銀河鉄道の夜
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著者名:宮沢賢治 

それは見ていると、足が砂(すな)へつくや否(いな)や、まるで雪(ゆき)の解(と)けるように、縮(ちぢ)まってひらべったくなって、まもなく溶鉱炉(ようこうろ)から出た銅(どう)の汁(しる)のように、砂(すな)や砂利(じゃり)の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂(すな)についているのでしたが、それも二、三度(ど)明るくなったり暗(くら)くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
 鳥捕(とりと)りは、二十疋(ぴき)ばかり、袋(ふくろ)に入れてしまうと、急(きゅう)に両手(りょうて)をあげて、兵隊(へいたい)が鉄砲弾(てっぽうだま)にあたって、死(し)ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕(とりと)りの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣(とな)りにしました。見ると鳥捕(とりと)りは、もうそこでとって来た鷺(さぎ)を、きちんとそろえて、一つずつ重(かさ)ね直(なお)しているのでした。
「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問(と)いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」
 ジョバンニは、すぐ返事(へんじ)をしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね」鳥捕(とりと)りは、わかったというように雑作(ぞうさ)なくうなずきました。

     九 ジョバンニの切符(きっぷ)

「もうここらは白鳥区(く)のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所(かんそくじょ)です」
 窓(まど)の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物(たてもの)が四棟(むね)ばかり立って、その一つの平屋根(ひらやね)の上に、眼(め)もさめるような、青宝玉(サファイア)と黄玉(トパーズ)の大きな二つのすきとおった球(たま)が、輪(わ)になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向(む)こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進(すす)んで来、まもなく二つのはじは、重(かさ)なり合って、きれいな緑(みどり)いろの両面凸(りょうめんとつ)レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正面(しょうめん)に来ましたので、緑(みどり)の中心と黄いろな明るい環(わ)とができました。それがまただんだん横(よこ)へ外(そ)れて、前のレンズの形を逆(ぎゃく)にくり返(かえ)し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向(む)こうへめぐり、黄いろのはこっちへ進(すす)み、またちょうどさっきのようなふうになりました。銀河(ぎんが)の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所(そっこうじょ)が、睡(ねむ)っているように、しずかによこたわったのです。
「あれは、水の速(はや)さをはかる器械(きかい)です。水も……」鳥捕(とりと)りが言(い)いかけたとき、
「切符(きっぷ)を拝見(はいけん)いたします」三人の席(せき)の横(よこ)に、赤い帽子(ぼうし)をかぶったせいの高い車掌(しゃしょう)が、いつかまっすぐに立っていて言(い)いました。鳥捕(とりと)りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌(しゃしょう)はちょっと見て、すぐ眼(め)をそらして(あなた方のは?)というように、指(ゆび)をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ」ジョバンニは困(こま)って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さな鼠(ねずみ)いろの切符(きっぷ)を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着(うわぎ)のポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなものはいっていたろうかと思って、急(いそ)いで出してみましたら、それは四つに折(お)ったはがきぐらいの大さ[#「大さ」はママ]の緑(みどり)いろの紙でした。車掌(しゃしょう)が手を出しているもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思って渡(わた)しましたら、車掌(しゃしょう)はまっすぐに立ち直(なお)ってていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら上着(うわぎ)のぼたんやなんかしきりに直(なお)したりしていましたし燈台看守(とうだいかんしゅ)も下からそれを熱心(ねっしん)にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書(しょうめいしょ)か何かだったと考えて少し胸(むね)が熱(あつ)くなるような気がしました。
「これは三次空間(じくうかん)の方からお持(も)ちになったのですか」車掌(しゃしょう)がたずねました。
「なんだかわかりません」もう大丈夫(だいじょうぶ)だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑(わら)いました。
「よろしゅうございます。南十字(サウザンクロス)へ着(つ)きますのは、次(つぎ)の第(だい)三時ころになります」車掌(しゃしょう)は紙をジョバンニに渡(わた)して向(む)こうへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待(ま)ちかねたというように急(いそ)いでのぞきこみました。ジョバンニも全(まった)く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草(からくさ)のような模様(もよう)の中に、おかしな十ばかりの字を印刷(いんさつ)したもので、だまって見ているとなんだかその中へ吸(す)い込(こ)まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕(とりと)りが横からちらっとそれを見てあわてたように言(い)いました。
「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符(きっぷ)だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券(つうこうけん)です。こいつをお持(も)ちになれぁ、なるほど、こんな不完全(ふかんぜん)な幻想第四次(げんそうだいよじ)の銀河鉄道(ぎんがてつどう)なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」
「なんだかわかりません」ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまたたたんでかくしに入れました。そしてきまりが悪(わる)いのでカムパネルラと二人(ふたり)、また窓(まど)の外をながめていましたが、その鳥捕(とりと)りの時々たいしたもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
「もうじき鷲(わし)の停車場(ていしゃじょう)だよ」カムパネルラが向(む)こう岸(ぎし)の、三つならんだ小さな青じろい三角標(さんかくひょう)と、地図とを見くらべて言(い)いました。
 ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかにとなりの鳥捕(とりと)りがきのどくでたまらなくなりました。鷺(さぎ)をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包(つつ)んだり、ひとの切符(きっぷ)をびっくりしたように横目(よこめ)で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕(とりと)りのために、ジョバンニの持(も)っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸(さいわい)になるなら、自分があの光る天の川の河原(かわら)に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙(だま)っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊(き)こうとして、それではあんまり出し抜(ぬ)けだから、どうしようかと考えてふり返(かえ)って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕(とりと)りがいませんでした。網棚(あみだな)の上には白い荷物(にもつ)も見えなかったのです。また窓(まど)の外で足をふんばってそらを見上げて鷺(さぎ)を捕(と)るしたくをしているのかと思って、急(いそ)いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子(すなご)と白いすすきの波(なみ)ばかり、あの鳥捕(とりと)りの広いせなかもとがった帽子(ぼうし)も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラもぼんやりそう言(い)っていました。
「どこへ行ったろう。いったいどこでまたあうのだろう。僕(ぼく)はどうしても少しあの人に物(もの)を言(い)わなかったろう」
「ああ、僕(ぼく)もそう思っているよ」
「僕(ぼく)はあの人が邪魔(じゃま)なような気がしたんだ。だから僕(ぼく)はたいへんつらい」ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで言(い)ったこともないと思いました。
「なんだか苹果(りんご)のにおいがする。僕(ぼく)いま苹果(りんご)のことを考えたためだろうか」カムパネルラが不思議(ふしぎ)そうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果(りんご)のにおいだよ。それから野茨(のいばら)のにおいもする」
 ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓(まど)からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから野茨(のいばら)の花のにおいのするはずはないとジョバンニは思いました。
 そしたらにわかにそこに、つやつやした黒い髪(かみ)の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえてはだしで立っていました。隣(とな)りには黒い洋服(ようふく)をきちんと着(き)たせいの高い青年がいっぱいに風に吹(ふ)かれているけやきの木のような姿勢(しせい)で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」青年のうしろに、もひとり、十二ばかりの眼(め)の茶いろな可愛(かわい)らしい女の子が、黒い外套(がいとう)を着(き)て青年の腕(うで)にすがって不思議(ふしぎ)そうに窓(まど)の外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州(しゅう)だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神(かみ)さまに召(め)されているのです」黒服(くろふく)の青年はよろこびにかがやいてその女の子に言(い)いました。けれどもなぜかまた額(ひたい)に深(ふか)く皺(しわ)を刻(きざ)んで、それにたいへんつかれているらしく、無理(むり)に笑(わら)いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席(せき)を指(ゆび)さしました。女の子はすなおにそこへすわって、きちんと両手(りょうて)を組み合わせました。
「ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう」腰掛(こしか)けたばかりの男の子は顔を変(へん)にして燈台看守(とうだいかんしゅ)の向(む)こうの席(せき)にすわったばかりの青年に言(い)いました。青年はなんとも言(い)えず悲(かな)しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれたぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手(りょうて)を顔にあててしくしく泣(な)いてしまいました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事(しごと)があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永(なが)く待(ま)っていらっしゃったでしょう。わたしの大事(だいじ)なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、雪(ゆき)の降(ふ)る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたり、ほんとうに待(ま)って心配(しんぱい)していらっしゃるんですから、早く行って、おっかさんにお目にかかりましょうね」
「うん、だけど僕(ぼく)、船に乗(の)らなけぁよかったなあ」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派(りっぱ)な川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツィンクル、ツィンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつも窓(まど)からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています」
 泣(な)いていた姉(あね)もハンケチで眼(め)をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟(きょうだい)にまた言(い)いました。
「わたしたちはもう、なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅(たび)して、じき神(かみ)さまのとこへ行きます。そこならもう、ほんとうに明るくてにおいがよくて立派(りっぱ)な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代(か)わりにボートへ乗(の)れた人たちは、きっとみんな助(たす)けられて、心配(しんぱい)して待(ま)っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう」青年は男の子のぬれたような黒い髪(かみ)をなで、みんなを慰(なぐさ)めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいてきました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか」
 さっきの燈台看守(とうだいかんしゅ)がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
