半七捕物帳
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著者名:岡本綺堂 

 狭い家でその声はすぐにこっちへも聞えたので、文字春はあわてて帯をむすびながら出た。
「おまえさんがお師匠さんでございますか」と、女は改めて会釈した。「だしぬけにこんなことを願いに出ますのも何でございますが、お師匠さんはあの津の国屋さんとお心安くしておいでなさるそうでございますね」
「はあ、津の国屋さんとは御懇意にしています」
「うけたまわりますと、あの店では女中さんが無くって困っているとか申すことですが……。わたくしは青山に居ります者で、どこへか御奉公に出たいと存じて居りますところへ、そんなお噂をうかがいましたもんですから、わたくしのような者で宜しければ、その津の国屋さんで使って頂きたいと存じまして……。けれども、桂庵の手にかかるのは忌(いや)でございますし、津の国屋さんへだしぬけに出ますのも何だか変でございますから、まことに御無理を願って相済みませんが、どうかお師匠さんのお口添えを願いたいと存じまして……」
「ああ、そうですか」
 文字春も少しかんがえた。だんだんに寒空にむかって、津の国屋で奉公人に困っているのは判り切っている。年は少し老(と)っているし、あまり丈夫そうにも見えないが、この女一人が住み付いてくれれば津の国屋でもどのくらい助かるかもしれない。お雪も水仕事をしないで済むかも知れない。まことにいい都合であると思ったが、なにをいうにも相手は初対面の女である。身許(みもと)も気心もまるで知れないものを迂濶に引き合わせる訳には行かないと、彼女はしばらくその返答に躊躇していると、女もそれを察したらしく、気の毒そうに云った。
「だしぬけに出ましてこんなことを申すのですから、定めて胡乱(うろん)な奴とおぼしめすかも知れませんが、いよいよお使いくださると決まりますれば、身許もくわしく申し上げます。決しておまえさんに御迷惑はかけませんから」
「じゃあ、少しここに待っていてください。ともかくも向うへ行って訊いて来ますから」
 出先でちょうど着物を着かえているのを幸いに、文字春はすぐに津の国屋へ駈けて行った。女房に逢ってその話をすると、津の国屋では困り切っている最中であるので、すぐにその奉公人を連れて来てくれと云った。
「お師匠さんのおかげで助かります」と、お雪もしきりに礼を云った。
 文字春は皆から礼を云われて、善いことをしたと喜びながら家へ帰って、すぐにその女を津の国屋へ連れて行った。女はお角(かく)といって、年が年だけに応待も行儀もひと通り心得ているらしいので、津の国屋では故障なしに雇い入れることに決めた。

     六

 三日の目見得(めみえ)もとどこおりなく済んで、お角は津の国屋へいよいよ住み込むことになった。お雪は菓子折を持って文字春のところへ礼に来た。新参ながらお角はひどく女房の気に入っているという話を聞いて、文字春もまず安心した。
 お角も礼に来た。それが縁になって、お角は使に出たついでなどに文字春のところへ顔を出した。そうして、やがて一と月ほども無事にすぎた時に、お角はいつものように訪(たず)ねて来て、文字春となにかの話の末にこんなことをささやいた。
「お師匠さんにもいろいろ御厄介になったんですが、わたくしは津の国屋に長く辛抱できればいいがと思っていますが……」
「でも、大変におかみさんの気に入っているというじゃありませんか」と、文字春は不思議そうに訊いた。
「全くおかみさんは目にかけて下さいますし、お雪さんも善い人ですから、なにも不足はないのでございますが……」
 云いかけて彼女は口をつぐんだ。それを押し詰めて詮議すると、津の国屋の女房お藤は番頭の金兵衛と不義を働いているというのであった。金兵衛は男盛りの独身者(ひとりもの)であるが、お藤はもう五十を越えている。まさかにそんな不埒(ふらち)を働く筈はあるまいと、文字春も初めは容易に信用しなかったが、お角はその怪しい形跡をたびたび認めたというのである。土蔵の奥や二階のひと間へ不義者がそっと連れ立ってゆくのを、自分はたしかに見とどけたと彼女は云った。
「併しそんなことがいつまでも知れずには居りますまい」と、お角は溜息をついた。「もし何かの面倒が起りました時に、わたくしが手引きでも致したように思われましては大変でございます」
 主人の女房と家来とが密通の手引きをした者は、その時代の法としては死罪である。お角が津の国屋に奉公をしているのを恐れるのも無理はなかった。お角は暇をとれば、それで済むが、済まないのは女房と番頭との問題で、万一それが本当であるとすれば、津の国屋が潰れるような大騒動が出来(しゅったい)するに相違ない。死霊の祟りよりもこの祟りの方が覿面(てきめん)に怖く思われて、文字春はまた蒼くなった。
