしている位で、これだけでも今とむかしとは人気が違いますよ。いや、その無月謝のお師匠様について、こんなお話があります。」

 赤坂一ツ木に市川幾之進という旗本がありました。大身というのではありませんが、二百五十石ほどの家柄で、持明院流の字をよく書くところから、前に云ったように手跡(しゅせき)指南をすることになりました。この人はまことに心がけの宜しい方で、それを出世の蔓にしようなどという野心があるでも無し、蔵前取(くらまえど)りで知行所を持たないのですから、それを口実に余分のものを取立てるという的(あて)があるでも無し、つまりは自分の好きで、自分の身銭を切って大勢の弟子の面倒をみていると云うわけでした。
 市川さんはその頃四十前後、奥さんはお絹さんと云って三十五六、似たもの夫婦という譬の通り、この奥さんも深切に弟子たちの世話を焼くので、まことに評判がよろしい。お照さんという今年十六の娘があって、これも女中と一緒になって稽古場の手伝いをしていました。市川さんの屋敷はあまり広くないので、十六畳ほどのところを稽古場にしている。勿論、それを本業にしている町の師匠とは違いますから、弟子はそんなに多くない。町の師匠ですと、多いのは二百人ぐらい、少くも六七十人の弟子を取っていますが、市川さんなどの屋敷へ通ってくるのは大抵二三十人ぐらいでした。
 そこで鳥渡(ちょっと)お断り申して置きますが、こういう師匠の指南をうけに来るものは、かならず武家の子どもに限ったことはありません。町人職人の子どもでも弟子に取るのが習いでした。師匠が旗本であろうが、御家人であろうが、弟子師匠の関係はまた格別で、そのあいだに武家と町人との差別はない。已に手跡を指南するという以上は、大工や魚屋の子どもが稽古に来ても、旗本の殿様がよろこんで教えたものです。それですから、こういう屋敷の稽古になると、武家の息子や娘も来る、町人や職人の子供も来るというわけで、師匠によっては武家と町人との席を区別するところもあり、又は無差別に坐らせるところもありましたが、男の子と女の子とは必ず別々に坐らせることになっていました。市川さんの屋敷では武家も町人も無差別で、なんでも入門の順で天神机を列べさせることになっていたそうです。
 一体、町家の子どもは町の師匠に通うのが普通ですが、下町と違って山の手には町の師匠が少いという事情もあり、たといその師匠があっても、御屋敷へ稽古に通わせる方が行儀がよくなると云って、わざ/\武家の指南所へ通わせる親達もある。痩せても枯れても旗本の殿様や奥様が涎れくりの世話を焼いてくれて、しかもそれが無月謝というのだから有難いわけです。その代りに仕付方(しつけかた)はすこし厳しい。なにしろ御師匠さまは刀をさしているのだから怖い。それがまた当人の為にもなると、喜んでいる親もあるのでした。市川さんのところにも町の子どもが七八人通っていましたが、市川さんも奥さんも真直な気性の人でしたから、武家の子供も町家の子供もおなじように教えます。そのあいだに些(ちっ)とも分け隔てがない。それですから、町家の親達はいよ/\喜んでいました。
 それだけならば、至極結構なわけで、別にお話の種になるような事件も起らない筈ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では強飯(こわめし)をたいて、なにかの煮染(にし)めものを取添えて、手習子たちに食べさせました。きょうは御稽古は休みです。土地のお祭りですから、どこの家(うち)でも強飯ぐらいは拵えるのですが、子供たちはお師匠さまのお屋敷で強飯の御馳走になって、それから勝手に遊びに出る。それが年々の例になっているので、今年もいつもの通りにあつまって来る。奥さんやお嬢さんや女中が手伝って、めい/\の前に強飯とお煮染めをならべる。いくら行儀がいゝと云っても、子供たちのことではあり、殊にきょうはお祭りだというのですから、大勢がわあ/\騒ぎ立てる。それでも不断の日とは違うから、誰も叱らない。子供たちは好い気になって騒ぐ。そのうちに、今井健次郎という今年十二になる男の児が三河屋綱吉という同い年の児の強飯のなかへ自分の箸を突っ込んだ。それが喧嘩のはじまりで、ふたりがとう/\組討になると、健次郎の方にも四五人、綱吉の方にも三四人の加勢が出て、畳の上でどたばたという大騒ぎが始まりました。
