老妓抄
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著者名:岡本かの子 

「いい景色だね」と云った。
 円タクに乗ったり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻った。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしの鐘(かね)ヶ淵(ふち)や、綾瀬(あやせ)の面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。綾瀬川の名物の合歓(ねむ)の木は少しばかり残り、対岸の蘆洲(あしず)の上に船大工だけ今もいた。
「あたしが向島の寮に囲われていた時分、旦那がとても嫉妬家(やきもちやき)でね、この界隈(かいわい)から外へは決して出してくれない。それであたしはこの辺を散歩すると云って寮を出るし、男はまた鯉釣りに化けて、この土手下の合歓の並木の陰に船を繋(もや)って、そこでいまいうランデブウをしたものさね」
 夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工の槌(つち)の音がいつの間にか消えると、青白い河靄(もや)がうっすり漂う。
「私たちは一度心中の相談をしたことがあったのさ。なにしろ舷(ふなばた)一つ跨(また)げば事が済むことなのだから、ちょっと危かった」
「どうしてそれを思い止ったのか」と柚木はせまい船のなかをのしのし歩きながら訊いた。
「いつ死のうかと逢う度毎に相談しながら、のびのびになっているうちに、ある日川の向うに心中態(てい)の土左衛門が流れて来たのだよ。人だかりの間から熟々(つくづく)眺めて来て男は云ったのさ。心中ってものも、あれはざまの悪いものだ。やめようって」
「あたしは死んでしまったら、この男にはよかろうが、あとに残る旦那が可哀想だという気がして来てね。どんな身の毛のよだつような男にしろ、嫉妬をあれほど妬(や)かれるとあとに心が残るものさ」
 若い芸妓たちは「姐さんの時代ののんきな話を聴いていると、私たちきょう日の働き方が熟々(つくづく)がつがつにおもえて、いやんなっちゃう」と云った。
 すると老妓は「いや、そうでないねえ」と手を振った。「この頃はこの頃でいいところがあるよ。それにこの頃は何でも話が手取り早くて、まるで電気のようでさ、そしていろいろの手があって面白いじゃないか」
 そういう言葉に執成(とりな)されたあとで、年下の芸妓を主に年上の芸妓が介添になって、頻(しき)りに艶(なま)めかしく柚木を取持った。
 みち子はというと何か非常に動揺させられているように見えた。
 はじめは軽蔑(けいべつ)した超然とした態度で、一人離れて、携帯のライカで景色など撮(うつ)していたが、にわかに柚木に慣れ慣れしくして、柚木の歓心を得ることにかけて、芸妓たちに勝越そうとする態度を露骨に見せたりした。
 そういう場合、未成熟(なま)の娘の心身から、利かん気を僅かに絞り出す、病鶏のささ身ほどの肉感的な匂いが、柚木には妙に感覚にこたえて、思わず肺の底へ息を吸わした。だが、それは刹那(せつな)的のものだった。心に打ち込むものはなかった。
 若い芸妓たちは、娘の挑戦を快くは思わなかったらしいが、大姐さんの養女のことではあり、自分達は職業的に来ているのだから、無理な骨折りを避けて、娘が努めるときは媚(こ)びを差控え、娘の手が緩むと、またサービスする。みち子にはそれが自分の菓子の上にたかる蠅(はえ)のようにうるさかった。
 何となくその不満の気持ちを晴らすらしく、みち子は老妓に当ったりした。
 老妓はすべてを大して気にかけず、悠々と土手でカナリヤの餌(え)のはこべを摘んだり菖蒲園(しょうぶえん)できぬかつぎを肴(さかな)にビールを飲んだりした。
 夕暮になって、一行が水神(すいじん)の八百松へ晩餐(ばんさん)をとりに入ろうとすると、みち子は、柚木をじろりと眺めて
「あたし、和食のごはんたくさん、一人で家に帰る」と云い出した。芸妓たちが驚いて、では送ろうというと、老妓は笑って
「自動車に乗せてやれば、何でもないよ」といって通りがかりの車を呼び止めた。
 自動車の後姿を見て老妓は云った。
「あの子も、おつな真似をすることを、ちょんぼり覚えたね」

 柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この界隈(かいわい)に噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕(つばめ)というそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。
