富士
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著者名:岡本かの子 

「この娘を東国へ旅人の手に托(かず)けて送ったときの気持に戻って、いっそ、この娘を思い捨てるか。それにしてはこれだけになったものを、あまりに惜しい気もする。第一、山神の眷属の中からこれ程の女神を出したことは、山の祖神としていかなる気持の犠牲を払っても光栄とすべきではないか」
 そう思うまた下から、親ごころの無条件な気持でもって「娘よ」と呼びかけても、かの女の雪膚の如き玲瓏(れいろう)な性情に於て対象に立ち完全そのものの張り切り方で立ち向われて来るときの、こなたの恥さえ覚えるばかりの手持無沙汰を想像するとき、やはり到底、親子としては交際(つきあ)い兼ねる女なのではあるまいかと、懸念がすぐ起って来るのでもあった。
 とつおいつ思いあぐねるうち、いよいよ無力の孩児(がいじ)としての感じを自分に深めて来た老翁は、いまは何もかもかなぐり捨て、ひたすら娘に縋(すが)り付き度くなった。それは福慈神に向って娘としてよりも母らしいものへの寄する情に近かった。偉れて立優っているこの女神に対しこの流れの方向の感情に心を任せるとき、却って気持は自然に近いことを老翁は発見した。
 女神が捧げものを徹して持ち帰る姿が望まれた。
 翁は堪られなくなって声をかけた。
「娘よ。福慈神よ」
 それは始めから哀訴の声音だった。
 女神の片眉が潜められたが声は美しく徹っていた。
「あら、まだ、そこにいらっしゃいますの。お寒いのに、なぜ、おとり申上げた村里の宿へお出でになりませんの」
 翁は頑是(がんぜ)ない子供が、てれながら駄々を捏ねるように、掌に拳を突き当てつつ俯向(うつむ)き勝ちにいった。
「寂しいんだよ」
「では、どうして差上げたらよろしいのでございましょう」
「どんな端っこでもいい、おまえの家へ泊めとくれよ」
 翁の声は小さかったが強訴の響は籠っていた。「おまえの居ると同じ屋の棟の下にいれば気が済むのだから、決して祭りの邪魔はしないのだから」
「それが、おさせ申上られないことは、お出でにすぐ申上げたではございませんか。無理を仰(おっ)しゃっては困りますわ」
 娘の声は美しく徹ったまま、山が頂より麓へ土を揺り据えたように、どっしりとした重味が添わって来た。その気勢に圧せられた翁は、却ってあらがう気持を二つ弾のような言葉で、あと先立て続けに女神へ向けて放った。
「情のこわい女だぞ」「何をまだ、この上、親を断っても修業の祭をしようというのだ。いやさ、これほど出来上った山やおまえに何の力や性格を増し加えようというのだ、慾張り」
 女神は、しばらく黙って父の翁のいう言葉の意味の在所を突き止めていたが、やがて溜息をついたのち、静にいった。
「結局、おとうさまは、山の祖神の癖にこの福慈神だけはお知りになっていないことに帰着いたしますわね。よろしゅうございます、暁の祭までにはまだ間の時刻もございます。お話いたしましょう」
 といって、ちょっと美しく目を瞑り考えを纏(まと)めているようだったが、こう語り出した。
「おとうさま、この福慈岳は火を背骨に岩を肋骨(ろっこつ)に、砂を肉に附けていて少しの間も苦悩と美しさと成長の働をば休めない大修業底の山なのでございますわ。見損じて下さいますな」
 雨気が除かれたかして星が中天に燦(きら)めき出した。天空より以下巨大な三角形の影をもちて空間を阻み星が燦めきあえぬ部分こそ夜眠の福慈岳の姿である。頂の煙のみ覚めてその舌尖は淡く星の数十粒を舐(ねぶ)っている。

「わたくしが」
 と福慈の女神は静に言葉をついだ。女神の顔は氷花のように燦めき、自然のみが持つ救いのない非情と、奥底知れない泰らかさとが、女神の身体から狭霧のようにくゆり出す。
 岳神が変貌して、そしてこういうふうに言い出すとき、その「わたくし」は、最早岳神みずからのことを指すのではなかった。岳神が冥合しているところの山そのものを岳神の上で語らしめるその「わたくし」であった。
 山の祖神はさすがに、それとすぐ感じ取り、啓示を聴く敬虔(けいけん)な態度で、両の掌を組み合せ、篝火(かがりび)越しに聴こうとする。組んだ指の一二本だけ、組み堅め方を緩めて、ひょくひょく蠢(うご)めかしているのは、娘が何を言い出すことやらと、まだ、親振った軽蔑の念と好奇心と混ったものを山の祖神がいささか心に蓄えていることの現れと見れば見られる。
「わたくしが、わたくし自身を知ったということの誇らしさ、また、辛さ。それを何とお話したらよいでございましょう。判って頂ける言葉に苦しみます。ここでは、ただそれが、いのちを張り裂くほどの想いのもので……而(し)かも、たとえ、いのちが張り裂けようとて、心は狂いも、得死ぬことすら許されず、窮極の緊張の正気を続けさせられるという気持のものであるというぐらいしか申上げられないのを残念に思います」
 と言って、女神は、ここで溜息を一つした、白い息が夜気に淡くにじんだ。
「わたくしが、物ごころついた時分からでも、この大地の上に、四たびほど、それはそれは永く冷たい歳月と、永く暖かい歳月が、代る代る見舞うたのでありました」
 冷たい時期の間は、鈍(おぞ)く寒い大気の中に、ありとあらゆるものは、端という端、尖という尖から、氷柱(つらら)を涙のように垂らして黙り込んでいた。暖かい時期の間は、このわたりの林の中にもまめ桜が四季を通して咲き続け、三光鳥のギーッギーッという地鳴き一年じゅう絶間なかった。
「そして只今、この大地は、四度目に来た冷い時期の、そのまた中に幾たてもこまかく冷温のきざみのある、ちょうどその二つ目の寒さの峠を下り降った根方の陽気の続いている時期にあるのでございます」
 まめ桜はひと年の五月に一度咲き、同じその頃、三光鳥はこの裾野の麓へ来て鳴く。生けるものにはここしばらく住み具合のよい釣合いのとれた時期の続きであるだろう。
「この大地は、島山になっております。蜻蛉(あきつ)の形をしたこの島山の胴のまん中に、岩と岩との幅広い断(き)れ目の溝があって、そのあわいから、わたくしは生い立たせられつつあるのを見出したのでした」
 西の海を越えて、うねって来た二つの大きな山の脈系、それは島山の胴の裂け目を界にして南北に分けられる。そのおのおのには、内側のものと外側のものとの脈帯の襞(ひだ)が違(たが)っている。それすら、複雑蟠纏(ばんてん)を極めているのに、下より突き上げ上から展(の)し重なるよう、十一の火山脈が縦横に走る。
 かくて、この島山は、潮の海から蜻蛉型に島山の肩を出すことが出来たのであった。重ね重ねの母胎の苦労である。その上、重く堅い巌(いわお)を火の力により劈(つんざ)き、山形にわたくしを積み上げさせたということは、仇(あだ)おろそかのすさびに出来る仕事ではない。非情の自然が、自らその頑(かたくな)な固定性に飽いて、抗(あらが)い出た自己嫌悪の旗印か、または非生の自然に却って生けるものより以上の意志があって、それを生けるものに告げようとする必死の象徴ででもあるのであろうか。
 あるべきもののある理由は、そのものになり切ったものにしてはじめて頷(うなず)けるほど、深刻なものであるのであった。山一つさえその通り――
