上田秋成の晩年
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著者名:岡本かの子 

 文化三年の春、全く孤独になつた七十三の翁(おきな)、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居(あんきょ)の跡に間に合せの小庵を作つて、老残の身を投げ込んだ。
 孤独と云つても、このくらゐ徹底した孤独はなかつた。七年前三十八年連れ添つた妻の瑚□尼(これんに)と死に別れてから身内のものは一人も無かつた。友だちや門弟もすこしはあつたが、表では体裁のいいつきあひはするものの、心は許せなかつた。それさへ近来は一人も来なくなつた。いくらからかひ半分にこの皮肉で頑固なおやぢを味(あじわ)ひに来る連中でも、ほとんど盲目に近くなつたおいぼれをいぢるのは骨も折れ、またあまり殺生(せっしょう)にも思へるからであらう。秋成自身も命数のあまる処を観念して、すつかり投げた気持になつてしまつた。
 文化五年死の前の年の執筆になる胆大小心録の中にかう書いてゐる。
 もう何も出来ぬ故(ゆえ)、煎茶(せんちゃ)を呑んで死をきはめてゐる事ぢや――
 小庵を作るときにも人間の住宅に対する最後の理想はあつた。それはわづか八畳の家でよかつた。その八畳のなかの四畳を起き臥(ふ)しの場所にして、左右二畳づつに生活の道具を置く。机は東側の□下(まどした)に持つて行き、そばに炉を切り、まはりの置きもの棚に米醤油(しょうゆ)など一切飲み食ひの品をまとめて置く。西の端の一畳分の上に梅花の紙帳を釣り下げ、その中に布団から、脱ぎ捨てた着物やらを抛(ほう)り込んで置く。夏の暑さのために縁の外の葦竹(あしだけ)、冬の嵐気(らんき)を防ぐために壁の外に積む柴薪(さいしん)――人間が最少限の経費で営み得られる便利で実質的な快適生活を老年の秋成はこまごまと考へて居た。しかし、その程度の費用さへ彼は弁じ兼ねた。やむを得ず建てたところのものは、まつたく話にもならぬほんの間に合せの小屋に過ぎなかつた。彼は投げた気持の中にも怒りを催さないでは居られなかつた。――七十年も生きた末がこれか、と。しかし、すぐにその怒りを宥(なだ)めて掌(てのひら)の中に転(ころば)して見る、やぶれかぶれの風流気が彼の心の一隅から頭を擡(もた)げた。彼は僅(わず)かばかりの荷物のなかを掻(か)き廻して、よれた麻の垂簾(すいれん)を探し出した。垂簾には潤(うるお)ひのある字で『鶉居(うずらい)』と書いてあつた。彼はその垂簾の皺(しわ)をのばして、小屋の軒にかけた。
 彼は十七八年前、五十五歳のときに家族と長柄(ながら)川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に入つた住家だつた。彼はその時、家族を背負つたまま十数度も京摂の間に転宅して廻つたので、住家の安定といふことには自信が無くなつてゐた。自信を失ひながらなほ安定した気持になりたかつたので、その垂簾を軒にかけたのだつた。『鶉居』と書いたのは鶉(うずら)は常居なし、といふいひ慣(ならわ)しから思ひついた庵号(あんごう)だつた。
 さうした字のある垂簾をかけた小さい自分の家を外へ出て顧りみると、世界にたつた一つ住み当てた自分の家といふ気がして、そのとき、もはや老年にいりかけて居た彼は、こどものやうになつて悦(よろこ)んだ。しかし、その悦びも大して長く続かず、六年目には垂簾を巻いて京都へ転居したのをきつかけに、再び住居の転々は始つた。
 垂簾はかなりよごれてゐた。秋成は長柄の住家ではじめてそれをかけたと同じやうに外へ出て眺め返してみた。小庵は新しいので垂簾のよごれは目立つた。彼は住居に対する執著(しゅうちゃく)の亡霊がまだ顔をさらしてゐるやうで軽蔑(けいべつ)したくなつた。しかし、いくら運命が転居させたがつても、もうさうはおれの寿命は続かなからう。今度こそはおれは一つの家に住み切つてしまふのだ。さう思ふと痛快な気がして==ざま見い。と彼は垂簾に向つて云つた。そしてその気持を妻の瑚□尼に話したくなつた。==瑚□よ。いまだけでいい。ちよつと話し相手に墓場から出て来んかい。
 彼はもしこの小屋なら妻はいつも其処(そこ)に起き暮しするだらうと思ふ、小箱程の次の間に向つて壁越しに云つた。あとは笑ひにまぎらした。


 紙袋からぽろぽろと焼米を鉢にあけて、秋成はそれに湯を注いだ。そこにあつた安永五年刊の雨月(うげつ)物語を取つて鉢の蓋(ふた)にした。この奇怪に優婉(ゆうえん)な物語は、彼が明和五年三十五歳のときに書いたものである。書いてから本になるまで八年の月日がかかつてゐる。推敲(すいこう)に推敲を重ねた上、出版にもさうたう苦労が籠(こも)つてゐた。顧みると国文学者の分子の方が勝つてしまつた彼の生涯の中で、却(かえっ)て生れつき豊(ゆたか)であつたと思はれる、物語作者の伎倆(ぎりょう)を現したのは僅(わず)かに過ぎない。その僅かの著作のうちで、この冊子は代表作であるだけに他の著作は散逸させてしまつても、これには愛惜の念が残り、晩年になるほど手もとに引つけて置いた。それかと云つてさほど大事にして仕舞(しま)つて置くといふこともなかつた。運命に馬鹿(ばか)にされ、引ずり廻されたやうな一生の中で、自分の好みや天分が何になつたか。なまじそれがあつた為に毛をさか□(も)ぎにされるやうなくるしい目にあつたと思へば、感興に殉じた小伎倆(こうで)立てが、自分ながらいまいましく、この冊子を見る度にをこな自分を版木に刷り、恥ぢづら掻(か)いて居るやうで、踏まば踏め、蹴(け)らば蹴れ、と手から抛(ほう)つて置くとこまかせ、そこら畳の上に捨てても置いた。この冊子が世間で評判のよかつたことにも何といふことなしに反感が持てた。要するに愛憎二つながらかかつてゐる冊子であるため、ついそばに置いて居るといふのが本当のところかも知れない。土瓶敷(どびんしき)代りにもたびたび使つた。鍋(なべ)や土瓶の尻(しり)しみが表紙や裏に残月形に重つて染みついてゐた。
