三浦老人昔話
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著者名:岡本綺堂 

       二

 小身と云っても場末の住居(すまい)ですから、阿部さんの組屋敷は大縄(おおなわ)でかなりに広い空地を持っていました。お定まりの門がまえで、門の脇にはくゞり戸がある。両方は杉の生垣で、丁度唯今のわたくしの家(うち)のような恰好に出来ています。門のなかには正面の玄関口へ通うだけの路を取って、一方はそこで相撲でも取るか、剣術の稽古でもしようかと云うような空地(あきち)、一方は畑になっていて、そこで汁の実の野菜でも作ろうというわけです。阿部さんはまだ独身で、弟の新五郎は二三年まえから同じ組内の正木という家へ養子にやって、当時はお幾という下女と主従二人暮しでした。
 お幾という女は今年二十九で、阿部さんの両親が生きているときから奉公していたのですが、嫁入先があるというので、一旦ひまを取って国へ帰ったかと思うと、半年ばかりで又出て来て、もとの通りに使って貰うことになって、今の阿部さんの代まで長年(ちょうねん)しているのでした。容貌(きりょう)はまず一通りですが、幾年たっても江戸の水にしみない山出しで、その代りにはよく働く。女のいない世帯のことを一手に引受けて、そのあいだには畑も作る。もと/\小身のうえに、独身で年のわかい阿部さんは、友だちの附合や何かで些(ちっ)とは無駄な金もつかうので、内職の鯉や鰻だけではなか/\内証が苦しい。したがって、下女に払う一年一両の給金すらも兎角とゞこおり勝になるのですが、お幾は些とも厭な顔をしないで、まえにも云う通り、見得にも振りにも構わずに、世帯のことから畑の仕事まで精出して働くのですから、まったく徳用向きの奉公人でした。
「お帰りなさいまし。」
 くゞり戸を推して這入る音をきくと、お幾はすぐに傘をさして迎いに出て来て、主人の手から重いびくをうけ取って水口の方へ持って行く。阿部さんも簑笠でぐっしょり濡れていますから、これも一緒に水口へまわると、お幾は蝋燭をつけて来て、大きい盥に水を汲み込んで、びくの魚を移していたが、やがて小声で「おやっ」と云いました。
「旦那さま。どうしたのでございましょう。びくのなかにこんなものが……。」
 手にとって見せたのは黄楊(つげ)の櫛なので、阿部さんも思わず口のうちで「おやっ」と云いました。それはたしかに例の櫛です。三度目にも川のなかへ抛り込んで来た筈だのに、どうしてそれが又自分のびくのなかに這入って来たのか。それとも同じような櫛が幾枚も落ちていて、何かのはずみでびくのなかに紛れ込んだのかも知れないと思ったので、阿部さんは別にくわしいことも云いませんでした。
「そんなものが何うして這入ったのかな。掃溜へでも持って行って捨てゝしまえ。」
「はい。」
 とは云ったが、お幾は蝋燭のあかりでその櫛をながめていました。そうして、なんと思ったか、これを自分にくれと云いました。
「まだ新しいのですから、捨てゝしまうのは勿体のうございます。」
 櫛を拾うのは苦を拾うとか云って、むかしの人は嫌ったものでした。お幾はそんなことに頓着しないとみえて、自分が貰いたいという。阿部さんは別に気にも止めないで、どうでも勝手にするがいゝと云うことになりました。きょうは獲物が多かったので、盥のなかには鮒や鯰やうなぎが一杯になっている。そのなかには可成りの目方のありそうな鰻もまじっているので、阿部さんもすこし嬉しいような心持で、その二三匹をつかんで引きあげて見ているうちに、なんだかちくりと感じたようでしたが、それなりに手を洗って居間へ這入りました。夕飯の支度は出来ているので、お幾はすぐに膳ごしらえをしてくる。阿部さんはその膳にむかって箸を取ろうとすると、急に右の小指が灼けるように痛んで、生血がにじみ出しました。
「痛い、痛い。どうしたのだろう。」
 主人がしきりに痛がるので、お幾もおどろいてだん/\詮議すると、たった今、盥のなかの鰻をいじくっている時に、なにかちくりと触ったものがあるという。そこで、お幾は再び蝋燭をつけて、台所の盥をあらためてみると、鰻のなかには一匹の蝮(まむし)がまじっていたので、びっくりして声をあげました。
「旦那様、大変でございます。蝮が這入っております。」
「蝮が……。」と、阿部さんもびっくりしました。まさかに自分の釣ったのではあるまい。そこらの草むらに棲んでいた蝮がびくのなかに這入りこんでいたのを、鰻と一緒に盥のなかへ移したのであろう。お幾は運よく咬まれなかったが、自分は鰻をいじくっているうちに、指が触って咬まれたのであろう。これは大変、まかり間違えば命にもかゝわるのだと思うと、阿部さんも真青になって騒ぎ出しました。
「お幾。早く医者をよんで来てくれ。」
「蝮に咬まれたら早く手当をしなければなりません。お医者のくるまで打っちゃって置いては手おくれになります。」
 お幾は上総(かずさ)の生れで、こういうことには馴れているとみえて、すぐに主人の痛んでいる指のさきに口をあてゝ、その疵口から毒血をすい出しました。それから小切(こぎれ)を持ち出して来て、指の附根をしっかりと縛(くゝ)りました。それだけの応急手当をして置いて、雨のふりしきる暗いなかを医者のところへ駈けて行きました。阿部さんは運がよかったのです。お幾がすぐにこれだけの手当をしてくれたので、勿論その命にかゝわるような大事件にはなりませんでした。医者が来て診察して、やはり蝮の毒とわかったので、小指を半分ほど切りました。その当時でも、医者はそのくらいの療治を心得ていたのです。
 大難が小難、小指の先ぐらいは吉原の花魁(おいらん)でも切ります。それで命が助かれば実に仕合せと云わなければなりません。医者もこれで大丈夫だと受合って帰り、阿部さんもお幾も先ずほっとしましたが、なるべく静かに寝ていろと医者からも注意されたので、阿部さんはすぐに床を敷かせて横になりました。本所は蚊の早いところですから、四月の末から蚊帳を吊っています。阿部さんは蚊帳のなかでうと/\していると、気のせいか、すこしは熱も出たようです。宵から雨が強くなったとみえて、庭のわか葉をうつ音がぴしゃ/\ときこえます。すると、どことも無しに、こんな声が阿部さんの耳にきこえました。
