三浦老人昔話
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著者名:岡本綺堂 

       三

 まえにも申上げた通り、天保初年の三月末のことだそうです。芝の高輪(たかなわ)の川与(かわよ)という料理茶屋で清元の連中のお浚いがありました。今日とちがって、江戸時代の高輪は東海道の出入口というのでなか/\繁昌したものです。殊に御殿山のお花見が大層賑いました。お浚いは昼の八つ(午後二時)頃から夜にかけて催されることになって、大きい桜のさいている茶屋の門口(かどぐち)に、太夫の連名を筆太にかいた立看板が出ているのを見ると、そのうちに桐畑の喜路太夫の名も麗々しく出ていました。
 このお浚いは昼のうちから大層な景気で、茶屋の座敷には一杯の人が押掛けています。日がくれると門口には紅い提灯をつける。内ばかりでなく、表にも大勢の人が立っている。そこへ通りかゝった七八人連の男は、どれも町人や職人風で、御殿山の花見帰りらしく、真紅(まっか)に酔った顔をしてよろけながらこの茶屋のまえに来かゝりました。
「やあ、こゝに清元の浚いがある。馬鹿に景気がいゝぜ。」
 立ちどまって立看板をよんでいるうちに、その一人が云いました。
「おい、おい。このなかで清元喜路太夫というのは聞かねえ名だな。どんな太夫だろう。」
「むゝ。おれも聞いたことがねえ。下手か上手か、一つ這入って聴いて遣ろうじゃねえか。」
 酔っているから遠慮はない。この七八人はどや/\と茶屋の門(かど)を這入って、帳場のまえに来ました。
「もし、喜路太夫と云うのはもうあがりましたかえ。」
「いえ、これからでございます。」と、帳場にいる者が答えました。なんと云っても幾らかの遠慮がありますから、小坂さんの喜路太夫は夜になってから床(ゆか)にあがることになっていたのです。
「じゃあ、丁度いゝ。わっし等にも聴かせておくんなせえ。」
「皆さんはどちらの方でございます。」
「わっし等はみんな土地の者さ。」
「どちらのお弟子さんで……。」
「どこの弟子でもねえ。たゞ通りかゝったから聴きに這入ったのよ。」
 浄瑠璃のお浚いであるから、誰でも無暗に入れると云うわけには行かない。殊にどの人もみんな酔っているので、帳場の者は体よく断りました。
「折角でございますが、今晩は通りがかりのお方をお入れ申すわけにはまいりません。どうぞ悪しからず……。」
「わからねえ奴だな。おれ達は土地の者だ。今こゝのまえを通ると清元の浚いの立看板がある。ほかの太夫はみんなお馴染だが、そのなかに唯(た)った一人、喜路太夫というのが判らねえ。どんな太夫だか一段聴いて、上手ならば贔屓(ひいき)にしてやるんだ。そのつもりで通してくれ。」
 酔った連中はずん/\押上ろうとするのを、帳場の者どもはあわてゝ遮りました。
「いけません、いけません。いくら土地の方でも今晩は御免を蒙ります。」
「どうしても通さねえか。そんならその喜路太夫をこゝへ呼んで来い。どんな野郎だか、面をあらためて遣る。」
 なにしろ相手は大勢で、みんな酔っているのだから、始末が悪い。帳場の者も持余していると、相手はいよ/\大きな声で怒鳴り出しました。
「さあ、素直におれ達を通して浄瑠璃を聴かせるか。それとも喜路太夫をこゝへ連れて来て挨拶させるか。さあ、喜路太夫を出せ。」
 この捫着の最中に、なにかの用があって小坂さんの喜路太夫が生憎に帳場の方へ出て来たのです。しきりに喜路太夫という名をよぶ声が耳に這入ったので、小坂さんは何かと思って出てみると、七八人の生酔いが入口でがや/\騒いでいる。帳場のものは小坂さんがなまじいに顔を出しては却って面倒だと思ったので、一人がそばへ行って小声で注意しました。
「殿様、土地の者が酔っ払って来て、何かぐず/\云っているのでございます。あなたはお構い下さらない方がよろしゅうございます。」
「むゝ。土地の者がぐずりに来たのか。」
 むかしは遊芸の浚いなどを催していると、質(たち)のよくない町内の若い者や小さい遊び人などが押掛けて来て、なんとか引っからんだことを云って幾らかの飲代(のみしろ)をいたぶってゆくことが往々ありました。世間馴れている小坂さんは、これも大方その仲間であろうと思ったのです。そう思ったら猶更のこと、帳場の者にまかせて置けばよかったのですが、そこが矢はり殿様で、自分がつか/\と入口へ出てゆきました。
「失礼であるが、今夜はこちらも取込んでおります。ゆっくりとこゝで御酒(ごしゅ)をあげていると云うわけにも行かない。どうかこれで、ほかへ行って飲んでください。」
 小坂さんは紙入から幾らかの銀(かね)を出して、紙につゝんで渡そうとすると、相手の方ではいよ/\怒り出しました。
「やい、やい。人を馬鹿にしやあがるな。おれたちは銭貰いに来たんじゃあねえ。喜路太夫をこゝへ出せというんだ。」
「その喜路太夫はわたしです。」
「むゝ。喜路太夫は手前(てめえ)か。怪しからねえ野郎だ。ひとを乞食あつかいにしやあがって……。」
 なにしろ酔っているから堪らない。その七八人がいきなりに小坂さんを土間へひき摺り下して、袋叩きにしてしまったのです。旗本の殿様でも、大小を楽屋にかけてあるから丸腰です。勿論、武芸の心得もあったのでしょうが、この場合、どうすることも出来ないで、おめ/\と町人の手籠めに逢った。帳場の者もおどろいて止めに這入ったが間に合わない。その乱騒ぎのうちに、どこか撲(ぶ)ち所が悪かったとみえて、小坂さんは気をうしなってしまったので、乱暴者も流石にびっくりして皆ちり/″\に逃げて行きました。それを追っかけて取押えるよりも、先ず殿様を介抱しなければならないと云うので、家中(うちじゅう)は大騒ぎになりました。
 すぐに近所の医者をよんで来て、いろ/\の手当をして貰いましたが、小坂さんはどうしても生き返らないで、とう/\其儘に冷くなったので、関係者はみんな蒼くなってしまいました。もうお浚いどころではありません。兎もかくも急病の体にして、死骸を駕籠にのせて、竊(そっ)と赤坂の屋敷へ送りとゞけると、屋敷でもおどろきましたが、場所が場所、場合が場合ですから、なんとも文句の云い様がありません。旗本の主人が清元の太夫になって、料理茶屋のお浚いに出席して、しかも町人にぶち殺されたなどと云うことが表沙汰になれば、家断絶ぐらいの御咎めをうけないとも限りませんから、残念ながら泣寝入りにするより外はありません。今年十五になる丹三郎という息子さんは、お父さんが大事にしていた二挺の三味線を庭へ持ち出して、脇差を引きぬいてその棹を真二つに切りました。皮をずた/\に突き破りました。
「これがせめてもの仇討だ。」
 小坂さんは急病で死んだことに届けて出て、表向きは先ず無事に済んだのですが、その初七日のあくる日、八人の若い男が赤坂桐畑の屋敷へたずねて来て、玄関先でこういうことを云い入れました。
「わたくし共は高輪辺に住まっております者でございますが、先日御殿山へ花見にまいりまして、その帰り途に川与という料理茶屋のまえを通りますと、そこの家に清元の浚いがございまして、立看板の連名のうちに清元喜路太夫というのがございました。ついぞ名前を聞いたことのない太夫ですから、一段聴いてみようと云って這入りますと、帳場の者が入れないという。こっちは酔っておりますので、是非入れてくれ、左もなければその喜路太夫というのをこゝへ出して挨拶させろと、無理を云って押問答をしておりますところへ、奥からその喜路太夫が出て来て、今夜は入れることは出来ないから、これで一杯飲んでくれと云って、幾らか紙につゝんだものを出しました。くどくも申す通り、こっちも酔っておりますので、ひとを乞食あつかいにするとは怪しからねえと、喧嘩にいよ/\花が咲いて、とう/\その喜路太夫を袋叩きにしてしまいました。それでまあ一旦は引きあげたのでございますが、あとでだん/\うけたまわりますると、喜路太夫と申すのはお屋敷の殿様だそうで、実にびっくり致しました。まだそればかりでなく、それが基で殿様はおなくなり遊ばしましたそうで、なんと申上げてよろしいか、実に恐れ入りました次第でございます。就きましては、その御詫として、下手人一同うち揃ってお玄関まで罷り出ましたから、なにとぞ御存分のお仕置をねがいます。」
 小坂の屋敷でも挨拶に困りました。憎い奴等だとは思っても、こゝで八人の者を成敗すれば、どうしても事件が表向きになって、一切の秘密が露顕することになるので、応対に出た用人は飽までもシラを切って、当屋敷に於ては左様な覚えは曽て無い、それは何かの間違いであろうと云い聞かせましたが、八人の者はなか/\承知しない。清元喜路太夫はたしかにお屋敷の殿様に相違ない。知らないことゝは云いながら、お歴々のお旗本を殺して置いて唯そのまゝに済むわけのものでないから、こうして御成敗をねがいに出たのであるが、お屋敷でどうしても御存じないとあれば、わたくし共はこれから町奉行所へ自訴して出るより外はないと云い張るのです。
 これには屋敷の方でも持てあまして、いずれ当方からあらためて沙汰をするからと云って、一旦は八人の者を追い返して置いて、それから土地の岡っ引か何かをたのんで、二百両ほどの内済金を出して無事に済ませたそうです。主人をぶち殺された上に、あべこべに二百両の内済金を取られるなどは、随分ばか/\しい話のようですけれども、屋敷の名前には換えられません。重々気の毒なことでした。
 八人の者は勿論なんにも知らないで、たゞの芸人だと思って喜路太夫を袋叩きにして、それがほんとうに死んだと判り、しかもそれが旗本の殿様とわかって、みんなも一時は途方にくれてしまったのですが、誰か悪い奴が意地をつけて、相手の弱味につけ込んで、逆ねじにこんな狂言をかいたのだと云うことです。わたくしの親父も一度柳橋の茶屋で喜路太夫の小坂さんの浄瑠璃を聴いたことがあるそうですが、それはまったく巧いものだったと云うことですから、なまじい千五百石の殿様に生れなかったら、小坂さんも天晴れの名人になりすましたのかも知れません。そう思うと、たゞ一口にだらしのない困り者だと云ってもいられません。なんだか惜しいような気もします。いつの代にも斯ういうことはあるのでしょうが、人間の運不運は判りませんね。

