英国メーデーの記
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著者名:岡本かの子 

 行進が殖民地官省のある町を通つた時この枝隊は特に意味を持つた。
 皮肉(アイロニー)だ。皮肉だ。
 皮肉好きの英人の見物は羊皮製の顔に血の気を浮べて頷き合ふ。この日のために特に刷つた赤字のビラやパンフレット、この日の見物に売捌かうと抱へて来た労働新聞を傍列の赤シャツや黒ヅボンが両側の人波へさあさあと撒く。紳士は巻煙草の広告のやうに婦人連は百貨店の衣裳の宣伝ビラをうけとめるように至極悠長な受け渡しだ。代金をあとから筒で取りに来る。慈善事業の寄附に小銭を入れるやうに人達は無雑作だ。
 ハイドパークの青芝を踏まへて六つの演壇が出来てゐる。そこで世界経綸の抱負と無産階級の意義と露西亜への好意(グッドウヰル)と、マクドナルドの打倒――等々がアクセント許りに煮詰められた用語で拍手の唸りを長閑に反応させてゐる。だが、この広い公園の青芝に一万の人間はただの片隅だ。なほあり余る空地には犬と遊ぶ老人、子供を連れた乳母女中、逢曳(ランデブウ)の男女等が、干潮の潟の蟹の数ほど夕陽の下に林の遠景まで続いてゐる。
 突然、だが静かにメーデー行進団の一角に学校風の若いメロデーで国歌が唱はれ出した。
 何だ。何だ。と附近のコンミュニストが伸び上る。
 学生達が、国粋主義(ショウビズム)の示威運動(デモンストレーション)にやつて来たのだ。直ぐ学生達は掴まつた。殴られた。(然し大したことはない)。殴ぐつた者を警官が連れ出す。学生達は義務を済した後の無表情な顔で去る。
 学生達の数が、十一人でもなく、十三人でもなく、十二人といふ区切りの好さを示す習慣的の数に頭をそろへて来たところに英国を見る。
 この出来事以外一人の検束者も無い。平和に英国のメーデーは終つた。
 饑餓行進は数隊に分れ、その夜の宿所の有無を問はれ、無いものは各所の労働者宿泊所(ウワーカース・ホテル)に引取られた。
 彼等の晩餐の献立。パン、チーズ、チョコレート。
 だが他の一般の労働者はこの日をどう考へてゐるだらうか。私はハイドパークの真向ひ大理石門(マーブルアーチ)地下鉄ステーションへ終電車近く駈けつけた。其処のプラットホームで電流の止まるのを待つて作業を始めようと煙草を喫してゐる一団の線路工に訊ねた。一人は答へる。
「ありや、外国人のやることですよ。」
 一人は答へる。
「わし等の中から政治家を出してますからわし等のよくなる方法はそいつ等が業務(ビジネス)として考へてくれてゐる筈ですよ。」
 失業手当、一週十八志を法によつて約束されてゐる人々の答へである。
 一人はトラックによぢ下りて線路に軌条蹄鉄(メタルシューズ)を嵌め、それに繋がる小箱の外側に取り付けた十二の電球が一せいに燃えることによつて線路の電汁(ジュース)はまた多汁(ジューシー)であることを検査してゐた。その一人は電光に鋭く明暗の二面に対立させられた顔をこつちへ振り向けて言つた。
「日本のマダム。あなたはわたし共の仕事に好奇心を持つておゐでのやうですね。わたし共からのお土産(スーベニア)として面白い事実を聴かせてあげませう。この地下鉄(チューブ)のトンネルの中には冬でも蚊がいるんですぜ。トンネルの中は暖かいから。わし共は昼よく眠た健康な身体を運んで毎晩蚊に食物を供給してやりに行くのです。鼠ですか? 鼠はあんまりゐませんよ。」
 附記、これは一九三〇年の英国メーデーの記事です。稚拙な文章もその当時のまゝです。




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