「置いてけえ。」
 かすかに眼をあいて見まわしたが、蚊帳の外には誰もいないらしい。やはり空耳だと思っていると、又しばらくして同じような声がきこえました。
「置いてけえ。」
 阿部さんも堪らなくなって飛び起きました。そうして、あわたゞしくお幾をよびました。
「おい、おい。早く来てくれ」
 広くもない家ですから、お幾はすぐに女部屋から出て来ました。
「御用でございますか。」
 蚊帳越しに枕もとへ寄って来たお幾の顔が、ほの暗い行燈の火に照されて、今夜はひどく美しくみえたので、阿部さんも変に思ってよく見ると、やはりいつものお幾の顔に相違ないのでした。
「誰かそこらに居やしないか。よく見てくれ。」
 お幾はそこらを見まわして、誰もいないと云ったが、阿部さんは承知しません。次の間から、納戸から、縁側から、便所から、しまいには戸棚のなかまでも一々あらためさせて、鼠一匹もいないことを確かめて、阿部さんも先ず安心しました。
「まったくいないか。」
「なんにも居りません。」
 そういうお幾の顔が又ひどく美しいようにみえたので、阿部さんはなんだか薄気味悪くなりました。まえにも云う通り、お幾は先ず一通りの容貌(きりょう)で、決して美人というたぐいではありません。殊に見得にも振りにもかまわない山出しで、年も三十に近い。それがどうしてこんなに美しく見えるのか、毎日見馴れているお幾の顔を、今さら見違える筈もない。熱があるのでおれの眼がぼうとしているのかも知れないと阿部さんは思いました。
 門のくゞりを推す音がきこえたので、お幾が出てみると、主人の弟の正木新五郎が見舞に来たのでした。お幾は医者へ行く途中で、正木の家の中間に出逢ったので、主人が蝮に咬まれたという話をすると、中間もおどろいて注進に帰ったのですが、生憎に新五郎はその時不在で、四つ(午後十時)近い頃にようやく戻って来て、これもその話におどろいて夜中すぐに見舞にかけ着けて来たというわけです。新五郎は今年十九ですが、もう番入りをして家督を相続していました。兄よりは一嵩(ひとかさ)も大きい、見るから強そうな侍でした。
「兄さん。どうした。」
「いや、ひどい目に逢ったよ。」
 兄弟は蚊帳越しで話していると、そこへお幾が茶を持って来ました。その顔が美しいばかりでなく、阿部さんの眼のせいか、姿までが痩形で、如何にもしなやかに見えるのです。どうも不思議だと思っていると、阿部さんの耳に又きこえました。
「置いてけえ」
 阿部さんは不図かんがえました。
「新五郎。おまえ今夜泊まってくれないか。いや、看病だけならお幾ひとりで沢山だが、おまえには別に頼むことがある。おれの大小や、長押(なげし)にかけてある槍なんぞを、みんな何処かへ隠してくれ。そうして万一おれが不意にあばれ出すようなことがあったら、すぐに取って押さえてくれ。おとなしく云うことを肯かなかったら、縄をかけて厳重に引っくゝってくれ。かならず遠慮するな。屹(きっ)とたのむぞ。」
 なんの訳かよく判らないが、新五郎は素直に受合って、兄の指図通りに大小や槍のたぐいを片附けてしまいました。自分はこゝに泊り込むつもりですから新五郎は兄と一つ蚊帳に這入る。用があったら呼ぶからと云って、お幾を女部屋に休ませる。これで家のなかもひっそりと鎮まった。入江町の鐘が九つ(午後十二時)を打つ。阿部さんはしばらくうと/\していましたが、やがて眼がさめると、少し熱があるせいか、しきりに喉が渇いて来ました。女部屋に寝ているものをわざ/\呼び起すのも面倒だと思って、阿部さんはとなりに寝ている弟をよびました。
「新五郎、新五郎。」
 新五郎はよく寝入っているとみえて、なか/\返事をしません。
 よんどころなく大きい声でお幾をよびますと、お幾はやがて起きて来ました。主人の用を聞いて、すぐに茶碗に水を入れて来ましたが、そのお幾の寝みだれ姿というのが又一層艶っぽく見えました。と思うと、また例の声が哀れにきこえます。
「置いてけえ。」
 心の迷いや空耳とばかりは思っていられなくなりました。眼のまえにいるお幾は、どうしてもほんとうのお幾とは見えません。置いてけの声も、こうしてたび/\聞える以上、どうしても空耳とは思われません。阿部さんは起き直って蚊帳越しに訊きました。
「おまえは誰だ。」
「幾でございます。」
「嘘をつけ、正体をあらわせ。」
「御冗談を……。」
「なにが冗談だ。武士に祟ろうとは怪しからぬ奴だ。」
 阿部さんは茶碗を把(と)って叩き付けようとすると、その手は自由に働きません。さっきから寝入った振りをして兄の様子をうかゞっていた新五郎が、いきなり跳ね起きて兄の腕を取押さえてしまったのです。押さえられて、阿部さんはいよ/\焦れ出しました。
「新五郎。邪魔をするな。早く刀を持って来い。」
 新五郎は聴かない振りをして、黙って兄を抱きすくめているので、阿部さんは振り放そうとして身を藻掻きました。
「えゝ、放せ、放せ。早く刀を持って来いというのに……。刀がみえなければ、槍を持って来い。」
 さっきの云い渡しがあるから、新五郎は決して手を放しません。兄が藻掻けば藻掻くほど、しっかりと押さえ付けている。なにぶんにも兄よりは大柄で力も強いのですから、いくら焦っても仕方がない。阿部さんは無暗に藻がき狂うばかりで、おめ/\と弟に押さえられていました。
「放せ。放さないか。」と、阿部さんは気ちがいのように怒鳴りつゞけている。その耳の端では「置いてけえ。」という声がきこえています。
「これ、お幾。兄さんは蝮の毒で逆上したらしい。水を持って来て飲ませろ。」と、新五郎も堪りかねて云いました。
「はい、はい。」
 お幾は阿部さんの手から落ちた茶碗を拾おうとして、蚊帳のなかへからだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の黄楊(つげ)の櫛でした。