「いえ、氷山(ひょうざん)にぶっつかって船が沈(しず)みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急(きゅう)な用(よう)で二か月前、一足さきに本国へお帰りになったので、あとから発(た)ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師(かていきょうし)にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日(きのう)のあたりです、船が氷山(ひょうざん)にぶっつかって一ぺんに傾(かたむ)きもう沈(しず)みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧(きり)が非常(ひじょう)に深(ふか)かったのです。ところがボートは左舷(さげん)の方半分(はんぶん)はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗(の)り切らないのです。もうそのうちにも船は沈(しず)みますし、私は必死(ひっし)となって、どうか小さな人たちを乗(の)せてくださいと叫(さけ)びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈(いの)ってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいて、とても押(お)しのける勇気(ゆうき)がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助(たす)けするのが私の義務(ぎむ)だと思いましたから前にいる子供らを押(お)しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助(たす)けてあげるよりはこのまま神(かみ)の御前(みまえ)にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福(こうふく)だとも思いました。それからまた、その神(かみ)にそむく罪(つみ)はわたくしひとりでしょってぜひとも助(たす)けてあげようと思いました。けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂気(きょうき)のようにキスを送(おく)りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももう腸(はらわた)もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈(しず)みますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚悟(かくご)して、この人たち二人を抱(だ)いて、浮(う)かべるだけは浮(う)かぼうと船の沈(しず)むのを待(ま)っていました。誰(だれ)が投(な)げたかライフヴイが一つ飛(と)んで来ましたけれどもすべってずうっと向(む)こうへ行ってしまいました。私は一生けん命(めい)で甲板(かんぱん)の格子(こうし)になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落(お)ち、もう渦(うず)にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年(さくねん)没(な)くなられました。ええ、ボートはきっと助(たす)かったにちがいありません、なにせよほど熟練(じゅくれん)な水夫(すいふ)たちが漕(こ)いで、すばやく船からはなれていましたから」
 そこらから小さな嘆息(たんそく)やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘(わす)れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼(め)が熱(あつ)くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山(ひょうざん)の流(なが)れる北のはての海で、小さな船に乗(の)って、風や凍(こお)りつく潮水(しおみず)や、はげしい寒(さむ)さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうにきのどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう)
 ジョバンニは首(くび)をたれて、すっかりふさぎ込(こ)んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進(すす)む中でのできごとなら、峠(とうげ)の上りも下りもみんなほんとうの幸福(こうふく)に近づく一あしずつですから」
 燈台守(とうだいもり)がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至(いた)るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」
 青年が祈(いの)るようにそう答えました。
 そしてあの姉弟(きょうだい)はもうつかれてめいめいぐったり席(せき)によりかかって睡(ねむ)っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔(やわ)らかな靴(くつ)をはいていたのです。
 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光(りんこう)の川の岸(きし)を進(すす)みました。向(む)こうの方の窓(まど)を見ると、野原はまるで幻燈(げんとう)のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標(さんかくひょう)、その大きなものの上には赤い点々をうった測量旗(そくりょうき)も見え、野原(のはら)のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集(あつ)まってぼおっと青白い霧(きり)のよう、そこからか、またはもっと向(む)こうからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙(のろし)のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗(ききょう)いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗(きれい)な風は、ばらのにおいでいっぱいでした。
「いかがですか。こういう苹果(りんご)はおはじめてでしょう」向(む)こうの席(せき)の燈台看守(とうだいかんしゅ)がいつか黄金(きん)と紅(べに)でうつくしくいろどられた大きな苹果(りんご)を落(お)とさないように両手(りょうて)で膝(ひざ)の上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。立派(りっぱ)ですねえ。ここらではこんな苹果(りんご)ができるのですか」青年はほんとうにびっくりしたらしく、燈台看守(とうだいかんしゅ)の両手(りょうて)にかかえられた一もりの苹果(りんご)を、眼(め)を細(ほそ)くしたり首(くび)をまげたりしながら、われを忘(わす)れてながめていました。
「いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください」
 青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、向(む)こうの坊(ぼっ)ちゃんがた。いかがですか。おとりください」
 ジョバンニは坊(ぼっ)ちゃんといわれたので、すこししゃくにさわってだまっていましたが、カムパネルラは、
「ありがとう」と言(い)いました。
 すると青年は自分でとって一つずつ二人に送(おく)ってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと言(い)いました。
 燈台看守(とうだいかんしゅ)はやっと両腕(りょううで)があいたので、こんどは自分で一つずつ睡(ねむ)っている姉弟(きょうだい)の膝(ひざ)にそっと置(お)きました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派(りっぱ)な苹果(りんご)は」
 青年はつくづく見ながら言(い)いました。
「この辺(あたり)ではもちろん農業(のうぎょう)はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約束(やくそく)になっております。農業(のうぎょう)だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の望(のぞ)む種子(たね)さえ播(ま)けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺(へん)のように殻(から)もないし十倍(ばい)も大きくてにおいもいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業(のうぎょう)はもうありません。苹果(りんご)だってお菓子(かし)だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」
