河明かり
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著者名:岡本かの子 

「あんまりこんな所に引込んでいると、なお気が腐りますからね。きょうは、何処か外へ出て、気をさっぱりさせてから、本当にご相談しましょう」
 河岸には二人並んで歩ける程、雪掻(ゆきか)きの開いた道が通り、人の往来は稀(まれ)だった。


 二歳のとき母に死に訣(わか)れてから、病身で昔ものの父一人に育てられ、物心ついてからは海にばかりいる若い店員のつきとめられない心を追って暮らす寂しさに堪え兼ねた娘は、ふと淡い恋に誘われた。
 相手は学校へ往き来の江戸川べりを調査している土俗地理学者の若い紳士であった。この学者は毎日のように、この沿岸に来て、旧神田川の流域の実地調査をしているのであった。
 河の源は大概複雑なものだが、その神田川も多くの諸流を合せていた。まず源は井頭池から出て杉並区を通り、中野区へ入るところで善福寺川を受け容(い)れ、中野区淀橋区に入ると落合町で妙正寺(みょうしょうじ)川と合する。それから淀橋区と豊島区と小石川区の堺の隅を掠(かす)めて、小石川区牛込(うしごめ)区の境線を流れる江戸川となる。飯田橋橋点で外濠(そとぼり)と合流して神田川となってから、なお小石川から来る千川を加え、お茶の水の切り割りを通って神田区に入り、両国橋の北詰で隅田川に注ぐまで、幾多の下町の堀川とも提携する。
 東京の西北方から勢を起しながら、山の手の高台に阻まれ、北上し東行し、まるで反対の方へ押し遣(や)られるような迂曲(うきょく)の道を辿(たど)りながら、しかもその間に頼りない細流を引取り育(はぐく)み、強力な流れはそれを馴致(じゅんち)し、より強力で偉大な川には潔く没我合鞣(ぼつがごうじゅう)して、南の海に入る初志を遂げる。
 この神田川の苦労の跡を調べることも哀れ深いが、もとこの神田川は麹町台(こうじまちだい)の崖下(がけした)に沿って流れ、九段下から丸の内に入って日本橋川に通じ、芝浦の海に口を開いていた。この江戸築城以前の流域を調べることは何かと首都の地理学的歴史を訪ねるのに都合が良かった。例えば、単に下流の部分の調査だけでも、昔大利根が隅田川に落ちていた時代の河口の沖積(ちゅうせき)作用を確めることが出来たし、その後、人工によって河洲を埋立てて、下町を作った、その境界も知れるわけであった。この亀島町辺も三百年位前は海の浅瀬だったのを、神田明神のある神田山の台を崩して、その土で埋めて慥えたものである。それより七八十年前は浅草なぞは今の佃島(つくだじま)のように三角洲(デルタ)だった。
 こういう智識もその若い学者から学ぶところが多かったと、娘は真向から恋愛の叙情を語り兼ねて先(ま)ずこういう話から初めたのであった。
 娘は目白の学校への往復に、その川べりのどこかの男の仕事場で度々出遇(であ)い、始めはただ好感を寄せ合う目礼から始まって、だんだんその男と口を利き出すようになった。娘は、その男から先ず彼女に縁のある土地と卑近な興味の智識によって、東京生れの娘が今まで気付かずにいたものの、その実はいかに東京の土と水に染(し)みているかを学問的に解明された。
「明日は、大曲(おおまがり)の花屋の前の辺にいます。いらっしゃい」
 その若い学者は科学の中でも、過去へ過去へと現代から離れて行く歴史性に、現実的の精力を取籠(とりこ)められて行く人にありがちな、何となく世間に対しては臆病(おくびょう)であり乍(なが)ら、自己の好みに対しては一克(いっこく)な癇癖(かんぺき)のようなものを持っていた。それは純粋な坊ちゃん育ちらしい感じも与えた。
「さあ、明日からはいよいよお茶の水の切り堀りに取りかかりましょう。学校へは少し廻りになるかも知れませんが、いらっしゃい、いいでしょう」
 この男が、いいでしょうというときは、既に決定的なものであって、おずおずとは云い出すのだが、云い出した以上、もう執拗(しつこ)く主張して訊(き)き入れなかった。
 万治の頃、伊達家(だてけ)が更に深く掘り下げて舟を通すようになったので、仙台堀とも云っている、この切堀の断崖(だんがい)は、東京の高台の地層を観察するのに都合がよかった。第四紀新層の生成の順序が、ロームや石や砂や粘土や砂礫(されき)の段々で面白いように判った。もうこの時分、娘は若い学者の測量器械の手入れや、採集袋の仕末や、ちょっとした記録は手伝えるようになっていた。
 娘は学者の家へも出入りするようになっていた。富んだ華族の家で、一家は大家族だが、みな感じがよく、家の者も娘を好んだ。若い学者は兄弟中の末子で、特に両親に愛されているようだった。
「お茶を飲みに行きませんか」「踊りに行きませんか」こういうこともある傍、娘は日本橋川を中心に、その界隈(かいわい)の堀割川の下調べを頼まれもした。
 八ヶ月ほどかかった旧神田川の調査のうちに、娘は学校を卒業した。娘はその若い学者に結婚を申込まれた。
「いいでしょう、君」
 やはり、おずおずと云い出すのだが、執拗(しつこ)く主張した。娘想(むすめおも)いの老父は、まことに良縁と思い、気心の判らぬ海へ行った若い店員との婚約は解消して是非その男に娘を嫁入らせると意気込んだ。
 海にいる若い店員からも同意の電報が来た。
 小さいときから一緒に育ったけれども、青年期に入る頃から海に出はじめ、だんだん父娘(おやこ)には性格が茫漠(ぼうばく)として来た若い店員には、今はもう強いて遠慮する必要は無い。娘の結婚を知らせるにも気易かった。若い学者との結婚の仕度は着々運んで行った。
「川を溯(さかのぼ)るときは、人間をだんだん孤独にして行きますが、川を下って行くと、人間は連を欲し、複数を欲して来るものです」
 若い学者は内心の弾む心をこういう言葉で娘に話した。娘も嫌ではなかった。
 だが、ある夜遅くあの部屋へ入って、結婚衣裳(いしょう)を調べていて、ふと、上げ潮に鴎(かもめ)の鳴く声を聴いたら、娘は芝居の幕が閉じたように、若い学者との結婚が馬鹿らしくなった。陸へ上って来ない若い店員が心の底から恋われた。茫漠とした海の男への繋(つなが)りをいかにもはっきりと娘は自分の心に感じた。
 一時はひどく腹を立てても、結局、娘想いの父は、若い学者の家には、平謝りに謝って、結婚を思い切って貰った。若い学者はいくらか面当ての気味か、当時女優で名高かった女と結婚して、ときどき家庭はごたごたしている。
「じゃあ、その方には恋ではなくって、学問の好奇心で牽(ひ)かれて行ったのね。道理で、あなた、河川の事に詳しいと思った」
 私は苦笑したが、この爛漫(らんまん)とした娘の性質に交った好学的な肌合いを感じ、それがこの娘に対する私の敬愛のような気持ちにもなった。
「あなた男なら学者にもなれる頭持ってるかも知れないのね」
 娘は少し赫(あか)くなった。
「……私の母が妙な母でした。漢文と俳句が好きで、それだのに常盤津(ときわず)の名取りでしたし、築地のサンマー英語学校の優等生でしたり……」
 娘はその後のことを語り継いだ。その後、久し振りで、陸に上って来た若い店員に思切って訊いた。
「どうしたら、私はあなたに気に入るんでしょう」