「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん/\に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」
「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。
「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう/\判らずじまいであったということです。その櫛と、置いてけえと呼ぶ声と、そこにも何かの関係があるのか無いのか、それもわかりません。櫛と、蝮と、置いてけ堀と、とんだ三題話のようですが、そこに何にも纏まりのついていないところが却って本筋の怪談かも知れませんよ。それでも阿部さんが早く気がついて、なんだか自分の気が可怪(おか)しいようだと思って、前以て弟に取押方をたのんで置いたのは大出来でした。左もなかったら、むやみ矢鱈に刀でも振りまわして、どんな大騒ぎを仕出来(しでか)したかも知れないところでした。阿部さんはそれに懲りたとみえて、その後は内職の釣師を廃業したということです。」
 なるほど老人の云った通り、この長い話を終るあいだに、躑躅見物の女連は帰って来なかった。
[#改段]

落城の譜

       一

「置いてけ堀」の話が一席すんでも、女たちはまだ帰らない。その帰らない間にわたしは引揚げようと思ったのであるが、老人はなか/\帰さない。色々の話がそれからそれへはずんで行った。
「いや、あなたが昨日おいでになると、丁度こゝに面白い人物が来ていたのですがね。その人は森垣幸右衛門と云って――明治以後はその名乗りを取って、森垣道信(みちのぶ)というむずかしい名に換えてしまいましたが――わたくしの久しいお馴染なんです。維新後は一時横浜へ行っていたのですが、その時にかんがえ付いたのでしょう。東京へ帰って来てから時計屋をはじめて、それがうまく繁昌して、今では大森の方へ別荘のようなものをこしらえて、まあ楽隠居という体で気楽に暮しています。なに、わたくしと同じようだと仰しゃるか。どうして、どうして、わたくしなどは何うにか斯うにか息をついていると云うだけで、とても森垣さんの足もとへも寄附かれませんよ。その森垣さんが躑躅見物ながら昨日久しぶりで尋ねてくれて、色々のむかし話をしました。その人にはこういう変った履歴があるのです。まあ、お聴きなさい。」

