巴里祭
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著者名:岡本かの子 

 彼等自らうら淋しく追放人(エキスパトリエ)といっている巴里幾年もの滞在外国人がある。初めはラテン区が彼等の巣窟(そうくつ)だったが、次にモンマルトルに移り、今ではモンパルナッスが中心地となっている。
――六月三十日より前に巴里を去るのも阿呆、六月三十日より後に巴里に居残るのも阿呆。」 これは追放人(エキスパトリエ)等の口から口に伝えられている諺(ことわざ)である。つまり六月一ぱいまでは何かと言いながら年中行事の催物(もよおしもの)が続き、まだ巴里に実(み)がある。此の後は季節(セーゾン)が海岸の避暑地に移って巴里は殻(から)になる。折角(せっかく)今年流行の夏帽子も冠(かぶ)ってその甲斐はない。彼等は伊達(だて)に就いても効果の無いことは互にいましめ合う。
 淀嶋新吉は滞在邦人の中でも追放人(エキスパトリエ)の方である。だが自分でそう呼ぶことすらもう月並(つきなみ)の嫌味を感じるくらい巴里の水になずんでしまった。いわゆる「川向う」の流行の繁華区域は、皮膚にさえもうるさく感じるようになって、僅かばかりの家財を自動車で自分で運び、グルネルの橋を渡り、妾町と言われているパッシイ区のモツアルト街に引移った。それも四年程前である。彼の借りた家の塀には隣の女服装家ベッシェール夫人の家の金鎖草が丈の高い木蔓を分けて年々に黄色に咲く。
――今年の夏は十三日間おれは阿呆になる積りだ。」 新吉は訊かれる人があればそう答えた。諺を知っている追放人(エキスパトリエ)仲間は成程彼が珍らしく七月十四日のキャトールズ・ジュイエの祭まで土地に居残るつもりだなと簡単に合点(がてん)した。諺をまだ知らない同国人の留学生等には彼の方から単純に説明した。
――今年はひとつ巴里祭を見る積りです。」 彼は彼が十五年前に恋したまゝで逢えなかったカテリイヌが此頃巴里の何処(どこ)かに居ると噂に聞き、そのカテリイヌを、夏に居残る巴里人の殆ど全部が街へ出て騒ぐ巴里祭の混雑のなかで見付けようとする、彼の夢のような覚束(おぼつか)ない計画などは誰にも言わなかった。
 新吉が日本へ若い妻を残して、此の都へ来たのは十六年前である。マロニエの花とはどれかと訊いて、街路樹の黒く茂った葉の中に、蝋燭(ろうそく)を束ねて立てたような白いほの/″\とした花を指さゝれた。音に聞くシャン・ゼリゼーの通りが余りに広漠として何処に風流街の趣(おもむ)きがあるのか歯痒(はが)ゆく思えた。一箇月、食事附百フランで置いて貰った家庭旅宿(パンション・ド・ファミイユ)から毎日地図を頼りにぼつ/\要所を見物して歩いているうちに新吉にとっては最初の巴里祭が来てしまった。町は軒並に旗と紐と提灯(ちょうちん)で飾られた。道の四辻には楽隊の飾屋台が出来、人々は其のまわりで見付け次第の相手を捉えて踊り狂った。一曲済むまでは往来の人も車も立止まって待っていた。新吉はさすが熱狂性の強い巴里人の祭だと感心したが、それと同時に自分もいつか誘い込まれはしないかと、胸をわく/\させ踊りの渦のところは一々避けて遠くを通った。
 一年足らずのうちに新吉はすっかり巴里に馴染(なじ)んでしまった。巴里は遂に新吉に故郷東京を忘れさせ今日の追放人(エキスパトリエ)にするまで新吉を捉えた。家庭旅宿(パンション・ド・ファミイユ)の留学生臭い生活を離れて格安ホテルに暫らく自由を味ってみたり、エッフェル塔の影が屋根に落ちる静かなアパルトマンに、女中を一人使った手堅い世帯持ちの真似をしてみたり、新吉は巴里を横からも縦からも噛みはじめた。巴里で若し本当に生活に身を入れ出したら、生活それだけで日々の人生は使い尽される。その上職業とか勉強とかに振り分ける余力はない。新吉はすっかり巴里の髄(ずい)に食い入ってモンマルトルの遊民になった。次の年の巴里祭前にも彼が留学の目的にして来た店頭装飾の研究には何一つ手を染めていなかった。その代りに二人の女が生活にもつれて彼のこゝろを綾取っていた。一人は建築学校教授の娘カテリイヌ。一人は遊(あそ)び女(め)のリサであった。それからまだその頃は東京に残して来た若い妻も新吉のこゝろに残像をはっきりさせていた。かえってそれが新吉の心にある為めに、フランスの二人の女の浸み込む下地が出来ていたとも言えよう。


 七月一日の午後四時新吉は隣の巴里一流服装家ベッシェール夫人の小庭でお茶に招ばれていた。
――あなたに阿呆の第一日が来ましたわね。」 ベッシェール夫人は新吉の茶碗に紅茶をつぎながら言った。彼女は中年を過ぎていて、もう自分が美人であることを何とも思わなくなっているような女だった。この夫人にそういう淡泊な処もあるので随分突飛な事や執(し)つこい目に時々遇っても新吉は案外うるさく感じないで済んでいる。
――まったく七月に入って巴里にいると蒼空までが間が抜けたような気がしますね。」 彼女は漠然とした明るく寂しい巴里の空を一寸見上げて深い息をした。新吉は菓子フォークで頭を押えるとリキュール酒が銀紙へ甘い匂いを立てゝ浸み出るサワラを弄(もてあそ)びながら言った。
――一つは競馬が終ってしまったせいでしょうか。」 ロンシャンの大懸賞(グランプリ)も、オートイユの障害物競馬も先週で打ちどめになった。
 ベッシェール夫人は藤のテーブルの上へ置いた紅茶の瓶口の下についている雫(しずく)止めのゴム蝶の曲ったのを、一寸(ちょっと)直し、濡れた指を手首に挟んだハンカチで拭くとその手をずっと伸して新吉の顎にかけて自分に真向きに向かせる。
――さあ、そんな他所事(よそごと)ばかり言ってないでもう仰(おっ)しゃいな。なぜ今年は巴里祭に残っているかって言うことを。あたしはどうもたゞの残り方じゃないと睨(にら)んでいるのよ。様子だってふだんと違っていらっしゃるわ。」 新吉は気が付いて見ると成程此のテーブルへ来て二十分ほど経つのに顔をうつ向けてばかりいた。今更あわてゝ眼を二つ三つ瞬いて空や庭を見廻す。刈り込んだ芝生に紅白の夏花が刺繍(ししゅう)のように盛上っている。
――まるで子供ね。胡麻化すつもりでいらっしゃる。」 夫人は狡(ずる)そうに微笑しながら暫らく新吉の顔を見詰めた。この青年に恋して居るというわけではない。然しこの青年がもし他の女に恋しているとでもなったら嫉妬から彼女の気持ちの向きがどう変るかも判らない。いびつな夫婦生活ばかりして来て、とうとうそれも破れて仕舞った此の老美人の悲運が他人の性愛生活にまで妙な干渉を始めるようになっていた。
 新吉は巴里の女に顎をつまゝれる事位いには慣れ切って居る。新吉は落着いて煙草ケースから一本取出して投げやりに口に銜(くわ)えた。夫人にも一本勧めて、それからライターで二人の煙草に火をつける。二人の口から吐く最初の煙のテンポが同じだったので、それがおかしかった。二人は笑った。寛(くつ)ろげられた気持ちに乗って夫人はこんなことを言った。