 男はしばらく考えていたが、
「どうか、あなたが今よりも女臭くならないように……。」
 海の男は相変らず曖昧(あいまい)なことを云っているようで、その語調のなかには切実な希求が感じられたと娘は眼に涙さえ泛(うか)べ、最上の力で意志を撓(たわ)め出すように云った。
「私のそれからの男優(おとこまさ)りのような事務的生活が始まりました。その間二三度その男は帰って来ましたが、何とも云わずに酒を飲んで、また寂しそうに海へ帰って行きました。私はまだ、どこか灰汁(あく)抜けしない女臭いところがあるのかと、自分を顧みまして、努めようとしましたが、もうわけが分りません。迷い続けながら、それでも一生懸命に、その男の気に入るようにと生活して来ますうち、あなたにお目にかかりました」
 東京の中で、朝から食べさせる食物屋は至って数が少い。上野の揚げ出しとか、日本橋室町の花村とか、昔から決っているうちである。そうでなければ各停車場の食堂か、駅前の旅籠屋(はたごや)や魚市場の界隈の小料理屋である。けれども女二人ではちょっと困る。私たちは寒気の冴(さ)える朝の楓(かえで)川に沿い、京橋川に沿って歩いたが、そうそうは寒さに堪えられない。車を呼び止めて、娘をホテルの食堂に連れて行き、早い昼飯を食べさした。そのあと、ローンジでお茶を飲みながら
「面倒臭いじゃありませんか、そんなこといつまでもぐずぐず云ってたって……そんなこと云って、その人が陸へ寄りつかないなら、こっちから私があなたを連れて、その人の寄る船つきへ尋ねて行き、のっぴきさせず、お話をつけようじゃありませんか」
 私も東京生れで、いざとなると、無茶なところが出るのだが、それよりもこの得態の知れない男女関係の間に纏縛(てんぱく)され、退(ひ)くに退(ひ)かれず、切放れも出来ず、もう少し自棄気味(やけぎみ)になっていた。


 すべてが噎(むせ)るようである。また漲(みなぎ)るようである。ここで蒼穹(あおぞら)は高い空間ではなく、色彩と密度と重量をもって、すぐ皮膚に圧触して来る濃い液体である。叢林(そうりん)は大地を肉体として、そこから迸出(ほうしゅつ)する鮮血である。くれない極まって緑礬(りょくばん)の輝きを閃(ひらめ)かしている。物の表は永劫(えいごう)の真昼に白み亘(わた)り、物陰は常闇世界(とこやみせかい)の烏羽玉(うばたま)いろを鏤(ちりば)めている。土は陽炎(かげろう)を立たさぬまでに熟燃している。空気は焙(あぶ)り、光線は刺す――――――
 私と娘は、いま新嘉坡(シンガポール)のラフルス・ホテルの食堂で昼食を摂(と)り、すぐ床続きのヴェランダの籐椅子(とういす)から眺め渡すのであった。
 芝生の花壇で尾籠(びろう)なほど生(なま)の色の赤い花、黄の花、紺の花、赭の花が花弁を犬の口のように開いて、戯(ざ)れ、噛(か)み合っている。
「どう」私は娘に訊いた。
「二調子か三調子、気持ちの調子を引上げないと、とてもこの強い感じは受け切れないわ」と娘は眼を眩(まぶ)しそうに云った。娘は旅に出てから、全く私に倚(よ)りかかるようになっただけ、親しくぞんざいな口が利けるようになった。
 私には、あまりに現実に乗出し過ぎた物のすべてが、却(かえ)って感覚の度に引っかからないように、これ等の風物が何となく単調に感じられて眠気を誘われた。
「半音の入っていない自然というものは、眠いものね」
 私は娘が頸(くび)を傾けて、も一度訊き返そうとするのを、別に了解して欲しいほどの事柄でもないので、他の事を云った。
「兎(と)に角(かく)、熱いわね。こういう所で、ランデヴウする人も、さぞ骨が折れるでしょうが、そのランデヴウを世話する人は、いよいよ並大抵じゃないわね」
 私は揶揄(からか)いながら、横を向き、ハンカチを額へ持って行って、滲(にじ)み出す汗を抑えた。
 娘は真身(しんみ)に嬉しさを感ずるらしく、ちょっと籐椅子を私の方へいざり寄せ、肘(ひじ)で軽く私の脇(わき)の下を衝(つ)いた。
 私は娘の身の上を引受けてから、若い店員と話をつける手段を進めた。丁度ボルネオの沿岸を航行していた船の若い店員に手紙と電報で事情の経緯を簡単に述べ、あらためて、私が仲に立つ旨を云い遣(や)ると、店員からは案外喜んだ承諾の返事が来て、但(ただし)、いま船は暹羅(シャム)の塩魚を蘭領印度(らんりょうインド)に運ぶために船をチャーターされているから、船も帰せないし、自分も脱けられない。新嘉坡(シンガポール)なら都合出来る。見物がてら、ぜひそこへ来て貰い度(た)いと、寧(むし)ろ向うから懇請するような文意でもあった。
 私は娘にはああは約束したが、たかだか台湾の基隆(キールン)か、せめて香港(ホンコン)程度までであろうと予想していた。そこなら南洋行きの基点ではあり、双方好都合である。新嘉坡となると、ちょっと外遊するぐらいの心支度をしなければならない。
 ――少し当惑しているとき思いの外力になったのは叔母である。娘のとき藩侯夫人の女秘書のようなことをして、藩侯夫妻が欧洲の公使に赴任するとき伴われ、それから帰りには世界の国々をも廻(まわ)って来た女だけに、自分の畑へ水を引くように、私を励ました。
「あんたも一遍そのくらいのところへ行っていらっしゃい。すると世間も広くなって、もっと私と話が合うようになりますから」
 それから、女二人の旅券だの船だの信用状だのを、自分一人で掻(か)き込むようにして埒(らち)を開け、神戸まで見送って呉(く)れた。


 シンガポール邦字雑誌社の社長で、南洋貿易の調査所を主宰している中老人が、白の詰襟服(つめえりふく)にヘルメットを冠(かぶ)って迎えに来て呉れた。朝、船へは紋付の和服で出迎えて呉れたのであるが、そのときに較(くら)べて、いくらか精気を帯びて見えた。
「名物のライスカレーはいかがでしたか。とても辛くて内地の方には食べられないでしょう」
 私は昼の食堂で、カレー汁の外に、白飯に交ぜる添菜(てんさい)が十二三種もオードゥブル式に区分け皿に盛られているのを、盛装した馬来人(マレイじん)のボーイに差出されて、まず食慾が怯(おび)えてしまったことを語った。中老人は快げに笑って、
「女の方は大概そう云いますね。だがあの中には日本の乾物のようなものも混っていて、オツなものもありますよ。慣れて来ると、そういう好みのものだけを選めば、結構食べられますよ」
 こんなことから話を解(ほご)し始めて、私たちは市中で昼食後の昼寝時間の過ぎるのを待った。
 叔母はさすがに女二人だけの外地の初旅に神経を配って、あらゆる手蔓(てづる)を手頼って、この地の官民への紹介状を貰って来て私に与えた。だが、私はそれ等を使わずに、ただ一人この中老人の社長を便宜に頼んだ。それは次のような理由で未知であった社長を既知の人であったかのようにも思ったからである。