「まだそのときのわたくしは、きしゃな細火を背骨にし、べよべよ撓(しな)るほどの溶岩を一重の肋骨として周りに持ち、島山の中央の断(き)れ目から島地の上へ平たく膨れ上っただけの山でした」
 世の中は、ただうとうとと、あま葛の甘さに感じられた。ただひとりぽっちが寂しかった。
 幼い青春が見舞った。「環境(わたり)」と「誰(た)」を感じた。突き上げて来た物恋うこころ。自らによって他を焼き度く希う情熱をはじめて自分は感じた。
 自分は眩暈(めまい)がして裂けた。息を吹き返して気が付いたときに、自分は見る影もない姿に壊れていた。胸から噴き流れて凝った血が、岩となって二枚目の肋骨としてまわりに張っていた。
 自分は泣く泣く砂礫を拾って、裸骨へ根気よく肉と皮を覆うた。
 しばらく、爽かで湛えた気持の世の中が見廻わせた。自分は第二の青春を感じた。
 同じく物恋うるこころ、それには、「疑い」と「恥かしさ」が、厚い殻となって冠っていた。それをしも押しのけて、自らによって他を焼き尽そう情熱、自分はまたしても眩暈(めま)いがした。裂けた。息を吹き返して気が付いたときに、自分は醜い姿に壊れていた。けれども自分の胸から噴き流れて凝った血は、三枚目の肋骨となって、まわりに張っていた。自分は泣く泣く砂礫を拾って裸骨へ根気よく砂礫の肉と皮を覆った。
 しばらく、物憂(う)く、嫉(ね)たく、しかも陽気な世の中が自分に見(まみ)えた。自分は娯しい中に胸迫るものを感じ続けて来た。
 第三の青春を感じた。
 同じく物恋うるこころに変りはないけれども、自分はそれにも増して、「知る」ということの惧(おそ)ろしさとうれしさを始めて感じ出した。これほどに壊れても裂けても、また立上って来る自分。蘇っては必死に美しさに盛返そうとするちから。これは一体何だろう。他と競いごころを起すこの自分は一体何だろう。自分を自分から離して、冷やかに眺めて捌(さば)き、深く自省に喰い入る痛痒(いたがゆ)い錐揉(きりも)みのような火の働き、その火の働きの尖は、物恋うるほど内へ内へと執拗(しつこ)く焼き入れて行き、絶望と希望とが膜一重となっている胸の底に触れたと思ったとき、自分はまた裂けた。蘇って壊れた自分を観ると、そこにはまた第四の肋骨が出来上っていた。
 自分はそれに砂礫の肉と皮をつけた。
 しばらく、明暗が渦雲のように取り組む世の中に眺められる。自分を剖(さ)き分けて、近くへ寄ってみれば、焼石、焼灰の醜い心と身体、それは自分ながら吐き捨ててしまい度いようである。けれども、やっと取り纏めて、離れて眺めみれば、芙蓉のように美しく、「誰(た)」を魅する力があるもののようでもある。それにつれて、希望(のぞみ)という虹がうつらうつら夢みられて来る。
 美しくも力強い希望(のぞみ)。だが果して、その希望を実現し得られる力が自分の中にあるのだろうか。その力としてありそうに思える火の背梁だけは確に逞しくなっている。
 しかしまたこの大きな虹のような希望を捉えようと考え出したことがおおそれた想いのようでもあり、身体に激しい慄えが来る。かくてまたもや自分は裂けた。
「わたくしは只今、最初から数えて八枚目の肋骨まで出来ております。わたくしの身体の根は、この島山の北の海岸にひき、また南は遠い南の海の硫黄を吐く島までひいています。わたくしの身体の続きの上で同じく火を吐く幾つかの眷属。この島山に小さいながらも姿は等しい三十余の山々。それ等はみなわたくしを母のようにしております。わたくしに較ぶ山はございません。わたくしは確かに選まれたという自覚を今更どう取り消しようもございません。それにつれて、幼ない競い心も除かれました。選まれたということの孤独の寂しさ、また晴れがましさ、責任の重苦しさと権利の娯しさ。
 ですが、折角ここまで育ち上ったものに、またもや成長の破壊が来て、これからさき何度も死ぬような思いをするのはまだしものこと、女の身として、一度々々あの醜さになるのを自分の眼でまざまざと見なければならないということは、考えてもぞっといたしますわ」
 可哀そうに唖(おし)のような自然、それでいて、意志だけは持っている。その意志を人によって表現したがっている。一体、人というものは懶(なま)けもので、小楽(こらく)をしたがる性分である。驚異を与えないでは動かない。この島山に住む人は、山のわたくし同様、驚異でいのちに傷目をつけられ、美しさにいのちの芽を牽出され、苦悩に扱(しご)かれて、希望へと伸び上がらせられなければならない。
「わたくしは、それを人に伝えるために選まれました。
 父よ。あなたが、山の神の眷属としてわたくしを、ただ眷属中での褒められ者として育つのを望んだ娘は、この福慈岳に籠れる選まれた偉大ないのちの中に綯(な)い込められ、いまや天地大とも久遠劫来のものとなってしまいました。いまや娘はあなたの望まれる程度に程良くなることも、娘子として可愛らしくあることも出来ません。それはどんなにか悲しいことでしょうが、運命です。仕方ありません。おとうさま、あなたはもう一度娘を東国へ思い捨てた気持になって、わたくしを思い捨てて下さい。さあ、暁が白みかけました。わたくしは、暁の祭りにいそしまねばなりません。早く、取って差上げた村の宿屋へおいでになって、お寝(よ)って下さいまし。いつでもそうしておいでては身体にお毒ですわ。あしたは、もっとゆっくり、これに就てのお話も出来ましょうから」
「わしゃ、偉大なものへ生命を賭けることは大好きなのじゃよ。わしは最愛のこどもでそれをした。その愛別離苦の悲しみや壮烈な想いで、わしの腸はこんなに螺の貝のように捻じ巻いたのじゃないか」と山の祖神の翁は負けん気の声を振り立てていった。「だが、親子の縁は切り度くないもんじゃよ」
 とその言葉の下から縋り声で寄り戻した。
「あなたは生みの親、わたくしのいのちの親は、このあめつちと、この島山の人々。もはやあなたとわたくしを継ぐとか切るとかいうせきは放れております」と女神は淡々としていった。
「あなたが、わたくしを思い捨てなさるほど、わたくしはあなたに親しい愛娘になりましょう。その反対に、あなたが一筋でも低い肉親の血をわたくしにおつなぎのつもりがあったら、それは却ってわたくしから遠ざかりなさることになるのです。お判りになりませんか」
「わしが、おまえを東国へ思い捨てた歳からいま娘になるまでの歳月を数えてみるのに、いくら山の神々の歳月は人間の歳月と違うにしろ、数えて額(たか)が知れている。それを何十万年何百万年の生い立ちの話をするなんて、あんまり親をばかにし過ぎるぞ。……いくらこの山の座り幅が広いたって、三国か四国に亙っているに過ぎまい。それを海山遠く取入れた話をするなんて、あんまり大袈裟(おおげさ)だぞ。女の癖に」
 山の祖神のこういうたしなめ方に対し福慈の女神はもう何ともいわなかった。
「おい、娘、何とかいわんかい」
 と催促されてもうそ寒そうに袖の中に手を入れ合して立っているだけだった。
 山の祖神は
「こいつ氷のように冷たいおなごじゃねえ」
 といった。
「よし、きさまがそういう料簡(りょうけん)なら、こっちにもこっちの料簡がある」
