食魔
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著者名:岡本かの子 

 鼈四郎は病友の屍体(したい)の肩尖(かたさき)に大きく覗いている未完成の顔をつくづく見瞠(みい)り「よし」と独りいって、屍体を棺に納め、共に焼いてしまったことであった。
 病友に痛みの去る暇なく、注射は続いた。流動物しか摂(と)れなくなって、彼はベッドに横わり胸を喘ぐだけとなった。鼈四郎は、それが夜店の膃肭獣(おっとせい)売りの看板である膃肭獣の乾物に似ているので、人間も変れば変るものだと思うだけとなった。病友は口から入れるものは絶ち、苦痛も無くなってしまったらしい。医者は臨終は近いと告げた。看護婦もモデルの娘も涙の眼をしょぼしょぼさせながら帰り支度の始末を始め出した。病友は朦々(もうもう)として眠っているのか覚めているのか判らない場合が多い。けれども咽頭奥(のどおく)で呟(つぶや)くような声がしているので鼈四郎(べつしろう)が耳を近付けてみると、唄(うた)を唄っているのだった。病友がこういう唄を唄ったことを一度も鼈四郎は聞いたことはなかった。覚束(おぼつか)ない節を強いて聞分けてみると、それは子守唄だった。「ねんころりよ、ねんころりねんころり」
 鼈四郎の顔が自分に近付いたのを知って病友は努めて笑った。そして喘(あえ)ぎ喘ぎいう文句の意味を理解に綴(つづ)ってみるとこういうのだった。「どこを見渡してもさっぱりしてしまって、まるで、何にもない。いくら探しても遺身(かたみ)の品におまえにやるものが見付からないので困った。そうそう伯母さんが東京に一人いる。これは無くならないでまだある。遠方にうすくぼんやり見える。これをおまえにやる。こりゃいいもんだ。やるからおまえの伯母さんにしなさい。」
 病友は死んだ。店の旧取引先か遊び仲間の知友以外に京都には身寄りらしいものは一人も無かった。東京の伯母なるものに問合すと、年老いてることでもあり葬儀万端然(しか)るべくという返事なので鼈四郎は、主に立って取仕切り野辺の煙りにしたことであった。


 その遺骨を携えて鼈四郎は東京に出て来た。東京生れの檜垣の主人はもはや無縁同様にはなっているようなものの菩提寺(ぼだいじ)と墓地は赤坂青山辺に在った。戸主のことではあり、ともかく、骨は菩提寺の墓に埋めて欲しいという伯母の希望から運んで来たのであったが、鼈四郎は東京のその伯母の下町の家に落付き、埋葬も終えて、序(ついで)にこの巨都も見物して京都に帰ろうとする一ヶ月あまりの間に、鼈四郎はもう伯母の擒(とりこ)となっていた。
 この伯母は、女学校の割烹教師(かっぽうきょうし)上りで、草創時代の女学校とてその他家政に属する課目は何くれとなく教えていた。時代後れとなって学校を退かされてもこれが却(かえ)って身過ぎの便りとなり、下町の娘たちを引受けて嫁入り前の躾(しつけ)をする私塾を開いていた。伯母も身うちには薄倖(はっこう)の女で、良人(おっと)には早く死に訣(わか)れ、四人ほどの子供もだんだん欠けて行き、末の子の婚期に入ったほどの娘が一人残って、塾の雑事を賄(まかな)っていた。貧血性のおとなしい女で、伯母に叱(しか)られては使い廻(まわ)され、塾の生徒の娘たちからは姉さんと呼ばれながら少しばかにされている気味があった。何かいわれると、おどおどしているような娘だった。
 伯母はむかし幼年で孤児となった甥の檜垣の主人を引取り少年の頃まで、自分の子供の中に加えて育てたのであったが、以後檜垣の主人は家を飛出し、外国までも浮浪(さまよ)い歩るいて音信不通であったこの甥に対し、何の愛憎も消え失(う)せているといった。しかし、このまま捨置くことなら檜垣の家は後嗣(あと)絶えることになるといった。
