床屋
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著者名:宮沢賢治 

      本郷区菊坂町

          ※

九時過ぎたので、床屋の弟子の微(かす)かな疲れと睡気(ねむけ)とがふっと青白く鏡にかゝり、室(へや)は何だかがらんとしてゐる。
「俺(おれ)は小さい時分何でも馬のバリカンで刈られたことがあるな。」
「えゝ、ございませう。あのバリカンは今でも中国の方ではみな使って居(を)ります。」
「床屋で?」
「さうです。」
「それははじめて聞いたな。」
「大阪でも前は矢張りあれを使ひました。今でも普通のと半々位でせう。」
「さうかな。」
「お郷国(くに)はどちらで居らっしゃいますか。」
「岩手県だ。」
「はあ、やはり前はあいつを使ひましたんですか。」
「いゝや、床屋ぢゃ使はなかったよ。俺は大抵野原で頭を刈って貰(もら)ったのだ。」
「はあ、なるほど。あれは原理は普通のと変って居りませんがね。一方の歯しか動かないので。」
「それはさうだらう。両方動いちゃだめだ。」
「えゝ、噛(かじ)っちまひます。」

          ※

鏡の睡気は払はれて青く明るくなり今度は香油の瓶(びん)がそれを受け取ってぼんやりなった。
「失礼ですがあなたはどちらに出ていらっしやいますか。」
「図書館だ。」
「事務員ですか。」
「いゝや、頼まれて調べてゐるんだ。」
「朝はお早いでせう。」
「朝は六時半にうちを出るよ。」
「ずゐぶんお早いですね。」
「どうせうちに居たっておんなじだ。」

          ※

睡気(ねむけ)が忽(たちま)ち香油の瓶(びん)を離れて瓦斯(ガス)の光に溶けて了(しま)ひ室(へや)が変に底無しの淵(ふち)のやうになった。
「丁度五分かゝりました。あなたの頭を刈り込むのに。」
「早いな。」
「いゝえ。競争の時なら早い人は三分かゝりません。」
「指が痛くなるだらう。そんなにしたら。」
「えゝ、指より手首が苦しくて堪(たま)らなくなります。」
「さうだらう。どうせそんなぢゃ永くは続かない。」床屋の弟子はバリカンを持ったまゝ手首をぶらぶらふってゐる。

          ※

瓦斯の灯(ひ)が急に明るくなった。
「僕のひげは物になるだらうか。」
「なりますとも。」
「さうかなぁ。」
「も少し濃いといゝひげになるんだがなぁ、かう云(い)ふ工合(ぐあひ)に。剃(そ)らないで置きませうか。」
「いゝや、だめだよ。僕はね、きっと流行(はや)るやうな新らしい鬚(ひげ)の型を知ってるんだよ。」
「どんなんですか。」
「それはね。実は昔の西域のやり方なんだよ。斯(か)う云ふ工合に途中で円い波を一つうねらしてね、それからはじを又円くピンとはねさすんだよ。こいつぁ流行るぜ。」
「今どこで流行ってゐますか。」
「イデア界だ。きっとこっちへもだんだん来るよ。」
「イデア界。プラトンのイデア界ですか。いや。アッハッハ。」
「アツハッハ。君。どうせ顔なんか大体でいゝよ。」

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