フランドン農学校の豚
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著者名:宮沢賢治 

「さあいかがです、そろそろお休みなさいませ。」助手は又一つピシッとやる。ウルトラ大学生諸君、こんな散歩が何で面白(おもしろ)いだろう。からだの為(ため)も何もあったもんじゃない。
 豚は仕方なく又畜舎に戻(もど)りごろっと藁(わら)に横になる。キャベジの青いいい所を助手はわずか持って来た。豚は喰(た)べたくなかったが助手が向うに直立して何とも云えない恐い眼で上からじっと待っている、ほんとうにもう仕方なく、少しそれを噛(か)じるふりをしたら助手はやっと安心して一つ「ふん。」と笑ってからチッペラリーの口笛を又吹きながら出て行った。いつか窓がすっかり明け放してあったので豚は寒くて耐(たま)らなかった。
 こんな工合(ぐあい)にヨークシャイヤは一日思いに沈(しず)みながら三日を夢(ゆめ)のように送る。
 四日目に又畜産の、教師が助手とやって来た。ちらっと豚を一眼見て、手を振(ふ)りながら助手に云う。
「いけないいけない。君はなぜ、僕の云った通りしなかった。」
「いいえ、窓もすっかり明けましたし、キャベジのいいのもやりました。運動も毎日叮寧に、十五分ずつやらしています。」
「そうかね、そんなにまでもしてやって、やっぱりうまくいかないかね、じゃもうこいつは瘠(や)せる一方なんだ。神経性営養不良なんだ。わきからどうも出来やしない。あんまり骨と皮だけに、ならないうちにきめなくちゃ、どこまで行くかわからない。おい。窓をみなしめて呉れ。そして肥育器を使うとしよう、飼料をどしどし押し込んで呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁(あまに)を二合、それから玉蜀黍(とうもろこし)の粉を、五合を水でこねて、団子にこさえて一日に、二度か三度ぐらいに分けて、肥育器にかけて呉れ給(たま)え。肥育器はあったろう。」
「はい、ございます。」
「こいつは縛(しば)って置き給え。いや縛る前に早く承諾書をとらなくちゃ。校長もさっぱり拙(まず)いなぁ。」
 畜産の教師は大急ぎで、教舎の方へ走って行き、助手もあとから出て行った。
 間もなく農学校長が、大へんあわててやって来た。豚は身体(からだ)の置き場もなく鼻で敷藁を掘(ほ)ったのだ。
「おおい、いよいよ急がなきゃならないよ。先頃(せんころ)の死亡承諾書ね、あいつへ今日はどうしても、爪判を押して貰いたい。別に大した事じゃない。押して呉れ。」
「いやですいやです。」豚は泣く。
「厭(いや)だ? おい。あんまり勝手を云うんじゃない、その身体(からだ)は全体みんな、学校のお陰で出来たんだ。これからだって毎日麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の、粉五合ずつやるんだぞ、さあいい加減に判をつけ、さあつかないか。」
 なるほど斯(こ)う怒(おこ)り出して見ると、校長なんというものは、実際恐いものなんだ。豚はすっかりおびえて了(しま)い、
「つきます。つきます。」と、かすれた声で云ったのだ。
「よろしい、では。」と校長は、やっとのことに機嫌(きげん)を直し、手早くあの死亡承諾書の、黄いろな紙をとり出して、豚の眼の前にひろげたのだ。
「どこへつけばいいんですか。」豚は泣きながら尋(たず)ねた。
「ここへ。おまえの名前の下へ。」校長はじっと眼鏡(めがね)越しに、豚の小さな眼を見て云った。豚は口をびくびく横に曲げ、短い前の右肢(みぎあし)を、きくっと挙げてそれからピタリと印をおす。
「うはん。よろしい。これでいい。」校長は紙を引っぱって、よくその判を調べてから、機嫌を直してこう云った。戸口で待っていたらしくあの意地わるい畜産の教師がいきなりやって来た。
「いかがです。うまく行きましたか。」
「うん。まあできた。ではこれは、あなたにあげて置きますから。ええ、肥育は何日ぐらいかね、」
「さあいずれ模様を見まして、鶏やあひるなどですと、きっと間違いなく肥(ふと)りますが、斯う云う神経過敏(かびん)な豚は、或(あるい)は強制肥育では甘(うま)く行かないかも知れません。」
「そうか。なるほど。とにかくしっかりやり給え。」