「いや、根っから面白くもないお話で、さぞ御退屈でしたろう。」と、云いかけて三浦老人は耳をかたむけた。「おや、降って来ましたね。なんだか音がするようです。」
 老人は起って障子をあけると、いつの間にふり出したのか、庭の先は塩をまいたように薄白くなっていた。
「とう/\雪になりました。」
 老人は縁先の軒にかけてある鶯の籠をおろした。わたしもそろ/\帰り支度をした。
「まあ、いゝじゃありませんか。初めてお出(い)でなすったのですから、なにか温(あった)かいものでも取らせましょう。」
「折角ですが、あまり積もらないうちに今日はお暇(いとま)いたしましょう。いずれ又ゆっくり伺います。」と、私は辞退して起ちかかった。
「そうですか。なにしろ足場の悪いところですから、無理にお引留め申すわけにも行かない。では、又御ゆっくりおいで下さい。こんなお話でよろしければ、なにか又思い出して置きますから。」
「はあ。是非またお邪魔にあがります。」
 挨拶をして表へ出る頃には、杉の生垣がもう真白に塗られていた。わたしは人車(くるま)を待たせて置かなかったのを悔んだ。それでも洋傘(こうもり)を持って来たのを[#「持って来たのを」は底本では「待って来たのを」]仕合わせに、風まじりの雪のなかを停車場の方へ一足ぬきに辿って行った。その途中は随分寒かった。
 春の雪――その白い影をみるたびに、わたしは三浦老人訪問の第一日を思い出すのである。
[#改段]

鎧櫃の血

       一

 その頃、わたしは忙しい仕事を持っていたので、兎かくにどこへも御無沙汰勝であった。半七老人にも三浦老人にもしばらく逢う機会がなかった。半七老人はもうお馴染でもあり、わたしの商売も知っているのであるから、ちっとぐらい無沙汰をしても格別に厭な顔もされまいと、内々多寡をくゝっているのであるが、三浦老人の方はまだ馴染のうすい人で、双方の気心もほんとうに知れていないのであるから、たった一度顔出しをしたぎりで鼬(いたち)の道をきめては悪い。そう思いながらも矢はり半日の暇も惜しまれる身のうえで、今日こそはという都合のいゝ日が見付からなかった。
 その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび/\白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の詫言(わびごと)を書いた郵便を出すと、老人からすぐに返事が来て、自分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快(よ)くなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ/\悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであったが、今度はいよ/\路がわるい。停車場から小一町をたどるあいだに、わたしは幾たびか雪解のぬかるみに新しい足駄を吸取られそうになった。目おぼえの杉の生垣の前まで行き着いて、わたしは初めてほっとした。天気のいい日で、額には汗が滲んだ。
「この路の悪いところへ……。」と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろこゝらは躑躅(つゝじ)の咲くまでは、江戸の人の足蹈(ぶ)みするところじゃありませんよ。」
 まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ/\病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。リュウマチスは多年の持病で、二月中は可なりに強く悩まされたが、三月になってからは毎日起きている。殊にこの四五日は好い日和がつゞくので、大変に体(からだ)の工合がいゝという話を聴かされて、わたしは嬉しかった。
「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょうはそれを御馳走しますからね。お午過ぎまで人質ですよ。」
 こうして足留めを食わして置いて、老人は打ちくつろいで色々のむかし話をはじめた。次に紹介するのもその談話の一節である。