 しかし彼女はまだ一途(いちず)にお角の話を信用することも出来ないので、そんなことを迂濶に口外してはならぬと、くれぐれもお角に口止めをして帰した。
 よもやとは思いながら、文字春も幾らかの疑いを懐かないわけには行かなかった。お雪は父が自分から進んで菩提寺へ出て行ったように話していたが、あるいは女房と番頭とが狎(な)れ合いでうまく勧めて追い出したのではあるまいかとも疑われた。年も五十を越して、ふだんは物堅いように見えていた女房に、そんな恐ろしい魔が魅(さ)すというのも、やはり死霊の祟りではあるまいかとも恐れられた。
 お安という女の執念はいろいろの祟りをなして、結局、津の国屋をほろぼすのではあるまいかとも思われた。併しこればかりは、文字春は誰に話すことも出来なかった。お雪にかまをかけて聞き出すことも出来なかった。
「いくら願っても、お暇をくださらないので困ります」
 お角はその後にも来て文字春に話した。この間からお暇を願っているが、おかみさんがどうしても肯いてくれない。お給金が不足ならば望み通りにやる。年の暮には着物も買ってやる。こっちでは十分に眼をかけてやるから、せめて来年の暖くなるまで辛抱してくれと云われるので、こっちもさすがにそれを振り切って出ることも出来ないので困っていると、お角はしきりに愚痴をこぼしていた。かれが暇を願っているのは事実であるらしく、お雪も文字春のところへ来てそんなことを話した。お角はいい奉公人であるから、なんとかして引き留めて置きたいと阿母さんもふだんから云っていると、彼女はなんの秘密も知らないように話していた。
 自分が世話をした奉公人が評判がいいのは結構であるが、もし津の国屋の内輪(うちわ)にそんな秘密が忍んでいるとすれば、その奉公人を周旋した自分の身の上にどんな係り合いが起らないとも限らないと、文字春はそれがためにまた余計な苦労を増した。併しその後も別に何事もなしに過ぎて、今年ももう師走のはじめになった。底寒い日が幾日もつづいて、時々に大きい霰(あられ)が降った。
「おい、師匠。もう起きたかえ」
 師走の四日の朝、もう五ツ(午前八時)を過ぎたころに、大工の兼吉が文字春の家の格子をあけた。
「あら、棟梁。なんぼあたしだって……。もうこのとおり、朝のお稽古を二人も片付けたんですよ。節季師走(せっきしわす)じゃありませんか」
「そんなに早起きをしているなら知っているのかえ。津の国屋の一件を……」
「津の国屋の……。どうしたんです。何かあったんですか」と、文字春は長火鉢の上へ首を伸ばした。
「とんでもねえことが出来てしまって、ほんとうに驚いたよ」と、兼吉も火鉢の前に坐って、まず一服すった。
「おかみさんと番頭さんが土蔵のなかで首をくくったんだ」
「まあ……」
「全くびっくりするじゃねえか。何ということだ。呆(あき)れてしまった」
 兼吉は罵るように云いながら、火鉢の小縁(こべり)で煙管(きせる)をぽんぽんと叩くと、文字春の顔の色は灰のようになった。
「どうしたんでしょうねえ、心中でしょうか」と、彼女は小声で訊いた。
「まあ、そうらしい。別に書置らしいものも見当らねえようだが、男と女が一緒に死んでいりゃ先ずお定まりの心中だろうよ」
「だって、あんまり年が違うじゃありませんか」
「そこが思案のほかとでもいうんだろう。出入り場のことを悪く云いたかねえが、あのおかみさんも一体よくねえからね。いつかも話した通り、お安という貰い娘(こ)をむごく追い出したのも、おかみさんが旦那に吹っ込んだに相違ねえ。そんなことがやっぱり祟っているのかも知れねえよ。なにしろ津の国屋は大騒ぎさ。二人も一度に死んでいるんだから、内分にも何にもなることじゃあねえ。取りあえず主人を下谷から呼んでくるやら、御検視を受けるやら、家じゅうは引っくり返るような騒動だ。なんと云っても出入り場のことだから、おいらも今朝から手伝いに行ってはいるが、娘と奉公人ばかりじゃあどうすることも出来ねえので弱っている」
「そうでしょうねえ」
 お角の話が今更のように思い合わされて、文字春は深い溜息をついた。
「それで御検視はもう済んだんですか」
「いや、御検視は今来たところだ。そんなところにうろついていると面倒だから、おいらはちょいとはずして来て、御検視の引き揚げた頃に又出かけようと思っているんだ」
「それじゃあ、あたしももう少し後に行きましょう。そんな訳じゃあお悔みというのも変だけれど、まんざら知らない顔も出来ませんからね」
「そりゃあそうさ。まして師匠はあすこの家まで幽霊を案内して来たんだもの」