 湯気で裏表紙が丸くしめり脹(ふく)らんだ蓋(ふた)の本をわきへはねて、鉢(はち)の中にほどよく膨(ふく)れた焼米を小さい飯茶椀(めしぢゃわん)に取分け、白湯(さゆ)をかけて生味噌(なまみそ)を菜(さい)にしながら、秋成はさつさと夕飯をしまつた。身体は大きくないが、骨組はがつちりしてゐて、顎(あご)や頬骨(ほおぼね)の張つてゐるあばた面(づら)の老人が、老いさらばひ、夕闇に一人で飯を喰べて居る姿はさびしかつた。とぼけたやうな眼と眼が、人並より間を置いて顔についてゐるのが、蛙(かえる)のやうに見える。
 箸(はし)を箸箱に仕舞(しま)ひながら、彼はおおさうぢやと気がついて、部屋の隅からざるで伏せてあつた小鍋を持つて来て箸を突込み、まづさうに食ひ始めた。鍋にはどぜうが白つぽく煮てあつた。彼はこれを喰べるとき、神経質に窓や裏口を睨(にら)んだ。五十七歳で左眼をつぶして仕舞ひ、六十五歳でその左の眼がいくらか治つたかと思ふと、今度は右の眼が見えなくなつた。それから死を待つ今日まで眼の苦労は絶えなかつた。
 どぜうがよろしいと勧める人があるので食ひ続けて居るのを、一度わからずやの僧侶に見つかつて、人間は板歯で野菜穀(こく)もつを食ふやうに出来てゐる。どぜうなど食ふは殺生(せっしょう)のみか理に外(はず)れてゐる。とたしなめられ、その場は養生喰ひだと、抗弁はしたものの、その後は、食ふたびに気がさした。死ぬのに眼などはもうどうでもよろしいではないかと思ひつつも養生はやめられなかつた。
 小さいとき驚癇でしばしばなやまされながらも、神経の強い彼はときどき妄想性にかかつた。狐狸(こり)の仕業はかならずあるものと信じて居た。内心忸怩(じくじ)としながらかうやつてどぜうの骨をしやぶつてゐるときには、あの忠告した坊主がほんたうは自分も食ひ度(た)いのだがそれが食へぬので、あんな嫌がらせをいつたので、それを押して食つて居る自分を嗅(か)ぎつけたら、うらやましくなつて、何か化性にでもなつて現れて来るやうな気がした。事実その姿は変に薄つぺらな影絵となつて障子(しょうじ)の紙から抜けたり吸ひ込まれたりするのを彼は感じた。すると彼はいつそ大胆になつて、わざと大ぴらにどぜうを食つて見せるのだつた。それで影絵が消えて仕舞ふと、彼は勝利を感じて箸をしまつた。南禅寺の本堂で、卸戸(おろしど)をおろす音がとどろいた。その間に帚(ほうき)で掃くやうな木枯(こがらし)の音が北や西に聞えた。彼は行燈(あんどん)をつけてから、煎茶(せんちゃ)の道具を取り出した。
 彼は後世、煎茶道の中興の祖と仰がれるだけにこの齢になつても、この道には執著を持つた。むしろ他の道楽を一つ一つ切り捨てて行つて、たつた一つを捨て切れず、残した好みであるだけに全身的なものがあつた。「茶は高貴の人に応接するが如し、烹点(ほうてん)共に法を濫(みだ)れば其(その)悔かへるべからず」これが、彼の茶に対するときの心構へであつた。それで、茶具の数も、定めの数の二十具を減して十六にし、また、十二具にし、やぶれた都籠から取出したのはぎりぎり間に合せの茶瓶、茶盞、茶罌(ちゃつぼ)ぐらゐの数に過ぎなかつた。けれど、煎茶の態度は正しかつた。生活は老貧のくづすままに任せたけれど、そのなかにただ一筋、格をくづさぬものを、踏みとどめ残して置きたいといふのが、老人の最後の自尊心だつた。
 彼は、湯鑵(ゆがま)に新しく水をいれて来て火鉢に炭をつぎ添へてかけた。彼は水にやかましかつた。近所の井戸のものには腥気(せいき)があるとか、鹹気(かんき)があるとかいつて用ひなかつた。わざわざ遠くの一条の上の井戸から人を雇つて甕(かめ)に汲(く)みいれさせた。
 京摂の間では、宇治の橋本の川水が絶品だと云つて、身体のまめなうちは、水筒を肩にかけ一日仕事でよく汲みに行つた。それらの水を貯へた甕は夕方から庭に持ち出して蓋(ふた)をとり、紗帛で甕の口を覆ひ、夜天に晒(さら)した。かうすると、水は星露の気を承(う)けて、液体中の英霊を散らさないと、彼は信じて居た。何でも事物の精髄を味(あじわ)ふことには、彼はどんらんな嗜慾(しよく)を持つて居た。
 彼はゆつたりと坐(すわ)つて作法のやうに受汚(ちゃきん)で茶盞を拭(ぬぐ)ひ、茶瓶の蓋を開けて中を吟味し、分茶盒(ちゃいれ)と茶罌を膝(ひざ)元に引付けた。そして湯の沸くのを待つた。彼は幼時、いのちにかかはるほどの疱瘡(ほうそう)をして、右の手の中指は小指ほどに短かつた。左の手の人差指も短かつた。さういふ不具の手を慣して器物を扱つてゐるので、一応は何気なく見えるが、よく見ると手首は器物に獅噛(しが)みついてゐた。まるで餓鬼(がき)の執著ぢや。彼はわざといやなものを自分に見せつけるいこぢな習癖がここに起るときに、その手首を眼の前でひねくつて、ひとりくつくつと笑つた。さういふ手で筆を執(と)るのだから、どうせろくな字を書けつこないと自分を貶(けな)し切り、人がどんなに出来栄(ば)えを褒(ほ)めても決して受け容れなかつた。
 火鉢にかけた湯鑵の湯水が、やうやく暖まつて来て、微々の音を立てるやうになつた。秋成は、膝に手を置いて、そより、とも動かなかつた。ただ湯の沸くのを待つだけが望みであるこの森厳で気易(きやす)い時間に身を任せた。木枯(こがらし)が小屋を横に掠(かす)め、また真上から吹き圧(おさ)へる重圧を、老人の乾いて汚斑(しみ)の多い皮膚に感じてゐた。
 永い年月工夫(くふう)したかういふ境地に応ずべき気の持ちやうが自然と脱却して、いまは努めなくても彼の形に備(そなわ)つてゐた。それは「静にして寂しからず」といふこつであつた。
 湯が沸いて「四辺泉の湧(わ)くが如く」「珠(たま)を連ぬるが如く」になつた。もうすこしすると「騰波鼓浪(とうはころう)の節に入り、ここに至つて水の性消え即(すなわ)ち茶を煮べき」湯候(ゆごろ)なのである。秋成には期待の気持が起つて熱いものが身体を伝(つたわ)つて胸につき上げて来るのを覚えた。それが茶に対する風雅な熱意ばかりであるのかと思ふと、さうではなく、それに芽生(めば)えたいろいろな俗情が頭を擡(もた)げて来るのであつた。
