食魔
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著者名:岡本かの子 

 少青年の頃おいになって鼈四郎は、諸方の風雅の莚(むしろ)の手伝いに頼まれ出した。市民一般に趣味人をもって任ずるこの古都には、いわゆる琴棋書画の会が多かった。はじめ拓本職人の老人が出入りの骨董商(こっとうしょう)に展観の会があるのを老人に代って手伝いに出たのがきっかけとなり、あちらこちらより頼まれるようになった。才はじけた性質を人臆(ひとおく)しする性質が暈(ぼか)しをかけている若者は何か人目につくものがあった。薄皮仕立で桜色の皮膚は下膨(しもぶく)れの顔から胸鼈へかけて嫩葉(わかば)のような匂(にお)いと潤いを持っていた。それが拓本老職人の古風な着物や袴(はかま)を仕立て直した衣服を身につけて座を斡旋(あっせん)するさまも趣味人の間には好もしかった。人々は戯れに千の与四郎、――茶祖の利休の幼名をもって彼を呼ぶようになった。利休の少年時が果して彼のように美貌(びぼう)であったか判らないが、少くとも利休が与四郎時代秋の庭を掃き浄(きよ)めたのち、あらためて一握りの紅葉をもって庭上に撒(ま)き散らしたという利休の趣味性の早熟を物語る逸話から聯想(れんそう)して来る与四郎は、彼のような美少年でなければならなかった。与えられたこの戯名を彼も諾(あまな)い受け寧(むし)ろ少からぬ誇りをもって自称するようにさえなった。
 洒落(しゃ)れた[#「洒落(しゃ)れた」は底本では「洒落(しゃれ)れた」]お弁当が食べられ、なにがしかずつ心付けの銭さえ貰えるこの手伝いの役は彼を悦(よろこ)ばした。そのお弁当を二つも貰って食べ抹茶も一服よばれたのち、しばらくの休憩をとるため、座敷に張り廻(めぐ)らした紅白だんだらの幔幕(まんまく)を向うへ弾(は)ね潜って出る。そこは庭に沿った椽側(えんがわ)であった。陽(ひ)はさんさんと照り輝いて満庭の青葉若葉から陽の雫(しずく)が滴っているようである。椽も遺憾なく照らし暖められている。彼はその椽に大の字なりに寝て満腹の腹を撫(な)でさすりながらうとうとしかける。智恩院聖護院の昼鐘が、まだ鳴り止まない。夏霞(なつがすみ)棚引きかけ、眼を細めてでもいるような和(なご)み方の東山三十六峯。ここの椽に人影はない。しかし別書院の控室の間から演奏場へ通ずる中廊下には人の足音が地車でも続いて通っているよう絶えずとどろと鳴っている。その控室の方に当っては、もはや、午後の演奏の支度にかかっているらしく、尺八に対して音締めを直している琴や胡弓(こきゅう)の音が、音のこぼれもののように聞えて来る。間に混って盲人の鼻詰り声、娘たちの若い笑い声。
 若者の鼈四郎は、こういう景致や物音に遠巻きされながら、それに煩わされず、逃れて一人うとうとする束(つか)の間(ま)を楽しいものに思い做(な)した。腹に満ちた咀嚼物(そしゃくぶつ)は陽のあたためを受けて滋味は油のように溶け骨、肉を潤し剰(あま)り今や身体の全面にまでにじみ出して来るのを艶(つや)やかに感ずる。金目がかかり、値打ちのある肉体になったように感ずる。心の底に押籠(おしこ)められながら焦々した怒ろしい想(おも)いはこの豊潤な肉体に対し、いよいよその豊潤を刺激して引立てる内部からの香辛料になったような気がする。その快さ甘くときめかす匂い、芍薬畑(しゃくやくばたけ)が庭のどこかにあるらしい。