 私が少女時代、文学雑誌に紫苑という雅号で、しきりに詩を発表していた文人があった。その詩はすこぶるセンチメンタルなものであって、死を憧憬し、悲恋を慟哭(どうこく)する表現がいかに少女の情緒にも、誇張に感じられた。しかもその時代の日本の詩壇は、もはやそれらのセンチメンタリズムを脱し、賑(にぎ)やかな官能を追い求めることに熱中した時代であって、この主流に対比しては、いよいよ紫苑氏の詩風は古臭く索漠に見えた。それでも氏の詩作は続けられていた。そのうち、ふと消えた。二三年してから僅(わず)かに三四篇また現われた。それは、「飛魚」とか「貿易風」とかいう題の種類のもので、いくらか詩風は時代向きになったかと感じられる程度のことが、却(かえ)って詩形をきごちなくしていた。詩に添えて紫苑氏が南の外洋へ旅に出た消息が書き加えられてあった。しかし、その後に紫苑氏の詩は永久に見られなくなった。
 この新嘉坡邦字雑誌の社長が、当年の詩人紫苑氏の後身であった。私は紫苑氏の後身の社長が、その携っている現職務上土地の智識に詳しかろうということも考えに入れたが、その前身時代の詩にどこか人の良いところが見えたのを憶(おも)い出し、この人ならば安心して、なにかと手引を頼めると思った。
「ともかく、私が日本を出発するときの気慨は大変なものでしたよ。白金巾(しろかなきん)の洋傘に、見よ大鵬(たいほう)の志を、図南(となん)の翼を、などと書きましてね。それを振り翳(かざ)したりなんかしましてね……今から思えば恥かしいようなもので、は、は、は、……」
 そしてお茶の代りにビールを啜(すす)りながら、扇を使っていた中老の社長は感慨深そうに、海を見詰めていたが、
「人間の行き道というものは、自分で自分のことが判らんものですな。僕のその時分の初志は、どこか南洋の孤島を見付けて、理想的な詩の国を建設しようとしたにあったのですが……だんだん現実に触れて見ると、まずその智識や準備をということになり、次には自分はもう出来ないから、それに似たような考えの人に、折角貯えた自分の智識を与えようということになり、それが、職業化すると、単なる事務に化してしまいます」
 中老人は私達をじろじろ眺めて、
「普通の人にならこんな愚痴は云わないで、ただ磊落(らいらく)に笑っているだけですが、判って下さりそうな内地の若い方を見ると、つい喋(しゃべ)りたくなるのです。あなた方のお年頃じゃ判りますまいが、人間は幾つになっても中学生のところは遺(のこ)っています」
 そして屹(きっ)となって私の顔を見張り、自分が云い出す言葉が、どう私に感銘するかを用心しながら云った。
「僕は、今でも、僕の雑誌の詩壇の選者を頑張ってやっています。だんだん投書も少くなるし、内地の現代向の人に代えろと始終、編輯(へんしゅう)主任に攻撃されもしますが、なに、これだけは死ぬまで人にはやらせない積りです」
 日盛りの中での日盛りになったらしく、戸外の風物は灼熱(しゃくねつ)極まって白燼化(はくじんか)した灰色の焼野原に見える。時代をいつに所を何処と定めたらいいか判らない、天地が灼熱に溶けて、静寂極まった自然が夢や幻になったのではあるまいか。そこに強烈な色彩や匂(にお)いもある。けれどもそれは浮き離れて、現実の実体観に何の関りもない。ただ、左手海際の林から雪崩(なだれ)れ込む若干の椰子(やし)の樹の切れ離れが、急に数少なく七八本になり三本になり、距(へだ)てて一本になる。そして亭々とした華奢(きゃしゃ)な幹の先の思いがけない葉の繁(しげ)みを、女の額の截(き)り前髪のように振り捌(さば)いて、その影の部分だけの海の色を涼しいものにしている。ここだけが抉(えぐ)り取られて、日本の景色を見慣れた私たちの感覚に現実感を与える。
 天井に唸(うな)る電気扇の真下に居て、けむるような睫毛(まつげ)を瞳(ひとみ)に冠(かぶ)せ、この娘特有の霞性(かすみせい)をいよいよ全身に拡(ひろ)げ、悠長に女扇を使いながら社長のいうことを聴いている。私が手短に娘をここへ連れて来た事情を社長に話す間も、この娘はまるで他にそんな娘でもあるのかと思いでもしてるような面白そうな顔をして聴いている。私は憎みを感ずるくらい、私に任せ切りの娘の態度に呆(あき)れながら、始めは娘をこの方と社長に云っていたのを、いつの間にか、この子という言葉に代えて仕舞っていた。
「どうも、近代的の愛というものは複雑ですな。もう、僕等の年代の人間には、はっきりは触れられんが……」
 旧詩人の社長は、よく通りかかりの旅客が、寄航したその場だけ、得手勝手なことを頼み、あとはそれなりになってしまう交際に慣れているので、私が娘を連れて、こちらに来た用向きを話し出すと、始めは気のない顔つきをしていたが、だんだん乗り出して来た。
「その男なら時々調査所へ来て、話して行きますよ。淡白で快活な男ですがね」 
 社長はビールを啜ったり、ハンカチで鼻を擦(こす)ったりする動作を忙しくして、やや興奮の色を示し、
「へえ、あの男がこういう美しいお嬢さんとそういうことがあるんですか。それはロマンチックなお話ですね。よろしい、一つお手伝いしましょう」
 中老の社長はその男にも好意を持つと同時に、自分も自分の奥に燃え燻(くすぶ)ってしまった青春の夢を他人ごとながら、再び繰り返せるように気が弾んで来たらしい。
「恋というものは人間を若くする。酒と子供は人間を老いさせる」
 ステッキの頭の握りに両手を載せ、その上に額の端を支えながら、こんな感慨めいた言葉を吐いた。大酒呑(の)みで子供の大勢あるという中老の社長は、籐(とう)のステッキをとんと床に一突きして立上ると
「その船の入港には、まだ三日ばかり日数がありますな。では、その間にしっかり見物しときなさるがよろしいでしょう」
 そしてボーイに車を命じた。


 スピーディーな新嘉坡(シンガポール)見物が始まった。この市にも川が貫いて流れていた。私は社長に注文して、まず二つ三つその橋々を車で渡って貰った。
 両岸は洋館や洋館擬(まが)いの支那家屋の建物が塀のように立ち並んでいるところが多く、ところどころに船が湊泊する船溜り(ボート・ケイ)が膨らんだように川幅を拡(ひろ)げている。そして、漫々と湛(たた)えた水が、ゆるく蒼空(あおぞら)を映して下流の方へ移るともなく移って行く。軽く浮く芥屑(ごみくず)は流れの足が速く、沈み勝ちな汚物を周(めぐ)るようにして追い抜いていく。荒く組んだ筏(いかだ)を操って行く馬来(マレイ)の子供。やはり都の河の俤(おもかげ)を備えている。
 河口に近くなってギャヴァナー橋というのが、大して大きい橋でもないが、両岸にゲート型の柱を二本ずつ建て、それを絃(げん)の駒にして、ハープの絃のように、陸の土と橋欄とに綱を張り渡して、橋を吊(つ)っている。何ともないような橋なのだが、しきりに私達の心は牽(ひ)かれる。向う岸の橋詰に榕樹(ガジマル)の茂みが青々として、それから白い尖塔(せんとう)が抽(ぬき)んでている背景が、橋を薄肉彫のように浮き出さすためであろうか。私がいつまでも車から降りて眺めていると、娘はそれを察したように、
「東京の吾妻橋(あずまばし)とか柳橋とかに似てるからじゃありません?」と云った。
 この橋から間もなく、河口の鵜(う)の喉(のど)の膨らみのようになっている岸に、三層楼の支那の倉庫店がずらりと並び、河には木履型(ぽっくりがた)のジャンクが河身を埋めている。庭の小亭のようなものが、脚を水上にはだけてぬいぬい立っている。