 青年時代の俳諧(はいかい)三昧(ざんまい)、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張(いば)らして置くものではない。淡々奴(め)根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働(はたらか)して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜(くや)しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海(はるみ)、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長(もとおりのりなが)、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞(しま)ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑(ちょうしょう)や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかんから、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套(きゅうとう)に捉(とら)はれ、衒学(げんがく)にまなこが眩(くら)んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。
 和歌については、小沢蘆庵(おざわろあん)のことが胸に浮んだ。一方では、堂上風の口たるい小細工歌が流行(はや)り、一方では古学派のわざとらしい万葉調の真似手の多いなかに、敢然(かんぜん)立つて常情平述主義を唱へ「ただ言歌(ことうた)」の旗印を高く掲げた才一方の年上の老友がうらやまれた。自分に、若(も)し、もう少し和歌の志(こころざし)が篤(あつ)く、愚直の性分があつたら、あの流儀は自分がやりさうなことであつた。その「ただ言歌」の心要として蘆庵の詠(よ)んだ、
言の葉は人の心の声なれば
思ひを述ぶるほかなかりけり。
といふ歌などは「雨降るわ、傘(かさ)持てけ」のたぐひで歌とも何とも云ひやうのないものだが、なぜかそれが、歌を詠まうとするときには、必ず先きに念頭に浮んで詠みはづまうとする言葉の出頭(でがしら)を抑へ、秋成をいまいましがらせた。
 野暮な常識臭いものを固く執(と)つて動かない蘆庵の頑迷不遜(ふそん)が彼の感興を醒(さま)した。そしてまた歌はいくらやつても蘆庵が先きに掻(か)き廻して居るといふ感じが強かつた。蘆庵といふ男は始め天下一の剣士になるつもりで、それが適(かな)ひさうもなくなつたので、歌に変つたのだといふほどあつて、とても一徹なところがあり、四十年近くも地虫のやうに岡崎に棲(す)みつき、二本の庭の松を相手に、歌のことばかり考へて居た。自分がはじめて彼を訪ねたときには、もてなしだと云つて、武骨な腕で、琴をひいて聴かせたものだ。そのまじめくさつた歌にはをかしくて堪へられなかつたが、無理に我慢して歌詠み仲間の礼儀に歌の遣(や)り取りをしたものだつた。だが深切気のあるおやぢで、自分ののらくらして居るのを見兼(みか)ねて、せめて弟子取りでもしろと、勧めて呉(く)れた。自分はおもふさまなことを云つてそれをはねつけ、あの律儀なおやぢに、溜息(ためいき)を吐(つ)かせた。
 大雅(たいが)、応挙(おうきょ)、月渓(げっけい)などといふ画人が、急に世にときめき出したのも、癪(しゃく)に触つた。彼等の貧乏時代は、茶屋の掛行燈(かけあんどん)など引受け、がむしやらに雑用(ぞうよう)稼ぎをして、見られたざまではなかつたのを、この頃はすつかり高くとまり、方外の画料を貪(むさぼ)る。中にも月渓とは、智恩院の前の住ひでは、すぐ近所合ひであり、東洞院では同じ長屋住ひで味噌(みそ)醤油(しょうゆ)の借り貸し、妻の瑚□尼が飲める口であつたので、彼はよい飲み友達にして湯豆腐づくめの酒盛りなど、度々したものだつた。その頃からこの画描きは、食ひ道楽、飲み道楽、その上にもう一つの道楽もあつたのを、出世したから堪(たま)らない。すつかり身体をこはし、せん頃久しぶりに見舞つたら、樽詰(たるづ)めの不如法のさらし者を見るやうに衰弱して居た。しかも、それで居ながら酒の肴(さかな)は豆腐か、つくしにかぎるなどと、まだ食気のことを云つて居た。岸駒が俗慾の奢(おご)りを極め、贅沢(ぜいたく)な普請をして同功館などと大そうもない名をつけたのも癪に触つた。絵は、書典と功が同じである、それで画屋は同功館であるといふいはれださうだ。変なつけ上り方をすればするものだ。
 かういふ不平を続けて込み上らせて来ると秋成は、骨格の太さに似合はず少量な血が程よく身体を循環して、ぽつと心に春めくものを覚えるのだつた。眼瞼(がんけん)がぴくぴく痙攣(けいれん)するのも一つの張合ひになつて来た。湯鑵の湯はすつかり沸き切つて、むやみにぐらぐらひつくりかへつてゐるが彼はかまはなかつた。それよりもこの場合、肉体的に何か鋭い刺戟(しげき)を受けて興奮した、いまの気持を照応せしめたかつた。そこで湯鑵の熱い膚(はだ)に指の先きを突きつけた。痛熱い触覚が、やや痺(しび)れてゐる左の手の指先きに噛(か)みつくと、いはうやう無い快感が興奮した神経と咄嗟(とっさ)に結びつき、身体中がせいせいと明るくされるやうである。彼はこの分ならまだ五六年は生き堪へられるぞと、心中で呼ぶのだつた。彼は左の手の中で一本湯鑵の胴に触らないで痺れたままの感覚で取残されてゐる例の疱瘡(ほうそう)で短くなつてゐた人差指をも、公平にこの快味に浴させようと、他の四本の指を握り除け、片輪な指だけ、湯鑵の胴にぢりりと押つけた。甘美な疼痛(とうつう)がこの指をも見舞つた。いつそこの指を火にくべて、われとわが生命の焼ける臭ひを嗅(か)いだらどれほどこころゆくことだらう。
 気持が豪爽(ごうそう)になつて来るとまだまだ永く生きられさうな気がし出した。むしろ、これからだといふ気さへし出した。==人間はいつまでたつても十七八の気持は残つてゐる、と若いたいこ持ち茶人の宗了といふ男が、自分に体験もないくせに、誰に聴いたものか、かう云つたのを覚えて居る。その若いたいこ持ち茶人の宗了だが、彼が茶番をして、千鳥の役を引受けて酒席へ出たことがあつた。美男のうへ、念入りの化粧をしたので、芸子女中まで見惚(みと)れるくらゐだつた。ところがその顔の額(ひたい)へもつていつて彼は「千鳥」と太文字で書き入れた。それから右の頬(ほお)づらへ師匠の宗佐の名を鑑定の印の形に似せて朱で書き入れた。この趣向は飛抜けて奇抜だつたので、たちまち京阪(けいはん)の遊び仲間の評判になつた。当時その酒席に居た秋成は、宗了のこの働きを眼の前に見て、これがほんたうの若さから来る即興といふものではないかと感じたことであつた。どう思ひ切つても秋成自身には、この芸は出来さうもなかつた。宗了の美男と、若さ、がうらやまれた。