 甥の檜垣の家が宗家で、伯母はその家より出て分家へ嫁に行ったものである。伯母はいった、自分の家は廃家しても関(かま)わぬ、しかし檜垣の宗家だけは名目だけでも取留めたい。そこで相談である。もし「それほど嫌でなかったら――」自分の娘を娶(めと)って呉(く)れて、できた子供の一人を檜垣の家に与え、家の名跡だけで復興さして貰い度(た)い。さすれば自分に取っては宗家への孝行となるし、あなたにしても親友への厚い志となる。「第一、貰って頂き度い娘は、檜垣に取ってたった一人の従兄弟女(いとこめ)である。これも何かのご縁ではあるまいか。」
 始めこの話を伯母から切出されたときに鼈四郎は一笑に附した。あの□々(ようよう)として芸術三昧(ざんまい)に飛揚して没(う)せた親友の、音楽が済み去ったあとで余情だけは残るもののその木地(きじ)は実は空間であると同じような妙味のある片付き方で終った。その病友の生涯と死に対し、伯母の提言はあまりに月並な世俗の義理である。どう矧(は)ぎ合わしても病友の生涯の継ぎ伸ばしにはならない。伯母のいう末の娘とて自分に取り何の魅力もない。「そんなことをいったって――」鼈四郎はひょんな表情をして片手で頭を抱えるだけてあったが、伯母の説得は間がな隙(すき)がな弛(ゆる)まなかった。「あなたも東京で身を立てなさい。東京はいいところですよ」といって、鼈四郎の才能を鑑検し、急ぎ蛍雪館はじめ三四の有力な家にも小使い取りの職仕を紹介してこの方面でも鼈四郎を引留める錨(いかり)を結びつけた。伯母は蛍雪館が下町に在った時分姉娘のお千代を塾で引受けて仕込んだ関係から蛍雪とは昵懇(じっこん)の間柄であった。
 何という無抵抗無性格な女であろうか。鼈四郎は伯母の末の娘で檜垣の主人の従姉妹(いとこ)に当るこの逸子という女の、その意味での非凡さにもやがて搦(から)め捕られてしまった。鼈四郎のような生活の些末(さまつ)の事にまで、タイラントの棘(とげ)が突出ている人間に取り、性抜きの薄綿のような女は却(かえ)って引懸り包(くる)まれ易い危険があったのだった。鼈四郎の世間に対する不如意の気持から来る八つ当りは、横暴ないい付けとなって手近かのものへ落ち下る。彼女はいつもびっくりした愁い顔で「はいはい」といい、中腰(ちゅうごし)駈足(かけあし)でその用を足そうと努める。自分の卑屈な役割は一度も顧ることなしに、また次の申付けをおどおどしながら待受けているさまは、鼈四郎には自分が電気を響かせるようで軽蔑(けいべつ)しながら気持がよいようになった。世を詛(のろ)い剰(あま)って、意地悪く吐出す罵倒や嘲笑(ちょうしょう)の鋒尖(ほこさき)を彼女は全身に刺し込まれても、ただ情無く我慢するだけ、苦鳴の声さえ聞取られるのに憶している。肌目(きめ)がこまかいだけが取得の、無味で冷たく弱々しい哀愁、焦(じ)れもできない馬鹿正直さ加減。一方、伯母は薄笑いしながら説得の手を緩めない。鼈四郎としては「何の」と思いながら、逸子が必要な身の廻りのものとなった。結婚同様の関係を結んでしまった。ずるずるべったりに伯母の望む如く、鼈四郎は、東京居住の人間となり逸子を妻と呼ぶことにしてしまった。そして檜垣の主人が死ぬ前に譫言(うわごと)にいった「伯母をおまえにやる。おまえの伯母にしろ」といった言葉が筋書通りになった不思議さを、ときどき想(おも)い見るのであった。
