過去世
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■暇つぶし何某■

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著者名:岡本かの子 

 池は雨中の夕陽の加減で、水銀のやうに縁だけ盛り上つて光つた。池の胴を挟んでゐる杉木立と青蘆(あし)の洲(す)とは、両脇から錆(さ)び込む腐蝕(ふしょく)のやうに黝(くろず)んで来た。
 窓外のかういふ風景を背景にして、室内の食卓の世話をしてゐる女主人の姿は妖(あや)しく美しかつた。格幅(かっぷく)のいゝ身体に豊かに着こなした明石(あかし)の着物、面高(おもだか)で眼の大きい智的な顔も一色に紫がゝつた栗(くり)色に見えた。古墳の中の空気をゼリーで凝(こご)らして身につけてゐるやうだつた。室内でたつた一人の客の私は、もう灯(ひ)をともしてもいゝ時分なのを、さうしないのは、今宵私を招いた趣旨の蛍(ほたる)見物に何か関係があるのかも知れないと思ひ、すこしは薄気味悪くも我慢して、勧められるまゝ晩餐(ばんさん)のコースを捗(はかど)らせて行つた。だん/\募る夕闇の中に銀の食器と主客の装身具が、星座の星のやうに煌(きら)めいた。
 女主人久隅雪子は私と女学校の同級生で、学校を卒業するとしばらく下町の親の家に居たことだけは判つたが、直ぐ消息を断つた。それから十年あまりして私は既に結婚してゐて、良人(おっと)に連れられて外遊する船がナポリに着いた時、行き違ひに出て行かうとする船に乗り込む遽(あわただ)しいかの女に、埠頭(ふとう)でぱつたり出遭(であ)つて、僅(わず)かにお互(たがい)に手を握つた。あとは私の帰朝後を待つてといひ残して訣(わか)れてしまつた。
 二人ともいはゆる箱入娘で、女学生にしてもすでに知らねばならない生理的の智識に疎(うと)いところがあり、よく師友から笑ひ者にされた。その代り二人は競つて難しい詩や哲学の書物を読んだ。さういつた関係から、双方無口であり極度の含羞(はにかみ)やでありながら、何か黙照し合ふものがあるつもりで頼母(たのも)しく思つてゐた。だが私が四年目に帰朝し、それから二三年も経(た)つたのに、かの女からは再び何の消息もなく、同窓の誰も知らなかつた。一度こちらから親の家へ尋ね合した手紙は、久しく前に移転して住所不明の附箋(ふせん)で返されて来た。
 ところが突然かの女は郊外の新居といふのから電話して来て、車を廻して寄越(よこ)し、自宅で蛍見物をさすといふのに、のん気な昔の友人訪問の気持を取り戻して、私は来て見たのであつた。


 淡い甘さの澱粉(でんぷん)質の匂ひに、松脂(まつやに)と蘭(らん)花を混ぜたやうな熱帯的な芳香(ほうこう)が私の鼻をうつた。女主人は女中から温まつた皿を取次いで私の前へ置いた。
「アテチヨコですの?」
「お好き?」
「えゝ。でも、レストラントでなくて素人(しろうと)のおうちでかういふお料理珍しいと思ふわ」
「素人ぢやございませんわ。店の司厨長(シェッフ)を呼び寄せて、みな下で作らして居ますのよ」
「わざ/\、まあ、恐れ入りました」
「私、最近に下町で瀟洒(しょうしゃ)なレストラントを始めようと思つて、店や料理人を用意してありますのよ」
 女主人はレモンの汁を私の皿の手前に絞つて呉(く)れ、程よく食塩と辛子(からし)を落して呉れた。私は大きな松の実のやうな菜果を手探りで皮を一枚づゝ剥(は)ぎ、剥げ根にちよつぽり塊(かたま)つてついてゐる果肉に薬味の汁をつけて、その滋味を前歯で刮(か)き取ることにこどものやうな興味を湧(わか)しながら、
「まあ、あなたがお料理屋を、どうして」
「――何かして紛らしてゐなければ――独身女はしじゆう焦々(いらいら)しますのよ」
 さう云つて友はちよつと眉(まゆ)を寄せたが、友の内心には何処(どこ)かさとりめいた寛(くつろ)いだ場所が出来、一脈の涼風が過不及(かふきゅう)なしの往来をしてゐるらしくも感じられる。下手な情感的な態度を見せては案外友を煩(うる)さがらさぬともかぎらない。
「それよりも、私、私が今度買ひ取つて落着くやうになつたこの家に就いて不思議な因縁話があるの、あなたに聴いて頂かうと思つて……さう陽気な話ぢやありませんの。灯(ひ)をつけて話しますわ」
 夕顔の花のやうな照り色のシヤンデリヤがぽつとついた。室内の照明に負けて窓外の景色はたちまち幕を閉ぢて、雨の銀糸が黒い幕面にかすれた。一たん眼を冥(つむ)つた友はまたぱつと開いて私の顔を真面(まとも)に見た。これも昔見た友の癖である。