 さて、秋成自身ふり返つて見るのに、自分の肉体には若いうちから老いが蝕(むしば)んでゐて、思ひ切つた若さも燃えさからなかつた。だが、わが身のうちに蝕(むしば)んだこの若い頃からの老いが、その代り自分のなかにある不思議な情緒を、この七十の齢まで包みかばひ保たしてゐるのかも知れない。うつし世のうつしごとの上では満足出来ず、さればとて死を越えては、いよいよ便りを得さうも無い欲情――わづかにそれを紙筆の上に夢にのみ描いて、そのあとを形にとどめて来た。それは現実の自分の上では、身体でつきとめようとすれば、こころに遁(のが)れ、こころで押へようとすれば身体に籠(こも)る。雨晴れて月朦朧(おぼろ)の夜にちび筆の軸を伝つてのみ、そのじくじくした欲情のしたたりを紙にとどめ得た。『雨月』『春雨(はるさめ)』の二草紙はいはばその欲情の血膿(ちうみ)を拭(ぬぐ)つたあとの故紙(こし)だ。しかし肉漿(にくしょう)や膿血は拭ひ得てもその欲情の難(くるし)みのしんは残つてゐる。この老いにしてなほ触るれば物を貪(むさぼ)り恋ふるこころのたちまち鎌首(かまくび)をもたげて来るのに驚かれた。そして、貪り恋ふる目標物の縹眇(ひょうびょう)として捕捉し難いのにも自分乍(なが)ら驚かれた。
 それは正体が無くて、不思議なしわざだけする妖怪によく似てゐた。霽(は)れかかつた朝霧の中に冴(さ)えだけ見せてゐる色の無い虹(にじ)のやうにも覗(のぞ)かれた。
 老いを忘れる為に思ひ出に耽(ふけ)るとは卑怯(ひきょう)な振舞ひとして、秋成はかねがね自分を警(いまし)めてゐた。過ぐ世をも顧りみない、行く末も気にかけない。ただ有り合ふ世だけに当嵌(あては)めて、その場その場に身を生すことを考へて来た――事実、恋ふべき過去でも無い、信じられる未来とも思へなかつた、業風(ごうふう)の吹くままに遊び散らし、書き散らし、生き散らして来たと思へる生涯が、なぜか今宵は警めなしに顧りみられる。そして、そろそろ、まんさんたる自分の生涯の中に一筋貫(つらぬ)くものがあるのに気がつき出した。これを、今すこし仔細(しさい)に追及し、検討して見るとしても、あながち卑怯未練と自己嫌悪に陥るにもあたるまい――否、何かしらず、却(かえっ)て特別に自分に与へられた道の究明といふやうなけ高い、気持さへ感じられもして来るのだつた。
 秋成は湯鑵の蓋(ふた)をとつて見た。煮くたらかされて疲れ果て、液体のまん中を脊(せ)のやうに盛り上げて呻吟(しんぎん)してゐる湯を覗(のぞ)いて眉(まゆ)を皺(しわ)めた。物思ひに耽(ふけ)つて居るうちに茶の湯が煮え過ぎて仕舞(しま)つてゐた。秋成は、立ち上つて覚束(おぼつか)ない眼で斜めに足の踏み先きを見定めながら簷下(のきした)へ湯鑵の水を替へに行つた。疝腫で重い腰が、彼にびつこを引かせた。
 燠(おき)のたつた火を、その儘(まま)にして彼は、湯鑵を再びその上へかけた。彼はもう茶を入れて飲む方の興味は失つて居たが、水が湯になるあの過程の微妙な音のひびきは続けて置きたかつた。突き詰めて行くこころを程よく牽制(けんせい)してなめらかに流して呉(く)れる伴奏であるやうに思へた。彼は耳を傾けたが、風はもう吹きやんで、外はぴりぴりする寒さが、寺の堂も山門も林をも、腰から下だけ痺(しび)らせつつあるのを感じた==京は薄情な寒さぢや。と彼はここでひと言、ひとりごとをいつた。彼は元通りきちんと坐(すわ)つて、考への緒口(いとぐち)に前の考への糸尻(いとじり)を結びつけた。――愛しても得られず、憎んでも得られず、勝負によつて得られず、ただ物事を突きつめて行く執念のねばりにだけ、その欲情は充(み)たされたのだつた。だが、この世の中にそれほど打ち込んで行けるほどのものがあるだらうか。いくら執念のねばりを愛する欲情であるといつて、むやみに物を追ひ、獅噛(しが)みついて行くわけには行かなかつた。魅力といふものが必要だつた。そして魅力の強いものほど飽きが来た。飽きが来なければ、むかうが変つた。
 生母には四つの歳に死に訣(わか)れた。曾根崎の茶屋の娘だつた。場所柄美しくない女ではなかつたらうけれども、誰も父の名を明かして呉(く)れないところから考へると、いづれは公(おおやけ)にし難い関係から生れた自分だらう。物ごころついてそこに父と呼び母と呼ぶところの人があるのに気がつく時分にはもう堂島の上田の家に引取られて居た。上田氏が自分の何に当るか訊(き)く気はなかつた。訊けば嘘をつかれるだらうと判つてゐた。同じ嘘なら現在むやみに可愛がつて呉れる上田夫妻を、父と呼び、母と呼ぶ嘘の方が、堪へられた。彼の数奇(すうき)な運命は幼年の彼に、こんなませた考へをもたせた。
 二度目の母である上田の妻も自分を愛したが二三年を数へただけで死んだ。母といふものはたいがい早く死ぬものと、こども心にきめて何とも思はなかつた。ところが、上田氏の迎へた後妻で、自分に三度目の母になる女は、長生きした。彼女は秋成が六十近い年齢になるまで生きて妻と一しよに自分が引脊負(ひきせお)つて歩いた女である。その女も母として自分を可愛がつた。それで秋成の若いうち、世間はあなたはふしあはせのやうでも仕合せな方、二人もおふくろさんを代へて、しかもどのまま母もまま母のやうでない方、と言つた。だが、今考へるのにそれもよしあしだ。まま母が、まま母らしくむごたらしくして呉(く)れたら、一筋に生みの母への追慕は透(とお)つて生涯の一念は散らされずに形を整へてゐて呉れたかも知れない。それをなまじひ、わきからさし湯のやうに二人までの愛を割り込ませ、けつきよく自分の生母へのあこがれを生ぬるいものにして仕舞(しま)つた。をかしなことは自分が母親をなつかしむとき、屹度(きっと)、三人の女の面影が胸に浮び、若い生母の想像の俤(おもかげ)から老いた最後の養母まで、ずらりと面影を並べて、自分の思ひ出を独占しようと競ひ合ふ。自分は遠慮して、そのどれへも追慕のこころを専(もっぱ)らにするのを控へるのだつた。