 わたくしはもうその年月を忘れてしまったのですが、きのう森垣さんに云われて、はっきりと思い出しました。それは文久元年の夏のことで、その頃わたくしは何うも毎晩よく眠られない癖が付きましてね、まあ今日(こんにち)ならば神経衰弱とでも云うのでしょうか、なんだか頭が重っ苦しくって気が鬱(ふさ)いで、なにをする元気もないので、気晴しのために近所の小さい講釈場へ毎日通ったことがありました。今も昔もおなじことで、講釈場の昼席などへ詰めかけている連中は、よっぽどの閑人(ひまじん)か怠け者か、雨にふられて仕事にも出られないという人か、まあそんな手合(てあい)が七分でした。
 わたくしなどもそのお仲間で、特別に講釈が好きというわけでもないのですが、前に云ったような一件で、家(うち)にいてもくさ/\する、さりとて的(あて)なしに往来をぶら/\してもいられないと云うようなことで、半分は昼寝をするような積りで毎日出かけていたのでした。それでも半月以上もつゞけて通っているうちに、幾人も顔なじみが出来て、家にいるよりは面白いということになりました。昼席には定連が多いので、些(ちっ)とつゞけて通っていると、自然と懇意の人が殖えて来ます。その懇意のなかに一人のお武家がありました。
 お武家は三十二三のお国風の人で、袴を穿いていませんが、いつも行儀よく薄羽織をきていました。勤番の人でもないらしい。おそらく浪人かと思っていましたが、この人もよほど閑(ひま)な体だとみえて、大抵毎日のように詰めかけている。しかもわたくしの隣に坐っていることも屡□あるので、自然特別に心安くなりましたが、どこの何ういう人だか云いもせず聞きもせず、たゞ一通りの時候の挨拶や世間話をするくらいのことでした。ところが、ある日の高座で前講(ぜんこう)のなんとかいう若い講釈師が朝鮮軍記の碧蹄館(へきていかん)の戦いを読んだのです。
 明(みん)の大軍三十万騎が李如松(りじょしょう)を大将軍として碧蹄館へくり出してくる。日本の方では小早川隆景、黒田長政、立花宗茂と云ったような九州大名が陣をそろえて待ちうける。いや、とてもわたくしが修羅場をうまく読むわけには行かないから、張扇(はりおうぎ)をたゝき立てるのは先ずこのくらいにして、さて本文に這入りますと、なにを云うにも敵の大軍が野にも山にも満ち/\ているので、さすがの日本勢もそれを望んで少しく気怯(おく)れがしたらしい。大将の小早川隆景が早くもそれを看て取って、味方の勇気を挫かせないために、わざと後(うしろ)向きに陣を取らせた。こうすれば敵はみえない。なるほど巧いことをかんがえたと講釈師は云いますが、嘘かほんとうか、それはあなたの方がよく御承知でしょう。そこで小早川は貝をふく者に云いつけて、出陣の貝を吹かせようとしたが、こいつも少し怯(おび)えているとみえて、貝を持つ手がふるえている。これはいけない。勇気をはげます貝の音が万一いつもよりも弱いときは、ます/\士気を弱める基(もとい)であると思ったので、小早川自身がその法螺貝を取って、馬上で高くふき立てると、それが北風に冴えて、味方は勿論、敵の陣中までもひゞき渡る。明の三十万騎は先ずこれに胆をひしがれて、この戦いに大敗北をするという一条。それを上手な先生がよんだらば定めて面白いのでしょうが、なにしろ前講の若い奴が、横板に飴で、途切れ途切れに読むのですから遣切れません。その面白くないことおびたゞしい。
 おまけに夏の暑い時、日の長い時と来ているのですから、大抵のものは薄ら眠くなって、いゝ心持そうにうと/\と居睡りを始める。そのなかで、彼のお武家だけは膝もくずさないで聴いています。尤もふだんから行儀のいゝ人でしたが、とりわけて今日は行儀を正しくして一心に聴きすましているばかりか、小早川がいよ/\貝をふくという件(くだり)になると、親の遺言を聴くか、ありがたい和尚様のお説教でも聴くときのように、じっと眼をすえて、息をのみ込んで、一心不乱に耳をすましているという形であるので、わたくしも少し不思議に思いました。しかし根がお武家であるので、こういう軍談には人一倍の興を催しているのかとも思って、深くは気にも留めませんでした。
 七つ(午後四時)過ぎに席がはねて、わたくしはそのお武家と一緒に表へ出て、小半町ほども話しながら来ると、このごろの空の癖で、大粒の雨がぽつり/\と降り出して来ました。西の方には夕日が光っているのですから、大したことはあるまいとは思いながらも、丁度わたくしの家の路地のそばでしたから、兎もかくも些(ちっ)とのあいだ雨やどりをしてお出でなさいと、相手が辞退するのを無理に誘って路地のなかにあるわたくしの家へ連れ込みました。連れて来ていゝ事をしました。ふたりが家の格子をくゞると、ゆう立はぶち撒けるように強く降って来ました。
「おかげさまで助かりました。」
 お武家はあつく礼を云って、雨の晴れるまで話していました。やがて時分時になったので、奴豆腐に胡瓜揉みと云ったような台所料理のゆう飯を出すと、お武家はいよ/\気の毒そうに、幾たびか礼を云って箸をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので、それを頼ってこの間から厄介になっているとのことでした。そのうちに雨もやんで、涼しそうな星がちら/\と光って来たので、お武家は繰返して礼を云って帰りました。
 唯それだけのことで、こっちでは左のみ恩にも被せていなかったのですが、そのお武家はひどく義理がたい人とみえて、あくる日の早朝に菓子の折を持って礼に来たので、わたくしもいさゝか恐縮しました。奥へ通して色々の話をしているうちに、双方がます/\打解けて、お武家は自分の身の上話をはじめました。このお武家が前に云った森垣幸右衛門という人で、その頃はまだ内田という苗字であったのです。
 森垣さんは奥州のある大藩の侍で、貝の役をつとめていたのです。いくさの時に法螺貝をふく役です。一口にほらを吹くと云いますけれど、本式に法螺を吹くのはなか/\むずかしい。山伏の法螺でさえ容易でない、まして軍陣の駈引に用いる法螺と来ては更にむずかしい[#「むずかしい」は底本では「むずしい」]ことになっていました。やはり色々の譜があるので、それを専門に学んだものでなければ滅多に吹くことは出来ません。拙者は貝をつかまつると云えば、立派に武士の云い立てになったものです。森垣さんはその貝の役の家に生まれて去年の秋までは無事につとめていたのですが、人間というものは判らないもので、なまじいに貝が上手であったために、飛んでもないことを仕出来すようになったのです。

