半七捕物帳
◇ピンチです!◇
◇暇つぶし何某◇

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著者名:岡本綺堂 

     一

 二月以来、わたしは自分の仕事が忙がしいので、半七老人の家(うち)へ小半年も無沙汰をしてしまった。なんだか気になるので、五月の末に無沙汰の詫びながら手紙を出すと、すぐその返事が来て、来月は氷川(ひかわ)様のお祭りで強飯(こわめし)でも炊くから遊びに来てくれとのことであった。わたしも急に老人に逢いたくなって、そのお祭りの日に赤坂に出て行くと、途中から霧のような雨が降って来た。
「あいにく少し降って来ました」
「梅雨(つゆ)前ですからね」と、半七老人は欝陶(うっとう)しそうに空を見あげた。「今年は本祭りだというのに、困ったもんです。だがまあ、大したことはありますまいよ」
 約束の通りに強飯やお煮染(にし)めの御馳走が出た。酒も出た。わたしは遠慮無しに飲んで食って、踊りの家台(やたい)の噂などをしていたが、雨はだんだん強くなるばかりで、家の老婢(ばあや)があわてて軒提灯や飾り花を引っ込めるようになって来た。町内の家台囃子の音も沈んできこえた。
「こりゃあいけない、とうとう本降りになって来た。これじゃあ踊り家台を見にも出られまい。まあ今夜はゆっくりお話しなさい。何かまた昔話でもしようじゃあありませんか」と、老人は食い荒しの皿小鉢を老婢に片付けさせながら云った。
 踊り家台の見物よりも、強飯の御馳走よりも、わたしに取ってはそれが何よりも嬉しいので、すぐにその尾について又いつもの話をしてくれと甘えるように強請(せが)むと、また手柄話ですかと老人はにやにや笑っていたが、とうとう私に口説き落されて、やがてこんなことを云い出した。
「あなたは蛇や蝮(まむし)は嫌いですか。いや、誰も好きな者はありますまいが、蛇と聞くとすぐに顔の色を変えるような人もありますからね。それほど嫌いでなけりゃあ、今夜は蛇の話をしましょうよ。あれはたしか安政の大地震の前の年でした」

