ポラーノの広場
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著者名:宮沢賢治 

(ああ、あのときなぜわたくしはそのままうちへ帰ってねむったろう、なぜそんなわたくしが立っても居てもいられないはずの時刻に、わけもわからない眠りかたなどしていたろう。それにあのやさしいうつくしいロザーロがいま隣りの室でおどされたり鎌(かま)をかけられたりしているのだ。)
 わたくしはたまらなくなってその室のなかをぐるぐる何べんもあるきました。窓の外の桜の木の向うをいろいろの人が行ったり来たりしました。わたくしはその一人一人がデストゥパーゴかファゼーロのような気がしてたまりませんでした。鳥打帽子を深くかぶった少年が通るとファゼーロが遁げてここをそっと通るのかと思い、肥った人を見るとデストゥパーゴがわざとそんな形にばけて、様子をさぐっているのだと思いました。突然わたくしは頭がしいんとなってしまいました。隣りの室でかすかなすすり泣きの声がして、それからそれは何とかだっと叫びながらおどかすように足をどんとふみつけているのです。わたくしはあぶなく扉をあけて飛び込もうとしました。するとまたしばらくしずかになっていましたが間もなく扉のとってが力なくがちっとまわって、ロザーロが眼を大きくあいてよろめくようにでてきました。
 わたくしは何といっていいかわからなくてどぎまぎしてしまいました。するとロザーロがだまってしずかにおじぎをして私の前を通り抜けて外へ出て行きました。気がついて見るとロザーロのあとからさっきの警部か巡査からしい人が扉から顔を出して出て行くのを見ていたのです。わたくしがそっちを見ますと、その顔はひっこんで扉はしまってしまいました。中ではこんどは山猫博士の馬車別当が何か訊かれているようすで、たびたび、何か高声でどなりつけるたびに馬車別当のおろおろした声がきこえていました。わたくしはその間にすっかり考えをまとめようと思いましたが、何もかもごちゃごちゃになってどうしてもできませんでした。とにかくすっかり打ち明けて係りへ話すのがいちばんだと考えて、もうじっとすわって落ち着いて居りました。すると間もなくさっきの扉が、がじゃっとあいて馬車別当がまっ青になってよろよろしながら出てきました。
「第十八等官、レオーノ・キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云いました。
「そうです。」
「では、こっちへ。」
 わたくしははいって行きました。そこには、も一人正面の卓に書類を載せて鬚(ひげ)の立派な一人の警部らしい人が、たったいまあくびをしたところだというふうに目をぱちぱちしながら、こっちを見ていました。
「そこへお掛けなさい。」
 わたくしは警部の前に会釈して坐りました。
「君がレオーノ・キュースト君か。」警部は云いました。
「そうです。」
「職業、官吏、位階十八等官、年齢、本籍、現住、この通りかね。」警部はわたしの名やいろいろ書いた書類を示しました。
「そうです。」
「では訊(たず)ねるが、君はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこへかくしたか。」
「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。
「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒くさそうに云いました。
「君はファゼーロをどこかへかくしているだろう。」
「いいえ、わたくしは一昨夜競馬場の西で別れたきりです。」
「偽(うそ)を云うとそれも罪に問うぞ。」
「いいえ。そのときは二十日の月も出ていましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」
「そんなことが証拠(しょうこ)になるか。そんなことまでおれたちは書いていられんのだ。」
「偽だとお考えになるならどこなりとお探しくださればわかります。」
「さがすさがさんはこっちの考えだ。お前がかくしたろう。」
「知りません。」
「起訴するぞ。」
「どうでも。」二人は顔を見合せました。
「では訊ねるが君はどういうことでファゼーロと知り合いになったか。」
「ファゼーロがわたくしの遁げた山羊をつかまえてくれましたので。」
「うん。それはいつ、どこでだ。」
「五月のしまいの日曜、二十七日でしたかな。」
「うん。二十七日。どこでだ。」
「あれは何という道路ですか。教会の横から、村へ出る道路を一キロばかり行った辺です。」
「うん。おまえは二十七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会へ闖入(ちんにゅう)したなあ。」
「闖入というわけではありませんでした。明るくていろいろの音がしますので行って見たのです。」
「それからどうした。」
「それからわたくしどもが酒を呑まんと云いますとテーモが怒ったのです。」
「テーモはお前とはいつから知り合いか。」
「ファゼーロと知り合いになったときです。そのときテーモはファゼーロが仕事に行く時間をわたくしが邪魔したといって革むちをわたくしの顔の前で鳴らしました。」
「それだけか。」
「はい。」
「園遊会でそれからどういうことになったか。」
 わたくしはそこであのポラーノの広場での出来事を全部話しました。一人はそれをどんどん書きとりました。警部が云いました。
「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったか。」
「はい。」
「何か証拠を挙げられるか。」
「はい、ええ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いていたのであります。」
「それも証拠にはならん。おい、君、白っぱくれるのもいい加減にしたまえ。テーモ氏から捜索願が出ているのだ。いま君がありかを云えば内分で済むのだ。でなけぁ、きみの為にならんぜ。」
「どうも全く知らないのです。まあ、あなたがたもご商売でしょうが、わたくしの声や顔付きをよくごらんください。これでおわかりにならんのですか。」わたくしは少ししゃくにさわって一息に云いました。
 すると二人はまた顔を見合せました。ええもうなるようになれとわたくしはまた云いました。
「なぜわたくしより前にデストゥパーゴを呼び出してくださらんのです。誰が考えてもファゼーロの居ないのはデストゥパーゴのしわざです。まさか殺しはしますまいが。」
「デストゥパーゴ氏は居らん。」
 わたくしはどきっとしました。ああファゼーロは本気かあるいは間ちがって殺されたのかもしれない。警部が云いました。
「お前の申し立てはいろいろの点でテーモ氏の申し立てとちがっている。しかしわれわれはそれは当然だろうと考える。いま調書を読むから君の云ったところとちがった所がないかよくききたまえ。」一人は読みはじめました。
「ちがいありません。」私はファゼーロのことを考えながら上の空で答えました。
「ここへ署名したまえ。」
 わたくしは書類のはじへ書きました。もうどうしても心配で心配でたまらなくなったのです。
「では帰ってよろしい。明日また呼ぶから。」警部は云いました。
 わたくしはたまらなくなりました。
「ファゼーロはどうしたんです。なぜデストゥパーゴをつかまえんのです。」
「それを君が云うことはならん。」
「だってファゼーロはどうしたんです。」
「そんなに心配なら君もさがしたまえ。さあ帰り給え。」
 二人はもう疲れて早くやめたいという風でした。わたくしはもうあかりのついていた警察署を夢中で飛びだしました。すると出口の桜の幹に、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかって、かなしそうに遠いそらを見ていました。わたくしは思わずかけよりました。
「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいいでしょう。」
 ロザーロが下を見ながら云いました。