 何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。柚木は近頃工房へは少しも入らず、発明の工夫も断念した形になっている。そして、そのことを老妓はとくに知っている癖に、それに就(つ)いては一言も云わないだけに、いよいよパトロンの目的が疑われて来た。縁側に向いている硝子(ガラス)窓から、工房の中が見えるのを、なるべく眼を外らして、縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、池を埋めた渚(なぎさ)の残り石から、いちはつやつつじの花が虻(あぶ)を呼んでいる。空は凝(こご)って青く澄み、大陸のような雲が少し雨気で色を濁しながらゆるゆる移って行く。隣の乾物(ほしもの)の陰に桐の花が咲いている。
 柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の黴(かび)臭い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、主婦や女中に昼の煮物を分けて貰って弁当を使ったことや、その頃は嫌(いや)だった事が今ではむしろなつかしく想い出される。蒔田の狭い二階で、注文先からの設計の予算表を造っていると、子供が代る代る来て、頸(くび)筋が赤く腫(は)れるほど取りついた。小さい口から嘗(な)めかけの飴(あめ)玉を取出して、涎(よだれ)の糸をひいたまま自分の口に押し込んだりした。
 彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考え始めたりした。ふと、みち子のことが頭に上った。老妓は高いところから何も知らない顔をして、鷹揚(おうよう)に見ているが、実は出来ることなら自分をみち子の婿(むこ)にでもして、ゆくゆく老後の面倒でも見て貰おうとの腹であるのかも知れない。だがまたそうとばかり判断も仕切れない。あの気嵩(きがさ)な老妓がそんなしみったれた計画で、ひとに好意をするのではないことも判る。
 みち子を考える時、形式だけは十二分に整っていて、中身は実が入らずじまいになった娘、柚木はみなし茹(ゆ)で栗の水っぽくぺちゃぺちゃな中身を聯想(れんそう)して苦笑したが、この頃みち子が自分に憎(にくし)みのようなものや、反感を持ちながら、妙に粘って来る態度が心にとまった。
 彼女のこの頃の来方は気紛れでなく、一日か二日置き位な定期的なものになった。
 みち子は裏口から入って来た。彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切って拵(こしら)えてある十二畳の客座敷との襖(ふすま)を開けると、そこの敷居の上に立った。片手を柱に凭(もた)せ体を少し捻(ひね)って嬌態を見せ、片手を拡げた袖の下に入れて、写真を撮(と)るときのようなポーズを作った。俯向(うつむ)き加減に眼を不機嫌らしく額越しに覗かして
「あたし来てよ」と云った。
 縁側に寝ている柚木はただ「うん」と云っただけだった。
 みち子はもう一度同じことを云って見たが、同じような返事だったので、本当に腹を立て
「何て不精たらしい返事なんだろう、もう二度と来てやらないから」と云った。
「仕様のない我儘(わがまま)娘だな」と云って、柚木は上体を起上らせつつ、足を胡座(あぐら)に組みながら
「ほほう、今日は日本髪か」とじろじろ眺めた。
「知らない」といって、みち子はくるりと後向きになって着物の背筋に拗(す)ねた線を作った。柚木は、華やかな帯の結び目の上はすぐ、突襟(つきえり)のうしろ口になり、頸の附根を真っ白く富士山形に覗かせて誇張した媚態(びたい)を示す物々しさに較べて、帯の下の腰つきから裾は、一本花のように急に削(そ)げていて味もそっけもない少女のままなのを異様に眺めながら、この娘が自分の妻になって、何事も自分に気を許し、何事も自分に頼りながら、小うるさく世話を焼く間柄になった場合を想像した。それでは自分の一生も案外小ぢんまりした平凡に規定されてしまう寂寞(せきばく)の感じはあったが、しかし、また何かそうなってみての上のことでなければ判らない不明な珍らしい未来の想像が、現在の自分の心情を牽(ひ)きつけた。
 柚木は額を小さく見せるまでたわわに前髪や鬢(びん)を張り出した中に整い過ぎたほど型通りの美しい娘に化粧したみち子の小さい顔に、もっと自分を夢中にさせる魅力を見出したくなった。
「もう一ぺんこっちを向いてご覧よ、とても似合うから」
 みち子は右肩を一つ揺ったが、すぐくるりと向き直って、ちょっと手を胸と鬢へやって掻(か)い繕った。「うるさいのね、さあ、これでいいの」彼女は柚木が本気に自分を見入っているのに満足しながら、薬玉(くすだま)の簪(かんざし)の垂れをピラピラさせて云った。
「ご馳走を持って来てやったのよ。当ててご覧なさい」
 柚木はこんな小娘に嬲(なぶ)られる甘さが自分に見透かされたのかと、心外に思いながら
「当てるの面倒臭い。持って来たのなら、早く出し給え」と云った。
 みち子は柚木の権柄(けんぺい)ずくにたちまち反抗心を起して「人が親切に持って来てやったのを、そんなに威張るのなら、もうやらないわよ」と横向きになった。
「出せ」と云って柚木は立上った。彼は自分でも、自分が今、しかかる素振りに驚きつつ、彼は権威者のように「出せと云ったら、出さないか」と体を嵩張らせて、のそのそとみち子に向って行った。