「橋が好きなら、この橋のもう一つ上のさっき渡って来た橋、あれをよく覚えときなさい。あの橋から南と北に大道路が走っていて、何かと基点になっています。もしはぐれて迷子になったら、あの橋詰に立っていなさればよい、迎いに行きますよ」社長はこんな冗談を云った。
 官庁街の素気なく白々しい建物の数々。支那街の異臭、雑沓(ざっとう)、商業街の殷賑(いんしん)、私たちはそれ等を車の窓から見た。ここまで来る航行の途中で、上海(シャンハイ)と香港(ホンコン)の船繋(ふながか)りの間に、西洋らしい都会の景色も、支那らしい町の様子もすでに見て来た。私たちはただ南洋らしい景色と人間とを待ち望んだ。しかし、道で道路工事をしている人々や、日除(ひよ)け付きの牛車を曳(ひ)いている人々が、どこの種族とも見受けられない、黒光りや赫黒(あかぐろ)い顔をして眼を炯々(けいけい)と光らせながら、半裸体で働いている。躯幹(くかん)は大きいが、みな痩(や)せて背中まで肋骨(ろっこつ)が透けて見える。あわれに物凄(ものすご)い。またそれ等の人々の背を乗客席に並べて乗せた電車が市中を通ると、地獄車のように、異様に見えた。その電車は床の上に何本かの柱があって風通しの為(た)めに周りの囲い板はなく僅(わずか)に天蓋(てんがい)のような屋根を冠っているだけである。癒(いや)し難い寂しい気持ちが、私の心を占める。
「ここは新嘉坡の銀座、ハイ・ストリートといいます」
 と社長にいわれて、二つ三つの店先に寄り衣裳(いしょう)の流行の様子を見たり、月光石(ムーンストーン)の粒を手に掬(すく)って、水のようにさらさら零(こぼ)しながらも、それは単なる女の習性で、心は外に漠然としたことを考えていた。
「この娘を首尾好く、その男に娶(そ)わすことが出来たとしても、それで幸福であるといえるだろうか。」
 けれども、そう思う一方にまた、私は無意識のうちに若者と娘が暫(しばら)く茲(ここ)に新住宅でも持つであろうことを予想してしきりに社長に頼むのだった。
「ここに住宅地のようなものでもありますなら見物さして頂きたいのですが」


 その晩、私たちをホテルまで送って来た社長は帰り際に「そうだ、護謨園(ゴムえん)の生活を是非見て貰わなくちゃ、――一晩泊りの用意をしといて下さい」
 と云って更に、
「そりゃ、健康そのものですよ」
 あくる朝、まず、社長がホテルに迎えに来て、揃(そろ)ってサロンで待っていると、大型の自動車が入って来た。操縦席から下りたヘルメットの若い紳士を、社長は護謨園の経営主だと紹介した。
「電話でよく判らなかったが……」
 と経営主は云ってから、次に、私たちに
「いらっしゃい。鰐(わに)ぐらいは見られます」
 と気軽に云った。
 車は町を出て、ジョホール街道を疾駆して行った。速力計の針が六十五哩(マイル)と七十哩の間をちらちらすると、車全体が唸(うな)る生きものになって、広いアスファルトの道は面前に逆立ち、今まで眼にとまっていた榕樹の中の草葺(くさぶ)きの家も、椰子林(やしりん)の中の足高の小屋も、樹を切り倒している馬来人(マレイじん)の一群も、総て緑の奔流に取り込められ、その飛沫(ひまつ)のように風が皮膚に痛い。大きな歯朶(しだ)や密竹で装われている丘がいくつか車の前に現れ、後に弾んで飛んで行く。マークの付いている石油タンクが乱れた列をなして、その後にじりじりと展転して行く。
「イギリス海軍用のタンク」
 水が見える。綺麗(きれい)な可愛(かわい)らしい市が見える。ジョホール海峡の陸橋を渡って、見えていた市の中を通って、なおしばらく水辺に沿って行った処で若い紳士は車を停(と)め、土地の名所である回教の礼拝堂を見せた。がらんとして何もない石畳と絨氈(じゅうたん)の奥まった薄闇(うすやみ)へ、高い窓から射(さ)し入る陽の光がステンドグラスの加減で、虹ともつかず、花明りともつかない表象の世界を幻出させている。それを眺めていると、心が虚(うつろ)になって、肉体が幻の彩りのままに染め上げられて仕舞いそうな危険をほとほと感ずる。私たちは新嘉坡の市中で、芭蕉の葉で入口を飾り、その上へ極端な性的の表象を翳(かざ)しているヒンズー教の寺院を見た。それは精力的に手の込んだ建築であった。
 虚空を頭とし、大地を五体とし、山や水は糞尿(ふんにょう)であり、風は呼吸であり、火はその体温であり、一切の生物無生物は彼の生むところと説く、シバ神崇拝に類して精力を愛するこの原始の宗教が、コーランを左手に剣を右手に、そして、ときどき七彩の幻に静慮する回教に、なぜ南方民族の寵(ちょう)をば奪われたのであろうか。そしてその回教がなぜまた物質文化に圧(おさ)えられたのであろうか。
 私は取り留めもない感想に捉(とら)われながら、娘を見ると、いよいよ不思議な娘に見える。娘はモデレートな夏の洋装をしているのだが、それは皮膚を覆う一重のものであって、中身はこの回教の寺院の中に置けば、この雰囲気に相応(ふさ)わしく、ヒンズー教の精力的な寺院の空気にも相応わしかった。そればかりでなく、この地の活動写真館のアトラクションで見た暹羅(シャム)のあのすばらしく捌(さば)きのいい踊りを眺めていた時の彼女に、私はその踊りを習わせて、名踊子にしたい慾望さえむらむらと起ったほど、それにも相応しいものがあった。
 一体この娘は無自性なのだろうか、それとも本然のものを自覚して来ないからなのだろうか。また再び疑わねばならなくなった。
 それから凡(およ)そ七十哩(マイル)許(ばか)り疾走して、全く南洋らしいジャングルや、森林の中を行くとき、私は娘に訊(き)いた。
「どう」
「いいですわね」
「いいですって……どういうふうにいいの」
「そうねえ……ここに一生住んで、自分のお墓を建てたいくらい」
 そういう娘の顔は、さしかける古い森林の深いどす青い陰を弾ね返すほど生気に充(み)ちていた。
 時々爆音が木霊(こだま)する。男達は意味あり気な笑いを泛(うか)べて、
「やっとるね」
「うん、やっとるね」
 と云った。
 それは海峡の一部に出来るイギリス海軍根拠地の大工事だと、社長は説明した。
 道が尽きてしまって、そこから私たちはトロッコに乗せられた。箱車を押す半裸体の馬来人(マレイじん)は檳榔子(びんろうじ)の実を噛(か)んでいて、血の色の唾(つば)をちゅっちゅと枕木に吐いた。護謨園(ゴムえん)の事務所に着いた。


 事務所は椰子林(やしりん)の中を切り拓(ひら)いて建てた、草葺(くさぶ)きのバンガロー風のもので、柱は脚立のように高く、床へは階段で上った。粘って青臭い護謨の匂(にお)いが、何か揮発性の花の匂いに混って来る。
 壁虎(やもり)がきちきち鳴く、気味の悪い夜鳥の啼(な)き声、――夕食後私はヴェランダの欄干(らんかん)に凭(もた)れた。私のいる位置のいびつに切り拓かれた円味のある土地を椰子の林が黒く取巻いている。截(き)り立ったような梢(こずえ)は葉を参差(しんし)していて、井戸の底にいるような位置の私には、草荵(くさしのぶ)の生えた井の口を遙かに覗(のぞ)き上げている趣であった。
 その狭い井の口から広大に眺められる今宵(こよい)の空の、何と色濃いことであろう。それを仰いでいると、情熱の藍壺(あいつぼ)に面を浸し、瑠璃色(るりいろ)の接吻(せっぷん)で苦しく唇を閉じられているようである。夜を一つの大きな眼とすれば、これはその見詰(みつ)める瞳(ひとみ)である。気を取り紛らす燦々(さんさん)たる星がなければ、永くはその凝澄(こりすま)した注視に堪えないだろう。
