河明かり
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著者名:岡本かの子 

浪枕
 社長は私が話した海の上の男と、娘との間の複雑した事情は都合よく忘れて仕舞い、二人の間の若い情緒的なものばかりを引抽(ひきぬ)いて、或は空想して、それに潤色し、自分の老いの気分に固着するのを忘れ、現在の殻から一時でも逃れて瑞々(みずみず)しい昔の青春に戻ろうと努めているらしいその願いが如何にも本能的で切実なものであるのに私の心は動された。朗吟も旧式だが誇張的のまま素朴で嫌味はなかった。
親しき息は海に通い
ささやきは胸に通い――――
 壁虎(やもり)が鳴く、夜鳥が啼く。私にも何となく甘苦い哀愁が抽(ひ)き出されて、ふとそれがいつか知らぬ間に海の上を渡っている若い店員にふらふらと寄って行きそうなのに気がつくと、
「なにを馬鹿らしい。人の男のことなぞ」
 と嘲(あざけ)って呆(あき)れるのであるが、なおその想(おも)いは果実の切口から滲み出す漿液(しょうえき)のように、激しくなくとも、直(す)ぐには止まらないものであった。
 何がそうその男を苦しめて、陸の生活を避けさせ、海の上ばかり漂泊さすのか。
 ひょっとしたら、他に秘密な女でもあって、それに心が断ち切れないのではあるまいか。
 或は、この世の女には需(もと)め得られないほどの女に対する慾求を、この世の女にかけているのではあるまいか。
 或は、生れながら人生に憂愁を持つ、ハムレット型の人物の一人なのではあるまいか。
 女のよきものをまだ真に知らない男なのではあるまいか。
 こういうことを考え廻(めぐ)らしている間に、憐(あわれ)な気持ち、嫉妬(しっと)らしい気持、救ってやり度(た)い気持ち、慰めてやりたい気持ち、詰(なじ)ってやり度い心持ち、圧し捉(つか)まえてやり度い心持ちが、その男に対してふいふいと湧(わ)き出して来て、少し胸が苦しいくらいになる。恐らくこれは当事者の娘が考えたり、感じねばならないことだろうにと、私は私の心の変態の働きに、極力用心しながら、室内の娘を見ると、いよいよ鮮かに何の屈托(くったく)もない様子で、歌留多(カルタ)の札を配っている。私はふと気がついて、
「あの女は、自分の愛の悩みをさえ、奴隷に代ってさせるという世にも珍らしいサルタンのような性質を持っている女なのではあるまいか。」
 そして、それを知らないで、みすみすその精神的労苦を引受けた自分こそ、よい笑われものである。急に娘に対する憎みが起った。だが、また娘の顔を覗(のぞ)くと、あんまり鮮かで屈托がなさ過ぎる。私の反感も直ぐに消えてしまう。
「この無邪気さには、とても敵(かな)わない」
 私は気力も脱けて、今度はしきりに朗吟の陶酔に耽(ふけ)っている、社長の肩を揺って、正気に還(かえ)らせ、
「これは真面目(まじめ)なご相談ですが……」と、木下の新嘉坡(シンガポール)に於ける女出入や、その他の素行に就(つ)いて、私はまるで私立探偵のように訊(き)き質(ただ)すのであった。
 深林の夜は明け放れ、銀色の朝の肌が鏡に吐きかけた息の曇りを除くように、徐々に地霧の中から光り出して来た。
 一本のマングローブの下で、果ものを主食の朝餐(ちょうさん)が進行した。レモンの汁をかけたパパイヤの果肉は、乳の香がやや酸※(さんぱい)[#「やまいだれ+発」、742-下-21]した孩児(あかご)の頬(ほお)に触れるような、□(やわら)かさと匂(にお)いがあった。指ほどの長さでまるまると肥っている、野生のバナナは皮を剥(は)ぐと、見る見る象牙色(ぞうげいろ)の肌から涙のような露を垂らした。柿の型をした紫の殻を裂くと、綿の花のような房が甘酸く唇に触れるマンゴスチンも珍らしかった。
「ドリアンがあると、こっちへいらっした紀念に食べた果ものになるのですがね。生憎(あいにく)と今は季節の間になっているので……。僕等には妙な匂いで、それほどとも思いませんが、土人たちは所謂(いわゆる)、女房を質に置いても喰(く)うという、何か蠱惑的(こわくてき)なものがあるんですね」若い経営主は云った。
「南洋の果ものには、ドリアンばかりでなく、何か果もの以上に蠱惑的なものがあるらしいです。ご婦人方の前で、そう云っちゃ何ですが、僕等だとて独身でこんなとこへ来て、いろいろの煩悩も起ります。けれどもそういうものの起ったとき、無暗にこれ等の豊饒(ほうじょう)な果ものにかぶりつくのです。暴戻(ぼうれい)にかぶりつくのです。すると、いつの間にか慰められています。だから手元に果物は絶やさないのです」
 若い経営主は紫色の花だけ眼のように涼しく開けて、葉はまだ閉じて眠っているポインシャナの叢(くさむら)を靴の底でいじらしそうに※(さす)[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、743-上-20]りながら、こう云った。
 娘は、今朝も事務員に混っていろいろ手伝っていたが、何となくそわそわしていた。そして、話にばつを合せるように、私には嫌味に思える程、きらきらした作り笑いの声を挙げた。しかし、若い経営主が、こういうにつれ、他の若い男たちも悵然(ちょうぜん)とした様子をみて、娘は心から同情する気持ちを顔に現した。