 といい放った。
 山の祖神の翁に、噎返(むせかえ)るような怒りと愛惜の念、また、不如意の口惜しさ、老いて取残されるものの寂しさがこもごも胸に突き上げて来た。
 翁はじっとしていられなくなって廻された独楽(こま)のように身体のしん棒で立上った。娘をはたっと睨(にら)み、焦げつく声でいった。
「よし、こうなったら、やぶれかぶれ。おれはきさまを詛(のろ)ってやる。金輪際(こんりんざい)まで詛ってやる。今更、この期になってびくつくまいぞ」
 娘の冴えまさる美しい顔を見ると、その毒心もつい鈍るので翁は眼を娘から外らしながら声を身体中から振り絞るべく、身体を揉み揺り地団太(じだんだ)踏みながら叫んだ。
「福慈の山、福慈の神、おまえは冷たい。骨の髄に浸みるまで冷たい。えい、冷たいままで勝手におれ、年がら年中冷たい雪を冠っておるのがいいのさ。草木も懐かぬ裸山でおれ。凍るものから、餌食を見出して来やがれ」
 ぺっぺっぺっと唾を三度、庭に吐き去りかけたが、ふとそこに落ちている小石の一つを拾って手早く懐に納め、
「ざまを見よ。やあいやあい」
 といって出て行った。
 この山の祖神の福慈の神に対する呪詛の言葉を常陸風土記では、
 汝所レ居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民レ不登、飲食勿レ奠者
 という文字で叙している。またこれにより富士は常に白雪を頂き、寒厳の裸山になったのだ、と古常陸地方の伝説は構成している。

 東国へ思い捨てたこどもに邂逅(めぐりあ)う望みを、姉の福慈岳の女神に失望した山の祖神は、せめて弟に望みを果し度いものだと、なおも東の方を志して尋ね歩るき出した。姉に訊いたら、あるいは消息を知ったかも知れないが、薄情を怒るどさくさ紛れに、つい訊くのを忘れたのを今更残念に思うものの、取って返して訊き直すこともならない。山の祖神の翁は行き合う人に訊ねることを唯一の手がかりにしてひたすら東の方にある山を望んで足を運ばせた。
 行糧の料はすでに尽き、衣類、履ものも旅の責苦に破れ損じた。この身なりで物乞うては餓を満たして行く旅の翁を誰も親切には教えて呉れなかった。
 足柄の真間の小菅を踏み、箱根の嶺(ね)ろのにこ草をなつかしみ寝て相模(さがみ)へ出た。白波の立つ伊豆の海が見ゆる。相模嶺(ね)の小嶺(おみね)を見過し、真砂為(な)す余綾(よろぎ)の浜を通り、岩崩(いわくえ)のかげを行く。
 東の国へ行くには二手の道があった。一つは山寄りの道を辿るのと、一つは海を越えて廻って行く道とであった。
 山寄りの道を行く方が山の岳神を探すに便利は多いようなものの、それ等の山は多く未開の山で、ちょっと人に訊いただけでも、山の主は、百足(むかで)であるとか、猿であるとか、鷲であるとか、気の利いた山の神ではなかった。これでは訪ねずとも判っている。翁は身に疲れも出たことなり、漸く舟人に頼み込み、舟の隅に乗せて貰って浪路を辿った。
 海路は相模国三浦半島から、今の東京湾頭を横断して房総半島の湊へ渡るのが船筋だった。
 土地不案内に加えて、右往左往した上、乗った船もここにはやてを除け、かしこに凪ぎを待つという進み方なので山の祖神の翁の上に人間の歳月の半年以上は早くも経ってしまった。
  夏麻(なつそ)挽く、海上潟(うみかみがた)の、沖つ州に、船は停(とど)めむ、さ夜更けにけり。
 しとしとと来た雨の夜泊の船中で、寝(い)ねがてた苫(とま)の雫の音を聞いていると翁の胸はしきりに傷んだ。翁は拾って来た娘の家の庭の小石を懐から取出して船燈のかげで検めみる。普通の石とは違っている。
 すべすべして赤く染った細長く固い石である。頭と尾は細く胴は張っている。背及び腹に鰭(えら)のようなものが附いている。魚の形と見られぬこともないが、より多く涙が結晶した形と見る方が生きて眼に映る石の形であった。それは福慈岳が噴き出した火山弾の一つであるのだった。
「娘が変っているだけに、庭の小石も変っていら」
 翁はそういって、なおも燈のかげで小石を捻っていた。
 傷むこころに、きらりと白銀の丸のような光りが刺した。
「おれはいま娘の涙を手に弄んでいるのではあるまいか」
 すると、娘がいったことであのときは不服のあまり胸に受けつけなかった意味のことが、まざまざと暗んじ返されてく来るのだった。
「庭の小石まで涙の形になってやがる。ひどい苦労は確にしたのだな」
 それに凝りずに、娘はなおも苦労を迎えてそれを支えた成長の肋骨を増やす積りでいる。凍るほど冷く感じられたおんなだったが、執拗(しつこ)く逞しく激しい火の性を籠らしている。その現れのようにこの涙型の石が血の色に赤く染っていることよ。石が尾鰭まで生やして、魚になっても生き上らんいのちの執拗さを示している。娘が何度も青春を迎えるといった言葉が思い出される。
 翁は掌の上に載せた火山弾にだんだん切ない重みを感じながら、その娘に対し氷にもなれというような呪詛をかけたことのおよそ見当違いでもあり、無慈悲な仕打ちであることが悔まれた。
 今頃、娘はどうしているだろう。福慈岳には夏に入るので白雪でも頂いていやしないか知らん。
 翁はすごすごと小石をまた懐へ入れた。苫に当る雨音を聞きながら一夜を寝苦しく船中に明した。

 房総半島に上り、翁は再び望多(うまぐさ)の峰(ね)ろの笹葉の露を分け進む身となった。葛飾(かつしか)の真間の磯辺(おすひ)から、武蔵野の小岫(ぐき)がほとり、入間路(いりまじ)の大家が原、埼玉(さきたま)の津、廻って常陸の国に入った。
筑波嶺(ね)に、雪かも降らる、否諾(いなを)かも、愛(かな)しき児等が、布乾(にぬほ)さるかも
 山の祖神は、平地に禿立(とくりつ)している紫色の山を望み、それは筑波という山であって、それには人身の形をした山神が住んでいることを聞き知った。

 その山は全山が森林で掩われて鬱蒼としていた。麓の方は樫(かし)の林であり、中腹へかかるとそれが樅(もみ)の林に代る。頂に近いところは山毛欅(ぶな)となった。山の祖神(おやのかみ)の翁はまだ山に近付かないさきから山の林種はこれ等で装われていることを、陽(ひ)に映(は)ゆる山緑の色調で見て取った。この様子の山なら草木の種類はまだ他にたくさん宿っている筈だ。
「豊な山だな」
 翁は手を翳してほほ笑んだ。
 山の頂は二つに岐れていた。尋常な円錐形の峯に対し、やや繊細(かぼそ)く鋭い峯が配置よく並び立っている。この方は背丈けは他より抽んでているが翁には女性的に感じられる。翁はこの山には人身の岳神が住み守ると聞いたが、それにしたら、その岳神は結婚していて、恐らくその妻は良人より年長のいわゆる姉女房であるであろうと山占いをした。
 東国の北部の平野は広かった。茅草(ちがや)・尾花の布き靡(なび)く草の海の上に、櫟(なら)・榛(はり)の雑木林が長濤のようにうち冠さっていた。榛の木は房玉のような青い実をつけかけ、風が吹くと触れ合ってかすかな音を立てた。丸く見渡せる晴れ空をしら雲が一日じゅうゆるく亙(わた)って過ぎた。
