月世界競争探検
是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

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著者名:押川春浪 

    博士捜索隊の出発

 明治四十年十月十日の東京新聞は、いずれを見てもまず読者の目を惹いたのは、一号活字で「恋の競争飛行船の月界探検」と表題(みだし)をだし、本文にも二号沢山の次のごとき、空前の記事であった。
「今より凡(およ)そ半年以前即ち今年五月一日を以て、東京大学教授篠山博士が月界探検のため自ら発明せる飛行船に乗じ助手一名とともに吾が地球を出発せる事は読者の未だ記憶せらるる処ならんが、その後博士よりは今日まで杳(よう)として一片の消息だになく、あるいは飛行船の不完全のため中途その目的を達せずして、研究のためその一命を捧げしには非ずやと伝うものさえありて、飛説紛々として生じ、氏の知己は日夜憂慮しつつあるが、ここに最も哀れなるは、氏の愛子月子(つきこ)嬢の身の上にして、幼にして母を失いたる嬢は、ただ天にも地にも博士一人を力としいたりしに計らずも今回の不幸に際し、悲歎やる方なく、日は日もすがら、夜は夜もすがら父の身を配慮(きづか)いて泣き明かせるほどにて、そのあまり花をも欺く麗容もあたら夜半の嵐に散り失せぬべきほどの容体となりぬ。その様を黙視するに忍びず、一身を賭して博士の生死を探らんその報酬として運よく探りあてたる方へは、嬢の一身を托せらるべしと嬢に申込みたる二人の青年紳士あり。その一人は秋山男爵にして、一人は博士の遠縁に当る雲井文彦という青年紳士なるが、いずれも博士が、まだ出発せざる以前より深くも嬢に心をよせ己(おの)が胸中のありたけを打ち明けしも、嬢は二人の情に絆(ほだ)されていずれとも答えかねしが、今二人のこの申込に対し、親を思うに厚き嬢は遂にその言を容れたり。されば二人はいよいよ死を決して、嬢が悲を除き、日頃の思を遂げんと、いよいよ今日正十二時を期し、日比谷公園より、各自の飛行船に乗じて出発の途につくべしと。云々(うんぬん)と……………」
と、このような小説的の記事を読んで、満都の人々は非常な好奇心と同情を持って、今日の二勇士の首途(かどで)を見んと、四方から雪崩(なだれ)のごとく押しよせて、すでにその日の九時頃には、さしもに広き公園も、これらの人々を持って埋まって終(しま)った。
 十一時頃に至って、秋山男爵と、雲井文彦は各従者一名を従え馬車を駆って、徐々(しずしず)と入り来った。
 一通り自分の飛行船の各部を詳細に検査して、見送りの人々に一礼してその中に這入って、静かに号砲の鳴るのを待ち構えている。
 観衆はいずれも息を潜めて瞻視(みつめ)ている。
 やがて時計の長短針が一つになって十二時を指すと、音楽堂の上から一発の砲声が轟(とどろ)いた。と思うと大鷲(おおわし)のごとく両翼を拡げた飛行船は徐々に上昇し初める。
「万歳※[#疑問符一つ感嘆符二つ、41-上-15]」
「秋山男爵の成功を祝す。」
「雲井文彦君万歳※[#感嘆符三つ、41-上-17]」
と一時に破れるばかりの拍手と万歳の声が起って、いずれも帽を投げ、手布(ハンケチ)を振ってその首途を祝した。
 飛行船は始めその両翼を静かに動かしながら徐々に上昇しつつあったが、次第にその速力を早めて来た、秋山男爵は東の方へ、雲井文彦は西の方へと針路を取って進んで行く。
 刻一刻地上の者は次第に小くなって遂には、一番高い山の頂さえ見えなくなって終った後は、四面ただ漠々として、いずれを見てもただ雲ばかり、両方の飛行船すら如何なる距離を以て進んでいるやら、形も姿も見えない。
 ただ雲の間を潜って、舳(へさき)に据えた羅針盤を頼りに、どこをそれという的(あて)もなく昇って行くのである。