「僕の慰めは酒と子供だな」と社長は云った。
 彼は今朝もビールを飲んでいた。
「君にもまだ慰めなくちゃならない煩悩があるのかね」と若い経営主は云った。「そんなにチッテ族の酋長(しゅうちょう)のような南洋色になっても」
 社長は、「ある――大いにある」と怒鳴ったが、誰も酔いの上の気焔(きえん)と思って相手にしない。社長は口を噤(つぐ)んで仕舞った。


 逆巻く濤(なみ)のように、梢(こずえ)や枝葉を空に振り乱して荒れ狂っている原始林の中を整頓(せいとん)して、護謨(ゴム)の植林がある。青臭い厚ぼったいゴムの匂いがする。白紫色に華やぎ始めた朝の光線が当って、閃(ひらめ)く樹皮は螺線状(らせんじょう)の溝に傷けられ、溝の終りの口は小壺(こつぼ)を銜(くわ)えて樹液を落している。揃って育児院の子供等が、朝の含嗽(うがい)をさせられているようでもある。馬来人(マレイじん)や支那人が働いている。
「僕等は正規の計劃(けいかく)の外、郷愁が起る毎に、この土に護謨の苗木を、特に一列一列植えるのです。妄念を深く土中に埋めるのです」
 その苗木の列には、或は銀座通とか、日比谷とか、或は植主の生地でもあろうか、福岡県――郡――村とか書いた建札がしてあった。
 若い経営主は、努めて何気なくいうのだが、娘は堪(た)まらなそうに、涙をぽたぽたと零(こぼ)して、急いでハンケチを出した。
 中老の社長は、こういう普通の感傷を珍らしいように眺め、私に云った。
「どうです。あなた方も、紀念に一本ずつ植えて行っては」
 護謨園の中を通っている水渠(すいきょ)から丸木船を出して、一つの川へ出た。ジョホール河の支流の一つだという。大きな歯朶(しだ)とか蔓草(つるくさ)で暗い洞陰を作っている河岸から、少し岐(わか)れて、流れの中に岩石がある。
「あすこによく鰐(わに)の奴が、背中を干しているのだが、……」と事務員の一人が指したが、そのすぐあと、艫(とも)の方にいた事務員がいった。
「こっちこっち、あすこにいます」
 濁った流れの中に、黒っぽいものが、渦を水に曳(ひ)いて動くのが見えた。また、その周囲にそれも生きものが泳ぐのかと思われるほどの微(かす)かな小さい渦が見える。
「は は は 子供を連れとる」
 私の気持ちはというと、この原始の自然があまりに、私たちの自然と感じ慣れているものより差違があり、この現実が却(かえ)って、百貨店の催しものの、造り庭のように見え、この南洋風景図の背景の前に、鰐(わに)がいるのは当然の趣向に見え、もう少し脅(おび)えたい気持ちをさえ自分に促した。鰐に向ける銃声の方が本当の鰐に対するより却って私たちを驚かした。鰐は影を没した。
「鉄砲の音は痛快ね」と娘はいって、しきりに当もなく発砲して貰った。
「あなた方内地の女性に向って、ふだん考え溜(た)めていたことを、話し出せそうな緒口(いとぐち)が見つかったようになって、お訣(わか)れするのは惜しいものです」と若い経営主はいった。
 私も、「こういう本当の自然と、それを切り拓(ひら)いて行く人間の仕事に就(つ)いて、漸(ようや)く眼が開きかかって来たのに、お訣れするのは、まったく惜しい気が致します」といった。
 娘は俯向(うつむ)いて、型のようにちょっと無名指(くすりゆび)の背の節で眼を押えた。その仕草が、日本女性のこういう場合にとる普通の型のように見え乍(なが)ら私はやはりこの遠方の異境にまで男を尋ねて来た娘が何かと感傷的になっている証拠にも見た。
 私たちはジョホール河のベンゲラン岬から、馬来人(マレイじん)が舵□(かじ)を執り、乗客も土人ばかりのあやしいまで老い朽ちた発動機船に乗った。
「腰かけたまわりには、さっき上げといた蚤取粉(のみとりこ)を撒(ま)くんですよ。そうしないと虫に食われますよ」見送りの事務員の労(いたわ)った声が桟橋から響いた。娘はポケットを押えてみて、窓からお叩頭(じぎ)をした。
 怠惰なエンジンの音が聞えて、機船は河心へ出た。河と云いながら、大幅な両岸は遠く水平線に退いて、照りつける陽の下に林影だけ一抹の金の塗粉のようになって見えた。それが水天一枚の瑠璃色(るりいろ)の面でしばしば断ち切れて、だんだん淡く、蜃気楼(しんきろう)の島のように中空に映り霞(かす)んで行く。たゆげな翼を伸した鳥が、水に落ちようとしてたゆたっている。
 昼前に新嘉坡(シンガポール)の郊外のカトン岬の小さな桟橋についた。娘の待つ男の船は、今夜か明朝、新港に着く予定であった。
「まだ時間は大丈夫だ。ゆっくりして行きましょう。この辺もチャンギーと云って、新嘉坡の名所の一つで、どうせ来なくちゃならんところだ」社長はそういって、海の浅瀬に差し出してある清涼亭という草葺(くさぶ)き屋根の日本人経営の料亭へ、私たちを連れて行き、すぐ上衣を脱いだ。
「まあいい所ね」
 私も娘も悦(よろこ)んだ。この辺の砂は眩(まぶし)いくらい白く、椰子(やし)の密林の列端は裾(すそ)を端折(はしょ)ったように海の中に入っている。