 健次郎はこの近所に屋敷を持っている百石取りの小さい旗本の忰で、綱吉は三河屋という米屋の忰です。師匠はふだんから分け隔てのないように教えていても、屋敷の子と町家の子とのあいだには自然に隔てがある。さあ喧嘩ということになると、武家の子は武家方、町家の子は町家方、たがいに党を組んでいがみ合うようになります。きょうも健次郎の方には武家の子どもが加勢する。綱吉の方には町家の子どもが味方するというわけで、奥さんや女中が制してもなか/\鎮まらない。そのうちに健次郎をはじめ、武家の子供たちが木刀をぬきました。子供ですから木刀をさしている。それを抜いて振りまわそうとするのを見て、師匠の市川さんももう捨て置かれなくなりました。
「これ、鎮まれ、鎮まれ。騒ぐな。」
 いつもならば叱られて素直に鎮まるのですが、きょうはお祭で気が昂(た)っているのか、どっちもなか/\鎮まらない。市川さんは壁にかけてあるたんぽ[#「たんぽ」は底本では「たんぼ」]槍を把(と)って、木刀をふりまわしている二三人を突きました。突かれた者はばた/\倒れる。これで先ず喧嘩の方は鎮まりました。突かれた者は泣顔をしているのを、奥さんがなだめて帰してやる。町家の組も叱られて帰る。どっちにも係り合わなかった者は、おとなしいと褒められて帰る。壁にかけてあるたんぽ槍は単に嚇しの為だと思っていたら、今日はほんとうに突かれたので、子供たちも内々驚いていました。
 その日はそれで済みましたが、あくる朝、黒鍬(くろくわ)の組屋敷にいる大塚孫八という侍がたずねて来て、御主人にお目にかゝりたいと云い込みました。黒鍬組は円通寺の坂下にありまして、御家人のなかでも小身者が多かったのです。市川さんは兎もかくも二百五十石の旗本、まるで格式が違います。殊に大塚の忰孫次郎はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚は一層丁寧に挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから大塚はこんなことを云い出しました。
「せがれ孫次郎めは親どもの仕付方が行きとゞきませぬので、御覧の通りの不行儀者、さだめてお目にあまることも数々であろうと存じまして、甚だ赤面の次第でござります。」
 それを序開きに、彼はきのうの一条について師匠に詰問をはじめたのです。前にもいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいているのですが、その口上の趣意は正しく詰問で、今井の子息健次郎どのが三河屋のせがれ綱吉と喧嘩をはじめ、武家の子供、町家の子供がそれに加勢して挑み合った折柄に、師匠の其許はたんぽ槍を繰り出して、武家の子ども二三人を突き倒された。本人の健次郎どのは云うに及ばず、手前のせがれ孫次郎もその槍先にかゝったのである。それがために孫次郎は脾腹を強く突かれて、昨夜から大熱を発して苦しんでいる。勿論、一旦お世話をねがいましたる以上、不行儀者の御折檻は如何ようなされても、かならずお恨みとは存じないのであるが、喧嘩両成敗という掟にはずれて、その砌りに町家の子どもには何の御折檻も加えられず、武家の子供ばかりに厳重の御仕置をなされたのは如何なる思召でござろうか。弟子の仕付方はそれで宜しいのでござろうか。念のためにそれを伺いたいと云うのでした。
