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著者名:岡本かの子 

けふ咲ける桜はわれに要(えう)あらじひとの嘘(うそ)をばひたに数(かぞ)ふる

さかんなる桜はわれになまぬるき「許しの心」あに教ふべしや

薄月夜(うすづくよ)こよひひそかに海鳥(うみどり)がこの丘(をか)の花をついばみに来(こ)む

この丘に桜散る夜(よ)なり黒玉(ぬばたま)の海に白帆(しらほ)はなに夢むらむ

夜(よ)は夜とて闇の小床(をどこ)に淡星(あはぼし)と語らふものか小(こ)ざくら桜

こよひわきて桜花(はな)の上なる暗空(やみぞら)に光するどき星ひとつあり

ひとり見る山ざくらばな胃を病(や)みてほろほろ苦き舌を含(ふふ)めり

ねむたげな桜並木(なみき)を一声(ひとこゑ)の汽笛(きてき)の音がつつ走りけり

駅前の石炭の層にうらうらと桜花(はな)ちりかかる真昼なりけり

自動車の太輪(ふとわ)の砂塵(さぢん)もうもうとたちけむりつつ道の辺(べ)の桜

真白なる鶏(くだかけ)ひとつ今朝(けさ)みれば血に染(そ)みてあり桜花(はな)の樹(こ)のもと

空高く桜咲けどもわがたどる一本の道は岩根(いはね)こごしき

さくらばな咲く春なれや偽(いつは)りもまことも来よやともに眺(なが)めな

日(ひ)の本(もと)の春のあめつち豪華(がうくわ)なる桜花(さくら)の層をうちに築きたり

おのづから蔭影(かげ)こそやどれ咲き満(み)てる桜花(さくら)の層のこのもかのもに

にほやかにさくら描(か)かむと春陽(はるひ)のもとぬばたまの墨(すみ)をすり流したり

にほやかにさくら描(ゑが)きておみな子(ご)も金(かね)もうけむとおもひ立ちたり

おみな子の金もうくるを笑はざれ日本のさくら震後の桜

日本の震後のさくらいかならむ色にさくやと待ちに待ちたり

金ほしきおみなとなりて眺(なが)むれど桜の色は変(かわ)らざりけり

金ほしき今年の春のおのれかもいやうるはしと桜をば見つ

このわれや金とり初(そ)めの日(ひ)の本(もと)の震後の桜花(はな)の真盛りの今日(けふ)

