銀河鉄道の夜
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著者名:宮沢賢治 

 ジョバンニは[#「 ジョバンニは」は底本では「「ジョバンニは」]窓(まど)のところからトマトの皿(さら)をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ」
「ああ、あたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの」
「だって今朝(けさ)の新聞に今年は北の方の漁(りょう)はたいへんよかったと書いてあったよ」
「ああだけどねえ、お父さんは漁(りょう)へ出ていないかもしれない」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄(かんごく)へはいるようなそんな悪(わる)いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈(きぞう)した巨(おお)きな蟹(かに)の甲(こう)らだのとなかいの角(つの)だの今だってみんな標本室(ひょうほんしつ)にあるんだ。六年生なんか授業(じゅぎょう)のとき先生がかわるがわる教室へ持(も)って行くよ」
「お父さんはこの次(つぎ)はおまえにラッコの上着(うわぎ)をもってくるといったねえ」
「みんながぼくにあうとそれを言(い)うよ。ひやかすように言(い)うんだ」
「おまえに悪口(わるくち)を言(い)うの」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決(けっ)して言(い)わない。カムパネルラはみんながそんなことを言(い)うときはきのどくそうにしているよ」
「カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとは、ちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達(ともだち)だったそうだよ」
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中(とちゅう)たびたびカムパネルラのうちに寄(よ)った。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに電柱(でんちゅう)や信号標(しんごうひょう)もついていて信号標(しんごうひょう)のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油(せきゆ)をつかったら、缶(かん)がすっかりすすけたよ」
「そうかねえ」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家じゅうまだしいんとしているからな」
「早いからねえ」
「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒(ほうき)のようだ。ぼくが行くと鼻(はな)を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角(かど)までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜(からすうり)のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ」
「そうだ。今晩(こんばん)は銀河(ぎんが)のお祭(まつ)りだねえ」
「うん。ぼく牛乳(ぎゅうにゅう)をとりながら見てくるよ」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね」
「ああぼく岸(きし)から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ」
「もっと遊(あそ)んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心配(しんぱい)はないから」
「ああきっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか」
「ああ、どうか。もう涼(すず)しいからね」
 ジョバンニは立って窓(まど)をしめ、お皿(さら)やパンの袋(ふくろ)をかたづけると勢(いきお)いよく靴(くつ)をはいて、
「では一時間半(はん)で帰ってくるよ」と言(い)いながら暗(くら)い戸口(とぐち)を出ました。

     四 ケンタウル祭(さい)の夜

 ジョバンニは、口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いているようなさびしい口つきで、檜(ひのき)のまっ黒にならんだ町の坂(さか)をおりて来たのでした。
 坂(さか)の下に大きな一つの街燈(がいとう)が、青白く立派(りっぱ)に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈(でんとう)の方へおりて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影(かげ)ぼうしは、だんだん濃(こ)く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振(ふ)ったり、ジョバンニの横(よこ)の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派(りっぱ)な機関車(きかんしゃ)だ。ここは勾配(こうばい)だから速(はや)いぞ。ぼくはいまその電燈(でんとう)を通り越(こ)す。そうら、こんどはぼくの影法師(かげぼうし)はコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た)
 とジョバンニが思いながら、大股(おおまた)にその街燈(がいとう)の下を通り過(す)ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりのとがったシャツを着(き)て、電燈(でんとう)の向(む)こう側(がわ)の暗(くら)い小路(こうじ)から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
「ザネリ、烏瓜(からすうり)ながしに行くの」ジョバンニがまだそう言(い)ってしまわないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上着(うわぎ)が来るよ」その子が投(な)げつけるようにうしろから叫(さけ)びました。
 ジョバンニは、ばっと胸(むね)がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました。
「なんだい、ザネリ」とジョバンニは高く叫(さけ)び返(かえ)しましたが、もうザネリは向(む)こうのひばの植(う)わった家の中へはいっていました。
(ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを言(い)うのだろう。走るときはまるで鼠(ねずみ)のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを言(い)うのはザネリがばかなからだ)
 ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯(あかり)や木の枝(えだ)で、すっかりきれいに飾(かざ)られた街(まち)を通って行きました。時計屋(とけいや)の店には明るくネオン燈(とう)がついて、一秒(びょう)ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼(め)が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石(ほうせき)が海のような色をした厚(あつ)い硝子(ガラス)の盤(ばん)に載(の)って、星のようにゆっくり循(めぐ)ったり、また向(む)こう側(がわ)から、銅(どう)の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中にまるい黒い星座早見(せいざはやみ)が青いアスパラガスの葉(は)で飾(かざ)ってありました。
 ジョバンニはわれを忘(わす)れて、その星座(せいざ)の図に見入りました。
 それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合わせて盤(ばん)をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形(だえんけい)のなかにめぐってあらわれるようになっており、やはりそのまん中には上から下へかけて銀河(ぎんが)がぼうとけむったような帯(おび)になって、その下の方ではかすかに爆発(ばくはつ)して湯(ゆ)げでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚(あし)のついた小さな望遠鏡(ぼうえんきょう)が黄いろに光って立っていましたし、いちばんうしろの壁(かべ)には空じゅうの星座(せいざ)をふしぎな獣(けもの)や蛇(へび)や魚や瓶(びん)の形に書いた大きな図(ず)がかかっていました。ほんとうにこんなような蠍(さそり)だの勇士(ゆうし)だのそらにぎっしりいるだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っていました。
 それからにわかにお母さんの牛乳(ぎゅうにゅう)のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。
 そしてきゅうくつな上着(うわぎ)の肩(かた)を気にしながら、それでもわざと胸(むね)を張(は)って大きく手を振(ふ)って町を通って行きました。
 空気は澄(す)みきって、まるで水のように通りや店の中を流(なが)れましたし、街燈(がいとう)はみなまっ青なもみや楢(なら)の枝(えだ)で包(つつ)まれ、電気会社の前の六本のプラタナスの木などは、中にたくさんの豆電燈(まめでんとう)がついて、ほんとうにそこらは人魚の都(みやこ)のように見えるのでした。子どもらは、みんな新しい折(おり)のついた着物(きもの)を着(き)て、星めぐりの口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いたり、
「ケンタウルス、露(つゆ)をふらせ」と叫(さけ)んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃(も)したりして、たのしそうに遊(あそ)んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深(ふか)く首(くび)をたれて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛乳屋(ぎゅうにゅうや)の方へ急(いそ)ぐのでした。
 ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本(いくほん)も幾本(いくほん)も、高く星ぞらに浮(う)かんでいるところに来ていました。その牛乳屋(ぎゅうにゅうや)の黒い門(もん)をはいり、牛のにおいのするうすくらい台所(だいどころ)の前に立って、ジョバンニは帽子(ぼうし)をぬいで、
「今晩(こんばん)は」と言(い)いましたら、家の中はしいんとして誰(だれ)もいたようではありませんでした。
「今晩(こんばん)は、ごめんなさい」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫(さけ)びました。するとしばらくたってから、年とった女の人が、どこかぐあいが悪(わる)いようにそろそろと出て来て、何か用かと口の中で言(い)いました。
「あの、今日、牛乳(ぎゅうにゅう)が僕(ぼく)※[#小書き平仮名ん、183-7]とこへ来なかったので、もらいにあがったんです」ジョバンニが一生けん命(めい)勢(いきお)いよく言(い)いました。
「いま誰(だれ)もいないでわかりません。あしたにしてください」その人は赤い眼(め)の下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして言(い)いました。
「おっかさんが病気(びょうき)なんですから今晩(こんばん)でないと困(こま)るんです」
「ではもう少したってから来てください」その人はもう行ってしまいそうでした。
「そうですか。ではありがとう」ジョバンニは、お辞儀(じぎ)をして台所(だいどころ)から出ました。
 十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向(む)こうの橋(はし)へ行く方の雑貨店(ざっかてん)の前で、黒い影(かげ)やぼんやり白いシャツが入り乱(みだ)れて、六、七人の生徒らが、口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いたり笑(わら)ったりして、めいめい烏瓜(からすうり)の燈火(あかり)を持(も)ってやって来(く)るのを見(み)ました。その笑(わら)い声も口笛(くちぶえ)も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級(どうきゅう)の子供(こども)らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻(もど)ろうとしましたが、思い直(なお)して、いっそう勢(いきお)いよくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの」ジョバンニが言(い)おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
「ジョバンニ、ラッコの上着(うわぎ)が来るよ」さっきのザネリがまた叫(さけ)びました。
「ジョバンニ、ラッコの上着(うわぎ)が来るよ」すぐみんなが、続(つづ)いて叫(さけ)びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急(いそ)いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがいたのです。カムパネルラはきのどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。
 ジョバンニは、にげるようにその眼(め)を避(さ)け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過(す)ぎて行ってまもなく、みんなはてんでに口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きました。町かどを曲(ま)がるとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いて向(む)こうにぼんやり見える橋(はし)の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも言(い)えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わあわあと言(い)いながら片足(かたあし)でぴょんぴょん跳(と)んでいた小さな子供(こども)らは、ジョバンニがおもしろくてかけるのだと思って、わあいと叫(さけ)びました。
 まもなくジョバンニは走りだして黒い丘(おか)の方へ急(いそ)ぎました。

     五 天気輪(てんきりん)の柱(はしら)

 牧場(ぼくじょう)のうしろはゆるい丘(おか)になって、その黒い平(たい)らな頂上(ちょうじょう)は、北の大熊星(おおくまぼし)の下に、ぼんやりふだんよりも低(ひく)く、連(つら)なって見えました。
 ジョバンニは、もう露(つゆ)の降(お)りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照(て)らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉(は)は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持(も)って行った烏瓜(からすうり)のあかりのようだとも思いました。
 そのまっ黒な、松(まつ)や楢(なら)の林を越(こ)えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙(わた)っているのが見え、また頂(いただき)の、天気輪(てんきりん)の柱(はしら)も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢(ゆめ)の中からでもかおりだしたというように咲(さ)き、鳥が一疋(ぴき)、丘(おか)の上を鳴き続(つづ)けながら通って行きました。
 ジョバンニは、頂(いただき)の天気輪(てんきりん)の柱(はしら)の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投(な)げました。