「きっと遠くでございますわ。もし生きていれば。」
「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」
「ええ。」
「デストゥパーゴはいないんですか。」
「いないんです。」
「馬車別当は?」
「見ませんでした。」
「あなたのご主人は知っていないんですか。」
「ええ。」
「捜索願をわざと出したのでしょう。」
「いいえ。警察からも人が来てしらべたのです。」
「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」
「ええ。」
「そこまでご一緒いたしましょう。」
 わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしそうで一言か二言しか返事しませんので、わたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊をつかまえた所まで来ますと、ロザーロは、
「もうじきですから。」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまいました。
 わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜日にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと別れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたり、つめくさの花にデストゥパーゴやファゼーロのあしあとがついていないかと思って見てまわったり、デストゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩も幾晩もそのまわりをあるいたりしました。
 前の二本の樺の木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。そのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんの木には、ちぎれて色のさめたモールが幾本かかかっているだけ、ミーロにさえも会いませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたので、こっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデストゥパーゴも、まだ手がかりはないが心配もなかろうというようなことばかり云うのでした。そしてわたくしも、どういうわけか、なれたのですか、つかれたのですか、ファゼーロはファゼーロで、ちゃんとどこかにいるというような気がしてきたのです。

       五、センダード市の毒蛾

 そしてだんだん暑くなってきました。役所では窓に黄いろな日覆(ひおおい)もできましたし隣りの所長の室には電気会社から寄贈になった直径七デシもある大きな扇風機も据(す)えつけられました。あまり暑い日の午後などは所長が自分で立って間の扉をあけて、
「さあ諸君、少し風にあたりたまえ。」なんて云ったものです。
 すると大扇風機から風がどうどうやって来ました。尤(もっと)も私の席はその風の通り路からすこし外れていましたから格別涼しかったわけでもありませんでしたが、それでも向うの書類やテーブルかけが、ぱたぱた云っているのを見るのは実際愉快なことでした。それでもそんな仕事のあいまに、ふっとファゼーロのことを思いだすと、胸がどかっと熱くなってもうどうしたらいいかわからなくなるのでした。とにかくその七月いっぱいに私のした仕事は、
一、北極熊剥製(はくせい)方をテラキ標本製作所に照会の件
一、ヤークシャ山頂火山弾運搬費用見積(みつもり)の件
一、植物標本褪色(たいしょく)調査の件
一、新番号札二千三百枚調製の件
 などでした。
 そして八月に入りました。その八月二日の午すぎ、わたくしが支那漢時代の石に刻んだ画の説明をうつらうつら写していましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すじを突っついて、
「所長さんが来いって。」といいました。
 わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張って云いました。
「所長さんがすぐ来いって。」
 わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子のうしろを通り、例の扉をあけて恭□しくはいって行きました。
 所長は肥った白い手首に□をもたせて扇風機にあたりながら新聞を見ていましたが、わたくしが行くとだるそうにちょっと眼をあげて、それから机の上の紙挾みから一枚の命令書をわたくしによこしました。それには、
「海岸鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」
 と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまいました。
 あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗(きれい)な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労(いろう)休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍(じゃくやく)しました。すると所長は私の顔は少しも見ないで、やっぱり新聞を見ながら、
「会計へまわって見積(みつもり)旅費を受けとるように。」と一言だけ云いました。
 わたくしは叮嚀(ていねい)に礼をして室を出ました。それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰ると、わたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。
 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし、一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬(みさき)から岬へ、岩礁(がんしょう)から岩礁へ、海藻(かいそう)を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡ろうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓(ろ)をそろえて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいいと思いました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしている娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。
 そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢(はいのう)をたくさんもってセンダードの停車場に下りたのは、ちょうど灯がやっとついた所でした。わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎える自動車へほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってその巨きな建物の間を自動車で走るとき、わたくしはまるで凱旋(がいせん)の将軍のような気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、この暑いのに窓がすっかり閉めてあるのです。室へ通されてみると仲々むし暑いので、わたくしは給仕に、
「おい、どうしたんだ。窓をあけたらいいじゃないか。」と云いました。