 古都の空は浅葱色(あさぎいろ)に晴れ渡っている。和み合う睫(まつげ)の間にか、充(み)ち足りた胸の中にか白雲の一浮きが軽く渡って行く。その一浮きは同時にうたた寝の夢の中にも通い、濡(ぬ)れ色の白鳥となって翼に乗せて過ぎる。はつ夏の哀愁。「与四郎さん、こんなとこで寝てなはる。用事あるんやわ、もう起きていなあ、」鼻の尖(さき)を摘まれる。美しい年増夫人のやわらかくしなやかな指。
 鼈四郎はだんだん家へ帰らなくなった。貧寒な拓本職人の家で、女餓鬼(めがき)の官女のような母を相手にみじめな暮しをするより、若い女のいる派手で賑(にぎや)かな会席を渡り歩るいてる方がその日その日を面白く糊塗(こと)できて気持よかった。何か一筋、心のしんになる確(しっか)りした考え。何か一業、人に優れて身の立つような職能を捉(とら)えないでは生きて行くに危いという不安は、殊にあの心の底に伏っている焦々(いらいら)した怒ろしい想いに煽(あお)られると、居ても立ってもいられない悩みの焔(ほのお)となって彼を焼くのであるが、その焦熱を感ずれば感ずるほど、彼はそれをまわりで擦(こす)って掻(か)き落すよう、いよいよ雑多と変化の世界へ紛れ込んで行くのであった。彼はこの間に持って生れた器用さから、趣味の技芸なら大概のものを田舎初段程度にこなす腕を自然に習い覚えた。彼は調法な与四郎となった。どこの師匠の家でも彼を歓迎した。棋院では初心の客の相手役になってやるし、琴の家では琴師を頼まないでも彼によって絃(げん)の緩みは締められた。生花の家でお嬢さんたちのための花の下慥え、茶の湯の家ではまたお嬢さんや夫人たちのための点茶や懐石のよき相談相手だった。拓本職人は石刷りを法帖(ほうじょう)に仕立てる表具師のようなこともやれば、石刷りを版木に模刻して印刷をする彫版師のような仕事もした。そこから自ずから彼は表具もやれば刀を採って、木彫篆刻(てんこく)の業もした。字は宋拓を見よう見真似(みまね)に書いた。画は彼が最得意とするところで、ひょっとしたら、これ一途(いちず)に身を立てて行こうかとさえ思うときがあった。
 頼めば何でも間に合わして呉(く)れる。こんな調法人をどこで歓迎しないところがあろうか。
 彼は紛れるともなく、その日その日の憂さを忘れて渡り歩るいた。母は鼈四郎が勉強のため世間に知識を漁(あさ)っていて今に何か掴(つか)んで来るものと思い込んでるので呑込(のみこ)み顔で放って置いたし、拓本職人の老爺(ろうや)は仕事の手が欠けたのをこぼしこぼし、しかし叱言(こごと)というほどの叱言はいわなかった。
 師匠連や有力な弟子たちは彼を取巻のようにして瓢亭・俵やをはじめ市中の名料理へ飲食に連れて行った。彼は美食に事欠かぬのみならず、天稟(てんぴん)から、料理の秘奥を感取った。
 そうしているうち、ふと鼈四郎に気が付いて来たことがあった。このように諸方で歓迎されながら彼は未だ嘗(かつ)て尊敬というものをされたことがない。大寺に生れ、幼時だけにしろ、総領息子という格に立てられた経験のある、旧舗(しにせ)の娘として母の持てる気位を伝えているらしい彼の持前は頭の高い男なのであった。それがただ調法の与四郎で扱い済されるだけでは口惜しいものがあった。彼の心の底に伏っていつも焦々する怒ろしい想いもどうやら一半はそこから起るらしく思われて来た。どうかして先生と呼ばれてみたい。
