イギリス海岸
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著者名:宮沢賢治 

 白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥(は)がされて、浅い幅の広い谷のやうになってゐましたが、その底に二つづつ蹄(ひづめ)の痕のある大さ五寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまはったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについてゐるではありませんか。その中には薄く酸化鉄が沈澱(ちんでん)してあたりの岩から実にはっきりしてゐました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来てそれをそのまゝ保存したのです。私ははじめは粘土でその型をとらうと思ひました。一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ぎるので、どうもうまく行きませんでした。私は「あした石膏(せきかう)を用意して来よう」とも云ひました。けれどもそれよりいちばんいゝことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまゝ学校へ持って行って標本にすることでした。どうせ又水が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構はないで置いてもすぐ壊れることが明らかでしたから。
 次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯(か)う書いて置きました。
     八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
  除草、追肥   第一、七組
  蕪菁(かぶら)播種(はしゅ)    第三、四組
  甘藍(かんらん)中耕    第五、六組
  養蚕実習    第二組
 (午后イギリス海岸に於(おい)て第三紀偶蹄(ぐうてい)類の足跡(そくせき)標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。)
 そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。私はあの救助係の大きな石を鉄梃(かなてこ)で動かすあたりから、あとは勝手に私の空想を書いて行かうと思ってゐたのです。ところが次の日救助係がまるでちがった人になってしまひ、泥岩の中からは空想よりももっと変なあしあとなどが出て来たのです。その半分書いた分だけを実習がすんでから教室でみんなに読みました。
 それを読んでしまふかしまはないうち、私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。
 丁度この日は校長も出張から帰って来て、学校に出てゐました。黒板を見てわらってゐました、それから繭を売るのが済んだら自分も行かうと云ふのでした。私たちは新らしい鋼鉄の三本鍬(さんぼんぐは)一本と、ものさしや新聞紙などを持って出て行きました。海岸の入口に来て見ますと水はひどく濁ってゐましたし、雨も少し降りさうでした。雲が大へんけはしかったのです。救助係に私は今日は少しのお礼をしようと思ってその支度もして来たのでしたがその人はいつもの処に見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日の処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石を掘りはじめました。気がついて見ると、みんなは大抵ポケットに除草鎌(ぢょさうがま)を持って来てゐるのでした。岩が大へん柔らかでしたから大丈夫それで削れる見当がついてゐたのでした。もうあちこちで掘り出されました。私はせはしくそれをとめて、二つの足あとの間隔をはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて取らうとしてゐる人もありましたし、も少しのところでこはした人もありました。
 まだ上流の方にまた別のがあると、一人の生徒が云って走って来ました。私は暑いので、すっかりはだかになって泳ぐ時のやうなかたちをしてゐましたが、すぐその白い岩を走って行って見ました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがひ、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと退(ひ)いたらまだまだ沢山出るだらうと思はれました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命掘り取ってゐるのを見ますと、こんどはそこは英国でなく、イタリヤのポムペイの火山灰の中のやうに思はれるのでした。殊に四五人の女たちが、けばけばしい色の着物を着て、向ふを歩いてゐましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白に照って来たからでした。
 いつか校長も黄いろの実習服を着て来てゐました。そして足あとはもう四つまで完全にとられたのです。
 私たちはそれを汀(なぎさ)まで持って行って洗ひそれからそっと新聞紙に包みました。大きなのは三貫目もあったでせう。掘り取るのが済んであの荒い瀬の処から飛び込んで行くものもありました。けれども私はその溺(おぼ)れることを心配しませんでした。なぜなら生徒より前に、もう校長が飛び込んでゐてごくゆっくり泳いで行くのでしたから。
 しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきも申しましたやうにこれは昨日のことです。今日は実習の九日目です。朝から雨が降ってゐますので外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ばうと思ふのです。これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。天気が悪くてよく乾かないで困ります。麦こなしは芒(のぎ)がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。けれども全くそんな風に考へてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。(一九二三、八、九、)



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