「いやですよ」と、文字春は泣き声を出した。「後生(ごしょう)ですから、もうそんな話は止して下さいよ。なんの因果で、あたしはこんな係り合いになったんでしょうねえ」
 半□(はんとき)あまりも過ぎて、兼吉は再び出ていった。文字春はこわごわながら門口(かどぐち)へ出て見ると、近所の人達もみな門(かど)に出てなにか頻りにいろいろの噂をしていた。津の国屋のまえにも大勢の人があつまって内を覗いていた。きょうも朝から雲った日で、灰を凍らせたような暗い大空が町の上を低く掩っていた。
「おい、師匠。御近所がちっと騒々しいね」
 声をかけられて見返ると、それはここらを縄張りにしている岡っ引の常吉であった。桐畑の幸右衛門はこのごろ隠居同様になって、伜の常吉が専ら御用を勤めている。彼はまだ二十五六の若い男で、こんな稼業には似合わないおとなしやかな色白の、人形のような顔かたちが人の眼について、人形常という綽名(あだな)をとっているのであった。
 人に可愛がられない商売でも、男は男、しかも人形の常吉に声をかけられて文字春は思わず顔をうすく染めた。かれは袖口で口を掩いながら初心(うぶ)らしく挨拶した。
「親分さん。お寒うございます」
「ひどく冷えるね。冷えるのも仕方がねえが、また困ったことが出来たぜ」
「そうですってね。もう御検視は済みましたか」
「旦那方は今引き揚げるところだ。就いては師匠、おめえにちっと訊きてえことがあるんだが、後に来るよ」
「はあ、どうぞ、お待ち申しております」
 常吉はそのまま津の国屋の方へ行ってしまった。文字春はあわてて内へはいって、別の着物を出して着換えた。帯も締めかえた。そうして、長火鉢へたくさんの炭をついだ。かれは津の国屋の一件について、なにかの係り合いになるのを恐れながら、一方には常吉の来るのを迷惑には思っていなかった。

     七

「師匠。内かえ」
 常吉が文字春の家の格子をくぐったのは、それから一□(とき)ほどの後であった。文字春は待ち兼ねていたように、すぐに長火鉢のまえを起って出た。
「さきほどは失礼。きたないところですが、どうぞこちらへ……」
「じゃあ、ちっと邪魔をするぜ」
 若い岡っ引が草履をぬいで内へあがると、文字春は小女に耳打ちをして、近所の仕出し屋へ走らせた。
「ところで、師匠。早速だが、少しおめえに訊きてえことがある。あの津の国屋の娘はおめえの弟子だというじゃあねえか。師匠も津の国屋へときどき出這入りすることもあるんだろう」
「はあ。時々には……」と、文字春はうなずいた。「ですから、きょうも後にちょいと顔出しをしようと思っているんです」
「ところで、素人(しろと)っぽいことを訊くようだが、今度の一件についてなんにも心当りはねえかね。おいらの考えじゃあ、おかみさんと番頭の心中はどうも呑み込めねえ。あれには何か込み入ったわけがあるだろうと思うんだが……。おいらは前から知っているが、あの金兵衛という番頭は白鼠で、そんな不埒を働く人間じゃあねえ。ましておかみさんとは母子(おやこ)ほども年が違っている。たとい一緒に死んだとしても、心中じゃあねえ。何かほかに仔細があるに相違ねえ。今の処じゃあ年の若けえ娘と奉公人ばかりで、何を調べても一向に手応(てごて)えがねえので困っているんだが、師匠、決しておめえに迷惑はかけねえ。なにか気のついたことがあるんなら教えてくんねえか」
「そうですねえ。親分も御承知でしょう。なんだか津の国屋にいやな噂のあることは……」
「いやな噂……」と、常吉もうなずいた。「なにかあの店が潰れるとかいうんじゃねえか」
「そうですよ。あたしはよく知りませんけれど、津の国屋にはお安さんとかいう娘の死霊が祟っているとかという噂ですが……」
「娘の死霊……。そりゃあおいらも初耳だ。そうして、その娘はどうしたんだ」
 相手が乗り気になって耳を引き立てるので、文字春は自然に釣り出されたのと、もう一つには常吉に手柄をさせてやりたいというような下心(したこころ)をまじって、彼女はさきに兼吉から聞かされたお安の一件をくわしく話した。まだその上に自分がお祖師様へ参詣の帰り路で、お安の幽霊らしい若い娘と道連れになったことまで怖々(こわごわ)とささやくと、常吉はいよいよ熱心に耳をかたむけていた。殊に文字春が幽霊のような娘に出逢ったということが彼の興味を惹いたらしかった。彼はその娘の年ごろや人相や服装(みなり)などを一々明細に聞きただして、自分の胸のうちに畳み込んでいるように見えた。
「むむ。こりゃあいいことを聞かしてくれた。師匠、あらためて礼をいうぜ、そんなことはちっとも知らなかった」
 仕出し屋から誂えの肴を持ち込んで来たので、文字春はすぐに酒の支度をした。