 町の灯(あかり)は、暗(やみ)の中をまるで海の底(そこ)のお宮(みや)のけしきのようにともり、子供(こども)らの歌う声や口笛(くちぶえ)、きれぎれの叫(さけ)び声もかすかに聞こえて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘(おか)の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗(あせ)でぬれたシャツもつめたく冷(ひ)やされました。
 野原から汽車の音が聞こえてきました。その小さな列車(れっしゃ)の窓(まど)は一列(いちれつ)小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人(たびびと)が、苹果(りんご)をむいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もうなんとも言(い)えずかなしくなって、また眼(め)をそらに挙(あ)げました。
(この間原稿(げんこう)五枚分(まいぶん)なし) ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の言(い)ったような、がらんとした冷(つめ)たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場(ぼくじょう)やらある野原(のはら)のように考えられてしかたなかったのです。そしてジョバンニは青い琴(こと)の星が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたき、脚(あし)が何べんも出たり引っ込(こ)んだりして、とうとう蕈(きのこ)のように長く延(の)びるのを見ました。またすぐ眼(め)の下のまちまでが、やっぱりぼんやりしたたくさんの星の集(あつ)まりか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。

     六 銀河(ぎんが)ステーション

 そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪(てんきりん)の柱(はしら)がいつかぼんやりした三角標(さんかくひょう)の形になって、しばらく蛍(ほたる)のように、ぺかぺか消(き)えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃(こ)い鋼青(はがね)のそらの野原にたちました。いま新しく灼(や)いたばかりの青い鋼(はがね)の板(いた)のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
 するとどこかで、ふしぎな声が、銀河(ぎんが)ステーション、銀河(ぎんが)ステーションと言(い)う声がしたと思うと、いきなり眼(め)の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万(おくまん)の蛍烏賊(ほたるいか)の火を一ぺんに化石(かせき)させて、そらじゅうに沈(しず)めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫(と)れないふりをして、かくしておいた金剛石(こんごうせき)を、誰(だれ)かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、眼(め)の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼(め)をこすってしまいました。
 気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗(の)っている小さな列車(れっしゃ)が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道(けいべんてつどう)の、小さな黄いろの電燈(でんとう)のならんだ車室に、窓(まど)から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天鵞絨(ビロード)を張(は)った腰掛(こしか)けが、まるでがらあきで、向(む)こうの鼠(ねずみ)いろのワニスを塗(ぬ)った壁(かべ)には、真鍮(しんちゅう)の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
 すぐ前の席(せき)に、ぬれたようにまっ黒な上着(うわぎ)を着た、せいの高い子供(こども)が、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。そしてそのこどもの肩(かた)のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰(だれ)だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓(まど)から顔を出そうとしたとき、にわかにその子供(こども)が頭を引っ込(こ)めて、こっちを見ました。
 それはカムパネルラだったのです。ジョバンニが、
 カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と言(い)おうと思ったとき、カムパネルラが、
「みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅(おく)れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追(お)いつかなかった」と言(い)いました。
 ジョバンニは、
(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出かけたのだ)とおもいながら、
「どこかで待(ま)っていようか」と言(い)いました。するとカムパネルラは、
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎(むか)いにきたんだ」
 カムパネルラは、なぜかそう言(い)いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦(くる)しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘(わす)れたものがあるというような、おかしな気持(きも)ちがしてだまってしまいました。
 ところがカムパネルラは、窓(まど)から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直(なお)って、勢(いきお)いよく言(い)いました。
「ああしまった。ぼく、水筒(すいとう)を忘(わす)れてきた。スケッチ帳(ちょう)も忘(わす)れてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の停車場(ていしゃば)だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛(と)んでいたって、ぼくはきっと見える」
 そして、カムパネルラは、まるい板(いた)のようになった地図(ちず)を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左の岸(きし)に沿(そ)って一条(じょう)の鉄道線路(てつどうせんろ)が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派(りっぱ)なことは、夜のようにまっ黒な盤(ばん)の上に、一々の停車場(ていしゃば)や三角標(さんかくひょう)、泉水(せんすい)や森が、青や橙(だいだい)や緑(みどり)や、うつくしい光でちりばめられてありました。
 ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この地図(ちず)はどこで買ったの。黒曜石(こくようせき)でできてるねえ」
 ジョバンニが言(い)いました。
「銀河(ぎんが)ステーションで、もらったんだ。君(きみ)もらわなかったの」
「ああ、ぼく銀河(ぎんが)ステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう」
 ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場(ていしゃば)のしるしの、すぐ北を指(さ)しました。