 かくべつすぐれたところの無い養母たちにも心から頭を下げたことが二度あつた。一度は、後のまま母の生きて居るうち、自分の五十五の年であつた。中年で習つて、折角はやりかけた医術も、過労のため押し切れなく成り、それで儲(もう)けて建てた、かなり立派な家も人手に渡し、田舎(いなか)へ引込んだ年であつた。そのときは妻の母も一緒にして仕舞つたので、狭い田舎の家に二人の老婆がむさくるしく、ごたごた住まねばならなかつた。もとは大阪堂島の、相当戸前も張つて居る商家のお家はんであつたのを、秋成がその店を引受けてから急に左り前になつたその衰運をまともにつきあひ、わびしいめに堪へながら、秋成がやつとありついた医業にいくらか栄えが来て、楽隠居(らくいんきょ)にして貰(もら)つたところで、また、がたんと貧乏住居(ずまい)に堕(お)ちたのだつた。だから秋成にしてみれば、まま母に、何とも気の毒でしやうが無かつた。そこで、五十五の男が母の前に額(ぬか)をつけ、不孝、この上なしと、詫(わ)びたのだつた。すると、まま母は==何としやうもない事だ。と返事して呉(く)れた。ものを諦める、といふほど積極的に気を働かす女でなく、いつもその儘(まま)、その儘のところに自分を当て嵌(は)めた生活を、ひとりでにするたちの女だつた。けれども、この母のこの返事は、可成(かな)り秋成に世の中を住みよくさして呉(く)れた。この母と妻の母と、もう五十に手のとゞきさうな妻と、三人の老婆が、老鶏(ろうけい)のやうに無意識に連れ立つて、長柄の川べりへ薺(なずな)など摘みに行つた。
 かういふ気易(きやす)さを見て、暮しの方に安心した自分は、例の追ひ求むるこころを、歴史の上の不思議、古語の魅力へいよいよ専(もっぱ)らに注ぐのだつた。
 養家の父母の甘いをよいことにして、秋成はその青年期を遊蕩(ゆうとう)に暮した。この点に於て普通の大阪の多少富裕な家の遊び好きのぼんちに異らなかつた。当時流行の気質(かたぎ)本を読み、狭斜(きょうしゃ)の巷(ちまた)にさすらひ、すまふ、芝居の見物に身を入れたはもとよりである。そこに俳諧(はいかい)の余技があり、気質本二篇を書いては居るが、これは古今を通じて多くの遊蕩児中には、ままある文学癖(へき)の遺物としてのこつたに過ぎない。ところが、三十五歳、彼の遊蕩生活が終りを告げるころ、彼は突如として雨月物語を書いた。この物語によつて彼の和漢の文学に対する通暁さ加減は、尋常一様の文学青年の造詣(ぞうけい)ではない。押しも押されもせぬ文豪のおもかげがある。遊蕩青年からすぐこの文豪の風格を備(そな)へた著書を生んだその間の系統の不明なのに、他の国文学者たちは一致して不思議がつて居る。殊(こと)に彼自身、二十余歳まで眼に国語を知らず、郷党(きょうとう)に笑はれたなどと韜晦(とうかい)して人に語つたのが、他人の日記にもしるされてあるので、一層この間の彼の文学的内容生活は、他人の不思議さを増させた。彼はこの時までに俳諧では高井凡圭(きけい)、儒学は五井蘭州(ごいらんしゅう)、その他都賀庭鐘(つがていしょう)、建部綾足(たけべあやたり)、といふやうな学者で物語本の作者である人々についても、すこしは教へを受けたが、大たいはその造詣を自分で培(つちか)つた。それも強(し)ひて精励努力したといふわけでは無い。幼年から数奇(すうき)な運命は彼の本来の性質の真情を求めるこころを曲げゆがめ、神秘的な美欲や愛欲や智識欲の追躡(ついじょう)といふやうな方面へ、彼の強鞣な精神力を追ひ込み、その推進力によつて知らぬ間に、彼の和漢の学に対する蘊蓄(うんちく)は深められてゐた。彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵(かものまぶち)直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎(うまき)に贄(し)を執(と)つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿(ぼっ)するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托(たく)した。そして、この間に彼の名もそろそろ世間に聞え始めてゐた。しかし、それほどの師にすら、秋成の現実の対照に向つては、いつも絶対の感情の流露を許さぬ習癖が、うそ寒い疑心をもち==師のいひし事にもしられぬ事どもあつて、と結局は自力に帰り、独窓のもとでこそ却(かえっ)て研究は徹底すると独学孤陋(ころう)の徳を讃美して居る。
 かういふやうに、人に屈せず、人を信ぜぬ彼であつたが、前の養母にも一度衷心(ちゅうしん)感謝を披瀝(ひれき)したといふのは、享和(きょうわ)元年彼は六十八歳になつたが、この年齢は大阪の歌島稲荷社の神が彼に与へた寿命の尽きる歳であつた。養母は秋成が四つの歳に疱瘡(ほうそう)を病み、その時死ぬべき筈(はず)の命を歌島稲荷に祈つて、彼が六十八歳まで生き延びる時を期して自分の命を召します代りに、幼い命を救はれよと祈つたのであつた。その六十八歳になつても彼は死なず、祈つた養母自身がそれから二年目に死んだのが、自分の身替りのやうに有がたく思はれ、死骸(しがい)に向つてしみじみ頭を下げたのだつた。それにしてもそれから今日までまた余りに生き延びた。やつぱり自分のしんにうづいてゐるまた何物かを追ひ求める執念が自分の命を死なさないのか。この妄執の念の去らぬうちは、自分はいやでもこの世に生かせられるのではあるまいか、それは、辛(つら)く怖ろしいことのやうに思はれる。また、楽しい心丈夫な気持もする。人間にある迷ひといふものは、寿命に対してなかなか味のある働きをしてゐるやうにも考へられる。