 すると給仕はてかてかの髪をちょっと撫でて、
「はい、誠にお気の毒でございますが、当地方には、毒蛾(どくが)がひどく発生して居りまして、夕刻からは窓をあけられませんのでございます。只今、扇風機を運んで参ります。」と云ったのでした。
 なるほど、そう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石の環をはめたような厚い繃帯をして、顔もだいぶはれていましたから、きっと、その毒蛾に噛まれたんだと、私は思いました。ところが、間もなく隣りの室で、給仕が客と何か云い争っているようでした。それが仲々長いし烈しいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまいましたので、今のうち一寸床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そして隣りの室の前を通りかかりましたら、扉が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気て頭を垂れて立っていました。向うには、髪もひげもまるで灰いろの、肥ったふくろうのようなおじいさんが、安楽椅子にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、
「給仕をやっていながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬(ほお)をふくらして給仕を叱りつけていました。
 私は、ははあ扇風機のことだなと思いながら、苦笑いをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳ないというように眼をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りに下りました。
 なるほど、毒蛾のことがわかって町をあるくと、さっき停車場からホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思われたのです。人道にはたくさんたき火のあとがありましたし、みんなは繃帯をしたり白いきれで顔を擦ったりしながら歩いていました。また並木のやなぎにいちいち石油ランプがぶらさがっていたのです。私は一軒の床屋に入りました。それは仲々大きな床屋でした。向側の鏡が、九枚も上手に継いであって、店が丁度二倍の広さに見えるようになって居り、糸杉やこめ栂(とが)の植木鉢がぞろっとならび、親方らしい隅のところで指図をしている人のほかに職人がみなで六人もいたのです。すぐ上の壁に大きながくがかかって、そこにそのうちの四人の名前が理髪アーティストとして立派にならび、二人は助手として書かれていました。
「お髪(ぐし)はこの通りの型でよろしゅうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子に坐ったとき、そのうちの一人が私にたずねました。
「ええ。」私はもう明日は帰るイーハトーヴォの野原のことを考えながらぼんやり返事をしました。
 するとその人は向うで手のあいているもう二人の人たちを指で招きながら云いました。
「どうだろう。お客さまはこの通りの型でいいと仰っしゃるが、君たちの意見はどうだい。」
 二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見ていましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を組んで答えました。
「さあ、どうかね、お客さまのお□が白くて、それに円くて、大へん温和(おとな)しくいらっしゃるんだから、やはりオールバックよりはネオグリークの方がいいじゃないかなあ。」
「うん。僕もそう思うね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストが、おれもそうおもっていたというようにうなずいて、私に云いました。
「いかがでございます、ただいまのお髪(ぐし)の型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和いたしますようでございますが。」
「そうですね、じゃそう願いましょうか。」私も丁寧に云いました。なぜならこの人たちはみんな立派な芸術家だとおもったからです。
 さて、私の頭はずんずん奇麗になり、疲れも大へん直りました。これなら、今夜よく寝(やす)んで、あしたは大学のあの地下になっている標本室で、向うの助手といちにち暮しても大丈夫だと思って、気持ちよく青い植木鉢や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏(はさみ)の影をながめて居りました。
 すると俄(にわ)かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、押えてくれたまえ。畜生、畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。
 びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳(は)せ集ったのです。その叫んだ人は、それこそはひげを片っ方だけ剃ったままで大へん瘠(や)せては居りましたが、しかしたしかにそれはデストゥパーゴです。わたくしは占(し)めたとおもいました。デストゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずに、まだ怖ろしそうに顔をゆがめていました。
「どこへさわりましたのですか。」
 さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立っていました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾をつかまえてしまいました。
「ここだよ、ここだよ。早く。」と云いながら、デストゥパーゴは左の眼の下を指しました。
 親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。
「何だいこの薬は。」デストゥパーゴが叫びました。
「アンモニア二%液。」と親方が落ち着いて答えました。
「アンモニアは効かないって、今朝の新聞にあったじゃないか。」
 デストゥパーゴは椅子から立ちあがりました。デストゥパーゴは桃いろのシャツを着ていました。
「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答えました。
「センダート日日新聞だ。」
「それは間違いです。アンモニアの効くことは県の衛生課長も声明しています。」
「あてにならん。」
「そうですか。とにかく、だいぶ腫(は)れて参ったようです。」
 親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向うへ行ってしまいました。デストゥパーゴは、ぷんぷん怒りだしました。
「失敬じゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。
 親方も、むかっ腹を立てて云いました。
「なあに毒蛾なんか、市中到る処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」
 デストゥパーゴは、渋々、又椅子に坐って、
「おい、早くあとをやってしまって呉れ。早く。」と云いました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃らせていました。
 わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向うがさきに済んだら、こっちもすぐ立とうと思ってそっと財布をさぐって、大きな銀貨を一枚もって握っていました。ところがどういうわけか、私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。
