いてふの実
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著者名:宮沢賢治 

 そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼(や)きをかけた鋼(はがね)です。
 そして星が一杯です。けれども東の空はもう優しい桔梗(ききゃう)の花びらのやうにあやしい底光りをはじめました。
 その明け方の空の下、ひるの鳥でも行(ゆ)かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行(ゆ)きました。
 実にその微(かす)かな音が丘の上の一本いてふの木に聞える位澄み切った明け方です。
 いてふの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。今日こそはたしかに旅立ちの日でした。みんなも前からさう思ってゐましたし、昨日の夕方やって来た二羽の烏(からす)もさう云(い)ひました。
「僕(ぼく)なんか落ちる途中で眼(め)がまはらないだらうか。」一つの実が云ひました。
「よく目をつぶって行けばいゝさ。」も一つが答へました。
「さうだ。忘れてゐた。僕水筒に水をつめて置くんだった。」
「僕はね、水筒の外に薄荷水(はくかすゐ)を用意したよ。少しやらうか。旅へ出てあんまり心持ちの悪い時は一寸(ちょっと)飲むといゝっておっかさんが云ったぜ。」
「なぜおっかさんは僕へは呉(く)れないんだらう。」
「だから、僕あげるよ。お母(っか)さんを悪く思っちゃすまないよ。」
 さうです。この銀杏(いてふ)の木はお母(かあ)さんでした。
 今年は千人の黄金(きん)色の子供が生れたのです。
 そして今日こそ子供らがみんな一緒に旅に発(た)つのです。お母さんはそれをあんまり悲しんで扇形(あふぎがた)の黄金の髪の毛を昨日までにみんな落してしまひました。
「ね、あたしどんな所(とこ)へ行くのかしら。」一人のいてふの女の子が空を見あげて呟(つぶ)やくやうに云ひました。
「あたしだってわからないわ、どこへも行きたくないわね。」も一人が云ひました。
「あたしどんなめにあってもいゝからお母(っか)さんの所(とこ)に居たいわ。」
「だっていけないんですって。風が毎日さう云ったわ。」
「いやだわね。」
「そしてあたしたちもみんなばらばらにわかれてしまふんでせう。」
「えゝ、さうよ。もうあたしなんにもいらないわ。」
「あたしもよ。今までいろいろわが儘(まま)ばっかし云って許して下さいね。」
「あら、あたしこそ。あたしこそだわ。許して頂戴(ちゃうだい)。」
 東の空の桔梗の花びらはもういつかしぼんだやうに力なくなり、朝の白光りがあらはれはじめました。星が一つづつ消えて行(ゆ)きます。
 木の一番一番高い処(ところ)に居た二人のいてふの男の子が云ひました。
「そら、もう明るくなったぞ。嬉(うれ)しいなあ。僕はきっと黄金(きん)色のお星さまになるんだよ。」
「僕もなるよ。きっとこゝから落ちればすぐ北風が空へ連れてって呉れるだらうね。」
「僕は北風ぢゃないと思ふんだよ。北風は親切ぢゃないんだよ。僕はきっと烏(からす)さんだらうと思ふね。」
「さうだ。きっと烏さんだ。烏さんは偉いんだよ。こゝから遠くてまるで見えなくなるまで一息に飛んで行(ゆ)くんだからね。頼んだら僕ら二人位きっと一遍に青ぞら迄(まで)連れて行って呉れるぜ。」
「頼んで見ようか。早く来るといゝな。」
 その少し下でもう二人が云ひました。
「僕は一番はじめに杏(あんず)の王様のお城をたづねるよ。そしてお姫様をさらって行ったばけ物を退治するんだ。そんなばけ物がきっとどこかにあるね。」
「うん。あるだらう。けれどもあぶないぢゃないか。ばけ物は大きいんだよ。僕たちなんか鼻でふっと吹き飛ばされちまふよ。」
「僕ね、いゝもの持ってるんだよ。だから大丈夫さ。見せようか。そら、ね。」
「これお母(っか)さんの髪でこさへた網ぢゃないの。」
「さうだよ。お母(っか)さんが下すったんだよ。何か恐ろしいことのあったときは此(こ)の中にかくれるんだって。僕ね、この網をふところに入れてばけ物に行ってね。もしもし。今日は、僕を呑(の)めますか呑めないでせう。とかう云ふんだよ。ばけ物は怒ってすぐ呑むだらう。僕はその時ばけ物の胃袋の中でこの網を出してね、すっかり被(かぶ)っちまふんだ。それからおなか中をめっちゃめちゃにこはしちまふんだよ。そら、ばけ物はチブスになって死ぬだらう。そこで僕は出て来て杏のお姫様を連れてお城に帰るんだ。そしてお姫様を貰(もら)ふんだよ。」
「本当にいゝね、そんならその時僕はお客様になって行ってもいゝだらう。」
「いゝともさ。僕、国を半分わけてあげるよ。それからお母(っか)さんへは毎日お菓子やなんか沢山あげるんだ。」
 星がすっかり消えました。東のそらは白く燃えてゐるやうです。木が俄(には)かにざわざわしました。もう出発に間もないのです。
「僕、靴(くつ)が小さいや。面倒くさい。はだしで行かう。」
「そんなら僕のと替へよう。僕のは少し大きいんだよ。」
「替へよう。あ、丁度いゝぜ。ありがたう。」
「わたし困ってしまふわ、おっかさんに貰った新しい外套(ぐわいたう)が見えないんですもの。」
「早くおさがしなさいよ。どの枝に置いたの。」
「忘れてしまったわ。」
「困ったわね。これから非常に寒いんでせう。どうしても見附けないといけなくってよ。」
「そら、ね。いゝぱんだらう。ほし葡萄(ふだう)が一寸(ちょっと)顔を出してるだらう。早くかばんへ入れ給(たま)へ。もうお日さまがお出ましになるよ。」
「ありがたう。ぢゃ貰(もら)ふよ。ありがたう。一緒に行かうね。」
「困ったわ、わたし、どうしてもないわ。ほんたうにわたしどうしませう。」
「わたしと二人で行きませうよ。わたしのを時々貸してあげるわ。凍えたら一緒に死にませうよ。」
 東の空が白く燃え、ユラリユラリと揺れはじめました。おっかさんの木はまるで死んだやうになってじっと立ってゐます。
 突然光の束が黄金(きん)の矢のやうに一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあがる位輝やきました。
 北から氷のやうに冷たい透きとほった風がゴーッと吹いて来ました。
「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」子供らはみんな一度に雨のやうに枝から飛び下りました。
 北風が笑って、
「今年もこれでまづさよならさよならって云ふわけだ。」と云ひながらつめたいガラスのマントをひらめかして向ふへ行ってしまひました。
 お日様は燃える宝石のやうに東の空にかかり、あらんかぎりのかゞやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりなさいました。




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