――どうしてもあなたが言わないなら、あたし嫌味なことを言いますよ。あんたまさかあたしの為めに巴里にお残りになるんじゃないでしょうね。」 新吉は折角さら/\と説明出来そうに思えていた今の一瞬の気持ちをこの言葉で閉じられてしまった。もし夫人のこの悪ふざけの言葉に応答えする調子で自分の企てを話したら気持ちの筋道は飲み込ませられるかも知れないがその実質はとても覚束ない。それほど今度の思い立ちは情緒の肌理(きめ)のこまかいものだ。いまはむしろ小説なら表題を告げて置くだけの方がこの女の親しみに酬いる最も好意ある方法だ。それで新吉は砂糖を入れ足すのを忘れている甘味の薄い茶を一杯飲み乾すとこう言った。
――マダム。僕はね。料理にしますとあまりに巴里の特別料理(スペシアリテ)を食べ過ぎました。それでね。普通の定食料理(ターブル・ドート)が恋しくなったんです。」 夫人の調子は案の定、今口に出した思い付きの一言に煽(あお)られてそれ者らしい飛躍を帯びて来た。
――じゃ。お祭りに出た女中さんでも引っかけ、世間並の若い衆になりたいとでもおっしゃるの。」――まさかね。でも今あなたの仰しゃった世間並には何とかして帰り度いのです。この儘じゃ全く僕は粋な片輪者ですからね。」 新吉のしんみりした物淋しさがあまり自然に感じられたので夫人の飛躍の調子がもとの地味にも落ち著けず、中途のところで鋭い鈍い浪を打った。
――何にしても四年間金鎖草の花を分けて眺めさしてあげたあたしの好意に対しても万事打ち開けるものよ。いつでもいゝからね。」 そんなさばけたもの言いをしながら夫人はぐっと神経質になって、新吉が帰ろうと立上りかけるときに門番がわざ/\此所まで届けて来た日本からの手紙を見ると、差出人は誰だかとくどく訊いた。新吉はそれが国元の妻からのものだと、はっきり答えた。


 新吉は部屋へ帰ると畳込みになって昼はソファの代りをする隅のベッドの上被(うわおお)いのアラビヤ模様の中へ仰向けにごろりと寝た。ベッシェール夫人のところで火をつけた二本目の煙草を挟んだ左の手に右の手を手伝わせて妻からの手紙の封筒を切った。いつもの通り用事だけが書いてあった。それは市会議員の選挙に関するもので、その人選は新吉の実家も中に含んで魚市場全体の利害に影響があった。
 新吉の留守中両親も歿(な)くなったあとの店を一人で預って、営業を続けている妻のおみちに取っては永い間離れていてこころの繋(つなが)りさえもう覚束なく思える新吉でもやっぱり頼みにせずにはいられなかった。彼女はそれで故国の事情にはうとくなっている夫から明確な指図は得られないのを承知でしじゅう用件だけ報じて来た。うっかり感情的のことを書いて、西洋へ行ってひらけた人になっている夫に蔑まれはしないかという惧(おそ)れもあった。彼女は手紙の文体を新吉の返事に似通わせてだん/\冷たく事務的にすることに努めた。新吉もその方を悦んで兎(と)も角(かく)彼女の手紙に一通り目を通すことだけはした。
 しかし今度の手紙には新吉に見逃されぬものがあった。それは文面の終(しま)いの方に同じ淡々とした書き方ではあるがこういうことが書いてあった。
わたくし、此頃髪の前鬢(まえびん)を櫛(くし)で梳きますと毛並の割れの中に白いものが二筋三筋ぐらいずつ光って鏡にうつります。わたくしは何とも思いません。然し強いて人に見せるものでもなし、成るだけ櫛でふせて置くようにしております。
 新吉はめずらしく手紙の此の部分だけを偏執狂のように読み返えし読み返すのをやめなかった。おみちはいつまでも稚(おさ)な顔の抜け切らぬ顔立ちの娘であった。それ故にこそ親が貰って呉れた妻ではあったが日本に居るときの新吉は随分とおみちを愛した。新吉は一人息子であったので妹というものゝ親しみは始めから諦めていた。ところがおみちをめとって思いがけなくも妻と共に妹を得た。洋行前に新吉はおみちに実家から肩揚げのついた着物を取寄させてしじゅう着させたものだった。東京の下町の稲荷祭にあやめ団子を黒塗の盆に盛って運ぶ彼女の姿が真実、妹という感じで新吉には眺められた。
 巴里に馴染むにつけて新吉は故国の妻の平凡なおさな顔が物足らなく思い出されて来た。
 特色に貪慾な巴里。彼女は朝から晩まで血眼になって、特性(キャラクテール)! 特性(キャラクテール)! と呼んでいる。
 妖婦、毒婦、嬌婦、瞋婦――あらゆる型の女を鞭打ってその発達を極度まで追詰める。
 ミスタンゲット、――ダミヤ、――ジョセフィン・ベーカー、――ラッケル・メレール。「聖母マリアがもし現代に生れていたら」とカジノ・ド・パリの興行主は言った。「わたしは彼女を舞台へ誘惑することを遠慮しないだろう。」
 始め新吉も女を見るにつけ、どの女からもおみちに似通うところを見付けて一つは旅愁を慰めもし、一つは強い仏蘭西女の魅力に抵抗しようとしていた。だがやがて新吉は一たまりもなく甲(かぶと)を脱がして巴里女に有頂天にならした出来事があった。新吉は建築学校教授の娘のカテリイヌに遇った。
 秋もなかば過ぎた頃である。教授はその部屋には電気ストーヴが桃色の四角い唇を開けていた。それでいて窓の硝子戸は開け放されていた。うすい靄(もや)が月の光を含んで窓から部屋へ流れ込むと消えた。だいぶ馴染もついたからというので新吉が通って居た建築学校教授ファブレス氏が新らしい生徒だけを自宅の晩餐(ばんさん)に招いたのである。こんな古風な家が今でも巴里に残っているかと思えるようなラテン街の教授の家へ新吉は土産物の白絹一匹を抱えてはじめて行って見た。学課に身をいれなかったがまだ此の時分新吉は籍を置いた学校の教室へ表面だけは正直に通っていた。
 主婦は歿(な)くなりでもしたと見え食事中も世話は娘のカテリイヌが焼いていた。新吉は此のカテリイヌのなかにもおみちを探そうとしてあべこべの違った魅力で射すくめられた。カテリイヌのあどけなさはおみちの平凡なあどけなさとは違った特色の魅力となって人にせまる。声は竪琴(たてごと)にでも合いそうにすき透っていた。そして位をもちつゝ行届いたしこなしに、斜に向い合った新吉は鏡に照らされるような眩(まぶ)しい気配(けは)いを感ずるばかりで、とてもカテリイヌの顔をいつまでも見つめて居られなかった。
 食事が済んで客はサロンへ移った。西洋慣れない新吉がろく/\食後のブランデイの盃をも挙げ得ないのを見て教授はしきりに話しかけて呉れた。日本の建築の話も少しは出た。だが酔の深くまわるにつれ教授は娘の自慢話を始めた。教授は想像される年齢よりもずっと若く見える性質なので二十三、四にもなるらしい大きなカテリイヌを娘と呼ぶのが不似合に見えた。ましてその娘の自慢の仕方はいくら酔の上と見ても日本人の新吉をはら/\させた。
――誰でも此の娘を見てシャルムされないものはないそうですよ。みんな、そう言いますよ。君もそう思いませんか。そしてよくこの娘は恋文を貰うのです。みんな真剣なものです。近頃も学校の卒業生でエジプトへ研究に行った男が二年間この娘に逢えないと思うと淋しくて仕方がないと手紙をよこして言って来ました。」 教授は娘を売りつけるつもりでこんなことを言うのか。それとも西洋人は妻や娘の自慢を露骨にするとかねて人から聴かされていたがこれは其の極端な現れなのか、新吉は返事に苦労しながら、一方それとなく教授の様子を探っていた。教授は、したゝるような父親の慈愛(じあい)の眼で娘の方を見やったが再び芸術家によくある美の讃美に熱中しているときの決闘眼(はたしめ)で新吉に迫った。