 その山は北の方から南へ向けて走る大きな山脈の、脈端には違いないのだが、繋がる脈絡の山系はあまりに低いので、広い野に突禿(とつとく)として擡(もた)げ出された独立の山塊にしか見えない。母体の山脈は、あとに退き、うすれ日に透け、またはむれ雲の間から薔薇色に山襞(やまひだ)を刻んで展望図の背景を護っていた。
 平野のどこからも眺められるその山は、朝は藍に、昼はよもぎ色に、夕は紫に色を変えた。山の祖神の翁は、夕の紫の山をいちばん愛した。
 翁が、草の茵(しとね)に座って、しずかにその暮山を眺めやるとき、山のむらさきから、事実、ほのかで甘く、人に懐き寄る菫の花の匂いを翁の嗅覚は感じた。
 翁は眼を細めて
「山近し、山近し」
 と呟いた。
 その言葉は、翁が福慈神に近付くとき胸に叫んだと同じ言葉ではあるが、翁はただ呟いただけで山に急ぐこころは無かった。その山は急いで近寄らなければ様子が判らないというような山容ではなかった。離れて眺めているだけでも懐しみは通う山の姿、色合いだった。むしろ近付いたら却って興醒めのしそうな懸念もある遠見のよさそうな媚態(びたい)がこの山には少しあった。
 広野の中に刀禰(とね)の大河が流れていた。薦(こも)、水葱(なぎ)に根を護られながら、昼は咲き夜は恋宿(こいする)という合歓(ねむ)の花の木が岸に並んで生えている。翁はこの茂みの下にしばらく憩って、疲れを癒やして行こうと思った。何に疲れたのか。もちろん旅の疲れもある。しかしもっと大きいのは娘に対する疲れであった。
 福慈岳で女神の娘と訣れてから旅の中にすでに半歳以上は過ぎた。訣れは憤りと呪いを置土産にいで立ったものの、渡海の夜船の雨泊中に娘の家の庭から拾って来た福慈岳の火山弾を取出してみて、それが涙痕の形をしており、魚の形をしており、また血の色をしているところから福慈岳神としての娘の苦労を察し、決意のほどもほぼ覗(うかが)えた。それにつれて一時それなりに呵(か)し去れたと思えた娘の主張が再び心情を襲うて来て、手脚の患い以上に翁を疲らすのであった。
 娘のいったことは自然の意志としたならあまりに生きて情熱に過ぎている。もちろん人間の考えだけであれだけの超越の霜は帯ばれない。娘はいのちということをいったがそれは自然と人間を合せて中から核心を取出したそのものをいうのであろうか。翁は今までの生涯に生きとし生けるものの逃れず考えることは生活と幸福と生死ということであると思っていた。そしてこれ等のことは人間が山に冥通する力を得て二つの山の岳神となり得たとき総ては解決されるとまた思っていた。山の生活、山の幸福、そこに何一つ充ち足らわぬものがあろうか。命終せんとして雲に化し巌(いわお)に化す。そこに生死を解脱(げだつ)して永世に存在を完うしようとする人間根本の欲望さえ遂げ得られるのではないか。
 それに引代え娘はいくたたびの生死を語り、その生死毎に苦悩と美への成長を語り、生活とも幸福ともいわない。強(し)いてそれらしいものを娘の言葉の中から捕捉するなら娘がいったいくたたびか迎える辛くも新鮮な青春、かくて遂(つい)に老ゆることを知らずして苦しくも無限に華やぎ光るいのち。娘にしたらこれをこう生活とも幸福ともいうのだろうか。おう!
 山と人間を冥通するところの力に座して世に経るを岳神という。岳神も神には神である。だがこの程の生き方を望もうとも経られようとも思わぬ。
 それは人界の理想というものに似ている。現実に遠く距るほど理想である。しかもあの娘はその遠く距るものを現実に享(う)け生かそうとするものではなかろうか。
 娘は祭の儀を説いて神の中なる神に相逢うといった。
 思えば思うほどひとり壁立万仭(ばんじん)の高さに挺身(ていしん)して行こうとする娘の健気(けなげ)な姿が空中でまぼろしと浮び、娘の足掻(あが)く裳からはうら哀しい雫(しずく)が翁の胸に滴(したた)って翁を苦しめた。
 取り付きようもない娘の心にせめて親子の肉情を繋ぎ置き度い非情手段から、翁は呪(のろ)いという逆手(ぎゃくて)で娘の感情に自分を烙印(らくいん)したのだったが、必要以上に娘を傷けねばよいが。
「どうしたらいいだろうなあ」
 山の祖神の翁は螺の如き腹と、えび蔓のように曲がった身体を岸の叢(くさむら)に靠(もた)せて、ぼんやりしていた。道々も至るところで富士の嶺は望まれたが見れば眼が刺されるようなので顧ってみなかった。
 岸の叢の中には、それを着ものの紐(ひも)につけると物を忘れることができるという萱草(わすれぐさ)も生えていたが、翁はそれも摘まなかった。せめて悩んでいてやることが娘に対する理解の端くれになりそうに思えた。
 前には刀禰(とね)の大河が溶漾(ようよう)と流れていた。上つ瀬には桜皮(かにわ)の舟に小□(おがい)を操り、藻臥(もふじ)の束鮒(つかふな)を漁ろうと、狭手(さで)網さしわたしている。下つ瀬には網代(あじろ)人が州の小屋に籠(こも)って網代に鱸(すずき)のかかるのを待っている。
 翁はときどき、ひょんなところで、ひょんな憩い方をしていると、苦笑して悩みつつある一人ぼっちの自分を見出すのであったが、なかなか腰は上げ悪(にく)かった。
 東国のこのわたりの人は言葉や気は荒かったが、根は親切だった。餓えて憩っている老翁のために魚鳥の獲ものの剰ったのを持って来て呉れたり、菱の実や、黒慈姑(えぐ)を持って来て呉れたりした。雨露を凌ぐ菰(こも)の小屋さえ建てて呉れた。
 昼は咲き夜は恋宿(こいする)という合歓の木の花も散ってしまった。翁は寂しくなった。翁がこの木の下にしばし疲れを安めるために憩うたのは、一つは、葉の茂みの軟かさにもあるのだろうが一つは微紅(とき)色をした房花に、少女として自分の膝元に育て上げていた時分の福慈の女神の可憐な瞳の面かげを見出していたのではあるまいか。ぱっと開いてしかも煙れるような女神の少女時代の瞳を、翁は娘の成長に伴う親の悩みに悩まされるほど想い懐しまれて来るのだった。
 刀禰(とね)の流れは銀色を帯び、渡って来た、秋鳥も瀬の面(も)に浮ぶようになった。筑波山の夕紫はあかあかとした落日に謫落(たくらく)の紅を増して来た。稲の花の匂いがする。
「山近し、山近し」
 山の祖神の翁は今は使い古るしになっているこの言葉を呟いた。そしてやおら立上った。その山は確に葉守(はもり)の神もいそしみ護る豊饒な山に違いない。そしてまた、そこに鎮まる岳神も、嘗(かつ)て姉の福慈の女神と共に、東国へ思い捨てたわが末の息子が成長したものであろうという予感は沁々(しみじみ)とある。それでいてなお急ぐこころは湧き出でない。
 河口に湖のようになっている入江の秋水に影を浸(ひた)すその山の紫をもう一度眺め澄してから翁は山に近付いて行った。

 山麓(ふもと)の端山の千木(ちぎ)たかしる家へ山の祖神の翁は岳神を訪ねた。
 一年は過ぎたが不思議とその日は翁が福慈岳の女神を訪ねたと同じ頃で、この辺の新粟を嘗むる祭の日であった。岳神の家は幄舎(あくしゃ)に宛てられていた。神楽(かぐら)の音が聞えて来る。
 山の祖神の予感に違わず、この筑波の岳神は、自分の息子の末の弟だった。
 しかし息子は、父親の神の遥々の訪れをそれと知るや、直ちに翁を家の中へ導き入れ、紹介(ひきあわ)せたその妻もろとも下へも置かない歓待に取りかかった。そうしながら祭の儀も如才(じょさい)なく勤めた。