 にわかに男の子がばっちり眼(め)をあいて言(い)いました。
「ああぼくいまお母(っか)さんの夢(ゆめ)をみていたよ。お母(っか)さんがね、立派(りっぱ)な戸棚(とだな)や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と言(い)ったら眼(め)がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」
「その苹果(りんご)がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ」青年が言(い)いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」
 姉(あね)はわらって眼(め)をさまし、まぶしそうに両手(りょうて)を眼(め)にあてて、それから苹果(りんご)を見ました。
 男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな皮(かわ)も、くるくるコルク抜(ぬ)きのような形になって床(ゆか)へ落(お)ちるまでの間にはすうっと、灰(はい)いろに光って蒸発(じょうはつ)してしまうのでした。
 二人(ふたり)はりんごをたいせつにポケットにしまいました。
 川下の向(む)こう岸(ぎし)に青く茂(しげ)った大きな林が見え、その枝(えだ)には熟(じゅく)してまっ赤に光るまるい実(み)がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標(さんかくひょう)が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも言(い)えずきれいな音(ね)いろが、とけるように浸(し)みるように風につれて流(なが)れて来るのでした。
 青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
 だまってその譜(ふ)を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑(みどり)の明るい野原(のはら)か敷物(しきもの)かがひろがり、またまっ白な蝋(ろう)のような露(つゆ)が太陽(たいよう)の面(めん)をかすめて行くように思われました。
「まあ、あの烏(からす)」カムパネルラのとなりの、かおると呼(よ)ばれた女の子が叫(さけ)びました。
「からすでない。みんなかささぎだ」カムパネルラがまた何気なくしかるように叫(さけ)びましたので、ジョバンニはまた思わず笑(わら)い、女の子はきまり悪(わる)そうにしました。まったく河原(かわら)の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列(れつ)になってとまってじっと川の微光(びこう)を受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延(の)びてますから」青年はとりなすように言(い)いました。
 向(む)こうの青い森の中の三角標(さんかくひょう)はすっかり汽車の正面(しょうめん)に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讃美歌(さんびか)のふしが聞こえてきました。よほどの人数で合唱(がっしょう)しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。
 ジョバンニまでなんだか鼻(はな)が変(へん)になりました。けれどもいつともなく誰(だれ)ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラもいっしょにうたいだしたのです。
 そして青い橄欖(かんらん)の森が、見えない天の川の向(む)こうにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまい、そこから流(なが)れて来るあやしい楽器(がっき)の音も、もう汽車のひびきや風の音にすりへらされてずうっとかすかになりました。
「あ、孔雀(くじゃく)がいるよ。あ、孔雀(くじゃく)がいるよ」
「あの森琴(ライラ)の宿(やど)でしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集(あつ)まっていらっしゃると思うわ、まわりには青い孔雀(くじゃく)やなんかたくさんいると思うわ」
「ええ、たくさんいたわ」女の子がこたえました。
 ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑(みどり)いろの貝(かい)ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀(くじゃく)がはねをひろげたりとじたりする光の反射(はんしゃ)を見ました。
「そうだ、孔雀(くじゃく)の声だってさっき聞こえた」カムパネルラが女の子に言(い)いました。
「ええ、三十疋(ぴき)ぐらいはたしかにいたわ」女の子が答えました。
 ジョバンニはにわかになんとも言(い)えずかなしい気がして思わず、
「カムパネルラ、ここからはねおりて遊(あそ)んで行こうよ」とこわい顔をして言(い)おうとしたくらいでした。
 ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不思議(ふしぎ)なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長(ほそなが)いもので、あの見えない天の川の水の上に飛(と)び出してちょっと弓(ゆみ)のようなかたちに進(すす)んで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるした変(へん)なものが水から飛(と)び出して、まるく飛(と)んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。
「まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ」
 睡(ねむ)そうに眼(め)をこすっていた男の子はびっくりしたように立ちあがりました。
「なんだろう」青年も立ちあがりました。
「まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ」
「海豚(いるか)です」カムパネルラがそっちを見ながら答えました。
「海豚(いるか)だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう」
「いるかは海にいるときまっていない」あの不思議(ふしぎ)な低(ひく)い声がまたどこからかしました。
 ほんとうにそのいるかのかたちのおかしいことは、二つのひれをちょうど両手(りょうて)をさげて不動(ふどう)の姿勢(しせい)をとったようなふうにして水の中から飛(と)び出して来て、うやうやしく頭を下にして不動(ふどう)の姿勢(しせい)のまままた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔(ほのお)のように波(なみ)をあげるのでした。
「いるかお魚でしょうか」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたように席(せき)にもたれて睡(ねむ)っていました。
「いるか、魚じゃありません。くじらと同じようなけだものです」カムパネルラが答えました。
「あなたくじら見たことあって」
「僕(ぼく)あります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。潮(しお)を吹(ふ)くとちょうど本にあるようになります」
「くじらなら大きいわねえ」
「くじら大きいです。子供(こども)だっているかぐらいあります」
「そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ」姉(あね)は細(ほそ)い銀(ぎん)いろの指輪(ゆびわ)をいじりながらおもしろそうにはなししていました。
(カムパネルラ、僕(ぼく)もう行っちまうぞ。僕(ぼく)なんか鯨(くじら)だって見たことないや)
 ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅(かた)く、唇(くちびる)を噛(か)んでこらえて窓(まど)の外を見ていました。その窓(まど)の外には海豚(いるか)のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島(しま)のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人の寛(ゆる)い服(ふく)を着(き)て赤い帽子(ぼうし)をかぶった男が立っていました。そして両手(りょうて)に赤と青の旗(はた)をもってそらを見上げて信号(しんごう)しているのでした。
 ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗(はた)をふっていましたが、にわかに赤旗(あかはた)をおろしてうしろにかくすようにし、青い旗(はた)を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者(しきしゃ)のようにはげしく振(ふ)りました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸(てっぽうだま)のように川の向(む)こうの方へ飛(と)んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓(まど)からからだを半分出して、そっちを見あげました。美(うつく)しい美(うつく)しい桔梗(ききょう)いろのがらんとした空の下を、実(じつ)に何万(なんまん)という小さな鳥どもが、幾組(いくくみ)も幾組(いくくみ)もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。
「鳥が飛(と)んで行くな」ジョバンニが窓(まど)の外で言いました。
「どら」カムパネルラもそらを見ました。
 そのときあのやぐらの上のゆるい服(ふく)の男はにわかに赤い旗(はた)をあげて狂気(きょうき)のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群(む)れは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんというつぶれたような音が川下の方で起(お)こって、それからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽(あかぼう)の信号手(しんごうしゅ)がまた青い旗(はた)をふって叫(さけ)んでいたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」その声もはっきり聞こえました。
 それといっしょにまた幾万(いくまん)という鳥の群(む)れがそらをまっすぐにかけたのです。二人(ふたり)の顔を出しているまん中の窓(まど)からあの女の子が顔を出して美(うつく)しい頬(ほお)をかがやかせながらそらを仰(あお)ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気(なまいき)な、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息(いき)をして、だまって席(せき)へ戻(もど)りました。カムパネルラがきのどくそうに窓(まど)から顔を引っ込(こ)めて地図を見ていました。
「あの人鳥へ教えてるんでしょうか」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
「わたり鳥へ信号(しんごう)してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう」
 カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込(こ)めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いていました。
(どうして僕(ぼく)はこんなにかなしいのだろう。僕(ぼく)はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸(きし)のずうっと向(む)こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕(ぼく)はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ)
 ジョバンニは熱(ほて)って痛(いた)いあたまを両手(りょうて)で押(おさ)えるようにして、そっちの方を見ました。
(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕(ぼく)といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談(はな)しているし僕(ぼく)はほんとうにつらいなあ)
 ジョバンニの眼(め)はまた泪(なみだ)でいっぱいになり、天の川もまるで遠くへ行(い)ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
 そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖(がけ)の上を通るようになりました。向(む)こう岸(ぎし)もまた黒いいろの崖(がけ)が川の岸(きし)を下流(かりゅう)に下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉(は)はぐるぐるに縮(ちぢ)れ葉(は)の下にはもう美しい緑(みどり)いろの大きな苞(ほう)が赤い毛を吐(は)いて真珠(しんじゅ)のような実(み)もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増(ま)してきて、もういまは列(れつ)のように崖(がけ)と線路(せんろ)との間にならび、思わずジョバンニが窓(まど)から顔を引っ込(こ)めて向(む)こう側(がわ)の窓(まど)を見ましたときは、美(うつく)しいそらの野原の地平線(ちへいせん)のはてまで、その大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植(う)えられて、さやさや風にゆらぎ、その立派(りっぱ)なちぢれた葉(は)のさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光を吸(す)った金剛石(こんごうせき)のように露(つゆ)がいっぱいについて、赤や緑(みどり)やきらきら燃(も)えて光っているのでした。カムパネルラが、
「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに言(い)いましたけれども、ジョバンニはどうしても気持(きも)ちがなおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、
「そうだろう」と答えました。
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルとてんてつ器(き)の灯(あかり)を過ぎ、小さな停車場(ていしゃば)にとまりました。
 その正面(しょうめん)の青じろい時計(とけい)はかっきり第二時(だいにじ)を示(しめ)し、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにその振(ふ)り子(こ)はカチッカチッと正しく時を刻(きざ)んでいくのでした。
 そしてまったくその振(ふ)り子(こ)の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律(せんりつ)が糸のように流(なが)れて来るのでした。
「新世界交響楽(しんせかいこうきょうがく)だわ」向(む)こうの席(せき)の姉(あね)がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言(い)いました。
 全(まった)くもう車の中ではあの黒服(くろふく)の丈高(たけたか)い青年も誰(だれ)もみんなやさしい夢(ゆめ)を見ているのでした。
(こんなしずかないいとこで僕(ぼく)はどうしてもっと愉快(ゆかい)になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕(ぼく)といっしょに汽車に乗(の)っていながら、まるであんな女の子とばかり談(はな)しているんだもの。僕(ぼく)はほんとうにつらい)
 ジョバンニはまた手で顔を半分(はんぶん)かくすようにして向(む)こうの窓(まど)のそとを見つめていました。