「こりゃあ気の毒だな。こんな厄介になっちゃあいけねえ」と、常吉はこころから気の毒そうに云った。
「いいえ、ほんの寒さしのぎにひと口、なんにもございませんけれど、あがってください」
「じゃあ、折角だから御馳走になろう」
 二人は差し向いで飲みはじめた。その間に、文字春は津の国屋の一件について、自分の知っているだけのことを残らずしゃべってしまった。女中のお角は自分が世話をしたんだということも打ち明けた。これも常吉の注意を惹いたらしく、彼はときどきに猪口(ちょこ)をおいて考えていた。なんだか残り惜しそうに引き留める師匠をふり切って、彼は半□ほどの後にここを出た。
「まだ御用がたくさんある。いい心持に酔っちゃあいられねえ。また来るよ」
 彼は幾らかの金をつつんで、文字春が辞退するのを無理に押しつけるようにして置いて行った。霰はまだ時々にばらばらと降っていた。常吉はその足で再び津の国屋へ引っ返して、なにかの手伝いをしている大工の兼吉を表へ呼び出して、お安のことをもう一度訊きただした。それから女中のお角をよび出して、女房と番頭との関係についても一応詮議すると、お角は文字春にも話した通り、たしかに二人が密会しているらしい証跡を見とどけたと云った。しかし自分は新参者で、それにはなんにも関係のないということを繰り返して弁解していた。常吉はそれだけの調べを終って、更に八丁堀へ顔を出すと、同心たちの意見も心中に一致していて、もう詮議の必要を認めないような口ぶりであった。それでも此の時代に於いては、主人と奉公人との密通は重大事件であるから、なにか新しく聞き込んだことがあったならば、油断なく更に詮議しろとのことであった。常吉はお安の幽霊一件を同心らの前ではまだ発表しなかった。ただ自分には少し腑に落ちないところがあるから、もう一と足踏み込んで詮議してみたいというだけのことを断わって帰って来た。彼はそれからすぐに神田三河町の半七をたずねて、何かしばらく相談して別れた。
 その次の日の午過ぎに津の国屋から女房お藤の葬式(とむらい)が出た。しかし番頭と心中したということになっている以上、無論に表向きの葬式を営むことも出来ないので、日の暮れるのを待ってこっそりと棺桶をかつぎ出した。近所の者もわざと遠慮して、大抵は見送りに行かなかった。文字春も津の国屋へ悔みに行っただけで、葬式の供には立たなかった。大工の兼吉と店の若い者二人と、親類の総代が一人、唯それだけの者が忍びやかに棺のあとについて行った。内福と評判されている津の国屋のおかみさんの葬式があの姿とは、心柄とはいいながらあんまり哀れだと近所の者もささやきあっていた。世間に対して面目ないせいもあろう、主人の次郎兵衛は奥に閉じ籠ったきりで、ほとんど誰にも顔をあわせなかったが、初七日(しょなのか)のすむのを待って再び寺へ帰るとの噂であった。
 女房も番頭も同時に世を去って、あとは若い娘のお雪ひとりである。その上に主人が寺へ帰ってしまったらば、誰が店を取り締って行くであろう、と近所では専ら噂していた。文字春も不安でならなかった。死霊の祟りで津の国屋はとうとう潰れてしまうのかと、彼女はいよいよおそろしく思った。
 そのうちに初七日も過ぎたが、次郎兵衛はやはり津の国屋を立ち退かなかった。彼はあまりに意外の出来事におどろかされて、葬式の出たあくる日から病気になって、どっと床に就いているのだと伝えられた。店の方は休みも同様で、二、三人の親類が来て家内の世話しているらしかった。
 津の国屋の初七日が過ぎて三日の夜であった。文字春は芝のおなじ稼業の家に不幸があって、その悔みに行った帰り途に、溜池の縁(ふち)へさしかかったのはもう五ツ(午後八時)を過ぎた頃であった。津の国屋といい、今夜といい、とかくに忌なことばかり続くので、文字春もいよいよ暗い心持になった。早く帰るつもりであったのが思いのほかに時を費したので、暗い寂しい溜池のふちを通るのが薄気味が悪かった。今日(こんにち)と違って、山王山の麓をめぐる大きい溜池には河獺(かわうそ)が棲むという噂もあった。幽霊の娘と道連れになったことなどを思い出して、文字春はぞっとした。月のない、霜ぐもりとでも云いそうな空で、池の枯蘆(かれあし)のなかでは雁の鳴く声が寒そうにきこえた。文字春は両袖をしっかりとかきあわせて、自分の下駄の音にもおびやかされながら、小股に急いで来ると、暗い中から駈けて来た者があった。
 避ける間もなしに両方が突き当ったので、文字春はぎょっとして立ちすくむと、相手はあわただしく声をかけた。
「早く来てください。大変です」
 それは若い女、しかも津の国屋のお雪の声らしいので、文字春はまた驚かされた。
「あの、お雪さんじゃありませんか」
「あら、お師匠さん。いいところへ……。早く来てください」