 自分の一生を小さい陥穽(かんせい)に嵌(は)め込んでしまう危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切ったものへ好んで身を挺(てい)して行く絶体絶命の気持ちとが、生れて始めての極度の緊張感を彼から抽(ひ)き出した。自己嫌悪(けんお)に打負かされまいと思って、彼の額から脂汗(あぶらあせ)がたらたらと流れた。
 みち子はその行動をまだ彼の冗談半分の権柄ずくの続きかと思って、ふざけて軽蔑(けいべつ)するように眺めていたが、だいぶ模様が違うので途中から急に恐ろしくなった。
 彼女はやや茶の間の方へ退(すさ)りながら
「誰が出すもんか」と小さく呟(つぶや)いていたが、柚木が彼女の眼を火の出るように見詰めながら、徐々に懐中から一つずつ手を出して彼女の肩にかけると、恐怖のあまり「あっ」と二度ほど小さく叫び、彼女の何の修装もない生地の顔が感情を露出して、眼鼻や口がばらばらに配置された。「出し給え」「早く出せ」その言葉の意味は空虚で、柚木の腕から太い戦慄(せんりつ)が伝って来た。柚木の大きい咽喉(のど)仏がゆっくり生唾を飲むのが感じられた。
 彼女は眼を裂けるように見開いて「ご免なさい」と泣声になって云ったが、柚木はまるで感電者のように、顔を痴呆にして、鈍く蒼(あお)ざめ、眼をもとのように据えたままただ戦慄だけをいよいよ激しく両手からみち子の体に伝えていた。
 みち子はついに何ものかを柚木から読み取った。普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。
 立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。
 彼女はばらばらになった顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌したたるような媚(こ)びの笑顔に造り直した。
「ばか、そんなにしないだって、ご馳走あげるわよ」
 柚木の額の汗を掌でしゅっと払い捨ててやり
「こっちにあるから、いらっしゃいよ。さあね」
 ふと鳴って通った庭樹の青嵐を振返ってから、柚木のがっしりした腕を把(と)った。
 さみだれが煙るように降る夕方、老妓は傘をさして、玄関横の柴折戸(しおりど)から庭へ入って来た。渋い座敷着を着て、座敷へ上ってから、褄(つま)を下ろして坐った。
「お座敷の出がけだが、ちょっとあんたに云(い)っとくことがあるので寄ったんだがね」
 莨入(たばこい)れを出して、煙管(きせる)で煙草盆代りの西洋皿を引寄せて
「この頃、うちのみち子がしょっちゅう来るようだが、なに、それについて、とやかく云うんじゃないがね」
 若い者同志のことだから、もしやということも彼女は云った。
「そのもしやもだね」
 本当に性が合って、心の底から惚(ほ)れ合うというのなら、それは自分も大賛成なのである。
「けれども、もし、お互いが切れっぱしだけの惚れ合い方で、ただ何かの拍子で出来合うということでもあるなら、そんなことは世間にいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やっても同じことなのだ」
 仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途(いちず)な姿を見たいと思う。
 私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。
「何も急いだり、焦(あせ)ったりすることはいらないから、仕事なり恋なり、無駄をせず、一揆(いっき)で心残りないものを射止めて欲しい」と云った。
 柚木は「そんな純粋なことは今どき出来もしなけりゃ、在るものでもない」と磊落(らいらく)に笑った。老妓も笑って
「いつの時代だって、心懸けなきゃ滅多にないさ。だから、ゆっくり構えて、まあ、好きなら麦とろでも食べて、運の籤(くじ)の性質をよく見定めなさいというのさ。幸い体がいいからね。根気も続きそうだ」
 車が迎えに来て、老妓は出て行った。

 柚木はその晩ふらふらと旅に出た。
 老妓の意志はかなり判って来た。それは彼女に出来なかったことを自分にさせようとしているのだ。しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしていることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤のよきものを抽(ひ)いた人間とて、現実では出来ない相談のものなのではあるまいか。現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではなかろうか。
 自分はいつでも、そのことについては諦(あきら)めることが出来る。しかし彼女は諦めということを知らない。その点彼女に不敏なところがあるようだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。