「そうだ。おや、あの河原(かわら)は月夜だろうか」そっちを見ますと、青白く光る銀河(ぎんが)の岸(きし)に、銀(ぎん)いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波(なみ)を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河(ぎんが)だから光るんだよ」ジョバンニは言(い)いながら、まるではね上がりたいくらい愉快(ゆかい)になって、足をこつこつ鳴らし、窓(まど)から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛(くちぶえ)を吹(ふ)きながら一生けん命(めい)延(の)びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素(すいそ)よりもすきとおって、ときどき眼(め)のかげんか、ちらちら紫(むらさき)いろのこまかな波(なみ)をたてたり、虹(にじ)のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流(なが)れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光(りんこう)の三角標(さんかくひょう)が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙(だいだい)や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三角形(さんかくけい)、あるいは四辺形(しへんけい)、あるいは電(いなずま)や鎖(くさり)の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振(ふ)りました。するとほんとうに、そのきれいな野原(のはら)じゅうの青や橙(だいだい)や、いろいろかがやく三角標(さんかくひょう)も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫(ふる)えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」ジョバンニは言(い)いました。
「それに、この汽車石炭(せきたん)をたいていないねえ」ジョバンニが左手をつき出して窓(まど)から前の方を見ながら言(い)いました。
「アルコールか電気だろう」カムパネルラが言(い)いました。
 するとちょうど、それに返事(へんじ)するように、どこか遠くの遠くのもやのもやの中から、セロのようなごうごうした声がきこえて来ました。
「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ」
「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた」
「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた」
 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点(さんかくてん)の青じろい微光(びこう)の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が咲(さ)いている。もうすっかり秋だねえ」カムパネルラが、窓(まど)の外を指(ゆび)さして言(い)いました。
 線路(せんろ)のへりになったみじかい芝草(しばくさ)の中に、月長石(げっちょうせき)ででも刻(きざ)まれたような、すばらしい紫(むらさき)のりんどうの花が咲(さ)いていました。
「ぼく飛(と)びおりて、あいつをとって、また飛(と)び乗(の)ってみせようか」ジョバンニは胸(むね)をおどらせて言(い)いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから」
 カムパネルラが、そう言(い)ってしまうかしまわないうち、次(つぎ)のりんどうの花が、いっぱいに光って過(す)ぎて行きました。
 と思ったら、もう次(つぎ)から次(つぎ)から、たくさんのきいろな底(そこ)をもったりんどうの花のコップが、湧(わ)くように、雨のように、眼(め)の前を通り、三角標(さんかくひょう)の列(れつ)は、けむるように燃(も)えるように、いよいよ光って立ったのです。

     七 北十字(きたじゅうじ)とプリオシン海岸(かいがん)

「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」
 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで言(い)いました。
 ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙(だいだい)いろの三角標(さんかくひょう)のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸(さいわい)なんだろう」カムパネルラは、なんだか、泣(な)きだしたいのを、一生けん命(めい)こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」ジョバンニはびっくりして叫(さけ)びました。
「ぼくわからない。けれども、誰(だれ)だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」カムパネルラは、なにかほんとうに決心(けっしん)しているように見えました。
 にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石(こんごうせき)や草の露(つゆ)やあらゆる立派(りっぱ)さをあつめたような、きらびやかな銀河(ぎんが)の河床(かわどこ)の上を、水は声もなくかたちもなく流(なが)れ、その流(なが)れのまん中に、ぼうっと青白く後光(ごこう)の射(さ)した一つの島(しま)が見えるのでした。その島(しま)の平(たい)らないただきに、立派(りっぱ)な眼(め)もさめるような、白い十字架(じゅうじか)がたって、それはもう、凍(こお)った北極(ほっきょく)の雲で鋳(い)たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久(えいきゅう)に立っているのでした。
「ハレルヤ、ハレルヤ」前からもうしろからも声が起(お)こりました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人(たびびと)たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂(た)れ、黒いバイブルを胸(むね)にあてたり、水晶(すいしょう)の数珠(じゅず)をかけたり、どの人もつつましく指(ゆび)を組み合わせて、そっちに祈(いの)っているのでした。思わず二人(ふたり)ともまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬(ほお)は、まるで熟(じゅく)した苹果(りんご)のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
 そして島(しま)と十字架(じゅうじか)とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
 向(む)こう岸(ぎし)も、青じろくぼうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀(ぎん)いろがけむって、息(いき)でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火(きつねび)のように思われました。
 それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列(れつ)でさえぎられ、白鳥の島(しま)は、二度(ど)ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵(え)のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗(の)っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリックふうの尼(あま)さんが、まんまるな緑(みどり)の瞳(ひとみ)を、じっとまっすぐに落(お)として、まだ何かことばか声かが、そっちから伝(つた)わって来るのを、虔(つつし)んで聞いているというように見えました。旅人(たびびと)たちはしずかに席(せき)に戻(もど)り、二人(ふたり)も胸(むね)いっぱいのかなしみに似(に)た新しい気持(きも)ちを、何気なくちがった語(ことば)で、そっと談(はな)し合ったのです。
「もうじき白鳥の停車場(ていしゃば)だねえ」
「ああ、十一時かっきりには着(つ)くんだよ」