 京都に一人残っている生みの母親、青年近くまで養ってくれた拓本の老職人のことも心にかからないことはないけれども、鼈四郎の現在のような境遇には、彼等との関係はもとからの因縁が深いだけに、それを考えに上すことは苦しかった。この撥ぜ開けた巨都の中で一旗揚げる慾望に燃え盛って来た鼈四郎に取り、親友でこそあれ、他人の伯母さんを伯母さんと呼ぶぐらいの親身さが抜き差しができて責任が軽かった。責任感が軽くて世話をして呉れる老女は便利だった。しかし生きてるうちは好みに殉じ死に向ってはこれを遊戯視して、一切を即興詩のように過したかに見えた檜垣の主人が譫言の無意識でただ一筋、世俗的な糸をこの世に曳(ひ)き遺(のこ)し、それを友だちの自分に絡(から)みつけて行って、しかもその糸が案外、生あたたかく意味あり気なのを考えるのは嫌だった。
 伯母が世話をして呉れた下町の三四の有力な家の中で、鼈四郎は蛍雪館の主人に一ばん深く取入ってしまった。
 蛍雪館の主人は、江戸っ子漢学者で、少壮の頃は、当時の新思想家に違いなかった。講演や文章でかなり鳴(なら)した。油布の支那服なぞ着て、大陸政策の会合なぞへも出た。彼の説は時代遅れとなり妻の変死も原因して彼は公的のものと一切関係を断ち、売れそうな漢字辞典や、受験本を書いて独力で出版販売した。当ったその金で彼は家作や地所を買入れ、その他にも貨殖の道を講じた。彼は小富豪になった。
 彼は鰥(やもめ)で暮していた。姉のお千代に塾をひかしてから主婦の役をさせ、妹のお絹は寵愛物(ちょうあいぶつ)にしていた。蛍雪の性癖も手伝い、この学商の家庭には檜垣の伯母のようなもの以外出入りの人物は極めて少かった。新来とはいえ蛍雪に取って鼈四郎(べつしろう)は手に負えない清新な怪物であった。琴棋書画等趣味の事にかけては大概のことの話相手になれると同時に、その話振りは思わず熱意をもって蛍雪を乗り出させるほど、話の局所局所に、逆説的な弾機を仕掛けて、相手の気分にバウンドをつけた。中でも食味については鼈四郎は、実際に食品を作って彼の造詣(ぞうけい)を証拠立てた。偏屈人に対しては妙に心理洞察のカンのある彼は、食道楽であるこの中老紳士の舌を、その方面から暗(そら)んじてしまって、嗜慾(しよく)をピアノの鍵板(けんばん)のように操った。鰥暮しで暇のある蛍雪は身体の中で脂肪が燃えでもするようにフウフウ息を吐きながら、一日中炎天の下に旅行用のヘルメットを冠(かぶ)って植木鉢の植木を剪(き)り嘖(さいな)んだり、飼ものに凝ったり、猟奇的な蒐集物(しゅうしゅうぶつ)に浮身を□(やつ)したりした。時には自分になまじい物質的な利得ばかりを与えながら昔日の尊敬を忘れ去り、学商呼ばわりする世情を、気狂いのようになって悲憤慷慨(ひふんこうがい)することもある。そんな不平の反動も混って蛍雪の喰(た)べものへの執し方が激しくなった。
 蛍雪が姉娘のお千代を世帯染(しょたいじ)みた主婦役にいためつけながら、妹のお絹に当世の服装(みなり)の贅(ぜい)を尽させ、芝の高台のフランスカトリックの女学校へ通わせてほくほくしているのも、性質からしてお絹の方が気に入ってるには違いないが、やはり、物事を極端に偏らせる彼の凝り性の性癖から来るものらしかった。彼は鼈四郎が来るまえから鼈(すっぽん)の料理に凝り出していたのだが、鼈鍋(すっぽんなべ)はどうやらできたが、鼈蒸焼(むしやき)は遣(や)り損じてばかりいるほどの手並だった。鼈四郎は白木綿で包んだ鼈を生埋めにする熱灰を拵(こしら)える薪の選み方、熱灰の加減、蒸し焼き上る時間など、慣れた調子で苦もなくしてみせ、蛍雪は出来上ったものを毟(むし)って生醤油(きじょうゆ)で食べると近来にない美味であった。それまで鼈四郎は京都で呼び付けられていた与四郎の名を通していたのだったが、以後、蛍雪は与四郎を相手させることに凝り出し、手前勝手に鼈四郎と呼名をつけてしまった。娘の姉妹もそれについて呼び慣れてしまう。独占慾の強い蛍雪は、鼈四郎夫妻に住宅を与え僅(わずか)に食べられるだけの扶養を与えて他家への職仕を断らせた。