「一体どうしたの」と、文字春は胸を躍らせながら訊いた。
「店の長太郎と勇吉が……」
「長どんと勇どんが……。どうかしたんですか」
「出刃庖丁で……」
「まあ、喧嘩でもしたんですか」
 暗い中でよく判らないが、お雪はふるえて息をはずませているらしく、もう碌々に返事もしないで、師匠の足もとにべったりと坐ってしまった。
「しっかりおしなさいよ」と、文字春は彼女を抱き起しながら云った。「そうして、その二人はどこにいるんです」
「なんでもそこらに……」
 なにしろ暗いので、文字春にはちっとも見当が付かなかった。水明かりでそこらを透かしてみたが、近いところでは二人の人間があらそっている様子も見えなかった。仕方がなしに彼女は声をあげて呼んだ。
「もし、長さん、勇さん……。そこらにいますか。長さん……、勇さん……」
 どこからも返事の声はきこえなかった。暗さは暗し、不安はいよいよ募ってくるので、文字春はお雪の手を引いて、明るい灯の見える方角へ一生懸命にかけ出した。

     八

 半分は夢中で自分の家のまえまで駈けて来て、文字春は初めてほっと息をついた。よく見ると、お雪も真っ蒼になって、今にも再び倒れそうにも思われたので、ともかくも家の中へ連れ込んで、ありあわせの薬や水を飲ませた。すこし落ち着くのを待って今夜の出来事を聞きただすと、それは又意外のことであった。
 今夜お雪が店先へ出ると、あとから若い者の長太郎がついて来て、少し話があるから表までちょいと出てくれというので、なに心なく一緒に出ると、長太郎は突然に短刀を抜いて彼女の眼の先に突きつけた。そうして、そこまで黙って一緒に来いとおどした。相手が鋭い刃物を持っているのにおびやかされて、お雪は声を立てることが出来なかった。両隣りにも人家がありながら、声を立てたら命がないとおどされているので、彼女は身をすくめたままで溜池のふちまで連れて行かれた。
 長太郎はあたりに往来のないのを見て、自分の女房になってくれとお雪に迫った。おどろいて返答に躊躇していると、長太郎はいよいよ迫って、もし自分の云うことを肯かなければ、おまえを殺してこの池へ投げ込んで、自分もあとから身を投げて、世間へは心中と吹聴(ふいちょう)させると云った。お雪はいよいよおびえて、しきりに堪忍してくれと頼んだが、長太郎はどうしても肯かなかった。お雪はもう切羽(せっぱ)つまったところへ、小僧の勇吉があとから駈けて来て、これも出刃庖丁を振りかざして、やにわに長太郎に斬ってかかった。二人は短刀と出刃庖丁とで闘った。お雪は途方にくれて、誰かの救いを呼ぼうとして夢中で駈け出したが、もう気が転倒しているので反対の方角へ足を向けたらしく、あたかもこっちへ帰って来る文字春に突き当ったのであった。
 そう判って見ると、いよいよ捨てては置かれないので、文字春はすぐに津の国屋へ知らせに行った。店でもその報告に驚かされたらしく、若い者二人と小僧二人とが提灯を持って其の場へ駈け付けると、果たして長太郎と勇吉とが血だらけになって枯蘆の中に倒れているのを発見した。どっちも二、三ヵ所の浅手を負った後に、刃物を捨てて組討ちになったらしく、二人は堅く引っ組んだままで池の中へころげ落ちていた。刃物の傷はみな浅手で命にかかわるようなことはなかったが、池へころげ落ちた時に、長太郎は運悪く泥深いところへ顔を突っ込んだので、そのまま息が止まってしまった。勇吉は半死半生の体(てい)であったが、これは手当ての後に正気にかえった。
 お雪を無事に送りとどけて貰ったので、津の国屋では文字春にあつく礼を云った。しかし津の国屋よりもほかに礼を云ってもらいたい人があるので、文字春はさらに桐畑の常吉の家へと報(し)らせに行った。
「どうせ一人死んだことですから、そちらの耳へも無論はいりましょうが、なるべく早い方がいいかと思いまして……」
「いや、それはありがてえ」と、ちょうど居合わせた常吉がすぐに出て来た。「よく知らせてくれた。じゃあ、これから出かけるとしよう。これでこの一件もたいがい眼鼻が付いたようだ。師匠、今にお礼をするよ」
 思い通りに礼を云われて、文字春は満足して帰った。かれはもう死霊の怖いことなどは忘れていた。ちっとぐらい祟られてもいいから、自分も立ち入ってこの事件のために働いて見たいような気にもなった。
 常吉はすぐに津の国屋へ行ってみると、勇吉の傷は右の手に二ヵ所と、左の肩に一ヵ所であったが、どれも手重いものではなかった。それでもよほど弱っているらしいのを常吉はいたわりながら、町内の自身番へ連れて行った。