 このあいだは桐畑の太夫さんのお話をしましたが、これもやはり旗本の一人のお話です。これは前の太夫さんとは段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の揚場(あげば)に近いところに屋敷を有(も)っている今宮六之助という人です。この人が嘉永の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種の勤番の格で出かけたのです。よその藩中と違って、江戸の侍に勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の城へ詰めさせられます。大阪城の天守が雷火に焚(や)かれたときに、そこにしまってある権現様の金の扇の馬標(うまじるし)を無事にかつぎ出して、天守の頂上から堀のなかへ飛び込んで死んだという、有名な中川帯刀(たてわき)もやはりこの番士の一人でした。
 そんなわけですから、甲府詰などとは違って、江戸の侍の大阪詰は決して悪いことではなかったので、今宮さんも大威張りで出かけて行ったのです。普通の旅行ではなく、御用道中というのですから、道中は幅が利きます。何のなにがしは御用道中で何月何日にはどこを通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備をして待ち受けていて、万事に不自由するようなことはありません。泊りは本陣で、一泊九十六文、昼飯四十八文というのですから実に廉(やす)いものです。駕籠に乗っても一里三十二文、それもこれも御用という名を頂いているおかげで、弥次喜多の道中だってなか/\こんなことでは済みません。主人はまあそれでもいゝとして、その家来共までが御用の二字を嵩(かさ)にきて、道中の宿々(しゅく/″\)を困らせてあるいたのは悪いことでした。
 早い話が、御用道中の悪い奴に出っくわすと、駕籠屋があべこべに強請(ゆす)られます。道中で客が駕籠屋や雲助にゆすられるのは、芝居にも小説にもよくあることですが、これはあべこべに客の方から駕籠屋や雲助をゆするのだから怖ろしい。主人というほどの人は流石(さすが)にそんなこともしませんが、その家来の若党や中間(ちゅうげん)のたぐい、殊に中間などの悪い奴は往々それを遣って自分たちの役得と心得ている。たとえば、駕籠に乗った場合に、駕籠のなかで無暗(むやみ)にからだを揺する。客にゆすられては担いでゆくものが難儀だから、駕籠屋がどうかお静かにねがいますと云っても、知らない顔をしてわざと揺する。云えば云うほど、ひどく揺する。駕籠屋も結局往生して、内所で幾らか掴ませることになる。ゆすると云う詞(ことば)はこれから出たのか何うだか知りませんが、なにしろ斯ういう風にしてゆするのだから堪りません。それが又、この時代の習慣で、大抵の主人も見て見ぬ振をしていたようです。それに余りにやかましく云えば、おれの主人は野暮だとか判らず屋だとか云って、家来どもに見限られる。まことにむずかしい世の中でした。
 今宮さんは若党ひとりと中間三人の上下五人で、荷かつぎの人足は宿々で雇うことにしていました。若党は勇作、中間は半蔵と勘次と源吉。主人の今宮さんは今年三十一で、これまで御奉公に不首尾もない。勿論、首尾のわるい者では大阪詰にはなりますまいが、先ずは一通りの武家気質(かたぎ)の人物。たゞこの人の一つの道楽は食い道楽で、食い物の好みがひどくむずかしい。今度の大阪詰についても、本人はたゞそれだけを苦にしていたが、どうも仕様がない。大阪の食い物にはおい/\に馴れるとしても、当座が困るに相違ない。殊に大阪は醤油がよくないと聞いているから、せめては当座の使い料として醤油だけでも持って行きたいという註文で、銚子の亀甲万一樽を買わせたが、扨(さて)それを持って行くのに差支えました。
 武家の道中に醤油樽をかつがせては行かれない。と云って、何分にも小さいものでないから、何かの荷物のなかに押込んで行くというわけにも行かない。その運送に困った挙句に、それを鎧櫃に入れて行くということになりました。道中の問屋場(といやば)にはそれ/″\に公定相場と云うようなものがあって、人足どもにかつがせる荷物もその目方によって運賃が違うのですが、武家の鎧櫃にかぎって、幾らそれが重くても所謂「重た増し」を取らないことになっていましたから、鎧櫃のなかへは色々のものを詰め込んで行く人がありました。今宮さんも多分それから思い付いたのでしょうが、醤油樽は随分思い切っています。殊にその樽を入れてしまえば、もうその上に鎧を入れる余地はありません。鎧が大事か、醤油が大事かと云うことになっても、やはり醤油の方が大切であったとみえて、今宮さんはとう/\自分の鎧櫃を醤油樽のかくれ家ときめてしまいました。しかし鎧を持って行かないでは困るので、鎧の袖や草摺をばら/\に外して、籠手(こて)も脛当(すねあて)も別々にして、ほかの荷物のなかへ何うにか欺うにか押込んで、先ず表向きは何の不思議も無しに江戸を立つことになりました。
 それは六月の末、新暦で申せば七月の土用のうちですから、夏の盛りで暑いことおびたゞしい。武家の道中は道草を食わないので、はじめの日は程ヶ谷泊り、次の日が小田原、その次の日が箱根八里、御用道中ですから勿論関所のしらべも手軽にすんで、その晩は三島に泊る。こゝまでは至極無事であったのですが、そのあくる日、江戸を出てから四日目に三島の宿(しゅく)を立って、伊賀越の浄瑠璃でおなじみの沼津の宿をさして行くことになりました。上下五人の荷物は両掛けにして、問屋場の人足三人がかついで行く。主人だけが駕籠に乗って、家来四人は徒歩(かち)で附いて行く。兎かく説明が多くなるようですが、この人足も問屋場に詰めているのは皆おとなしいもので、決して悪いことをする筈はないのです。もし悪いことをして、次の宿の問屋場にその次第を届け出られゝば、すぐに取押えて牢に入れられるか、あるいは袋叩きにされて所払いを食うか、いずれにしても手ひどい祟をうけることになっているのですから、問屋場にいるものは先ず安心して雇えるわけです。しかしこの問屋場に係り合のない人足で、彼の伊賀越の平作のように、村外れや宿はずれにうろ付いて客待をしている者の中には、所謂雲助根性を発揮して良くないことをする奴もありました。そんなら旅をする人は誰でも問屋場(といやば)にかゝりそうなものですが、問屋場には公定相場があって負引(まけひき)が無いのと、問屋場では帳簿に記入する必要上、一々その旅人の身許や行く先などを取りしらべたりして、手数がなか/\面倒であるので、少しばかりの荷物を持った人は問屋場の手にかゝらないことになっていました。勿論、お尋ね者や駈落者などは我身にうしろ暗いことがあるから問屋場にはかゝりません。そこが又、悪い雲助などの附込むところでした。
 今宮さんの一行は立派な御用道中ですから、大威張りで問屋場の手にかゝって、荷物をかつがせて行ったのですが、間違いの起るときは仕方のないもので、その前の晩は、三島の宿(しゅく)に幾組かの大名の泊りが落合って、沢山の人足が要ることになったので、助郷(すけごう)までも狩りあつめてくる始末。助郷というのは、近郷の百姓が一種の夫役のように出てくるのです。それでもまだ人数が不足であったとみえて、宿はずれに網を張っている雲助までも呼びあつめて来たので、今宮さんの人足三人のうちにも平作の若いようなのが一人まじっていました。年は三十前後で、名前はかい助と云うのだそうですが、どんな字を書くのか判りません。本人もおそらく知らなかったかも知れません。なにしろかい助という変な名ではお話が仕にくいから、仮りに平作と云って置きましょう。そのつもりでお聴きください。
 人足どもはそれ/″\に荷物をかつぐ。彼の平作は鎧櫃をかつぐことになりました。担ごうとすると、よほど重い。平作も商売柄ですから、すぐにこれは普通の鎧櫃ではないと睨みました。這奴(こいつ)なか/\悪い奴とみえて、それをかつぐ時に粗相の振をしてわざと問屋役人の眼のまえで投げ出しました。暑い時分のことですから、醤油が沸いて呑口の筌(せん)が自然に弛(ゆる)んでいたのか、それとも強く投げ出すはずみに、樽に割れでも出来たのか、いずれにしても、醤油が鎧櫃のなかへ流れ出したらしく、平作が自分の粗相をわびて再びそれを担ぎあげようとすると、櫃の外へもその醤油の雫がぽと/\と零れ出しました。
「あ。」
 人々も顔を見あわせました。
 鎧櫃から紅い水が零れ出す筈がない。どの人もおどろくのも無理はありません。あまりの不思議をみせられて、平作自身も呆気(あっけ)に取られました。