 早くも、シグナルの緑(みどり)の燈と、ぼんやり白い柱(はしら)とが、ちらっと窓(まど)のそとを過(す)ぎ、それから硫黄(いおう)のほのおのようなくらいぼんやりした転(てん)てつ機(き)の前のあかりが窓(まど)の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、まもなくプラットホームの一列(れつ)の電燈(でんとう)が、うつくしく規則(きそく)正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人はちょうど白鳥停車場(ていしゃじょう)の、大きな時計(とけい)の前に来てとまりました。
 さわやかな秋の時計(とけい)の盤面(ばんめん)には、青く灼(や)かれたはがねの二本の針(はり)が、くっきり十一時を指(さ)しました。みんなは、一ぺんにおりて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分停車(ていしゃ)〕と時計(とけい)の下に書いてありました。
「ぼくたちも降(お)りて見ようか」ジョバンニが言(い)いました。
「降(お)りよう」二人(ふたり)は一度(ど)にはねあがってドアを飛(と)び出して改札口(かいさつぐち)へかけて行きました。ところが改札口(かいさつぐち)には、明るい紫(むらさき)がかった電燈(でんとう)が、一つ点(つ)いているばかり、誰(だれ)もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅長(えきちょう)や赤帽(あかぼう)らしい人の、影(かげ)もなかったのです。
 二人(ふたり)は、停車場(ていしゃば)の前の、水晶細工(すいしょうざいく)のように見える銀杏(いちょう)の木に囲(かこ)まれた、小さな広場に出ました。
 そこから幅(はば)の広いみちが、まっすぐに銀河(ぎんが)の青光(あおびかり)の中へ通っていました。
 さきに降(お)りた人たちは、もうどこへ行ったか一人(ひとり)も見えませんでした。二人(ふたり)がその白い道を、肩(かた)をならべて行きますと、二人(ふたり)の影(かげ)は、ちょうど四方に窓(まど)のある室(へや)の中の、二本の柱(はしら)の影(かげ)のように、また二つの車輪(しゃりん)の輻(や)のように幾本(いくほん)も幾本(いくほん)も四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな河原(かわら)に来ました。
 カムパネルラは、そのきれいな砂(すな)を一つまみ、掌(てのひら)にひろげ、指(ゆび)できしきしさせながら、夢(ゆめ)のように言(い)っているのでした。
「この砂(すな)はみんな水晶(すいしょう)だ。中で小さな火が燃(も)えている」
「そうだ」どこでぼくは、そんなことを習(なら)ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
 河原(かわら)の礫(こいし)は、みんなすきとおって、たしかに水晶(すいしょう)や黄玉(トパーズ)や、またくしゃくしゃの皺曲(しゅうきょく)をあらわしたのや、また稜(かど)から霧(きり)のような青白い光を出す鋼玉(コランダム)やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河(ぎんが)の水は、水素(すいそ)よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流(なが)れていたことは、二人(ふたり)の手首(てくび)の、水にひたったとこが、少し水銀(すいぎん)いろに浮(う)いたように見え、その手首(てくび)にぶっつかってできた波(なみ)は、うつくしい燐光(りんこう)をあげて、ちらちらと燃(も)えるように見えたのでもわかりました。
 川上の方を見ると、すすきのいっぱいにはえている崖(がけ)の下に、白い岩(いわ)が、まるで運動場(うんどうじょう)のように平(たい)らに川に沿(そ)って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何か掘(ほ)り出すか埋(う)めるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの道具(どうぐ)が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう」二人(ふたり)は、まるで一度(ど)に叫(さけ)んで、そっちの方へ走りました。その白い岩(いわ)になったところの入口に、〔プリオシン海岸(かいがん)〕という、瀬戸物(せともの)のつるつるした標札(ひょうさつ)が立って、向こうの渚(なぎさ)には、ところどころ、細(ほそ)い鉄(てつ)の欄干(らんかん)も植(う)えられ、木製(もくせい)のきれいなベンチも置(お)いてありました。
「おや、変(へん)なものがあるよ」カムパネルラが、不思議(ふしぎ)そうに立ちどまって、岩(いわ)から黒い細長(ほそなが)いさきのとがったくるみの実(み)のようなものをひろいました。
「くるみの実(み)だよ。そら、たくさんある。流(なが)れて来たんじゃない。岩(いわ)の中にはいってるんだ」
「大きいね、このくるみ、倍(ばい)あるね。こいつはすこしもいたんでない」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘(ほ)ってるから」
 二人(ふたり)は、ぎざぎざの黒いくるみの実(み)を持(も)ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚(なぎさ)には、波(なみ)がやさしい稲妻(いなずま)のように燃(も)えて寄(よ)せ、右手の崖(がけ)には、いちめん銀(ぎん)や貝殻(かいがら)でこさえたようなすすきの穂(ほ)がゆれたのです。
 だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡(きんがんきょう)をかけ、長靴(ながぐつ)をはいた学者(がくしゃ)らしい人が、手帳(てちょう)に何かせわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助手(じょしゅ)らしい人たちに夢中(むちゅう)でいろいろ指図(さしず)をしていました。
「そこのその突起(とっき)をこわさないように、スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くから掘(ほ)って。いけない、いけない、なぜそんな乱暴(らんぼう)をするんだ」
 見ると、その白い柔(やわ)らかな岩(いわ)の中から、大きな大きな青じろい獣(けもの)の骨(ほね)が、横に倒(たお)れてつぶれたというふうになって、半分以上(はんぶんいじょう)掘(ほ)り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄(ひづめ)の二つある足跡(あしあと)のついた岩(いわ)が、四角(しかく)に十ばかり、きれいに切り取られて番号(ばんごう)がつけられてありました。
「君たちは参観(さんかん)かね」その大学士(だいがくし)らしい人が、眼鏡(めがね)をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十万年(まんねん)ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万年前(まんねんまえ)、第三紀(だいさんき)のあとのころは海岸(かいがん)でね、この下からは貝(かい)がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水(しおみず)が寄(よ)せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまえ。ていねいに鑿(のみ)でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛(うし)の先祖(せんぞ)で、昔(むかし)はたくさんいたのさ」
「標本(ひょうほん)にするんですか」
「いや、証明(しょうめい)するに要(い)るんだ。ぼくらからみると、ここは厚(あつ)い立派(りっぱ)な地層(ちそう)で、百二十万年(まんねん)ぐらい前にできたという証拠(しょうこ)もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層(ちそう)に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に肋骨(ろっこつ)が埋(う)もれてるはずじゃないか」
 大学士(だいがくし)はあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう」カムパネルラが地図と腕時計(うでどけい)とをくらべながら言(い)いました。
