中国怪奇小説集
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著者名:岡本綺堂 

 家の隅に一つの大きい瓶(かめ)が据えてあるのを、嫁はふと見つけて、こころみにその蓋(ふた)をあけて覗くと、内には大蛇がわだかまっていたので、なんにも知らない嫁はおどろいて、あわてて熱湯をそそぎ込んで殺してしまった。家内の者が帰ってから、嫁はそれを報告すると、いずれも顔の色を変えて驚き憂いた。
 それから暫くのうちに、この一家は疫病にかかって殆んど死に絶えた。

   螻蛄

 廬陵(ろりょう)の太守□企(ろうき)の家では螻蛄(けら)を祭ることになっている。
 何ゆえにそんな虫を祭るかというに、幾代か前の先祖が何かの連坐(まきぞえ)で獄屋につながれた。身におぼえの無い罪ではあるが、拷問の責め苦に堪えかねて、遂に服罪することになったのである。彼は無罪の死を嘆いている時、一匹の螻蛄が自分の前を這い歩いているのを見た。彼は憂苦のあまりに、この小さい虫にむかって愚痴を言った。
「おまえに霊があるならば、なんとかして私を救ってくれないかなあ」
 食いかけの飯を投げてやると、螻蛄は残らず食って行ったが、その後ふたたび這い出して来たのを見ると、その形が前よりも余ほど大きくなったようである。不思議に思って、毎日かならず飯を投げてやると、螻蛄も必ず食って行った。そうして、数十日を経るあいだに虫はだんだんに生長して犬よりも大きくなった。
 刑の執行がいよいよ明日に迫った前夜である。
 大きい虫は獄屋の壁のすそを掘って、人間が這い出るほどの穴をこしらえてくれた。彼はそこから抜け出して、一旦の命を生きのびて、しばらく潜伏しているうちに、測らずも大赦(たいしゃ)に逢って青天白日(せいてんはくじつ)の身となった。
 その以来、その家では代々その虫の祭祀を続けているのである。

   父母の霊

 劉根(りゅうこん)は字(あざな)を君安(くんあん)といい、長安(ちょうあん)の人である。漢の成帝(せいてい)のときに嵩山(すうざん)に入って異人に仙術を伝えられ、遂にその秘訣を得て、心のままに鬼を使うことが出来るようになった。
 頴川(えいせん)の太守、史祈(しき)という人がそれを聞いて、彼は妖法をおこなう者であると認め、役所へよび寄せて成敗しようと思った。召されて劉が出頭すると、太守はおごそかに言い渡した。
「貴公はよく人に鬼を見せるというが、今わたしの眼の前へその姿をはっきりと見せてくれ。それが出来なければ刑戮(けいりく)を加えるから覚悟しなさい」
「それは訳もないことです」
 劉は太守の前にある筆や硯(すずり)を借りて、なにかの御符(おふだ)をかいた。そうして、机を一つ叩くと、忽ちそこへ五、六人の鬼があらわれた。鬼は二人の囚人を縛って来たので、太守は眼を据えてよく視ると、その囚人は自分の父と母であった。父母はまず劉にむかって謝まった。
「小忰(こせがれ)めが飛んだ無礼を働きまして、なんとも申し訳がございません」
 かれらは更に我が子を叱った。
「貴様はなんという奴だ。先祖に光栄をあたえる事が出来ないばかりか、かえって神仙に対して無礼の罪をかさね、生みの親にまでこんな難儀をかけるのか」
 太守は実におどろいた。彼は俄(にわ)かに劉の前に頭(かしら)をすり付けて、無礼の罪を泣いて詫(わ)びると、劉は黙って何処(どこ)へか立ち去った。

   無鬼論

 阮瞻(げんせん)は字(あざな)を千里(せんり)といい、平素から無鬼論を主張して、鬼などという物があるべき筈がないと言っていたが、誰も正面から議論をこころみて、彼に勝ち得る者はなかった。阮もみずからそれを誇って、この理をもって推(お)すときは、世に幽と明と二つの界(さかい)があるように伝えるのは誤りであると唱えていた。
 ある日、ひとりの見識らぬ客が阮をたずねて来て、式(かた)のごとく時候の挨拶が終った後に、話は鬼の問題に移ると、その客も大いに才弁のある人物で、この世に鬼ありと言う。阮は例の無鬼論を主張し、たがいに激論を闘わしたが、客の方が遂に言い負かされてしまった。と思うと、彼は怒りの色をあらわした。
「鬼神のことは古今の聖人賢者(けんじゃ)もみな言い伝えているのに、貴公ひとりが無いと言い張ることが出来るものか。論より証拠、わたしが即ち鬼である」
 彼はたちまち異形(いぎょう)の者に変じて消え失せたので、阮はなんとも言うことが出来なくなった。彼はそれから心持が悪くなって、一年あまりの後に病死した。