――君は僕の言うことをまだ疑ってるようですね。そうだ。この娘の魅力は膝へ抱えてみると一層よく判るのだ。わたしは父としてよく知っている。君一つ抱いてみ給え。」 その前から父と新吉とのはなしを困惑と好奇心で顔を赧(あか)らめながら聴いていたカテリイヌは父の振り向いた顔に強いられて少し浮腰のまゝ、気まり悪るげに左肩へ首をすぼめて、一たん逃腰になったが、父親ののがさない命令に急激な決心を極めた。彼女は一足跳ねたダンス足の左の靴の踵に、床を滑って右の踵が追い迫り、あなやと思う間にひらりと新吉の膝の上に彼女は乗っかった。新吉は柔いものゝ無限の重量を感じ、体は華やかな圧迫で却(かえ)って板のように硬直して了った。
 彼女は困惑から泌み出る自然の唐突さで言った。
――日本の娘さんは悲しそうに男の方にお逢いなさるそうですね。」 こういう場合に同席する西洋人等の態度も新吉には珍らしかった。そこにはルーマニアの男とカナダの男との他に五人の若いフランス人が居たが彼等は揃って、さも好もしいものを見るという幸福な顔をして二人の組合せ像を眺めた。
 その夜新吉の膝に加えられたカテリイヌの柔い重圧が新吉のメランコリーに深く泌み込んで仕舞ったのを新吉はいまいましく思いながら、まぼろしのようにその夜教授の部屋の窓から眺めた月光を含む靄の中からサンミッシェル街の灯影を思い泛(うか)べて、秋の深まり行く巴里の巷(ちまた)を幸福と懊悩(おうのう)に乱れ乍(なが)らさまよい歩いた。斯(こ)うしてカテリイヌと二度会う機会を待っているうちに新吉は思いがけなく遊び女のリサと逢って仕舞った。


 新吉は寝椅子の上でおみちの手紙を状袋にしまった。それから手を伸して貴金属商アンドレの店頭装飾写真の入っている額椽(がくぶち)のうしろへ挟んだ。十年以上も無視していたおみちが急に蘇って来たのはどうしたわけだろうか。たった二三行の手紙の文句で日本へ帰る思いが燃え立ったのはどうしたわけだろうか。おみちのあのおさな顔が其のまゝでちらほら白髪が額にほつれて来た。此の報告が巴里の生活で情感を磨(みが)き減らして無感覚のまゝ冴え返っている新吉の心に可なりのさびしみを呼び起した。おみちがたゞ年老いて行くことだけでは憐れとも思わない。あの眼も口も篦(へら)で一すくいずつ平たい丸みから土をすくっただけで出来上っている永遠に滑らかな人形のような顔。それに時が爪をかけはじめたのだ。ざまをみるがいゝ。滑稽だ。残忍な粋人の感情だ。妻に侮辱と嘲笑とに価する特色を発見出来るようになって始めて惻々(そくそく)たる憐れみと愛とが蘇るというのだ。淋しくしみ/″\と妻を抱きしめる気持になれたのだ。何たる没情。何たる偏奇。新らしい陶器(やきもの)を買っても、それを壊(こわ)して継目(つぎめ)を合せて、そこに金のとめ鎹(かすがい)が百足(むかで)の足のように並んで光らねば、その陶器(やきもの)が自分の所有になった気がしないといったあの猶太(ユダヤ)人の蒐集家サムエルと同じものを新吉は自分に発見して怖(おそろ)しくなった。あのとろんとして眼窩の中で釣がゆるんだらしく、いびつにぴょく/\動いている大きな凸眼、色素の薄くなった空色の瞳は黄ろい白眼に流れ散ってその上に幾条も糸蚯蚓(いとみみず)のような血管が浮き出ている。あのサムエルの眼はやがて自分の眼であるに違いない。
 部屋の中の家具に塗ってあるニスが濡れ色になって来て、銀色の金具は冷たく曇った。もうたそがれだ。新吉はいつもの生理的な不安な気持ちに襲われ胃嚢(いぶくろ)を圧(おさ)えながら寝椅子から下りた。早くアッペリチーフを飲みたいものだ。八角テーブルの上に置いてある唇草(くちびるそう)の花が気になって新吉はその厚い花弁を指で挟んではテーブルの周囲を揃わない歩調でぶら/\歩いた。窓から見える塀の金鎖草の蔓の一むらの茂みが初夏の夕暮の空に蓬髪のように乱れ、その暗い陰の隙から、さっき茶を呑んだ隣のベッシェール夫人の庭の黄ろい草が下方に小さく覗かれる。あれから夫人はまた多少のヒステリーを起し、いつもよくやるようにピカ/\光る裁縫鋏(ばさみ)の冷たい腹を頬に当てゝ、昔訣(わか)れた幾人もの夫の面影を胸の中に取出し、愛憎交々(こもごも)の追憶を調べ直しているのではあるまいか。夫人の最後の夫ジョルジュには夫人はまだ未練があるようだ。そのせいかジョルジュの話をするときに夫人は一番新吉に粘(ねば)りつく。
 新吉は窓に近く寄ってみた。雲一つなく暮れて行く空を刺していた黒い鉄骨のエッフェル塔は余りににべも無い。新吉はくるりと向き直って部屋の中を見た。友達のフェルナンドが設計して呉れたモダニズムの室内装飾具は素っ気ないマホガニーの荒削りの木地と白真鍮の鋭い角が漂う闇に知らん顔をして冷淡そのものを見るようだ。フェルナンドは若くて死んだアルザス人だ。夭逝(ようせい)した天才の仕事には何処か寂しいエゴイズムが閃(ひら)めいているものだ。
 新吉はこの部屋へ今にも訪ねて来る約束のリサに会い度くなってしまった。新吉は一応内懐の紙入れを調べて帽子を冠りドアーを開け放して来てから、椅子に腰掛けてリサを待ち受けた。いら/\した貧乏ゆすりが出た。そうしながらも新吉は残酷と思いながらしきりにおみちのおさな顔に白髪の生えた図を想像した。
 家鴨料理のツール・ダルジャンでゆっくりした晩餐(ばんさん)をとった後、新吉とリサとは直ぐ前のセーヌ河の河岸に沿って河下へ歩き出した。酔った新吉をリサは小児のようにいたわっていた。
 リサは健康で牛のような女だった。新吉が彼女に逢ってから十年近くも経つのに彼女は相変らず遊び女を勤めている。リサに言わせると遊び女は母性的な彼女の性格には一番相応(ふさわ)しい職業だといっている。彼女は巴里へ来たての外国人の男たちを何人となく巴里に馴染むまでに仕立て上げる。男達はそれまで彼女の厄介になると彼女から離れる。そしてもっと気の利いた面白い女へ移る。然し彼女はすこしも悪びれず男を離してやって、また次の初心(うぶ)な外国人を探し出す。離れてしまった男たちも時が経つとやっぱり彼女に懐しみを蘇えらせて来て彼女と交際(つきあ)うようになる。そのときは彼女をみんな「おばさん」と呼んでいる。彼女もそのときはおばさんの立前になっていろいろ親切に世話をやくのであった。
 河堤の古本屋の箱屋台はすっかり黒い蓋をしめて、その背後に梢を見せている河岸の菩提樹(ぼだいじゅ)の夕闇を細(こま)かく刻(きざ)んだ葉は河上から風が来ると、飛び立つ遠い群鳥のように白い葉裏を見せて、ずっと河下まで風の筋通りにざわめきを見せて行く。ルーブル博物館を中心に肩を高低させている向う岸の建物の影は立昇る河霧にうっすり淡色の夕化粧を見せて空に美しい輪廊を際立たしている女の横顔(プロフィール)のようだ。その空はまた一面に紫薔薇色の焔を挙げて深まろうとしている。闇を掻き乱そうとしている。黄、赤、青のネオンサインは街の中空へ「夏はドウヴィルへこそ」とアルファベットを綴っている。
――…………――まあお聞き……。というわけでね。さっきから言ったようにね。巴里祭(キャトールズ・ジュイエ)にはあたしが見つけてあげたその娘をぜひ一緒に連れてお歩るきなさい。」 リサはがっちりした腕で新吉の腕を自分の脇腹へ挟みつけながら言った。新吉はステッキも夏手袋も自分が引受けて持っている。