    月界の到着

 雲井文彦の飛行船は、地球を出発してからもう一週間になる。しかしまだ月らしい影も見えない。毎日毎日見る物は相も変らず、真白な雲ばかり、従者の東助はそろそろ心配し始めて、
「若旦那様、今日でもう一週間になりますがまだ何も見えませんのは、もしや方角でも取り違えたのじゃありありましねえか。」
「そんな事はあるまい。確かにこの方角に向って行きさえすれば決して間違うはずはない。」
「それにしても秋山様はどうなさりましただか是非この勝負には若旦那様をお勝たせ申しましねえでは、私の気が済みましねえ。それに第一あの秋山様は世間の噂では、随分性質(たち)の悪いお方だそうでおざりまするで、どうぞ貴方のお身に万一の事がなければよろしいがと老爺(おやじ)はそればかりを案じておりまする。」
「そんな心配はない。先方(むこう)も爵位を持っているほどの人物だから……」
と話しあっている中に文彦は雲の間から何やら認めて、
「おや、」
と早速双眼鏡を取り出して見たが、
「月だ!……月だ!」
「え? 月でございますか。」
「そうだ。難有い。もう数時間の後には着けるぞ。」
「左様でござりますか、どうぞ篠山の大旦那様がお無事でお出で下さればよろしゅうござりますが。」
という程なく飛行船の速度は次第に増して、月へ月へと吸い付けられるようにと下降し初める。文彦は、
「ブレーキを悉皆(しっかい)かけてくれ。」
と東助に命じて、自分は注意して電圧器を加減しながら、一心に梶を取っている。
 やがて船は次第に間近くなって、二人は無事に月界の上に下り立った。
「若旦那様これが月の世界というでござりますか。」
「そうだ。」
「それじゃいよいよ篠山のお旦那様もここにいらっしゃるでがすね、もしあの秋山様に探し出されねえ中に少しも早く……」
「そうお前のように急々(せかせか)したって仕方がないじゃないか、それよりも第一にどこか適当の場所を探して一まず落着く場所を拵えなければならん。」
「成程。それも御道理(もっとも)でがす。」
と再び二人は飛行船に乗じて、今度は地と擦れ擦れに進みながら、そこここと見下すとある山の麓にこんもりとした林があってその間に一筋の小川が流れている。
「あそこがよかろう。」
とそこに飛行船を降し、その中から予(かね)て用意の天幕を取り出し、力を合せてその森のほとりに建て、飛行船を解剖して小さく畳んでその中に入れて、これで一まず仕度は整うた。

