母子叙情
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著者名:岡本かの子 

しかし、男ってものは矢張り偉いのねえ」 これには流石(さすが)にむす子の鋭い小さい眼も眩(まぶ)しく瞬いて、「こりゃどうもそう真面目(まじめ)に来られちゃ挨拶(あいさつ)に困りますねえ」と、冗談らしく云って、この問題の討議打切りを宣告した。 かの女が、ほのかに匂(にお)っているオレンジに塗られたブランデーの揮発性に、けへんけへん噎(む)せながら、デザートのスザンヌを小さいフォークで喰(た)べていると、むす子がのそっと立ち上って握手をして迎える気配がした。かの女が振り向くと、さっきの片頬(かたほお)だけで笑う娘が靠(もた)れ框(がまち)の外に来ていた。「お邪魔じゃなくって」 「いいでしょう、おかあさん、この女(ひと)」 「いいですとも。さあここがいい」かの女は自分の席の傍を指した。かの女に握手をして素直にかの女の隣に坐(すわ)った娘は、 「お姉さま?」とむす子に訊(き)いた。 「ママン」むす子は簡単に答えて、その娘が気だるげにかの女に対して観察の眼を働かしている間に、むす子は母親に日本語で話した。 「この女はね。よく捨てられる女なんですよ。面白いでしょう」 今度はかの女の方が好奇の目を瞠(みは)って娘を観察していると、娘はむす子に訊いた。 「あなた、ママンに何てあたしを紹介したのです?」 「よく捨てられる女って」 それを聞くと娘は、やや興を覚えた張合いのある顔になっていった。「それは、まだ真実を語っていない。もう一度、ママンに紹介しなさい。よく男を捨てる女って」 そして、彼女はうれしそうに笑った。神秘的に悧巧(りこう)そうな影を、額から下にヴェールのように持っているこの若い娘が、そうやって笑うとき、口の中に未だ発育しない小さい歯が二三枚覗(のぞ)かれた。その歯はもう永遠に発育しないらしく、小さいままでひねこびた感じを与えた。 むす子は笑いながら娘の抗議を母親に取次いでこういった。 「こんなこといってますがね。この女は決して一ぺんでも自分から男を捨てた事はないんですよ。惚(ほ)れた男はみんなきっと事情が出来て巴里から引上げなくちゃならなくなるんです」 「どうしてなんだろう」 「どうしてですかね」 むす子は、ただしばしば男に訣(わか)れねばならなくなる運命の女であるというところに、あっさり興味を持っているようだった。 ジュジュと仲間呼びされるその娘は、だんだんむす子の母に興味を感じて来た。娘は持前のフランス語に、やや通用出来る英語を混えて、かの女と直接話すようになった。娘は相当知識的で、かの女に日本の女性の事を訊くにつけても、「ゲイシャ、それからヨシハラ、そんなもの以外にちゃんとした女がたくさんあるんでしょう」といったり、「日本の女は形式的には男から冷淡にされるけれども、内容的にはたいへん愛されるんだそうですね」といったりした。 娘は「猫のお湯屋」の絵草紙を見たことがあって、「あれがもし、日本の女たちの入る風呂の習慣としたら、同性たちと一緒に話したり慰め合ったりしながら湯に入れて、こんな便利な風呂の入り方はない」と羨(うらや)ましそうにいった。 時計は午前二時を過ぎた。攪(か)き廻(まわ)されて濃くなった部屋の空気は、サフランの花を踏み躙(にじ)ったような一種の甘い妖(あや)しい匂いに充(み)ち、肉体を気だるくさす代りに精神をしばしば不安に突き抜くほど鋭く閃(ひらめ)かせた。人と人との言葉は警句ばかりとなり、それも談話としてはほんの形式だけで、意味は身振りや表情でとっくの先に通じてしまう。廻転(かいてん)ドアの客の出入りも少くなり、その代り、詰めに詰め込んだという座席の客は、いずれもこの悪魔的の感興の時間に殉ずる一種の覚悟と横着とを唇の辺にたたえ、その気分の影響は、広間全体をどっしりと重いものに見せて来た。根のいいロシア人の即席似顔画描きが、隣のキャフェ・ル・ドームを流した後らしく、入って来て、客の気分を見計いながら、鉛筆の先と愛想笑いで頼み手を誘惑しているが、誰も相手にしない。 「さあ、とうとう、やって来た」 満腹するとすっかり子供に返ってしまって、誰とでもじゃれて遊びたい仔犬(こいぬ)のように、さっきから身体中に弾力の渦巻を転々さして、興味の眼を八方に向け放っていたむす子は、そういって、おかしさに堪え兼ねるように肩を慄(ふる)わして笑った。 さっき室内噴水のそばに席を取っていた男女の一群が、崩れかかるようにして寄って来た。 額に捲髪(カール)のあるロザリが先に立って、その次に男と腕を組んで、少し狡(ず)るそうな美しい娘のエレンが、気取って済ましてついて来た。その後に牛のような青年がまた一人いた。 かの女は、すっかりうれしくなって、全く子供の遊び友達を迎える気持で、彼等の席をつくった。  どっちも緑の褶(ひだ)が樺色(かばいろ)に光る同じ色の着物を着ていたジュジュとエレンは、むす子の左右に坐(すわ)った。そして、捲髪(カール)のロザリをかの女自身の右の並びに置き、自分の左側には小ザッパリした青年を隔てに置いて、その向うに牛のような男を坐らした。 牛のような青年は、女がたくさんいるテーブルに、同性とタブって並ばされたので、無意識にも手持無沙汰(てもちぶさた)らしく、ときどきかの女とロザリと並んでいるのを少し乗り出して横眼で見た。しかし彼女の気持からは、その男は垢(あか)っぽい感触を持ってるので、なるべく一人垣を隔てた向うへどうしても置きたかった。 そんな末梢的(まっしょうてき)なショックはあっても、来た男女に対してかの女は、全部的の好意と親しみを平等に持って仕舞った。鬼であれ蛇であれ、むす子の相手になって呉(く)れるものに、何で好感を持たずにいられようか。大家族の総領娘として育ったかの女には、いざというとき、こんな大ふうな呑(の)み込んだ度胸が出た。「イチローさん、この方たちになんでも好きな飲みものでも取ってあげなさい」 むす子がかの女の言付けを取次ぐと、めいめいおとなしく軽いアルコール性の飲みものを望んだ。 遠慮の幕一重を距(へだ)てながら、何か共通の気分にうち溶けたい願いが、めいめいの顔色に流れた。そして夜ふかしで腫(はれ)ぼったくなっためいめいの眼と眼を見合しては、飲みものの硝子(ガラス)の縁に薄く口を触れさしていた。折角、口が綻(ほころ)びかけていたジュジュも、仲間の一人に入り混ってしまうと、通り一遍の遊び女になってしまって、ただ、空疎な微笑を片頬(かたほお)に装飾するに過ぎなかった。 ちょっと広間の周囲の空気からは、ここはエアポケットに陥ったように感ぜられつつある。数分間のうちにかの女は、この群の人々とむす子との間に対蹠(たいせき)し、或は交渉している無形な電気を感じ取った。 かの女の隣にいる小ざっぱりした芸術写真師は、見かけだけ快く、内容はプーアなので、むす子に案外嘗(な)められているのかも知れない。牛のような青年は、巨獣が小さい疵(きず)にも悩み易(やす)いように、常に彼もどろんとした憂鬱(ゆううつ)に陥っている。それでむす子は、何か憐愍(れんびん)のような魅力をこの男に感ずるらしい――。 むす子は男性に対しては感受性がこまかく神経質なのに、女性に対しては割り合いに大ざっぱで、圧倒的な指揮権を持っていた。 