 かの女は女学校を卒業して親の家で結婚前の生活をしてゐる期間に、望まれて父親の知合ひで郊外に隠寮を持つ退職官吏Yの家へ客分として預けられることになつた。
 退職官吏Yの考へでは、自分の蒐集品(しゅうしゅうひん)の殊(こと)にこまかい細工ものゝ昔人形や、壊れものゝ陶(すえ)もの類は、骨董(こっとう)美術品商の娘であるかの女の馴(な)れて丹念な指先が、手入れ保存に適当だと思つたからであつた。かの女の父はまたかの女がたとへ富んだ老舗(しにせ)の長女でも、下町の娘であるからには躾(しつ)けに至らぬ我儘(わがまま)なところがあらう。一度は上層智識階級の家へ入れて見習はしたいといふ昔風の考へがあつた。雪子の父はなまじなよその夫人よりY家の主人を非常に厳格な躾け正しい人と信じてゐたから……
 かの女はちよつとした嫁入支度ほどの調度を持つて、Yの隠寮へ寄寓した。


 あてがはれた庭向きの客座敷の隣の八畳へ調度を収めて、女らしい部屋にしてかの女は落着いた。家長のYは、かの女が落着くとすぐ部屋に兵児帯(へこおび)をちよつきり結びにした大兵(だいひょう)の体を唐突に運び入れて来て、衣桁(いこう)にかけた紅入りの着ものや、刺繍(ししゅう)をした鏡台の覆ひをまじ/\と見て、
「娘の子を一人持つたやうだ」
 これが精一杯のお世辞の挨拶(あいさつ)だといふやうに、ぶつきら棒に云つた。そして直ぐ椽(えん)から盆栽棚のたくさん並んでゐる庭へ下りて行つた。
 その後はYは一度も部屋に見舞つて来なかつた。そしてとても仕切れないほどの所蔵品の手入れを命じたり、観賞するためにあれこれと蔵から出し入れさせられて煩(うる)さかつた。彼は偏執症の蒐集慾以外に精力を使ふことを絶対に嫌つた。早く妻に訣(わか)れてからは、異性には全然関心を持たなかつた。それは彼の最も世の中で価値ありとする品とか気位とか悧巧(りこう)とかを誑惑(きょうわく)する魔性(ましょう)のものに外(ほか)ならなかつた。たゞ彼は気短かになつて、しば/\癇癪(かんしゃく)を起した。それらの性癖の諸点が却(かえ)つて彼を厳格端正に表面化させたのだと雪子はYに就いての世評の裏を知つた。