 亭の前の崖下(がけした)は生洲(いけす)になっていて、竹笠(たけがさ)を冠(かぶ)った邦人の客が五六人釣をしている。
 汐時のすこし湿っぽい畳の小座敷で、社長は無事見学祝いだとか、何とか云っては日本酒の盃を挙げている。海の匂(にお)いと酒の匂いが、自分たちの遠い旅をほのぼのと懐かしませる。私は生洲から上げたばかりという生け鱸(すずき)の吸ものの椀(わん)を取上げて、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)にひたひたと水量を寄せながら、浜の椰子林をそのまま投影させて、よろけ縞(しま)のように揺らめかし、その遙かの末に新嘉坡の白亜の塔と高楼と煤煙(ばいえん)を望ましている海の景色に眼を慰めていた。だが、心はまだしきりに今朝ジョホール河の枝川の一つで、銃声に驚いて見張った私達の瞳孔(どうこう)に映った原始林の厳(おごそ)かさと純粋さを想(おも)い起していた。それはひどく心を直接に衝(う)った。何か人間にその因習生活を邪魔なものに思わせ、それを脱ぎ捨て度(た)い切ない気持ちにさせた。そしてその原始の自然に食い込んで生活を立てて行く仕事が、何の種類であれ、人間の生きる姿の単一に近いものであるように考えさせられた。始終自然から享(う)ける直接の豊饒(ほうじょう)な直観に浸れもしよう。
「二万円の護謨園(ゴムえん)をお買いになれば、年々その収益で、こっちへ休暇旅行ができますね。どうです」
 座興的であったが若い経営園主がゆうべ護謨園で話の序(ついで)にこういうことを云ったのも想い出された。
 私の肉体は盛り出した暑さに茹(ゆだ)るにつれ、心はひたすら、あのうねる樹幹の鬱蒼(うっそう)の下に粗い歯朶(しだ)の清涼な葉が針立っている幻影に浸り入っていた。
 そのとき娘が「あらっ!」と云って、椀を下に置いた。そして、「まあ、木下さんが」と云って眼を瞠(みは)って膝(ひざ)を立てた。
 小座敷から斜に距(へだ)てて、木柵の内側の床を四角に切り抜いて、そこにも小さな生洲がある。遊客の慰みに釣りをすることも出来るようになっている。
 いま、その釣堀から離れて、家屋の方へ近寄って来る、釣竿を手にした若い逞(たく)ましい男が、娘の瞳(ひとみ)の対象になっている。白いノーネクタイのシャツを着て、パナマ帽を冠ったその男も気がついたらしく、そのがっしりした顔にやや苦み走った微笑を泛(うか)べながら、寛(ゆ)るやかに足を運んで来た。男は座敷の椽(えん)で靴を脱いだ。
「これはこれは、船が早く着いたのかい」
 社長もびっくりして少し乗出して云った。
「けさ方早く着いちゃってね。早速、ホテルと君の事務所へ電話をかけてみたが、出ているというので、退屈凌(たいくつしの)ぎにここへ昼寝する積りで来てたんだが……」ひょっとするとここへ廻(まわ)るかも知れないとも思った。なにしろ新嘉坡へ来る内地の客の見物場所はきまっているからと云って男は朗に笑った。
 私は男がこの座敷へ近寄って来る僅(わず)か分秒の間に、男の方はちらりと一目見ただけで、娘の態度に眼が離せなかった。
 彼女は男が、娘や私たちを認めて、歩を運び出した刹那(せつな)に、「あたし――」といって、かなりあらわに体を慄(ふる)わして、私の肩に掴(つかま)った。その掴り方は、彼女の指先が私の肩の肉に食い込んで痛いくらいだった。ふだん長い睫毛(まつげ)をかむって煙っている彼女の眼は、切れ目一ぱいに裂け拡(ひろ)がり、白眼の中央に取り残された瞳は、異常なショックで凝ったまま、ぴりぴり顫動(せんどう)していた。口も眼のように竪(たて)に開いていた。小鼻も喘(あえ)いで膨らみ、濃い眉(まゆ)と眉の間の肉を冠(かぶ)る皮膚が、しきりに隆まり歪(ゆが)められ、彼女に堪え切れないほどの感情が、心内に相衝撃するもののように見えた。二三度、陣痛のようにうねりの慄えが強く、彼女の指先から私の肩の肉に噛(か)み込まれ、同時に、彼女から放射する電気のようなものを私は感じた。私は彼女が気が狂ったのではないかと、怖(おそ)れながら肩の痛さに堪えて、彼女の気色を覗(うかが)った。自分でも気がつくくらい、私の唇も慄えていた。
 男は席につくと、私に簡単に挨拶(あいさつ)した。
「木下です。今度は思いがけないご厄介をかけまして」と頭を下げた。
 それから社長に向って
「いや、あなたにもどうも……」これは微笑しながらいった。
 娘は座席に坐(すわ)り直して、ちょっとハンケチで眼を押えたが、もうそのときは何となく笑っている。始めて男は娘に口を切った。
「どうかしましたか」それは決して惨(むご)いとか冷淡とかいう声の響ではなかった。
「いいえ、あたし、あんまり突然なのでびっくりしたものだから……」そして私の方を振り向いて、「でも、すべて、こちらがいて下さるものですから」と自分の照れかくしを仕乍(しなが)ら私に愛想をした。
 娘は直(じ)きに悪びれずに男の顔をなつかしそうにまともに見はじめた。だが何気ないその笑い顔の頬(ほお)にしきりに涙が溢(あふ)れ出す。娘はそれをハンケチで拭(ぬぐ)い拭(ぬぐ)い男の顔に目を離さない――男もいじらしそうに、娘の眼を柔かく見返していた。