 人中に揉(も)まれて臆(おく)し心(ごころ)はほとんど除かれている彼に、この衷心から頭を擡(もた)げて来た新しい慾望は、更に積極へと彼に拍車をかけた。彼は高飛車に人をこなし付ける手を覚え、軽蔑(けいべつ)して鼻であしろう手を覚えた。何事にも批判を加えて己れを表示する術(すべ)も覚えた。彼はなりの恰好(かっこう)さえ肩肘(かたひじ)を張ることを心掛けた。彼は手鏡を取出してつくづく自分を見る。そこに映り出る青年があまりに若く美しくして先生と呼ばれるに相応(ふさわ)しい老成した貫禄が無いことを嘆いた。彼はせめて言葉附だけでもいかつく、ませたものにしようと骨を折った。彼の取って付けたような豹変(ひょうへん)の態度に、弱いものは怯(おび)えて敬遠し出した。強いものは反撥(はんぱつ)して罵(ののし)った。「なんだ石刷り職人の癖に」そして先生といって呉れるものは料理人だけだった。
「与四郎は変った」「おかしゅうならはった」というのが風雅社会の一般の評であった。彼の心地に宿った露草の花のようないじらしい恋人もあったのだけれども、この噂(うわさ)に脆(もろ)くも破れて、実を得結ばずに失せた。
 若者であって一度この威猛高(いたけだか)な誇張の態度に身を任せたものは二度と沈潜して肌質(きめ)をこまかくするのは余程難しかった。鼈四郎(べつしろう)はこの目的外れの評判が自分のどこの辺から来るものか自分自身に向って知らないとはいい徹せなかった。「学問が無いからだ」この事実は彼に取って最も痛くていまいましい反省だった。そして今更に、悲運な境遇から上の学校へも行けず、秩序立った勉強の課程も踏めなかった自分を憐(あわれ)むのであった。しかしこれを恨みとして、その恨みの根を何処へ持って行くのかとなると、それはまたあまりに多岐に亘(わた)り複雑過ぎて当時の彼には考え切れなかった。嘆くより後(おく)れ走(ば)せでも秘(ひそ)かに学んで追い付くより仕方がない。彼はしきりに書物を読もうと努めた。だが才気とカンと苦労で世間のあらましは、すでに結論だけを摘み取ってしまっている彼のような人間にとって、その過程を煩わしく諄(くど)く記述してある書物というものを、どうして迂遠(うえん)で悪丁寧(わるていねい)とより以外のものに思い做(な)されようぞ。彼は頁(ページ)を開くとすぐ眠くなった。それは努めて読んで行くとその索寞(さくばく)さに頭が痛くなって、しきりに喉頭(こうとう)へ味なるものが恋い慕われた。彼は美味な食物を漁(あさ)りに立上ってしまった。
 結局、彼は遣(や)り慣れた眼学問、耳学問を長じさせて行くより仕方なかった。そしていま迄、下手(したで)に謙遜(けんそん)に学び取っていた仕方は今度からは、争い食ってかかる紛擾(ふんじょう)の間に相手から□(も)ぎ取る仕方に方法を替えたに過ぎなかった。それほどまでにして彼は尊敬なるものを贏(か)ち得たかったのであろうか。然(しか)り。彼は彼が食味に於て意識的に人生の息抜きを見出す以前は、実に先生といわれる敬称は彼に取って恋人以上の魅力を持っていたのだった。彼はこの仕方によって数多の旧知己をば失ったが、僅(わず)かばかりの変りものの知遇者を得た。世間には啀(いが)み合う鑼(どら)、捩(ねじ)り合う銅□(にょうばち)のような騒々しいものを混えることに於て、却(かえ)って知音や友情が通じられる支那楽のような交際も無いことはない。鼈四郎が向き嵌(はま)って行ったのはそういう苦労胼胝(たこ)で心の感膜が厚くなっている年長の連中であった。
 その頃、京極でモダンな洋食店のメーゾン檜垣の主人もその一人であった。このアメリカ帰りの料理人は、妙に芸術や芸術家の生活に渇仰をもっていて、店の監督の暇には油画を描いていた。寝泊りする自分の室は画室のようにしていた。彼は客の誰彼を掴(つかま)えてはニューヨークの文士村(グリンウィッチビレージ)の話をした。巴里(パリ)の芸術街を真似(まね)ようとするこの街はアメリカ人気質と、憧憬による誇張によって異様で刺激的なものがあった。主人はそれを語るのに使徒のような情熱をもってした。店の施設にもできるだけ応用した。酒神(バッカス)の祭の夕。青蝋燭(あおろうそく)の部屋、新しいものに牽(ひ)かれる青年や、若い芸術家がこの店に集ったことは見易き道理である。この古都には若い人々の肺には重苦しくて寂寥(せきりょう)だけの空気があった。これを撥(は)ね除(の)け攪(か)き壊すには極端な反撥(はんぱつ)が要った。それ故、一般に東京のモダンより、上方のモダンの方が調子外れで薬が強いとされていた。