 燦々たる星は、もはやここではただの空の星ではない。一つずつ膚に谷の刻みを持ち、ハレーションを起しつつ、悠久に蒼海(そうかい)を流れ行く氷山である。そのハレーションに薄肉色のもあるし、黄薔薇色(きばらいろ)のもある。紫色が爆(は)ぜて雪白の光茫(こうぼう)を生んでいるものもある。私は星に一々こんな意味深い色のあることを始めて見た。美しい以上のものを感じて、脊椎骨(せきついこつ)の接目(つぎめ)接目(つぎめ)に寒気がするほどである。
 空地の真中から、草葺きのバンガローが切り拓かれた四方へ大ランプの灯の光を投げている。
 その光は巻き上げた支那簾(しなすだれ)と共に、柱や簾に絡んでいる凌霄花(のうぜんかずら)にやや強く当る。欄干の下に花壇もあるらしい。百合(ゆり)と山査子(さんざし)の匂いとだけ判って、あとは私の嗅覚(きゅうかく)に慣れない、何の花とも判らない強い薬性の匂いが入れ混って鬱然(うつぜん)と刺戟(しげき)する。
 私と社長は、その凌霄花の陰のベランダで、食後の涼をいつまでも入れている。娘は食後の洗物を手伝って、それから蓄音機をかけて、若い事務員たちのダンスの相手をしてやっていたが、疲れた様子もなく、まだ興を逐(お)うこの僻地に仮住する青年たちのために、有り合せの毀(こわ)れギターをどうやら調整して、低音で長唄(ながうた)の吾妻八景(あずまはっけい)かなにかを弾いて聞かしている。若い経営主もその仲間に入っている。
 ここへ来てからの娘の様子は、また、私を驚かした。経営主の他、五六人居る邦人の事務員たちは、私たちの訪問を歓迎するのに、いろいろ心を配ったようだが、突然ではあり、男だけで馬来人を使ってする支度だけに、一向捗(はか)どらず、私たちの着いたとき、まだ途惑っていた。それと見た娘は
「私もお手伝いさせて頂きますわ」
 と云ったきり、私たちから離れて、すっかり事務所の男達の中に混り、野天風呂も沸せば、応接用の室を片付けて、私たち女二人のための寝室も作った。
「森はずれから野鶏と泥亀を見付けて来たんですが、どう料理したらご馳走(ちそう)になるか、へばっていましたら、お嬢さんが、すっかり指図して教えて呉(く)れたんで、とても上等料理が出来ました。これならラフルス・ホテルのメニュウにだってつけ出されまさ」
 事務員の一人は、晩餐(ばんさん)の食卓でこう云った。なるほど、支那料理めいたもの、日本料理めいたもののほかに、容器は粗末だが、泥亀をタアトルス・スープに作ったものや、野鶏をカレー入りのスチューにしたものは特に味がよかった。
「わたくしだって、こんな野生のものを扱うの始めてですわ。学校の割烹科(かっぽうか)では、卒業生が馬来半島へ出張料理することを予想して、教えては呉れませんでしたもの」
 娘は、また、こんなことを云って、座を取り持った。主人側の男たちは靉靆(あいたい)として笑った。
 娘がこういう風に、一人で主人側との接衝を引受けて呉れるので私は助かった。
 私は私が始めてあの河沿いの部屋を借りに行ったとき、茶絹のシャツを着、肉色の股引(ももひき)を穿(は)いて、店では店の若い者に交り、河では水揚げ帳を持って、荷夫を指揮していた娘を想(おも)い出した。そして、この捌(さば)けて男慣れのした様子は、あまりに易々としたところを見せているので、私はまたこれが娘の天成であって、私が付合い、私がそれに巻込まれて、骨を折っている現在の事は、何だか私の感情の過剰から、余計なおせっかいをしているのではないかという、いまいましいような反省に見舞われそうになった。
 事務員の青年たちは、靉靆として笑い、娘に満足させられている様子でも、それ以上には出ないようであった。たった一人、ウイスキーに酔った一人の青年が、言葉の響を娘にこすりつけるようにして、南洋特産と噂(うわさ)のある媚薬(びやく)の話をしかけた。すると娘は、悪びれず聞き取っていて、それから例の濃い睫毛(まつげ)を俯目(ふしめ)にして云った。
「ほんとにそういう物質的のもので、精神的のものが牽制(けんせい)できるものならば、私の関り合いにも一人飲ませたい人間があるんでございますわ」
 その言葉は、真に自分の胸の底から出たものとも、相手の話手に逆襲するとも、どっちにも取れる、さらさらした間を流れた。
 そこに寂しい虚白なものが、娘の美しさを一時飲み隠した。それは、もはや二度と誰もこういう方面に触る話をしようとするものはなくなったほど、周囲の人間に肉感的なもの、情慾的なものの触手を収斂(しゅうれん)さす作用を持っていた。それで、娘が再び眼を上げて華やかな顔色に戻ったとき、室内はただ明るく楽しいことが、事務的に捗取(はかど)って行く宴座となった。けれども、娘は座中の奉仕を決して、義務と感ずるような気色は少しも見せず、室内の空気に積極的に同化していた。
 中老の詩人社長は、欄干の籐椅子(とういす)で、まだビールのコップを離さず、酔いに舌甜(したな)めずりをしていた。
「東北風を斜に受けながら、北流する海潮を乗り越えつつ、今や木下君の船は刻々馬来半島の島角に近づきつつあるのです。送るのは水平線上の南十字星、迎えるのは久恋の佳人。いいですな。木下君は今や人間のありとあらゆる幸福を、いや全人類の青春を一人で背負って立っているようなものです」
 彼はすっかり韻文の調子で云って、それから、彼の旧作の詩らしいものを、昔風の朗吟の仕方で謡(うた)った。
星の海に
船は乗り出でつ
魂(たま)惚(ほ)るる夜や
…………
…………
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い
…………
浪枕
 社長は私が話した海の上の男と、娘との間の複雑した事情は都合よく忘れて仕舞い、二人の間の若い情緒的なものばかりを引抽(ひきぬ)いて、或は空想して、それに潤色し、自分の老いの気分に固着するのを忘れ、現在の殻から一時でも逃れて瑞々(みずみず)しい昔の青春に戻ろうと努めているらしいその願いが如何にも本能的で切実なものであるのに私の心は動された。朗吟も旧式だが誇張的のまま素朴で嫌味はなかった。
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い――――
 壁虎(やもり)が鳴く、夜鳥が啼く。私にも何となく甘苦い哀愁が抽(ひ)き出されて、ふとそれがいつか知らぬ間に海の上を渡っている若い店員にふらふらと寄って行きそうなのに気がつくと、
「なにを馬鹿らしい。人の男のことなぞ」
 と嘲(あざけ)って呆(あき)れるのであるが、なおその想(おも)いは果実の切口から滲み出す漿液(しょうえき)のように、激しくなくとも、直(す)ぐには止まらないものであった。
 何がそうその男を苦しめて、陸の生活を避けさせ、海の上ばかり漂泊さすのか。
 ひょっとしたら、他に秘密な女でもあって、それに心が断ち切れないのではあるまいか。
 或は、この世の女には需(もと)め得られないほどの女に対する慾求を、この世の女にかけているのではあるまいか。