 そして校長は帰って行った。今度は助手が変てこな、ねじのついたズックの管と、何かのバケツを持って来た。畜産の教師は云いながら、そのバケツの中のものを、一寸(ちょっと)つまんで調べて見た。
「そいじゃ豚を縛って呉れ。」助手はマニラロープを持って、囲いの中に飛び込んだ。豚はばたばた暴れたがとうとう囲いの隅(すみ)にある、二つの鉄の環(わ)に右側の、足を二本共縛られた。
「よろしい、それではこの端(はし)を、咽喉(のど)へ入れてやって呉れ。」畜産の教師は云いながら、ズックの管を助手に渡す。
「さあ口をお開きなさい。さあ口を。」助手はしずかに云ったのだが、豚は堅(かた)く歯を食いしばり、どうしても口をあかなかった。
「仕方ない。こいつを噛(か)ましてやって呉れ。」短い鋼(はがね)の管を出す。
 助手はぎしぎしその管を豚の歯の間にねじ込(こ)んだ。豚はもうあらんかぎり、怒鳴(どな)ったり泣いたりしたが、とうとう管をはめられて、咽喉の底だけで泣いていた。助手はその鋼の管の間から、ズックの管を豚の咽喉まで押し込んだ。
「それでよろしい。ではやろう。」教師はバケツの中のものを、ズック管の端の漏斗(じょうご)に移して、それから変な螺旋(らせん)を使い食物を豚の胃に送る。豚はいくら呑(の)むまいとしても、どうしても咽喉で負けてしまい、その練ったものが胃の中に、入ってだんだん腹が重くなる。これが強制肥育だった。
 豚の気持ちの悪いこと、まるで夢中(むちゅう)で一日泣いた。
 次の日教師が又来て見た。
「うまい、肥(ふと)った。効果がある。これから毎日小使と、二人で二度ずつやって呉れ。」
 こんな工合でそれから七日というものは、豚はまるきり外で日が照っているやら、風が吹いてるやら見当もつかず、ただ胃が無暗(むやみ)に重苦しくそれからいやに頬(ほお)や肩(かた)が、ふくらんで来ておしまいは息をするのもつらいくらい、生徒も代る代る来て、何かいろいろ云っていた。
 あるときは生徒が十人ほどやって来てがやがや斯(こ)う云った。
「ずいぶん大きくなったなあ、何貫ぐらいあるだろう。」
「さあ先生なら一目見て、何百目まで云うんだが、おれたちじゃちょっとわからない。」
「比重がわからないからなあ。」
「比重はわかるさ比重なら、大抵(たいてい)水と同じだろう。」
「どうしてそれがわかるんだい。」
「だって大抵そうだろう。もしもこいつを水に入れたら、きっと沈(しず)みも浮(うか)びもしない。」
「いいやたしかに沈まない、きっと浮ぶにきまってる。」
「それは脂肪(しぼう)のためだろう、けれど豚にも骨はある。それから肉もあるんだから、たぶん比重は一ぐらいだ。」
「比重をそんなら一として、こいつは何斗あるだろう。」
「五斗五升はあるだろう。」
「いいや五斗五升などじゃない。少く見ても八斗ある。」
「八斗なんかじゃきかないよ。たしかに九斗はあるだろう。」
「まあ、七斗としよう。七斗なら水一斗が五貫だから、こいつは丁度三十五貫。」
「三十五貫はあるな。」
 こんなはなしを聞きながら、どんなに豚は泣いたろう。なんでもこれはあんまりひどい。ひとのからだを枡(ます)ではかる。七斗だの八斗だのという。
 そうして丁度七日目に又あの教師が助手と二人、並(なら)んで豚の前に立つ。
「もういいようだ。丁度いい。この位まで肥ったらまあ極度だろう。この辺だ。あんまり肥育をやり過ぎて、一度病気にかかってもまたあとまわりになるだけだ。丁度あしたがいいだろう。今日はもう飼(えさ)をやらんでくれ。それから小使と二人してからだをすっかり洗って呉れ。敷藁(しきわら)も新らしくしてね。いいか。」
「承知いたしました。」
 豚はこれらの問答を、もう全身の勢力で耳をすまして聴(き)いて居た。(いよいよ明日だ、それがあの、証書の死亡ということか。いよいよ明日だ、明日なんだ。一体どんな事だろう、つらいつらい。)あんまり豚はつらいので、頭をゴツゴツ板へぶっつけた。
 そのひるすぎに又助手が、小使と二人やって来た。そしてあの二つの鉄環(てつわ)から、豚の足を解いて助手が云う。
「いかがです、今日は一つ、お風呂(ふろ)をお召(め)しなさいませ。すっかりお仕度(したく)ができて居ます。」
 豚がまだ承知とも、何とも云わないうちに、鞭(むち)がピシッとやって来た。豚は仕方なく歩き出したが、あんまり肥ってしまったので、もううごくことの大儀(たいぎ)なこと、三足で息がはあはあした。