 市川さんは黙って聴いていました。

       二

 質のわるい弟子どもを師匠が折檻するのはめずらしくはない、町の師匠でも弓の折れや竹切れで引っぱたくのは幾らもあります。かみなり師匠のあだ名を取っているような怖い先生になると、自分の机のそばに薪ざっぽうを置いているのさえある。まして、武家の師匠がたんぽ槍でお見舞い申すぐらいのことは、その当時としては別に問題にはなりません。大塚もそれを兎やこう云うのではないが、なぜ町家の子供をかばって、武家の子どもばかりを折檻したかと詰問したいのです。どこの親もわが子は可愛い。現に自分のせがれは病人になるほどの酷(ひど)い目に逢っているのに、相手の方はみな無事に帰されたという。それはいかにも片手落ちの捌きではないかという不満が胸一ぱいに漲っているのです。もう一つには、なんと云っても相手は町人の子どもである。町人の子どもと武士の子どもが喧嘩をした場合に、武家の師匠が町人の贔屓をして、武士の子供を手ひどく折檻するのは其意を得ないという肚もあります。かた/″\して大塚は早朝からその掛合いに来たのでした。
 相手に云うだけのことは云わせて置いて、それから市川さんはその当時の事情をよく説明して聞かせました。自分は師匠として、決してどちらの贔屓をするのでもないが、この喧嘩は今井健次郎がわるい。他人の強飯のなかに自分の箸を突っ込むなどは、あまりに行儀の悪いことである。子供同士であるから喧嘩は已むを得ないとしても、稽古場でむやみに木刀をぬくなどはいよ/\悪い。お手前はなんと心得てわが子に木刀をさゝせて置くか知らぬが、子供であるから木刀をさしているので、大人の真剣もおなじことである。わたしの稽古場では木刀をぬくことは固く戒めてある。それを知りつゝ妄りに木刀をふりまわした以上、その罪は武家の子供等にあるから、わたしは彼等に折檻を加えたので、決して町人の子どもの贔屓をしたのではない。その辺は思い違いのないようにして貰いたいと云いました。
「御趣意よく相判りました。」と、大塚は一応はかしらを下げました。「町人の子どもは仕合せ、なんにも身に着けて居りませぬのでなあ。」
 かれは忌(いや)な笑いをみせました。大塚に云わせると、所詮は子ども同士の喧嘩で、武家の子どもは木刀をさしていたから抜いたのである。町家の子供はなんにも持っていないから空手で闘ったのである。町家の子供とても何かの武器を持っていれば、やはりそれを振りまわしたに相違ない。木刀をぬいたのは勿論わるいが、それらの事情をかんがえたら、特に一方のみを厳しく折檻するのは酷である。こう思うと、かれの不満は依然として消えないのです。
 もう一つには、こゝへ稽古にくる武家の子どもは、武士と云っても、貧乏旗本や小身の御家人の子弟が多い。町家の子どもの親達は、彼の三河屋をはじめとして皆相当の店持ですから、名こそ町人であるがその内証は裕福です。したがって、その親たちが平生から色々の附届けをするので、師匠もかれらの贔屓をするのであろうという、一種の僻(ひが)みも幾分かまじっているのです。それやこれやで、大塚は市川さんの説明を素直に受け入れることが出来ない。仕舞にはだん/\に忌味(いやみ)を云い出して、当世は武士より町人の方が幅のきく世の中であるから、せい/″\町人の御機嫌を取る方がよかろうと云うようなことを仄(ほの)めかしたので、市川さんは立腹しました。
 くどくも云うようですが、黒鍬というのは御家人のうちでも身分の低い方で、人柄もあまりよくないのが随分ありました。大塚などもその一人で、表面はどこまでも下手に出ていながら、真綿で針を包んだようにちくり/\と遣りますから、正直な市川さんはすっかり怒ってしまったのです。
「わたしの云うことが判ったならば、それで好し。判らなければ以後は子供をこゝへ遣すな。もう帰れ、帰れ。」