女たちは、何かいうにも、むす子に対して伏目になり、半分は言訳じみた声音で物を云った。それに対してむす子は、何等情を仮さないと云った野太い語調で答えた。それは答えるというよりも、裁く態度だ。裁判官の裁きの態度よりも、サルタンの熱烈で叱責的(しっせきてき)な裁き方だ。そういえば、かの女は思い起したことがある。日本にいる時から、この子供は女性から一種の怯(おび)えをもって見られていた。かの女の周囲に往来する夫人や娘たちは云った。「イチローさんは、何だか女の気持を見抜いているような眼をした子供さんね。子供さんでも、あのお子さんに何か云われると、仕舞いに泣かされちまうわ。怖いわ」 そう云いながら、彼女達は家へ来るとイチローさんイチローさんとしきりに探し求めた。 なぜだろうか。それはかの女にも原因があるのではないかと、かの女は考えた。 かの女は、むす子が頑是ない時分から、かの女の有り剰(あま)る、担い切れぬ悩みも、嘆きも、悲しみも、恥さえも、たった一人のむす子に注ぎ入れた。判っても、判らなくても、ついほかの誰にも云えない女性の嘆きを、いつかむす子に注ぎ入れた。頑是ない時分のむす子は、怪訝(けげん)な顔をして「うん、うん」と頷(うなず)いていた。そしてかの女の泣くのを見て、一緒に泣いた。途中で欠伸(あくび)をして、また、かの女と泣き続けた。 稚純な母の女心のあらゆるものを吹き込まれた、このベビー・レコードは、恐らく、余白のないほど女心の痛みを刻み込まれて飽和してしまったのではあるまいか。この二十歳そこらの青年は、人の一生も二生もかかって経験する女の愛と憎みとに焼け爛(ただ)らされ、大概の女の持つ範囲の感情やトリックには、不感性になったのではあるまいか。そう云えば、むす子の女性に対する「怖いもの知らず」の振舞いの中には、女性の何もかもを呑み込んでいて、それをいたわる心と、諦(あきら)め果てた白々しさがある。そして、この白々しさこそ、母なるかの女が半生を嘆きつくして知り得た白々しさである。その白々しさは、世の中の女という女が、率直に突き進めば進むほど、きっと行き当る人情の外れに垂れている幕である。冷く素気なく寂しさ身に沁(し)みる幕である。死よりも意識があるだけに、なお寂しい肌触りの幕である。女は、いやしくも女に生れ合せたものは、愛をいのちとするものは、本能的に知っている。いつか一度は、世界のどこかで、めぐり合う幕である。むす子の白々しさに多くの女が無力になって幾分諛(へつら)い懐しむのには、こういう秘密な魔力がむす子にひそんでいるからではあるまいか。そしてこの魔力を持つ人間は、女をいとしみ従える事は出来る。しかし、恋に酔うことは出来ない。憐(あわ)れなわが子よ。そしてそれを知っているのは母だけである。可哀相(かわいそう)なむす子と、その母。「サヴォン・カディウム!」とエレンが、小さい鋭い声で反抗した。 むす子はエレンが内懐から取出して弄(もてあそ)び始めようとしたカルタを引ったくって取上げて仕舞ったのである。「サヴォン・カディウム! サヴォン・カディウム!」ロザリも、おとなしいジュジュまでが立ちかかって手を出した。 むす子は可笑(おか)しさを前歯でぐっと噛(か)んで、女たちの小さい反抗を小気味よく馬耳東風に聞き流すふりをしている。「何ですの。サヴォン・カディウムって」とかの女はちょっと気にかかって左隣の芸術写真師に訊(き)いた。「ママンにサヴォン・カディウムを訊かれちゃった」明朗な写真師の青年は、手柄顔に一同に披露した。 女たちは、タイラントに対する唯一の苛めどころが見付かったというように、「さあ、ママンに話そうかな、話すまいかな」と焦(じ)らしにかかった。「ひょっとしてそれがむす子の情事に関する隠語ではあるまいか」こういう考えがちらりと頭に閃(ひらめ)くと、かの女は少し赫(あか)くなった。「訊かない方がよかった」「しかし訊き度(た)い」「何でもないじゃないか」とむす子はフランス語で女たちを窘(たしな)めて置いて、今度はかの女に日本語でいった。「カディウム・サヴォンというシャボンの広告が町の方々に貼(は)ってあるでしょう。あれについてる子供の顔が僕に似てるというんです。随分僕を子供っぽく見てるんですね」 それから、むす子は女たちの方を向いて同じ意味の事をフランス語でいって、付け足した。「こうママンに説明したんだが、誰か異議があるか」 女たちは詰らない顔をした。かの女も詰らない顔をした。「サヴォン・カディウム!」今度はかの女が突然、むす子に向ってこう呼びかけた。それは確にこの場の打切りになった感興の糸目を継ぐために違いなかったが、かの女は無意識に叫び出して仕舞ったのである。そこにはもう、何も彼も忘れて、子供をからかえる素朴な母になって、春の一夜を過したいかの女が在るばかりだった。 すると憂鬱に黙っていた牛のような青年が、何を感じたか、むっつりした声で怒鳴った。「ママン、万歳!」「この男はアルトゥールと云って、独逸(ドイツ)が混ってるフランス人ですがね」とむす子は日本語がみんなに判らぬのを幸い、かの女に露骨に説明した。「いい思いつきを持ってる店頭建築の意匠家ですがね。何か感激したものを持たないと決して仕事をしないのです。つまり恋なのですが、随分七難かしい恋愛を求めてるんです。僕のみるところでは、姉とか母とかの愛のようなものを恋愛によそえて求めてるようなのですが、当人は飽くまでもただの恋愛だといって頑張ってるんです。西洋人の中には随分独断の奴が多いのです。自分の考えていることを一々実際にやってみて、行き詰って額をぶつけてからでないと承知しないのです。このアルトゥールもその一人ですが、そんな理ですから、また、この男くらい恋愛を簡単に女に投げかけてみて、そして深刻に失敗した奴も少いでしょう。つまり、こいつぐらい恋愛の場数を踏みながら、まだ恋愛の一年生にとまっている奴も少いでしょう」「じゃ、一郎はもう卒業生なの」「まあ、黙って。そこで、おかしい事があるんです。このアルトゥールがどこで女に失敗するかというと、その熱心さがあんまり気狂い染(じ)みているというんです。ここにいるロザリもエレンも、一度はその気狂い染みた恋愛の相手になったのですが、女たちの話を訊(き)くと、甘えて卑(へ)り下ってしようがないというんです。恋人を実際生活の上でほんとの女神扱いにするんだそうです。希臘神話(ギリシアしんわ)に出て来るようなへんな着物を拵(こしら)えて女に着せて、バラの冠を頭に巻かして自分はその傍に重々しく坐(すわ)っている。まあ、そんな調子です」「それから奇抜なのは、そういう恋愛を得た時、この男のインスピレーションは高められて、しっしと、引受けた店頭建築の意匠を捗(はかど)らせて見事な仕事をするのですが、出来上った店頭装飾建築には、一々そのときの恋人の名前をつけるんです。エレンのポーチとか、ロザリのアーチとか。そして、その完成祝いには恋人の女神を連れて来て初入店の式をさせるのです。その希臘神話風の服装で」「女は、殊に西洋人の女は、決してそういう扱いを嫌いなわけではありません。大好きです。それで、暫時は有頂天になっていますが、結局は空虚の感じに堪えられなくなるというんです。なぜでしょう」「それは総てを与えても、結局は男が女に与うべきものを与えないからでしょう」かの女は即座に答えた。エゴイズムの男。そして自分でもそのエゴイズムに気がつかない男。