――…………――いくら処女心(ヴァジン・ソイル)が恋しいからといって、その昔のカテリイヌの面影を探しながらお祭りを見て歩るこうなんて、そりゃあんまり子供っぽい詩よ。そんなことであんたのようなすれっからしに初心(うぶ)な気持ちの芽が二度と生えると思って。」 新吉の酔って悪るく澄んだ頭をアレギザンドル橋のいかつい装飾とエッフェル塔の太い股を拡げた脚柱とが鈍重に圧迫する。新吉はそれらを見ないように、眼を伏せて言った。
――おい後生だから、もう一音階(オクターヴ)低い調子で話して呉れないか。その調子じゃ、たとえ成程とうなずきたいことも先に反感が起ってしまうよ。」――あら。そんなにひどい神経になっているの。まるで死ぬ前のフェルナンドのようだわ。」 リサは闇の中に顔を近づけて覗き込みながら言った。さも哀れに堪えないように中年近い女の薄髭の生えた、厚身の唇が新吉の頬に迫って来たので新吉は顔を避けた。
――いよ/\もってあたしの探したあの娘をあなたのものにすることをお勧めするわ。何事も女で育って行く巴里では、たとえ女に中毒したものも、それを癒すにはやっぱり女よ。もしあたしがもう七ツ八ツ若かったらこんな手間暇は取らせませんのにね。」 リサは今しがた新吉に意見したのとはあべこべなことを平気で言った。二人はアレギザンドル橋を渡った。春秋に展覧会の開かれるグラン・パレーの入口は真黒く閉(しま)っていて、プチ・パレーの方に波蘭(ポーランド)の工芸品展覧会の雪の山を描いたポスターが白い窓のように几帳面(きちょうめん)な間隔を置いて貼られてある。婆娑(ばさ)とした街路樹がかすかな露気を額にさしかけ、その下をランデ・ヴウの男女が燕のように閃いてすれ違う。新吉は七八年前、五色の野獣派の化粧をしてモンマルトルのペットだったリサを想い泛べた。がっちりした彼女の顔立ちにそれがよく似合った。当時彼女はあるキャフェで新吉からカテリイヌに対する悩みを聴いたとき新吉の鼻をつまんで言った。
――そんな恋はありきたりよ。愛なんかちっとも無い二人同志の間に技巧で恋を生んで行くのが新しい時代の恋愛よ。」 彼女が裸に矢飛白(やがすり)の金泥を塗って、ラパン・ア・ジルの酒場で踊り狂ったのは新吉の逢った二回目の巴里祭(キャトールズ・ジュイエ)の夜であった。彼女は其の後だん/\奇嬌(ママ)な態度を剥いで持ち前の母性的の素質を現して来たが、折角同棲した若いフェルナンドに死なれてから男に対して全く憐れみ一方の女となった。
――君もあの時分は元気だったなあ。」 そう言うと流石(さすが)に彼女も悵然(ちょうぜん)としたらしい様子のまゝしばらく黙った。二人は並木のシャン・ゼリゼーまで出たが闇一筋の道の両はずれに一方はコンコールドの広場に電飾を浴びて水晶の花さしのように光っている噴水を眺め、首を廻らして凱旋門通りの鱗(うろこ)のように立ち重なる宵(よい)の人出を見ると軽い調子になって彼女は言った。
――無理のようだがそうすると、あんた決めておしまいなさいね。きっと結果がいゝから。そしたらあたしその娘を巴里祭の日に、まったく自然のようにあなたに遇わせてあげますから。あなたは只その日お祭りを楽しむ町の青年になって、朝自分の家を出なさるだけでいゝのよ。」 そこでステッキと手袋を新吉に押しつけるとリサは簡単に、
――ボン、ソワール。」 と行きかけた。新吉が、
――ちょいと待って呉れ給え。国元の妻のことに就いてすこし話したいんだが。」 とあわてゝ言うと、リサは逞ましい腕を闇の中に振って指先を鳴らした。
――もう、あんたのことはみんなその娘に譲りましたよ。」 リサは男のように体を振り乍(なが)ら行って仕舞った。
 明日の祭の用意に新吉も人並に表通りの窓枠へ支那提灯を釣り下げたり、飾紐(かざりひも)で綾(あや)を取ったりしていると、下の鋪石からベッシェール夫人が呼んだ。
――結構。結構。巴里祭万歳。」 新吉は手を挙げて挨拶する。
――あなたのところに綺麗な国旗ありまして。若しなければ――。」 そう言いさして夫人は門の中へ消えたが、やがて階段を上って来て部屋の戸をノックする。
 新吉が開けてやると、しとやかに入って来て、
――剰(あま)ったのがありますから貸してあげますよ。」 それから屈托(くったく)そうに体をよじって椅子にかけて八角テーブルの上に片肘つきながら、新吉の作った店頭装飾の下絵の銅版刷りをまさぐる。壁の嵌(は)め込み棚の中の和蘭皿の渋い釉薬(うわぐすり)を見る。箔押(はくお)しの芭蕉布のカーテンを見る。だが瞳を移すその途中に、きっと、窓に身をかゞまして覚束なく働いている新吉の様子を油断なく覗っている。何か親密な話を切り出す機会を捉えようとじれているらしい。新吉はどたんと窓から飛下りて掌に握ったじゅう/\いう鳴声を夫人の鼻先に差出した。
――小さい雀の子。」 夫人は邪魔ものゝように三角の口を開けた子雀の毛の一つまみを握り取って煙草の吸殻入れの壺の中へ投げ込んでしまった。無雑作に銅版刷で蓋をする。
――おちついて、あなた、そこに暫らく坐って下さらない。」 新吉はちょっと左肩をよじって不平の表情をしてみたが名優サッシャ・ギトリーの早口なオペレットの台詞(せりふ)を真似て、
――マダムの言いつけとあらば、なんのいなやを申しましょうや。茨の椅子へなりと。」 と言ってきょとんと其所へ坐った。
――いよ/\明日巴里祭だというので、いやにはしゃいでいらっしゃるね。さぞお楽しみでしょうね。」 新吉はぎくっとした。情事に就いては彼女自身はもうすっかり投げているのに他人の情事に対する関心はまたあまりに執拗だ。それにリサと夫人とは古い知り合いだから、ひょっとしたらリサの自分に対する明日のたくらみでも感づいたのではないか。新吉は油断をせずにとぼけた。
――あしたは世間並の青年になって手当り次第巴里中を踊り抜くつもりですよ。」――そりゃ楽しみですね。国元の奥様のことを考えながら、その悩みをお忘れになりたい為めにね。」 鸚鵡(おうむ)返しのように夫人はこう言った。新吉は的が外れたと思った。自分の今の心を探って見るに、国元の妻からの手紙が来て以来、其のおさな顔に白髪のほつれかゝった面影が憐れに感じ出されたには違いない。然しそれと同時に今は明日はじめて逢う未知の娘、リサの世話して呉れる乙女にもまた憐れを催している。自分のように偏奇な風流餓鬼の相手になって自分から健康な愛情の芽を二度と吹かして呉れようとする無垢(むく)な少女。だがそれよりも新吉が一番明日に期待しているのはやっぱりあのカテリイヌに何処かの人ごみで逢うことだ。リサは子供っぽい詩と罵ったが今の自分としてはどうしても巴里祭の人込みの中で、ひょっとしたら十何年目のカテリイヌ――恐らく落魄(らくはく)しているだろうが――にめぐり遇(あ)っていつか自分を順(ママ)致して奴隷のようにして仕舞った巴里に対する憎みを語りたい。自分を今のようなニヒリストにしたのは今更、酒とか女とか言うより、むしろ此の都全体なのだ。