 或は、生れながら人生に憂愁を持つ、ハムレット型の人物の一人なのではあるまいか。
 女のよきものをまだ真に知らない男なのではあるまいか。
 こういうことを考え廻(めぐ)らしている間に、憐(あわれ)な気持ち、嫉妬(しっと)らしい気持、救ってやり度(た)い気持ち、慰めてやりたい気持ち、詰(なじ)ってやり度い心持ち、圧し捉(つか)まえてやり度い心持ちが、その男に対してふいふいと湧(わ)き出して来て、少し胸が苦しいくらいになる。恐らくこれは当事者の娘が考えたり、感じねばならないことだろうにと、私は私の心の変態の働きに、極力用心しながら、室内の娘を見ると、いよいよ鮮かに何の屈托(くったく)もない様子で、歌留多(カルタ)の札を配っている。私はふと気がついて、
「あの女は、自分の愛の悩みをさえ、奴隷に代ってさせるという世にも珍らしいサルタンのような性質を持っている女なのではあるまいか。」
 そして、それを知らないで、みすみすその精神的労苦を引受けた自分こそ、よい笑われものである。急に娘に対する憎みが起った。だが、また娘の顔を覗(のぞ)くと、あんまり鮮かで屈托がなさ過ぎる。私の反感も直ぐに消えてしまう。
「この無邪気さには、とても敵(かな)わない」
 私は気力も脱けて、今度はしきりに朗吟の陶酔に耽(ふけ)っている、社長の肩を揺って、正気に還(かえ)らせ、
「これは真面目(まじめ)なご相談ですが……」と、木下の新嘉坡(シンガポール)に於ける女出入や、その他の素行に就(つ)いて、私はまるで私立探偵のように訊(き)き質(ただ)すのであった。
 深林の夜は明け放れ、銀色の朝の肌が鏡に吐きかけた息の曇りを除くように、徐々に地霧の中から光り出して来た。
 一本のマングローブの下で、果ものを主食の朝餐(ちょうさん)が進行した。レモンの汁をかけたパパイヤの果肉は、乳の香がやや酸※(さんぱい)[#「やまいだれ+発」、742-下-21]した孩児(あかご)の頬(ほお)に触れるような、□(やわら)かさと匂(にお)いがあった。指ほどの長さでまるまると肥っている、野生のバナナは皮を剥(は)ぐと、見る見る象牙色(ぞうげいろ)の肌から涙のような露を垂らした。柿の型をした紫の殻を裂くと、綿の花のような房が甘酸く唇に触れるマンゴスチンも珍らしかった。
「ドリアンがあると、こっちへいらっした紀念に食べた果ものになるのですがね。生憎(あいにく)と今は季節の間になっているので……。僕等には妙な匂いで、それほどとも思いませんが、土人たちは所謂(いわゆる)、女房を質に置いても喰(く)うという、何か蠱惑的(こわくてき)なものがあるんですね」若い経営主は云った。
「南洋の果ものには、ドリアンばかりでなく、何か果もの以上に蠱惑的なものがあるらしいです。ご婦人方の前で、そう云っちゃ何ですが、僕等だとて独身でこんなとこへ来て、いろいろの煩悩も起ります。けれどもそういうものの起ったとき、無暗にこれ等の豊饒(ほうじょう)な果ものにかぶりつくのです。暴戻(ぼうれい)にかぶりつくのです。すると、いつの間にか慰められています。だから手元に果物は絶やさないのです」
 若い経営主は紫色の花だけ眼のように涼しく開けて、葉はまだ閉じて眠っているポインシャナの叢(くさむら)を靴の底でいじらしそうに※(さす)[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、743-上-20]りながら、こう云った。
 娘は、今朝も事務員に混っていろいろ手伝っていたが、何となくそわそわしていた。そして、話にばつを合せるように、私には嫌味に思える程、きらきらした作り笑いの声を挙げた。しかし、若い経営主が、こういうにつれ、他の若い男たちも悵然(ちょうぜん)とした様子をみて、娘は心から同情する気持ちを顔に現した。
「僕の慰めは酒と子供だな」と社長は云った。
 彼は今朝もビールを飲んでいた。
「君にもまだ慰めなくちゃならない煩悩があるのかね」と若い経営主は云った。「そんなにチッテ族の酋長(しゅうちょう)のような南洋色になっても」
 社長は、「ある――大いにある」と怒鳴ったが、誰も酔いの上の気焔(きえん)と思って相手にしない。社長は口を噤(つぐ)んで仕舞った。


 逆巻く濤(なみ)のように、梢(こずえ)や枝葉を空に振り乱して荒れ狂っている原始林の中を整頓(せいとん)して、護謨(ゴム)の植林がある。青臭い厚ぼったいゴムの匂いがする。白紫色に華やぎ始めた朝の光線が当って、閃(ひらめ)く樹皮は螺線状(らせんじょう)の溝に傷けられ、溝の終りの口は小壺(こつぼ)を銜(くわ)えて樹液を落している。揃って育児院の子供等が、朝の含嗽(うがい)をさせられているようでもある。馬来人(マレイじん)や支那人が働いている。
「僕等は正規の計劃(けいかく)の外、郷愁が起る毎に、この土に護謨の苗木を、特に一列一列植えるのです。妄念を深く土中に埋めるのです」
 その苗木の列には、或は銀座通とか、日比谷とか、或は植主の生地でもあろうか、福岡県――郡――村とか書いた建札がしてあった。
 若い経営主は、努めて何気なくいうのだが、娘は堪(た)まらなそうに、涙をぽたぽたと零(こぼ)して、急いでハンケチを出した。
 中老の社長は、こういう普通の感傷を珍らしいように眺め、私に云った。
「どうです。あなた方も、紀念に一本ずつ植えて行っては」
 護謨園の中を通っている水渠(すいきょ)から丸木船を出して、一つの川へ出た。ジョホール河の支流の一つだという。大きな歯朶(しだ)とか蔓草(つるくさ)で暗い洞陰を作っている河岸から、少し岐(わか)れて、流れの中に岩石がある。
「あすこによく鰐(わに)の奴が、背中を干しているのだが、……」と事務員の一人が指したが、そのすぐあと、艫(とも)の方にいた事務員がいった。
「こっちこっち、あすこにいます」
 濁った流れの中に、黒っぽいものが、渦を水に曳(ひ)いて動くのが見えた。また、その周囲にそれも生きものが泳ぐのかと思われるほどの微(かす)かな小さい渦が見える。
「は は は 子供を連れとる」
 私の気持ちはというと、この原始の自然があまりに、私たちの自然と感じ慣れているものより差違があり、この現実が却(かえ)って、百貨店の催しものの、造り庭のように見え、この南洋風景図の背景の前に、鰐(わに)がいるのは当然の趣向に見え、もう少し脅(おび)えたい気持ちをさえ自分に促した。鰐に向ける銃声の方が本当の鰐に対するより却って私たちを驚かした。鰐は影を没した。
「鉄砲の音は痛快ね」と娘はいって、しきりに当もなく発砲して貰った。
「あなた方内地の女性に向って、ふだん考え溜(た)めていたことを、話し出せそうな緒口(いとぐち)が見つかったようになって、お訣(わか)れするのは惜しいものです」と若い経営主はいった。
 私も、「こういう本当の自然と、それを切り拓(ひら)いて行く人間の仕事に就(つ)いて、漸(ようや)く眼が開きかかって来たのに、お訣れするのは、まったく惜しい気が致します」といった。
 娘は俯向(うつむ)いて、型のようにちょっと無名指(くすりゆび)の背の節で眼を押えた。その仕草が、日本女性のこういう場合にとる普通の型のように見え乍(なが)ら私はやはりこの遠方の異境にまで男を尋ねて来た娘が何かと感傷的になっている証拠にも見た。