かの女の結婚生活の前半の嘆き苦しみの原因もまた、そこに在ったのではなかったか……。「そうでしょうか、そうかも知れませんね」「パパとアルトゥールとまるっきり違うけど……私思い出したわ。ほらあんた子供のとき、パパと新しく出来た船のお客に二人だけで呼ばれてって、二三日ママと訣(わか)れてたことがあったでしょう。帰って来て、矢庭にママにぶら下がって泣き出したね。何故だか人中でパパと暮すと、とても寂しくてやり切れないって……」 むす子は遠い過去の実感に突き当って顔が少し赫(あか)くなったのを、ビールを口へ持って行って和めた。「パパは、はやりっ子になりたてでしたね。あの時分、世間だの仕事だのが珍しくって面白くって堪(たま)らない一方だったんですね……あの時分からみると、パパは生れ代ったような人になりましたね」「ほんとうに、あなたにも私にも勿体(もったい)ないようなパパ……今のようなパパだと、昔のことなんか気の毒で云えないね」こう云い乍(なが)らかの女は、仕事の天分ばかりあって人間同志の結び目を知らないで恋人に逃げられてばかりいるアルトゥール青年を、悲喜劇染みた気持で見返した。「あの青年はどういう育ちの人」「さあ、そいつはまだ聞きませんでしたが、ときどき打っても叩(たた)いても自分の本当の気持は吐かないという依估地(いこじ)なところを見せることがありますよ。そして僕がそれをそういってやっても、はっきりは判らないらしいんです。つまり単純な天才なんですね。そこへ行くとパパは話せる。あんな天才生活時代の前生涯と、今のプライヴェート生活のような親密な性情と両面持っている……」 かの女とむす子がプライヴェートな会話に落ちこんでいると見たらしく、アルトゥールは非常に軽快なアクセントで、他の連中に講演口調で喋(しゃべ)っていた。「白のニッケル、マホガニー材、蝋色(ろういろ)の大理石、これだけあれば、俺はどんな感情でも形に纏(まと)めてみせるね。どんな繊細な感情でもだぞ」「恋愛はその限りに非(あら)ずか」 芸術写真師は傍から揶揄(からか)った。「そんなことはない」とアルトゥールは写真師を噛(か)むように云ったが、すぐ興醒(きょうざ)め声になっていった。「だが恋愛に関する限り、たとえば、嫉妬(しっと)だとか憎みだとかいうものは、生活に暇があって感情を反芻(はんすう)する贅沢(ぜいたく)者たちの取付いている感情だ。おれたち忙しい人間は感情は一渦紋で、収支決算をつけて、決して掛勘定にしとかない。感情さえ現金(キャッシュ)払いだ。現実から現実へ飛び移って行くんだ。嫉妬だとか、憎みだとかいうものは、感情に前後の関係を考える歴史趣味だ」 アルトゥールの云うこととは別の中味は、もう二重になっていて、云ってる意味と違ったものを隠しているようだった。心に臆(おく)したものがあって、そういう他人と深い交渉をつける膠質の感情は、はじめからこの男には芽も無いらしい。 大広間一面のざわめきが精力を出し切って、乾き掠(かす)れた響を帯び、老芸人の地声のように一定の調子を保って、もう高くも低くもならなくなった。天井に近く長い二流三流の煙の横雲が、草臥(くたび)れた乳色になって、動く力を失っている。 靠(もた)れ框(がまち)の角の花壺(はなつぼ)のねむり草が、しょうことなしに、葉の瞼(まぶた)を尖(さき)の方から合せかけて来た。 壁の前に、左の腕にナフキンをかけて彫刻のように突立っているギャルソンの頭が、妙に怪物染みて見える。「みんな、この子と仲好くしてやって下さいね」かの女はグループを見廻(みまわ)してそういった。「たのみますよ」 時に、かの女のいるテーブルの反対側の広間から、俄(にわか)に鬨(とき)の声が挙って、手擲弾(てなげだん)でも投げつけたような音がし出した。かの女はぴくりとして怯(おび)えた。同じくびっくりした壁の前のギャルソンは、急いでその方へ駆けて行ったが、すぐ一抱えにクラッカーの束を持って来て、テーブルの上へ投げ出した。 謝肉祭(カルナヴァル) もう、そのとき、クラッカーを引き合って破裂させる音は、大広間一面を占領し、中から出た玩具の鳴物を鳴らす音、色テープを投げあうわめき、そしてそこでも、ここでも、※々(きき)として紙の冠(かぶ)りものを頭に嵌(は)めて見交し合う姿が、暴動のように忽(たちま)ち周囲を浸した。「おかあさん、何? 角笛(ホーン)、これ代えたげる冠りなさい」 うねって来る色テープの浪。繽紛(ひんぷん)と散る雪紙の中で、むす子は手早く取替えて、かの女にナポレオン帽を渡した。かの女は嬉(うれ)しそうにそれを冠った。ジュジュ以外のものも、銘々当った冠りものを冠った。ジュジュには日本の毛毬(けまり)が当った。 活を入れられて情景が一変した。広間は俄(にわか)に沸き立って来た。新しい酒の註文にギャルソンの駆(は)せ違う姿が活気を帯びて来た。 かの女はすっかりむす子のために、むす子のお友達になって遊ばせる気持を取戻し、ただ単純に投げ抛(う)ったりしているジュジュの手毬(てまり)を取って、日本の毬のつき方をして見せた。  ほうほうほけきょの  うぐいすよ、うぐいすよ  たまたま都へ上るとて上るとて  梅の小枝で昼寝して昼寝して  赤坂奴(やっこ)の夢を見た夢を見た。 かの女はこういうことは案外器用であった。手首からすぐ丸い掌がつき、掌から申訳ばかりの蘆(あし)の芽のような指先が出ているかの女のこどものような手が、意外に翩翻(へんぽん)と翻(ひるがえ)って、唄(うた)につれ毬をつき弾ませ、毬を手の甲に受け留める手際は、西洋人には珍しいに違いなかった。「オオ! 曲芸(シルク)!」 彼等は厳粛な顔をしてかの女のつく手を瞠(みい)った。 かの女はまた、毬をつき毬唄を唄っている間に、ふと、こんなことを思い泛(うか)べた。毬一つ買ってやれず、むす子を遊ばせ兼ねたむかし、そして、むす子が二十になって、今むす子とその友達のために毬唄をうたう自分。憎い運命、いじらしい運命、そしてまたいつのときにかこの子のために毬をつかれることやら――恐らく、これが最後でもあろうか。すると、声がだんだん曇って来て、涙を見せまいとするかの女の顔が自然とうつ向いて来た。 むす子は軽く角笛に唇を宛(あ)て、かの女を見守っていた。 女たちが代って覚束(おぼつか)なく毬をつき習ううち、夜は白々と明けて来た。窓越しにマロニエの街路樹の影が、銀灰色の暁の街の空気から徐々に浮き出して来た。 室内の人工の灯りが徐々に流れ込んで、部屋を浸す暁の光線と中和すると、妙に精の抜けた白茶けた超現実の世界に器物や光景を彩り、人々は影を失った鉛の片(きれ)のようにひらぺたく見える。 かの女は今ここに集まった男女が遊び女であれ、やくざ男であれ、自分の巴里(パリ)を去った後に、むす子の名を呼びかけて呉(く)れるものは、これ等の人々であるのを想(おも)えば、なつかしさが込み上げて来る。かの女は儚(はかな)い幻影に生ける意志を注ぎ込むような必死な眼差(まなざ)しで、これ等の人々を見渡した。 或る夜のかの女――今夜もかの女は逸作と銀座に来てモナミのテーブルに坐(すわ)っていたが、三四十分で椅子(いす)から立ち上った。「さあ、行きましょう。外が大ぶ賑(にぎ)やかになりましたわ」 逸作は黙って笑いながら、かの女のだらしなく忘れて行く化粧鞄を取って後に従(つ)いて出た。 