   盤瓠

 高辛氏(こうしんし)の時代に、王宮にいる老婦人が久しく耳の疾(やまい)にかかって医師の治療を受けると、医師はその耳から大きな繭(まゆ)のごとき虫を取り出した。老婦人が去った後、瓠(ひさご)の籬(かき)でかこって盤(ふた)をかぶせて置くと、虫は俄かに変じて犬となった。犬の毛皮には五色(ごしき)の文(あや)があるので、これを宮中に養うこととし、瓠と盤とにちなんで盤瓠(ばんこ)と名づけていた。
 その当時、戎呉(じゅうご)という胡(えびす)の勢力が盛んで、しばしば国境を犯すので、諸将をつかわして征討を試みても、容易に打ち勝つことが出来ない。そこで、天下に触れを廻して、もし戎呉の将軍の首を取って来る者があれば、千斤(きん)の金をあたえ、万戸(ばんこ)の邑(むら)をあたえ、さらに王の少女を賜わるということになった。
 やがて盤瓠は一人の首をくわえて王宮に来た。それはかの戎呉の首であったので、王はその処分に迷っていると、家来たちはみな言った。
「たとい敵の首を取って来たにしても、盤瓠は畜類であるから、これに官禄を与えることも出来ず、姫君を賜わることも出来ず、どうにも致し方はありますまい」
 それを聞いて少女は王に申し上げた。
「戎呉の首を取った者にはわたくしを与えるということをすでに天下に公約されたのです。盤瓠がその首を取って来て、国のために害を除いたのは、天の命ずるところで、犬の知恵ばかりではありますまい。王者は言(げん)を重んじ、伯者は信を重んずと申します。女ひとりの身を惜しんで、天下に対する公約を破るのは、国家の禍(わざわ)いでありましょう」
 王も懼(おそ)れて、その言葉に従うことになった。約束の通りに少女をあたえると、犬は彼女を伴って南山にのぼった。山は草木(そうもく)おい茂って、人の行くべき所ではなかった。少女は今までの衣裳を解き捨てて、賤(いや)しい奴僕(ぬぼく)の服を着け、犬の導くままに山を登り、谷に下って石室(いしむろ)のなかにとどまった。王は悲しんで、ときどきその様子を見せにやると、いつでも俄かに雨風が起って、山は震い、雲は晦(くら)く、無事にその石室まで行き着くものはなかった。
 それから三年ほどのあいだに、少女は六人の男と六人の女を生んだ。かれらは木の皮をもって衣服を織り、草の実をもって五色に染めたが、その衣服の裁ち方には尾の形が残っていた。盤瓠が死んだ後、少女は王城へ帰ってそれを語ったので、王は使いをやってその子ども達を迎い取らせたが、その時には雨風の祟(たた)りもなかった。
 しかし子供たちの服装は異様であり、言葉は通ぜず、行儀は悪く、山に棲むことを好んで都を嫌うので、王はその意にまかせて、かれらに好(よ)い山や広い沢地をあたえて自由に棲ませた。かれらを呼んで蛮夷といった。

   金龍池

 晋(しん)の懐帝(かいてい)の永嘉(えいか)年中に、韓媼(かんおん)という老女が野なかで巨(おお)きい卵をみつけた。拾って帰って育てると、やがて男の児が生まれて、その字(あざな)を※児(けつじ)[#「てへん+厥」、47-12]といった。
 ※[#「てへん+厥」、47-13]児が四歳のとき、劉淵(りゅうえん)が平陽(へいよう)の城を築いたが、どうしても出来ない。そこで、賞をかけて築城術の達者を募ると、※[#「てへん+厥」、47-14]児はその募集に応じた。彼は変じて蛇となって、韓媼に灰を用意しろと教えた。
「わたしの這って行くあとに灰をまいて来れば、自然に城の縄張りが出来る」
 韓媼はそのいう通りにした。劉淵は怪しんで※[#「てへん+厥」、47-17]児を捉(とら)えようとすると、蛇は山の穴に隠れた。しかもその尾の端が五、六寸ばかりあらわれていたので、追っ手は剣をぬいて尾を斬ると、そこから忽ちに泉が涌(わ)き出して池となった。金龍池の名はこれから起ったのである。