 疑念ふかい彼はまた、若い頃からどの女を見ても醜い種が果肉の奥に隠されてゐて、自分の興を醒(さま)した。男を誘惑して子を生んでやらう。産んだ子を人質に、男を永く自分の便りにさしてやらう、生んだその子に向つては威張(いば)つて自分を扶助(ふじょ)さしてやらう――かういふいはれの種を持たない女は一人も無からう。もつとも女自身が必ずしもさういふ魂胆を一人残らず知つてゐて男に働きかけるわけではない。たいがいの女は何にも知らずに無心に立居振舞ふのである。だがその無心の振舞ひのなかに、もう、これだけの種が仕込まれてゐるのだ。女が罪が深いとほとけも云はれたが、およそ、こんなところをさしたのではないか。自分が遇(あ)つた女にはみなこの罠(わな)があつて危くてうつとりできなかつた。また、しやうばい女などはそれとはまるで違ふ種だが、やつぱりかならず持つて居る。男を迷はさず男の魂を飛さずに惚(ほ)れられる女は一人も無かつた。惚れればきつと男の性根を抜き、男を腑抜(ふぬ)けにして木偶(でく)人形のやうに扱はうとする。男に自分の性根をしつかり持ち据ゑさせ乍(なが)ら恍惚(こうこつ)たる気持にさして呉(く)れる女は一人も無かつた。さういふ女のことごとくが、男の性根のあるうちは、まるでそれをさかなに骨があるやうに気にしてむしりにかかる。骨がきれいにむしられて仕舞(しま)ふと安心して喰べにかかる。
 酒のやうに酔はせる女はたくさんある。茶のやうに酔はせる女は一人も無い。栄西禅師(ようさいぜんじ)の喫茶養生記の一節を思ひ出す。「茶を飲んで一夜眠らぬも、明日身不レ苦」と。一夜眠らざるも明日身苦しからぬ恋があらうか……そんなわけから、二十九のとき貰(もら)つた妻といふものにも何の期待も持たなかつた。年頃になつたから人並に身を固めるといふ世間並に従つたまでだ。名をお玉といつて自分とは八つ違ひだつた。大阪で育つた女だが、生れは京都の百姓の娘だから辛抱は強かつた。踏みつければ踏みつけられたまま伸びて行くといふたちの女だつた。それを幸(さいわ)ひ、こちらもまだ遊び盛りの歳だものだから、家を外に、俳諧(はいかい)、戯作(げさく)者仲間のつきあひにうつつを抜した。たまにうちへかへつてみると、お玉の野暮(やぼ)さ加減が気に触つた。自分と同じ病気なのも癪(しゃく)に触つた。遊びは三十を過ぎても慢性になつて続いて行くうちに、三十七の歳に養父は歿(な)くなる。紙屋の店を継いではじめて商売を手がけてみた。慣れぬこととてうまくゆく道理はない。その弱り目に翌年逢(あ)つた店の火事、次の一年間は何とか店を立て直さうとさまざまに肝胆を砕いてみたが駄目(だめ)だつた。そしておよそ商家に育つて自分くらゐ商売に不向きな性質の人間はないと悟つた。何故(なぜ)といふに、みすみす原価より高く利徳といふものを加へて品物を、知らん顔して人に売るといふことが、どうも気がひけてならなかつたからである。商品に手数料の利徳といふものをつけるのは当りまへであるには違ひなからうけれど、性分だ、その利徳はただ儲(もう)けの為に人に押し付けるやうで、客に価値を訊(き)かれても、さそくに大きい声では返事も出来なかつた。こんな風だから三年目には家を潰(つぶ)して田舎落(いなかお)ちした。そしてあるものはたいがい食ひ尽して仕舞(しま)つたから身過ぎのため何か職業を選ばなければならなくなつた。年も四十に達したので、もうぐづぐづしては居られない、まあ、知識階級の人間には入り易(やす)さうに考へられた医学で身を立てることに決心した。
 当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞(よしますとうどう)、といふやうな名医が出て、共に古方(こほう)の復興を唱へ、実技も大(おおい)に革(あらたま)り、この両派の秀才が刀圭(とうけい)を司(つかさど)る要所々々へ配置されたが、一般にはまだ、行き亙(わた)らない。大阪辺の町医村医は口だけは聞き覚えた東洞が唱道の「万病一毒」といふモツトーを喋舌(しゃべ)るが、実技は在来の世間医だつた。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻つていよいよ医術開業。そのときにかういふことを決心した。「医者はどうせ中年の俄仕込(にわかじこ)みだから下手で人がよう用ひまい。だから、足まめにして親切で売ることにしよう。しかし、いかに俗に堕(お)ちればとて、世間医のやる幇間(ほうかん)と骨董(こっとう)の取次(とりつぎ)と、金や嫁の仲人(なこうど)口だけは利くまい」と決心した。
 足まめにやる方針は一草医秋成を流行(はや)らせて暮しも豊(ゆたか)になつた。医者をはじめて四年目に、家を買ひ、造作をし直して入るやうになつた。その時の費用十二貫(かん)目を払ふことも、さう骨折らずに都合がついた。まづこの分なら見込みはついたと、せつせと働くうちに、自体が弱いからだなのでたうとう堪へ切れず残念にも医者をやめなければならなくなり、またもとの田舎住居(いなかずまい)とはなつた。其処(そこ)がすなはち長柄川の閑居だつた。
 妻のお玉にしても、どこに妻らしいたのしみがあつたらうか。自分が遊び盛りの若いうちは運びの留守番、医者になつて流行(はや)るうちは客の取次、薬の調合、それからやつと家にゐるやうになると、病人になつた夫の介抱だ。その上七十六まで永生きされた自分の養母を引受けて面倒は見る。まるでお玉は自分の家へ女中に来たやうな女だつた。自分も六十に手が届くやうになり、田舎(いなか)の閑居で退屈まぎれに、同棲(どうせい)三十年近くで、はじめて妻といふ女を見直して見るのであつた。それも、左の眼は悪くなつてしまつてゐたから、右の眼一つであつた。このときお玉はもう五十一歳だつた。もとから取立てるほどのきりやうもなかつたが、それが白髪(しらが)だらけになると、ただありきたりの老婆(ろうば)だつた。一体が、さういふふうな女でもあるし、京都生れで、辛抱強いのに生れの性といふ考へが、こつちの頭にあるものだから、ただかういふ風に苦労をするやうにできて来た女が老婆になつても、根よくことこと働いて居る家具のやうで、その点が、めづらしかつたのだ。この女に、女らしさなどあるとも思はないし、見つけ出すのはいや味な気がして、妻が枯木のやうな老婆になつて行くのを、却(かえっ)て珍重する気持だつた。だから自分が五十九歳、妻が五十一歳の寛政四年にまづ妻の母親が死に、すぐ自分の養母が死にして、何だか気合ひ抜けしたやうな形になつた妻のお玉が、髪をおろして尼の態(てい)になり度(た)いと申出たときに、早速それを許したのだつた。女臭いところの嫌ひな自分の傍にゐる女が一層枯木の姿になるのはさつぱりするからだつた。そのとき妻は、尼らしい名をつけて呉(く)れと頼むのですこし思案して『瑚□(これん)』とつけてやつた。どういふわけだと妻が訊(き)くから、これこれと呼ぶのに便利がいいからだと冗談半分に教へてやると、あんまり手軽すぎると不満さうだつたが、強(し)ひてことわりもせず、やがてその名のつもりになつてゐた。