瞬き盛りの銀座のネオンは、電車通の狭谷を取り籠(こ)めて四方から咲き下す崖(がけ)の花畑のようだ。また、谷に人を追い込めて、脅かし誑(たぶら)かす妖精群のようにも見えた。 目をつけるとその一人一人に特色があって、そしてまた、特にこれが華やかとも思えない男女が、むらな雨雲のように押し合って塊ったり、意味なく途切れたりしつつ、大体の上では、町並の側と車道の側との二流れに分れて、さらさらと擦れ違って行く。すると、それがいかにも歓(よろこ)びに溢(あふ)れ、青春を持て剰(あま)している食後の夜の町のプロムナードの人種になって、特に銀座以外には見られぬ人種になって、上品で綺羅(きら)びやかな長蛇のような帯陣をなして流れて行く。「やあ」「よう!」「うまくやってる」「どうしたん?」「しばらく」 きれぎれに投げ散らされるブールヴァル言葉が、足音のざわめきにタクトされつつ、しきりなしに乱れ飛ぶ。扇屋、食料品店、毛皮店、組紐屋(くみひもや)、化粧品屋、額縁店等々の店頭の灯が人通りを燦めかせつつ、ときどきの人の絶え間に、さっとペーヴメントの上へ剰り水のように投げ出される。 いつか、人混の中へ織り込まれていたかの女は、前後の動きの中に入って却(かえ)って落着いた。「藻掻(もが)いてもしようがない。随(つ)いて行くまでだ」都会人に取って人混は運命のような支配力を持っていた。薄靄(うすもや)を生海苔(なまのり)のように町の空に引き伸して高い星を明滅させている暖かい東南風が一吹き強く頬(ほお)に感ずると、かの女は、新橋際まで行ってそこから車に乗り、早く家へ帰り度(た)いというさっきからの気持は、人ごとのように縁の遠いものとなり、くるりと京橋の方へ向き直り、風の流れに送られて、群衆の方向に逆いながらまたそろそろ歩き出した。 思考力をすっかり内部へ追い込んでしまったあとの、放漫なかの女の皮膚は、単純に反射的になっていて、湿気(しっけ)た風を真向きに顔へ当てることを嫌う理由だけでも、かの女にこんな動き方をさせた。 本能そのもののようにデリケートで、しかし根強い力で動くかの女の無批判な行動を、逸作はふだんから好奇の眼で眺め、なるべく妨げないようにしていた。それで、かの女の転回を注意深く眼で追いながら、柳の根方でポケットから煙草(たばこ)を取り出して火を喫(す)いつけ、それから游(およ)ぐ子を監視する水泳教師のように、微笑を泛べながら二三間後を離れて随いて行った。 無意志で歩いているかの女も、さすがにときどきは人に肩を衝(つ)かれ、またぱったり出会って同じ除(よ)け方をして立竦(たちすく)み合う逆コースを、だんだん煩わしく感じて来た。いつか左側の店並の往きの人の流れに織り込まれていた。すると同じ頃合いに、逆コースから順コースの人込みに移ったらしい学生の後姿が五六のまばらの人を距(へだ)てて、かの女の眼の前にぽっかり新しく泛んだ。「あっ、一郎」 かの女は危く叫びそうになって、屹(きっ)と心を引締めると、身体の中で全神経が酢を浴びたような気持がした。次に咽喉(のど)の辺から下頬が赫(あか)くなった。 何とむす子の一郎によく似た青年だろう。小柄でいながら確(しっか)りした肉付の背中を持っていて、稍々(やや)左肩を聳(そび)やかし、細(ほっ)そりした頸(くび)から顔をうつ向き加減に前へ少し乗り出させながら、とっとと歩いて行く。無造作に冠(かぶ)った学生帽のうしろから少しはみ出た素直な子供ぽい盆の窪(くぼ)の垂毛まで、一郎に何とよく似た青年だろう。すると、もう、むす子特有のしなやかで熱いあの体温までが、サージの服地にふれたら直(す)ぐにも感じられるように思われた。 かの女の神経は、嘘(うそ)と知りつつ、自由で寛闊(かんかつ)になり、そしてわくわくとのぼせて行った。「パパ、一郎が……ううん、あの男の児が……そっくりなの一郎に……パパ……」「うん、うん」「あの子にすこし、随いてって好い?」「うん」「パパも来て……」「うん」 かの女は忙しく逸作に馳け寄ってこういう間も、眼は少年の後姿から離さず、また忙しく逸作から離れ、逸作より早足に少年の跡を追った。 美術学校の帰りにむす子は友達と、ときどきモナミへ来て、元気な画論なぞした。そして出て行ったあと、偶然すぐかの女たちがそこへ入って行くと、馴染(なじみ)のボーイは急いで言った。「坊ちゃんが、坊ちゃんが、いますぐ、出て行かれました。間に合いますよ」 むす子の気配が移ったように、ボーイ達も明るく元気な声を出した。 格別呼び返すほどのことも無いと思いながら、やっぱりかの女は駆けて往来へ出て見る。友達と簡単な挨拶(あいさつ)を交して、とっとと家路へ急ぐ、むす子の後姿が向うに見えた。かの女はあわてて呼び返した。 むす子は表通りの人中で家の者に会うと、ちょっと気まりの悪い顔をして、ろくな挨拶もしなかった。それでいて、なつかしそうな眼つきをちらりと見せた。 わけて彼女と人中で会うのは苦手らしかった。かの女の方もどうかしてか、とても気まり悪かった。それで、「へへん」と田舎娘のような笑い方をして、まじまじむす子を見入っていると、むす子は眼を外らし、唇の笑いを歯で噛(か)んでいった。「また、羽織を曲げて着てますね。だらしのない」 これがかの女に対する肉親の情の示し方だった。 むす子はかの女と連れ立って歩くときに、ときどき焦(じ)れて「遅いなあ、僕先へ行きますよ」と、とっとと歩いて行く。そして十間ばかり先で佇(たたず)んで知らん顔で待ち受けていた。 むす子は稍々(やや)内足で学生靴を逞(たくま)しくペーヴメントに擦(こす)り叩(たた)きながら、とっとと足ののろい母親を置いて行く。ラッパズボンの後襞(うしろひだ)が小憎らしい。それは内股から外股へ踏み運ぶ脚につれて、互い違いに太いズボン口へ向けて削(そ)ぎ下った。「薄情、馬鹿、生意気、恩知らず――」 こんな悪たれを胸の中に沸き立たせながら、小走りになってむす子を追いかけて行くとき、かの女の焦(いら)だたしくも不思議に嬉(うれ)しい気持。 今一二間先に行く青年の足は、それほどの速さではないが、やはりかの女がときどき小走りを加えて歩かなければ、すぐ距離は延びそうだった。そして小走りの速度がむす子を追うときのピッチと同じほどになると、不思議にむす子を追うときの焦々した嬉しさがこみ上げて来て、かの女は眼に薄い涙を浮べた。 かの女は感覚に誑(たぶらか)されていると知りつつも、青年のあとを追いながら明るい淋しい楽しい気持になるのをどうにも仕様がなかった。 その青年は、むす子が熱心に覗(のぞ)くであろう筈(はず)の新しい縞柄(しまがら)が飾ってある洋服地店のショウウインドウや、新古典の図案の電気器具の並んでいるショウウインドウは気にもかけずに、さっさと行き過ぎた。その代り食物屋の軒電灯の集まっている暗い路地の人影を気にしたり、カフェの入口の棕梠竹(しゅろだけ)を無慈悲に毟(むし)り取ったりした。それがどうやら田舎臭い感じを与えて、かの女に失望の影をさしかけた。高い暗い建物の下を通るときは、青年はやや立ち止って一々敵対するように見上げた。横町を越す度毎に、人の塊と一緒に待ち合して通らず、一人ゆっくり横柄に自動車のヘッドライトの中を歩いて自動車の警笛を焦立たせた。かの女はその度に、「よして呉(く)れればいいに、野蛮な」と胸で呟(つぶや)き、そしてそのあとに、一郎とわざと口に出して呟いた。