 鼈四郎はこの店に入浸るようになった。お互いに基礎知識を欠く弱味を見透すが故に、お互いに吐き合う気焔(きえん)も圧迫感を伴わなかった。飄々(ひょうひょう)とカンのまま雲に上り空に架することができた。立会いに相手を傲慢(ごうまん)で呑(の)んでかかってから軽蔑(けいべつ)の歯を剥出(むきだ)して、意見を噛(か)み合わす無遠慮な談敵を得て、彼等は渾身(こんしん)の力が出し切れるように思った。その間に狡(ずる)さを働かして耳学問を盗み合い、椀ぎ取る利益も彼等には歓(よろこ)びであった。鼈四郎が東洋趣味の幽玄を高嘯(こうしょう)するに対し、檜垣の主人は西洋趣味の生々(なまなま)しさを誇った。かかるうち知識は交換されて互いの薬籠中(やくろうちゅう)に収められていた。
 いつでも意見が一致するのは、芸術至上主義の態度であった。誤って下層階級に生い立たせられたところから自恃(じじ)に相応わしい位置にまで自分を取戻すにはカンで攀(よ)じ登れる芸術と称するもの以外には彼等は無いと感じた。彼等は鑑識の高さや広さを誇った。この点ではお互いに許し合った。琴棋書画、それから女、芝居、陶器、食もの、思想に亙(わた)るものまでも、分け距(へだ)てなく味い批評できる彼等をお互いに褒め合った。「僕らは、天才じゃね」「天才じゃねえ」
 檜垣の主人は、胸の病持ちであった。彼が独身生活を続けるのも、そこから来るのであったが、情慾は強いかして彼の描く茫漠(ぼうばく)とした油絵にも、雑多に蒐(あつ)められる蒐集品(しゅうしゅうひん)にも何かエロチックの匂(にお)いがあった。痩(や)せて青黒い隈(くま)の多い長身の肉体は内部から慾求するものを充(みた)し得ない悩みにいつも喘(あえ)いでいた。それに較(くら)べると中背ではあるが異常に強壮な身体を持っている鼈四郎はあらゆる官能慾を貪(むさぼ)るに堪えた。ある種の嗜慾(しよく)以外は、貪り能(あと)う飽和点を味い締められるが故に却(かえ)って恬淡(てんたん)になれた。
 檜垣の主人は、鼈四郎を連れて、鴨川の夕涼みのゆかから、宮川町辺の赤黒い行灯(あんどん)のかげに至るまで、上品や下品の遊びに連れて歩るいた。そこでも、味い剰(あま)すがゆえにいつも暗鬱(あんうつ)な未練を残している人間と、飽和に達するがゆえに明色の恬淡に冴(さえ)る人間とは極端な対象を做した。鼈四郎は檜垣の主人の暗鬱な未練に対し、本能の浅間しさと共に本能の深さを感じ、檜垣の主人は鼈四郎の肉体に対して嫉妬(しっと)と驚異を感じた。二人は心秘(こころひそ)かに「あいつ偉い奴じゃ」と互いに舌を巻いた。
 起伏表裏がありながら、また最後に認め合うものを持つ二人の交際は、縄のように絡(から)み合い段々その結ぼれを深めた。正常な教養を持つ世間の知識階級に対し、脅威を感ずるが故に、睥睨(へいげい)しようとする職人上りで頭が高い壮年者と青年は自らの孤独な階級に立籠(たてこも)って脅威し来るものを罵(ののし)る快を貪るには一あって二無き相手だった。彼等は毎日のように会わないでは寂しいようになった。