停電の電車のうちゆつくづくと都(みやこ)の桜花(はな)をながめたるかも

桜さく頃ともなればわきてわが疲(つか)るる日こそ数は多けれ

かろき疲れさくらさく椽(えん)にかりそめの綻(ほころ)びもわがつくろはずけり

しばたたきうちしばたたき眼(め)を病(や)めるわれや桜をまともには見ず

さくら花(ばな)まぼしけれどもやはらかく春のこころに咲きとほりたり

うつらうつらわが夢むらく遠方(をちかた)の水晶山に散るさくら花

うちわたす桜の長道(ながて)はろばろとわがいのちをば放ちやりたり

外(と)の面(も)には桜盛(さか)るをわが瓶(へい)の室咲(むろざ)きの薔薇(ばら)ははやもしぼめり

真黒くわれ動(うごか)ざりあしたより桜花(はな)は窓辺(まどべ)に散りに散れども

ひそかなる独言(ひとりごと)なれけふ聞きてあすは忘れよひともと桜

遠稲妻(とほいなづま)そらのいづこぞうちひそみこの夜桜(よざくら)のもだし愛(かな)しも

かきくもる大空のもとひそやかに息づきにつつこの丘の桜

かそかなる遠雷(とほいかづち)を感じつつひつそりと桜さき続きたり

なごやかに空くもりつつ咲き盛(さか)る桜を一日(ひとひ)うち和(なご)めたり

気難(きむづ)かしきこの家(や)の主人(あるじ)むづかしき顔しつつさくら移植(うつ)させて居(を)り

歌麿(うたまろ)の遊女(いうぢよ)の襟(えり)の小桜(こざくら)がわが傘(からかさ)にとまり来にけり

政信(まさのぶ)の遊女の袖(そで)に散るさくらいかなる風にかつ散りにけん

うたかたの流れの岸に広重(ひろしげ)が現(うつつ)の桜花(はな)を描(か)き重ねたり

咲き倦(う)みて白くふやけし桜花(はな)のいろ欠伸(あくび)かみつつわが見やりたり

みちばたのさくらの太根(ふとね)玉葱(たまねぎ)を懇(ねもごろ)いだきわがいこひたり

ほろほろと桜ちれども玉葱はむつつりとしてもの言はずけり

何がなしかなしくなれりもの言はぬ玉葱に散り散り滑(すべ)るさくら

ここに散る桜は白し玉葱の薄茶(うすちや)の皮ゆ青芽(あをめ)のぞけり

春浅しここの丘辺(をかべ)の裸木(はだかぎ)の桜並木(なみき)を歩(あゆ)みつつかなし

さくら木のその諸立(もろだ)ちのはだか木にこもらふ熱を感ぜざらめや

松の葉の一葉(ひとは)一葉に濃(こま)やけく照る陽(ひ)のひかり桜にも照る

若竹(わかたけ)のあさきみどりに山ざくら淡淡(あはあは)と咲きて添(そ)ひ樹(た)てるかも

桜花(さくらばな)ちりて腐(くさ)れりぬかるみに黒く腐れる椿(つばき)がほとり

地を撲(う)ちて大輪(たいりん)つばき折折(をりをり)に落つるすなはち散り積むさくら

大寺(おほでら)の庭に椿は敷(し)き腐り木蓮(もくれん)の枝に散りかかる桜

ぼたん桜ここだく樹(た)てり尼(あま)たちが紐(ひも)かけ渡し白衣(びやくえ)干(ほ)すかも

鬱(うつ)として曇天(どんてん)のしたに動かざり梢(こずゑ)のさくら散り敷けるさくら

どんよりと曇天に一樹(ひとき)立つさくら散るとしもなく散る花のあり

一天(いつてん)は墨(すみ)すり流し満山(まんざん)の桜のいろは気負(きお)ひたちたり

見渡せば河しも遠し河しもの瀬瀬(せぜ)にうつれる春花(はるはな)のかげ

急阪(きふはん)のいただき昏(くら)し濛濛(もうもう)と桜のふぶき吹きとざしたり

さやさやと竹さやぐからに出(い)でて見ればしんと桜が咲き居(ゐ)たるかも

塔(たふ)の沢のいかもの店に女唐(めたう)停(た)ちその向(むか)つ峰(を)の桜花(はな)盛りなり

いかものを女唐買ひたりその女唐箱根の桜花(はな)の下みちを行く

わがままはやめなとぞおもへしかはあれ春さり来れば桜さきけり

桜花(はな)の山は淡墨(うすずみ)いろに暮れにけり大烏(おほがらす)一羽ひつそり帰る

大暴風(おほあらし)うすずみ色の生壁(なまかべ)にさくら許多(ここだ)くたたきつけたり

ここにして桜並木(なみき)はつきにけり遠浪(とほなみ)の音かそかにはする

桜花(はな)の山はうしろに高し見はるかす淡墨いろのたそがれの海

いそがはしく吾(われ)を育ててわが母や長閑(のど)に桜も見で逝(ゆ)きませしか

十年(ととせ)まへの狂院(きやうゐん)のさくら狂人(きちがひ)のわれが見にける狂院のさくら

狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくら

狂人(きちがひ)よ狂人(きちがひ)よとてはやされき桜花(さくら)や云(い)ひし人間(ひと)や笑ひし

ふたたびは見る春無(な)けむ狂人(きちがひ)のわれに咲きけむ炎の桜

わが夫(つま)よ十年(ととせ)昔のきちがひのわが恐怖(おそれ)たる桜花(はな)あらぬ春

ねむれねむれ子よ汝(な)が母がきちがひのむかし怖れし桜花(はな)あらぬ春

人間の交友(まじわり)のはてはみな儚(はか)な桜見つつし行きがてぬかなし
(来よと宣(の)らせる佐藤春夫氏に厚く謝しつつ)桜花(はな)あかり廚(くりや)にさせば生魚(なまざかな)鉢(はち)に三ぼん冴(さ)えひかりたり

生ざかな光りて飛べりうす紅(べに)の桜の肌の澄(す)みの冷たさ




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