 その妻は翁の山占い通り、いささか良人より年長で良人の岳神を引廻し気味だった。彼女はいった。
「ふだん、どんなにか、お父上のことを二人して語り暮らしておりましたことでしょう。有難いことですわ。これで親孝行をさして頂けますわ」
 家の中のいちばんよい部屋を翁のために設けて呉れた。この山に生(な)るものの肥えて豊なさまは部屋の中を見廻しただけでも翁にはすぐそれと知れた。
 黒木の柱、梁、また壁板の美事さ、結んでいる葛蔓の逞しさ、簀子(すのこ)の竹材の肉の厚さ、翁は見ただけでも目を悦ばした。敷ものの獣の皮の毛は厚く柔かだった。
 壁の一側に□机(しもとづくえ)を置き、皿や高坏(たかつき)に、果ものや、乾肉がくさぐさに盛れてある。一甕の酒も備えてある。
 狩の慰みにもと長押(なげし)に丸木弓と胡□(やなぐい)が用意されてあった。
 息子の夫妻は朝夕の間候を怠らず、食事どきの食事はいつも饗宴のような手厚さであった。
 息子夫妻のそつの無い歓待振りはまことに十二分の親孝行に違いなかった。普通にいえばこれで満足すべきであろう。だが父の祖神の翁には物足りないものがあった。
 息子夫妻が父の祖神の翁に顔を合すとき、大体話は山の生産の模様、山民の生活の状況、それ等を統(たば)ねて行く岳神としての支配の有様、そのようなものであった。それは誰が聴いても円満で見上げたものであった。山民間に起った面白そうな出来事を噂話のように喋っても呉れた。だが、それだけだった。
 親子関係を離れて誰に向っても話せる筋合いの事柄ばかりである。折角、親子がたまにめぐり合うのは、もっと心情に食い込んだ、親子でなければできないという気持の話はないものか。人知れない苦労というものが息子の岳神にはないのか、囁いて力付けて貰ったり、慰めて貰ったりしたい秘密性の話はないのか。
 気を付けてみるのに、息子の岳神のこの公的な円満性は、妻に対してでもそうであった。
 夫妻は睦(むつまじ)くて仲が良い。良人を引廻し気味に見える才女の姉女房も、良人を立てるところには立派に立てた。岳神の家としての事務の経営は少しの渋滞もなく夫妻共に呼吸は合っている。それでいて何となく夫妻の間に味がない、お人良しでしかも根がしっかり者の良人の岳神が少しにやにやしながら、
「働けそうな女なので、共稼ぎにはいいと思いましてね、この奥地の八溝(やみぞ)山の岳神の妹だったのを貰(もら)って来ましたのです。これでも求婚の競争者が相当ございましてね」
 という意味のようなことを話しかけると、妻は
「まあまあ、そんなお話、どうでもいいじゃございませんか」
「それよりかまだ山の中でおとうさまがお見残しのとこもございましょう。幸いよい天気でございますから、あなたご案内して差上げたら」
 と、とかくに事物の歓待の方へ気を利かして行くのであった。
 翁の方からは何もいい出せなかった。いい出せる義理合いではないと翁は思っていた。すでに東国へ思い捨てた子である。それが自力でかかる豊饒な山の岳神ともなっていて呉れてるのだから何もいうことはない。山の祖神としては、この分身によって自分にも豊かさという性格を附け加え得られ、眷属(けんぞく)の繁栄を眼に見ることである。感謝すべきだ。
 姉娘に対してはとかく恋々たる山の祖神の翁も弟の岳神に対してはどういうものかこの点は諦めがよかった。
 ただ一言この弟の岳神の口から聞かして貰い度いのは姉娘の福慈岳の女神の批評だった。翁はそれを聞いて、もし悪罵(あくば)の声でも放って呉れるなら不思議に牽かれる娘の女神への恋々の情を薄めてでも貰えるようにさえ感ずるのだった。
 翁はここに於てはじめて姉娘に就いての口を切った。
「来る道で、実は福慈岳へも寄ってみたよ」
 弟の岳神は顔の色も動かさず
「それは何よりでございました。姉さんもお歓びでございましたでしょう」
「ところが生憎(あいにく)と祭の日だったのでね。泊めて貰うこともできなかったよ」
 翁はこういって弟の岳神の顔を見た。弟は諾(うなず)いたが声はあっさりしていた。
「そりゃお気の毒なことでございました。あちらはこちらと違って諸事、厳しいところもございましょう」
 翁は焦(いらだ)つように訊いた。
「おまえ等は、福慈とは交際(つきあ)っていないのかい」
 すると弟の岳神は言訳らしく
「なにしろ自分の持山のことで忙しく、ついついご無沙汰をしております」
 そのとき岳神の妻が傍から、ちょっと口を入れた。
「前にはお姉さまのところへも、ときどき伺ってみましたのですが、ああいうお偉い方のことですから、すぐこっちに話の接穂(つぎほ)が無くなってしまう場合も多く、それにああいうご勉強家のことですから、お邪魔しましても、何かお妨げするような気もいたしますので、ついついご無沙汰勝ちになってしまったのでございますわ」
 それからちょっと間を置き、
「ずいぶん、普通の女の子とは変っていらっしゃいますわね」
 その言葉につれて良人の岳神も
「どういうものか、あの人の前へ出ると、威圧される気がするところから、つい心にもない肩肘の張り方をしてしまう。どうも姉弟ながらうち解けにくい」
 と零(こぼ)した。
 山の祖神が息子夫妻から衷情を披瀝したらしい言葉を聴いたのは、この姉娘に対する非難めく口振りを通してだけだった。
 山の祖神はこれを聴くと、息子夫妻と一しょになって姉娘を非難したい気持なぞは微塵(みじん)もなくなった。腹の中で、「この平凡な若夫婦に、何であの福慈の女神のことなぞが判るものか」と想いながら、こういう言葉で姉娘に関る話は打切りにした。
「なに、あれで、なかなか女らしいところもあるんだよ」と。

 この山は人間が昵(なじ)み易い山だった。水無(みなの)川を越えて山腹にかけ山民の部落があった。石も多いがしかしそれに生え越して瑞々(みずみず)と茂った、赤松、樅(もみ)、山毛欅(ぶな)の林間を抜けて峯と峯との間の鞍部に出られた。そこはのびのびとしていて展望も利いた。
 二つに分れている峯にはどちらにも登れた。岳神の息子夫妻の象徴のように一方は普通の峯かたちで、一方はいくらか繊細(きゃしゃ)で鋭く丈(た)けも高かった。山の祖神の老いの足でも登れた。
 東の国の平野が目の下に望まれた。その岸に寝た刀禰の川水がうねうねと白く光って通っている。河口の湖のような入江。それから外海の波が青く光っている。
 西北の方には山群が望まれて、翁の心を沸き立たした。も少し自分の齢が若かったらこどもをあれ等の岳神に送るのにと思わしめた。山郡のところどころに高い山が見えた。煙りを噴いてる山も望まれる。遠く福慈岳が翁の眼に悲しく附き纏(まと)う。
 奇妙な形をしたいろいろの巨きな岩、滝――女体の峯から戻って来る道には、そういう目の慰みになるものもあった。虫を捉えて食べるという苔、実の頭から四つの羽の苞(つと)が出ている寄生木(やどりぎ)の草、こういうものも翁には珍らしかった。
 息子の岳神は暇な暇な、父の祖神を山中に案内して見せて廻るうち、ある日、山ふところの日当りの小竹(ささ)原を通りかかり、そこに二坪近くの丸さに、小竹之葉(ささがは)が剥げ、赤土が露(む)き出ているのを見付けると、息子の岳神は指して笑いながらいった。