 まるで私の顔などは、三十五秒ぐらいで剃ってしまったのです。
「さあお洗いいたしましょう。」
 私はデストゥパーゴに知れないように、手で顔をかくしながら大理石の洗面器の前に立ちました。
 アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗い時々は指で顔も拭(ぬぐ)いました。
 それから、私は、自分で勝手に顔を洗いました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。
 その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまえ。それからアセチレンの仕度はいいか。」
「すっかり出来ています。」小さな白い服の子供が云いました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからじゃ遅いや。」親方が云いました。
 そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかわりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。
 それから私は、鏡に映っている海の中のような、青い室の黒く透明なガラス戸の向うで、赤い昔の印度を偲(しの)ばせるような火が燃されているのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪(まき)を入れていたのです。
「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向うで云いました。
「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。
 それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、
「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめていましたが、この時大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、それはそれは真面目な風で検べてから、
「いいようだね。」と云いました。
 私はそこで椅子から立ちました。しっかり握っていて温くなった銀貨を一枚払いました。そしてその大きなガラスの戸口を出て通りに立ちました。デストゥパーゴのあとをつけようとおもったのです。
 そこへ立って私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧(おぼろ)にまたたいたのです。どうしてもこれは遙かの南国の夏の夜の景色のように思われたのです。私は、店のなにかのぞきながら待っていました。いろいろな羽虫が本当にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向うでもこっちでも繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。
 そのうちに、私は向うの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈(がんじょう)そうな変に小さな腰の曲ったおじいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油(げいゆ)蝋燭(ろうそく)をともしたのを両手に捧げてしきりに斯(こ)う叫んで来るのでした。
「家の中の燈火を消せい。電燈を消してもほかのあかりを点けちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」
 あかりをつけている家があると、そのおじいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」
 その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇に消えました。
 この人はよほどみんなに敬われているようでした。どの人もどの人もみんな丁寧におじぎをしました。おじいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。
「家のなかのあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」
 叫びながら右左の人に挨拶を返して行くのでした。
「あの人は何ですか。」私は火にあたっているアーティストにたずねました。
「撃剣(げつけん)の先生です。」
 ところがその撃剣の先生はつかつかと歩いて来ました。
「うちの中のあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」
「ええ、先生、今晩は、ご苦労さまでございます。」
 親方がでてきて挨拶しました。
「いや今晩は、どうもひどい暑気ですね。」
「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」
「そうねえ、いや、さよなら。」撃剣の先生はまただんだん向うへ叫んで行きました。
 この声がだんだん遠くなって、どこかの町の角でもまがったらしいとき、この青い海の中のような床屋の店のなかから、とうとうデストゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてから、すたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちる蛾を見ているふりをしていましたが、すぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさわられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげていました。わたくしはあとをつけながら、なんだかかあいそうなような気もちになりました。もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道との堺の並木のしたの陰影になったところをあるいているのでした。
 どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんて偽(うそ)らしいとわたくしは思いました。とうとうデストゥパーゴは立ちどまって、しばらくあちこち見まわしてから、大通りから小さな小路にはいりました。わたくしは知らないふりしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおうかと、そのときまで考えていましたが、いまデストゥパーゴの家のなかへはいるのを見るともう前後を忘れて走り寄りました。
「デストゥパーゴさん。しばらくでしたな。」
 デストゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたが、わたくしを見ると遁げもしないでしょんぼりそこへ立ってしまいました。
「ファゼーロをたずねてまいったのですが、どうかお渡しをねがいます。」
 デストゥパーゴははげしく両手をふりました。
「それは誤解です、誤解です。あの子どもは、わたくしは知りません。」
「いったいそんならあなたは、なぜこんなところへかくれたのですか。」
 デストゥパーゴはまっ青になりました。
「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたをさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたは捕まります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わず、うそをついてしまいました。