その人でない俤(おもかげ)をその人として夢みて行き度(た)い願いは、なかなか絶ち難い。 左右の電車線路を眺め渡して、越すときだけ彼女を庇(かば)うように片手を背後に添えていた逸作は、かの女がまるで夢遊病者のようになって「似てるのよ、あの子一郎に似てるのよ」などと呟きながら、どこまでも青年のあとに随(つ)き、なおも銀座東側の夜店の並ぶ雑沓(ざっとう)の人混へ紛れ入って行くのを見て、「少し諄(くど)い」と思った。しかし「珍しい女だ」とも思った。そして、かの女のこのロマン性によればこそ、随分億劫(おっくう)な世界一周も一緒にやり通し、だんだん人生に残り惜しいものも無くなったような経験も見聞も重ねて、今はどっちへ行ってもよいような身軽な気持だ。それに較(くら)べて、いつまでも処女性を持ち、いつになっても感情のまま驀地(まっしぐら)に行くかの女の姿を見ると、何となく人生の水先案内のようにも感じられた。そこでまた柳の根方に片足かけ、やおら二本目の煙草(たばこ)を喫(す)ってから、見残した芝居の幕のあとを見届ける気持で、半町ほど距(へだた)った人混の中のかの女を追った。 銀座の西側に較(くら)べて東側の歩道は、東京の下町の匂(にお)いが強かった。柳の青い幹に電灯の導線をくねらせて並んで出ている夜店が、縁日らしいくだけた感じを与えた。込み合う雑沓の人々も、角袖(かくそで)の外套(がいとう)や手柄(てがら)をかけた日本髷(にほんまげ)や下町風の男女が、目立って交っていた。 人混を縫って歩きながら夜店の側に立ち止ったり、青年の進み方は不規則で乱調子になって来た。そして銀座の散歩も、もう歩き足り、見物し足りた気怠(けだ)るさを、落した肩と引きずる靴の足元に見せはじめた。けれども青年はもっと散歩の興味を続け、又は、より以上の興味を求め度いらしく、ズボンのポケットへ突込んだ両手で上着をぐっとこね上げ、粗暴で悠々した態度で、街を漁(あさ)り進んだ。 歩き方が乱調子になって来た青年の姿を見失うまいとして、かの女は嫌でも青年に近く随いて歩かねばならなかった。そして人だかりのしている夜店は意地になっても見落すまいとして、行き過ぎたのを小戻りさえする青年の近くにうろうろする洋装で童顔のかの女が、青年にだんだん意識されて来た。青年は行人を顧みるような素振りを装いながら、かの女の人柄や風態を見計うことを度々繰り返すようになった。 離れて彼女を援護して行く逸作の方が、先に青年の企(たくら)みある行動を気取って、おかしいなと思った。しかし、かの女はすっかり青年の擬装の態度に欺かれて、人事のようにすましてただ立ち止っていた。たまたま閃(ひらめ)きかける青年の眼差(まなざ)しに自分の眼がぶつかると、見つけられてはならないと、あわてて後方へ歩き返した。 青年のまともの顔が見られる度に、かの女は一剥(ひとは)ぎずつ夢を剥がれて行った。それはむす子とは全然面影の型の違った美青年だった。蒸気(むしけ)の陽気に暑がって阿弥陀(あみだ)冠(かぶ)りに抜き上げた帽子の高庇(たかびさし)の下から、青年の丸い広い額が現われ出すと、むす子に似た高い顎骨(あごぼね)も、やや削げた頬肉(ほおにく)も、つんもりした細く丸い顎も、忽(たちま)ち額の下へかっちり纏(まとま)ってしまって、セントヘレナのナポレオンを蕾(つぼみ)にしたような駿敏(しゅんびん)な顔になった。張って青味のさした両眼に、ムリロの描いた少女のような色っぽい露が溜(たま)っていた。今は唇さえ熱く赤々と感じられて来た。「なんという間違いをしたものだろう」 むす子に対する憧れが突然思いもかけぬ胸の中の別の個所から厳粛というほどの真率さでもって突き上げてきた。そしてその感情と、この眼の前の媚(なまめ)かしい青年に対する感覚だけの快さとが心の中に触れ合うと、まるで神経が感電したようにじりり[#「じりり」に傍点]と震え痺(しび)れ、石灰の中へ投げ飛ばされたような、白く爛(ただ)れた自己嫌悪に陥った。 かの女は目も眩(くら)むほど不快の気持に堪えて歩いて行くと、やがて二つの感情はどうやら、おのおのの持場持場に納まり、沖の遠鳴りのような、ただうら悲しい、なつかしい遣瀬(やるせ)なさが、再びかの女を宙の夢に浮かして群衆の中を歩かした。 ぱらぱらと雨が降り出して来た。町角の街頭画家は脚立をしまいかけていた。いや、雨気はもっと前から落ちて居たのかも知れない。用意のいい夜店はかなり店をしまって、往来の人もまばらに急ぎ足になっていた。 灯という灯はどれも白蝋(はくろう)のヴェールをかけ、ネオンの色明りは遠い空でにじみ流れていた。 今度は青年の方から距離を調子取って行くので、かの女は青年にはぐれもせず、濡(ぬ)れて電車線路の強く光る尾張町を再び渡った。 慾も得もない。ただ、寂しい気持に取り残され度くない。ただそれだけの熱情にひかれて、かの女は青年のあとについて行った。後姿だけを、むす子と思いなつかしんで行くことだ。美青年に用はない。 新橋際まで来て、そこの電車路を西側に渡った。かの女は殆(ほとん)どびしょ濡(ぬ)れに近くなりながら、急に逸作の方を振り向くと、いつもの通り少しも動ぜぬ足どりで、雨のなかを自分のあとから従(つ)いて来る。その端麗な顔立ちが、雨にうっすりと濡れ、街の火に光って一層引締って見える。彼女は非常な我儘(わがまま)をしたあとのような済まない気持になりながら、ペーヴメントの角に靴の踵(かかと)を立てて、逸作の近づいて来るのを待つつもりでいると、もう行き過ぎて見えなくなったと思った青年が、角の建物の陰から出て来てかの女にそっと立ち寄って来た。そして不手際にいった。「僕に御用でしたら、どこかで御話伺いましょう」 かの女は呆(あき)れて眼を見張った。まだ子供子供している青年の可愛気(かわいげ)な顔を見た。青年は伏目になって、しかし、意地強い恥しげな微笑を洩(もら)した。かの女は何と云い返そうかと、息を詰めた途端に、急に得体も知れない怯(おび)えが来た。 かの女は「パパ!」といって折よく来た逸作の傍へ馳け寄った。 あなたはO・K夫人でいらっしゃいましょう。僕は一昨夜あなたに銀座であとをつけられた青年です。僕は初め、何故女の人が僕について来るのかと不思議だったのです。それが更に世に名高いO・K夫人らしいのに驚き、最後にあれだけでお別れして仕舞うのが惜しくて堪(たま)らなくなったはずみ[#「はずみ」に傍点]で、思わず言葉をおかけしました。するとあなたは恰(あたか)も不良青年にでもおびやかされた御様子で、逸作先生(僕はあの方があなたの御主人で画家丘崎逸作先生だと直(す)ぐ判りました)の方へお逃げになりました。僕には何もかも不思議なのです。しかもあなたがお逃げになったあと、僕は一人で家へ帰りながら、どうしてもまたあなたにお目にかかりたくて仕方がなくなり、今でもその気持で一ぱいです。僕はあなたが有名な女流作家であるからとか、年長の美しい婦人に興味を持つとか、単なるそんな意味ばかりではなし、何故あなたのような方が、あの晩、あんな態度で僕をおつけになり、最後に僕を不良青年かなぞのように恐れてお逃げになったか、その意味が伺い度(た)いのです。 こんな意味の手紙。これは銀座でそのことがあって一日おいて来た、あのナポレオン型の美青年からの手紙であった。かの女はその手紙に対してどういう返事を出して好いか判らなかった。