       二

 まえにも申す通り、武家のよろい櫃の底に色々の物が忍ばせてあることは、問屋場(といやば)の者もふだんから承知していましたが、紅い水が出るのは意外のことで、それが何であるか鳥渡(ちょっと)想像が付きません。こうなると役目の表、問屋(といや)の者も一応は詮議をしなければならないことになりました。今宮さんの顔の色が変ってしまいました。こゝで鎧櫃の蓋をあけて、醤油樽を見つけ出されたら大変です。鎧の身代りに醤油樽を入れたなどと云うことが表向きになったら、洒落や冗談では済まされません。お役御免は勿論、どんな御咎をうけるか判りませんから、家来達までが手に汗を握りました。
 問屋場の役人――と云っても、これは武士ではありません。その町や近村の名望家が選ばれて幾人かずつ詰めているので、矢はり一種の町役人です。勿論、大勢のうちには岩永(いわなが)も重忠(しげたゞ)もあるのでしょうが、こゝの役人は幸いにみんな重忠であったとみえて、その一人がふところから鼻紙を出して、その紅い雫をふき取りました。そうしてほかの役人にも見せて、その匂いを鳥渡(ちょっと)かぎましたが、やがて笑い出しました。
「はゝ、これは血でござりますな。御具足櫃に血を見るはおめでたい。はゝゝゝゝ。」
 入物(いれもの)が鎧櫃であるから、それに取りあわせて紅い雫を血だという。ほんとうの血ならば猶更詮議をしなければならない筈ですが、そこが前にもいう重忠揃いですから、何処までもそれを紅い血だということにして、そのまゝ無事に済ませてしまったので、今宮さん達もほっとしました。
「重ねて粗相をするなよ。」
 役人から注意をあたえられて、平作は再び鎧櫃をかつぎ出しました。今宮さんは心のうちで礼を云いながら駕籠に乗って、三島の宿を離れましたが、どうも胸がまだ鎮まらない。問屋場の者は表向きは無事に済ませてくれたものゝ、蔭では屹(きっ)と笑っているに相違ない。それにつけても、おれに恥辱をあたえた雲助めは憎い奴であると、今宮さんは駕籠のなかゝら駕籠屋に訊きました。
「おれの鎧櫃をかついでいるのは、矢はり問屋場の者か。」
「いえ。あれは宿(しゅく)はずれに出ているかい助というのでございます。」と、駕籠屋は正直に答えました。
「そうか。」
 実は今宮さんも少し疑っていたことがあるのです。あの人足が鎧櫃を取り落したのは何うもほんとうの粗相ではないらしい、わざと手ひどく投げ出したようにも思われる――と、こう疑っている矢先へ、それが問屋場の者でないと聞いたので、いよ/\その疑いが深くなりました。一所不定(ふじょう)の雲助め、往来の旅人を苦しめる雲助め、おそらく何かの弱味を見つけておれを強請(ゆす)ろうという下心であろうと、今宮さんは彼を憎むの念が一層強くなりましたが、差当り何うすることも出来ないので、胸をさすって駕籠にゆられて行くと、朝の五つ半(午前九時)前に沼津の宿に這入って、宿はずれの建場(たてば)茶屋に休むことになりました。朝涼(あさすゞ)のあいだと云っても一里半ほどの路を来たので、駕籠屋は汗びっしょりになって、店さきの百日紅(さるすべり)の木の下でしきりに汗を拭いています。四人の家来たちも茶屋の女に水を貰って手拭をしぼったりしていましたが、三人の人足どもはまだ見えないので、若党の勇作は少し不安になりました。
「これ、駕籠屋。あの人足どもは確かなものだろうな。」
「はい。ふたりは大丈夫でございます。問屋場に始終詰めているものでございますから、決して間違いはございません。かい助の奴も、お武家さまのお供で、そばにあの二人が附いておりますから、どうすることもございますまい。やがてあとから追い着きましょう。しばらくこゝでお休みください。」と、駕籠屋は口をそろえて云いました。
「むゝ、こちらは随分足が早かったからな。」
「はい。こちら様のお荷物はなか/\重いと云っておりましたから、だん/\に後(おく)れてしまったのでございましょう。」
 荷物が重い。――それが店のなかに休んでいる今宮さんの耳にちらりと這入ったので、今宮さんはまた気色を悪くしました。かの鎧櫃の一件を当付けらしく云うようにも聞き取れましたので、すこしく声を暴くして家来をよびました。
「勇作。貴様は駕脇についていながら、荷物のおくれるのになぜ気がつかない。あんな奴等は何をするか判ったものでない。すぐに引返して探して来い。源吉だけこゝに残って、半蔵も勘次も行け。あいつ等がぐず/\云ったら引っくゝって引摺って来い。」
「かしこまりました。」
 勇作はすぐに出て行きました。二人の中間もつゞいて引返しました。どの人もさっきの鎧櫃のむしゃくしゃがあるので、なにかを口実に彼の平作めをなぐり付けてゞも遣ろうという腹で、元来た方へ急いでゆくと、二町ばかりのところで三人の人足に逢いました。平作は並木の松の下に鎧櫃をおろして悠々と休んでいるのを、ふたりの人足がしきりに急き立てゝいるところでした。
「貴様たちはなぜ遅い。宿(しゅく)を眼のまえに見ていながら、こんなところで休んでいる奴があるか。」と、勇作は先ず叱り付けました。
 勇作に云われるまでもなく、問屋場の人足どもは正直ですから、もう一息のところだから早く行こうと、さっきから催促しているのですが、平作ひとりがなか/\動かない。こんな重い具足櫃は生れてから一度もかついだことが無いから、この暑い日に照らされながら然う急いではあるかれない。おれはこゝで一休みして行くから、おまえたちは勝手に先へ行けと云って、どっかりと腰をおろしたまゝで何うしても動かない。相手がお武家だからと云って聞かせても、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかと、空嘯(そらうそぶ)いて取合わない。さりとて、かれ一人を置いて行くわけにも行かないので、人足共も持て余しているところへ、こっちの三人が引返して来たのでした。
 その仔細を聴いて、勇作も赫(かっ)となりました。平作とても大して悪い奴でもない。鎧櫃の秘密を種にして余分の酒手でもいたぶろうという位の腹でしたろうから、なんとか穏かに賺(すか)して、多寡が二百か三百文も余計に遣ることにすれば、無事穏便に済んだのでしょうが、勇作も年が若い、おまけに先刻からのむしゃくしゃ腹で、この雲助めを憎い憎いと思いつめているので、そんな穏便な扱い方をかんがえている余裕がなかったらしい。
「よし。それほどに重いならばおれが担いで行く。」
 かれは平作を突きのけて、問題の鎧櫃を自分のうしろに背負いました。そうして、ほかの中間どもに眼くばせすると、半蔵と勘次は飛びかゝって平作の両腕と頭髻(たぶさ)をつかみました。
「さあ、来い。」