「ああ、ではわたくしどもは失礼(しつれい)いたします」ジョバンニは、ていねいに大学士(だいがくし)におじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら」大学士(だいがくし)は、また忙(いそが)しそうに、あちこち歩きまわって監督(かんとく)をはじめました。
 二人(ふたり)は、その白い岩(いわ)の上を、一生けん命(めい)汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息(いき)も切れず膝(ひざ)もあつくなりませんでした。
 こんなにしてかけるなら、もう世界(せかい)じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
 そして二人(ふたり)は、前のあの河原(かわら)を通り、改札口(かいさつぐち)の電燈(でんとう)がだんだん大きくなって、まもなく二人(ふたり)は、もとの車室の席(せき)にすわっていま行って来た方を、窓(まど)から見ていました。

     八 鳥を捕(と)る人

「ここへかけてもようございますか」
 がさがさした、けれども親切そうな、大人(おとな)の声が、二人(ふたり)のうしろで聞こえました。
 それは、茶いろの少しぼろぼろの外套(がいとう)を着(き)て、白い巾(きれ)でつつんだ荷物(にもつ)を、二つに分けて肩(かた)に掛(か)けた、赤髯(あかひげ)のせなかのかがんだ人でした。
「ええ、いいんです」ジョバンニは、少し肩(かた)をすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微笑(わら)いながら荷物(にもつ)をゆっくり網棚(あみだな)にのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面(しょうめん)の時計(とけい)を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子(ガラス)の笛(ふえ)のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井(てんじょう)を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫(かぶとむし)がとまって、その影(かげ)が大きく天井(てんじょう)にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる窓(まど)の外から光りました。
 赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊(き)きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」
「どこまでも行くんです」ジョバンニは、少しきまり悪(わる)そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」
「あなたはどこへ行くんです」カムパネルラが、いきなり、喧嘩(けんか)のようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、向(む)こうの席(せき)にいた、とがった帽子(ぼうし)をかぶり、大きな鍵(かぎ)を腰(こし)に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑(わら)いだしてしまいました。ところがその人は別(べつ)におこったでもなく、頬(ほお)をぴくぴくしながら返事(へんじ)をしました。
「わっしはすぐそこで降(お)ります。わっしは、鳥をつかまえる商売(しょうばい)でね」
「何鳥ですか」
「鶴(つる)や雁(がん)です。さぎも白鳥もです」
「鶴(つる)はたくさんいますか」
「いますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか」
「いいえ」
「いまでも聞こえるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴(き)いてごらんなさい」
 二人(ふたり)は眼(め)を挙(あ)げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧(わ)くような音が聞こえて来るのでした。
「鶴(つる)、どうしてとるんですか」
「鶴(つる)ですか、それとも鷺(さぎ)ですか」
「鷺(さぎ)です」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、雑作(ぞうさ)ない。さぎというものは、みんな天の川の砂(すな)が凝(かたま)って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終(しじゅう)川へ帰りますからね、川原で待(ま)っていて、鷺(さぎ)がみんな、脚(あし)をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押(おさ)えちまうんです。するともう鷺(さぎ)は、かたまって安心(あんしん)して死(し)んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押(お)し葉(ば)にするだけです」
「鷺(さぎ)を押(お)し葉(ば)にするんですか。標本(ひょうほん)ですか」
「標本(ひょうほん)じゃありません。みんなたべるじゃありませんか」
「おかしいねえ」カムパネルラが首(くび)をかしげました。
「おかしいも不審(ふしん)もありませんや。そら」その男は立って、網棚(あみだな)から包(つつ)みをおろして、手ばやくくるくると解(と)きました。
「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです」
「ほんとうに鷺(さぎ)だねえ」二人(ふたり)は思わず叫(さけ)びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架(じゅうじか)のように光る鷺(さぎ)のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚(あし)をちぢめて、浮彫(うきぼ)りのようにならんでいたのです。
「眼(め)をつぶってるね」カムパネルラは、指(ゆび)でそっと、鷺(さぎ)の三日月(みかづき)がたの白いつぶった眼(め)にさわりました。頭の上の槍(やり)のような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう」鳥捕(とりと)りは風呂敷(ふろしき)を重(かさ)ねて、またくるくると包(つつ)んで紐(ひも)でくくりました。誰(だれ)がいったいここらで鷺(さぎ)なんぞたべるだろうとジョバンニは思いながら訊(き)きました。
「鷺(さぎ)はおいしいんですか」
「ええ、毎日注文(ちゅうもん)があります。しかし雁(がん)の方が、もっと売れます。雁(がん)の方がずっと柄(がら)がいいし、第一(だいいち)手数(てすう)がありませんからな。そら」鳥捕(とりと)りは、また別(べつ)の方の包(つつ)みを解(と)きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁(がん)が、ちょうどさっきの鷺(さぎ)のように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐたべられます。どうです、少しおあがりなさい」鳥捕(とりと)りは、黄いろの雁(がん)の足を、軽(かる)くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい」鳥捕(とりと)りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっとたべてみて、
(なんだ、やっぱりこいつはお菓子(かし)だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁(がん)が飛(と)んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋(かしや)だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子(かし)をたべているのは、たいへんきのどくだ)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
「も少しおあがりなさい」鳥捕(とりと)りがまた包(つつ)みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう」といって遠慮(えんりょ)しましたら、鳥捕(とりと)りは、こんどは向(む)こうの席(せき)の、鍵(かぎ)をもった人に出しました。
