伯林の落葉
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著者名:岡本かの子 

 彼が公園内に一歩をいれた時、彼はまだ正気だった。
 伯林にちらほら街路樹の菩提樹の葉が散り初めたのは十日程前だった。三四日前からはそれが実におびただしい速度と量を増して来た。公園は尚更、黄褐色の大渦巻きだった。彼は、始め街をしばらく歩いて居た。こまかい菩提樹の葉が粉のように顔や肩や足元に散りかかった。それはひそかに無性な触覚の気安さから一たび風が吹き出すと、吹雪のように中空に、地上に舞い立ち渦巻くあわただしさと変った。だが、結局高い澄み切った青空の下で北欧の中秋の好晴の日は静粛な午後を保っていた。
 彼は街を足駄で歩いて居た。堅く尖った足駄の朴歯が、世界一堅固な伯林の道路面に当って端的な乾いた反動の音をたてた。その音は、外部に発しないで、一種の確実さをもって、彼の足部から彼の黒い熱塊のような苦痛に満ちた頭部へ衝き上った。程よい衝動は彼の苦痛に響いていくらかの慰撫となった彼は落葉の層をなるだけ除けて、堅い舗道面の露出して居る部分を殆ど、無意識に拾って歩いて居た。
 何故彼の日本の恋人が、彼を裏切って他の恋人に走ったということが確実に判った朝、彼は、彼の恋人のその宣言のような手紙を受取って読んだ瞬間つと立ち出でて、伯林の仲秋の街路へ出たのか彼にもはっきり判らなかった。そして、その時、殆ど何ものかに教えられたように、彼が二月前日本を発つ時、彼の恋人が、
 ――たまに公園でも散歩なさる時、おはきなさいまし。
 と、トランクへ入れて呉れた朴歯の下駄を、取り出して穿いたのかも彼には判らなかった。彼はただ歩きに歩いた。
 彼は伯林市の中央チーア公園に行き当った。
 公園にうず高く落ち敷く落葉、落ちる前の乾燥した黄褐色の木の葉を盛り上げた深い森林――この際、彼には何か神秘的な特殊性を包蔵する境区として結局はこの境区の何処かに彼の一寸ものに触れれば吼え出し相な頭の熱塊を溶解してしばらく彼の身心の負担を軽くして呉れる慰安の場所もあるように思えた。
 下駄の歯の根に血を持つような執拗な欲求をこめて彼はざくりと公園の落葉の堆積に踏み入った。下駄の歯は落葉の上層を蹴飛ばした。やや湿って落ち付いた下層の落葉は朽ちた冷たい気配と共に彼の足踏みを適当に受け止めた。
 森へはいって彼が一番先に遇ったのは軽装した親子の三人連れだった。男の子と女の子だけは彼にはっきり認識出来た。だが親は男親か女親か認識しなかった。彼の網膜に親らしい形だけ写った。それが凝結した彼の脳裡の認識にまで届かなかった。男の子は細い線状にくずれ落ちる落葉を短いステッキで縦横に截り乍ら歩いて居た。しゃっ、しゃっ、落葉の線条を截る男の子の杖の音が、彼の頭のしんの苦痛の塊に気持ちよく沁みた。日曜の午前の教会へ行く人が男女五六人通り合せた。樹立ちの薄れた処なので、その人達が停ち止って彼を不審相に見る様子がはっきり判った。彼は下駄を穿いて居る上に寝巻にして居た日本服の古袷に長マントを着て居たので、彼の異国風俗を人々は見返ったのだ。彼は、公園にはいる前、街路で逢う人が度々振り返った理由をごくぼんやりと認識したが、それらが、彼に何であるのか、彼は、しゃにむに歩けば宜いのだ。彼は人々が石か岩の動くように感じただけだった。彼は一たん森を出た。またほかの森に這入った。公園内の車道に出た。自転車をよけた。自動車をやり過ごした。絶えず落葉が散って来た。粉のように線のように。しかしそれらが何であるのか、彼は歩きに歩いた。池のほとりに出た。ここらは樹がまた密生して居た。池をかこんだ樹陰のほの暗さ、池はその周囲の幽暗にくまどられ、明方の月のように静寂な水の面貌を浮べていた。白鳥が二三羽いた。落葉が水上で朽ちて小さな浮島のように処々にかたまっていた。白鳥は落葉のかたまりの個所ばかりを面白そうに巡っていた。彼は立ちどまって白鳥を眺めた。風が冷たく彼の襟元をめぐると彼は眼をしばだたいた。白鳥が提灯のように膨らんだ、月のように縮んだ、毯のようにはずんだ、花のようにゆがんだ、車のようにめぐった。とうとう水晶のように凝結した――彼は眼を皿にした。彼の瞳は冷たく燃えた。冷たい焔は何を写したか。池の右側、彼から五六十歩の距離に居る男女の密接に組んだ姿だ。ベンチの脚は落葉に殆ど没している。腰部を縮めて寄せ合い背部をくねらせて、肩と肩に載せ合った手。黒と茶色の服の色の交錯は女体と男体を、突差にはっきり区別させない。二人とも深く冠った帽子のふちで人のけはいを憚って居るようなひそかな様子だ。
 そこには彼自身が居る。彼のものだった彼女が居る。否、彼女を奪った男とそして、奪われて行った彼女が居る。
 彼自身が、そして奪われなかった彼女が居る。否、奪われた彼女と、奪った男。
 とにかく居る。男と女が。そして、今彼の眼にはそれが昔の彼女であり、彼であり、彼女を奪った男であり奪われた今の彼女である。
 彼は男女の背後に向ってうおーと一つ吼えた。男女は驚いてベンチから立ち上った。男女の突然立ち上ったけはいを受けて一条の落葉が散って来た。その間から男女の不意に慌てた四つの瞳光が彼に向った。彼はまたうおーと吼え男女をめがけて飛び立った。彼の脳裡の熱塊が彼から飛び出て四散した。彼は、逃げ出した男女を追った。彼から四散した脳の熱塊の四散を追った。追った。走った。落葉を蹴って、落葉を浴びて、男も女も彼も走った。男は女を抱え、女は男を捉えて走りに走った。男と女は公園から街への道を知り抜いて居る伯林児だ。彼よりもとっくに先きへ馳け抜けて、彼の追襲を街の同胞に訴えた。
 男女の姿を見失っても、彼は何かを追い廻して居た。彼がチア公園の落葉の森を出端れて街の太陽の光の中に出た時、彼の古マントの袖は破れ、下駄の緒は切れ、木の根で痛めた指からはなまなましく血が滲んで居た。そして森の落葉を唇に喰いそれをまた体中にまぶし付けた一人の日本男、狂人として彼は伯林市の市街巡査等の庇護の手にとらえられた。




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