蔦の門
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著者名:岡本かの子 

 老婢は子供の時分に聞いた、上野の戦ひの時の、傷病兵の看護人が男性であつたものを、女性にかへてから非常に成績が挙るやうになつた看護婦の起源の話(これは近頃、当時の生存者がラヂオで放送した話にもあつたが)を想ひ出した。また自分の体験から、貧しい女は是非(ぜひ)腕に一人前の専門的職業の技倆(ぎりょう)を持つてゐなければ結婚するにしろ、独身にしろ、不幸であることを諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)して、ひろ子に看護婦になることを勧めた。そして学費の足しにと自分のお給金の中から幾らかの金を貢(みつ)ぎながら、ひろ子を赤十字へ入れて勉強さした。


 私の家は、老婢まきを伴つて、芝、白金から赤坂の今の家へ移つた。今度は門わきの塀に蔦がわづかに搦(から)んでゐるのを私が門へ蔓(つる)を曳(ひ)きそれが繁(しげ)り繁つたのである。
 まきはすつかり老齢に入つて、掃除や厨(くりや)のことは若い女中に任せて自分はたゞ部屋に寝起きして、とき/″\女中の相談に与(あずか)ればよかつた。
 しかし、彼女は晩春から初夏へかけて蔦の芽立つ頃の朝夕二回の表口の掃除だけは自分でする。母子の如く往き交(か)ふひろ子との縁の繋(つな)がり始まりを今もなほ若蔦の勢(いきおい)よき芽立ちに楽しく顧(かえりみ)る為めであらうか。緑のゴブラン織のやうな蔦の茂みを背景にして背と腰で二箇所に曲つてゐる長身をやをら伸ばし、箒(ほうき)を支へに背景を見返へる老女の姿は、夏の朝靄(あさもや)の中に象牙彫(ぞうげぼ)りのやうに潤(うる)んで白く冴(さ)えた。彼女は朝起きの小児がよち/\近寄つて来でもすると、不自由な身体に懸命な力で抱き上げて、若蔦の芽を心行くばかり摘み取らせる。嘗(かつ)ては、あれほど摘み取られるのを怒つたその蔦の芽を――そしてにこ/\してゐる。まきも老いて草木の芽に対する愛は、所詮(しょせん)、人の子に対する愛にしかずといふやうな悟りでも得たのであらうか。
 私は、それを見て、どういふわけか「命なりけり小夜(さよ)の中山――」といふ西行の歌の句が胸に浮んでしやうがない。


 蔦の茂葉の真盛りの時分に北支事変が始まつて、それが金朱のいろに彩(いろど)られるころます/\皇軍の戦勝は報じ越される。
 もう立派に一人前になつてゐたひろ子は、日常の訓練が役立つて、まるで隣へ招ばれるやうに、あつさり「では、をばさん行つて来るわ」とまきに言つて征地の任務に赴いた。
「たいしたものだ」まきは首を振つて感じてゐた。




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