 こうなれば喧嘩ですが、大塚も利口ですからこゝでは喧嘩をしません。一旦はおとなしく引揚げましたが、その足で近所の今井の屋敷へ出向きました。今井のせがれは喧嘩の発頭人ですから、第一番にたんぽ槍のお見舞をうけたのですが、家へ帰ってそんなことを云うと叱られると思って、これは黙っていましたから、親たちも知らない。そこへ大塚が来てきのうの一件を報告して、手前のせがれはそれが為に寝付いてしまったが、御当家の御子息に御別条はござらぬかという。今井は初めてそれを知って、せがれの健次郎を詮議すると、当人も隠し切れないで白状に及びましたが、幸いにこれには別条はなかった。しかし大塚の話をきいて、今井も顔の色を悪くしました。
 今井の屋敷の主人は佐久馬と云って、今年は四十前後の分別盛り、人間も曲った人ではありませんでしたが、今日の詞(ことば)でいえば階級思想の強い人で、武士は食わねど高楊枝、貧乏旗本と軽しめられても武士の家ということを非常の誇りとしている人物。したがって平生から町人どもを眼下に見下している。その息子が町人の子と喧嘩をして、師匠が町人の方の贔屓をして、わが子にたんぽ槍の仕置を加えたと云うことを知ると、どうも面白くない。おまけに大塚が色々の尾鰭をつけて、そばから煽るようなことを云いましたから、今井はいよ/\面白くない。しかし流石に大塚とは違いますから、子どもの喧嘩に親が出て、自分がむやみに市川さんの屋敷へ掛合いにゆくようなことはしませんでした。
「幾之進殿の仕付方、いさゝか残念に存ずる廉がないでもござらぬが、一旦その世話をたのんだ以上、兎やこう申しても致方があるまい。」
 今井は穏かに斯う云って大塚を帰しました。しかし伜の健次郎をよび付けて、きょうから市川の屋敷へは稽古にゆくなと云い渡しました。大塚のせがれは病中であるから、無論に行きません。これで武家の弟子がふたり減ったわけです。今井を煽動しても余り手堪(ごた)えがないので、大塚は更に自分の組内をかけまわって、市川の屋敷では町家の子供ばかりを大切にして、武家の子どもを疎略にするのは怪しからぬと触れてあるいたので、黒鍬の組内の子供達はひとりも通って来なくなりました。今井は流石に触れて歩くようなことはしませんが、何かのついでには其話をして、市川の仕付方はどうも面白くないと云うような不満を洩すので、それが自然に伝わって、武家の子どもはだん/\に減るばかり。二月三月の後には、市川さんと特別に懇意にしている屋敷の子が二三人通って来るだけで、その他の弟子はみな町家の子になってしまいました。なんと云っても武家の師匠ですから、武家の子どもがストライキを遣って、町家の子供ばかりが通って来るのでは少し困ります。それでも市川さんは無頓着に稽古をつゞけていました。
 一ツ木辺は近年あんなに繁華になりましたが、昔は随分さびしいところで、竹藪などが沢山にありました。現に太田蜀山人の書いたものをみると、一ツ木の藪から大蛇があらわれて、三つになる子供を呑んだと云うことがあります。子供を呑んだのは嘘かほんとうか知りませんけれども、兎も角もそんな大蛇も出そうなところでした。その年の秋のひるすぎ、市川さんの屋敷から遠くないところの路ばたに、四五人の子供が手習草紙をぶら下げながら草花などをむしっていました。それはみな町家の弟子で、帰りに道草を食っていてはならぬ、かならず真直に家へ帰れよ、と師匠から云い渡されているのですが、やはり子供ですから然(そ)うは行きません。殊にきょうは天気がいゝので、稽古の帰りに遊んでいる。そのなかには三河屋の綱吉もいました。ほかにもこの間の喧嘩仲間が二人ほどまじっていました。