 すきとおった硝子(ガラス)のような笛(ふえ)が鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きました。
「ええ、ええ、もうこの辺(へん)はひどい高原ですから」
 うしろの方で誰(だれ)かとしよりらしい人の、いま眼(め)がさめたというふうではきはき談(はな)している声がしました。
「とうもろこしだって棒(ぼう)で二尺も孔(あな)をあけておいてそこへ播(ま)かないとはえないんです」
「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ」
「ええ、ええ、河(かわ)までは二千尺(じゃく)から六千尺(じゃく)あります。もうまるでひどい峡谷(きょうこく)になっているんです」
 そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。
 あの姉(あね)は弟を自分の胸(むね)によりかからせて睡(ねむ)らせながら黒い瞳(ひとみ)をうっとりと遠くへ投(な)げて何を見るでもなしに考え込(こ)んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛(くちぶえ)を吹(ふ)き、男の子はまるで絹(きぬ)で包(つつ)んだ苹果(りんご)のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
 突然(とつぜん)とうもろこしがなくなって巨(おお)きな黒い野原(のはら)がいっぱいにひらけました。
 新世界交響楽(しんせかいこうきょうがく)はいよいよはっきり地平線(ちへいせん)のはてから湧(わ)き、そのまっ黒な野原(のはら)のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根(はね)を頭につけ、たくさんの石を腕(うで)と胸(むね)にかざり、小さな弓(ゆみ)に矢(や)をつがえていちもくさんに汽車を追(お)って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい」
 黒服(くろふく)の青年も眼(め)をさましました。
 ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ、あら、走って来るわ。追(お)いかけているんでしょう」
「いいえ、汽車を追(お)ってるんじゃないんですよ。猟(りょう)をするか踊(おど)るかしてるんですよ」
 青年はいまどこにいるか忘(わす)れたというふうにポケットに手を入れて立ちながら言(い)いました。
 まったくインデアンは半分(はんぶん)は踊(おど)っているようでした。第一(だいいち)かけるにしても足のふみようがもっと経済(けいざい)もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその羽根(はね)は前の方へ倒(たお)れるようになり、インデアンはぴたっと立ちどまって、すばやく弓(ゆみ)を空にひきました。そこから一羽(わ)の鶴(つる)がふらふらと落(お)ちて来て、また走り出したインデアンの大きくひろげた両手(りょうて)に落(お)ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその鶴(つる)をもってこっちを見ている影(かげ)も、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの碍子(がいし)がきらっきらっと続(つづ)いて二つばかり光って、またとうもろこしの林になってしまいました。こっち側(がわ)の窓(まど)を見ますと汽車はほんとうに高い高い崖(がけ)の上を走っていて、その谷の底(そこ)には川がやっぱり幅(はば)ひろく明るく流(なが)れていたのです。
「ええ、もうこの辺(へん)から下りです。なんせこんどは一ぺんにあの水面(すいめん)までおりて行くんですから容易(ようい)じゃありません。この傾斜(けいしゃ)があるもんですから汽車は決(けっ)して向(む)こうからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう」さっきの老人(ろうじん)らしい声が言(い)いました。
 どんどんどんどん汽車は降(お)りて行きました。崖(がけ)のはじに鉄道(てつどう)がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなってきました。汽車が小さな小屋(こや)の前を通って、その前にしょんぼりひとりの子供(こども)が立ってこっちを見ているときなどは思わず、ほう、と叫(さけ)びました。
 どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中(へやじゅう)のひとたちは半分(はんぶん)うしろの方へ倒(たお)れるようになりながら腰掛(こしかけ)にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手(よこて)をいままでよほど激(はげ)しく流(なが)れて来たらしく、ときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原(かわら)なでしこの花があちこち咲(さ)いていました。汽車はようやく落(お)ち着(つ)いたようにゆっくり走っていました。
 向(む)こうとこっちの岸(きし)に星のかたちとつるはしを書いた旗(はた)がたっていました。
「あれなんの旗(はた)だろうね」ジョバンニがやっとものを言(い)いました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄(てつ)の舟(ふね)がおいてあるねえ」
「ああ」
「橋(はし)を架(か)けるとこじゃないんでしょうか」女の子が言(い)いました。
「ああ、あれ工兵(こうへい)の旗(はた)だねえ。架橋演習(かきょうえんしゅう)をしてるんだ。けれど兵隊(へいたい)のかたちが見えないねえ」
 その時向(む)こう岸(ぎし)ちかくの少し下流(かりゅう)の方で、見えない天の川の水がぎらっと光って、柱(はしら)のように高くはねあがり、どおとはげしい音がしました。
「発破(はっぱ)だよ、発破(はっぱ)だよ」カムパネルラはこおどりしました。
 その柱(はしら)のようになった水は見えなくなり、大きな鮭(さけ)や鱒(ます)がきらっきらっと白く腹(はら)を光らせて空中にほうり出されてまるい輪(わ)を描(えが)いてまた水に落(お)ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持(きも)ちが軽(かる)くなって言(い)いました。
「空の工兵大隊(こうへいだいたい)だ。どうだ、鱒(ます)なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕(ぼく)こんな愉快(ゆかい)な旅(たび)はしたことない。いいねえ」
「あの鱒(ます)なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかないるんだな、この水の中に」
「小さなお魚もいるんでしょうか」女の子が談(はなし)につり込(こ)まれて言(い)いました。
「いるんでしょう。大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだから、いま小さいの見えなかったねえ」ジョバンニはもうすっかり機嫌(きげん)が直(なお)っておもしろそうにわらって女の子に答えました。
「あれきっと双子(ふたご)のお星さまのお宮(みや)だよ」男の子がいきなり窓(まど)の外をさして叫(さけ)びました。
 右手の低(ひく)い丘(おか)の上に小さな水晶(すいしょう)ででもこさえたような二つのお宮(みや)がならんで立っていました。
「双子(ふたご)のお星さまのお宮(みや)ってなんだい」
「あたし前になんべんもお母(っか)さんから聞いたわ。ちゃんと小さな水晶(すいしょう)のお宮(みや)で二つならんでいるからきっとそうだわ」
「はなしてごらん。双子(ふたご)のお星さまが何をしたっての」
「ぼくも知ってらい。双子(ふたご)のお星さまが野原へ遊(あそ)びにでて、からすと喧嘩(けんか)したんだろう」
「そうじゃないわよ。あのね、天の川の岸(きし)にね、おっかさんお話しなすったわ、……」
「それから彗星(ほうきぼし)がギーギーフーギーギーフーて言(い)って来たねえ」
「いやだわ、たあちゃん、そうじゃないわよ。それはべつの方だわ」
「するとあすこにいま笛(ふえ)を吹(ふ)いているんだろうか」
「いま海へ行ってらあ」