 社長もすべての疎通を快く感ずるらしく、
「これで顔が揃(そろ)った。まあ祝盃として一つ」などとはしゃいだ。
 私はふと気がつくと、娘と男から離れて、独り取り残された気持ちがした。こちらから望んで世話に乗り出したくらいだから、利用されたというような悪毒(あくど)く僻(ひが)んだ気持ちはしないまでも、ただわけもなく寂しい感じが沁々(しみじみ)と襲った。――この美しい娘はもう私に頼る必要はなくなった。――しかし、私はどんな感情が起って不意に私を妨げるにしても自分の引受けた若い二人に対する仕事だけは捗取(はかど)らせなくてはならないのである。私は男に、
「それで、結婚のお話は」
 ともう判り切って仕舞ったことを形式的に切り出した。すると男はちょっとお叩頭(じぎ)して、
「いや、私の考がきまりさえしたら、それでよろしいんでございましょう。いろいろお世話をかけて申訳ありません」といった。
 娘は私に向って、同じく頭を下げて済まないような顔をした。
 もはや、完全に私は私の役目を果した。二人の間に私の差挟まる余地も必要もないのをはっきり自覚した。すると私は早く日本の叔母の元へ帰り、また、物語を書き継ぐ忍従の生活に親しみ度(た)い心のコースが自然私に向いて来た。
 私たちからは内地の話や、男からは南洋の諸国の話が、単なる座談として交わされた。社長は別室へ酔後の昼寝をしに行った。
 この土地常例の驟雨(スコール)があって後、夕方間近くなって、男は私だけに向って、
「ちょっとその辺を散歩しましょう。お話もありますから」と云った。
 私は娘の顔を見た。娘は「どうぞ」と会釈した。そこで私は男に連立って出た。雨後すぐに真白に冴(さ)えて、夕陽に瑩光(えいこう)を放っている椰子林(やしりん)の砂浜に出た。
 スコールは右手の西南に去って、市街の出岬の彼方の海に、まだいくらか暗沫(あんまつ)の影を残している。男はその方を指して「こっちはスマトラ」それからその反対の東南方を指して「こっちはボルネオ」、それから真正面の青磁色の水平線に、若い生姜(しょうが)の根ほどの雲の峯を、夕の名残(なご)りに再び拡(ひろ)げている方を指して、「ずーっと、この奥に爪哇(ジャバ)があります。みな僕の船の行くところです」
 彼は一本の椰子の樹の梢(こずえ)を見上げて、その雫(しずく)の落ちない根元の砂上に竹笠(たけがさ)を裏返しに置き、更にハンケチをその上に敷き、
「まあ、この上に腰を降ろして頂きましょうか」
 そして彼は巻莨(まきたばこ)を取り出して、徐(おもむ)ろに喫(す)っていたが、やがて、私から少し離れて腰をおろして口を切りだした。海を放浪する男にしては珍らしく律儀な処のある性質も、次のような男の話で知られるのであった。
「お手紙で、あの娘と僕とにどうしても断ち切れない絆(きずな)があることは判りました。実はその絆が僕自身にも強く絡(まつ)わっていたのがはっきり判ったのでご座います。それをご承知置き願って、これから僕の話すことを聞いて頂き度いのです。でないと、僕がここへ来て急に結婚に纏(まと)まるのが、単なる気紛(きまぐ)れのように当りますから」
 彼は、私が大体それを諒解(りょうかい)できても、直(す)ぐさま承認出来ないで黙っているのを見て取ってこう云った。
「僕と許婚(いいなずけ)も同様なあれと僕との間柄を、なぜ僕がいろいろと迷って来たか、なぜ時には突き放そうとまでしたか、この理由があなたにお判りになっていらっしゃらないかも知れませんが……いやあなたばかりではない、あれにもまだ判っていない……」
 彼はしまいを独言にして一番肺の底に残して置いたような溜息(ためいき)をした。私は娘の身の上を心配するについての曾(かつ)ての焦立(いらだ)たしい気持ちに、再び取りつかれ、ついこういってしまった。
「多分あなただけのお気持ちでしょう、そんなこと、私たちには判らなかったからこそ、あの娘さんは死ぬような苦しみもし、何のゆかりも無い私のようなものまで、おせっかいに飛び出さなくてはならない羽目に陥って仕舞ったのですわ。」
 私の語気には顔色と共にかなり険しいものがあったらしい。すると、彼は突き立てている膝(ひざ)と膝との間で、両手の指を神経質に編み合せながら、首を擡(もた)げた。
「ご尤(もっと)もです。しかし、僕自身の気持ちが、僕にはっきり判ったのも、矢張りあなたが仲に入られたお陰なんです。その前まではただ何となくあの娘は好きだが、あの娘も女だ。あの娘も女だという事が気に入らない。ぼんやりこの二つの間を僕は何百遍となく引ずり廻(まわ)されていました。僕とて永い苦しい年月でした。ま、とにかく、僕の身の上話を一応訊(き)いて下さい。第一に僕の人生の出発点からして、捨子という、悲運なハンディキャップがついているんです。」
 彼の語り出した身上話とは次のようなものであった。