 鼈四郎は、蛍雪館へ足を踏み入れ妹娘のお絹を一目見たときから「おやっ」と思った。これくらい自分とは縁の遠い世界に住む娘で、そしてまたこれくらい自分の好みに合う娘はなかった。いつも夢見ているあどけない恰好(かこう)をしていて、そしてかすかに皮肉な苦味を帯びている。青ものの走りが純粋無垢(むく)でありながら、何か□(も)ぎ取られた将来の生い立ちを不可解の中に蔵している一つの権威、それにも似た感じがあった。
 お絹は人出入稀(ま)れな家庭に入って来た青年の鼈四郎を珍しがりもせず、ときどきは傍にいても、忘れたかのように、うち捨てて置いたまま、ひとりで夢見たり、遊んだりした。母無くして権高な父の手だけで育ったためか、そのとき中性型で高貴性のある寂しさがにじんだ。鼈四郎が美貌(びぼう)であることは最初から頓着(とんちゃく)しないようだった。姉娘のお千代の方が顔を赭(あから)めたり戸惑う様子を見せた。
 鼈四郎は絹に向うと、われならなくに一層肩肘(かたひじ)を張り、高飛車に出るのをどうしようもない。その心底を見透すもののようにまたそうでもないように、ふだん伏眼勝ちの煙れる瞳(ひとみ)をゆっくり上げて、この娘はまともに青年を瞠入(みい)るのであった。すると鼈四郎は段違いという感じがして身の卑しさに心が竦(すく)んだ。
 だが、鼈四郎は、蛍雪の相手をする傍ら、姉妹娘に料理法を教えることをいい付かり、お絹の手を取るようにして、仕方を授ける間柄になって来ると、鼈四郎は心易いものを覚えた。この娘も料理の業(わざ)は普通の娘同様、あどけなく手緩かった。それは着物の綻(ほころ)びから不用意に現している白い肌のように愛らしくもあった。彼は娘の間の抜けたところを悠々と味いながら叱(しか)りもし罵(ののし)りもできた。お絹はこういうときは負けていず、必ず遣(や)り返したが、この青年の持つ秀でた技倆(ぎりょう)には、何か関心を持って来たようだった。鼈四郎は調子づき、自己吹聴がてら彼の芸術論など喋(しゃべ)った。遠慮は除れた。しかしただそれだけのものであった。この娘こそ虫が好く虫が好くと思いながら、鼈四郎は、逸子との変哲もない家庭生活に思わず月日を過し子供も生れてしまった。もう一人檜垣の家の後嗣(あとつぎ)に貰える筈(はず)の子供が生れるのを伯母さんは首を長くして待受けている。


 今宵(こよい)、霧の夜の、闇(やみ)の深さ、粘りこさにそそられて鼈四郎は珍らしく、自分の過ぎ来た生涯を味い返してみた。死をもって万事清算がつく絶対のものと思い定め、それを落付きどころとして、その無からこの生を顧り、須臾(しゅゆ)の生なにほどの事やあると軽く思い做(な)されるこころから、また死を眺めやってこれも軽いものに思い取る。幼児の体験から出発して、今日までに思想にまで纏(まと)め上げたつもりの考え。
 しかる上は生きてるうちが花と定めて、できることなら仕度(した)い三昧(ざんまい)を続けて暮そうという考えは、だんだんあやしくなって来た。何一つ自分の思うこととてできたものはない。たった一つこれだけは漁(あさ)り続けて来たつもりの食味すら、それに纏(まつわ)る世俗の諸事情の方が多くて自分を意外の方向へ押流し、使い廻(まわ)す挺(てこ)にでもなっているような気がする。
 霰(あられ)が降る。深くも、粘り濃い闇の中に。いくら降っても降り白められない闇を、いつかは降り白められでもするかと、しきりに降り続けている。