 たいへんな老女がいたものだ、と柚木は驚いた。何だか甲羅を経て化けかかっているようにも思われた。悲壮な感じにも衝(う)たれたが、また、自分が無謀なその企てに捲(ま)き込まれる嫌な気持ちもあった。出来ることなら老女が自分を乗せかけている果しも知らぬエスカレーターから免れて、つんもりした手製の羽根蒲団のような生活の中に潜(もぐ)り込みたいものだと思った。彼はそういう考えを裁くために、東京から汽車で二時間ほどで行ける海岸の旅館へ来た。そこは蒔田の兄が経営している旅館で、蒔田に頼まれて電気装置を見廻りに来てやったことがある。広い海を控え雲の往来の絶え間ない山があった。こういう自然の間に静思して考えを纏(まと)めようということなど、彼には今までについぞなかったことだ。
 体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。しきりに哄笑(こうしょう)が内部から湧き上って来た。
 第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしているのがおかしかった。それからある種の動物は、ただその周囲の地上に圏の筋をひかれただけで、それを越し得ないというそれのように、柚木はここへ来ても老妓の雰囲気から脱し得られない自分がおかしかった。その中に籠(こ)められているときは重苦しく退屈だが、離れるとなると寂しくなる。それ故に、自然と探し出して貰いたい底心の上に、判り易い旅先を選んで脱走の形式を採っている自分の現状がおかしかった。
 みち子との関係もおかしかった。何が何やら判らないで、一度稲妻のように掠(かす)れ合った。
 滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持って迎えに来た。蒔田は「面白くないこともあるだろう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云った。
 柚木は連れられて帰った。しかし、彼はこの後、たびたび出奔癖がついた。

「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
 運動服を着た養女のみち子が、蔵の入口に立ってそう云った。自分の感情はそっちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあった。「ゆんべもおとといの晩も自分の家へ帰って来ませんとさ」
 新日本音楽の先生の帰ったあと、稽古場にしている土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になおひとり残って、復習(さらい)直しをしていた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心口惜(くや)しさが漲(みなぎ)りかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
「あの男。また、お決まりの癖が出たね」
 長煙管(ながぎせる)で煙草を一ぷく喫(す)って、左の手で袖口を掴(つか)み展(ひら)き、着ている大島の男縞が似合うか似合わないか検(ため)してみる様子をしたのち
「うっちゃってお置き、そうそうはこっちも甘くなってはいられないんだから」
 そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆっくりしまいかけた。いきり立ちでもするかと思った期待を外された養母の態度にみち子はつまらないという顔をして、ラケットを持って近所のコートへ出かけて行った。すぐそのあとで老妓は電気器具屋に電話をかけ、いつもの通り蒔田に柚木の探索を依頼した。遠慮のない相手に向って放つその声には自分が世話をしている青年の手前勝手を詰(なじ)る激しい鋭さが、発声口から聴話器を握っている自分の手に伝わるまでに響いたが、彼女の心の中は不安な脅えがやや情緒的に醗酵(はっこう)して寂しさの微醺(ほろよい)のようなものになって、精神を活溌にしていた。電話器から離れると彼女は
「やっぱり若い者は元気があるね。そうなくちゃ」呟(つぶや)きながら眼がしらにちょっと袖口を当てた。彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。
 真夏の頃、すでに某女に紹介して俳句を習っている筈の老妓からこの物語の作者に珍らしく、和歌の添削の詠草が届いた。作者はそのとき偶然老妓が以前、和歌の指導の礼に作者に拵(こしら)えてくれた中庭の池の噴水を眺める縁側で食後の涼を納(い)れていたので、そこで取次ぎから詠草を受取って、池の水音を聴きながら、非常な好奇心をもって久しぶりの老妓の詠草を調べてみた。その中に最近の老妓の心境が窺(うかが)える一首があるので紹介する。もっとも原作に多少の改削を加えたのは、師弟の作法というより、読む人への意味の疏通(そつう)をより良くするために外ならない。それは僅に修辞上の箇所にとどまって、内容は原作を傷(きずつ)けないことを保証する。
年々にわが悲しみは深くして
  いよよ華やぐいのちなりけり




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