       三

 平作は建場茶屋へ引き摺って行かれると、さっきから苛々して待っていた今宮さんは、奥の床几を起って店さきへ出て来ました。見ると、勇作が鎧櫃を背負っている。中間ふたりが彼の平作を引っ立てゝくる。もう大抵の様子は推量されたので、この人もまた赫となりました。
「これ、そいつがどうしたのだ。」
 この雲助めが横着をきめて動かないと云う若党の報告をきいて、今宮さんはいよ/\怒りました。単に横着というばかりでなく、こんなに重い具足櫃はかついだことが無いとか、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかとか云うような、あてこすりの文句が一々こっちの痛いところに触るので、今宮さんはいよ/\堪忍袋の緒を切りました。
「おのれ不埓な奴だ。この宿場の問屋場へ引渡すからそう思え。」
 こゝへ来る途中でも、もう二三度は中間共になぐられたらしく、平作は散らし髪になって、左の眼のうえを少し腫らしていましたが、這奴(こいつ)なか/\気の強い奴、おまけ中間どもに撲られて、これもむしゃくしゃ腹であったらしい。立派な侍に叱られても、平気でせゝら笑っていました。
「問屋場へでも何処へでも引渡して貰いましょう。わっしはその荷物が重いから重いと云ったゞけのことだ。わっしも十六の年から東海道を股にかけて雲助をしているから、具足櫃と云うものはどのくらいの目方があるか知っています。わっしを問屋場へ引渡すときに、その具足櫃も一緒に持って行って、どんな重い具足が這入っているのか、役人達にあらためて貰いましょう。」
 こうなると、這奴(こいつ)をうっかり問屋場へ引渡すのも考えもので、いわゆる藪蛇のおそれがあります。憎い奴だとは思いながら何(ど)うすることも出来ない。そのうちに店の者は勿論、近所の者や往来の者がだん/\にこの店先にあつまって来て、武家と雲助との押問答を聴いている。中間どもが追い払っても、やはり遠巻きにして眺めている。見物人が多くなって来たゞけに、今宮さんもいよ/\そのまゝには済まされなくなりましたが、前にもいう藪蛇の一件があります。こゝの問屋場の役人たちも三島の宿とおなじような重忠揃いなら仔細はないが、万一そのなかに岩永がまじっていて野暮にむずかしい詮議をされたら、あべこべにこっちが大恥をかゝなければならない。今宮さんは残念ながら這奴(こいつ)を追いかえすより外はありませんでした。
「貴様のような奴等にかゝり合っていては、大切の道中が遅くなる。きょうのところは格別を以てゆるして遣る。早く行け、行け」
 もうこっちの内兜を見透しているので、平作は素直に立去らない。かれは勇作にむかって大きい手を出しました。
「もし、御家来さん。酒手をいたゞきます。」
「馬鹿をいえ。」と、勇作はまた叱り付けました。「貴様のような奴に鐚(びた)一文でも余分なものが遣られると思うか。首の飛ばないのを有難いことにして、早く立去れ。」
「さあ、行け、行け。」
 中間どもは再び平作の腕をつかんで突き出すと、さっきからはら/\しながら見ていた駕籠屋や人足共も一緒になって、色々になだめて連れて行こうとする。なにしろ多勢に無勢で、所詮腕ずくでは敵わないと思って、平作は引き摺られながら大きい声で怒鳴りました。
「なに、首の飛ばないのを有難く思え……。はゝ、笑わせやあがる。おれの首が飛んだら、その具足櫃からしたじのような紅い水が流れ出すだろう。」
 見物人が大勢あつまっているだけに、今宮さんも捨てゝ置かれません。この上にも何を云い出すか判らないと思うと、もう堪忍も容赦もない。つか/\と追って出て、刀の柄袋を払いました。
「そこ退け。」
 刀に手をかけたと見て、平作をおさえていた駕籠屋や人足共は、あっと悸(おび)えて飛び退きました。
「えゝ、おれをどうする。」
 ふり向く途端に平作の首は落ちてしまいました。今宮さんは勇作を呼んで、茶店の手桶の水を柄杓(ひしゃく)に汲んで血刀を洗わせていると、見物人はおどろいて皆ちり/″\に逃げてしまう。駕籠屋や人足どもは蒼くなって顫えている。それでも今宮さんは流石に侍です。この雲助を成敗して、しずかに刀を洗い、手を洗って、それから矢立の筆をとり出して、ふところ紙にさら/\と書きました。
「当宿の役人にはおれから届ける。勇作と半蔵は三島の宿へ引返して、この鎧櫃をみせて来い。」
 こう云いつけて、勇作は何かさゝやくと、勇作は中間ふたりに手伝わせて、彼の鎧櫃を茶屋のうしろへ運んで行きました。そこには小川がながれている。三人は鎧櫃の蓋をあけてみると、醤油樽の底がぬけているようです。その樽も醤油も川へ流してしまって、櫃のなかも綺麗に洗って、それへ雲助の首と胴とを入れました。今度は半蔵がその鎧櫃を背負って、勇作が附いて行くことになりました。
 三島の宿の問屋場ではこの鎧櫃をとゞけられて驚きました。それには今宮さんの手紙が添えてありました。
先刻は御手数相掛過分に存候。拙者鎧櫃の血汐、いつまでも溢れ出して道中迷惑に御座候間、一応おあらための上、よろしく御取捨被下度(くだされたく)、右重々御手数ながら御願申上候。早々
今宮六之助  問屋場御中