 此の都の魅力に対する憎みを語って語り抜いて彼女から一雫(ひとしずく)でも自分の為めに涙を流して貰ったら、それこそ自分の骨の髄(ずい)にまで喰い込んでいる此の廃頽(はいたい)は綺麗に拭い去られるような気がする。そしたら此の得体の解らぬ自分の巴里滞在期を清算して白髪のほつれが額にかゝる日本の妻のもとへ思い切りよく帰れよう。だがそれはまったく僥倖(ぎょうこう)をあてにしている、まるで昔の物語の筋のように必然性のないものゝようだ。然しこの僥倖をあてにする以外に近頃の自分は蘇生(そせい)の方法が全く見つからなかった。こうなるとあの建築学校教授が建築場で不慮の怪我で即死して、娘はエジプトへ行ってあの卒業生と結婚したとかしないとか噂だけで、行方が判らなくなったり、近頃やっと巴里にまたいるらしいという噂を突きとめたそれ以上のことが判らないのがまだ自分の不運の続きのように思え、また判らないことが却(かえ)って折角たゞ一つ残って居る美しい夢を醒さないでいて呉れる幸福のように思えた。
 新吉が金槌をいじりながら考え込んでいるのを見て夫人は意地悪くねじ込むような声で言った。
――あたったものだから黙っていらっしゃる。あたしは妙な女ですからそのつもりで聴いて下さいな。あたしあなたが只の遊び女と出来たのかなんかなら何とも思いませんの。けれど国元の奥さんを想い出すような親身な気持ちになった男の方にはお隣に住んでいて、じっとして居られませんの。あたしは寡婦(やもめ)ですからね。正直に白状すればとてもやきもちが妬(や)けますの。あなたのところへ奥さんの手紙が来た翌日からあなたの御様子が変ったように見えて。御免なさいな、病的でしょうか。でも仕方がないわ。正直に言わなけりゃ、もっとやきもちが、ひどくなりそうなの。つまりあなたは奥さんの所へ帰る前に最後の巴里祭を見て行き度いために巴里に今年は残ったのでしょう。喰いとめなけりゃ気が済まないわ。とても、明日の巴里祭をあなたに面白くして奥さんの所へなんか帰さない工夫をしなければならないわ。それで明日はあたしあなたと一緒について巴里祭に行くつもりよ。お婆さんと一緒じゃお気の毒だけれど。然しこうなれば目茶よ。だからどうぞ其のおつもりでね。」 夫人は冗談の調子で言って居るのだけれど、此の冗談には夫人の新吉への病的な関心が充分含まれて居るのだ。
――兎に角、明日は私とお遊びなさい。私あなたの自由に遊んで上げます。気に入った女が見つかれば一緒に歩いても上げますわ。」 夫人はこれも決定的な本心を含めた冗談で言った。
――どうぞ、まあ、よろしくおたのみします。」 新吉はつい弱気に言ってしまった。
――朝、お迎えに来るわ。」 夫人は遂々冗談を本当に仕上げて満足そうに帰りかけたが蓋をした灰殻壺の中の憐れっぽい子雀の籠った鳴声に気付くと流石(さすが)に戻って、
――可哀想なことをしたのね。これあたし頂戴(いただ)いて行きますわ。」 壺のまゝ雀を持って夫人は出て行った。夫人の後姿を見送って新吉はひとり小声で「うるさい婆さんだな」と云った。だが新吉は美貌な巴里女共通の幽(かす)かな寂(さ)びと品格とが今更夫人に見出され、そして新吉はまた、いつも何かの形で人を愛して居ずにいられないこの種の巴里女をしみ/″\と感じられるのだった。


 眼を半眼、開いたまゝ鉛の板のように重苦しく眠り込んでいた新吉は伊太利(イタリー)の牧歌の声で目覚めた。朝の食事が出来たので、通い女中ロウジイヌが蓄音器をかけて行って呉れたのだ。野は一面に野気の陽炎(かげろう)。香ばしい乾草の匂いがユングフラウを中心に、地平線の上へ指の尖(さ)きを並べたようなアルプス連山をサフラン色に染めて行く景色を、はっきりと脳裡に感じながら、新吉はだん/\意識を取戻して行った。牧歌が切れて濃いキャフェが室内の朝の現実のにおいとなって強く新吉の鼻に泌(し)みて来た。新吉は昨晩レストラン・マキシムで無暗にあおったシャンパンの酸味が爛(ただ)れた胃壁から咽喉元へ伝い上って来るのに噎(むせ)び返りながらテーブルの前へ起きて来た。吐気(はきけ)に抵抗しながら二三杯毒々しいほど濃い石灰色のキャフェを茶碗になみ/\と立て続けに飲んだ。吐気はどうやら納って、代りに少し眩暈(めまい)がするほどの興奮が手足へ伝わり出した。空は晴れている。昨日自分が張り渡した窓の装飾の綾模様を透して向う側の妾町の忍んだような、さゝやかな装飾と青い空の色と三色旗の鮮やかな色とが二つの窓から強い朝日に押し込まれて来たように、新吉の眼を痛いほど横暴に刺戟する。立たなければよくも見分けられぬが恐らくベッシェール夫人の屋根越しのエッフェル塔も装飾していることだろう。
 新吉は此の装飾の下に雑沓(ざっとう)の中でカテリイヌを探す自分のひと役を先ず頭に浮べたが次にリサがまたどういう工夫で今日の祭の街で自分に新らしい娘を送り届けるのか。自分につきまとうベッシェール夫人とそれがどう縺(もつ)れるか。考えると頭がすこし憂鬱になった。
 ゆうべはマキシムで偶然ベッシェール夫人の最後の夫ジョルジュに遇った。彼は新吉がベッシェール夫人の隣へ引越して来て間もなく夫人と喧嘩して出て行ったので、新吉とはたいした馴染(なじみ)もなかったが新吉を見付けると懐かしそうに寄って来て無暗と酒を勧めた。彼は夫人の家にいたときからみると、ずっと若返ったようだ。彼は新らしい妻だといって若い女を紹介した。その女はたゞ若くて十人並の器量で、はしゃいでいるような女だった。何処か間の抜けている性質のようにも見えた。それで二人は大ぴらでベッシェール夫人の話をした。ジョルジュは新吉を酔わせて夫人の悪口でも言わせようという企みが見えた。新吉は其の手には乗らなかった。すると遂々彼は夫人に未練を残していることを白状して、
――あんな洒脱(しゃだつ)な女はありませんよ。あれと暮して居ると、本当に巴里と暮しているようですよ。六日間も自転車競争場の桟敷で、さばけた形(なり)をして酒の肴のザリ蟹を剥いてるところなぞ一緒にいてぞっとする程好かったですよ。」 こんな言葉を連発するようになった。だがしまいには彼は問わず語りにこんな事を言った。
――たゞあの女の鋏(はさみ)がね。あの鮫(さめ)の腹いろに光る鋏がね。あなたもお隣りなら随分気をおつけなさい。もっともあの鋏の冴えが、あの女の衣裳芸術の天才の光なんだが……なんにしても男をいじめては男に逃げられるのが気の毒な女さ。」 彼は終りを独言にして溜息をして訣(わか)れて行った。
 そういうこともあったので、ゆうべ新吉は折角の自分の巴里祭を夫人に乱されることを恐れて、どうして夫人を出し抜いたものかと、うと/\考えながら寝た。家へ帰らずにしまえばそれまでだが、それもなんだか卑怯に思えるし、夫人に気づかれて後の祟(たた)りも恐ろしかった。出来ることなら男らしくきっぱりと断って、あすの朝は一人で自分の家を出て行きたいものだと考え定めながら、いつか眠りに陥ったのであった。だが、段々部屋中を華やかに照らしだす日の光を眺めるとカテリイヌも、リサの送る娘も、ベッシェール夫人も全(す)べて、そんな事はどうでもよくなって来た。たゞ早く町の割栗石の鋪道に固いイギリス製の靴の踵(かかと)を踏み立てゝ西へ東へ歩き廻りたい願いだけがつき上げて来た。
 顔を洗って着物を着代えているとどこからともなく古風で派手なワルツが凪(な)いだ空気へ沖の浪のなごりのように、うねりを伝えて来る。後からそれを突除けて、ジャズが騒狂な渦の爆発の響を送る。祭は始まった。表通りを大人連のおしゃべりの声。子供達の駆けて行く足音。