 夜も更けたかして、あたりの家の物音は静り返り、表通りを通る電車の轟(とどろ)きだけがときどき響く。隣の茶の間で寝付いたらしい妻は、ときどき泣こうとする子供を「おとうさんがおとうさんが」と囁(ささや)いて乳房で押て黙らせ、またかすかな寝息を立てている。鼈四郎が家にいる間は、気難しい父を憚(はばか)り、母のいうこの声を聞くと共に、子供は泣きかかっても幼ごころに歯を食い縛り、我慢をする癖を鼈四郎は今宵はじめて憐(あわ)れに思った。没(な)くなった父の老僧は、もし子供が不如意を託(かこ)って「なぜ、こんな世の中に自分を生んだか」と、父を恨むような場合があったら、「こっちが頼みもしないのに、なぜ生れた。お互いさまだ。」といって聞かせと、母にいい置いたそうだが、今宵考えてみれば、亡父は考え抜いた末の言葉のようにも思える。子供にも彼自身に知られぬ意志がある。
 お互いさまでわけが判らぬ中に、父は自分を遺(のこ)し、自分はこの子を遺している。父のそのいい置きを伝えた母は、また、その実家の罪滅しのためとて、若い身空ですべての慾情を断ったつもりでも、食意地だけは断たれず、嘆きつつもそれを自分の慾情の上に伝えている。少年の頃、自分がうまいものをよそで饗(よ)ばれて帰って話すとき、母は根掘り葉掘り詳しく聞き返し、まるで自分が食べでもしたような満足さで顔を生々とさしたではないか。そして自分が死水を取ってやった唯一の親友の檜垣の主人は、結局その姪を自分に妻(め)あわして、後嗣の胤(たね)を取ろうとする仕掛を、死の断末魔の無意識中にあっさり自分に伏せている。こう思って来ると、世の中に自分一代で片付くものとては一つも無い。自分だけで成せたと思うものは一つもない。みな亡父のいうお互いさまで、続かり続け合っている。はじめて気の付くのは、いつぞや京都の春で、二回会ったきりの画家と歌人夫妻のいった言葉だ。「おれたちは、極楽の場塞(ばふさ)げを永くするのも済まないと思って、地獄の席を探しているところだ」と。そうしてみると、せんせいたちもこの断ち切れないお互いのものには、ぞっこん苦労した連中かな。夫人のいった、まこと、まごころというものも、安道徳のそれではなくて一癖も二癖もある底の深い流れにあるらしいものを指すのか。それは何ぞ。
 夜はしんしんと更けて、いよいよ深みまさり、粘り濃く潤う闇(やみ)。無限の食慾をもって降る霰(あられ)を、下から食い貪(むさぼ)り食い貪り飽くことを知らない。ひょっと見方を変えれば、永遠に、霰を上から吐きに吐くとも見える。ひっきょう食いつつ吐きつつ食いつつ飽き足るということを知らない闇。こんな逞(たくま)しい食慾を鼈四郎(べつしろう)はまだ嘗(かつ)て知らなかった。死を食い生を吐くものまたかくの如きか。
 闇に身を任せ、われを忘れて見詰めていると闇に艶(つやや)かなものがあって、その潤いと共に、心をしきりに弄(なぶ)られるような気がする。お絹? はてな。これもまた何かの仕掛かな。
 大根のチリ鍋は、とっくに煮詰って、鍋底(なべぞこ)は潮干の潟に芥(あくた)が残っているようである。台所へ出てみると、酒屋の小僧が届けたと見え、ビールが数本届いていた。それを座敷へ運んで来て、鼈四郎は酒に弱い癖に今夜一夜、霰の夜の闇を眺めて飲み明そうと決心した。この逞しい闇に交際(つきあ)って行くには、しかし、「とても、大根なぞ食っちゃおられん。」
 彼は、穏に隣室へ声をかけた。
「逸子、済まないが、仲通りの伊豆庄を起して、鮟鱇(あんこう)の肝か、もし皮剥(かわはぎ)の肝が取ってあるようだったら、その肝を貰って来て呉(く)れ、先生が欲しいといえばきっと、呉れるから――」
 珍しく丁寧に頼んだ。はいはいと寝惚(ねぼ)け声で答えて、あたふた逸子が出て行く足音を聞きながら、鼈四郎は焜炉(こんろ)に炭を継ぎ足した。傾ける顔に五十燭(しょく)の球の光が当るとき、鼈四郎の瞼(まぶた)には今まで見たことの無い露が一粒光った。




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