 問屋場では鎧櫃を洗いきよめて、使のふたりに戻しました。これで鎧櫃からこぼれ出した紅い雫も、ほんとうの血であったと云うことになります。沼津の宿の方の届も型ばかりで済みました。一方は侍、一方は雲助、しかも御用道中の旅先というのですから、可哀そうに平作は殺され損、この時代のことですから何うにも仕様がありません。
 今宮さんはその後の道中に変ったこともなく、主従五人が仲よく上って行ったのですが、彼の一件以来、どうも気が暴(あら)くなったようで、左もないことにも顔色を変えて小言を云うこともある。しかしそれは一時のことで、あとは矢張り元の通りになるので、家来共も別に気にも留めずにいると、京ももう眼の前という草津の宿(しゅく)に這入る途中、二三日前からの雨つゞきで路がひどく悪いので、今宮さんの一行はみな駕籠に乗ることになりました。その時に、中間の半蔵が例の手段で駕籠をゆすぶって、駕籠屋から幾らかの揺すり代をせしめたことが主人に知れたので、今宮さんは腹を立てました。
「貴様は主人の面に泥を塗る奴だ。」
 半蔵はさん/″\に叱られましたが、勇作の取りなしで先ず勘弁して貰って、霧雨のふる夕方に草津の宿に着きました。宿屋に這入って、今宮さんは草鞋をぬいでいる。家来どもは人足にかつがせて来た荷物の始末をしている。その忙しいなかで、半蔵が人足にこんなことを云いました。
「おい、おい。その具足櫃は丁寧にあつかってくれ。今日は危なくおれの首を入れられるところだった。塩っ辛(かれ)え棺桶は感心しねえ。」
 それが今宮さんの耳に這入ると、急に顔の色が変りました。草鞋をぬいで玄関へあがりかけたのが、又引返して来て激しく呼びました。
「半蔵。」
「へえ。」
 何心なく小腰をかゞめて近寄ると、ぬく手も見せずと云うわけで、半蔵の首は玄関先に転げ落ちました。前の雲助の時とは違って、勇作もほかの中間共もしばらく呆れて眺めていると、不埓の奴だから手討にした、死骸の始末をしろと云いすてて、今宮さんは奥へ這入ってしまいました。
 主人がなぜ半蔵を手討にしたか。勇作等も大抵は察していましたが、表向きは彼のゆすりの一件から物堅い主人の怒に触れたのだと云うことにして、これも先ず無事に片附きました。
 それから大阪へゆき着いて、今宮さんは城内の小屋に住んで、とゞこおりなく勤めていました。かの鎧櫃は雲助の死骸を入れて以来、空のまゝで担がせて来て、空のままで床の間に飾って置いたのでした。なんでも九月のはじめだそうで、今宮さんは夕方に詰所から退って来て、自分の小屋で夕飯を食いました。たんとも飲まないのですが、晩酌には一本つけるのが例になっているので、今夜も機嫌よく飲んでしまって、飯を食いはじめる。勇作が給仕をする。黄(きいろ)い行燈が秋の灯らしい色をみせて、床の下ではこおろぎが鳴く。今宮さんは飯をくいながら、今日は詰所でこんな話を聴いたと話しました。
「この城内には入らずの間というのがある。そこには淀殿が坐っているそうだ。」
「わたくしもそんな話を聴きましたが、ほんとうでござりましょうか。」と、勇作は首をかしげていました。
「ほんとうだそうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐っている。それを見た者は屹と命を取られると云うことだ。」
「そんなことがござりましょうか。」と、勇作はまだ疑うような顔をしていました。
「そんなことが無いとも云えないな。」
「そうでござりましょうか。」
「どうもありそうに思われる。」
 云いかけて、今宮さんは急に床の間の方へ眼をつけました。
「論より証拠だ。あれ、みろ。」
 勇作の眼にはなんにも見えないので、不思議そうに主人の顔色をうかゞっていると、今宮さんは少し乗り出して床の間を指さしました。
「あれ、鎧櫃の上には首が二つ乗っている。あれ、あれが見えないか。えゝ、見えないか。馬鹿な奴だ。」
 主人の様子がおかしいので、勇作は内々用心していると、今宮さんは跳るように飛びあがって、床の間の刀掛に手をかけました。これはあぶないと思って、勇作は素早く逃げ出して、台所のそばにある中間部屋へ転げ込んだので、勘次も源吉もおどろいた。だん/\仔細をきいて、みんなも顔をしかめたが、半蔵の二の舞はおそろしいので、誰も進んで奥へ見とゞけに行くものがない。しかし小半時ほど立っても、奥の座敷はひっそりとしているらしいので、三人が一緒に繋がって怖々ながら覗きに行くと、今宮さんは鎧櫃を座敷のまん中へ持出して、それに腰をかけて腹を斬っていました。
[#改段]

人参

       一

 その日は三浦老人の家(うち)で西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り旨くはなかった。併しもと/\御馳走をたべに来たわけでないから、わたしは硬いパンでも硬い肉でも一切鵜呑みにする覚悟で、なんでも片端から頬張っていると、老人はあまり洋食を好まないらしく、且は病後という用心もあるとみえて、ほんのお附合に少しばかり食って、やがてナイフとフォークを措いてしまった。
「わたしには構わずに喫(た)べてください。」
「遠慮なく頂戴します。」と、わたしは喉に支えそうな肉を一生懸命に嚥(の)み込みながら云った。食道楽のために身をほろぼした今宮という侍に、こんな料理を食わせたら何というだろうかなどとも考えた。
「今お話をした今宮さんのようなのが其昔にもあったそうですよ。」と、老人はまた話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売ってしまったか、質にでも入れてしまったのでしょう。さりとて武家の御用道中に鎧櫃を持たせないというわけにも行かないので、空の鎧櫃に手頃の石を入れて、好(いゝ)加減の目方をつけて坦ぎ出させると、それが途中で転げ出して大騒ぎをしたことがあるそうです。これも困ったでしょうね。はゝゝゝゝゝ。」
 老人はそれからつゞけて幕末の武家の生活状態などを色々話してくれた。果し合いや、辻斬や、かたき討の話も出た。
「西鶴の武道伝来記などを読むと、昔はむやみに仇討があったようですが、太平がつゞくに連れて、それもだん/\に少くなったばかりでなく、幕府でも私(わたくし)にかたき討をすることを禁じる方針を取っていましたし、諸藩でも表向きには仇討の願いを聴きとどけないのが多くなりましたから、自然にその噂が遠ざかって来ました。それでも確かに仇討とわかれば、相手を殺しても罪にはならないのですから、武家ばかりでなく、町人、百姓のあいだにも仇討は時々にありました。なにしろ芝居や講釈ではかたき討を盛に奨励していますし、世間でも褒めそやすのですから、やっぱり根切(ねき)りというわけには行かないで、とき/″\には変った仇討も出て来ました。これもその一つです。いや、これは赤坂へ行って半七さんにお聴きなすった方がいゝかも知れない。あの人の養父にあたる吉五郎という人もかゝり合った事件ですから。」
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたいもんですが、如何でしょう。」と、わたしは子供らしく強請(ねだ)った。
「じゃあ、まあお話をしましょう。なに、別に勿体をつけるほどの大事件ではありませんがね。」
 老人は笑いながら話しはじめた。