 東京の日本橋から外濠(そとぼり)の方へ二つ目の橋で、そこはもはや日本橋川が外濠に接している三叉(さんさ)の地点に、一石橋がある。橋の南詰の西側に錆(さ)び朽ちた、「迷子のしるべの石」がある。安政時代、地震や饑饉(ききん)で迷子が夥(おびただ)しく殖えたため、その頃あの界隈(かいわい)の町名主等が建てたものであるが、明治以来殆(ほとん)ど土地の人にも忘れられていた。
 ところが、明治も末に近いある秋、このしるべの石の傍に珍らしく捨子がしてあった。二つぐらいの可愛(かわい)らしい男の子で、それが木下であった。
 その時分、娘の家の堺屋は橋の近くの西河岸に住宅があったので、子のない堺屋の夫妻は、この子を引き取って育てた。それから三年して、この子が五つになった時分に、近所に女中をしていた女が、堺屋に現れて、子供の母だと名乗り出た。彼女は前非を悔い、不実を詫(わ)びたので、堺屋ではこの母をも共に引き取った。
 母は夫と共に日露戦役後の世間の好景気につれ、東京の下町で夫婦共稼ぎの一旗上げるつもりで上京して来た。そういう夫婦の例にままあるとおり無理算段をして出て来た近県の衰えた豪家の夫妻で、忽(たちま)ち失敗した上、夫は病死し妻は、今更故郷へも帰れず、子を捨てて、自分は投身しようとしたが、子のことが気にかかり、望みを果たさなかった。そして西河岸の同じ町内に女中奉公をして、陰ながら子供の様子を見守っていたのだった。
 堺屋では、男の児の母を家政婦みたように使うことになった。母は忠実によく勤めた。が、子供のことに係ると、堺屋の妻とこの母との間に激しい争いは絶えなかった。
 一度捨てたものを拾って育てたのだから、この子はわたしのものだと、堺屋の妻は云った。一度は捨てたが、この子のために死に切れず、死ぬより辛い恥を忍んで、世間へ名乗り出ることさえした位だから、この子はもとより自分のものだと、木下の母は云った。
「よく考えてみれば、僕にとっては有難いことなのでしょうが、僕は物心ついてから、女のこの激しい争いに、ほとほと神経を使い枯らし、僕の知る人生はただ醜い暗いものばかりでした」
 生憎(あいにく)なことに、木下は生みの母より、堺屋の妻の方が多少好きであった。
「堺屋のおふくろさんは、強情一徹ですが、まださっぱりしたところがありました。が、僕を自分ばかりの子にして仕舞いたかった気持ちには、自分に男の子がないため、是非欲しいという量見以外に、堺屋の父親が僕をとても愛しているので、それから牽(ひ)いて、僕の生みの母親をも愛しはしないかという心配も幾らかあったらしいのです。こういう気持ちも混った僕への愛から、堺屋のおふくろは、しまいには僕だけ自分の手元にとどめて、母だけ追出そうとしきりに焦ったのです。それでも堺屋の母はただ僕の母に表向きの難癖をつけたり、失敗を言い募ったりする、まだ単純なものでした」
 ところが、木下の生みの母はなかなか手のある女だった。
「一度こういうことがありました。堺屋のおふくろが、僕に掻餅(かきもち)を焼いて呉(く)れていたんです。その側には僕の生みの母親もいました。堺屋のおふくろは、焼いた掻餅を普通に砂糖醤油(さとうじょうゆ)につけて僕に与えました。すると僕の母はそれを見て、そっとその掻餅を箸(はし)で摘み取り、ぬるま湯で洗って、改めて生醤油(きじょうゆ)をつけて、僕に与えました。僕は子供のうちから生醤油をつけた掻餅が好きだったのです」
 しかし、いくら子供の好みがそうだからと云って、堺屋のおふくろに面当てがましく、掻餅を目の前で洗い直さないでもよさそうだと木下は思った。その上子供の木下に向って、掻餅を与えながら、一種の手柄顔と、媚(こ)びと歓心を求める造り笑いは、木下に嫌厭(けんえん)を催させた。堺屋のおふくろは箸(はし)を投げ捨て、怒って立って行った。
「また、こういうことがありました。僕が尋常(じんじょう)小学に入った時分でした。その夜は堺屋で恵比須講(えびすこう)か何かあって、徹夜の宴会ですから、母親は店へ泊って来る筈(はず)です。ところが夜の明け方まえになって、提灯(ちょうちん)をつけて帰って来ました。そして眼を覚ました僕の枕元に座って、さめざめと泣くのです。堺屋のお内儀(かみ)さんに満座の中で恥をかかされて、居たたまれなかったと云います」
 これも後で訊(たず)ね合せて見ると、母親の術であるらしく、ほんのちょっとした口叱言(くちこごと)を種に、子供の同情を牽(ひ)かんための手段であった。
「何でも下へ下へと掻(か)い潜って、子供の心を握って自分に引き付けようとするこの母親の術には、実に参りました。子供の心は、そういうものには堪えられるものではありません。僕は元来そう頭は悪くない積りですが、この時分は痴呆症(ちほうしょう)のようになって、学校も仮及第ばかりしていました」
 木下が九つの時に堺屋の妻は、女の子を生んだ。それが今の娘である。しかし、堺屋の妻は、折角楽しんでいた子供が女であることやら、木下の生みの母との争奪戦最中の関係からか、娘の出生をあまり悦(よろこ)びもせず、やはり愛は男の子の木下に牽れていた。木下の母親は、「自分に実子が出来た癖に、まだ、人の子を付け覗(うかが)っている。強慾な女」と罵(ののし)った。
 ところが、晩産のため、堺屋の妻は兎角(とかく)病気勝ちで、娘出生の後一年にもならないうちに死んで仕舞った。