       二

 貝の役はひとりでなく、幾人もあります。わたくしも素人で詳しいことは知りませんが、やはり貝の師範役というものがあって、それについて子供のときから稽古するのだそうです。森垣さんの藩中では大館(おおだて)宇兵衛という人が師範役でした。その人は貝の名人で、この人が貝を吹くと六里四方にきこえるとか、この人が貝を吹いたら羽黒山の天狗山伏が聴きに来たとか、いろ/\の云い伝えがあるそうです。年を取っても不思議に息のつゞく人でしたが、三年まえに七十幾歳とかいう高齢で死にました。この人に子はありましたが、歯が悪くて貝の役は勤められず、若いときから他の役にまわされていたので、その家にある貝の秘曲を伝え受けることが出来ませんでした。
 わが子にゆずることの出来ないのは初めから判っているので、宇兵衛という人は大勢の弟子のなかから然るべきものを見たてて置きました。見立てられたのが森垣さんで、宇兵衛は自分の死ぬ一年ほど前に、森垣さんを自分の屋敷へよびよせて、貝の秘曲を伝授しました。伝授すると云っても、その譜をかいてある巻物(まきもの)をゆずるのです。座敷のまん中にむかい合って、弟子はその巻物をひろげて一心に見ていると、師匠が一度ふいて聞かせる。たゞそれだけのことですが、秘曲をつたえられるほどの素養のある者ならば、その譜を見ただけでも十分に吹ける筈だそうです。笙の秘曲なぞを伝えるのも矢はりそれだそうで、例の足柄山で新羅三郎義光が笙の伝授をする図に、義光と時秋とがむかい合って笙を吹いているのは間違っていて、義光は笙をふき、時秋は秘曲の巻(まき)を見ているのが本当だということですが、どうでしょうか。
 宇兵衛は三つの秘曲を伝授して、その二つだけは吹いて聞かせましたが、最後の一つは吹かないで、たゞその譜のかいてある巻物をあたえただけでした。
「これは一番大切なものであって、しかも妄りに吹くことは出来ぬものである。万一の場合のほかは決して吹くな。おれも生涯に一度も吹いたことは無かった。おまえも吹く時のないように神仏に祈るがよい。」
 それは落城の譜というのでありました。城がいよ/\落ちるというときに、今が最後の貝をふく。なるほど、これは大切なものに相違ありません。そうして、めったに吹くことの出来ないものです。これを吹くようなことがあっては大変です。貝の役としては勿論心得ていなければならないのですが、それを吹くことの無いように祈っていなければなりません。
「万一の場合のほかに決して吹くな。」
 師匠はくり返して念を押すと、森垣さんもかならず吹かないと誓を立てゝ、その譜の巻物をゆずられました。それも畢竟は森垣さんの伎倆が師匠に見ぬかれたからで、芸道の面目、身の名誉、森垣さんも人に羨まれているうちに、その翌年には師匠の宇兵衛が歿しました。こうなると森垣さんの天下で、ゆく/\は師匠のあとを嗣いで師範役をも仰せつけられるだろうと噂されていましたが、前にも云った通り、こゝに飛んでもない事件が出来(しゅったい)したのです。
 森垣さんは師匠から三つの秘曲をつたえられましたが、そのなかで最も大切に心得ろと云われた例の落城の譜――それはどうしても吹くことが出来ない。泰平無事のときに落城の譜をふくと云うことは、城の滅亡を歌うようなもので、武家に取っては此上もない不吉です。ある意味に於いては主人のお家を呪うものとも見られます。師匠が固く戒めたのもそこの理窟で、それは森垣さんも万々心得ているのですが、そこが人情、吹くなと云われると何うも吹いて見たくて堪らない。それでも三年ほどは辛抱していたのですが、もう我慢が仕切れなくなって来ました。うっかり吹いたらばどんなお咎めをうけるかも知れない、まかり間違えば死罪になるかも知れない。それを承知していながら、何分にも我慢が出来ない。どうも困ったことになったものです。
 それでも初めのうちは一生懸命に我慢して、巻物の譜を眺めるだけで堪(こら)えていたのですが、仕舞にはどうしても堪え切れなくなって来ました。なんでも八月十四日の晩だそうです。あしたが十五夜で、今夜も宵から月のひかりが皎々と冴えている。森垣さんは縁側に出てその月を仰いでいると、空は見果てもなしに高く晴れている。露のふかい庭では虫の声がきこえる。森垣さんはしばらくそこに突っ立っているうちに、例の落城の譜のことを思い出すと、もう矢も楯も堪らなくなりました。今夜こそはどうしても我慢が出来なくなりました。
「その時は我ながら夢のようでござった。」と、森垣さんはわたくしに話しました。
 まったく夢のような心持で、森垣さんは奥座敷の床の間にうや/\しく飾ってある革の手箱のなかから彼の巻物をとり出して、それを先ずふところに押込み、ふだんから大切にしている法螺の貝をかゝえ込んで、自分の屋敷をぬけ出しました。夢のようだとは云っても、さすがに本性は狂いません。城下でむやみに吹きたてると大変だと思ったので、なるべく遠いところへ行って吹くつもりで、明るい月のひかりをたよりに、一里あゆみ、二里あゆみ、とう/\城下から三里半ほど距(はな)れたところまで行き着くと、そこはもう山路でした。路の勝手はかねて知っているので、森垣さんはその山路をのぼって、中腹の平なところへ出ると、そこには小さい古い社(やしろ)があります。うしろには大木がしげり合っていますが、東南は開けていて、今夜の月を遮るようなものはありません。城の櫓も、城下の町も、城下の川も、夜露のなかにきら/\と光ってみえます。それを遠くながめながら、森垣さんは社の縁に腰をおろしました。
「こゝなら些(ちっ)とぐらい吹いても、誰にも覚られることはあるまい。」
 譜はもう暗記するほどに覚えているのですが、それでも念のためにその巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。
 それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ/\明るくなる、吹く人もだん/\興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く/\吹き出すと、夜がおい/\に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。
 その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ごろ何者が貝をふくのかと、いずれも不思議に思いました。家来達がすぐに櫓にかけ上って、貝の音のきこえる方角を聞きさだめると、それは城下から三里あまりを隔てゝいる山の方角であることが判りました。なんにもせよ、夜陰に及んで妄りに貝をふきたてゝ城下をさわがす曲者(くせもの)は、すぐ召捕れという下知があったところへ、家老のなにがしが俄に殿の御前へ出て、容易ならぬことを言上しました。
「唯今きこえまする貝の音は一通りの音色ともおぼえませぬ。」
 勿論、それが落城の譜であるか何うかは確かに判らなかったのですが、さすがは家老でも勤めている人だけに、それが尋常の貝の音ではないことだけは覚ったとみえたのです。扨そうなると、騒ぎはいよ/\大きくなって、召捕の人数がすぐに駈け向かうことになりました。
 そんなことゝは些(ちっ)とも知らない森垣さんは、吹くだけ吹いて満足して、年来の胸のかたまりが初めて解けたような心持で、足も軽く戻って来る途中、召捕の人数に出逢いました。貝を持っているのが証拠で、なんとも云いぬけることが出来ず、森垣さんはその場から城内へ引っ立てられました。これはしまったと、森垣さんももう覚悟をきめたのですが、それでも途中で気がついて、ふところに忍ばせてある落城の譜の一巻を竊(そっ)と路ばたの川のなかへ投げ込みました。夜のことで、幸いに誰にも覚られず、殊にそこは山川の流れがうず巻いて、深い淵のようになっている所であったので、巻物は忽ちに底ふかく沈んでしまいました。