 安政三年の三月――御承知の通り、その前年の十月には彼の大地震がありまして、下町は大抵焼けたり潰れたりしましたが、それでももう半年もたったので、案外に世直しも早く出来て、世間の景気もよくなりました。勿論、仮普請も沢山ありましたが、金廻りのいゝのや、手廻しの好(い)いのは、もう本普請をすませて、みんな商売をはじめていました。猿若町の芝居も蓋をあけるという勢いで、よし原の仮宅(かりたく)は大繁昌、さすがはお江戸だと諸国の人をおどろかしたくらいでした。
 なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に舟見(ふなみ)桂斎という町医者がありましたが、診断(みたて)も調合も上手だというのでなか/\流行っていました。小舟町三丁目の病家を見舞って、夜の五つ頃(午後八時)に帰ってくると、春雨がしと/\降っている。供の男に提灯を持たせて、親父橋(おやじばし)を渡りかゝると、あとから跟(つ)けて来たらしい一人の者が、つか/\と寄って来て、先ず横合から供の提灯をたゝき落して置いて、いきなりに桂斎先生の左の胸のあたりを突きました。先生はあっと云って倒れる。供はびっくりして人殺し人殺しと呼び立てる。その間に相手はどこへか姿を隠してしまいました。
 桂斎先生の疵は脇差のようなもので突かれたらしく、駕籠にのせて自宅へ連れて帰りましたが、手あての甲斐もなしに息を引取ったので、騒ぎはいよ/\大きくなりました。雨のふる晩ではあり、最初に提灯をたゝき消されてしまったので、供の者も相手がどんな人間であるか、どんな服装(なり)をしていたか、些(ちっ)とも知らないと云うのですから、手がかりはありません。しかし前後の模様から考えると、どうも物取りの仕業ではないらしい。桂斎先生に対して何かの意趣遺恨のあるものだろうという鑑定で、町方(まちかた)でもそれ/″\に探索にかゝりました。さあ、これからは半七さんの縄張りで、わたくし共にはよく判りませんが、なにか抜きさしのならない証拠が挙ったとみえて、その下手人は間もなく召捕られました。それを召捕ったのが前にもいう通り、半七さんの養父の吉五郎という人です。
 その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――丁稚(でっち)小僧で久松というと、なんだか芝居にでも出て来そうですが、本人は明けて十五という割に、からだの大きい、眼の大きい、見るから逞しそうな小僧だったそうです。しかし運のわるい子で、六つの年に男親に死別れて、姉のおつねと姉弟(きょうだい)ふたりは女親の手で育てられたのです。勿論、株家督(かぶかとく)があるというでは無し、芳町のうら店(だな)に逼塞して、おふくろは針仕事や洗濯物をして、細々にその日を送っているという始末ですから、久松は九つの年から近所の糸屋へ奉公にやられ、姉は十三の年から芝口の酒屋へ子守奉公に出ることになって、親子三人が分れ/\に暮していました。そんなわけで、碌々に手習の師匠に通ったのでも無し、誰に教えられたのでも無く、云わば野育ち同様に育って来たのですが、不思議にこの姉弟は親思い、姉思い、弟思いで、おたがいに奉公のひまを見てはおふくろを尋ねて行く。姉は弟をたずねる。弟も姉の身を案じて、使の出先などからその安否をたずねに行く。まことに美しい親子仲、姉弟仲でした。
 これほど仲が好(い)いだけに、親子姉弟が別々に暮していると云うことは、定めて辛かったに相違ありません。それでも行末をたのしみに、姉も弟も真面目に奉公して、盆と正月の藪入りにはかならず芳町の家にあつまって、どこへも行かずに一日話し合って帰ることにきめていたので、その日も暮れかゝって姉弟がさびしそうに帰ってゆくうしろ姿を見送ると、相(あい)長屋の人達もおのずと涙ぐまれたそうです。
「久ちゃんは男だから仕方もないが、せめておつねちゃんだけは家(うち)にいるようにして遣りたいものだ。」と、近所でも噂をしていました。
 おふくろも然う思わないではなかったでしょうが、おつねを奉公に出して置けば、一人口が減った上に一年幾らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ/\我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。
 ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ/\悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。
 桂斎先生は流行(はやり)医者ですから、うら店などへはなか/\来てくれないのを、伝手(つて)を求めてよう/\来て貰うことにしたのですが、先生は病人の容態を篤とみて眉をよせました。
「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」
 医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの大世話場(おおせわば)というところです。