 私たちはジョホール河のベンゲラン岬から、馬来人(マレイじん)が舵□(かじ)を執り、乗客も土人ばかりのあやしいまで老い朽ちた発動機船に乗った。
「腰かけたまわりには、さっき上げといた蚤取粉(のみとりこ)を撒(ま)くんですよ。そうしないと虫に食われますよ」見送りの事務員の労(いたわ)った声が桟橋から響いた。娘はポケットを押えてみて、窓からお叩頭(じぎ)をした。
 怠惰なエンジンの音が聞えて、機船は河心へ出た。河と云いながら、大幅な両岸は遠く水平線に退いて、照りつける陽の下に林影だけ一抹の金の塗粉のようになって見えた。それが水天一枚の瑠璃色(るりいろ)の面でしばしば断ち切れて、だんだん淡く、蜃気楼(しんきろう)の島のように中空に映り霞(かす)んで行く。たゆげな翼を伸した鳥が、水に落ちようとしてたゆたっている。
 昼前に新嘉坡(シンガポール)の郊外のカトン岬の小さな桟橋についた。娘の待つ男の船は、今夜か明朝、新港に着く予定であった。
「まだ時間は大丈夫だ。ゆっくりして行きましょう。この辺もチャンギーと云って、新嘉坡の名所の一つで、どうせ来なくちゃならんところだ」社長はそういって、海の浅瀬に差し出してある清涼亭という草葺(くさぶ)き屋根の日本人経営の料亭へ、私たちを連れて行き、すぐ上衣を脱いだ。
「まあいい所ね」
 私も娘も悦(よろこ)んだ。この辺の砂は眩(まぶし)いくらい白く、椰子(やし)の密林の列端は裾(すそ)を端折(はしょ)ったように海の中に入っている。
 亭の前の崖下(がけした)は生洲(いけす)になっていて、竹笠(たけがさ)を冠(かぶ)った邦人の客が五六人釣をしている。
 汐時のすこし湿っぽい畳の小座敷で、社長は無事見学祝いだとか、何とか云っては日本酒の盃を挙げている。海の匂(にお)いと酒の匂いが、自分たちの遠い旅をほのぼのと懐かしませる。私は生洲から上げたばかりという生け鱸(すずき)の吸ものの椀(わん)を取上げて、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)にひたひたと水量を寄せながら、浜の椰子林をそのまま投影させて、よろけ縞(しま)のように揺らめかし、その遙かの末に新嘉坡の白亜の塔と高楼と煤煙(ばいえん)を望ましている海の景色に眼を慰めていた。だが、心はまだしきりに今朝ジョホール河の枝川の一つで、銃声に驚いて見張った私達の瞳孔(どうこう)に映った原始林の厳(おごそ)かさと純粋さを想(おも)い起していた。それはひどく心を直接に衝(う)った。何か人間にその因習生活を邪魔なものに思わせ、それを脱ぎ捨て度(た)い切ない気持ちにさせた。そしてその原始の自然に食い込んで生活を立てて行く仕事が、何の種類であれ、人間の生きる姿の単一に近いものであるように考えさせられた。始終自然から享(う)ける直接の豊饒(ほうじょう)な直観に浸れもしよう。
「二万円の護謨園(ゴムえん)をお買いになれば、年々その収益で、こっちへ休暇旅行ができますね。どうです」
 座興的であったが若い経営園主がゆうべ護謨園で話の序(ついで)にこういうことを云ったのも想い出された。
 私の肉体は盛り出した暑さに茹(ゆだ)るにつれ、心はひたすら、あのうねる樹幹の鬱蒼(うっそう)の下に粗い歯朶(しだ)の清涼な葉が針立っている幻影に浸り入っていた。
 そのとき娘が「あらっ!」と云って、椀を下に置いた。そして、「まあ、木下さんが」と云って眼を瞠(みは)って膝(ひざ)を立てた。
 小座敷から斜に距(へだ)てて、木柵の内側の床を四角に切り抜いて、そこにも小さな生洲がある。遊客の慰みに釣りをすることも出来るようになっている。
 いま、その釣堀から離れて、家屋の方へ近寄って来る、釣竿を手にした若い逞(たく)ましい男が、娘の瞳(ひとみ)の対象になっている。白いノーネクタイのシャツを着て、パナマ帽を冠ったその男も気がついたらしく、そのがっしりした顔にやや苦み走った微笑を泛(うか)べながら、寛(ゆ)るやかに足を運んで来た。男は座敷の椽(えん)で靴を脱いだ。
「これはこれは、船が早く着いたのかい」
 社長もびっくりして少し乗出して云った。
「けさ方早く着いちゃってね。早速、ホテルと君の事務所へ電話をかけてみたが、出ているというので、退屈凌(たいくつしの)ぎにここへ昼寝する積りで来てたんだが……」ひょっとするとここへ廻(まわ)るかも知れないとも思った。なにしろ新嘉坡へ来る内地の客の見物場所はきまっているからと云って男は朗に笑った。
 私は男がこの座敷へ近寄って来る僅(わず)か分秒の間に、男の方はちらりと一目見ただけで、娘の態度に眼が離せなかった。
 彼女は男が、娘や私たちを認めて、歩を運び出した刹那(せつな)に、「あたし――」といって、かなりあらわに体を慄(ふる)わして、私の肩に掴(つかま)った。その掴り方は、彼女の指先が私の肩の肉に食い込んで痛いくらいだった。ふだん長い睫毛(まつげ)をかむって煙っている彼女の眼は、切れ目一ぱいに裂け拡(ひろ)がり、白眼の中央に取り残された瞳は、異常なショックで凝ったまま、ぴりぴり顫動(せんどう)していた。口も眼のように竪(たて)に開いていた。小鼻も喘(あえ)いで膨らみ、濃い眉(まゆ)と眉の間の肉を冠(かぶ)る皮膚が、しきりに隆まり歪(ゆが)められ、彼女に堪え切れないほどの感情が、心内に相衝撃するもののように見えた。二三度、陣痛のようにうねりの慄えが強く、彼女の指先から私の肩の肉に噛(か)み込まれ、同時に、彼女から放射する電気のようなものを私は感じた。私は彼女が気が狂ったのではないかと、怖(おそ)れながら肩の痛さに堪えて、彼女の気色を覗(うかが)った。自分でも気がつくくらい、私の唇も慄えていた。
 男は席につくと、私に簡単に挨拶(あいさつ)した。
「木下です。今度は思いがけないご厄介をかけまして」と頭を下げた。
 それから社長に向って
「いや、あなたにもどうも……」これは微笑しながらいった。
 娘は座席に坐(すわ)り直して、ちょっとハンケチで眼を押えたが、もうそのときは何となく笑っている。始めて男は娘に口を切った。
「どうかしましたか」それは決して惨(むご)いとか冷淡とかいう声の響ではなかった。
「いいえ、あたし、あんまり突然なのでびっくりしたものだから……」そして私の方を振り向いて、「でも、すべて、こちらがいて下さるものですから」と自分の照れかくしを仕乍(しなが)ら私に愛想をした。
 娘は直(じ)きに悪びれずに男の顔をなつかしそうにまともに見はじめた。だが何気ないその笑い顔の頬(ほお)にしきりに涙が溢(あふ)れ出す。娘はそれをハンケチで拭(ぬぐ)い拭(ぬぐ)い男の顔に目を離さない――男もいじらしそうに、娘の眼を柔かく見返していた。
 社長もすべての疎通を快く感ずるらしく、
「これで顔が揃(そろ)った。まあ祝盃として一つ」などとはしゃいだ。