「いや、商売(しょうばい)ものをもらっちゃすみませんな」その人は、帽子(ぼうし)をとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の渡(わた)り鳥(どり)の景気(けいき)は」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日(おととい)の第二限(だいにげん)ころなんか、なぜ燈台(とうだい)の灯(ひ)を、規則以外(きそくいがい)に間(一時空白)させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障(こしょう)が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、渡(わた)り鳥(どり)どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですからしかたありませんや、わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情(くじょう)は、おれのとこへ持(も)って来たってしかたがねえや、ばさばさのマントを着(き)て脚(あし)と口との途方(とほう)もなく細(ほそ)い大将(たいしょう)へやれって、こう言(い)ってやりましたがね、はっは」
 すすきがなくなったために、向(む)こうの野原から、ぱっとあかりが射(さ)して来ました。
「鷺(さぎ)の方はなぜ手数(てすう)なんですか」カムパネルラは、さっきから、訊(き)こうと思っていたのです。
「それはね、鷺(さぎ)をたべるには」鳥捕(とりと)りは、こっちに向(む)き直(なお)りました。「天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、砂(すな)に三、四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀(すいぎん)がみんな蒸発(じょうはつ)して、たべられるようになるよ」
「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子(かし)でしょう」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋(たず)ねました。鳥捕(とりと)りは、何かたいへんあわてたふうで、
「そうそう、ここで降(お)りなけぁ」と言(い)いながら、立って荷物(にもつ)をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう」二人(ふたり)は顔を見合わせましたら、燈台守(とうだいもり)は、にやにや笑(わら)って、少し伸(の)びあがるようにしながら、二人の横(よこ)の窓(まど)の外をのぞきました。二人(ふたり)もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕(とりと)りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光(りんこう)を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手(りょうて)をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体(きたい)だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな」と言(い)ったとたん、がらんとした桔梗(ききょう)いろの空から、さっき見たような鷺(さぎ)が、まるで雪の降(ふ)るように、ぎゃあぎゃあ叫(さけ)びながら、いっぱいに舞(ま)いおりて来ました。するとあの鳥捕(とりと)りは、すっかり注文(ちゅうもん)通りだというようにほくほくして、両足(りょうあし)をかっきり六十度(ど)に開いて立って、鷺(さぎ)のちぢめて降(お)りて来る黒い脚(あし)を両手(りょうて)で片(かた)っぱしから押(おさ)えて、布(ぬの)の袋(ふくろ)の中に入れるのでした。すると鷺(さぎ)は、蛍(ほたる)のように、袋(ふくろ)の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消(き)えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼(め)をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事(ぶじ)に天の川の砂(すな)の上に降(お)りるものの方が多(おお)かったのです。それは見ていると、足が砂(すな)へつくや否(いな)や、まるで雪(ゆき)の解(と)けるように、縮(ちぢ)まってひらべったくなって、まもなく溶鉱炉(ようこうろ)から出た銅(どう)の汁(しる)のように、砂(すな)や砂利(じゃり)の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂(すな)についているのでしたが、それも二、三度(ど)明るくなったり暗(くら)くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
 鳥捕(とりと)りは、二十疋(ぴき)ばかり、袋(ふくろ)に入れてしまうと、急(きゅう)に両手(りょうて)をあげて、兵隊(へいたい)が鉄砲弾(てっぽうだま)にあたって、死(し)ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕(とりと)りの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣(とな)りにしました。見ると鳥捕(とりと)りは、もうそこでとって来た鷺(さぎ)を、きちんとそろえて、一つずつ重(かさ)ね直(なお)しているのでした。
「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問(と)いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」
 ジョバンニは、すぐ返事(へんじ)をしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね」鳥捕(とりと)りは、わかったというように雑作(ぞうさ)なくうなずきました。

     九 ジョバンニの切符(きっぷ)

「もうここらは白鳥区(く)のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所(かんそくじょ)です」
 窓(まど)の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物(たてもの)が四棟(むね)ばかり立って、その一つの平屋根(ひらやね)の上に、眼(め)もさめるような、青宝玉(サファイア)と黄玉(トパーズ)の大きな二つのすきとおった球(たま)が、輪(わ)になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向(む)こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進(すす)んで来、まもなく二つのはじは、重(かさ)なり合って、きれいな緑(みどり)いろの両面凸(りょうめんとつ)レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正面(しょうめん)に来ましたので、緑(みどり)の中心と黄いろな明るい環(わ)とができました。それがまただんだん横(よこ)へ外(そ)れて、前のレンズの形を逆(ぎゃく)にくり返(かえ)し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向(む)こうへめぐり、黄いろのはこっちへ進(すす)み、またちょうどさっきのようなふうになりました。銀河(ぎんが)の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所(そっこうじょ)が、睡(ねむ)っているように、しずかによこたわったのです。
「あれは、水の速(はや)さをはかる器械(きかい)です。水も……」鳥捕(とりと)りが言(い)いかけたとき、