 その最後の病床で、堺屋の妻は、木下の小さい体を確(しっか)り抱き締めて、「この子供はどうしてもあたしの子」とぜいぜいいって叫んだ。すると生みの母親は冷淡に、「いけませんよ」といって、その手から木下を靠(も)ぎ去った。堺屋の主人は始め不快に思ったが、生みの母のすることだから誰も苦情はいえなかった。
 すると堺屋の妻は、木下の母親には、今まで決して見せなかった涙を、死の真近になった顔にぽろぽろと零(こぼ)して、「なるほど考えてみると、今までは私が悪かった。謝るから、どうかこのことだけは一つ自分の遺言だと思って、聴容(ききい)れて貰い度(た)い」と云って、次のことを申出た。つまり自分の生んだ女の子が育って、年頃になったなら、必ず木下と娶(めあ)わして欲しいというのであった。木下の母親もそれまでは断る元気もなく、しぶしぶ承知の旨を肯(うなず)いて見せた。すると堺屋の妻はまだ本当には安心し切らないような様子で半眼を開いて、じっと母と僕と娘の顔を見較(みくら)べながらやがて死んだ。木下の母親は堺屋の妻の死後までその時の様子を憎んでいた。
 娘は乳母を雇って育てられた。木下の母親は自然主婦のような位置に立って、家事を引受けていたが、不思議な事には喧嘩(けんか)相手の無くなったことに何となく力抜けのした具合いで床につき勝ちになり、それから四年目の木下が十三歳、娘が五つの年に腹膜炎で死んだ。
 そのとき木下の母親の遺言はこうであった。
「ここの家のお内儀さんとの約束だから、息子にお嬢さんを貰うことは承知するが、息子をこの家の養子にやることはどうしても否や。なにしろこの息子は木下家の一粒種なのだから……」
 母親はふだんから、世が世ならば、こんな素町人の家の娘をうちの息子になぞ権柄(けんぺい)ずくで貰わせられることなぞありはしない。資産から云ったって、木下家の郷里の持ものは、人に奪(と)られさえしなければ、こんな家とは格段の相違があるのだといっていた。
 娘は乳母に養われ父親だけで何も知らずに育ち、木下は店から通って、中学から高等学校に上って行った。
「嫌なものですよ。幼な心に染(し)み込んだ女同志の争いというものは、中に入っているのが子供で何も判るまいと思うだけに、女たちはあらゆる女の醜さをさらけ出して争います。それはずーっといつまでも人間の心に染みついて残ります。僕は堺屋のおふくろが臨終に最後の力を出して、僕を母親から奪おうとしたときの、死にもの狂いの力と、肉身を強味に冷やかに僕を死ぬ女の手から靠ぎ取った母親の様子を、今でもありありと思い泛(うか)べることが出来ます」
 それは嫌やだと同時に、またどうしても憎み切れないものがある。家というものを護(まも)らせられるように出来ている女の本能、老後の頼りを想(おも)う女の本能、そういうものが後先の力となって、自分で生むと生まないとに係らず、女が男の子というものに対する魅着は、第一義的の力であるのであろう。
「そういっちゃ何ですが、僕は子供のときはおっとりして器量もなかなかよく、つまり、一般の母性に恋いつかれるように出来た子供だったらしいのです」木下は苦笑しながら云った。
 娘は片親でも鷹揚(おうよう)に美しく育って行った。いつの間に聞き込んだか、木下と許婚(いいなずけ)の間柄だと知って、木下を疑わず頼りに思い込んでいる。ところが女の為めに女を見る目を僻(ひが)ませられて仕舞った若い頃の木下には、娘がやさしくなつかしそうにする場合には、例の母親がした媚(こ)びて歓心を得る狡(ずる)い手段ではないかと、すぐそれに対する感情の出口に蓋(ふた)をする気持ちになり、娘が無邪気に開けて向って来るときは、堺屋のおふくろがした女の気儘(きまま)独断を振り翳(かざ)して来るのではないかと思って、また、感情に蓋(ふた)をする。
「今考えてみれば、僕は僻(ひが)みながらも僕の心の底では娘が可哀想(かわいそう)で、いじらしくてならなかったのです」
「僕はこの二重の矛盾に堪え切れないで、娘に辛く当ったり、娘をはぐらかして見たり、軽蔑(けいべつ)してみたり、あらゆるいじけた情熱の吐き方をしたものです。そうしたあとでは、無垢(むく)な、か弱いものを惨忍に踏み躙(にじ)った悔いが、ひしひしと身を攻めて来て、もしやこのことのために娘の性情が壊れて仕舞ったら、どうしたらいいだろう……」
 彼が学問で身を立てるつもりで堺屋の主人に頼んで、段々と上の学校へ上げて貰おうとしたのは、学問の純粋性が彼に沁(し)み込んで、それによって世の中を見るようになれば、女の持つ技巧や歪曲(わいきょく)の世界から脱れようかとも思った。ところが、彼が青年になり、青春の血が動くようになるほど、娘のことを考え、この自分の矛盾に襲われ、結局しどろもどろになって、落付いて学問なぞしていられず、娘を愛しながら、娘の傍にはいたたまれなくなって来た。そうかといって、他の女はもっと女臭いものが、より多くあるような気がして女がふつふつ嫌であった。
 とうとう彼は二十一の歳に高等学校をやめて、船に乗り込んで仕舞った。