 そこへ鞭がピシッと来た。豚はまるで潰(つぶ)れそうになり、それでもようよう畜舎の外まで出たら、そこに大きな木の鉢(はち)に湯が入ったのが置いてあった。
「さあ、この中にお入りなさい。」助手が又一つパチッとやる。豚はもうやっとのことで、ころげ込(こ)むようにしてその高い縁(ふち)を越(こ)えて、鉢の中へ入ったのだ。
 小使が大きなブラッシをかけて、豚のからだをきれいに洗う。そのブラッシをチラッと見て、豚は馬鹿のように叫(さけ)んだ。というわけはそのブラッシが、やっぱり豚の毛でできた。豚がわめいているうちにからだがすっかり白くなる。
「さあ参りましょう。」助手が又、一つピシッと豚をやる。
 豚は仕方なく外に出る。寒さがぞくぞくからだに浸(し)みる。豚はとうとうくしゃみをする。
「風邪(かぜ)を引きますぜ、こいつは。」小使が眼を大きくして云った。
「いいだろうさ。腐(くさ)りがたくて。」助手が苦笑して云った。
 豚が又畜舎へ入ったら、敷藁がきれいに代えてあった。寒さはからだを刺すようだ。それに今朝からまだ何も食べないので、胃ももうからになったらしく、あらしのようにゴウゴウ鳴った。
 豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨークシャイヤの一生の間のいろいろな恐(おそ)ろしい記憶(きおく)が、まるきり廻(まわ)り燈籠(どうろう)のように、明るくなったり暗くなったり、頭の中を過ぎて行く。さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからなくなった。そのうちもういつか朝になり教舎の方で鐘(かね)が鳴る。間もなくがやがや声がして、生徒が沢山(たくさん)やって来た。助手もやっぱりやって来た。
「外でやろうか。外の方がやはりいいようだ。連れ出して呉れ。おい。連れ出してあんまりギーギー云わせないようにね。まずくなるから。」
 畜産の教師がいつの間にか、ふだんとちがった茶いろなガウンのようなものを着て入口の戸に立っていた。
 助手がまじめに入って来る。
「いかがですか。天気も大変いいようです。今日少しご散歩なすっては。」又一つ鞭をピチッとあてた。豚は全く異議もなく、はあはあ頬(ほお)をふくらせて、ぐたっぐたっと歩き出す。前や横を生徒たちの、二本ずつの黒い足が夢(ゆめ)のように動いていた。
 俄(にわ)かにカッと明るくなった。外では雪に日が照って豚はまぶしさに眼を細くし、やっぱりぐたぐた歩いて行った。
 全体どこへ行くのやら、向うに一本の杉(すぎ)がある、ちらっと頭をあげたとき、俄かに豚はピカッという、はげしい白光のようなものが花火のように眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。天上の方ではキーンという鋭(するど)い音が鳴っている。横の方ではごうごう水が湧(わ)いている。さあそれからあとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌(てっつい)を持ち、息をはあはあ吐(は)きながら、少し青ざめて立っている。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなっていた。
 生徒らはもう大活動、豚の身体(からだ)を洗った桶(おけ)に、も一度新らしく湯がくまれ、生徒らはみな上着の袖(そで)を、高くまくって待っていた。
 助手が大きな小刀で豚の咽喉(のど)をザクッと刺しました。
 一体この物語は、あんまり哀(あわ)れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎(きゅうしゃ)のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬(つ)けられた。
 さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月(げんげつ)が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋(うず)まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴(さ)えたのだ。




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