何となく懐しいような、馬鹿らしいような、煩わしいような恥らわしい自己嫌悪にさえかかって、そのまま手紙を二三日放って置いた。 いくらか習わされた良家的の字には違いないが、生来の強い我(が)が躾(しつけ)の外へはみ出していて、それが却(かえ)って清新な怜悧(れいり)さを表わしているといった字体で、それ以後五六本の手紙がかの女に来た。字劃(じかく)や点を平気で増減していて、青年期へ入ったばかりの年齢の現代の若ものに有り勝ちな、漢字に対する無頓着(むとんちゃく)さを現わしていたが、しかし、憐(あわ)れに幼稚なところもあった。名前は春日規矩男と書いてあった。 書面の要求は初めの手紙と同じ意味へ、返事のないのに焦(じ)れた為か、もっと迫った気持の追加が出来て、銀座で接触したのを機縁として、唯(ただ)むやみにもう一度かの女に会い度いという意慾の単独性が、露骨に現われて来ていた。 文筆を執ることを職業として、しじゅう名前を活字で世間へ曝(さ)らしているかの女は、よくいろいろな男女から面会請求の手紙を受取る。それ等を一々気にしていては切りがない――と、かの女は狡(ずる)く気持の逃避を保っていた。けれども青年の手紙の一つより一つへと、だんだんかの女の心が惹(ひ)かれてはいた。かの女はあの夜の自分の無暗な感情的な行為に自己嫌悪をしきりに感じるのであるけれど、実際は普通の面会請求者と違って、これはかの女の自分からアクチーヴに出た行為の当然な結果として、かの女としてもこの手紙の返事を書くべき十分の責任はある。かの女はやがてそこに気づくと、青年に対する負債らしいものを果す義務を感じた。けれども、それはやや感情的に青年に惹かれて来ているかの女の自分に対する申訳であって、なにもかの女がほんとうに出し度くない返事なら出さなくて宜い、本当に逢(あ)い度くないなら逢わなくても好いものをと、かの女の良心への恥しさを青年に対する義務にかこつけようとするのを意地悪く邪魔する心があり、かの女はまた幾日か兎角(とかく)しつつ愚図愚図していた。するとまた或日来た青年の手紙は強請的な哀願にしおれて、むしろかの女の未練やら逡巡(しゅんじゅん)やらのむしゃむしゃした感情を一まとめにかき集めて、あわや根こそぎ持ち去って行きそうな切迫をかの女に感じさせた。それが何故かかの女を歯切れの悪い忿懣(ふんまん)の情へ駆り立てた。 「馬鹿にしてる。一ぺんだけ返事を出してよく云って聞かしてやりましょうか」 縺(もつ)れ出しては切りのないかの女の性質を知っている逸作は言下に云った。「考えものだな。君は自分のむす子に向ける感情だけでも沢山だ。けどこないだ[#「こないだ」に傍点]の晩は君の方から働きかけたんだから逢ってやっても好いわけさね」 彼女は結局どうしようもなかった。こだわったまま妙な方面へ忿懣を飛ばした。――少くともかかる葛藤(かっとう)を母に惹起(じゃっき)させる愛憐(あいれん)至苦のむす子が恨めて仕方がなかった。何も知らずに巴里(パリ)の朝に穏かに顔を洗っているであろうむす子が口惜しく、いじらしく、恨めしくて仕方なかった。  半月ばかりたった。かの女はあまり青年の手紙が跡絶(とだ)えたので、もうあれが最後だったのかと思って、時々取り返しのつかぬ愛惜を感じ、その自分がまた卑怯(ひきょう)至極(しごく)に思われて、ますます自己嫌悪におちいっているところへ、ひょっこりとまた手紙が来た。「僕だけでお目にかかれないとなれば、僕の母にも逢ってやって下さい。僕等は親子二人であなたから教えて頂き度いことがあるんです。頼みます」 この手紙には今までと違って、何か別に撃たれるところのものがあった。それに遠く行き去った愛惜物が突然また再現したような喜悦に似た感情が、今度は今迄のすべての気持を反撥(はんぱつ)し、極々単純に、直ぐにも逢う約束をかの女にさせようとした。逸作も青年の手紙を一瞥(いちべつ)して、「じゃまあ逢って見るさ。字の性質(たち)も悪くないな」 急にかの女の眼底に、銀座の夜に見たむす子であり、美しい若ものである小ナポレオンの姿が、靉靆朦朧(あいたいもうろう)と魅力を帯びて泛(うか)び出して来た。かの女はその時、かの女の母性の陰からかの女の女性の顔が覗(のぞ)き出たようではっとした。だが、さっさと面会を約束する手紙を青年に書きながら、そんな気持にこだわるのも何故かかの女は面倒だった。 フリジヤがあっさり挿されたかの女の瀟洒(しょうしゃ)とした応接間で、春日規矩男にかの女は逢った。かの女の手紙の着いた翌晩、武蔵野の家から、規矩男は訪ねて来たのであった。部屋には大きい瓦斯(ガス)ストーヴがもはやとうに火の働きを閉されて、コバルト色の刺繍(ししゅう)をした小布を冠(かぶ)されていた。かの女が倫敦(ロンドン)から買って帰ったベルベットのソファは、一つ一つの肘(ひじ)に金線の房がついていた。スプリングの深いクッションへ規矩男は鷹揚(おうよう)な腰の掛け方をした。今夜規矩男は上質の薩摩絣(さつまがすり)の羽織と着物を対に着ていた。柄が二十二の規矩男にしては渋好みで、それを襯衣(シャツ)も着ずにきちんと襟元を引締めて着ている恰好(かっこう)は、西洋の美青年が日本着物を着ているように粋(いき)で、上品で、素朴に見えた。かの女は断髪を一筋も縮らせない素直な撫(な)でつけにして、コバルト色の縮緬(ちりめん)の羽織を着ている。――何という静かな単純な気持――そこには逢わない前のややこしい面倒な気持は微塵(みじん)も浮んで来なかった。一人の怜悧(れいり)な意志を持つ青年と、年上の情感を美しく湛(たた)えた知識婦人と――対談のうちに婦人は時々母性型となり、青年はいくらかその婦人のむす子型となり――心たのしいあたたかな春の夜。そうした夜が三四日おきに三四度続くうち、かの女は銀座で規矩男のあとをつけた理由を規矩男に知らせ、また次のような規矩男の身の上をも聞き知った。 外交官にしては直情径行に過ぎ、議論の多い規矩男の父の春日越後は、自然上司や儕輩(さいはい)たちに好かれなかった。駐在の勤務国としてはあまり国際関係に重要でない国々へばかり廻(まわ)されていた。 任務が暇なので、越後は生来好きであった酒にいよいよ耽(ふけ)ったが、彼はよく勉強もした。彼は駐在地の在留民と平民的に交際(つきあ)ったので、その方の評判はよかった。国際外交上では極地の果に等しい小国にいながら、目を世界の形勢に放って、いつも豊富な意見を蓄えていた。求められれば遠慮なくそれを故国の知識階級へ向けて発表した。この点ジャーナリストから重宝がられた。任官上の不満は、彼の表現を往々に激越な口調のものにした。 国々を転々して、万年公使の綽名(あだな)がついた頃、名誉大使に進級の形式の下に彼は官吏を辞めさせられた。二三の新聞雑誌が彼のために遺憾の意を表した。他のものは、彼もさすがにもう頭が古いと評した。 彼は覚悟していたらしく、特に不平を越してどうのこうのする気配もなかった。それよりも、予(かね)て意中に蓄えていた人生の理想を果し始めにかかった。「人生の本ものを味わわなくちゃ」 これが父の死ぬまで口に絶やさなかった箴銘(しんめい)の言葉でしたと、規矩男は苦笑した。 父の越後は日本の土地の中で、一ばん郷土的の感じを深く持たせるという武蔵野の中を選んで、別荘風の住宅を建てた。それから結婚した。「ずいぶん、晩婚なんです。父と母は二十以上も年齢が違うのです。