「切符(きっぷ)を拝見(はいけん)いたします」三人の席(せき)の横(よこ)に、赤い帽子(ぼうし)をかぶったせいの高い車掌(しゃしょう)が、いつかまっすぐに立っていて言(い)いました。鳥捕(とりと)りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌(しゃしょう)はちょっと見て、すぐ眼(め)をそらして(あなた方のは?)というように、指(ゆび)をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ」ジョバンニは困(こま)って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さな鼠(ねずみ)いろの切符(きっぷ)を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着(うわぎ)のポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなものはいっていたろうかと思って、急(いそ)いで出してみましたら、それは四つに折(お)ったはがきぐらいの大さ[#「大さ」はママ]の緑(みどり)いろの紙でした。車掌(しゃしょう)が手を出しているもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思って渡(わた)しましたら、車掌(しゃしょう)はまっすぐに立ち直(なお)ってていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら上着(うわぎ)のぼたんやなんかしきりに直(なお)したりしていましたし燈台看守(とうだいかんしゅ)も下からそれを熱心(ねっしん)にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書(しょうめいしょ)か何かだったと考えて少し胸(むね)が熱(あつ)くなるような気がしました。
「これは三次空間(じくうかん)の方からお持(も)ちになったのですか」車掌(しゃしょう)がたずねました。
「なんだかわかりません」もう大丈夫(だいじょうぶ)だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑(わら)いました。
「よろしゅうございます。南十字(サウザンクロス)へ着(つ)きますのは、次(つぎ)の第(だい)三時ころになります」車掌(しゃしょう)は紙をジョバンニに渡(わた)して向(む)こうへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待(ま)ちかねたというように急(いそ)いでのぞきこみました。ジョバンニも全(まった)く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草(からくさ)のような模様(もよう)の中に、おかしな十ばかりの字を印刷(いんさつ)したもので、だまって見ているとなんだかその中へ吸(す)い込(こ)まれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕(とりと)りが横からちらっとそれを見てあわてたように言(い)いました。
「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符(きっぷ)だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券(つうこうけん)です。こいつをお持(も)ちになれぁ、なるほど、こんな不完全(ふかんぜん)な幻想第四次(げんそうだいよじ)の銀河鉄道(ぎんがてつどう)なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」
「なんだかわかりません」ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまたたたんでかくしに入れました。そしてきまりが悪(わる)いのでカムパネルラと二人(ふたり)、また窓(まど)の外をながめていましたが、その鳥捕(とりと)りの時々たいしたもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
「もうじき鷲(わし)の停車場(ていしゃじょう)だよ」カムパネルラが向(む)こう岸(ぎし)の、三つならんだ小さな青じろい三角標(さんかくひょう)と、地図とを見くらべて言(い)いました。
 ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかにとなりの鳥捕(とりと)りがきのどくでたまらなくなりました。鷺(さぎ)をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包(つつ)んだり、ひとの切符(きっぷ)をびっくりしたように横目(よこめ)で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕(とりと)りのために、ジョバンニの持(も)っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸(さいわい)になるなら、自分があの光る天の川の河原(かわら)に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙(だま)っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊(き)こうとして、それではあんまり出し抜(ぬ)けだから、どうしようかと考えてふり返(かえ)って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕(とりと)りがいませんでした。網棚(あみだな)の上には白い荷物(にもつ)も見えなかったのです。また窓(まど)の外で足をふんばってそらを見上げて鷺(さぎ)を捕(と)るしたくをしているのかと思って、急(いそ)いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子(すなご)と白いすすきの波(なみ)ばかり、あの鳥捕(とりと)りの広いせなかもとがった帽子(ぼうし)も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラもぼんやりそう言(い)っていました。
「どこへ行ったろう。いったいどこでまたあうのだろう。僕(ぼく)はどうしても少しあの人に物(もの)を言(い)わなかったろう」
「ああ、僕(ぼく)もそう思っているよ」
「僕(ぼく)はあの人が邪魔(じゃま)なような気がしたんだ。だから僕(ぼく)はたいへんつらい」ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで言(い)ったこともないと思いました。
「なんだか苹果(りんご)のにおいがする。僕(ぼく)いま苹果(りんご)のことを考えたためだろうか」カムパネルラが不思議(ふしぎ)そうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果(りんご)のにおいだよ。それから野茨(のいばら)のにおいもする」
 ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓(まど)からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから野茨(のいばら)の花のにおいのするはずはないとジョバンニは思いました。
 そしたらにわかにそこに、つやつやした黒い髪(かみ)の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえてはだしで立っていました。隣(とな)りには黒い洋服(ようふく)をきちんと着(き)たせいの高い青年がいっぱいに風に吹(ふ)かれているけやきの木のような姿勢(しせい)で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」青年のうしろに、もひとり、十二ばかりの眼(め)の茶いろな可愛(かわい)らしい女の子が、黒い外套(がいとう)を着(き)て青年の腕(うで)にすがって不思議(ふしぎ)そうに窓(まど)の外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州(しゅう)だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神(かみ)さまに召(め)されているのです」黒服(くろふく)の青年はよろこびにかがやいてその女の子に言(い)いました。けれどもなぜかまた額(ひたい)に深(ふか)く皺(しわ)を刻(きざ)んで、それにたいへんつかれているらしく、無理(むり)に笑(わら)いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席(せき)を指(ゆび)さしました。女の子はすなおにそこへすわって、きちんと両手(りょうて)を組み合わせました。

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