   発塚異事(はつちょういじ)

 三国(さんごく)の呉(ご)の孫休(そんきゅう)のときに、一人の戍将(じゅしょう)が広陵(こうりょう)を守っていたが、城の修繕をするために付近の古い塚を掘りかえして石の板をあつめた。見あたり次第にたくさんの塚をぶち壊(こわ)しているうちに、一つの大きい塚を発(あば)くことになった。
 塚のうちには幾重(いくちょう)の閣(かく)があって、その扉(とびら)はみな回転して開閉自在に作られていた。四方には車道が通じていて、その高さは騎馬の人も往来が出来るほどである。ほかに高さ五尺(しゃく)ほどの銅人(どうじん)が数十も立っていて、いずれも朱衣、大冠、剣を執って整列し、そのうしろの石壁には殿中将軍とか、侍郎常侍とか彫刻してある。それらの護衛から想像すると、定めて由緒ある公侯の塚であるらしく思われた。
 さらに正面の棺を破ってみると、棺中の人は髪がすでに斑白(はんぱく)で、衣冠鮮明、その相貌は生けるが如くである。棺のうちには厚さ一尺ほどに雲母(きらら)を敷き、白い玉三十個を死骸の下に置き列(なら)べてあった。兵卒らがその死人を舁(か)き出して、うしろの壁に倚(もた)せかけると、冬瓜(とうが)のような大きい玉がその懐中から転げ出したので、驚いて更に検査すると、死人の耳にも鼻にも棗(なつめ)の実ほどの黄金が詰め込んであった。
 次も墓あらしの話。
 漢の広川王(こうせんおう)も墓あらしを好んだ。あるとき欒書(らんしょ)の塚をあばくと、棺も祭具もみな朽ち破れて、何物も余されていなかったが、ただ一匹の白い狐が棲んでいて、人を見ておどろき走ったので、王の左右にある者が追いかけたが、わずかに戟(ほこ)をもってその左足を傷つけただけで、遂にその姿を見失った。
 その夜、王の枕もとに、鬚(ひげ)も眉もことごとく白い一個の丈夫(じょうふ)があらわれて、お前はなぜおれの左の足を傷つけたかと責めた上に、持ったる杖をあげて王の左足を撃ったかと思うと、夢は醒めた。
 王は撃たれた足に痛みをおぼえて一種の悪瘡(あくそう)を生じ、いかに治療しても一生を終るまで平癒しなかった。

   徐光の瓜

 三国の呉(ご)のとき、徐光(じょこう)という者があって、市中へ出て種々の術をおこなっていた。
 ある日、ある家へ行って瓜(うり)をくれというと、その主人が与えなかった。それでは瓜の花を貰いたいと言って、地面に杖を立てて花を植えると、忽ちに蔓(つる)が伸び、花が開いて実を結んだので、徐は自分も取って食い、見物人にも分けてやった。瓜あきんどがそのあとに残った瓜を取って売りに出ると、中身はみな空(から)になっていた。
 徐は天候をうらない、出水や旱(ひでり)のことを予言すると、みな適中した。かつて大将軍孫□(そんりん)の門前を通ると、彼は着物の裾(すそ)をかかげて、左右に唾(つば)しながら走りぬけた。ある人がその子細をたずねると、彼は答えた。
「一面に血が流れていて、その臭(にお)いがたまらない」
 将軍はそれを聞いて大いに憎んで、遂に彼を殺すことになった。徐は首を斬られても、血が出なかった。
 将軍は後に幼帝を廃して、さらに景帝(けいてい)を擁立し、それを先帝の陵(みささぎ)に奉告しようとして、門を出て車に乗ると、俄かに大風が吹いて来て、その車をゆり動かしたので、車はあやうく傾きかかった。
 この時、かの徐光が松の樹の上に立って、笑いながら指図しているのを見たが、それは将軍の眼に映っただけで、そばにいる者にはなんにも見えなかった。
 将軍は景帝を立てたのであるが、その景帝のためにたちまち誅(ちゅう)せられた。




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