    月宮号の惨状

 雲井文彦と従者の東助は各自ライフル銃を肩にして篠山博士を捜索に出かけた。
 野を越え山を越え処々方々を探し求めたが、更に手懸りがない。五日となり一週間となってもまだ一向に方角が判らぬ。
 二人ながら落胆(がっかり)して、とある木蔭に腰を卸(おろ)して、
「どうしたんだろう。それとも途中で方角を取り違えて他の星へ行かれたのではないかしら。」
「左様でござります。場合によりましてはそんな事でもありましたかも知れましねえ。しかし折角ここまで来たものでござりますれば、今少し辛抱してお捜しなされて……」
「そりゃ勿論死ぬまでも捜す決心だ。」と奮然として答えて、
「少し寒けがして来たが何か焚火をするものはないか。」
「どれ私が拾い集めて参りましょう。」
と東助は出て行ったが、やがて一抱えの燃料(もえぐさ)を持って立ち帰って来たので、それを焚いて温りながら、一つ一つ差しくべつつ話しをしていたが、文彦は何心のう今自分の持っている木を見るとこの月世界に見なれぬ、しかも何やら彫刻したように出来ている。
 よくよく見ると飛行船の部屋の装飾で擬(まがい)ものう篠山博士の飛行船月宮号の附属品だ。
「やッ※[#感嘆符三つ、43-下-7] 手懸りがあった。」
「え?」
「これを見い。」とそれを東助の眼の前に突き出して、
「これは叔父さんの飛行船に着けてあった飾りだ。これがあるくらいなら、どうしても叔父さんはここへ来られたものには違いないが、飛行船が壊れたため地球へ帰る事が出来ないでここにそのまま止まっていらっしゃるんだ。難有い。これこそ天の与えだ。」
「じゃいよいよ大旦那様はここにお出でなされましたに違いねえ。さあそれじゃ一刻も早くお在処(ありか)を探し出して……」
「それにしても方角が判らないから、一まずこの木の落ちていた附近を検べて見たら、も少し何か判然した手懸りがあるかも知れない。」
と東助を先に立てて、先刻焚木を集めた処に行ったが、他に別段変った事もない。向うに出ようとその横の森を通ると、やや広い空地に出た。
「やッ飛行船だ※[#感嘆符三つ、44-上-4]」
「月宮号※[#感嘆符三つ、44-上-5]」
 二人は驚きの余り思わず声を発した。見よそこには無惨にも日本科学の粋を集めた篠山博士の飛行船月宮号は、微塵となって散らばっている。
 東助はこの様を見るより声を挙げて泣きながら、
「若旦那様、この様子じゃもう篠山の旦那様は、とても助かりっこはありません、この様子を申し上げたら、さぞ嬢さまは吃驚して気絶してお終いなさるでしょう。若旦那様どうしたらようがしょう。」
「しかしまだそう落胆するには及ばない。如何にも飛行船はこの通り壊れて終っているけれど、叔父さんのお姿が見えない処を見れば、どこか他に安全な処におらるるに違いない。その上助手の杉田も一伴(いっしょ)だのに、二人ながら居ないとすればきっと、この附近に逃れておらるるだろう。」
と力をつけながら、
「いよいよこれだけの確かな手懸りがあれば、もう再び叔父さんのお目に懸るのも遠くはあるまい。さあ今一奮発だ。」
と、自ら先に立って歩き出したので、東助もようよう涙を止めて続いて行った。