「猪が仔猪をつれて来て相撲(すま)って遊ぶところです」
 赤土は何度か猪の蹄(ひづめ)に蹴鋤かれたらしく、綿のように柔かに、ほかほか暖そうであった。
「なるほど、この辺は人里離れて、猪の遊ぶのに持って来いだ」
 翁はそういって、傍の保与(ほよ)(寄生木)のついている山松を見上げた。その日は何心なくそれで過ぎた。
 岳神の父親が滞在すると聞き付けて、配下の土民たちはところところの産物を父の祖神に差上げて呉れと持って来た。
 加波山で猟れた鹿らしく鹿島の猟で採れた鰒(あわび)、新治(にいばり)の野で猟れた、鴫(しぎ)、那珂の川でとれたという、蜆貝(しじみがい)。中にははるばる西北の山奥でとれたのをまた貰いに貰って来たといって、牟射佐妣(むささび)という鳥だか、獣だか判らないものをお珍らしかろうと贈りに来た。老衰を防ぐにはこれが第一だといって武奈岐(むなき)を持って来て呉れるものもある。
 夜の奥の綾むしろは暖く、結燈台の油坏(つき)に油はなみなみとしている。
 翁は衣食住の幸福ということも考えないではいられなかった。
 それで常陸風土記(ひたちふどき)によると一応はこうも事祝(ことほ)いでやった、
「人民集賀、飲食富豊、代々無レ絶、日々弥栄、千秋万歳、遊楽不窮」と。
 しぐれ降る頃には、裳羽服(もはき)の津の上で少女男が往き集う歌垣が催された。
 男列も、女列も、青褶(あおひだ)の衣をつけ、紅の長紐を垂れて歌いつ舞った。歌の終り目毎に袖を挙げて振った。それは翁の心に僅かに残っている若やぐものに触れた。
 岳神の妻は、笑って冗談のようにして、
「この中に、もし、お気に入りの娘でも見当りましたら、お身のまわりのお世話に侍かせましょう」
 といって呉れた。
 しかし翁は寂しかった。
 ある日、土民の一人が瓜(うり)わらべを拾って持って来て呉れた。それは猪の仔で、生れて六七月になる。筒形をしていて柔かい生毛の背筋に瓜のような竪縞が入っていた。それで瓜わらべと呼び慣わされていた。
「これはよいものを貰った。肉は親の猪より軟かでうまいものです」
 息子の岳神はそういって、父の祖神に食べさすように妻に命じた。
 翁は、ういういしく不器用な形の獣の仔を見ると、何か心の喘ぎが止まるような気がした。とても殺して食べさせて貰う気なぞ出なかった。
「ちょっと待って呉れ。これはそのままでわしが貰おう」
 翁は、瓜わらべを抱えて戸外へ出た。瓜わらべはくねくね可憐な鳴声を立てて鼻面を翁の胸にこすりつけた。翁は何となく涙ぐんだ。
 翁は螺の腹にえび蔓の背をした形で、瓜わらべを抱え、いつの間にか、いつぞや、息子の岳神に教えられた山ふところの猪の相撲場に来ていた。蹄で蹴鋤いた赤土はほかほかしている。
 山の祖神は、あたりを見廻した。見ているものは保与(ほよ)のついた山松ばかりだった。翁は相撲場の中へ入り瓜わらべを土の上へ抱き下した。
 螺の腹にえび蔓の背の形をした老翁と、筒形の瓜わらべとは、猫が毬(まり)を弄ぶように、また、老牛が狼に食(は)まれるように、転びつ、倒れつ千態万状を尽して、戯れ狂った。初冬の風が吹いて満山の木が鳴った。翁は疲れ切って満足した。瓜わらべにちょっと頬ずりして土に置いた。瓜わらべの和毛(にこげ)から放つらしい松脂の匂いが翁の鼻に残った。
 翁はしばらく息を入れていた。瓜わらべは小竹の中へ逃げ込みそうなので片手で押えた。
 膝がしらがちくちく痛痒い。翁が検めみると獣の蝨(だに)が五六ぴき褌(はかま)の上から取り付いていた。猪の相撲場の土には親猪が蝨を落して行ったのだった。
「こいつ」
 といって翁は、膝頭の蝨を、宝玉を拾うように大事に、一粒ずつ摘み取る。老いの残れる歯で噛み潰した。獣の血臭いにおいがして翁の唇の端から血の色がうっすりにじんだ。満山の風がまた亙る。
 翁にはもう何の心もなくなった。手を滑った瓜わらべは逃れて小竹の茂みに走り込んだ。代りに親猪の怒れる顔面を翁は保与(ほよ)のついた山松の根方に見出した。
 山の祖神の事である、山に棲めるほどのものを自由に操縦できないいわれはない。けれども、翁は、
「命終のとき」
 といって、従容とその親猪の牙にかけられて果てた。

 初夏五月の頃、富士の嶺の雪が溶け始めるのに人間の形に穴があく部分がある。「富士の人型」といって駿南、駿西の農民は、ここに田園の営みを初める印とする。その人型は螺の腹をしえび蔓の背をした山の祖神の翁の姿に、似ている。いやそれにやや獣の形を加えたようでもある。
 ここにまた筑波の山中に、涙明神という社がある。本体には富士の火山弾が祭ってある。

 山の祖神(おやのかみ)が没くなるとまもなく子が無いことを託(かこ)っていた筑波の岳神夫妻の間にこれをきっかけに男女五人ほどのこどもができた。
 風の便りに聞けば、山の眷属の西国の諸山にも急にこどもの出生の数を増したという。
 老いたるは、いのちを自然に還して、その肥田から若きものの芽を芽出たしめるという。
 生命の耕鋤順環の理が信ぜられた。
 水無瀬女は、豊かな山に生れ、しかも最初に生れた総領娘なので、充分な手当と愛寵の中で育てられた。ふた親は常に女(ひめ)にいって聴した。「東国では、あなたが、あの偉大な山の祖慫神(おやのかみ)さまの一番の孫なのですよ」と。孫娘はおさな心に高い誇りを感じた。
 ふた親は、なお、祖父の神の偉大さを語るにこういう言葉を使った、「なにしろ、西国の山々はもちろんのこと、東国でも、福慈とか、この筑波とかいう名山には必ず、こどもをお遺しになり、山を拓かすと共に、眷属の繁栄(さかえ)をお図りになった方なのだから」と。
 祖父の偉れた点を語ることは、また、その孫娘に偉れることを慫慂(しょうよう)することでもあった。
 ふた親は、自分たちのことに就ては「わたし達は、何ということはない平凡なものさ。けれども、山を拓くことにかけては、これでも人知れない苦労はしたものさ」
 女(ひめ)は、幼いときから、礼儀作法を仕込まれた。女の嗜(たしな)みになる遊芸の道も仕込まれた。しかし最も躾(しつ)けに重きを置かれたのは生活の調度の道だったことは、ふた親の性格からして見易き道理であった。麻野には麻を蒔(ま)き、蚕時(こどき)には桑子(くわこ)を飼う。――もし鯛が手に入ったら蒜(ひる)と一しょにひしお酢にし即座の珍味に客に供する。もし小江(さえ)の葦蟹を貰ったら辛塩を塗り臼でついて塩にして永く貯えの珍味とする。こういう才覚が母によって仕込まれた。女は歌垣に加わって歌舞する手並も人並以上に優れたが、それよりも、繭を口に含んで糸を紡ぎ出し、機糸の上を真櫛でもって掻き捌(さば)く伎倆の方が遥に群を抜いていた。
 女は容貌(みめかたち)も美しかったので、かかる才能と共に、輩下の部落の土民の間で褒(ほ)めものにされた。ふた親にとっては自慢の総領娘となった。