       三

 城内へ引っ立てられて、森垣さんは厳重の吟味をうけましたが、月のよいのに浮かれて山へのぼり、低く吹いているつもりの貝の音が次第に高くなって、お城の内外をさわがしたる罪は重々おそれ入りましたと申立てたばかりで、落城の譜のことはなんにも云いませんでした。家老はどうも普通の貝の音でないと云うのですが、所詮は素人で、それがなんの譜であるかと云うことは確かに判りません。もと/\秘曲のことですから、ほかに知っている者のあろう筈はありません。もしそれが落城の譜であると知れたら、どんな重い仕置をうけるか判らなかったのですが、何分にも無証拠ですから、森垣さんはとう/\強情を張り通してしまいました。それでも唯では済みません。夜中みだりに貝を吹きたてゝ城下をさわがしたという廉で、お役御免のうえに追放を申渡されました。
 森垣さんは飛んだことをしたと今更後悔しましたが、どうにも仕方がない。それでも独り身の気安さに、ふだんから親くしている人達から内証で恵んでくれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が落城することになったのも、なにかの因縁かも知れません。
「いや、一生の不覚、面目次第もござらぬ。」と、森垣さんも額を撫でていました。
 こう判ってみると、わたくしも気の毒になりました。屋敷をしくじったと云っても、別に悪いことをしたと云うのでもない。この先、いつまでも浪人しているわけにも行くまいから、なんとか身の立つようにしてあげたいと思ってだん/\相談すると、森垣さんは再び武家奉公をする気はないという。しかしこの人は字をよく書くので、手習の師匠でもはじめては何うだろうと云うことになりました。幸いわたくしの町内に森垣さんという手習の師匠があって、六七十人の弟子を教えていましたが、これはもう老人、先年その娘のお政というのに婿を取ったのですが、折合がわるくて離縁になり、二度目の婿はまだ決らないので、娘は二十六になるまで独身でいる。こゝへ世話をしたら双方の都合もよかろうと、わたくしが例のお世話焼きでこっちへも勧め、あっちをも説きつけて、この縁談は好い塩配にまとまりました。森垣さんはそれ以来、本姓の内田をすてゝ養家の苗字を名乗ることになったのです。
「朝鮮軍記の講釈で、小早川隆景が貝を吹く件(くだり)をきいている時には、自分のむかしが思い出されて、もう一度貝をふく身になりたいと思いましたが、それはその時だけのことで、武家奉公はもう嫌です。まったく今の身の方が気楽です。」と、その後に森垣さんはしみ/″\と云いました。
 そういう関係から森垣さんとは特別に近しく附合って、今日では先方は金持、こちらは貧乏人ですが、相変らず仲よくしているわけです。わたくしは世話ずきで、むかしから色々の人の世話もしましたが、森垣さんのような履歴を持っているのは、まあ変った方ですね。
 森垣さんのお話はこれぎりですが、この法螺の貝について別に可笑しいお話があります。それはある与力のわかい人が組頭の屋敷へ逢いに行った時のことです。御承知でもありましょうが、旗本でも御家人でも、その支配頭や組頭には毎月幾度という面会日があって、それをお逢いの日といいます。組下のもので何か云い立てることがあるものは、その面会日にたずねて行くことになっているのですが、ほかに云い立てることはありません、なにかの芸を云い立てゝ役附にして貰うように頼みに行くのです。定めてうるさいことだろうと思われますが、自分の組内から役附のものが沢山出るのはその組頭の名誉になるので、組頭は自分の組下の者にむかって何か申立てろと催促するくらいで、面会日にたずねて行けば、よろこんで逢ってくれたそうです。
 そこで、その与力は組がしらの屋敷に逢いに行ったのです。こう云うことを頼みに行くのは、いずれも若い人ですから、組頭のまえに出てやゝ臆した形で、小声で物を云っていました。
「して、お手前の申立ては。」と、組頭が訊きました。
「手前は貝をつかまつります。」
 組頭は老人で、すこしく耳が遠いところへ、こっちが小声で云っているので能く聴き取れない。二度も三度も訊きかえし、云い返して、両方がじれ込んで来たので、組頭は自分の耳を扇で指して、おれは耳が遠いから傍へ来て大きい声で云えと指図したので、若い与力はすゝみ出てまた云いました。
「手前は貝をつかまつる。」
「なに。」と組頭は首をかしげた。
 まだ判らないらしいので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。
「手前は法螺をふく。」
「馬鹿。」
 与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと撲(ぶ)たれました。撲たれた方はびっくりしていると、撲った方は苦り切って叱りつけました。
「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」
 相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は烟(けむ)にまかれて早々に帰りました。すると、その晩になって、組がしらから使が来て、なにがしにもう一度逢いたいから来てくれと云うのです。今度行ったらどんな目に逢うかと思ったのですが、上役からわざ/\の使ですから断るわけにも行かないので、内心びく/\もので出かけて行くと、昼間とは大違いで、組頭はにこ/\しながら出て来ました。
「いや、先刻は気の毒。どうも年をとると一徹になってな。はゝゝゝゝ。」
 だん/\聴いてみると、この組がしらの老人、ほらを吹くと云ったのを、俗に所謂ほらを吹くの意味に解釈して、大風呂敷をひろげると云うことゝ一図に思い込んでしまったのでした。武士は法螺をふくとは云わない、貝を吹くとか、貝をつかまつるとか云うのが当然で、その与力も初めはそう云ったのですが、相手にいつまでも通じないらしいので、世話に砕いて「ほらを吹く」と云ったのが間違いの基でした。役附を願うには何かの芸を申立てなければならないが、その申立ての一芸が駄法螺を吹くと云うのでは、あまりに人を馬鹿にしている、怪しからん奴だと組頭も一時は立腹したのですが、あとになってから流石にそれと気がついて、わざ/\使を遣って呼びよせて、あらためてその挨拶に及んだわけでした。
 組がしらも気の毒に思って、特別の推挙をしてくれたのでしょう、その与力は念願成就、間もなく貝の役を仰せ附かることになりました。それを聞きつたえて若い人たちは、「あいつは旨いことをした。やっぱり人間は、ほらをふくに限る。」と笑ったそうです。なんだか作り話のようですが、これはまったくの実録ですよ。

 老人の話が丁度こゝまで来たときに、表の門のあく音がして三四人の跫音がきこえた。女や子供の声もきこえた。躑躅のお客がいよ/\帰って来たらしい。わたしはそれと入れちがいに席を起つことにした。
[#改段]