 七月十日は浅草観音の四万六千日(にち)で、半七は朝のうす暗いうちに参詣に行った。五重の塔は湿(しめ)っぽい暁の靄(もや)につつまれて、鳩の群れもまだ豆を拾いには降りて来なかった。朝まいりの人も少なかった。半七はゆっくり拝んで帰った。
 その帰り途(みち)に下谷の御成道(おなりみち)へさしかかると、刀屋の横町に七、八人の男が仔細らしく立っていた。半七も商売柄で、ふと立ちどまってその横町をのぞくと、弁慶縞(べんけいじま)の浴衣(ゆかた)を着た小作りの男がその群れをはなれて、ばたばた駈けて来た。
「親分、どこへ」
「観音様へ朝参りに行った」
「ちょうど好いとこでした。今ここに変なことが持ち上がってね」
 男は顔をしかめて小声で云った。かれは下(した)っ引(ぴき)の源次という桶職であった。
「この下っ引というのは、今でいう諜者のようなものです」と半七老人はここで註を入れてくれた。「つまり手先の下をはたらく人間で、表向きは魚やとか桶職とか、何かしら商売をもっていて、その商売のあいまに何か種をあげて来るんです。これは蔭の人間ですから決して捕物などには出ません。どこまでも堅気(かたぎ)のつもりで澄ましているんです。岡っ引の下には手先がいる。手先の下には下っ引がいる。それがおたがいに糸を引いて、巧くやって行くことになっているんです。それでなけりゃあ罪人はなかなかあがりませんよ」
 源次はこの近所に長く住んでいて、下っ引の仲間でも眼はしの利く方であった。それが変な事をいうので、半七も少しまじめになった。
「何だ。なにがあった」
「人が死んだんです。お化け師匠が死んだんです」
 お化け師匠――こういう奇怪な綽名(あだな)を取った本人は、水木歌女寿(かめじゅ)と呼ばれる踊りの師匠であった。歌女寿は自分の姪を幼いときから娘分に貰って、これに芸をみっちり仕込んで、歌女代と名乗らせて自分のあとを嗣(つ)がせるつもりであったが、その歌女代は去年の秋に十八歳で死んだ。お化け師匠の綽名はそれから産み出されたのであった。
 歌女寿は今年四十八だというが、年に比べると水々しい垢(あか)ぬけのした女であった。商売柄で若い時には随分浮いた噂もきこえたが、この十年以来は慾一方に凝り固まっているとかいうので、近所の評判はあまり好くなかった。姪を娘分に貰ったのも、ゆくゆく自分の食い物にしようというしたごころから出たのである。傍(はた)から見るとむごたらしいほどに手厳しく仕込んだ。そういう風に、ちいさいときから余り邪慳(じゃけん)に責められたせいか、歌女代はどうも病身であったが、仕込みが厳しいだけに芸はよく出来た。容貌(きりょう)も好かった。十六の年から母の代稽古として弟子たちを教えていたが、容貌の好いのが唯一(ゆいいち)の囮(おとり)になって、男弟子もだいぶ入り込むようになった。したがって歌女寿のふところ都合もだんだん好くなって来たが、慾の深い彼女はお定まりの月並や炭銭(すみせん)や畳銭(たたみせん)ぐらいでなかなか満足していられる女ではなかった。彼女はこの若い美しい餌(えさ)で巨大(おおき)な魚(さかな)を釣り寄せようと巧(たく)らんでいた。
 その魚は去年の春の潮に乗って寄って来た。それは中国辺の或大名屋敷の留守居役で、歌女代をぜひ自分の持ち物にしたいという註文であった。跡取りの娘であるからそちらへ差し上げるわけには行かないと、歌女寿はわざと焦らすように一旦ことわると、相手はいよいよ乗り出して来て、いわゆる囲い者として毎月相当の手当てをやる。まだそのほかに話がまとまり次第、一種の支度金のような意味で当金(とうきん)百両出そうという条件まで付けて来た。金百両――この時代においては莫大の金であるから、歌女寿も二つ返事で承知した。これでお前もわたしも浮かみ上がれると、彼女は顔をくずして歌女代にささやいた。
「阿母(おっか)さん、こればかりは堪忍してください」と、歌女代は泣いてことわった。何をいうにも自分は身体が虚弱(ひよわ)い。大勢の弟子を取って毎日毎晩踊りつづけているのさえも、この頃では堪えられない位であるのに、その上に旦那取りなどさせられては、とても我慢も辛抱も出来ない。そんな卑しい辛い思いをしないでも、別に生活(くらし)に困るというわけでもない。自分は倒れるまで働いて、きっと阿母さんに不自由はさせまい。囲い者の相談だけはどうぞ断わってくれと、彼女は母にすがって頼んだ。勿論、この訴えを素直に受けるような歌女寿ではなかったが、平生はおとなしい歌女代もこの問題については飽くまで強情を張って、嚇(おど)しても賺(すか)してもどうしても得心しないので、歌女寿も持て余して唯苛々(いらいら)しているうちに、その夏の梅雨の頃から歌女代の健康は衰えて、もはや毎日の稽古にも堪えられないで、三日に一度ぐらいは枕に親しむようになった。こっちの返事がいつまでも渋っているので、旦那の方でもさすがに根負けがしたらしく、いつとは無しにその相談も立ち消えになった。巨大な魚は逃げてしまった。