「おい、小僧。おめえはえれえことをやったな。命がけで主人の娘の難儀を救ったんだ。お上から御褒美が出るかも知れねえぞ。しかしおめえはどうして刃物を持って長太郎のあとから追っかけて行ったんだ。あいつが娘を連れ出すところを見ていたのか」
 弱ってはいたが、勇吉は案外はっきりと答えた。
「はい、見ていました。長太郎が刃物でお雪さんをおどかして、無理にどこへか連れて行こうとするのを見ましたから、空手(からて)じゃあいけないと思って、すぐに台所から出刃庖丁を持ち出して行きました。そうして溜池のところで追っ付いたんです」
「よし、判った。だが、まだ一つ判らねえことがある。おめえはそれを見つけたら、なぜほかの者に知らせねえ。自分一人で刃物を持ち出して行くというのはおかしいじゃねえか」
 勇吉は黙っていた。
「ここが大事のところだ」と、常吉は諭(さと)すように云った。「おめえが褒美を貰うか、下手人(げしゅにん)になるか、二つに一つの大事のところだ、よく落ち着いて返事をしろ」
 勇吉はやはり黙っていた。
「じゃあ、おれの方から云うが、おめえは何か長太郎を怨んでいるな。娘を助ける料簡も無論だが、まだ其のほかに、いっそここで長太郎をやっつけてしまおうという料簡がありゃあしなかったか、どうだ。はっきり云え」
「恐れ入りました」と、勇吉は素直に手をついた。
「むむ、そうか」と、常吉はうなずいた。「よく素直に申し立てた。そこで、なぜ長太郎をやっつける気になった。長太郎になにか遺恨でもあるのか」
「どうも仇(かたき)のように思われてなりませんので……」
「かたき……。むむ、おめえは津の国屋の番頭の親類だということだな」
「はい。金兵衛の縁で津の国屋へ奉公にまいりました」
「その金兵衛の仇……。長太郎が金兵衛を殺したのか」と、常吉は念を押した。
「どうもそう思われてなりません」と、勇吉は眼をふいた。
 それには何か証拠があるかと常吉が押し返してきくと、勇吉は別に確かな証拠はないと云った。併しどうもそう思われてならない。金兵衛は自分の親類であるが、決して主人と不義密通を働くような人間ではない。かれの死骸を土蔵の中で発見した時から、これは自分で首をくくったのではない、誰かが彼を絞め殺してその死骸を土蔵の中へ運び込んだのに相違ないと判断したが、何分にも確かな証拠がないので、自分はよんどころなしに今まで黙っていたのであると、勇吉は申し立てた。それにしても、数ある奉公人の中でどうして長太郎一人を下手人と疑ったのかと、常吉はかさねて詮議すると、その前日の午(ひる)すぎに長太郎が主人の娘に向って何か冗談を云った。それがあまりにしつこいのと猥(みだ)りがましいのとで、帳場にいた金兵衛が聞き兼ねて、大きい声で長太郎を叱り付けた。叱られた長太郎はすごすご起って行ったが、その時に彼は怖い眼をして金兵衛をじろりと睨んだ。その鋭い眼つきが今でも自分の眼に残っていると勇吉は云った。
 併しそれだけのことでは表向きの証拠にならないので、勇吉は口惜しいのを我慢していると、今夜の事件が測らずも出来(しゅったい)した。憎らしい長太郎が主人の娘を脅迫して、どこへか連れて行こうとするのである。今年十六の勇吉はもう堪忍ができなくなって、いっそ彼を殺してお雪を救おうと、咄嗟(とっさ)のあいだに思案を決めたのであった。
「よし、よし、よく申し立てた」と、常吉は満足したようにうなずいた。「傷養生をして後日(ごにち)の御沙汰を待っていろ。かならず短気を出しちゃあならねえぞ。金兵衛の仇はまだほかにも大勢ある。それは俺がみんな仇討ちをしてやるから、おとなしく待っていろ」
「ありがとうございます」と、勇吉は再び眼を拭いた。
 勇吉をいたわって、あとから津の国屋へ送ってやるようにと町(ちょう)役人に云いつけておいて、常吉はすぐに津の国屋へ引っ返して行こうとして、文字春の家の前を通りかかると、家の中では何かけたたましい女の叫び声がきこえた。それが耳について思わず立ちどまる途端に、水口(みずくち)の戸を押し倒すような物音がして、ひとりの女が露路の中から転がるように駈け出して来た。つづいて又一人の女が何か刃物をふり上げて追って来るらしかった。常吉は飛んで行って、あとの女の前に立ちふさがると、女は夜叉(やしゃ)のようになって彼に斬ってかかった。二、三度やりたがわして其の刃物をたたき落して、常吉は叫んだ。
「お角、御用だ」
 御用の声を聞くと、女は掴まれた腕を一生懸命に振りはなして、もとの露路の奥へ引っ返して駈け込んだ。常吉はつづいて追ってゆくと、逃げ場を失ったものか但しは初めから覚悟の上か、かれはそこにある井戸側に手をかけたと思うと、身をひるがえして真っ逆(さか)さまに飛び込んだ。