 デストゥパーゴは、毒蛾のためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながら、ぶるぶるふるえて、まるで聞きとれないくらい早口に云いました。
「そんな筈はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」
「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」
 デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめて、しばらく考えていましたが、ようやく少しゆっくり云いました。
「わたくしは警察からは召喚(しょうかん)されただけで、それは旅行届を出して代人を出してある筈です。それに就ては署長に充分諒解を得てあります。警察では、わたくしに何の嫌疑もかけていない筈です。」
「それならなぜ旅行届を出したりして遁げたのです。」
 デストゥパーゴはやっと落ち着きました。
「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」
 デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。
「お茶をあげてくれ。」
 デストゥパーゴはすぐ右側の室へはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。
「さあ、どうぞこちらへ。」
 わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。
「わたくしがここへ人を避けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうが、あの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になって、どうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいけなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭(と)してあります。すると重役会で、ある重役がそれをあのまま醸造(じょうぞう)所にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにして、わたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六(むず)ヵしい場合でした。あすこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになって、ああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」
 わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかあいそうにもなりました。
「いや、わかりました。けれども、ああ、ファゼーロはどうしたろうなあ。」
 デストゥパーゴが云いました。
「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」
 わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。
「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」
 デストゥパーゴはしょんぼりとして云いました。
「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解してください。」
 わたくしは礼をしました。
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴが大へん早口に云いました。
「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜか、ふだんとちがった声で云いました。

       六、風と草穂

 九月一日の朝わたくしは、旅程表やいろいろな報告を持って、きまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否や、その扉をノックしてはいって行きました。
「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。
「はい、お陰で昨晩戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」
「うん、そう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。
 わたくしは礼をして室を出ました。そしてその日は一日、来ていた荷物をほどいたり机の上にたまっていた書類を整理したりしているうちに、いつか夕方になってしまいました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れていたと見えて、ちょっと椅子へかけたと思ったら、いつかもうとろとろ睡ってしまっていました。その甘ったるい夕方の夢のなかで、わたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干された、イーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕(こ)ぎまわっていました。俄かに舟がぐらぐらゆれ、何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきて、わたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶっていたのです。
 わたくしは何べんも瞳を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。
「あっ、どうしたんだ、きみは、ずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云いました。
「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったじゃないか。」
「居なかったさ。海岸へ出張していたんだ。」
「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」
「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」
「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはいっていたよ。」
「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けというのかい。」
「そうじゃないよ。」
「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまで行ったんだ。」
「ぼく、どうしても、うちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って坐っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事も手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」
「そうか。ほんとうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸(さくさん)工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」