 歌女寿は歯ぎしりをして口惜しがった。折角の旦那を取り逃がしたのも、歌女代のわがまま強情からであると、歌女寿は無暗にかれを憎んだ。倒れるまで働くと云った歌女代の言質(ことばじち)を取って、決してべんべんと寝そべっていることはならない、仆(たお)れるまで働いてくれと、真っ蒼な顔をして寝ている歌女代を無理に引き摺り起して、朝から晩まで弟子たちの稽古をつづけさせた。勿論、医師にも診せてやろうともしなかった。お仲という若い地弾きが歌女代に同情して、そっと買薬などしてやっていたが、その年の土用の激しい暑気がいよいよ歌女代の弱った身体をしいたげて、彼女はもう骸骨のように痩せ衰えてしまった。それでも歌女寿は意地悪く稽古を休ませなかったので、彼女は殆ど半死半生のおぼつかない足もとで稽古台の上に毎日立ちつづけていた、お仲も肚(はら)の仲ではらはらしていたが、大(おお)師匠の怖い目に睨まれて、彼女はどうすることも出来なかった。
 もう二、三日で盆休みが来るという七月九日の午すぎに、歌女代はとうとう精も根も尽きはてて、山姥(やまんば)を踊りながら舞台の上にがっくり倒れた。邪慳な養母にさいなまれつづけて、若い美しい師匠は十八の初秋にこの世と別れを告げた。
 その新盆(にいぼん)のゆうべには、白い切子燈籠の長い尾が、吹くともない冷たい風にゆらゆらとなびいて、この薄暗い灯のかげに若い師匠のしょんぼりと迷っている姿を、お仲はまざまざと見たと近所のものに顫(ふる)えながらささやいた。噂はそれからそれへと伝えられて、ふだんから歌女寿を快く思っていない人達は、更に尾鰭を添えていろいろのことを云い出した。歌女寿の家(うち)では夜がふけると、暗い稽古舞台の上で誰ともなしにとんとん足拍子を踏む音が微かに聞えるという薄気味の悪い噂が立った。歌女寿の家へは幽霊が出るということに決まってしまった。お化け師匠のおそろしい名が町内にひろまって、弟子たちもだんだんに寄り付かなくなった。お仲も暇を取って立ち去った。
 そのお化け師匠が今死んだのである。
「どうして死んだ。あいつのこったから、悪いものでも食って中(あた)ったのか」と、半七は嘲(あざけ)るようにささやいた。
「どうして、そんなんじゃありません」と、源次は少しおびえたように眼を据えてささやいた。
「お化け師匠は蛇に巻き殺されたんで……」
「蛇に巻き殺された」と半七も驚かされた。
「女中のお村というのが今朝(けさ)になって見つけ出したんですが、師匠は黒い蛇に頸を絞められて蚊帳(かや)のなかに死んでいたんです。不思議じゃありませんか。人の執念はおそろしいもんだと、近所の者もみんなふるえていますよ」
 源次も薄気味悪そうに云った。悲惨な死を遂げた歌女代の魂が黒い蛇に乗り憑(うつ)って邪慳な養母を絞め殺したのかと思われて、半七もぞっとした。お化け師匠が蛇に巻き殺された――どう考えてもそれは戦慄すべき出来事であった。

     二

「まあ、なにしろ行ってみようじゃあねえか」
 半七は先に立って横町へはいると、源次もなんだか落ち着かないような顔をして後から付いて来た。歌女寿の家の前にはだんだんに人立ちが多くなっていた。
「ちょうど若い師匠の一周忌ですからね」
「きっとこんなことになるだろうと思っていましたよ。恐ろしいもんですね」
 どの人も恐怖に満ちたような眼をかがやかして、ひそひそと囁き合っていた。そのなかを掻き分けて、半七は源次と裏口から師匠の家へはいると、雨戸もまだすっかり明け放してないので、家のなかは薄暗かった。蚊帳(かや)もそのままに吊ってあって、次の間の四畳半には家主(いえぬし)と下女のお村が息を嚥(の)むように黙って坐っていた。半七は家主の顔を見識っているので、すぐに声をかけた。
「お家主さん。どうも飛んだことが出来ましたね」
「ああ、神田の親分でしたか。
是非お友達にも!
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