父はそのときもう五十以上ですから、どう考えたって、自分に子供が生れた場合に、それを年頃まで監督して育て上げるという時日の確信が持てよう筈(はず)は無かったのに――その点から父もかなりエゴイズムな所のある人だったし、母も心を晦(くら)まして結婚したとも考えられます」と規矩男は云った。 母の鏡子は土地の素封家(そほうか)の娘だった。平凡な女だったが、このとき恋に破れていた。相手は同じ近郊の素封家の息子で、覇気のある青年だった。織田といった。金持の家の息子に育ったこの青年は、時代意識もあり、逆に庶民風のものを悦(よろこ)ぶ傾向が強くて、たいして嫌いでもなかった鏡子をも、お嬢さん育ちの金持の家の娘という位置に反撥(はんぱつ)して、縁談が纏(まとま)りかかった間際になって拒絶した。そして中産階級の娘で女性解放運動に携わっている女と、自分の主義や理論を証明するような意気込みの結婚をした。 平凡な鏡子が恋に破れたとき、不思議に大胆な好奇的の女になった。鏡子は忽(たちま)ち規矩男の父の結婚談を承知した。父は鏡子の明治型の瓜実顔(うりざねがお)の面だちから、これを日本娘の典型と歓(よろこ)び、母は父が初老に近い男でも、永らく外国生活をして灰汁抜(あくぬ)けのした捌(さば)きや、エキゾチックな性格に興味を持ち、結婚は滑らかに運んだ。 松林の中の別荘(ヴィラ)風の洋館で、越後のいわゆる、人生の本ものを味わうという家庭生活が始まった。「しかし人生の本ものというものは、そんな風に意識して、掛声して飛びかかって、それで果して捉(とら)えられて味わえるものでしょうか。マアテルリンクじゃありませんが、人生の幸福はやっぱり翼のある青い鳥じゃないでしょうか」と規矩男は言葉の息を切った。 父はさすがにあれだけの生涯を越して来た男だけに、エネルギッシュなものを持っていた。知識や教養もあった。その総(すべ)てを注いで理想生活の構図を整えようとした。「いまにきっと、あなたにお目にかけますが、あの家の背後へ行ってごらんなさい。小さいながら果樹園もあれば、羊を飼う柵(さく)も出来ています。野鳥が来て、自由に巣が造れる巣箱、あれも近年はだいぶ流行(はや)って一般に使われていますが、日本へ輸入したのは父が最初の人でしょう」 父のいう人生の本ものという意味は、楽しむという意味に外ならなかった。自分は今まであまりに動き漂う渦中に流浪し過ぎた。それで何ものをも纏って捉え得なかった。静かな固定した幸福こそ、真に人生に意義あるものである。彼の考えはこうらしかった。彼は世界中で見集め、聞き集め、考え蓄(た)めた幸福の集成図を組み立てにかかった。妻もその道具立ての一つであった。彼はこういう生活図面の設計の中に配置する点景人物として、図面に調和するポーズを若き妻に求めた。 鏡子ははじめこれを嫌った。重圧を感じた彼女は、老いた夫であるとはいえ、たとえ外交官として復活しなくとも、何か夫の前生の経験を生かして、妻としての自分の生活を華々しく張合いのあるものにして呉(く)れることを期待した。その点によって夫と自分との年齢の差も償えると思っていた。だが夫は毎朝飲むコーヒーだけは、自分で挽(ひ)いて自分でいれる器用な手つきだけのところに、文化人らしい趣を遺(のこ)すだけで、あとは日々ただの村老に燻(くす)んで行った。彼女は従えられ鞣(なめ)されて行った。「おかしなことには、この都会近くの田舎というものは、市場へ運ばれて売られる野菜や果物同様、住む人間までも生気を都会へ吸い取られて、卑屈に形骸的にならされてしまうのですね」 規矩男は父を斯(こ)うも観察した。女の子が生れてすぐ死に、二番目の規矩男が生れたときは、父親は既にまったく老境に入って、しかも、永年の飲酒生活の結果は、耄(ぼ)けて偏屈にさえなっていた。女盛りの妻の鏡子は、態(わざ)と老けた髪かたちや身なりをして、老夫のお守りをしなければならなかった。(母の幾分僻(ひが)んだ、ヒステリックな性格も、この頃に養われたらしい)「父は死ぬ間際は、書斎の窓の外に掘った池へ、書斎の中から釣竿(つりざお)を差し出して、憂鬱(ゆううつ)な顔をして鮒や鮠(はえ)を一日じゅう釣っていましたよ。関節炎で動けなくなっていました。母はもう父に対して癇(かん)の強い子供に対するような、あやなし方をしていました。食事のときに、一杯ずつ与える葡萄酒(ぶどうしゅ)を、父はもう一杯とせがむのを、母は毒だと断るのにいつも喧嘩(けんか)のような騒ぎでした」 中学校から帰って規矩男が挨拶(あいさつ)に行くと、老父はさすがに歓んでにこにこした。そして、「おまえは今から心がけて人生の本ものの味わいを味わわなくちゃいかん」と口癖にいった。それは人生を楽しめという意味に外ならなかった。規矩男には老ぼけて惨な現在の父がそれをいうと、地獄の言葉とよりしか響かなかった。 父が死んで荷を卸した感じに見えた母親は、一方貞淑な未亡人であり乍(なが)ら、いくらか浮々した生活の余裕を採り出した。「面白いことは」と規矩男は云った。その昔の母の失恋の相手の織田や、いわば彼女の恋仇(こいがたき)である織田の妻が、今は平凡に年とって子供の二三人もあるのと、母は家庭的な交際を始めていることだった、もっとも織田は、その後、財産をすっかり失(な)くしてしまって、土地に自前の雑貨店を営んで、どうやら生活している。彼の知識的の妻も、解放運動などはおくびにも出さなくなり、克明に店や家庭に働いている。規矩男の母は、規矩男の養育の相談相手に、僅(わず)かに頼れる旧知の家として、度々織田の家庭を訪ねるのであった。 規矩男自身と云えば、規矩男は府立×中学を出て一高の×部へ入り、卒業期に肺尖(はいせん)を少し傷めたので、卒業後大学へ行くのを暫(しばら)く遅らして、保養かたがた今は暫く休学しているのだという。だがもう肺尖などとうに治っている。保養とは世間の人に云う上べの言葉で、……と規矩男は稚純に顔を赫(あか)らめながら、やや狡智(こうち)らしく鼻の先だけで笑った。「ではお父さまの云われた人生の本ものとかを、今からあなたも尋ね始めなさったの」と、かの女も口許(くちもと)で笑って云えば、規矩男は今度は率直に云った。「僕は父のように甘い虫の好い考えは持っていませんが……然(しか)し知識慾や感情の発達盛り、働き盛りの僕達の歳として、そう学校にばかりへばりついて行ってても仕方がありませんからね」「でも大学は時間も少いし呑気(のんき)じゃありませんか」「それが僕にはそうは行かないんです。僕という奴は、学校へ行き出せば学校の方へ絶対忠実にこびりつかなけりゃいられないような性分なんです。僕自身の性格は比較的複雑で横着にもかなり陰影がある癖に、一ヶ所変な幼稚な優等生型の部分があって……嫌んなっちゃうんで」 規矩男はいくらか又不敵な笑い方をしたが、一層顔を赫らめて、「ですから自分では、学校なんか三十歳までに出れば好いと思ってるんですが、母や織田達がいろいろ云うんで、或いは今年の秋か来年からまた始め出そうとも思っているんです」 母と一緒に逢(あ)って呉(く)れと規矩男は手紙に書いたこともあったが、その後また一ヶ月ばかりの間に三四回もかの女と連れ立って、武蔵野を案内がてら散歩し乍(なが)ら、たびたび自分の家の近くを行き過ぎるのに、規矩男は自分の家へまだ一度もかの女を連れて行かず、母にも逢せなかった。