「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ」
「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう」

 川の向こう岸(ぎし)がにわかに赤くなりました。
 楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され、見えない天の川の波(なみ)も、ときどきちらちら針(はり)のように赤く光りました。まったく向(む)こう岸(ぎし)の野原に大きなまっ赤な火が燃(もや)され、その黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦(こ)がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになって、その火は燃(も)えているのでした。
「あれはなんの火だろう。あんな赤く光る火は何を燃(も)やせばできるんだろう」ジョバンニが言(い)いました。
「蠍(さそり)の火だな」カムパネルラがまた地図と首(くび)っぴきして答えました。
「あら、蠍(さそり)の火のことならあたし知ってるわ」
「蠍(さそり)の火ってなんだい」ジョバンニがききました。
「蠍(さそり)がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃(も)えてるって、あたし何べんもお父さんから聴(き)いたわ」
「蠍(さそり)って、虫だろう」
「ええ、蠍(さそり)は虫よ。だけどいい虫だわ」
「蠍(さそり)いい虫じゃないよ。僕(ぼく)博物館(はくぶつかん)でアルコールにつけてあるの見た。尾(お)にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死(し)ぬって先生が言(い)ってたよ」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言(い)ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍(さそり)がいて小さな虫やなんか殺(ころ)してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命(めい)にげてにげたけど、とうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸(いど)があってその中に落(お)ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言(い)ってお祈(いの)りしたというの。
 ああ、わたしはいままで、いくつのものの命(いのち)をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命(めい)にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神(かみ)さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命(いのち)をすてず、どうかこの次(つぎ)には、まことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかいください。って言(い)ったというの。
 そしたらいつか蠍(さそり)はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃(も)えて、よるのやみを照(て)らしているのを見たって。いまでも燃(も)えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ」
「そうだ。見たまえ。そこらの三角標(さんかくひょう)はちょうどさそりの形にならんでいるよ」
 ジョバンニはまったくその大きな火の向(む)こうに三つの三角標(さんかくひょう)が、ちょうどさそりの腕(うで)のように、こっちに五つの三角標(さんかくひょう)がさそりの尾(お)やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃(も)えたのです。
 その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなはなんとも言(い)えずにぎやかな、さまざまの楽(がく)の音(ね)や草花のにおいのようなもの、口笛(くちぶえ)や人々のざわざわ言(い)う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあって、そこにお祭(まつ)りでもあるというような気がするのでした。
「ケンタウル露(つゆ)をふらせ」いきなりいままで睡(ねむ)っていたジョバンニのとなりの男の子が向(む)こうの窓(まど)を見ながら叫(さけ)んでいました。
 ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜(とうひ)かもみの木がたって、その中にはたくさんのたくさんの豆電燈(まめでんとう)がまるで千の蛍(ほたる)でも集(あつ)まったようについていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭(さい)だねえ」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ」カムパネルラがすぐ言(い)いました。
(此(こ)の間原稿(げんこう)なし)「ボール投げなら僕(ぼく)決(けっ)してはずさない」
 男の子が大いばりで言(い)いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください」青年がみんなに言(い)いました。
「僕(ぼく)、も少し汽車に乗ってるんだよ」男の子が言(い)いました。
 カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立ってしたくをはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです」青年はきちっと口を結(むす)んで男の子を見おろしながら言(い)いました。
「厭(いや)だい。僕(ぼく)もう少し汽車へ乗(の)ってから行くんだい」
 ジョバンニがこらえかねて言(い)いました。
「僕(ぼく)たちといっしょに乗(の)って行こう。僕(ぼく)たちどこまでだって行ける切符(きっぷ)持(も)ってるんだ」
「だけどあたしたち、もうここで降(お)りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」
 女の子がさびしそうに言(い)いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕(ぼく)の先生が言(い)ったよ」
「だっておっ母(か)さんも行ってらっしゃるし、それに神(かみ)さまがおっしゃるんだわ」
「そんな神(かみ)さまうその神(かみ)さまだい」
「あなたの神(かみ)さまうその神(かみ)さまよ」
「そうじゃないよ」
「あなたの神(かみ)さまってどんな神(かみ)さまですか」青年は笑(わら)いながら言(い)いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人(ひとり)の神(かみ)さまです」
「ほんとうの神(かみ)さまはもちろんたった一人(ひとり)です」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神(かみ)さまです」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神(かみ)さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈(いの)ります」青年はつつましく両手(りょうて)を組みました。
 女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別(わか)れが惜(お)しそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣(な)き出そうとしました。
「さあもうしたくはいいんですか。じきサウザンクロスですから」
 ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙(だいだい)や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架(じゅうじか)が、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環(わ)になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈(いの)りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜(うり)に飛(と)びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようない深(ふか)いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架(じゅうじか)は窓(まど)の正面(しょうめん)になり、あの苹果(りんご)の肉(にく)のような青じろい環(わ)の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞(めぐ)っているのが見えました。
「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも言(い)えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈(でんとう)の灯(あかり)のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十字架(じゅうじか)のちょうどま向(む)かいに行ってすっかりとまりました。
「さあ、おりるんですよ」青年は男の子の手をひき姉(あね)は互(たが)いにえりや肩(かた)をなおしてやってだんだん向(む)こうの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら」女の子がふりかえって二人に言(い)いました。
「さよなら」ジョバンニはまるで泣(な)き出したいのをこらえておこったようにぶっきらぼうに言(い)いました。
 女の子はいかにもつらそうに眼(め)を大きくして、も一度(ど)こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上(はんぶんいじょう)も空(す)いてしまいにわかにがらんとして、さびしくなり風がいっぱいに吹(ふ)き込(こ)みました。
 そして見ているとみんなはつつましく列(れつ)を組んで、あの十字架(じゅうじか)の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子(ガラス)の呼(よ)び子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちに銀(ぎん)いろの霧(きり)が川下の方から、すうっと流(なが)れて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉(は)をさんさんと光らしてその霧(きり)の中に立ち、黄金(きん)の円光をもった電気栗鼠(でんきりす)が可愛(かわい)い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
 そのとき、すうっと霧(きり)がはれかかりました。どこかへ行く街道(かいどう)らしく小さな電燈(でんとう)の一列(いちれつ)についた通りがありました。それはしばらく線路(せんろ)に沿(そ)って進(すす)んでいました。そして二人(ふたり)がそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうどあいさつでもするようにぽかっと消(き)え、二人(ふたり)が過ぎて行くときまた点(つ)くのでした。
 ふりかえって見ると、さっきの十字架(じゅうじか)はすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもうそのまま胸(むね)にもつるされそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚(なぎさ)にまだひざまずいているのか、それともどこか方角(ほうがく)もわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
 ジョバンニは、ああ、と深(ふか)く息(いき)しました。
「カムパネルラ、また僕(ぼく)たち二人(ふたり)きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕(ぼく)はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕(ぼく)のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」
「うん。僕(ぼく)だってそうだ」カムパネルラの眼(め)にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
 ジョバンニが言(い)いました。
「僕(ぼく)わからない」カムパネルラがぼんやり言(い)いました。
「僕(ぼく)たちしっかりやろうねえ」ジョバンニが胸(むね)いっぱい新しい力が湧(わ)くように、ふうと息(いき)をしながら言(い)いました。
「あ、あすこ石炭袋(せきたんぶくろ)だよ。そらの孔(あな)だよ」カムパネルラが少しそっちを避(さ)けるようにしながら天の川のひととこを指(ゆび)さしました。
 ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔(あな)が、どおんとあいているのです。その底(そこ)がどれほど深(ふか)いか、その奥(おく)に何があるか、いくら眼(め)をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼(め)がしんしんと痛(いた)むのでした。ジョバンニが言(い)いました。
「僕(ぼく)もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕(ぼく)たちいっしょに進(すす)んで行こう」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集(あつ)まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
 カムパネルラはにわかに窓(まど)の遠くに見えるきれいな野原を指(さ)して叫(さけ)びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが言(い)ったように思われませんでした。
 なんとも言(い)えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、向(む)こうの河岸(かわぎし)に二本の電信(でんしん)ばしらが、ちょうど両方(りょうほう)から腕(うで)を組んだように赤い腕木(うでぎ)をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕(ぼく)たちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう言(い)いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた席(せき)に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
 ジョバンニはまるで鉄砲丸(てっぽうだま)のように立ちあがりました。そして誰(だれ)にも聞こえないように窓(まど)の外へからだを乗(の)り出して、力いっぱいはげしく胸(むね)をうって叫(さけ)び、それからもう咽喉(のど)いっぱい泣(な)きだしました。
 もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、
「おまえはいったい何を泣(な)いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
 ジョバンニは、はっと思って涙(なみだ)をはらってそっちをふり向(む)きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席(せき)に黒い大きな帽子(ぼうし)をかぶった青白い顔のやせた大人(おとな)が、やさしくわらって大きな一冊(さつ)の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言(い)ったんです」
「ああ、そうだ。
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