 長屋じゅうの手を借りて常吉はすぐに井戸の中から女を引き揚げさせたが、かれはもう息が絶えていた。それが文字春の世話で津の国屋へ奉公に行ったお角であることは、常吉も初めから知っていた。文字春の話によると、たった今その水口の戸をそっとたたいて師匠に逢いたいという者がある。この夜更けに誰か知らんと思いながら、文字春は寝衣(ねまき)のままで出て見ると、それはかのお角で、お前が余計なおしゃべりをしたもんだから何もかもばれてしまったと云いながら、隠していた剃刀(かみそり)でいきなりに斬ってかかったので、文字春はおどろいて表へ逃げ出したというのであった。
「大方そんなことだろうと思った。だが、まあ、怪我がなくてよかった」と、常吉は云った。
 女房と番頭と二人の死人を出した津の国屋では、それから十日も経たないうちに、又もや長太郎とお角と二人の死人を出した。しかし、これで丁度差し引きが付いたのであるということが後に判った。

     九

 津の国屋のお藤を絞め殺したのは、女中のお角であった。金兵衛を絞め殺したのは、勇吉の想像の通りに若い者の長太郎であった。かれらは女房と番頭が熟睡しているところを絞め殺して、二つの死骸をそっと土蔵の中へ運び込んで、あたかも二人が自分で縊(くび)れ死んだようによそおったのであった。
 津の国屋の親戚で、下谷に店を持っている池田屋十右衛門、浅草に店を持っている大桝屋弥平次、無宿のならず者熊吉と源助、矢場女お兼、以上の五人は神田の半七と桐畑の常吉の手であげられた。津の国屋の菩提寺の住職と無宿の托鉢僧とは寺社方の手に捕えられた。これでこの一件は落着(らくぢゃく)した。
 これまで書けば、もう改めてくわしく註するまでもあるまい。池田屋十右衛門と大桝屋弥平次と菩提寺の住職と、この三人が共謀して、かねて内福の聞えのある津の国屋の身代を横領しようと巧んだのであった。津の国屋の主人次郎兵衛は貰い娘(こ)のお安をむごたらしく追い出して、とうとう変死をさせたことを内心ひそかに悔んでいた。殊に惣領娘のお清があたかもお安と同い年で死んだので、彼はいよいよそれを気に病んで、おりおりには菩提寺の住職に向って懺悔話をすることもあった。それが彼等三人に悪計を思い立たせる根源で、坊主が一人加わっているだけに、かれらはお安の死霊を種にして津の国屋の一家をおびやかそうと企てた。
 今日から考えると、頗る廻り遠い手段のようではあるが、その時代の彼等としては余ほど巧妙な手段をめぐらそうとしたのかも知れない。かれらはまず死霊の祟りということを云い触らさせて、津の国屋一家に恐れを懐かせ、さらに菩提寺の住職から次郎兵衛をおどして、体(てい)よく隠居させて自分の寺内へ押し込めてしまうつもりであった。そうすれば、いやでも娘のお雪に婿を取らなければならない。その婿には池田屋十右衛門の次男を押し付けるという段取りで、だんだんにその計略を進行させることになった。しかし堅気の商人(あきんど)や寺の坊主ばかりでは、万事が不便であるので、かれらは浅草下谷をごろ付きあるいている無宿者の熊吉と源助とを味方に抱き込んだ。
 お安の幽霊に化けたのは、浅草のお兼という矢場女で、見かけは十七八の初心(うぶ)な小娘らしいが、実はもう二十を二つも越しているという莫蓮者(ばくれんもの)で、熊吉の世話でこれもこの一件の徒党に加わったのであった。熊吉と源助は津の国屋の近所を徘徊して、絶えずその様子をうかがっているうちに、お雪の師匠の文字春が堀の内へ参詣に行って、その帰り路はきっと日が暮れるのを見込んで、撫子の浴衣をきたお兼を途中に待ち受けさせて、怪談がかったお芝居を演じさせたのであった。しかし文字春が迂濶(うかつ)にそれを世間に吹聴しないらしいので、かれらは的(あて)がはずれた。今度は手をかえて、怪しい托鉢僧を津の国屋の前に立たせた。お兼は女中たちの湯帰りをおどした。
 それでどうにかこうにか次郎兵衛だけはこっちへ人質(ひとじち)に取ってしまったが、女房と番頭とが案外にしっかりしていて、かれらの目的も容易に成就しそうもないので、かれらは少し焦(じ)れ出して更に残酷な手段をめぐらすことになった。お兼は叔母のお角を津の国屋へ住み込ませて、隙を見て女房と番頭とを亡き者にしようと試みたが、さすがにお角一人では荷が重いので、店の若い者の長太郎を味方に引き込もうとした。長太郎はふだんから主人の娘のお雪に思いをかけているので、これが首尾よく成就すればかならずお雪と添わせてやるという条件で、とうとう悪人の仲間に入れてしまった。そうして女房と番頭とが不義を働いているらしいということをお角の口から前以って吹聴させて置いて、よい頃を見測らって二人の悪人が予定の計画通りに女房と番頭とを亡(ほろぼ)した。しかもそれを巧みに心中と見せかけて世間を欺き、あわせて検視の役人の眼を晦(くら)ました。