 娘は何も知らずに、木下がやさしい性情が好きなのだと思い取っては、そのようになろうと試み、木下がさっぱりした性格を好むと思い取っては、男のようになって働きもした。木下は迷ってすることだが、娘はただ懸命につき従おうと心を砕いた。
「結局あの娘の持ち前の性格をくたくたに突き崩して、匂(にお)いのないただ美しい造花のようにしてしまったのは、僕の無言の折檻(せっかん)にあるのでしょう。それとも女というものは、絆(きずな)のある男なら誰に対しても遂(つい)にそうなる運命の生物なのでしょうか」
 青年の木下は、それを憐(あわれ)みながら、いよいよ愛する娘を持て剰(あま)した。
「けれども、海は、殊に、南洋の海は……」と木下は言葉を継いだ。「海は、南洋の海は……」現実を夢にし、夢を現実にして呉(く)れる、神変不思議の力を持っている。むかし印度(インド)の哲学詩人たちが、ここには竜宮というものがあって、陸上で生命が屈托(くったく)するときに、しばらく生命はここに匿(かく)れて時期を待つのだといった思想などは、南の海洋に朝夕を送ってみたものでなければ、よく判らないのである。ここへ来ると、生命の外殻の観念的なものが取れて、浪漫性の美と匂いをつけ、人間の嗜味に好もしい姿となって、再び立ち上って来るとかいうのである。
「あなたは東洋の哲学をおやりだという話を、あれの手紙で知りましたが、それなら既にお気付きでしょう。およそ大乗と名付けられる、つまり人間性を積極的に是認した仏教経典等には、かなりその竜宮に匿れていたのを取出して来たという伝説が附ものになっていましょう。その竜宮を、或は錫蘭(セイロン)島だといい、いや、架空の表現なのだとか、いろいろ議論がありますものの、大体北方の哲学の胚種(はいしゅ)が、後世文化の発達した、これ等南の海洋の気を受けた土地に出て来て、伸々と芽を吹き、再生産されたことは推測されましょう」
木下はなお南洋の海に就(つ)いて語り続ける。
 遠い水は瑠璃色(るりいろ)にのして、表面はにこ毛が密生しているように白っぽくさえ見える。近くに寄せる浪のうねりは琅□(ろうかん)の練りもののように、悠揚と伸び上って来ては、そこで青葉の丘のようなポーズをしばらく取り、容易には崩れない。浪間と浪の陰に当るところは、金沙(きんさ)を混ぜた緑礬液(りょくばんえき)のように、毒と思えるほど濃く凝って、しかもきらきら陽光を漉(す)き込んでいる。片帆の力を借りながら、テンポの正規的な汽鑵(きかん)の音を響かせて、木下の乗る三千噸(トン)の船はこの何とも知れない広大な一鉢の水の上を、無窮に浮き進んで行く。舳(へさき)の斜の行手に浪から立ち騰(のぼ)って、ホースの雨のように、飛魚の群が虹のような色彩に閃(ひら)めいて、繰り返し繰り返し海へ注ぎ落ちる。垣のように水平線をぐるりと取巻いて、立ち騰ってはいつか潰(つい)える雲の峯の、左手に出た形と同じものが、右手に現れたと思うと、元のものはすでに形を変えている。
 積荷の塩魚のにおいの間から、ふとすると、寒天や小豆粉のかすかなにおいがする。陸地に近づくと大きな蝶が二つ海の上を渡って来る。
「この絢爛(けんらん)な退屈を何十度となく繰り返しているうち、僕はいつの間にか、娘のことを考えれば、何となく微笑が泛(うか)べられるように悠揚とした気になって来ました。」娘のすることなすことを想像すると、いたいけな気がして、ただ、ほろりとする感じに浸れるだけに彼はなって来た。で、今まで嫌やだと感じる理由になっていた、女嫌いの原因になるものは、どうなったかというと、彼の胸の片隅の方に押し片付けられて、たいして邪魔にもならなくなって来た。いつの間にか人をこうした心状に導くのが南の海の徳性だろうか。
 男はここまで語って眉頭(まゆがしら)を衝(つ)き上げ、ちょっと剽軽(ひょうきん)な表情を泛べて、私の顔を見た。
「そこへあなたのご周旋だったので、ありがたくお骨折りを受け容(い)れた次第です」
 ここで私は更に男に訊(たず)ねて見なければ承知出来なかった。
「そういうことなら、なぜ娘さんにその気持ちの径路を早く行って聞かさないで、こんな処で私一人に今更打ち明けるのですか」
「ははあ。」といって男は瞑目(めいもく)していたが、やがて尤(もっと)もという様子でいった。
「今までの話、僕はあなたにお目にかかってどうしても聞いて頂き度(た)くなったのですが、これをあの娘に直接話したら……」だんだん判って来たのだが元来あの娘には、そういった女臭いところが比較的少ない。都会の始終刺戟(しげき)に曝(さ)らされている下町の女の中には、時々ああいう女の性格がある。だが若(も)しそんな話をして、いくらかでも、却(かえ)って母親達のような女臭さをあの娘に植えつけは仕ないだろうか、今はあんな娘であるにしても根が女のことだから、今は聞き流していても、それを潜在意識に貯えて、いつ同じ女の根性になって来ないものでも無い……そんな怖(おそ)れからこれは娘には一切聞かせずに、いっそのことお世話序(ついで)にあなたにだけ聞いて頂こうと思った。世の中の男のなかにはこういう悩みを持つものもあるものだと、了解して頂き度い……と男の口調や態度には律義ななかに頼母(たのも)しい才気が閃くのだった。