 白い帽子を手に取って姿鏡の前に立って自分の映像に上機嫌に挨拶して新吉は、其の癖やはり内心いくらか憂鬱を曳きながら部屋を出た。入口の門番(コンシェルジュ)の窓には誰も居なくて祭の飾りの中にゼラニウムの花と向いあって籠の駒鳥が爽(さわ)やかに水を浴びていた。
 割栗石の鋪石(ママ)へ一歩靴を踏み出す。すると表の壁の丁度金鎖草の枝垂(しだ)れた新芽が肩に当(あた)るほどの所で門番(コンシェルジュ)のかみさんと女中のロウジイヌとがふざけて掴み合っていたのが新吉の姿を見ると急に止めて笑いながら朝の挨拶をした。それから隣のベッシェール夫人の家に向って、
――奥さん。うちのムッシュウがお出かけですよ。」 と声を揃えてわめいた。
 ちゃんと打合せが出来ていたものと見え、すっかり着飾ったベッシェール夫人は芝居の揚幕の出かなんぞのように悠揚(ゆうよう)と壁に剔(く)ってある庭の小門を開けて現われた。黒に黄の縞の外出服を着て、胸から腰を通して裳へ流れる線に物憎い美しさを含めている。夫人は裏にちょっと鳥の毛を覗かせたパナマ帽の頭を傾げて空の模様を見るような恰好をした。飽(あく)まで今日の着附けの自信を新吉に向って誇示しているらしかったが、やがて着物と同じ柄の絹の小日傘をぱっと開くと半身背中を見せて左の肩越しに新吉の方へ豊かな顎を振り上げた。眼は今日一日のスケジュールに就いて何の疑いをも持っていない澄んだ色をしている。遂々掴まったか――。新吉はそう思いながら夫人の傍へ寄って行って思わずいつもの礼儀どおり左の腕を出す。夫人は顎を引き、初めて笑った。
――若い奥さんではなくてお気の毒ね。」 と言ったが右の手を新吉の出した左の腕にかけるとまたさあらぬ態度になり、胸を張って歩き出した。新吉は夫人の顔にうっすり刷(は)いたほのかな白粉の匂いと胸にぽちんと下げているレジョン・ドヌールの豆勲章を眺めて老美人の魅力の淵の深さに恐れを感じた。


 モツアルトの横町からパッシイの大通りへ突当ると、もうそこのキャフェのある角に音楽隊の屋台が出来ていて、道には七組か八組の踊りの連中が車馬の往来(おうらい)を止めていた。日頃不愛想だという評判のキャフェの煙草売場の小娘が客の一人に抱えられていた。まだ昼前なので遠くの街から集まって来た人達より踊り手には近所の見知り越しの人が多かった。それ等の中には革のエプロンの仕事着のまゝで買物包みを下げた女中と踊っている者もあった。彼等は踊りながら新吉と夫人に目礼した。キャフェの椅子は平常よりずっと数を増して往来へ置き出されていた。一しきり踊りが済むと狭く咽喉のようになった往来へ左右から止まっていた自動車や馬車がぞろ/\乗り出した。街路樹のプラタナスの茂みの影がまだらに路上にゆらめいた。
――すっかりお祭りね。」 老美人は子供のようなはしゃぎかたさえ見せて、喧騒の渦の音が不安な魅力で人々を吸い付けている市の中心の方角へ、しきりに新吉を促(うなが)し立てた。
 晴れた日と鮮かな三色旗と腕に抱えている老美人との刺戟に慣れて来ると新吉は少し倦怠(けんたい)を感じ出した。すると歩調を合せて歩いている自分等二人連れのゆるい靴音までが平凡に堪えないものになって新吉の耳に響いた。
――しつこい婆につかまって今日一日無駄歩きしちまうのだ。」 弾力を失っている新吉の心にもこの憤りが頭を擡(もた)げた。キャフェの興奮が消えて来た新吉の青ざめた眼に稲妻形に曲るいくつもの横町が映った。糸の切れた緋威(ひおど)しの鎧(よろい)が聖アウガスチンの龕(トリプチック)に寄りかゝっている古道具屋。水を流して戸を締めている小さい市場。硝子窓から仕事娘を覗かしている仕立屋。中産階級の取り済ました塀。こんなものが無意味に新吉の歩行の左右を過ぎて行った。新吉は子供の時分奮い立った東京の祭のことを思い出した。店のあきないを仕舞って緋の毛氈(もうせん)を敷き詰め、そこに町の年寄連が集って羽織袴で冗談を言いながら将棊(しょうぎ)をさしている。やがて聞えて来る太鼓の音と神輿(みこし)を担ぐ若い衆の挙げるかけ声。小さい新吉は堪らなくなって新しい白足袋のまゝで表の道路へ飛び下りるのだった。縮緬(ちりめん)の揃いの浴衣の八ツ口から陽(ひ)にむき出された小さい肘に麻だすきへ釣り下げたおもちゃの鈴が当って鳴った。
 気分というものは不思議に遇合することがあるものだ。ベッシェール夫人もこどもの時代のことを想い出した。
――あたしね。九つの歳の巴里祭に母に連れられてルュ・ラ・ボエシイを通るとね。ベレを冠った鬚(ひげ)の削(そ)りあとの青い男に無理に掴まって踊らされてね。その怖ろしさから恋を覚え始めたのよ。今でもベレを冠った鬚の削りあとの青い男を見ると何んだかこわいような、懐かしいような気がするのよ。」 横町と横町の間を貫く中通りにはブウローニュの森の観兵式を見物した群集のくずれらしいかなり多勢の行人の影が見えた。その頭の上に抜きん出て銀色に光る兜(かぶと)のうしろに凄艶(せいえん)な黒いつやの毛を垂らしている近衛兵が五六騎通った。
――あんた、まさか奥さんの手紙を懐に持って出ていらしたのじゃないでしょうねえ。」 夫人の想出話に対して新吉の返事がはかばかしくないので、夫人は急にこんなことを言い出した。新吉は危ないと思って、
――あんたこそ、ジョルジュ氏のムウショワールでもバッグへ入れてやしませんかね。」 と逆襲した。すると夫人は新吉の腕から手を抜いて肩を掴え、
――あたし、そういう情味のはなし大好きですわ。」 と言って夫人は、更(あらた)めて新吉の頬に軽く接吻した。新吉は斯(こ)ういう馬鹿らしいほど無邪気な夫人に今更あきれて、やっぱり憎み切れない女だと思った。
 目的もなく昼近い太陽に照りつけられながら、所々に道一杯になって踊る群衆に遮(さえぎ)られ、または好奇心から立止まってそれを眺めたりしている内に、二人は元へ戻るような気のする坂道を登りかけて居るのを感じた。道のわきに柵があって、その崖の下の緑樹の梢を越してトロカデロ宮殿の渋い円味のある壁のはずれを掠(かす)めて規則正しくセーヌへ向けてゆるやかな勾配を作っている花壇の庭が晴々しく眺められた。庭の勾配が尽きて一筋の長閑な橋になり、橋を跨(また)いでいる巨人の姿に見えるエッフェル塔は河筋の水蒸気のヴェールを越しているので、いくらか霞んで見える。振り仰いで見ると流石に大きかった。太い鉄材の組合せの縞が直(じ)きに平らな肌になり、細く鋭く天を衝(つ)く遥かな上空の針の尖(さき)に豆のような三色旗が人を馬鹿にしたようにひらめいていた。再び眼を地に戻して河筋を示す緑樹の濃淡に視線が辿りつくと頭がふら/\した。新吉は言った。
――まだ、やっと此所までしか来てないじゃありませんか、すこし休んで、それから、ちっとはスケジュールを決めて町を見物しようじゃありませんか。」――子供のようになってアイスクリームを飲みましょうよ。」 白にレモン色の模様をとった屋台車を置いてアイスクリーム売りのイタリー人が燕のひるがえるのを眺めていた。
 新吉と夫人が往来に真向きに立ちはだかって互に顔で、おどけ合いながらアイスクリームの麩のコップを横から噛みこわしていると、二人が上って来た坂の下から年若な娘が石畳の上へ濃い影を落しながら上って来た。娘は二人の傍へ来ると何のためらう色もなく訊いた。