「ぼくはねえ、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教えてくれた。薬もみんな教えてくれた。ぼくはもう革のことなら、なめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」
「そしてどうして帰ってきた。」
「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」
「きみの主人は何と云った。」
「もうどこへ行ってもいいから勝手にしろって。」
「そしてどうするの。」
「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居て、ぼくに革の仕事をしろというんだ。」
「できるかい。」
「できるさ。それにミーロはハムを拵(こしら)えれるからな。みんなでやるんだよ。」
「姉さんは?」
「姉さんも工場へ来るよ。」
「そうかねえ。」
「さあ行こう、今夜も確か来ているから。」
 わたくしは俄かに疲れを忘れて立ちあがりました。
「じゃ行こう。だけど遠いかい。」
「この前のポラーノの広場のちょっと向うさ。」
「少し遠いねえ。けれど行こう。」わたくしはすばやく旅行のときのままのなりをして、いっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。
 雲が黄ばんでけわしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなく、ただいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしているばかり、夏のつめくさの花はみんな鳶(とび)いろに枯れてしまって、その三つ葉さえ大へん小さく縮まってしまったように思われました。
 わたくしどもはどんどん走りつづけました。
「そら、あすこに一つあかしがあるよ。」
 ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂のかげに小さな小さなつめくさの花が、青白くさびしそうにぽっと咲いていました。
 俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからは、その冷たい風がからだ一杯に浸みてきました。
「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。
 ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら、
「途中のあかりはみんな消えたけれども……。」
 おしまい何と云ったか、風がざあっとやって来て声をもって行ってしまいました。
 そのとき、わたくしは二人の大きな鎌をもった百姓が、わたくしどもの前を横ぎるように通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たようでしたが、それから何かはなし合って、とまって、わたくしどもの行くのを待っているようすです。わたくしどもも急いで行きました。
「やあ、お前さん帰って来さしゃったね。まずご無事で結構でした。」一人がわたくしに挨拶しました。
 この前ポラーノの広場でデストゥパーゴに介添(かいぞえ)をしろと云われて遁げた男のようでした。
「ええ、ありがとう。ファゼーロも帰って来てすっかりもとの通りですね。」
「山猫博士が居ませんや。」
「山猫博士? デストゥパーゴ? デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった。」
「いいえ、デストゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将、センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ。」
「はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云っていたが。」
「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株が、ただみたいになったから大将遁げてしまったんです。」
「いや、何か重役の人が醸造の方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが。」
「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考えなんですよ。」
「だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか。」
「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽(たる)詰めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精もまぜたんです。その密造なら二年もやっていたんです。」
「じゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」
「そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入でさあ。ただまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使って、できるだけお互いのいるものは拵えようというんです。」
「そうかねえ。」「ファゼーロが何かするのかい。」
「ええ、まあ別に新らしい資本がかかるわけでもなし、革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやろうというんです。」
「さあもう行こう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。
「それじゃまた。」
「お休みなさい。」
 どうもデストゥパーゴの云ったのが本当か、みんなの云うのが本当か、これはどうもよくわからないと、わたくしはあるきだしながらおもいました。
「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかっているから。」
 わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるように云いました。ファゼーロはかすかにうなずいて、また走りだしました。夕暗のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。
 間もなくわたくしははるかな野原のはてに青白い五つばかりのあかりと、その上に青く傘のようになってぼんやりひかっている、この前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くと、その葉が風にもまれて次から次と湧いているよう、枝と枝とがぶっつかり合って、じぶんから青白い光を出しているようなのもわかるようになり、またその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかう、アセチレン燈をもって立っているのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある、大きな帽子、円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。
「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」
 ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもは、そのまま広場を通りこしてどんどん急ぎました。
 のはらはだんだん草があらくなって、あちこちには黒い藪も風に鳴り、たびたび柏の木か樺の木かが、まっ黒にそらに立って、ざわざわざわざわゆれているのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいていたのです。
「もうじきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。
 みちの両側はいつかすっかり林になっていたのです。そして三十分ばかりだまって歩くと、なにかぷうんと木屑のようなものの匂がして、すぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。
「誰か来ているな。」ファゼーロが叫びました。
 その大きな黒い建物の窓に、ちらちらあかりが射しているのです。
「おおい、キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。
「おおい。」中からも誰かが返事をしました。
 私どもはその建物の中へ入って行きました。そこに巨きな鉄の罐(かん)が、スフィンクスのように、こっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼(すやき)の壺が列んでいました。
「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老った人が土間で私に挨拶しました。
「これが乾燥罐(かん)だよ。」ファゼーロが云いました。
「ここで何人稼いでいたって。」私はたずねました。
「そうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。
「どうしてだめになったんだ。」
 みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云いました。
「薬のねだんが下ったためです。」
「そうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸(さくさん)をつくった方がいいと思う。あのときは会社だなんて、あんまりみんなでやったから損になったんだけれども、おれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」
「そうだ。」ファゼーロが云いました。
「ここの下へたいた煙を、となりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといいな。」
「それはサートもそう云ってるよ。とにかくこの罐へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐには売れなくたって仲間へだけは頒(わ)けられるからな。」
「さあよし、やろう。キューストはたびたび来て見てくれるだろう。」
「ああ、ぼくは畜産の方にも林産製造の方にも友だちがあるから、みんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」
「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれども、やっとのことでそれをさがすと、それは選挙につかう酒盛りだった。けれども、むかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらは、ぼくらの手でこれからそれを拵えようでないか。」
「そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざとじぶんをごまかすような、そんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」
「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があって、そこにはたくさんの学生がいる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかえるし、いい先生は覚えたいくらい教えてくれる。ぼくらには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」
 その子どもは坐りました。
 わたくしは思わずはねあがりました。
「諸君、諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生たちは仕事に勉強はしている。けれども何のために勉強しているかもう忘れている。先生の方でもなるべくたくさん教えようとして、まるで生徒の頭をつからしてぐったりさしている。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやっている。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならもうやりすぎるくらいやっている。けれどもどっちがさきに進むだろう。それは何といっても向うの方が進むだろう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかに、どうしてそれに追い付くか。さっき諸君の云う通りだ。向うは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだりうちをもったり、だんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強して行くのだ。
 諸君、酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割余計の力を得る。まっすぐに進む方向をきめて、頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものにくらべて二割以上の力を得る。そうだあの人たちが女のことを考えたり、お互の間の喧嘩のことでつかう力をみんなぼくらのほんとうの幸をもってくることにつかう。見たまえ、諸君はまもなくあれらの人たちへくらべて倍の力を得るだろう。けれどもこういうやりかたをいままでのほかの人たちに強いることはいけない。あの人たちは、ああいう風に酒を呑まなければ、淋しくて寒くて生きていられないようなときに生れたのだ。
 ぼくらはだまってやって行こう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺(とぎばなし)よりもっと立派なポラーノの広場をつくるだろう。」
 みんなはよろこんで叫びだしました。ファゼーロが云いました。
「ぼくらはねえ、冬の間に勉強しよう。みんなで同じ本を読んで置いて、五日に一晩あすこの工場に集って、かわるがわるたずねたり教えたりすることをしよう。ねえ、キュースト。あなたは何か教えてくれるだろう。」
「ああ、ぼくはねえ、前に植物の先生をしたから、植物の生理のことや、ほかにも何か三つぐらいは教えてあげるよ。それはねえ。いままでのようにごたごた要らないことまでおぼえて物知りになることはいらないんだ。ほんとうに骨組みと要るとこだけやればいいんだから。あとは仕事がひとりでそれを教えるし、だんだんじぶんで読んで行けるから。」
「ぼくらは冬にあの工場へ集ったりしていろいろこさえようじゃないか。ファゼーロが皮を染めたりするだろう、ぼくはへただけれどもチョッキはつくれるよ。ミーロはいつでも上手に帽子をこしらえているんだから、仕事にやったらもっと上手にできるだろう。」
「そうだそうだ。ぼくらは冬につくったものをお互で取り換えようねえ。ぼくは木をくってこしらえるものならすきだよ。」
「やろうやろう。夏にははたけや野原ではたらいて食べるものをとるし、冬にはお互で要るものをこしらえて取りかえれば……。」
 ミーロがにわかに風があんまり烈しく吹いてきたので眼を細くしながら坐りました。はんの木もまるで弓のようになりました。
 その風のなかでわたくしはまた立ちました。
「そうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょに、お互に尊敬し合いながら、めいめいの仕事をやって行くだろう。ぼくももうきみらの仲間にはいろうかなあ。」
「ああはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまへはいると。」
「ロザーロ姉さんをもらったらいいや。」だれかが叫びました。
 わたくしは思わずぎくっとしてしまいました。
「いや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原へ来てしまっては、わたくしにはそれはいいことでない。いや、わたくしははいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるという風にはなっていないんだ。わたくしはびんぼうな教師の子どもにうまれて、ずうっと本ばかり読んで育ってきたのだ。諸君のように雨にうたれ風に吹かれ育ってきていない。ぼくは考えはまったくきみらの考えだけれども、からだはそうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっと仕事をするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいま三倍もできるようにすることを考えていたんだ。ぼくはそれをやって行く。
(原稿約一枚分空白)
 そしてわたくしどもは立ちあがりました。
 風がどうっと吹いて来ました。みんなは思わず風にうしろ向きになってかがみ、わたくしはさっきからあんまり叫んだので風でいっぱいにむせました。はんのきも梢がまるで地面まで届くようでした。
「さあよし、やるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬(つ)けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」
「それでは酒(さあけ)を呑(のう)まずに水(みずう)を呑むぅとやるか。」その年よりが云いました。
 みんなはどっとわらいました。
「よしやろう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚からコップをだせ。」
 ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。
 みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。
 みんなは草に円くなって坐りました。ミーロはみんなにコップをわたしました。ファゼーロがバケツを重そうにさげて来て、
「さあコップを洗うんだぜ。」と云いながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。
 私はその水のつめたいのにふるえあがるように思いました。みんなはこちこち指でコップをあらいました。
「さあまた洗うんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。
 みんなは前の水を草にすててまた水をそそぎました。
「もう一ぺん洗うんだぜ。前の酒の匂がついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。
「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗っているのかい。」
 醋酸をつくっていたさっきの年老った人が、云いました。みんなはまたどっと笑いました。
「こんどは呑むんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風に烈しく波だちました。
「さあ呑むぞ。一二三。」みんなはぐっと呑みました。私も呑んで、がたっとふるえました。
「では僕がうたうぞ。ポラーノの広場のうた。
つめくさのはなの 終る夜は
ポランの広場の  秋まつり
ポランの広場の  秋のまつり
水を呑まずに   酒を呑む
そんなやつらが  威張っていると
ポランの広場の  夜が明けぬ
ポランの広場も  朝にならぬ。」
 みんなはパチパチ手を叩いてわらいました。その声もすぐ風がどうっと来て、むかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまいました。
「おれもうたうぞ。」ミーロがたちました。
「つめくさの花の  しぼむ夜は
 ポランの広場の  秋まつり
 ポランの広場の  秋のまつり
 酒くせの悪い   山猫は
 黄いろのシャツで 遠くへ遁げて
 ポランの広場は  朝になる
 ポランの広場は  夜が明ける。」
「さあぼくも歌うぞ。」
(原稿数行空白)
「さあ叫ぼう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。
「ばんざあい。」
 そして私たちはまっ黒な林を通りぬけて、さっきの柏(かしわ)の疎林(そりん)を通り古いポラーノの広場につきました。
 そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかっていました。
 わたくしどもの影はアセチレンの灯に黒く長くみだれる草の波のなかに落ちて、まるでわたくしどもは一人ずつ巨きな川を行く汽船のような気がしました。
 いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともっていました。わたくしはそれを摘(つ)んで、えりにはさみました。
「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云いながら、みんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだようでしたが、それはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるき、みんなも向うへ行って、その青い、風のなかのアセチレンの灯と黒い影がだんだん小さくなったのです。

 それからちょうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合は、はじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。
 私はそれから何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりして、それから三年の後には、とうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミールはモリーオの市やセンダードの市はもちろん、広くどこへも出るようになりました。そして私はその三年目、仕事の都合でとうとうモリーオの市を去るようになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのない、にぎやかながら荒(す)さんだトキーオの市のはげしい輪転機の音のとなりの室で、わたくしの受持ちになる五十行の欄に、なにかものめずらしい博物の出来事をうずめながら一通の郵便を受けとりました。
 それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌えるようにした楽譜でした。それには歌がついていました。

 ポラーノの広場のうた
つめくさ灯ともす 夜のひろば
むかしのラルゴを うたいかわし
雲をもどよもし  夜風にわすれて
とりいれまぢかに 年ようれぬ

まさしきねがいに いさかうとも
銀河のかなたに  ともにわらい
なべてのなやみを たきぎともしつつ
はえある世界を  ともにつくらん

 わたくしはその譜はたしかにファゼーロがつくったのだとおもいました。
 なぜなら、そこにはいつもファゼーロが野原で口笛を吹いていた、その調子がいっぱいにはいっていたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロか、それとも誰か、わたくしには見わけがつきませんでした。




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