 尼の形になつてからのお玉が驚かれたのは、まるで気性の変つて仕舞(しま)つたことであつた。ぱつぱつと話はする。気の向くとき働くが、気の向かぬときはどこまでも不精(ぶしょう)をする。世間態(てい)などちつとも構(かま)はなくなつて、つづれをぶら下げた着物でも平気で外へ出る。そしてむやみに笑ふやうになつた。多病でよく寝込むが、それを見舞ふとあはあは笑ふ。かうなつて来ると、却(かえっ)て自分には彼女にいつくしみが出て来るのだ。いんぎんにまめに自分の面倒を見た若いときの妻の親切といふものは、一つも心に留(とどま)つて居ないのに、綻(ほころ)びて仕舞つたやうになつた彼女が、ただわけもなくときどき自分の眼を見入るその眼を見ると、結婚して以来はじめて了解仕合つたといふ感じがするのであつた。しかも彼女は、一向もうそんなことをうれしいとも思はない無意識の状態で、自分を眺めるのだつた。
 最初から、すこし、いける口の彼女であつたが、それからは遠慮もなく、金があれば酒を飲み出し、京都へ移つてからは、画描きの月渓など男の酒飲み友達と組になり、豆腐ぐらゐの肴(さかな)でわびた酒盛をしじゆうやつた。
 この女も尼になつてから七年目、自分が六十六歳、彼女が五十八歳のとき死んだ。
 彼女に就いては死んだ後、まだ一つ意外な思ひをさせられた。
 彼女は自分の道楽を見習つて、すこしは歌めくもの、まれに短文などつづりもしたが、元来家事向きに出来て居る女の物真似、なに程の事ぞときめて、取り上げた事もなかつた。彼女も臆(おく)して自分には見せなかつた。ところが彼女が死に、彼女のすこしばかりの遺(のこ)しものの破れた被布(ひふ)、をさながたみの菊だたうなど取片づけてゐるうちに、ふと、糸でからめた文反古(ふみほうご)の一束を見つけ出した。読んで見ると、自分の放埒(ほうらつ)時代にしじゆう留守をさせられた彼女の、若き妻としての外出中の夫に対する心遣ひを、こまごまと打開けたものや、子の無い自分が長柄川閑居時代に、ふと愛した近隣のこどもに死なれ愁歎(しゅうたん)の世にも憐(あわ)れなありさまを述べたものなどであつた。書きぶりも自分のによく似た上、運ぶこころも自分へ向けてゐるものばかりであつた。あの虫のやうな女に、こんな纏綿(てんめん)たる気持が蟠(わだかま)つてゐたのか。自分のやうな枯木ともなま木ともわけの判らぬ男性にやつぱり情を運ばうとしてゐたのか。さう思ふといぢらしくなつて、その文反古の上に、不覚の涙さへこぼした。しかし、再三読返してゐるうちに、自分に対して姉ぶつた物言ひや、自分を恨(うら)まず、なんでも世の中の無常にかこつけて悟りすまさうとする貞女振りや、賢女振りが、目について来て、やつぱり彼女も世間並の女であつたかと、興が醒(さ)めたとは云ひながら、その意味からいつて、また憐れさが増し、兎(と)も角(かく)も人が編んで呉(く)れた自分の文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』の末に入れてやつた。
 秋成は、かういふ流浪(るろう)漂泊の生活の中に研鑽(けんさん)執筆してその著書は、等身の高さほどあるといはれてゐる。国文に関した研究もの、国史、支那稗史(しなはいし)から材料を採つた短篇小説、校釈、対論文、戯作、和歌、紀行文、随筆等、生涯の執筆は実に多岐(たき)に渉(わた)つてゐる。その著書は、煎茶道(せんちゃどう)の祖述、漢印の考証にまで及んでゐる。しかし、これ等(ら)の仕事は、気ままできれぎれで、物質生活を恵む筈(はず)なく、学才は人に脅威を与へ乍(なが)ら、生活はだんだん孤貧に陥つて行つた。
 養母と姑(しゅうとめ)が死んだ翌年の寛政五年、剃髪(ていはつ)した妻瑚□を携へて京都へ上つたときは、養母の残りものなど売り払つて、金百七両持つてゐたといふがそれもまたたく間に無くなり、それから書店の頼む僅(わず)かばかりの古書の抜釈(ばっしゃく)ものかなにかをして、十両十五両の礼を取つて暮してゐたが、ずつと晩年は数奇(すき)者が依頼する秋成自著の中でも有名な雨月などの謄写(とうしゃ)をしてその報酬で乏(とぼ)しく暮して居た。しかし、それも眼がだんだん悪くなつて出来なくなり、彼自身も『胆大小心録』で率直(そっちょく)に述べてゐる通り、「麦くたり、やき米の湯のんだりして、をかしからぬ命を生きる――」状態になつた。
 妻の瑚□尼が死んで、全く孤独のやもめの老人となつた秋成は、一時、弟子の羽倉信美(はぐらのぶよし)の家へ寄食してみたが窮屈で堪へられず、またよろぼひ出て不自由な独居生活に返つた。
 故郷なつかしく大阪に遊んだり静かな日下の正法寺へ籠(こも)つて眼を休ませてみたりしたが老境の慰めるすべもなかつた。年も丁度七十歳に達したので、前年棲(す)んで知り合ひの西福寺の和尚(おしょう)に頼んで生き葬(とむ)らひを出して貰(もら)ひ、墓も用意してしまつた。
 秋成はそのときのことを顧みて苦笑した。さすがの癇癖(かんぺき)おやぢも我(が)を折つたかと意外に人が集つて来た。恥をかかせてやつたので怒つて居るといふ噂(うわさ)の若い儒者まで機嫌よく挨拶(あいさつ)に来た。役に立たないやうなものをたくさん人が呉(く)れた。それ等(ら)の人々は自分をいたはつたり、力をつけたりする言葉を述べた。そして自分がしほらしく好意を悦(よろこ)び容れる様子を示すのを期待した。自分はしまつたと思つた。