――バスチイユの広場へ行くのはどう行ったらいゝでしょう。」 娘の言葉にはロアール地方の訛(なま)りがあった。手に男持ちのような小型の嚢(ふくろ)を提げていた。
 夫人は娘の帽子の下に覗いている巻毛にまず眼をつけ、それから服装(なり)を眼の一掃きで見て取った。夫人の顔には惨忍な好奇心がうねった。
――ははあ、おまえさん巴里祭を見物しなさるのね。此所からバスチイユなんて、まるで反対の方角よ。――あんた、いつ巴里へ出て来なさった。」――半年ほどまえですの。」――連れて歩るいて呉れるいゝ人はまだ出来ないの。」――あら、いやだわ。」――いやだわじゃないことよ。そんないゝきりょうをしている癖に。」 巴里祭といえば誰に何を言おうが勝手な日なのだ、そうすることが寧ろ此の日に添った伝統的な風流なのだ。
 娘は白痴じゃないかと思われるほど無抵抗な美しさ、そして、どこか都慣れたところがあった。新吉はてっきりリサの送った娘と見て取った。そして夫人となれ合いの芝居ではないかと警戒し始めたが、夫人はどうしても娘に始めて逢った様子である。そして好奇心で夢中になっている。
――おまえさん、今日のお小遣いいくら持ってなさる。」――八十フランばかり。」――おまえさん恰好の娘さんの一人歩きには丁度いゝ額(たか)だね。」 夫人は分別くさい腕組みをして娘を見下ろした。新吉は夫人に気取られる前に先手に出て娘に言った。
――もしよかったら僕達と今日一緒に遊んで歩かないか。勿論費用は全部こっち持ちだよ。」 娘が下を向いて考えてる間に夫人は新吉に奥底のある眼まぜをして見せた。新吉は度胸を極(き)めて、それに動ぜぬ風をした。
――奥さん僕は此の娘を連れて歩きますよ。あなたと二人では、ひょっと喧嘩でも始めるといけませんからね。」 新吉の日本人らしい決定的な強さに圧された。その上夫人は娘の前で気前を見せる虚栄心も手伝って案外あっさり承知した。新吉は夫人のしつこさに復讐したような小気味よさを感じたが、年若な娘の放散する艶々(つやつや)しい肉体の張りに夫人の魅力が見る/\皺まれて行くのも気の毒だった。
 タクシーでオペラの辻まで乗りつけて、そこからイタリー街へ寄った、とあるキャフェで軽い昼食を摂りながら娘に都大路の祭りの賑(にぎわ)いを見せていると、新吉はいろ/\のことが眼の前の情景にもつれて頭に湧いた。あのトロカデロの坂道の崖の下あたりにリサが潜んでいて娘に自分達の後を追わせたのではなかろうか。それにしても、よくもこう注文にふさわしい娘を探し出したものだ。娘はどういう風(ふう)にリサから話し込まれたか知らないが、芝居をしているとも見えぬ程の自然さでこの芝居をこなしている。芝居をしながら、ちっとも本質を覆(おお)わない身についている技巧はまったくフランス娘の代表とも思われるほど本能の味わいを持って居る。娘はフォークの尖にソーセージの一片と少しのシュークルートの酢漬けの刻(きざ)みキャベツをつっかけて口に運びながら食卓に並んだ真中の新吉を越して夫人に快濶(かいかつ)に話している。新吉はだんだん夫人と娘の様子を見て居るうちに夫人とも此の娘の出現がかねて何かの黙契(もっけい)を持って居たのではなかろうかとさえ思われ始めた。
 リサと友達の此の夫人が、或いは昨日か昨夜かのリサとの謀計で此の娘が出現したのではなかろうか。それにしても娘は夫人に初対面のように語る。名をジャネットと言って巴里の近郊に沢山ある白粉工場で働いて居るはなし。国元はロアールの流れの傍で、飼兎の料理と手製の葡萄酒で育ったはなし。それを新吉にも聞えるように娘は話して居るのである。
 娘は少しおかめ型の顔をしてマネキン人形のような美しさに整(ととの)い過ぎているようだが、頬や顎のふくらみにはやっぱり若さの雫(しずく)が滴(したた)っていた。彼女は食事中にやれ芥子(からし)の壺を取って呉れの、水が飲みたいのと新吉に平気で世話を焼かせ、あとはまた新吉を越してベッシェール夫人と話し続けて行く。新吉は苦笑した。
 なりは大きいがまだ子供だ。此の子供の何処に感情の引っかゝりがあるのだ。リサは余りに若いのを選むのに捉われ過ぎた。新吉はジャネットの均一ものゝ頸飾りをちょっとつまんで、
――これよく似合うね。君に。」――でも、これはほんの廉(やす)ものなの。こちらのマダムのなんか見ると、まったく悲しくなるわ。」 新吉はこの娘はまだ十七に届いていない年頃なのに相当、人の機嫌をとることにも慣れて居るのに驚いた。夫人も上機嫌で娘に言った。
――あんた、せい/″\此のムッシュウの気に入るように仕掛けて、あたしのような首飾りを買ってお貰いなさいよ。」 新吉の日本の妻にさえ嫉妬する夫人が眼の前の此の娘の出現にこんなに無関心で居られる――娘といい、夫人といい、巴里の女の表裏、真偽を今更のように新吉は不思議がった。遊戯のなかに切実性があり、切実かと思えば直ぐ遊戯めく。それにしても上流中流の人達が留守にした巴里の混雑のなかに、優雅な夫人と、鄙(ひな)びて居ても何処か上品な娘を連れた新吉の一行は人の眼についた。
 昼の食事の時刻も移ったと見えて店内の客はぽつ/\立上って行く。男女二人ずつ立って行く姿が壁鏡に背中を見せる。給仕(ギャルソン)がブリオーシュ(パン菓子)を籠に積み直してテーブルに腹匍(はらば)いになって拭く。往来の人影も一層濃くなって酒に寛(くつろ)げられた笑い声が午後の日射しのなかに爆発する。群衆の隙から斜めに見えるオペラの辻の角のカフェ・ド・ラ・ペイには双眼鏡を肩から釣り下げたり、写真機を持った観光の外人客が並んで、行人に鼻を突き合せるほど道路にせり出して、之れが花の巴里の賑いかと気を奪われたような、むずかしい顔をして眺めて居る。行ったり来たりして、しつこく附纏う南京豆売り、壁紙売り。角のカフェ・ド・ラ・ペイとこっちのイタリー街の角との間は小広く引込んだ道になっていて、其の突当りがグランド・オペラだが此所からは見えない。たゞその前の地下鉄の停留所の階段口から人の塊が水門の渦のようになって、もく/\と吐き出されるのが見える。
 暫らく雲が途絶えたと見え、夏の陽がぎらぎら此の巷(ちまた)に照りつけて来た。キャフェの差し出し日覆いは明るい布地にくっきりと赤と黒の縞目を浮き出させて其の下にいる客をいかにも涼しそうに楽しく見せる。他の店の黄色或いは丹色の日覆いも旗の色と共に眼に効果を現わして来た。包囲した鬨(とき)の声のような喧騒に混って音楽の音が八方から伝わる。
 新吉は向う側の装身具店の日覆いの下に濃い陰に取り込められ、却(かえ)って目立ち出した雲母の皮膚を持つマネキン人形や真珠のレースの滝や、プラチナやダイヤモンドに噛みついているつくりものゝ狆(ちん)や、そういう店飾りを群集の人影の明滅の間からぼんやり眺めて、流石に巴里の中心地もどことなくアメリカ人の好みに佞(おもね)ってアメリカ化されているけはいを感じた。けば/\しい虎の皮の外套を着たアメリカ女。早昼食(クイックランチ)。「御勘定は弗(ドル)で結構でございます。」と書いた喰べ物屋のびら。筋向いのフォードの巴里支店では新型十万台廉売の広告をしている。
 食後の胃のけだるさがそうさせるのか新吉の不均衡な感情は無暗に巴里の軽薄を憎み度くなってじれ/\して来た。その時ジャネットが彼を顧向(ふりむ)いて夫人との間の話に合図を打たせようと身体を寄せて言った。