かの女は規矩男に何か考えがあるのだろうし、かの女も別だん急に規矩男の母に逢い度(た)いとも思わなかったが、ある時何気なく云ってみた。「あなたいつかの手紙で私にお母さんを逢せるなんて云ってね」 規矩男は少し困って赫くなった。「あなたが逢って呉れないものですから、僕のような生意気な人間でも、あんな通俗的な手法を使わなくっちゃならなくなったんですね」「ははあ」「嫌だ。今ごろあんなことでからかっちゃ。だけれどあなただって、婦人雑誌なんかで、よく、どうしてあなたはあなたのお子さんを教育なさいましたか、なんて問題に答えていらっしゃるじゃありませんか。僕はあれを覚えてていざとなったら母もだし[#「だし」に傍点]につかいかねなかった……」「そんなに私に逢わなけりゃならなかったの」「嫌だ。そんなこと、そんなにくどく云っちゃ」 規矩男がますます赫くなるので、かの女はもっとくどくからかい度くなった。「かりによ。あの時、ではお母さんとご一緒にお出下さい、是非お母さんと……と、私がどうしてもお母さんと一緒でなければお逢いしないと云って上げたらどう?」「事態がそうなら僕は母と一緒に伺ったかも知れないな」「そして子供の教育法をお母さんに訊(き)かれるとしたら、規矩男さんの教育係みたいに私はなったのね」「わははははあ」規矩男は世にも腕白者らしく笑った。「それも面白かったなあ、わははははあ」「何ですよ、この人は……そんな大声で笑って」 規矩男は今度は大真面目(おおまじめ)になって、「だけど運命の趨勢(すうせい)はそうはさせませんね。僕は世の中は大たい妥当に出来上っていると思うんです」「では妥当であなたと私とはこんなに仲好しになったの」「そうですとも。僕だってあなただから近づいて来たかったんです……誰が……誰が……あなたでない、よそのお母さんみたいな人に銀座でなんかあとからつけて来られて……およそ気味の悪いばかりだったでしょうよ。或いはぶんなぐってたかもしれやしねえ」「おやおや、まるで不良青年みたいだ」「自分だって不良少女のように男のあとなんかつけたくせに」「じゃあ、私不良少女として不良青年に見込まれた妥当性で、あなたと仲好しにされたわけなのね」 その時、眼路の近くに一重山吹の花の咲き乱れた溝が見えて来た。規矩男はその淡々しく盛り上った山吹の黄金色に瞳(ひとみ)を放ったが、急に真面目な眼をかの女に返して、「あの逸作先生は、そんなお話のよく判る方ですか」とかの女に聞くのであった。「ええ、判る人ですとも」「あなた先生を随分尊敬していらっしゃるようですね」「ええ、尊敬していますとも」「先生は見たところだけでも随分僕には好感が持てますね……僕、先生が感じ悪い方だったら、あなたもこんなに(と云って規矩男はまた赫くなった)好きになれなかったか知れませんね」「ではうちの先生も、あなたが私と仲好しになった妥当性の仲間入りね」「序(ついで)にむす子さんも」「まあ、ぜいたくな人!」「ええ、僕あ、ぜいたくな人間……ぜいたくな人間て云われるの嬉(うれ)しいな。どんなに僕の好きな顔や美しい情感や卓越した理智をあなたが持ってたって、嫌な夫や馬鹿な子供なんかの生活構成のなかで出来上っているあなただったら、或いは僕は……」 かの女はそういう規矩男が、自分の愛する夫や子供をまるでその心身の組織に入れているようで、規矩男に対して急に不思議な愛感に襲われた。そして次に、ふっとむす子を思い出し、一瞬ひらめくような自分達の母子情の本質に就(つ)いて考えて見た。「私の原始的な親子本能以上に、私のむす子に対する愛情が、私の詩人的ロマン性の舞台にまで登場し、私の理論性の範囲にまで組織され込んでいる。ぜいたくな母子情だ。この私の母子情が、果して好いものか悪いものか……だが、すべて本質というものは本質そのもので好いのだ。他と違っているからと云って好いも悪いもありはしない」こう考えながらかの女は何故か眼に薄い涙を泛(うか)べていた。規矩男は見てとって、「僕あんまり云い過ぎました?」「ううん、云い過ぎたから好かったの、あははははは」 規矩男も「あはははははあ」と笑っちまうと、あとは二人とも案外けろり[#「けろり」に傍点]として、さっさと歩き出した。非常に脱し易そうでそれを支えるバランスを二人は共通に持ち合っているとかの女には思えた。その自覚が非常にかの女を愉快にし、爽(さわや)かにした。かの女は甘く咽喉(のど)にからまる下声で、低くうたを唄(うた)いながら歩いた。規矩男は暫く黙って歩いた。 そのうちに二人はまたいつか規矩男の家の近所に来ていた。黙っていた規矩男は、急にはっきりした声で云った。「いや、いまにきっと逢せます。然し、僕はあなたに母を逢せる前に聞いて頂きたいことがあるんですけれど……僕が云い出すまで待ってて下さい」「そう? 優等生型の身辺事情には、いろいろ順序が立っているでしょうからねえ」「からかわれる張り合いもないような事なんです」 規矩男の家は松林を両袖にして、まるで芝居の書割のように、真中の道を突き当った正面にポーチが見え、蔦(つた)に覆われた古い洋館である。「感じのいいお家じゃなくって」「古いのが好いだけです。いまにご案内します」 そういって何故か規矩男は去勢したような笑い方をした。その笑い方はやや鼻にかかる笑い方で、凜々(りり)しい小ナポレオン式の面貌とはおよそ縁のない意気地のなさであった。「規矩男さん、あなたを見ていると、時々、いつの時代の青年か判らないような時もあってよ」 すると規矩男は、さっと暗い陰を額から頬(ほお)へ流し去って、それから急いでふだんの表情の顔に戻った。「たぶんそうでしょう。自分でもそう感じる時がありますよ」規矩男は艶々(つやつや)した頬を掌で撫(な)でて、「僕はあなたのむす子さんとは違った母に育てられたんですから」「と云うと?」「僕の積極性は、母の育て方で三分の一はマイナスにされてますから」 かの女はこの青年のこれだけ整った肉体の生理上にも、何か偏ったものがあるのではないかと考えてみた。これだけつき合った間に気がついただけでも、飯の菜、菓子の好みにも種類があった。酸味のある果物は喘(あえ)ぐように貪(むさぼ)り喰(く)った。道端に実っている青梅は、妊婦のように見逃がさず※(も)いで噛(か)んだ。「喰ものでも変っているのね、あなたは」「酸っぱいものだけが、僕のマイナスの部分を刺戟(しげき)するロマンチックな味です」 規矩男には散歩の場所にもかたよった好みがあった。 規矩男は母の命令で食料品の買付けに、一週一度銀座へ出る以外には、余所(よそ)へ行かないといっているとおり、東京の何処のこともあまり知らない様子。武蔵野のことは委(くわ)しかったが、それにも限度があった。彼の家のある下馬沢を中心に、半径二三里ほど多少歪(ゆが)みのある円に描いた範囲内の郊外だけだった。武蔵野といってもごく狭い部分だった。それから先へ踏み出すときは、「僕には親しみが持てない土地です。引返しましょう」とぐんぐんかの女を導き戻した。 そんな時、規矩男の母にもこういう消極的な我儘(わがまま)があるのかしら……などと、かの女はいくらかの反感を、まだ見ぬ規矩男の母に持ったこともあったが、かの女はここにもまた、幾分母の影響を持つ子の存在を見出して、規矩男もその母もあわれになった。
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