 自分で自分を葬(ほうむ)る気持は、生涯何度も繰返したので、一向めづらしいことではない。今度こそ、すこし、それを大がかりに形式に現して気持を新(あらた)にするつもりでゐたものを、これではまるで、他人に自分を葬らせる機会を作つてやつたやうなもので、今更、取返しのつかぬ失敗のやうに思はれた。で、ふしよう、ぶしよう==有難う、まあ、これからこどもに返つた気で……といふと、その言葉に飛びついて==それが宜(よ)い、全くこれからは、何もかも忘れてこどもに生れ返りなさることですぞ。と自分と同年でありながら、髪が黒く、歯が落ちず、杖(つえ)いらず、眼自慢の老人が命令的に云つた。日頃病身の癖に、壮健な彼と同じやうに長命する秋成を腹でいまいましがつてゐる老人だつた。彼は彼に向つて日頃いたづらなる健康を罵(ののし)る秋成に、折もあらば一撃を与へようと機会を覗(うかが)つてゐたのだつた。彼の言葉は==この上、長生きをするなら、もちつと、おとなしくしろ。といふのも同じだつた。まはりで聞いて居た人々は手を拍(う)つて、さうだ、そのことそのこと、といつた。
 それから、知友の連中は牒(しめ)し合したやうに、自分をこども扱ひにし、真面目(まじめ)に相手にならなかつた。彼はその方が都合がよかつた。相手はこどもに返つた老人だといふ考への下に、愉快に自分の罵言(ばげん)も聴き、寛容も秋成に示せた。もう誰も、秋成に向つて真理に刺されて飛上る苦痛の表情も反抗する激怒の態度も見せて呉(く)れるものは無くなつた。垂れ幕のやうな、にやにやした笑ひだけが、自分の周囲を取巻いた。秋成は、的が無くなつて、空(むな)しい矢を射る自分の疲労に堪へられなくなつた。
 彼等はその上、自分に深切さへ見せ出して自分の文集を編み出した。誰にも、手をつけさせなかつた草稿を入れて置く机のわきの藤簍(つづら)かごを掻廻(かきまわ)したり、人のところから勝手に詠草(えいそう)を取り寄せたりして版に彫つた。家鴨(あひる)は醜くとも卵だけは食へると思つたのかも知れない。自分が何か註文をいひ出すと==こどもに返つたのを忘れては困る。遊んで遊んで。と肘(ひじ)ではねた。これらの草稿は、やつぱり、自分のかねての決心どほり、自分の柩(ひつぎ)と一しよに寺に納めて後世を待つべきものではなかつたかしらん。人に□(も)ぎとられて育つたやうな冊子でも出来て見れば、可愛(かわ)ゆくないことはない。それだけにまた、人に勝手にされたいまいましい気持も、添ふが。
 夜も更け沈んだらしい。だみ声で耳の根に叩(たた)きつけるやうな南禅寺の鐘、すこし離れて追ひ迫る智恩院の鐘、遠くに並んできれいに澄む清水(きよみず)、長楽寺の鐘。寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろい檐(ひさし)の点滴の音が、をちこちで鳴き出した梟(ふくろう)の声の鳴き尻を叩(たた)いてゐる。雨ではない。靄(もや)だ。それが戸の隙間(すきま)から見えぬやうに忍び込んで行燈(あんどん)の紙をしめらしてゐる。湯鑵の水はすつかりなくなつて、ついでに火鉢の火の気も淡くなつてゐる。
 秋成は、尽きぬ思ひ出にすつかり焦立(いらだ)たさせられ、納(おさま)りかねる気持に引かへ、夜半過ぎて長閑(のどか)な淀(よど)みさへ示して来たあたりの闇の静けさに、舌打ちした。==なにが、この俺がこどもに帰つた翁(おきな)か。求めるこころも愛憎も、人に負けまい、勝負のこころも、みんな生殺(なまごろ)しのままで残されてゐるではないか。身体が、周囲が、もう、それをさせなくなつてしまつたまでだ。もしそれをさせるなら俺は右の手にも左にもちび筆を引握つて、この物恋ふこころ、説き伏せ度(た)い願ひを吐きに吐きつつ、しかも、未来永劫(えいごう)癒(いや)されぬ人の姿のままで、生き延びるつもりだ。それを、さうはさせない身体よ、周囲よ、汝等(なんじら)はみな人殺しだぞ。人殺し! 人殺し!。と秋成は、自分の身体に向け、あたりに向け、低いけれども太くて強い調子の声を吐きかけた。そして、今更、自分の老(おい)を憎んだ。
 かうなつたら、やぶれ、かぶれ、生きられるだけ生きてやらう。身体が足の先きから死に、手の先きから死にして行かうとも、最後に残つた肋骨(ろっこつ)一本へでも、生きた気込みは残して見せようぞ――。考へがここまで来ると彼は不思議な落着きが出て来た。
 暁方(あけがた)近くらしいぬくい朝ぼらけを告ぐるやうな鶏(とり)の声が、距離不明の辺から聞えて来た。彼はこの混濁した朝、茶を呑(の)むことにとぼけたやうな興味を感じ出した。彼はまた湯鑵に新しく水を入れて来て火鉢の火を盛んにした。湯の沸く間に、彼は彼の唯一の愛玩(あいがん)品の南蛮(なんばん)製の茶瓶(ちゃびん)を膝(ひざ)に取上げて畸形(きけい)の両手で花にでも触れるやうに、そつと撫(な)でた。五官の老耄(ろうもう)した中で、感覚が一番確かだつた。
 南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事敵(がたき)の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地(いくじ)なし奴等(めら)だ。
 十二歳年下で、六十歳の太田南畝(なんぽ)がまだ矍鑠(かくしゃく)としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣(じし)して居るこの悧恰(りこう)な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目(まじめ)な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜(くや)しい念は起さなかつた。
 茶瓶に湯が注がれて、名茶『一の森』の上□(じょうろう)の媚(こ)びのやうな淡いいろ気のある香気が立ちのぼつた。彼は茶瓶をむづと掴(つか)んだ。茶瓶の口へ彼の尖(と)がつた内曲りの鼻を突込んだ。茶の産地の信楽(しがらき)の里の春のあけぼのの景色も彼の眼底に浮んだ。
 その翌、文化四年七十四歳の秋成は草稿五束を古井戸に捨てた。
 さうかと思ふと、その翌、文化五年には、人が、彼の書簡集『文反古』を編んで刊行するのを許して居る。そして、彼自身も、最も露骨な告白文である随筆集『胆大小心録』を完成して居る。


 翌、文化六年六月、彼は、弟子の羽倉信美の家で死んだ。住み切らうと決心した南禅寺の小庵『鶉居(うずらい)』にも住み切れなかつた。信美の家へ引取られるまでに、一時、寿蔵(じゅぞう)を営んだ西福寺へ寄寓したりなぞしても居た。




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