    洞穴内の怪音

 かれこれ三、四里も進んだ頃、もう四辺は次第に暗くなって来た。
「もう夜になっては探せないから、今日はどこかに野宿して、明朝早く探すことにしようじゃないか。」
と、適当な場所をと見廻したが、ここらは一面の禿山と原で更に露を凌ぐに足るほどな処もない。
と、突然東助が、
「若旦那様、先方(むこう)に洞穴があります。」
と叫んだので、
「どれ。」
と指先(ゆびさ)す方を見ると十町ばかり向うの山の麓に一個(ひとつ)の洞穴がある。
「あの中に一泊しよう。」
とそこをさして行って見ると、思ったよりは広い洞(あな)で奥の方も余程深いらしい。
 荷物を卸して、座りながら、革鞄(かばん)の中からビスケット[#「ビスケット」は底本では「ビスミット」]を取り出して食っていると、
 不思議※[#感嘆符三つ、45-上-5] 不思議※[#感嘆符三つ、45-上-5]
 洞穴の奥で何やら唸(うめ)くような声がする※[#感嘆符三つ、45-上-6] 二人は驚いて、互に顔を見合せていたが、東助は声を潜めて、
「あの声は何でしょう。」
「さあ。」
と、始めは空耳ではないかと、耳を澄ますと、その唸り声は尚聞える。静かな、湿っぽい、洞穴に、弱々しい、切なげなその声が幽(かす)かに聞えて、二人は思わず戦慄した。
 文彦は矢庭(やにわ)にライフル銃を取り上げて、装填しつつ立ち上り、東助をさし招いた。
 東助も同じく玉籠めして主人の後に続いた。二人はさながら猫の鼠を覗(ねら)うように、息を凝らし、足音を忍ばせてその音のする方に這い寄った。
 二、三間も行くと道は右に折れている。
 唸り声は正しくそこから洩れて来るので、余程遠いと思ったのは、その声の余りに幽かに弱々しかったからで。
 突き出た大きな岩の手前まで来ると、その声はいよいよ鮮(あきらか)になった。
 正しくそれは人の唸り声だ□
 急ぎその岩を巡ると、広い一室の真中に、一箇の蝋燭が今にも消えんばかりに点って、ほの白く四辺を照らしているその下に、何やら黒い物影が二つ横わっている。唸り声はその中の一つから起っているので、その黒い影は時々身体を動かしながら、如何にも苦しげに唸いているのだ。
 文彦は何を思ったか、銃をそこに投げすてて、その側に駆けよって、電気ランプを点した。
 四辺が一時にパッと明るくなった。仆(たお)れているのは二人の洋装の男子である。
 文彦はそのランプの光で二人の顔をすかし見たが、
「あッ」
といったきり、洋燈(ランプ)をそこに取り落して終った。この様子に東助は吃驚して駆け寄りながら、
「もし若旦那様どうなさりました。もし若旦那様。」
といわれて文彦はようように気を取り直して我に還ったが、再びその人に縋り付いて、
「叔父さん。僕です、文彦です。気を慥(たし)かに持って下さい。文彦です。文彦です。」
といいながら抱き起す。
 東助も始めてそれと心付いて、
「おお篠山の旦那様でございますか。どうぞ慥(しっか)りなさって下さい。若旦那様と東助がお迎に上りました。もし、」
と縋り付いて耳元で声をかける。
「薬□ 水を早く※[#感嘆符三つ、46-上-8]」
「はい。」
と東助がさし出す気付を口に入れて、吸筒(すいとう)の水を呑ませると、今迄息も絶え絶えに唸いていた博士は、ようように眼(まなこ)を開けた。
「叔父さん。お気が付きましたか。文彦です。僕です。」
「おお文彦か。」
「はい。」
「篠山の旦那様! お気がつかれましたか。」
「よく来てくれた。」
と一口言ったが、一時に安心するとともに、今迄張りつめた気も弛んで、再びそこに仆れようとする。
「叔父さん、どうぞ確然(しっかり)して下さい。」
とブランデーを口に注ぐと、漸く又正気に復して、
「よし。もう俺は大丈夫だ。杉田を、杉田を、」
と、指示すので、
「はい。」と文彦は側に打ち仆れている助手の杉田を抱き起して見ると、もうすでに絶命(ことき)れて身体は氷のように冷え切っている。
 それでも万一と、薬を呑ませて色々と介抱したが、もう如何とも仕方がない。
「叔父さん。杉田はもう駄目です。とても助かりません。」
「そうか。可哀相(かわいそう)な事をした。」
 博士は思わずハラハラと涙を流した。