 陽は殆(ほとん)ど椰子(やし)林に没して、酔い痴(し)れた昼の灼熱(しゃくねつ)から醒(さ)め際の冷水のような澄みかかるものを湛(たた)えた南洋特有の明媚(めいび)な黄昏(たそがれ)の気配いが、あたりを籠(こ)めて来た。 
 さき程から左手の方に当ってカトン岬見物の客を相手に、椰子の木に上っては、椰子の実を採って来て、若干の銭を貰っていた土人の子供の猿(ましら)のような影も、西洋人のラッパのような笑声も無くなった。さざ波が星を呼び出すように、海一面に角立っている。
 私はこの真摯(しんし)な青年の私に対する信頼に対して、もはや充分了解が出来ても、何か一言詰(なじ)らないではいられない、やや皮肉らしい気持ちで云った。
「あの娘さんも随分私にご自分の荷をかずけなさいましたが、あなたも最後の捨荷を私にかずけなさいますのね」
 そう云いながら、私は少し声を立てて笑った。それは必ずしも不平でないことを示した。
 男はちょっとどぎまぎして、私の顔を見たが、必ずしも私が不平ではない様子を見て取って、自分も笑いながら、
「やあ、御迷惑をかけたもんですなあ……でも、そういう役目も文学をやる方の天職じゃないのですか。何でもそういう人間の悩みを原料として、いつかそれを見事に再生産なさることが……」
「さあ、どうですか。……それもかなりあなたの虫の好い解釈じゃありませんか……」私はまだこんな皮肉めいたことを云い乍(なが)らも、もはや完全にこの若者に好感を感じて言葉の末を笑い声に寛(くつろ)がした。
「やあ、どうも済みませんですなあ……は、は、はは」男も充分に私の心意を感じていた。
「この広々とした海を見ていると、人間同志そのくらいな精神の負担の融通はつきそうに思えますわ」私は最後に誰に云うともなく自分ながらおかしい程頼母しげな言葉を吐いた。
 さっきからこまかい虫の集りのように蠢(うごめ)いていた、新嘉坡(シンガポール)の町の灯がだんだん生き生きと煌(きら)めき出した。日本料理店清涼亭の灯も明るみ出した。
 話し疲れた二人は暫(しばら)く黙っていた。
 波打際をゆっくりと歩いて来る娘と社長の姿が見えた。蛍の火が一すじ椰子の並木の中から流れてきた。娘は手に持っていた団扇(うちわ)をさし上げた。蛍の光はそれにちょっと絡(まと)わったが、低く外れて海の上を渡り、また高く上って、星影に紛れ込んで見えなくなった。


 私はいま再び東京日本橋箱崎川の水に沿った堺屋のもとの私の部屋にいる。日本の冬も去って、三月は春ながらまだ底冷えが残っている。河には船が相変らず頻繁に通り、向河岸の稲荷(いなり)の社には、玩具(がんぐ)の鉄兜(てつかぶと)を冠(かぶ)った可愛(かわ)ゆい子供たちが戦ごっこをしている。
 その後の経過を述べるとこうである。
 私は遮二無二新嘉坡(シンガポール)から一人で内地へ帰って来た。旅先きでの簡単な結婚式にもせよ、それを済ましたあとの娘を、直(す)ぐに木下に托(たく)するのが本筋であると思ったからである。陸に住もうが、海に行こうが、しばらくも離れずにいることが、この際二人に最も必要である。場合によってはと考えて、初から娘の旅券には暹羅(シャム)、安南、ボルネオ、スマトラ、爪哇(ジャバ)への旅行許可証をも得させてあったのが、幸だった。
 私はうすら冷たくほのぼのとした河明りが、障子にうつるこの室に座りながら、私の最初のプランである、私の物語の娘に附与すべき性格を捕捉(ほそく)する努力を決して捨ててはいない。芸術は運命である。一度モチーフに絡(から)まれたが最後、捨てようにも捨てられないのである。その方向からすれば、この家の娘への関心は、私に取って一時の岐路であった。私の初め計劃(けいかく)した物語の娘の創造こそ私の行くべき本道である。
 だが、こう思いつつ私が河に対するとき、水に対する私の感じが、殆(ほとん)ど[#「殆(ほとん)ど」は底本では「殆(ほとん)んど」]前と違っているのである。河には無限の乳房のような水源があり、末にはまた無限に包容する大海がある。この首尾を持ちつつ、その中間に於ての河なのである。そこには無限性を蔵さなくてはならない筈(はず)である。
 こういうことは、誰でも知り過ぎていて、平凡に帰したことだが、この家の娘が身を賭(か)けるようにして、河上を探りつつ試みたあの土俗地理学者との恋愛の話の味い、またその娘が遂(つい)に流れ定って行った海の果の豊饒(ほうじょう)を親しく見聞して来た私には、河は過程のようなものでありながら、しかも首尾に対して根幹の密接な関係があることが感じられる。すればこの仄(ほの)かな河明りにも、私が曾(かつ)て憧憬していたあわれにかそけきものの外に、何か確乎(かっこ)とした質量がある筈である――何かそういうものが、はっきり私に感じられて来ると、結局、私は私の物語の娘の性格の更生に、始めから私の物語を書き直す決意にまで、私の勇気を立至らしめたのである。




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