――どう。そうじゃなくて。ムッシュウ。」 しぼり立ての牛乳にレモンの花を一房投げ入れたような若い娘の体の匂いが彼の鼻を掠めた。すると新吉の血の中にしこりかけた鬱悶(うつもん)はすっと消えて、世にもみず/\しい匂いの籠った巴里が眼の前に再び展開しかけるのであった。新吉はその場にそぐわない、妙にしみ/″\した声で返事をした。
――ほんとうにね。そうだとも、マドモアゼル。」 そして彼の憧憬的になった心にまたしてもカテリイヌの追憶が浮ぶのだった。そうだ彼女に遇いたいものだ。今日という日はその為めに待ち焦(こが)れていた日ではないか。彼はそう思いながら、ひとりでにジャネットの丸い肩に手をかけた。何時(いつ)だったか、どの女だったか、彼の両肩に柔い手を置き、巴里祭のはなしをして呉れた感触を思い出した。
――ほんとにその日は若いものに取っては出合いがしらの巴里ですの。恋の巴里ですの。」 両肩の上に置いた其の女の柔い掌の堪(こた)え、そして、かつてカテリイヌを新吉が抱えたときのあの華やかな圧迫。触覚の上に烙(や)きつけられた昔の記憶が今、自分が手を置いて居る若い娘の潤(うるお)った肩の厚い肉感に生々しく呼び覚まされると新吉の心は急に掻きむしられるように焦立た(ママ)って来た。思わず呼吸が弾(はず)んで来るのだった。にわかに弾(はじ)いたように見ひらいた彼の瞳孔には生気の盛り上るイタリー街の男女の群の揉(も)み合う光景が華々しく映った。太陽の熱に脹(ふく)れ上る金髪。汗に溶ける白粉の匂い、かんばかりで受け答えしている話声。女達の晴着の絹の袖をよじって捲きつけている男の強い腕。――だが結局新吉の遠い記憶と眼前の実感は一致しなかった。新吉の頭は疲れて早くどこかの人群(ひとごみ)のなだれに押されて行って、其処で見出して思わず抱き合ってしまう現実のカテリイヌを見出したいと思った。傍の二人の女は其の時までの道連れだ。どれも向うからついて来た女達だ。自分の知ったことではない。この女達にあんまりこだわらないことにしよう。彼は弾んだ呼吸をすっかり太息(といき)に吐き出すと、ベッシェール夫人は冗談のように言った。
――レデーを二人も傍に置いときながら国元の奥さんの想い出に耽(ふけ)るなんて、あたしたちに失礼だわねえ、マドモアゼル。さあ、もう此のくらいで出かけましょう。」 夫人は日傘とお揃いの模様の女鞄の中から手早く勘定を払った。
 あたりの賑わしさを頭から叩き伏せるように力ずくの音楽が破裂している。それに負けまいとメリーゴーラウンドの台が浪を打って廻転する。此所ピギャールの角を中心に色々の屋台店が道の真中に軒を並べている。新吉と二人の女とはモンマルトルの盛り場の人混(ひとご)みへ互に肩を打当てゝ笑いさゞめきながら、なだれ込んだ。一軒の屋台では若者達が半身乗り出して、後へ上げた足に靴の底裏を見せながら、竿の糸でシャンパンの壜を釣ろうと競って居る。一軒の屋台では女を肩に靠(もた)せながら男が白い紙を貼った額(がく)を覗っている。鉄砲が鳴って女がぴくっとする刹那に額の白紙は破れて二人の写真が撮れているのだ。泣き出しそうな憂鬱な顔をして棒のように立っている運命判断の女。ルーレット球ころがし。その間にけばけばしい色彩で壁に淫靡(いんび)な裸体女と踏み躙(にじ)られた黒人を描いて、思わせ振りな暗い入口が五六段の階段の上についている食しんぼう小屋(ラ・バラック・ド・グウルユ)のようなものが混っている。
 人々が此所へ来ると野性と出鱈目をむき出しにして、もっと/\と興味を漁(あさ)るために揉み合う。球を投げ当てゝ取った椰子(やし)の実をその場で叩き割り、中の薄い石鹸色の水をごぼごぼ咽喉を鳴らして飲みながら職人風の男が四五人群集を分けて行く。
――ちょいと気を付けてよ。汁が跳ねかえってよ。まさかあんたがいゝ人になってあたしのよごれた靴下を買い直して呉れるわけでもなし――。」――はい、はい、気を付けますよ。抱(だ)き堪(ごた)えのあるお嬢さん――。」 ジャネットは此の人混(ひとご)みにあおられるとすっかり田舎女の野性をむき出しにしてロアール地方の訛(なま)りで臆面もなく、すれ違う男達の冗談に酬いた。白いむきだしの腕を張り腰にあて誇張した腰の振り方をし、時に相手によってはみだりがましくも感じられる素振りさえ見せて笑った。曲げた帽子の鍔(つば)の下からかもじの巻毛の尖きを引っぱりおろして右眉のすれすれに唾で貼りつけた。流石のベッシェール夫人も大ように見ていられなくなり嫌な顔して黙ってしまった。然しジャネットはそんなことぐらいを気にとめる様子もなくいよ/\発揮した。
――HEY(ヘイ)!。」 何処で覚えたか下等な人を呼びかけるアメリカ語を使い、口笛を嚠喨(りゅうりょう)と吹いた。これほどの喧騒も混み合いも新吉がカテリイヌを追い求める心をまぎらわすことは出来なかった。午後になり時間がせまればせまるほど気があせり、まわりの形色も物音もぼっとなって夢の中を歩いているようで、広い巴里のなかの何処に居るとも知れぬカテリイヌの面影が却って現実のように眼の前にちらついた。其の面影は面長で、たゞ真白な顔――黒とも藍ともつかぬ睫(まつげ)のなかに煙っている二つの瞳で、じっと見入られる、――言おうようない香りの高い、けだるい感じが新吉の手足の神経の末梢まで、浸み透り、心の底にふるえている男としての恥かしさと、妙な諧調を混え、新吉はやがて恍惚とした無抵抗状態になるのだった。花弁のように軽くて、無限の重さのあったカテリイヌの体重さえも太陽に熱くなったズボンの下の膝に如実に感じられるのだった。そしてだん/\新吉は疲れて行った。
 新吉は堪らなくなった。彼を無意識に疲れさすその面影から逃れるためには現実のカテリイヌが早く出て来て呉れるか、もっと違った強力な魅惑が彼の注意を根こそぎ奪うかして呉れるのでなければならなかった。新吉は早くこの二人の女に別れて、カテリイヌを探す為めに今日の巴里祭の雑沓の中を駆け廻りたいような衝動にかり立てられた。また心の一方ではあまり空漠とした欲望を広い巴里に持ちあぐむ自分にあきれ返って、やけに酒でも飲みに連れの二人を誘うと立止まった。
――此の老ぶれ(ビューコン)餓鬼!。」 まだ初心(うぶ)な娘の声をわざと蓮(はす)ッ葉(ぱ)にはしらせてジャネットが一人の男に叫んでいるのだった。そして其の男の手に持っていた風船玉を引ったくった。男は風船玉を奪い返すようなふりをしながらジャネットの手首を掴え、それから強い力で自分の方へ、くるりと廻して左に抱えてしまった。
――およしってば、連れがあるんだよ。」 流石に人中を憚(はばか)ってジャネットは羽がいじめの下でわめいた。――わめき乍らジャネットが新吉の方へ救いを求めるように手を出したので、その方向を辿って男は新吉を見つけると、
――青二才だな。」 そう言って女を離した。それから新吉の傍まで来るとちょいと顔を覗いて、
――おまえ西班牙人(スパニッシュ)か、しっぽりとやんな。」 巌丈な手で新吉の肩を痛いほど叩いて彼は行き過ぎた。
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