    博士の行衛

 暫くして文彦は思い出したように、
「叔父さん。今私どもの道具はここから十五里ばかりの処に置いてあります。そこまで御連れ申したいですけれど、この御様子ではとてもお動かしすることは出来ませんから、一まず荷物を悉くこちらへ運んでここで暫く御介抱致す考です。それで私はこれからそれを取りに帰ります。その間この東助をお側に付けておきますから、二、三日このまま御辛抱なすって下さいまし。」
と耳元で囁くと、博士は静かに黙頭(うなず)いた。
 文彦は立ち上って東助に向い、
「それでは僕はこれから行って来るから、留守を確然(しっかり)預かっていてくれ。」
「よろしゅうございます。どうも御苦労様でござります。」
「じゃ後をよろしく頼むよ。」
と、再びその洞を出て元来た道に引返した。
 二日目の朝いよいよ自分の天幕(テント)に帰ってまず飛行船を組み立て天幕などを取片付けてその中に入れ、大急ぎで飛行船に乗じて、又かの洞穴に立ち返った。
 飛行船を降りるや否や、
「東助、東助。」
と呼んだが更に答がない。
「どうしたんだろう。」
と独言(つぶや)きながら奥に行くと、灯(あかり)は消えて四辺は黒白(あやめ)も分かぬ真の闇だ。
「叔父さん□ 只今帰りました。文彦です。東助。東助は居ないか。」
と大声を挙げたが依然として、答うるものは物凄い己れの声の反響のみだ。
 文彦は一時に不安の念がむらむらと起って、急ぎ懐中洋燈を点じて見ると、
「や。や。」
 誰も居ない※[#感嘆符三つ、47-下-6]
 洞穴の中は虚(から)だ※[#感嘆符三つ、47-下-7]
 ただ一人杉田の亡骸(なきがら)のみが残っている。
「失念(しま)った※[#感嘆符三つ、47-下-9]」
と叫んで暫時我を忘れて茫然としたが、たちまち気を取り直して、側に放(な)げ棄てておいた自分の鉄砲を取り上げるや否や、駆け出そうとすると、何物にか躓(つまず)いてばったり仆れた。
 はっと思って再び洋火(ランプ)を点じて見ると、
 東助だ※[#感嘆符三つ、47-下-15] 東助が銃を持ったまま俯伏せに仆れている※[#感嘆符三つ、47-下-16]
 文彦は矢庭にそれを抱き起して、
「東助※[#感嘆符三つ、47-下-18] どうしたんだ、慥(しっか)りしろッ。」
と声をかけながら、気付を呑ませるとようよう息を吹き返したと思えば突然(いきなり)、
「畜生、逃がしてなるか。」
と立ち上ろうとするのを慥りと抱き止めて、
「これ東助。僕だ、文彦だ。この様子は一体どうしたのだ。」
と尋ねると、東助はこの声を聞くや否や、文彦に縋り付いて、
「若旦那様※[#感嘆符三つ、48-上-7] 残念でござります。」
「どうした。叔父さんはどうした。」
 東助は欷(しゃく)り上げて、
「私がお預かりしていながら、何とも申訳はありませぬが、貴方様のお出発(た)ちなされた後、大旦那様の御介抱を致しておりますると、二日目の晩になって、入口の方で何やら足音が致しまするで、必然(てっきり)貴方様が御帰りなされた事と存じまして、早速御迎に出ますると、貴方様ではのうて、」
「えッ?」
「あの面憎い秋山男爵。」
「何? 秋山男爵?」
「はい。下僕(しもべ)と二人で這入って参ります。」
「うう。それからどうした。」
「ここだここだといいながら、闇(くらがり)で見えなかったのか、私の方にも目もくれず、二人でずんずん奥へ行きますからどうするかと、私も後から蹤いて参りますると、大旦那様のお姿を見るが早いか、『やや篠山博士ですか、秋山が月子さんの御言葉でお迎に上りました』と申しますから、私は矢庭にそこへ飛び込んで、旦那様はもう私の若旦那が二日も前にお会いになって、今道具を取片付けてこちらへお越しになるはずだと申しますると……」
「うん。それからどうした。」
「秋山の畜生め。思い懸けない私を見て吃驚したようでござりましたが、供の平三に何かいい付けると、乱暴にも平三が、あの御衰弱なされた旦那様を引担いで逃げようと致しますから……」
「何平三が?」
「はい。それ逃がしてなるものかと私も一生懸命に争いましたが悲しい事には二人に一人、いよいよ洞穴を出ようと致しますので、せめてこの上は鉄砲で打ち殺してなりとやろうと思って追かけて出かける処を、秋山男爵に乳の辺りに当身を喰(くら)わせられて、それから後は前後不覚、只今貴方様のお声で始めて正気になりましたような次第でござりまする。」
と涙ながらに物語った。
 聞き終った文彦は落胆(がっかり)したように、
「ああ折角ここまで苦心しながら、残念な事をしたなあ。」
と投げるがごとくいい棄てて、慨然として天を仰いで長大息したが、再び決然として立ち上り、
「東助、こうなっては腕づくでも叔父さんを取り返さなければならない。叔父さんを無事に連れ帰るのは誰でもいいが、このままにしておいては奸佞(かんねい)邪智の秋山男爵だ、この上如何なる悪計を持って我らを苦しめ、かつ鳩のような月子さんを翫(もてあそ)ぶか知れない。さあ今から出かけるからお前も蹤いて来い。」
「どうぞこの敵を取って下さい。私はもう死んでもきっと秋山めを打ち懲らしてやらずにはおく事ではござりませぬ。」
 二人は急ぎ外に出て、飛行船に乗るや否や全速力を以て上昇した。これは、秋山がすでに、飛行船に叔父を乗せて地球へ向けて出発してはいないかを慥かめるためで。