 鼈四郎は檜垣の主人に対しては対蹠的(たいしょてき)に、いつも東洋芸術の幽邃高遠(ゆうすいこうえん)を主張して立向う立場に立つのだが、反噬(はんぜい)して来る檜垣の主人の西洋芸術なるものを、その範とするところの名品の複写などで味わされる場合に、躊躇(ちゅうちょ)なく感得されるものがあった。檜垣の主人が持ち帰ったのは主にフランス近代の巨匠のものだったが、本能を許し、官能を許し、享受を許し、肉情さえ許したもののあることは東洋の躾(しつけ)と道徳の間から僅にそれ等を垣間(かいま)見させられていたものに取っては驚きの外無かった。恥も外聞も無い露(む)き出しで、きまりが悪いほどだった。「こいつ等は、まるで素人じゃねえ、」鼈四郎は檜垣の主人に向ってはこうも押えた口を利くようなものの、彼の肉体的感覚は発言者を得たように喝采(かっさい)した。
 彼はこの店へ出入りをして食べ増した洋食もうまかったし、主人によっていろいろ話して聴かされた西洋の文化的生活の様式も、便利で新鮮に思われた。
 鼈四郎はこれ等の感得と知識をもって、彼の育ちの職場に引返して行った。彼は書画に携る輩(やから)に向ってはデッサンを説き、ゴッホとかセザンヌとかの名を口にした。茶の湯生花の行われる巷(ちまた)に向っては、ティパーティの催しを説き、アペリチーフの功徳を説き、コンポジションとかニュアンスとかいう洋名の術語を口にした。
 東洋の諸芸術にも実践上の必需から来る自らなるそれ等にあって、ただ名前と伝統が違っているだけだった。それゆえ、鼈四郎のいうことはこれ等に携る人々にもほぼ察しはつき、心ある者は、なんだ西洋とてそんなものかと嵩(たか)を括(くく)らせはしたが当時モダンの名に於て新味と時代適応性を西洋的なものから採入れようとする一般の風潮は彼の後姿に向っては「葵祭(あおいまつり)の竹の欄干(てすり)で」青く擦(す)れてなはると蔭口を利きながら、この古都の風雅の社会は、彼の前に廻(まわ)っては刺激と思い付を求めねばならなかった。彼の人気は恢復(かいふく)した。三曲の演奏にアンコールを許したり、裸体彫像に生花を配したり、ずいぶん突飛なことも彼によって示唆されたが、椅子(いす)テーブルの点茶式や、洋食を緩和して懐石の献立中に含めることや、そのときまで、一部の間にしか企てられていなかった方法を一般に流布せしめる椽(えん)の下の力持とはなった。彼は、ところどころで「先生」と呼ばれるようになった。
 彼はこの勢を駆って、メーゾン檜垣に集る若い芸術家の仲間に割り込んだ。彼の高飛車と粗雑はさすがに、神経のこまかいインテリ青年たちと肌合いの合わないものがあった。彼は彼等を吹き靡(なび)け、煙に巻いたつもりでも最後に、沈黙の中で拒まれているコツンとしたものを感じた。それは何とも説明し難いものではあるが彼をして現代の青年の仲間入りしようとする勇気を無雑作に取拉(とりひし)ぐ薄気味悪い力を持っていた。彼は考えざるを得なかった。
 春の宵であった。檜垣の二階に、歓迎会の集りがあった。女流歌人で仏教家の夫人がこの古都のある宗派の女学校へ講演に頼まれて来たのを幸、招いて会食するものであった。画家の良人(おっと)も一しょに来ていた。テーブルスピーチのようなこともあっさり切上がり、内輪で寛(くつろ)いだ会に見えた。しかし鼈四郎(べつしろう)にとってこの夫人に対する気構えは兼々雑誌などで見て、納らぬものがあった。芸術をやるものが宗教に捉(とら)われるなんて――、夫人が仏教を提唱することは、自分に幼時から辛い目を見せた寺や、境遇の肩を持つもののようにも感じられた。とうとう彼は雑談の環の中から声を皮肉にして詰(なじ)った。夫人が童女のままで大きくなったような容貌(ようぼう)も苦労なしに見えて、何やら苛(いじ)め付けたかった。