       二

 それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通りの療治では、とてもいけない。人参をのませれば屹(きっ)と癒ると思うが、それを云って聞かせても所詮無駄だと思ったから、黙って来ました。」
 人参は高価の薬で、うら店(だな)ずまいの者が買い調えられる筈がないから、見殺しは気の毒だと思いながらも、それを教えずに帰って来たというのでした。その話を聴かされて、おつねは喜びもし、嘆きもしました。まったく今の身のうえで高価の人参などを買いとゝのえる力はありません。人参にも色々ありますが、その頃では廉(やす)くとも三両か五両、良い品になると十両二十両とも云うほどの値ですから、なか/\容易に手に入れられるものではない。ましてこの姉弟がどんなに工面しても才覚しても、そんな大金の調達の出来ないのは判り切っています。それでも何うかしておふくろを助けたい一心で、おつねは色々にかんがえ抜いた挙句に、思いついたのが例の身売です。
 人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう/\その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは鳥渡(ちょっと)可愛らしい眼鼻立で、みがき上げれば相当に光りそうな娘なので、自分も自然そんな気になったのかも知れません。それでも迂濶にそんなことは出来ませんから、念のために医者の家へ行って、おふくろの命は屹(きっ)と人参で取留められるでしょうかと聞きますと、十に九つまでは請合うと桂斎先生が答えたそうです。おつねは喜んで帰って来て、弟にその話をすると、久松も喜んだり嘆いたりで、しばらくは思案に迷ったのですが、姉の決心が固いのと、それより外には人参代を調達する智慧も工夫もないのとで、これもとう/\思い切って、姉に身売をさせることになってしまいました。
 おつねは長屋の人にたのんで、山谷(さんや)あたりにいる女衒(ぜげん)に話して貰って、よし原の女郎屋へ年季一杯五十両に売られることになりました。家の名は知りませんが、大町小店(だいちょうこみせ)で相当に流行る店だったそうです。式(かた)のごとくに女衒の判代や身付(みづき)の代を差引かれましたが、残った金を医者のところへ持って行って、宜しくおねがい申しますと云うと、桂斎先生は心得て、そのうちから八両とかを受取って、すぐに人参を買って病人に飲ませてくれたが、おふくろの病気は矢はりよくならない。久松も心配して、色々に医者にせがむので、先生はまた十両をうけ取って人参を調剤したのですが、それも験(げん)がみえない。おふくろはいよ/\悪くなるばかりで、それから半月ほどの後にとう/\此世の別れになってしまったので、久松は泣いても泣き尽せない位で、とりあえず吉原の姉のところへ知らせてやりましたが、まだ初店(はつみせ)ですから出てくることは出来ません。長屋の人たちの手をかりて、久松は兎もかくもおふくろの葬式をすませました。
 こうなると、おつねの身売は無駄なことになったようなわけで、これから十年の長いあいだ苦界(くがい)の勤めをしなければならないのですから、姉思いの久松は身を切られるように情(なさけ)なく思いました。それから惹いて、医者を怨むような気にもなりました。
「人参をのませれば屹(きっ)と癒ると請合って置きながら、あの医者はおふくろを殺した。それがために姉さんまでが吉原へ行くようになった。あの医者の嘘つき坊主め。あいつはおふくろの仇だ。姉さんのかたきだ。」
 今日(こんにち)はそんなこともありませんが、病人が死ぬとその医者を怨むのが昔の人情で、川柳にも「見す/\の親のかたきに五分礼(ふんれい)」などというのがあります。まして斯ういう事情が色々にからんでいるので、年の行かない久松は一層その医者を怨むようにもなり、自然それを口に出すようにもなったので、糸屋の主人は久松に同情もし、また意見もしました。
「人間には寿命というものがある。人参を飲んで屹(きっ)と癒るものならば、高貴のお方は百年も長命する筈だが、そうはならない。公方(くぼう)様でもお大名でも、定命(じょうみょう)が尽きれば仕方がない。金の力でも買われないのが人の命だ。人参まで飲ませても癒らない以上は、もうあきらめるの外はない。むやみに医者を怨むようなことを云ってはならない。」
 理窟はその通りですが、どうも久松には思い切りが付きませんでした。姉の身売の金がまだ幾らか残っているのを主人にあずけて、自分は相変らず奉公していましたが、おふくろは此世に無し、姉には逢われず、まったく頼りのないような身の上になってしまったので、久松はもう働く張合もぬけて、ひどく元気のない人間になりました。毎月おふくろの墓まいりに行って、泣いて帰るのがせめてもの慰めで、いっそ死んでしまおうかなどと考えたこともありましたが、姉は生きている。年季が明ければ姉は吉原から帰ってくる。それを楽みに、久松はさびしいながらも矢はり生きていました。
 そのうちに、又こんなことが久松の耳に這入りました。初めておふくろの病気をみていた小池という医者が、途中で取換えられたのを面白く思っていなかったのでしょう、それに同商売忌敵(いみがたき)というような意味もまじっていたのでしょう。その後近所の人達にむかって、あの病人に人参をのませて何になる。いくら人参だと云っても万病に効のあるというものではない。利かない薬をあてがうのは、見す/\病家に無駄な金を使わせるようなものだ。高価な薬をあたえれば、医者のふところは膨らむが、病家の身代は痩せる。医は仁術で、金儲け一点張りではいけないなどと云う。それが自然に久松にもきこえましたから、いよ/\心持を悪くしました。それでは桂斎の医者坊主め、みす/\利かないのを知っていながら、金儲けのために高い人参を売り付けたのかも知れないという疑いも起ってくる。桂斎先生は決してそんな人物ではないのですが、ふだんから怨んでいるところへ前のような噂が耳にひゞくので、年の行かない久松としては、そんな疑いを起すのも無理はありません。商売の累(わずら)いと云いながら、桂斎先生も飛んだ敵(かたき)をこしらえてしまいました。
 それでもまあそれだけのことならば、蔭で怨んでいるだけで済んだのですが、桂斎先生のためにも、久松姉弟のためにも、こゝに又とんでもない事件が出来(しゅったい)したのです。それはその年十月の大地震――この地震のことはどなたも御承知ですから改めて申上げませんが、江戸中で沢山の家が潰れる、火事が起る、死人や怪我人が出来る。そのなかでも吉原の廓(くるわ)は丸潰れの丸焼けで、こゝだけでもおびたゞしい死人がありました。おつねの勤めている店も勿論つぶれて、おつねは可哀そうに焼け死にました。久松の店も潰れたが、幸いに怪我人はありませんでした。桂斎先生の家は半分かたむいたゞけで、これも運よく助かりました。
 おふくろは死ぬ、それから半年ばかりのうちに姉もつゞいて死んだので、久松は一人法師(ぼっち)になってしまいました。おふくろのない後は、たゞ一本の杖柱とたのんでいた姉にも死別れて、久松はいよ/\力がぬけ果てゝ、自分ひとりの助かったのを却って悔むようになりました。おまけに姉のおつねが以前奉公していた芝口の酒屋は、土台がしっかりしていたと見えて、今度の地震にも家根瓦をすこし震い落されたゞけでびくともせず、運よく火事にも焼け残ったので、久松はいよ/\あきらめ兼ねました。姉も今までの主人に奉公していれば無事であったものを、吉原へ行ったればこそ非業の死を遂げたのである。姉はなんのために吉原へ売られて行ったのか。高価の人参は母の病を救い得ないばかりか、却って姉の命をも奪う毒薬になったのかと思うと、久松は日本朝鮮にあらんかぎりの人参を残らず焼いてゞもしまいたい程に腹が立ちました。その人参を売りつけた医者坊主がます/\憎い奴のように思われて来ました。
 糸屋の店では一旦小梅の親類の家(うち)へ立退いたので、久松も一緒に附いて行きました。場所柄だけに、店の方はすぐに仮普請に取りかゝって、十二月には兎もかくも商売をはじめるようになったので、主人や店の者は日本橋へ戻りましたが、焼跡の仮小屋同様のところでは女子供がこの冬を過されまいというので、主人の女房や娘子供は矢はり小梅の方に残っていることになりました。それがために小僧もひとり残されることになったので、久松がその役にあたって、あくる年の正月を小梅で迎えました。そのうちに三月の花が咲いて、陽気もだん/\にあたゝかくなり、世間の景気も春めいて来たので、主人の家族もみんなこゝを引払うことになって、久松もはじめて日本橋の店へ戻ってくると、土地が近いだけに憎い怨めしい医者坊主めのことが一層強く思い出されます。勿論、小梅にいるあいだも毎日忘れたことはなかったのですが、近間へ戻ってくると又一倍にその執念が強くなって来ました。
 三月末の陰(くも)った日に、久松が店の使で表へ出ると、途中で丁度、桂斎先生に逢いました。はっと思いながらも、よんどころなしに会釈をすると、先生の方では気が注かなかったのか、それともそんな小僧の顔はもう見忘れてしまったのか、素知らぬ風でゆき過ぎたので、久松は赫(かっ)となりました。使をすませて主人の店へ一旦帰って、奥にいる女房のまえに出て、去年からあずけてある金のうちで一両だけを渡して貰いたいと云いました。なんにするのだと聞くと、おふくろの一周忌がもう近づいたから、お長屋の人にたのんで石塔をこしらえて貰うのだという返事です。久松の孝行は女房もかねて知っているので、それは奇特のことだと云ってすぐに一両の金を出してやると、久松はそれを持って再び表へ出ましたが、もとの長屋へは行かないで、近所の刀屋へ行って道中指のような脇差を一本買いました。

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