 この子供たちが余念もなしに遊んでいると、竹藪の奥から五六人の子供が出て来ました。どれもみな手拭で顔をつゝんで、その上に剣術の面をつけているので、人相は鳥渡(ちょっと)わからない。それが木刀や竹刀を持って飛び出して来て、町家の子供達をめちゃ/\になぐり付けました。そのなかでも三河屋の綱吉は第一に目指されて、殆ど正気をうしなうほどに打ち据えられてしまいました。
 子供達はおどろいて泣きながら逃げまわる。それでも素疾(ばし)っこいのが師匠の屋敷へ逃げて帰って、そのことを訴えたので、居あわせた仲間ふたりと若党とがすぐに其場へ駈けつけると、乱暴者はもう逃げてゆくところでした。そのなかに餓鬼大将らしい十六七の少年が一人まじっている。そのうしろ姿が彼の大塚孫次郎の兄の孫太郎らしく思われたが、これは真先に逃げてしまったので、確かなことは判りませんでした。
 こういうわけで、相手はみな取逃してしまったので、撲られた方の子供たちを介抱して屋敷へ一旦連れて帰ると、三河屋の綱吉が一番ひどい怪我をして顔一面に腫れあがっている。次は伊丹屋という酒屋の伜で、これも半死半生になっている。その他は幸いに差したることでもないので、それ/″\に手当をして送り帰しましたが、三河屋と伊丹屋からは釣台をよこして子供を引取ってゆくという始末。どちらの親たちも工面が好いので、出来るだけの手当をしたのですが、やはり運が無いとみえて、三河屋の伜はそれから二日目の朝、伊丹屋のせがれは三日目の晩に、いずれも息を引取ってしまいました。
 さあ、そうなると事が面倒です。いくら子供だからと云って人間ふたりの命騒ぎですから、中々むずかしい詮議になったのですが、なにを云うにも相手をみな取逃したので、確かな証拠がない。前々からの事情をかんがえると、その下手人も大抵は判っているのですが、無証拠では何うにも仕様がない。且は町人の悲しさに、三河屋も伊丹屋も結局泣寝入りになってしまったのは可哀そうでした。
 それから惹いて、市川さんも手習の指南をやめなければならない事になりました。市川さんは支配頭のところへ呼び出されて、お手前の手跡指南は今後見合わせるようにとの諭達を受けました。理窟を云っても仕様がないので、市川さんはその通りにしました。
 それで済んだのかと思っていると、市川さんはやがて又、小普請入りを申付けられました。これも手跡指南の問題にかゝり合があるのか無いのか判りませんが、なにしろお気の毒のことでした。いつの代にもこんなことはあるのでしょうね。
[#改段]

刺青の話

       一

 そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな刺青(ほりもの)をしている者があったという記事が掲げられたことがある。それが話題となって、三浦老人は語った。
「今どきの若い人にはめずらしいことですね。昔だって無暗(むやみ)に刺青をしたものではありませんが、それでも今とは違いますから、銭湯にでも行けば屹(きっ)と一人や二人は背中に墨や朱を入れたのが泳いでいたものです。中には年の行かない小僧などをつかまえて、大供が面白半分に彫るのがある。素人に彫られては堪らない。小僧はひい/\云って泣く。実に乱暴なことをしたものです。刺青をしているのは仕事師と駕籠屋、船頭、職人、遊び人ですが、職人も堅気な人間は刺青などをしません。刺青のある職人は出入りをさせないなどと云う家(うち)もありますから、好(い)い職人になろうと思うものは迂濶に刺青などは出来ないわけです。武家の仲間(ちゅうげん)などにも刺青をしているものがありました。堅気の商人(あきんど)のせがれでありながら、若いときの無分別に刺青をしてしまって、あとで悔んでいるのもある。いや、それについて可笑(おかし)いお話があります。なんでも浅草辺のことだそうですが、祭礼のときに何か一(ひと)趣向しようというので、町内の若い者たちが評議の末に、三十人ほどが背中をならべて一匹の大蛇を彫ることになったのです。