 私はふと気がつくと、娘と男から離れて、独り取り残された気持ちがした。こちらから望んで世話に乗り出したくらいだから、利用されたというような悪毒(あくど)く僻(ひが)んだ気持ちはしないまでも、ただわけもなく寂しい感じが沁々(しみじみ)と襲った。――この美しい娘はもう私に頼る必要はなくなった。――しかし、私はどんな感情が起って不意に私を妨げるにしても自分の引受けた若い二人に対する仕事だけは捗取(はかど)らせなくてはならないのである。私は男に、
「それで、結婚のお話は」
 ともう判り切って仕舞ったことを形式的に切り出した。すると男はちょっとお叩頭(じぎ)して、
「いや、私の考がきまりさえしたら、それでよろしいんでございましょう。いろいろお世話をかけて申訳ありません」といった。
 娘は私に向って、同じく頭を下げて済まないような顔をした。
 もはや、完全に私は私の役目を果した。二人の間に私の差挟まる余地も必要もないのをはっきり自覚した。すると私は早く日本の叔母の元へ帰り、また、物語を書き継ぐ忍従の生活に親しみ度(た)い心のコースが自然私に向いて来た。
 私たちからは内地の話や、男からは南洋の諸国の話が、単なる座談として交わされた。社長は別室へ酔後の昼寝をしに行った。
 この土地常例の驟雨(スコール)があって後、夕方間近くなって、男は私だけに向って、
「ちょっとその辺を散歩しましょう。お話もありますから」と云った。
 私は娘の顔を見た。娘は「どうぞ」と会釈した。そこで私は男に連立って出た。雨後すぐに真白に冴(さ)えて、夕陽に瑩光(えいこう)を放っている椰子林(やしりん)の砂浜に出た。
 スコールは右手の西南に去って、市街の出岬の彼方の海に、まだいくらか暗沫(あんまつ)の影を残している。男はその方を指して「こっちはスマトラ」それからその反対の東南方を指して「こっちはボルネオ」、それから真正面の青磁色の水平線に、若い生姜(しょうが)の根ほどの雲の峯を、夕の名残(なご)りに再び拡(ひろ)げている方を指して、「ずーっと、この奥に爪哇(ジャバ)があります。みな僕の船の行くところです」
 彼は一本の椰子の樹の梢(こずえ)を見上げて、その雫(しずく)の落ちない根元の砂上に竹笠(たけがさ)を裏返しに置き、更にハンケチをその上に敷き、
「まあ、この上に腰を降ろして頂きましょうか」
 そして彼は巻莨(まきたばこ)を取り出して、徐(おもむ)ろに喫(す)っていたが、やがて、私から少し離れて腰をおろして口を切りだした。海を放浪する男にしては珍らしく律儀な処のある性質も、次のような男の話で知られるのであった。
「お手紙で、あの娘と僕とにどうしても断ち切れない絆(きずな)があることは判りました。実はその絆が僕自身にも強く絡(まつ)わっていたのがはっきり判ったのでご座います。それをご承知置き願って、これから僕の話すことを聞いて頂き度いのです。でないと、僕がここへ来て急に結婚に纏(まと)まるのが、単なる気紛(きまぐ)れのように当りますから」
 彼は、私が大体それを諒解(りょうかい)できても、直(す)ぐさま承認出来ないで黙っているのを見て取ってこう云った。
「僕と許婚(いいなずけ)も同様なあれと僕との間柄を、なぜ僕がいろいろと迷って来たか、なぜ時には突き放そうとまでしたか、この理由があなたにお判りになっていらっしゃらないかも知れませんが……いやあなたばかりではない、あれにもまだ判っていない……」
 彼はしまいを独言にして一番肺の底に残して置いたような溜息(ためいき)をした。私は娘の身の上を心配するについての曾(かつ)ての焦立(いらだ)たしい気持ちに、再び取りつかれ、ついこういってしまった。
「多分あなただけのお気持ちでしょう、そんなこと、私たちには判らなかったからこそ、あの娘さんは死ぬような苦しみもし、何のゆかりも無い私のようなものまで、おせっかいに飛び出さなくてはならない羽目に陥って仕舞ったのですわ。」
 私の語気には顔色と共にかなり険しいものがあったらしい。すると、彼は突き立てている膝(ひざ)と膝との間で、両手の指を神経質に編み合せながら、首を擡(もた)げた。
「ご尤(もっと)もです。しかし、僕自身の気持ちが、僕にはっきり判ったのも、矢張りあなたが仲に入られたお陰なんです。その前まではただ何となくあの娘は好きだが、あの娘も女だ。あの娘も女だという事が気に入らない。ぼんやりこの二つの間を僕は何百遍となく引ずり廻(まわ)されていました。僕とて永い苦しい年月でした。ま、とにかく、僕の身の上話を一応訊(き)いて下さい。第一に僕の人生の出発点からして、捨子という、悲運なハンディキャップがついているんです。」
 彼の語り出した身上話とは次のようなものであった。


 東京の日本橋から外濠(そとぼり)の方へ二つ目の橋で、そこはもはや日本橋川が外濠に接している三叉(さんさ)の地点に、一石橋がある。橋の南詰の西側に錆(さ)び朽ちた、「迷子のしるべの石」がある。安政時代、地震や饑饉(ききん)で迷子が夥(おびただ)しく殖えたため、その頃あの界隈(かいわい)の町名主等が建てたものであるが、明治以来殆(ほとん)ど土地の人にも忘れられていた。
 ところが、明治も末に近いある秋、このしるべの石の傍に珍らしく捨子がしてあった。二つぐらいの可愛(かわい)らしい男の子で、それが木下であった。
 その時分、娘の家の堺屋は橋の近くの西河岸に住宅があったので、子のない堺屋の夫妻は、この子を引き取って育てた。それから三年して、この子が五つになった時分に、近所に女中をしていた女が、堺屋に現れて、子供の母だと名乗り出た。彼女は前非を悔い、不実を詫(わ)びたので、堺屋ではこの母をも共に引き取った。
 母は夫と共に日露戦役後の世間の好景気につれ、東京の下町で夫婦共稼ぎの一旗上げるつもりで上京して来た。そういう夫婦の例にままあるとおり無理算段をして出て来た近県の衰えた豪家の夫妻で、忽(たちま)ち失敗した上、夫は病死し妻は、今更故郷へも帰れず、子を捨てて、自分は投身しようとしたが、子のことが気にかかり、望みを果たさなかった。そして西河岸の同じ町内に女中奉公をして、陰ながら子供の様子を見守っていたのだった。
 堺屋では、男の児の母を家政婦みたように使うことになった。母は忠実によく勤めた。が、子供のことに係ると、堺屋の妻とこの母との間に激しい争いは絶えなかった。
 一度捨てたものを拾って育てたのだから、この子はわたしのものだと、堺屋の妻は云った。一度は捨てたが、この子のために死に切れず、死ぬより辛い恥を忍んで、世間へ名乗り出ることさえした位だから、この子はもとより自分のものだと、木下の母は云った。
「よく考えてみれば、僕にとっては有難いことなのでしょうが、僕は物心ついてから、女のこの激しい争いに、ほとほと神経を使い枯らし、僕の知る人生はただ醜い暗いものばかりでした」
 生憎(あいにく)なことに、木下は生みの母より、堺屋の妻の方が多少好きであった。
「堺屋のおふくろさんは、強情一徹ですが、まださっぱりしたところがありました。が、僕を自分ばかりの子にして仕舞いたかった気持ちには、自分に男の子がないため、是非欲しいという量見以外に、堺屋の父親が僕をとても愛しているので、それから牽(ひ)いて、僕の生みの母親をも愛しはしないかという心配も幾らかあったらしいのです。
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