権十郎の芝居

       一

 これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡□こゝに老人の家をたずねたことは、読者もよく知っている筈である。
 老人は已にこの世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい。そのころ繁昌した躑躅園は十余年前から廃(すた)れてしまって、つゝじの大部分は日比谷公園に移されたとか聞いている。わたしが今住んでいる横町に一軒の大きい植木屋が残っているが、それはむかしの躑躅園の一つであるということを土地の人から聞かされた。してみると、三浦老人の旧宅もこゝから余り遠いところではなかった筈であるが、今日ではまるで見当が付かなくなった。老人の歿後、わたしは滅多にこの辺へ足を向けたことがないので、こゝらの土地がいつの間にどう変ったのか些(ちっ)ともわからない。老人の宅はむかしの百人組同心の組屋敷を修繕したもので、そこには杉の生垣に囲まれた家が幾軒もつゞいていたのを明かに記憶しているが、今日その番地の辺をたずねても杉の生垣などは一向に見あたらない。あたりにはすべて当世風の新しい住宅や商店ばかりが建ちつゞいている。町が発展するにしたがって、それらの古い建物はだん/\に取毀されてしまったのであろう。
 昔話――それを語った人も、その人の家も、みな此世から消え失せてしまって、それを聴いていた其当時の青年が今やこゝに移り住むことになったのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまったく此事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めて色々の追憶に耽ることがある。むかしの名残で、今でもこゝらには躑躅が多い。わたしの庭にも沢山に咲いている。その紅い花が雨にぬれているのを眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり/\と眼のまえに浮んでくる。
 いつもの八畳の座敷で、老人と青年とが向い合っている。老人は「権十郎の芝居」という昔話をしているのであった。

 あなたは芝居のことを調べていらっしゃるようですから、今のことは勿論、むかしのことも好く御存じでしょうが、江戸時代の芝居小屋というものは実に穢い。今日の場末の小劇場だって昔にくらべれば遙かに立派なものです。それでもその当時は、三芝居だとか檜舞台だとか云って、むやみに有難がっていたもので、今から考えると可笑(おかし)いくらい。なにしろ、芝居なぞというものは町人や職人が見るもので、所謂知識階級の人たちは立ち寄らないことになっていたのですから、今日とは万事が違います。
 それでは学者や侍は芝居を一切見物しないかと云うと、そうではない。芝居の好きな人は矢はり覗きに行くのですが、まったく文字通りに「覗き」に行くので、大手をふって乗り込むわけには行きません。勿論、武家法度(はっと)のうちにも武士は歌舞伎を見るべからずという個条はないようですが、それでも自然にそういう習慣が出来てしまって、武士は先ずそういう場所へ立寄らないことになっている。一時はその習慣もよほど廃れかゝっていたのですが、御承知の通り、安政四年四月十四日、三丁目の森田座で天竺徳兵衛の狂言を演じている最中に、桟敷に見物していた肥後の侍が、たとい狂言とはいえ、子として親の首を打つということがあろうかというので、俄に逆上して桟敷を飛び降り、舞台にいる天竺徳兵衛の市蔵に斬ってかゝったという大騒ぎ。その以来、侍の芝居見物ということが又やかましくなりまして、それまでは大小をさしたまゝで芝居小屋へ這入ることも出来たのですが、以来は大小をさして木戸をくゞること堅く無用、腰の物はかならず芝居茶屋にあずけて行くことに触れ渡されてしまいました。
 それですから、侍が芝居を見るときには、大小を茶屋にあずけて、丸腰で這入らなければならない。つまり吉原へ遊びに行くのと同じことになったわけですから、物堅い屋敷では藩中の芝居見物をやかましく云う。江戸の侍もおのずと遠慮勝になる。それでもやっぱり芝居見物をやめられないと云う熱心家は、芝居茶屋に大小をあずけ、羽織もあずけ、そこで縞物の羽織などに着かえるものもある。用心のいゝのは、身ぐるみ着かえてしまって、双子(ふたこ)の半纏などを引っかけて、手拭を米屋かぶりなどにして土間の隅の方で竊(そっ)と見物しているものもある。いずれにしても、おなじ銭を払いながら小さく見物している傾きがある。どこへ行っても威張っている侍が、芝居[#「芝居」は底本では「芸居」]へくると遠慮をしているというのも面白いわけでした。
 前置がちっと長くなりましたが、その侍の芝居見物のときのお話です。市ヶ谷の月桂寺のそばに藤崎余一郎という人がありました。二百俵ほど取っていた組与力で、年はまだ二十一、阿母(おっか)さんと中間(ちゅうげん)と下女と四人暮しで、先ず無事に御役をつとめていたのですが、この人に一つの道楽がある。それは例の芝居好きで、どこの座が贔屓だとか、どの俳優(やくしゃ)が贔屓だとか云うのでなく、どこの芝居でも替り目ごとに覗きたいというのだから大変です。ほかの小遣いはなるたけ倹約して、みんな猿若町へ運んでしまう。侍としてはあまり好(い)い道楽ではありません。いつぞやお話をした桐畑の太夫――あれよりはずっと優(ま)しですけれども、やはり世間からは褒められない方です。
 それでも阿母(おっか)さんは案外に捌けた人で、いくら侍でも若いものには何かの道楽がある。女狂いよりは芝居道楽の方がまだ始末がいゝと云ったようなわけで、さのみにやかましく云いませんでしたから、本人は大手をふって屋敷を出てゆく。そのうちに一つの事件が出来(しゅったい)した。というのは、文久二年の市村座の五月狂言は「菖蒲合仇討講談(しょうぶあわせあだうちこうだん)」で、合邦(がっぽう)ヶ辻に亀山の仇討を綴じあわせたもの。俳優(やくしゃ)は関三(せきさん)に団蔵、粂三郎、それに売出しの芝翫、権十郎、羽左衛門というような若手が加わっているのだから、馬鹿に人気が好い。二番目は堀川の猿まわしで、芝翫の与次郎、粂三郎のおしゅん、羽左衛門の伝兵衛、おつきあいに関三と団蔵と権十郎の三人が掛取りを勤めるというのですから、これだけでも立派な呼び物になります。その辻番附をみただけでも、藤崎さんはもうぞく/\して初日を待っていました。
 なんでも初日から五六日目の五月十五日であったそうです。藤崎さんは例の通りに猿若町へ出かけて行きました。さっきも申す通り、家から着がえを抱えて行く人もあり、前以て芝居町の近所の知人の家へあずけて置いて、そこで着かえて行く人もありましたが、藤崎さんはそれほどのこともしないで、やはり普通の帷子(かたびら)をきて、大小に雪踏(せった)ばきという拵え、しかし袴は着けていません。茶屋に羽織と大小をあずけて、着ながしの丸腰で木戸を這入る。兎も角も武家である上に、毎々のおなじみですから茶屋でも粗略には扱いません。若い衆に送られて、藤崎さんは土間のお客になりました。
 たった一人の見物ですから、藤崎さんは無論に割込みです。そのころの平土間一枡は七人詰ですから、ほかに六人の見物がいる。たとい丸腰でも、髪の結い方や風俗でそれが武家か町人か十分に判りますから、おなじ枡の人たちも藤崎さんに相当の敬意を払って、なるだけ楽に坐らせてくれました。ほかの六人も一組ではありません、四人とふたりの二組で、その一組は町家の若夫婦と、その妹らしい十六七の娘と、近所の人かと思われる二十一二の男、ほかの一組は職人らしい二人連でした。この二組はしきりに酒をのみながら見物している。藤崎さんも少しは飲みました。
 いつの代の見物人にも俳優(やくしゃ)の好き嫌いはありますが、とりわけて昔はこの好き嫌いが烈しかったようで、自分の贔屓俳優は親子兄弟のように可愛がる。自分の嫌いな俳優は仇のように憎がるというわけで、俳優の贔屓争いから飛んでもない喧嘩や仲違(たが)いを生じることも屡□ありました。ところで、この藤崎さんは河原崎権十郎が嫌いでした。権十郎は家柄がいゝのと、年が若くて男前がいゝのとで、御殿女中や若い娘達には人気があって「権ちゃん、権ちゃん」と頻りに騒がれていたが、見巧者(みごうしゃ)連のあいだには余り評判がよくなかった。藤崎さんも年の割には眼が肥えているから、どうも権十郎を好かない。いや、好かないのを通り越して、あんな俳優は嫌いだと不断から云っているくらいでした。
 その権十郎が今度の狂言では合邦(がっぽう)と立場(たてば)の太平次をするのですから、権ちゃん贔屓は大涎れですが、藤崎さんは少し納まりません。権十郎が舞台へ出るたびに、顔をしかめて舌打をしていましたが、仕舞にはだん/\に夢中になって、口のうちで、「あゝまずいな、まずいな。下手な奴だな。この大根め」などと云うようになった。それが同じ枡の人たちの耳に這入ると、四人連れのうちの若いおかみさんと妹娘とが顔の色を悪くしました。この女たちは大の権ちゃん贔屓であったのです。そのとなりに坐っていて、権十郎はまずいの、下手だのとむやみに罵っているのだから堪りません。おかみさんも仕舞には顳□(こめかみ)に青い筋をうねらせて、自分の亭主にさゝやくと、めん鶏勧めて雄鶏が時を作ったのか、それとも亭主もさっきから癪に障っていたのか、藤崎さんにむかって「狂言中はおしずかに願います。」と咎めるように云いました。
 藤崎さんも逆らわずに、一旦はおとなしく黙ってしまったのですが、少し経つと又夢中になって「まずいな、まずいな。」と口のうちで繰返す。そのうちに幕がしまると、その亭主は藤崎さんの方へ向き直って、切口上で訊きました。
「あなたは先程から頻りに山崎屋をまずいの、下手だの、大根だのと仰しゃっておいでゝございましたが、どう云うところがお気に召さないのでございましょうか。」
 前にも申す通り、その当時の贔屓というものは今日とはまた息込みが違っていて、たといその俳優(やくしゃ)に一面識が無くとも、自分が蔭ながら贔屓している以上、それを悪く云う奴等は自分のかたきも同様に心得ている時節ですから、この男も眼の色をかえて藤崎さんを詰問したわけです。こういう相手は好(い)い加減にあしらって置けばいゝのですが、藤崎さんも年がわかい、おまけに芝居気ちがいと来ている。まだその上に、町人のくせに武士に向って食ってかゝるとは怪しからん奴だという肚もある。かた/″\我慢が出来なかったとみえて、これも向き直って答弁をはじめました。むかしの芝居は幕間(まくあい)が長いから、こんな討論会にはおあつらえ向きです。
 権十郎の芸がまずいか、拙くないか、いつまで云い合っていたところで、所詮は水かけ論に過ぎないのですが、両方が意地になって云い募りました。ばか/\しいと云ってしまえばそれ迄ですが、この場合、両方ともに一生懸命です。相手の連の男も加勢に出て、藤崎さんを云い籠めようとする。おかみさんや妹娘までが泣声を出して食ってかゝる。近所となりの土間にいる人達もびっくりして眺めている。なにしろ敵は大勢ですから、藤崎さんもなか/\の苦戦になりました。
 ほかの二人づれの職人はさっきから黙って聴いていましたが、両方の議論がいつまでも果しがないので、その一人が横合から口を出しました。
「もし、皆さん。もう好い加減にしたらどうです。いつまで云い会った[#「云い会った」はママ]ところで、どうで決着は付きやあしませんや。第一、御近所の方達も御迷惑でしょうから。」
 藤崎さんは返事もしませんでしたが、一方の相手はさすがに町人だけに、のぼせ切っているなかでも慌てゝ挨拶しました。
「いや、どうも相済みません。まったく御近所迷惑で、申訳もございません。お聴きの通りのわけで、このお方があんまり判らないことを仰しゃるもんですから……。」
「うっちゃってお置きなせえ。おまえさんが相手になるからいけねえ。」と、もう一人の職人が云いました。「山崎屋がほんとうに下手か上手か、ぼんくらに判るものか。」
「そうさな。」と、前の一人が又云いました。「あんまりからかっていると、仕舞には舞台へ飛びあがって、太平次にでも咬(くら)いつくかも知れねえ。あぶねえ、あぶねえ。もうおよしなせえ。」
 職人ふたりは藤崎さんを横目に視ながらせゝら笑いました。