 何にでも極度に好き嫌ひをつけるYは、自分の息子兄弟にもそれをした。弟息子の梅麿(うめまろ)は父の唯一の寵児(ちょうじ)だつた。彼はやゝ下膨(しもぶく)れの瓜実顔(うりざねがお)の、こんもり高い鼻の根に迫らぬやう切れ目正しくついてゐる両眼の黒い瞳に、長い睫毛(まつげ)を煙らせて、地を見入つてゐるときには、何を考へてゐるか誰も察しがつかなかつた。桐(きり)の花のやうに典雅でつくねんとした美しさが匂つた。声も鋭さを鞣(なめ)して楽しい響きを持つてゐた。彼はいつでも不機嫌に近く黙つて孤独で、地へ向けて長い睫毛を煙らせてゐた。雪子は新しく家族の仲間に加はつた自分に対し、若い女性に対し、何の影響をも示さないこの少年に、焦立(いらだ)たしさと、不満を含まないわけにはゆかなかつた。
 だが、その美しさには雪子も呆然(ぼうぜん)として息を吐いた。父は梅麿を自分の蒐集物(しゅうしゅうぶつ)の愛玩(あいがん)品の中に数へ、しかもその中で最も気に入つた一つのものゝやうに、書斎で、庭で、二人は大概一緒だつた。そして父はこの息子に下手(したて)からお世辞を使ふ態度を取つてゐた。梅麿は父がお世辞を使ふ気持を見抜いて、とぼけて悠々とお世辞を使はれてゐた。だが決して調子に乗らなかつた。そして、父が理由もなく癇癪(かんしゃく)を起しかけて来ると、少女よりやゝしつかりした綺麗(きれい)な唇を嬌然と笑みかけて、あどけないことを云つたり、親を煽(おだ)てたり、他人の悪口を云つたり、およそ父の弱点が喜びさうなところを衝(つ)いて、素知(そし)らぬ顔で父の気分を持ち直させることに、気敏(けざと)い幇間(ほうかん)のやうな妙を得てゐた。
 雪子はいやらしいと思ふ以上に、その技巧の冴(さ)えに驚嘆した。だが、梅麿は父以外にはその手は絶対に使はなかつた。
 父の気紛れが、面白くない仕辛(しづら)い仕事を望むときには、梅麿はすーつと脇へ除(よ)けた。夜中に急に風呂を沸かさせたり、椽(えん)の下の奥に蔵(しま)つてある重いものを取出さしたり――さういふときには兄の鞆之助(とものすけ)が、ぶつ/\いふ召使を困りながら指揮して、その衝(しょう)に当つた。
 父はこのことを知つてゐて、
「梅は狡(ずる)いやつだ」
といつて笑つたが、その狡さが気に入つてもゐた。
 兄の鞆之助は反対に調法の外(ほか)、何から何まで、父の気に入らなかつた。父は兄息子の顔を見るとむつと黙つて仕舞(しま)ふか、癇癪を浴せかけた。命令通り出来上つた仕事も、その命令通りにした愚直なことが、そこに叱言(こごと)の隙間(すきま)もないことで父を怒らせた。兄はしじゆうおど/\してゐて、眼鼻立ちに神経の疲労と愁(うれ)ひの湿りがあつた。濃い頭の捲毛(まきげ)だけが兄弟似寄つてゐた。兄弟は父が現代教育の方針に不満といふ理由で、一人は中学を、一人は高等学校を、途中から退学させられて、通つて来る二三人の家庭教師に就(つ)かされてゐるが、実は父が家庭に於ける享楽(きょうらく)生活に手不足を来(きた)すのを、父は極力嫌つたためでもあつた。
 兄の鞆之助は雪子の部屋へよく遊びに来た。雪子が部屋の周囲に、蔵から出して来た、真(ほん)ものゝ植物以上に生々と浮き出てゐる草花が染付けられてゐる鉄辰砂(しんしゃ)の水差や、掌(てのひら)の中に握り隠せるほどの大きさの中に、恋も、嘆きも、男女の媚態(びたい)も大まかに現はれてゐる芥子(けし)人形や、徳川三百年の風流の生粋(きっすい)が、毛筋で突いたやうな柳と白鷺(しらさぎ)の池水(ちすい)に彫(きざ)み込まれた後藤派の目貫(めぬ)きのやうなものを並べて、自分の店から持つて来たいろ/\の専門の道具や薬品を使つて手入れしながら、面倒臭く思つて伸びをしたり、または芸術といふ不思議な幻術が牽(ひ)き入れる物憎い恍惚(こうこつ)に浸(ひた)つたりしてゐると兄はおづ/\入つて来る。
 彼はかの女の傍に立膝(たてひざ)して坐(すわ)ると、いくらか手入れを手伝ひながら、かの女の気配を計つた。かの女の丸い顔をいぢらしさうに見た。
「うちは、これでね、思つたほど豊かぢやないんですよ。何しろ父はあゝいふ風でせう。
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