    月界の活劇

 目指す秋山の姿はいずこと、四辺を見廻したがまだ出発した形跡はない。やれ一まず安心と、今度は双眼鏡で前の洞の附近を見回すと、
「難有い。まだ居る※[#感嘆符三つ、49-下-5]」
 洞穴から一里ばかりも距(へだた)った処に、一箇の飛行船があって、その側で二箇(ふたり)の人が何か頻りに立働いている。
 疑いもなく秋山男爵の一行だ。
 しかしもう一瞬も猶予はならない。彼らがかく立働いているのは慥かに出発の準備に相違ない。
 文彦は速力を早めて近づくと、先方もそれと察したか忽々(そこそこ)に飛び乗って、もはや飛行船は飛び去る準備をすべく、その大きな両翼を緩やかに動かし初めた。
 まだ両者の距離は一哩(マイル)もある。
 目下の一瞬は文彦に取っては千万年にも代え難いのだ。彼は最極度の電流を出(いだ)して突進せしめながら一発の空砲を放った。
 今しも全速力を出そうと把手(ハンドル)を握っていた秋山男爵は、この砲声に思わずその手を放すと、把手は逆に回転して、飛行船は少しく下降した。ハッと思って持ち直した時にはもう文彦の飛行船は手の届くくらいの近距離に近づいていた。
「秋山男爵※[#感嘆符三つ、50-上-4]」
 文彦は、勢鋭く声をかけて、
「久しぶりにお目に懸ります。」
と態(わざ)と丁寧に会釈をした。
「左様。」
と秋山男爵は傲然として答えた。
 文彦は言葉を継いで、
「秋山男爵。改めて申しますが僕は叔父を受取りに参ったのです。」
「叔父? 叔父というのは篠山博士の事ですか。」
「左様。」
 秋山男爵は俄に言葉を荒らげて、
「馬鹿な事をいうな。虫のいい事をいうにしても大概にしておくがいい。僕がここまで態々(わざわざ)死を決して来たのは何のためだ。ただ篠山博士の在処を捜らんがためだ。それほどにして得た博士を何条おいそれと貴様に渡す事が出来るものか。馬鹿※[#感嘆符三つ、50-上-20] それほど欲しくば何故自分で捜さんか。」
と図々しくも逆捻(さかねじ)を喰わせて、
「僕は命賭けて得た博士だ。それが欲しくば貴様も生命を賭して奪うがいい。」
「よろしい。決闘※[#感嘆符三つ、50-下-5] 用意をなさい。」
「生意気な口を利く二才だ。さあ相手になってやろう。」
と互に銃を身構える折しも、不意に一発の銃声とともに、秋山男爵は、
「しまった※[#感嘆符三つ、50-下-9]」
と一口叫んで反り返った。
 文彦はこの様に驚いていると、
 秋山男爵は苦しげにこなたを睨んで、
「雲井、貴様は卑怯にも斯し討ちにしたな。」
 東助はすっくと立ち上って、
「貴様を射ったなあ若旦那じゃねえ。若旦那は貴様のような根性の曲った事はなさらねえ。貴様を射ったなあ己だ。今若旦那と命を取遣(とりやり)をする前に、俺は先刻洞穴の中で貴様から貰ったあの返礼をしてやったのだ。」
と如何にも憎々しげにいい放った。
 秋山男爵はこの言葉を聞いて、
「チェッ残念※[#感嘆符三つ、51-上-1]」
と一言叫んだと思うと、急所の傷手にはかなく絶命して終った。

 文彦は悪人ながらも男爵の死を悼んで杉田とともに月界に手厚く葬り、その上に紀念碑を建てて其後(それから)一週間ばかりその地に止って、博士のやや元気を回復するを待ち、博士、東助、及び主人の死後改悛の意を表して服従した平三と各々二人ずつ二個の飛行船に分乗して地球に向って出発したのである。
(「探検世界」明治四〇年一〇月増刊号)



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