       二

 この職人たちも権十郎贔屓とみえます。さっきから黙って聴いていたのですが、藤崎さんが飽までも強情を張って、意地にかゝって権十郎をわるく云うので、ふたりももう我慢が出来なくなって、四人連の方の助太刀に出て来たらしい。口では仲裁するように云っているが、その実は藤崎さんの方へ突っかかっている。殊に舞台へ飛びあがって太平次にくらい付くなどというのは、例の肥後の侍の一件をあて付けたもので、藤崎さんを武家とみての悪口でしょう。それを聞いて、藤崎さんもむっとしました。
 いくら相手が町人や職人でも、一桝のうちで六人がみな敵では藤崎さんも困ります。町人たちの方では味方が殖えたので、いよ/\威勢がよくなりました。
「まったくでございますね。」と、亭主の男もせゝら笑いました。「なにしろ芝居とお能とは違いますからね。一年に一度ぐらい御覧になったんじゃあ、ほんとうの芸は判りませんよ。」
「判らなければ判らないで、おとなしく見物していらっしゃれば好(い)いんだけれど……。」と、若いおかみさんも厭(いや)に笑いました。「これでもわたし達は肩揚のおりないうちから、替り目ごとに欠さずに見物しているんですからね。」
 かわる/″\に藤崎さんを嘲弄するようなことを云って、しまいには何がなしに声をあげてどっと笑いました。藤崎さんはいよ/\癪に障った。もうこの上はこんな奴等と問答無益、片っ端から花道へひきずり出して、柔術の腕前をみせてやろうかとも思ったのですが、どうしても、そんなことは出来ない。侍が芝居見物にくる、単にそれだけならば兎もかくも黙許されていますが、こゝで何かの事件をひき起したら大変、どんなお咎めを蒙るかも知れない。自分の家にも疵が付かないとは限らない。いくら残念でも場所が悪い。藤崎さんは胸をさすって堪えているより外はありません。そこへ好い塩梅に茶屋の若い衆が来てくれました。
 若い衆もさっきから此のいきさつを知っているので、いつまでも咬み合わして置いて何かの間違いが出来てはならないと思ったのでしょう。藤崎さんを宥めるように連れ出して、別の土間へ引越させることにしました。ほかの割込みのお客と入れかえたのです。藤崎さんもこんなところにいるのは面白くないので、素直に承知して引越しましたが、今度の場所は今までよりも三四間あとのところで、喧嘩相手のふた組は眼のまえに見えます。その六人が時々にこちらを振返って、なにか話しながら笑っている。屹度おれの悪口を云っているに相違ないと思うと、藤崎さんはます/\不愉快を感じたのですが、根が芝居好きですから中途から帰るのも残り惜しいので、まあ我慢して二番目の猿まわしまで見物してしまったのです。
 芝居を出たのは彼是(かれこ)れ五つ(午後八時)過ぎで、贅沢な人は茶屋で夜食を食って帰るものもありますが、大抵は浅草の広小路辺まで出て来て、そこらで何か食って帰ることになっている。御承知の奴(やっこ)うなぎ、あすこの鰻めしが六百文、大どんぶりでなか/\立派でしたから、芝居がえりの人達はあすこに寄って行くのが多い。藤崎さんもその奴うなぎの二階で大どんぶりを抱え込んでいると、少しおくれて這入って来たのが喧嘩相手の四人で、職人は連でないから途中で別れたのでしょう。町人夫婦と妹娘と、もう一人の男とが繋がって来たのです。二階は芝居帰りの客がこみ合っているので、どちらの席も余程距れていましたが、藤崎さんの方ではすぐに気がつきました。
 きょうの芝居は合邦ヶ辻と亀山と、かたき討の狂言を二膳込みで見せられたせいか、藤崎さんの頭にも「かたき討」という考えが余ほど強くしみ込んでいたらしく、こゝで彼の四人連に再び出逢ったのは、自分の尋ねる仇にめぐり逢ったようにも思われたのです。たんとも飲まないが、藤崎さんの膳のまえには徳利が二本ならんでいる。顔もぽうと紅くなっていました。
 そのうちに、彼の四人連もこっちを見つけたとみえて、のび上って覗きながら又なにか囁きはじめたようです。そうして、時々に笑い声もきこえます。
「怪しからん奴等だ。」と、藤崎さんは鰻を食いながら考えていました。かえり討やら仇討やら、色々の殺伐な舞台面がその眼のさきに浮び出しました。
 早々に飯を食ってしまって、藤崎さんはこゝを出ました。かの四人連が下谷の池の端から来た客だということを芝居茶屋の若い衆から聞いているので、藤崎さんは先廻りをして広徳寺前のあたりにうろ/\していると、この頃の天気癖で細かい雨がぽつ/\降って来ました。今と違って、あの辺は寺町ですから夜はさびしい。藤崎さんはある寺の門の下に這入って、雨宿りでもしているようにたゝずんでいると、時々に提灯をつけた人が通ります。その光をたよりに、来る人の姿を一々あらためていると、やがて三四人の笑い声がきこえました。それが彼の四人づれの声であることをすぐに覚って、藤崎さんは手拭で顔をつゝみました。
 人は四人、提灯は一つ。それがだん/\に近寄ってくるのを二三間やり過して置いて、藤崎さんはうしろから足早に附けて行ったかと思うと、亭主らしい男はうしろ袈裟に斬られて倒れました。わっと云って逃げようとするおかみさんも、つゞいて其場に斬り倒されました。連の男と妹娘は、人殺し人殺しと怒鳴りながら、跣足になって前とうしろへ逃げて行く。どっちを追おうかと少しかんがえているうちに、その騒ぎを聞きつけて、近所の珠数屋が戸をあけて、これも人殺し人殺しと怒鳴り立てる。ほかからも人のかけてくる足音が聞える。藤崎さんも我身があやういと思ったので、これも一目散に逃げてしまいました。
 下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所があって、俗に磯馴(そな)れの番所といいます。その番所前も無事に通り越して、もう安心だと思うと、藤崎さんは俄にがっかりしたような心持になりました。だんだんに強くなってくる雨に濡れながら、しずかに歩いているうちに、後悔の念が胸先を衝きあげるように湧いて来ました。
「おれは馬鹿なことをした。」
 当座の口論や一分の意趣で刃傷沙汰に及ぶことはめずらしくない。しかし仮にも武士たるものが、歌舞伎役者の上手下手をあらそって、町人の相手をふたりまでも手にかけるとは、まことに類の少い出来事で、いくら仇討の芝居を見たからと云って、とんだ仇討をしてしまったものです。藤崎さんも今となっては後悔のほかはありません。万一これが露顕しては恥の上塗りであるから、いっそ今のうちに切腹しようかとも思ったのですが、先ず兎もかくも家へ帰って、母にもそのわけを話して暇乞いをした上で、しずかに最期を遂げても遅くはあるまいと思い直して、夜のふけるころに市ヶ谷の屋敷へ帰って来ました。
 奉公人どもを先ず寝かしてしまって、藤崎さんは今夜の一件をそっと話しますと、阿母(おっか)さんも一旦はおどろきましたが、はやまって無暗に死んではならない、組頭によくその事情を申立てゝ、生きるも死ぬもその指図を待つがよかろうと云うことになって、その晩はそのまゝ寝てしまいました。夜があけてから藤崎さんは組頭の屋敷へ行って、一切のことを正直に申立てると、組がしらも顔をしかめて考えていました。
 当人に腹を切らせてしまえばそれ迄のことですが、組頭としては成るべく組下の者を殺したくないのが人情です。殊に事件が事件ですから、そんなことが表向きになると、当人ばかりか組頭の身の上にも何かの飛ばっちりが降りかゝって来ないとも限りません。そこで組頭は藤崎さんに意見して、先ず当分は素知らぬ顔をして成行を窺っていろ。いよ/\詮議が厳重になって、お前のからだに火が付きそうになったらば、おれが内証で教えてやるから、その時に腹を切れ。かならず慌てゝはならないと、くれ/″\も意見して帰しました。
 母の意見、組頭の意見で、藤崎さんも先ず死ぬのを思いとまって、内心びく/\もので幾日を送っていました。斬られたのは下谷の紙屋の若夫婦で、娘はおかみさんの妹、連の男は近所の下駄屋の亭主だったそうです。斬られた夫婦は即死、ほかの二人は運よく逃れたので、町方でもこの二人について色々詮議をしましたが、何分にも暗いのと、不意の出来事に度をうしなっていたのとで、何がなにやら一向わからないと云うのです。それでも芝居の喧嘩の一件が町方の耳に這入って、芝居茶屋の方を一応吟味したのですが、茶屋でも何かのかゝり合を恐れたとみえて、そのお武家は初めてのお客であるから何処の人だか知らないと云い切ってしまったので、まるで手がかりがありません。第一、その侍が果して斬ったのか、それとも此頃流行る辻斬のたぐいか、それすら確かに見きわめは付かないので、紙屋の夫婦はとう/\殺され損と云う事になってしまいました。
 それを聞いて、藤崎さんも安心しました。組頭もほっとしたそうです。それに懲りて、藤崎さんは好きな芝居を一生見ないことに決めまして、組頭や阿母(おっか)さんの前でも固く誓ったと云うことです。
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