 ふた親にとっては姉に当り、自分にとっては伯母に当る駿河能国(するがのくに)の福慈の女神のことについては、どういうものかふた親はあまり多くを語らなかった。語るのを好まないようだった。強いて訊くと「あんな伯母さんのことを気にかけるものではありません」「仔細あって私たちは交際(つきあ)ってはいません」「あれで、なかなか裏に裏のある女でね」「あんな大きな山に住えば誰だって評判はよくなるさ。いってみれば運のよい女さ」「私たちと違って苦労知らずの女さ」「女のことは何一つできないあれが、どうして評判がいいのだろう」まずは悪評に近い方だった。しかしそれでいて、人々がふた親の目の前で福慈岳と女神のことを褒めると、ふた親は女神は自分たちの姉であることを明して、近しい眷属であることを誇った。
 水無瀬女は、ときどき山の峯の鞍部のところへ上って、伯母の山を眺めた。煙霧こそ距つれ、その山は地平の群山を圧して、白く美しく秀でていた。
「やっぱり、立派だわ、うらやましいわ」
 と声に出して言った。そしてふた親はいかにあれ、女神があの山の如きであるなら、どうか自分もあの伯母さんのようになり度いものだと、理想をかの山に置いた。
 女にだんだんもの心がつき、比較によって自分と他とを評価する力が生れて、福慈岳の評判を聞いてみると、その秀でさ加減はあまりにも自分の資格とはかけ離れたものであった。積といい量といい形といい、もはや生れながらにも及びつかない素質の異りがあると感じないわけには行かなかった。一つ山の眷属の女でどうしてこうも恵まれ方に違いがあるのだろう。女は福慈岳を眺めて、美しさよりぬけぬけとすまし返っているような感じが眼につくようになった。
「お伯母さまが、なにもかにも眷属中の女の良いところのものは一人で持ってらしってしまったのだわ」
 うらやましさが嵩じて嫉(ねた)みともなった。
「だから、あたしのような屑の女も、眷属中にできるのだわ」
 そして、ふた親がとかく福慈岳に対して反感を持つような態度であるのは、平凡が非凡から受ける無形の圧迫から来るものであること、また、自分に山の祖神の嫡孫の気位を高く持たせ、それに相応(ふさ)わしい偉れた女に生い立たしめようとするのも、伯母に対するふた親の無意識の競争心から来るものであることを感付かないわけにはゆかなかった。
「駄目々々。偉くなることなんて。あたしに、さっぱりそんな慾はなくってよ」
 捨てるともなく誇りと励みに背中を向けかけると、ふた親が説く、山の祖神の偉さというものより部落の間の噂に遺っている山の祖神の偉からざる方面のことが女には懐しまれて来た。
 祖父さまは山中の猪の相撲場で、猪の仔の瓜わらべと遊び戯れているとき、猪の親に襲われ、牙にかかってお果てなされた。祖父さまは娘の福慈の神のつれない待遇を恨まれ、娘の神に詛いをかけたのみか、執着は、峯のしら雪に消え痕ともなって自形(じぎょう)の人型をとどめられた。それは稚気と、未練であるでもあろう。それゆえ、ふた親は自分に秘して語らない。しかし部落の土民たちがこれを語るときに現す、山の祖神に対する親しげな面貌よ。稚気と未練に含まれて、そこに何かあるに違いない。
 女は年頃になった。相変らずこの界隈の褒めものの娘であり、ふた親の自慢娘ではあった。女はもはや山の鞍部へ上って伯母の山の姿を眺め見ることはせず、理想なるものを持たず、ただその日その日を甲斐々々しく働いた。雁金(かりがね)が寒く来鳴き、新治(にいばり)の鳥羽の淡海も秋風に白浪立つ頃ともなれば、女は自分が先に立ち奴たちを率いて、裾わの田井に秋田を刈った。冬ごもり時しも、旨飯を水に醸(かも)みなし客を犒(ねぎら)う待酒の新酒の味はよろしかった。娘はどこからしても完璧の娘だった。待酒を醸む場合に、女はまずその最初の杯の一杯を、社(やしろ)に斎(いつ)き祭ってある涙石に捧げた。それは祖父の山の祖神が命終のとき持てりしものの唯一の遺身(かたみ)の品とされていた。
 年頃になって、完璧の娘で、それでいて女に男の縁は薄かった。異性にしていい寄る恰好(かっこう)をするものもあるが、それは単に年頃にかかる娘への愛想か、岳神の総領娘に対しての敬意を変貌させたようなもので、恰好だけに過ぎなかった。もとより女自身からは乗り出せない。そういう触手は亀縮(かじか)んでいる。双親を通して申込まれる山々からの縁談も無いことはないのだが、ぜひ自分でなくてはと望むらしい熱意ある需(もと)めとは受取れなかった。良山良家の年頃の娘でさえあれば、一応、口をかけて問合わされる在り来りのものに過ぎなかった。双親はまた、自分たちの眼からしてたいしたものに思い做(な)している娘を、滅多な縁談にやれないといい張った。相手の山や岳神を詮議して、とかくそれ等に不足を見付け出した。娘の婚期は遅れて来た。双親は負け惜しみもあり、なに、それなら、水無瀬は筑波の岳の跡取にして、次の代の筑波は女神、女族長でやらして行くといっている。
 水無瀬は何となく生きて行くことにくさくさして来た。さほど醜くもなく、これだけ物事ができる自分が、せめて、どうして男の縁が薄いのだろうか。女が男に対する魅力とは、全然こういう資格や能力とは関係ないのか。それにつけても久振りに伯母の福慈の女神のことが思い較べられて来るのであった。
 往来の道が拓けるにつれ、東国の西の方よりこの東国の北部の方へ入り込んで来る旅人が多くなった。女はその人々の口からして伯母の女神のその後の消息を少しずつ詳しく聴くことができた。
「福慈の女神はだんだん若くなるようである」と旅人たちはいった。七つ八つの童女の容貌を持ち、ただその儘(まま)で身体は大きい。怒るときは、山腹にかみなり稲妻を起し満山は暗くなった。笑うときは峯の雪を日に輝して東海一帯の天地を朗なものにした。悲しむときは、鳴沢に小石が滑り落ちる音が止めどもなくしくしくと聞えて来る。
 平野に雲の海があるとき、霞棚引けるとき、それ等を敷筵(しきむしろ)にして、幽婉な寝姿が影となって望まれる。それは息もないようなしずかな寝姿であり、見る目憚(はばか)らぬこどものように仰(あおむ)き踏みはだかった無邪気な寝姿でもある。
 しかも、女神の慧(さと)さと敏感さは年経る毎に加わるらしく、天象歳時の変異を逸早く丘麓の住民たちに予知さすことに長けて来た。従来、ただ天気の変りを予知さすだけに、峯の頂の天に掲げ出した、笠なりの雲も、近頃では、その色を黒白の二つに分け、黒の笠雲の場合は風雨のある前兆とし、白い笠雲の場合は風ばかりの前兆としたようなこまかさとなった。
 幾人の神人や人間が、この女神に恋をしたことであるだろう。女神は一々、まじめに、その恋を求むる男たちに見向ったらしい。だが何人がこの女神の逞しい火の性、徹る氷の性に、また氷火相闘つ矛盾の性に承(う)け応えられるものがあったろう。彼等のあるものは火取り虫のように却って羽を焼かれ、あるものは虫入り水晶の虫のように晶結させられてしまった。矛盾の性に見向われたものは、裂かれて二重の空骸となった。それ等の空骸に向って女神は、涙をぽたぽた垂しながら、撫(な)でさすり「可哀相に、いのちの愛までは届かぬ方」というというが、誰もその意味を汲取ったものはない。ただ女神にそういわれて撫でさすられた空骸は、土に還ると共に、そこからはこけ桃のような花木、薊(あざみ)のような花草が生えた。深山榛(みやまはん)の木の根方にうち倒れた、醜い空骸は、土に還ると共に、根方に寄生して、そこから穂のような花をさし出すおにくという植物になった。