三十人が鱗(うろこ)のお揃いを着ていて、それが肌ぬぎになってずらりと背中を列べると、一匹の大蛇の刺青になるという趣向、まったく奇抜には相違ないので、祭礼の当日には見物人をあっと云わせたのですが、さあ其後が困った。三十人が一度に列んでいれば一匹の形になるが、ひとり一人に離れてしまうと何うにもならない。それでも蛇のあたまを彫った者はまあ可(い)いのですが、そのほかの者はみんな胴ばかりだから困る。背中のまん中を蛇の胴が横ぎっているだけでは絵にも形にもならない。と云って、一旦彫ってしまったものは仕方がない。図柄によって何とか彫り足して誤魔かすことも出来ますが、大蛇の胴ではどうも困ると洒落れたいくらいで、これらは一生の失策でしょう。併しこんな可笑しいお話ばかりではない、刺青の為には又こんな哀れなお話もあります。わたくしは江戸時代に源七という刺青師(ほりものし)を識っていまして、それから聴いたお話ですが……。その源七というのは見あげるような大坊主で、冬になると河豚(ふぐ)をさげて歩いているという、いかにも江戸っ子らしい、面白い男でしたよ。」
 老人が源七から聴いたという哀話は大体こういう筋であった。

 あれはたしか文久……元年か二年頃のことゝおぼえています。申すまでもなく、電車も自動車もない江戸市中で、唯一の交通機関というのは例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を利かしたもんでした。多分その初音屋の暖簾下か出店かなんかだろうと思いますが、芝神明の近所に初島(はつしま)という駕籠屋がありました。なか/\繁昌する店で、いつも十五六人の若い者が転がっていて、親父は清蔵、むすこは清吉と云いました。清吉は今年十九で、色の白い、細面の粋(いき)な男で、こういう商売の息子にはおあつらえ向きに出来上っていたんですが、唯一つの瑕(きず)というのは身体(からだ)に刺青(ほりもの)のないことでした。なぜというのに、この男は子供のときから身体が弱くって、絶えず医者と薬の御厄介になっていたので、両親も所詮こゝの家の商売は出来まいと諦めて、子供の時から方々へ奉公に出した。が、どうも斯ういう道楽稼業の家に育ったものには、堅気の奉公は出来にくいものと見えて、どこへ行っても辛抱がつゞかず、十四五の時から家へ帰って清元のお稽古かなんかして、唯ぶら/\遊んでいるうちに、蛙の子は蛙で、やっぱり親の商売を受け嗣ぐようになってしまった。年は若し、男は好し、稼業が稼業だから相当に金まわりは好し、先ず申分のない江戸っ子なんですが、裸稼業には無くてならぬ刺青が出来ない。刺青をすれば死ぬと、医者から固く誡められているのです。
 前にも申す通り、この時代の職人や仕事師には、どうしても喧嘩と刺青との縁は離れない。とりわけて裸稼業の駕籠屋の背中に刺青がないと云うのは、亀の子に甲羅が無いのと同じようなもので、先ず通用にはならぬと云っても好いくらいです。いくら大きい店の息子株でも、駕籠屋は駕籠屋で、いざと云うときには、お客に背中を見せなければならない。裸稼業の者に取っては、刺青は一種の衣服(きもの)で、刺青のない身体をお客の前に持出すのは、普通の人が衣服を着ないで人の前に出るようなものです。まあ、それほどで無いとしても、刺青のない駕籠屋と、掛声の悪い駕籠屋というものは、甚だ幅の利かないものに数えられている。清吉は好い男で、若い江戸っ子でしたが、可哀そうに刺青がないから、どうも肩身が狭い。掛声なんぞは練習次第でどうにでもなるが、刺青の方はそうは行かない。体質の弱い人間が生身(なまみ)に墨や朱を注(さ)すと、生命にかゝわると昔からきまっているんだから、どうにも仕様がない。

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