 これまでは先ず彼等の思いのままに進行したが、その秘密を桐畑の常吉に嗅ぎ付けられたらしいのが、彼等におびただしい不安をあたえた。常吉は文字春から委(くわ)しい話を聴いて、半七と相談の上で先ずその幽霊の身許詮議に取りかかった時に、半七がふと思い付いたのは彼(か)のお兼のことであった。お兼はいつまでも初心(うぶ)らしく見えるのを種として、これまでに小娘に化けて万引や騙りを働いた兇状がある。もしや彼女ではあるまいか眼串を刺して、子分の者に云い付けてひそかに彼女が此の頃の様子を探らせると、お兼は先頃浅草の小料理屋へ行って池田屋十右衛門に逢ったことが判った。池田屋は津の国屋の親類である。もう一つには、かの熊吉が大桝屋へ忍んで行って、ときどきに博奕の資本(もとで)を借り出して来るらしいことが、彼の仲間の口から洩れた。大桝屋も津の国屋の親類である。それから疑いはいよいよ深くなって、半七は遠慮なしに熊吉を引き揚げてしまった。しかし彼もなかなかの強情者で、容易にその秘密を白状しなかった。
 たとい白状しても、白状しないでも、徒党の一人が引き揚げられたと聞いて、かれらは俄かにうろたえ始めた。源助はあわてて何処へか姿をかくした。それが津の国屋の方へもきこえたので、お角も長太郎もぎょっとした。お角は文字春の家の小女をだまして、師匠の口から常吉にいろいろのことを訴えられたらしいことを探り知ったが、大胆な彼女はわざと平気で澄ましていた。しかし年の若い長太郎はなかなか落ち着いていられなかった。彼は破れかぶれの度胸を据えて、いっそお雪を脅迫して何処へか誘拐して行こうと企てたが、それを勇吉に妨げられて、自分は溜池の泥水を飲んで死んだ。
 こうなると、お角もさすがに平気ではいられなくなった。そのまますぐに姿を隠してしまえば、或いはもう少し生き延びられたかも知れなかったが、こうした女の習いとして彼女は文字春をひどく憎んだ。何をしゃべったか知らないが、男のいい岡っ引を引っ張り込んで、酒を飲ませてふざけながら、自分たちの秘密を洩らしたかと思うと、お角はむやみに文字春が憎らしくなって、行きがけの駄賃に殺すつもりか、それとも顔にでも傷をつけるつもりか、ともかくも彼女の家へ押掛けて行ったのが運の尽きで、お角はわが身を井戸へ沈めることとなったのである。勿論、死人に口なしで、お角がほんとうの料簡はよく判らない。事情の成行きで唯こう想像するだけのことであった。
 徒党の者はすべてその罪状を白状した。源助は一旦その姿を晦(くら)ましたが、千住の友達へ立ち廻ったところを捕えられた。主犯者の池田屋と大桝屋は死罪、菩提寺の住職とお兼は遠島、その他の者は重追放を申し渡された。
 これでこの怪談は終ったが、ついでに付け加えて置きたいのは、その明くる年に桐畑と津の国屋とに二組の縁談の纒(まと)まったことであった。一方は常吉と文字春とで、一方は勇吉とお雪であった。常吉は二十六で、文字春は二十七であった。勇吉は十七で、お雪は十八であった。もっとも、津の国屋の方は約束だけで、ほんとうの祝言はもう一年繰り延べることとなったが、二組ともに一つずつの年上の嫁を持つというのは、そこに何かの因縁があったのかも知れないと、大工の兼吉は仔細ありそうに話していた。

「どうです。かなり入り組んでいるでしょう」と、半七老人は笑いながら云った。「くどくもいう通り、随分廻り遠い計略で、今日の人達から考えると、あんまり馬鹿々々しいように思われるかも知れませんが、第一には何といっても昔の人間は気が長い。もう一つには金儲けということがなかなかむずかしかったからですね。津の国屋――津国屋と書くのがほんとうだそうですが、暖簾にはやはり津の国屋と、のの字を入れてありました。読みいいためでしょう――は何でも地所家作を合わせて二、三千両の身代だったそうです。その頃の二、三千両と云えばこの頃の十万円ぐらいに当るでしょうから、それだけのものをただ取るには並大抵のことではむずかしい。大勢の人間が知恵をしぼって、暇をつぶしても二、三千両の身代を乗っ取れば、まず大出来だったんでしょうよ。今日のようにボロ会社を押っ立てて新聞へ大きな広告をして、ぬれ手で何十万円を掻き込むなんていう、そんな器用な芸当をむかしの人間は知りませんからね。十万円の金を儲けるにも、これほど手数がかかった芝居をしたんです。それを思うと、むかしの悪党は今の善人よりも馬鹿正直だったかも知れませんね。あははははは」
 これもやはりほんとうの怪談ではなかった。わたしは何だか一杯食わされたような心持で、老人の笑い顔をうっかりと眺めていた。




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