 生けるものに失望したのか、それとも自分自身現実離れして行くのか、女神の姿は、住いの麓(ふもと)の館をはじめ地上ではだんだん見受け悪くなった。空間に浮ぶ方が多くなった。形よりも影、体よりも光り、姿よりも匂いで、人の見(まみ)ゆる方が多くなった。水にひたす影に於てこそ、もっとも女神の現身(うつしみ)をみることができる。
 見ぬ恋に憧れたあちこちの若い河神たちが、八人と(ママ)集って来た。彼等は思い思いの麓の野に土を掘り穿(うが)ち水を湛えた。水に映る女神の影を捉えようためである。たまたま女神は湛えた水の一つに姿をうつす。その場を張り守っていた河神は猶予なく姿を掴む。うたるる水の音のみ高く響いて、あとに残ったものは掌から肘に伝わる雫のみである。一とき聞くに堪えないような失望の呻き声が聞える。だが河神は肘の雫を啜っていう「私はこの女神のために諦めということを取失わされてしまった。消ゆるかに見えて、また立つ漣(さざなみ)……」
 岳麓にできた八つの湖、その一つ一つを見まもる八人の河神の若い瞳。その辛抱を試しみるように、湖面に、ときどきさざ波が立つ。
 旅人たちの話を綜合してみて、いちいち驚かれる伯母が持てるものである。水無瀬女は、また「お伯母さまが、なにもかにも持ってらしってしまったのだわ。眷属中の良いところのものを一人で」と託(かこ)ったが、男のこころまでかくも牽くということを聴くと、うらやましさが嵩じてなった嫉みは、更に毒を加えて燃えさせられ、激しい怒りとなった。女は「お伯母さまが、なにもかにも奪(と)ってってしまいなさるのだわ。あたしの分まで……」こういい直さないわけにはゆかなかった。女のこころは、決闘目(はたしめ)となって来た。かにかくに自分は一度伯母に会い、この詰(なじ)らないでは措けないものをうちかけてみたい気持に、迫られた。
 あのつんとすまし、ぬけぬけと白膚を天に聳(そび)え立たしている伯母の山が、これだけは拭えぬ心の染班(しみ)のように雪消(ゆきげ)の形に残す。伯母にとっては父、自分にとっては祖父の執着未練な人型なるものを見度かった。それを見ることによって自分に一ばん懐しまれる性格の祖神にも会えるような気がした。
 母はやや老い、筑波の岳神の家では、働きものの水無瀬が主婦のような形になっていた。世間の男たちからは距てを構えられる女も、家の中の弟妹たちからは母よりも頼みとされ、親しまれた。彼等は外なぞから帰って来ると、まず「姉さまは」と、探し求めた。
 水無瀬はその弟妹の中の上の弟を語(かたら)って、三月の行糧を、山の窟(いわや)に蓄えた。姉の確りしたところで、いつも気を引立てられている勝気にも性の弱い弟は、この秘密で冒険な行旅を、姉の敢行力の庇(かげ)に在って、共々、行い味われたので、一も二もなく賛成した。
 さしむかう鹿島の崎に霞たなびき初め、若草の妻たちが、麓の野に莪蒿(うはぎ)摘みて煮る煙が立つ頃となった。女は弟を伴ってひそかに旅立った。うち拓けた常識の国から、未萌の神秘の国へ探り入る気ずつなさはあったが――

 甲斐々々しくとも足弱の女の旅のことである。女が駿河路にかかったときには花後の樗(おうち)の空に、ほととぎす鳴きわたり、摺(す)らずとも草あやめの色は、裳に露で染った。
 近づくにつれ、いよいよ驚かれるのは伯母の領(うしは)く福慈岳の姿である。姪の女はただ圧倒された。これがわが肉体の繋りかよ。しかもこのものに向って、争(あらが)おうと蓄えて来た胸の中のものなぞは、あまりに卑小な感じがして、今更に恥入るばかりであった。この儘に帰ろうか。それも本意ない。うち出して会おうとするには、すでに胸中見透されている気がして逡巡(しりご)まれた。願(ね)ぎかくるは伯母のまにまにである。そしてこっちは、ゆくりなく、漂泊(さすら)う旅の路上で、ふと伯母に見出されたという形であらしめ度い。胸中いかに見透されていようと少くともこの形の態度なら超越の伯母に対し、初対面の姪むすめの恰好はつけられる。
 水無瀬女は弟を伴って福慈岳の麓の野をあちらこちらと彷徨(さまよ)った。嘗(かつ)て常陸の山に在って旅人から聞いた話の、八つの湖に女神の姿を待ち侘ぶ河神たちの姿も眼の前に見た。河神たちの若い瞳は、陽炎(かげろう)を立てて軟く燃えているが、姿は骨立って痩せていた。冬はかくて痩せ細り夏に雨を得て肉附くことを繰返しながら、瞳は一途にあえかなるものに向って求めているのだと土民はいった。女はその瞳の一つだも贏(か)ち得たなら自分はどんなに幸福だろうと考えないわけにはゆかない。
 恋い死の空骸から咲き出でたという花木、花草は、今を春と咲き出していた。高く抽き出でた花は蒐(あつま)ってまぼろしの雲と棚曳き魂魄を匂いの火気に溶かしている。林や竹藪の中に屈(くぐ)まる射干(しゃが)、春蘭のような花すら美しき遠つ世を夢みている。これをしも死から咲き出たものとしたなら、この花等は自らの花をも楽しく謳っているようである。ぴんちょぴんちょ、たちからたちから。北から帰って来たという小鳥たちは身籠る季節まえのまだ見ぬ雄を慕うて、囀(さえず)りを立てている。
 麓の春の豪華を、末濃(おそご)の裳にして福慈岳は厳かに、また莞爾(かんじ)として聳立(そびえた)っている。一たい伯母さんは幾つの性格を持っているのか知らん。
 晴れた日は全山を玲瓏と人の眼に突付けて、瑕(きず)もあらば、看よ、看よと、いってるような度胸のよい山の姿である。曇った日は雪の帳(とばり)深く垂れ籠めて、臆した上にも病的な女が、人嫌いし出したようである。
 くさぐさの山の変化を見経ぐり、見分けながら、女はまだ伯母の女神の姿に遇わない。弓矢を提(たずさ)えて来た弟は、郷国(くに)の常陸には見受けない鳥獣を猟ってその珍しさに日の過ぐるのを忘れていたが、それも飽きていうようになった。
「伯母さんなんかに遇ったってつまんないじゃないか、もう帰ろうよ」
 部落の土民の間では、こういういい慣(ならわ)しがあった。「それはたぶん、女神が季節の変り目で、夏の化粧をされてるからだろう。でなければ厠(かわや)に上られてはこされているからだろう」女神の化粧は自分で納得(なっとく)ゆくまで何遍でも仕代えさせられるので永い。女神の上厠は、はこそのものよりも、うつらうつら物うち考えられるのでこれも永い。厠神の植山(はにや)姫、水匿女(みずはのめ)も永く場を塞がれて手を焼くそうであるという。
 若い瞳がうち看守る八つの湖、春を敷妙(しきたえ)の床の花原。この間にところどころ溶岩で成れる洞穴があった。形よき穴には生けるものが住んでいた。形悪しきには死にかかっているものが住んでいた。
 彷徨(さまよ)いあぐねてこの洞穴の一つのまえを通りかかった水無瀬女は、穴の中から□(うめ)き声に混ってこういうのを聞いた。
「あの方は、いのち、いのちというが、ああ、いのちは、健康であるときにのみ有意義なのだ、この病める姿の醜さ。昼も夜もそのための尽きぬ嘆きに、ああ、わたしは、わたしに残れる僅かないのちの重味にさえ堪え兼ねている」
「この堪えられない程、烈しい息切れと、苦しい動悸のする身体。つくづく情無さを感ずる。
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