 夫人はちょっと無礼なといった面持をしたが、怒りは嚥(の)み込んでしまって答えた、「いいえ、だから、わたくしは、何も必要のない方にやれとは申上ちゃおりません」鼈四郎は嵩(かさ)にかかって食ってかかったが、夫人は「そういう聞き方をなさる方には申上られません」と繰返すばかりであった。世間知らずの少女が意地を張り出したように鼈四郎にはとれた。
 一時白けた雰囲気の空虚も、すぐまわりから歓談で埋められ、苦り切り腕組をして、不満を示している彼の存在なぞは誰も気付かぬようになった。彼の怒りは縮れた長髪の先にまでも漲(みなぎ)ったかと思われた。その上、彼を拗(こじ)らすためのように、夫人は勧められて「京の四季」かなにかを、みんなの余興の中に加って唄(うた)った。低めて唄ったもののそれは暢(のび)やかで楽しそうだった。良人の画家も列座と一しょに手を叩(たた)いている。
 すべてが自分に対する侮蔑(ぶべつ)に感じられてならない鼈四郎は、どんな手段を採ってもこの夫人を圧服し、自分を認めさそうと決心した。彼は、檜垣の主人を語って、この画家夫妻の帰りを待ち捉え、主人の部屋の画室へ、作品を見に寄って呉(く)れるよう懇請した。その部屋には鼈四郎の制作したものも数々置いてあった。
 彼は遜(へりくだ)る態度を装い、強いて夫人に向って批評を求めた。そこには額仕立ての書画や篆額(てんがく)があった。夫人はこういうものは好きらしく、親し気に見入って行ったが、良人を顧みていった。「ねえ、パパ、美しくできてるけど、少し味に傾いてやしない?」良人は気の毒そうにいった。「そうだなあ、味だな」鼈四郎は哄笑(こうしょう)して、去り気ない様子を示したが、始めて人に肺腑(はいふ)を衝(つ)かれた気持がした。良人の画家に「大陸的」と極(き)めをつけられてよいのか悪いのか判(わか)らないが、気に入った批評として笑窪(えくぼ)に入った檜垣の主人まで「そういえば、なるほど、君の芸術は味だな」と相槌(あいづち)を打つ苦々しさ。
 鼈四郎は肺腑を衝かれながら、しかしもう一度執拗(しつよう)に夫人へ反撃を密謀した。まだ五六日この古都に滞在して春のゆく方を見巡(みめぐ)って帰るという夫妻を手料理の昼食に招いた。自分の作品を無雑作に味と片付けてしまうこの夫人が、一体、どのくらいその味なるものに鑑識を持っているのだろう。食もので試してやるのが早手廻(はやてまわ)しだ。どうせ有閑夫人の手に成る家庭料理か、料理屋の形式的な食品以外、真のうまいものは食ってやしまい。もし彼女に鑑識が無いのが判ったなら彼女の自分の作品に対する批評も、惧(おそ)れるに及ばないし、もし鑑識あるものとしたなら、恐らく自分の料理の技倆(ぎりょう)に頭を下げて感心するだろう。さすればこの方で夫人は征服でき、夫人をして自分を認め返さすものである。
 幸に、夫妻は招待に応じて来た。
 席は加茂川の堤下の知れる家元の茶室を借り受けたものであった。彼は呼び寄せてある指導下の助手の料理人や、給仕の娘たちを指揮して、夫妻の饗宴(きょうえん)にかかった。
 彼はさきの夜、檜垣の歓迎会の晩餐(ばんさん)にて、食事のコース中、夫人が何を選み、何を好み食べたか、すっかり見て取っていた。ときどき聞きもした。それは努めてしたのではないが、人の嗜慾(しよく)に対し間諜犬(かんちょうけん)のような嗅覚(きゅうかく)を持つ彼の本能は自ずと働いていた。夫人の食品の好みは専門的に見て、素人なのだか玄人なのだか判らなかった。しかし嗜求する虫の性質はほぼ判った。
 鼈四郎は、献立の定慣や和漢洋の種別に関係なく、夫人のこの虫に向って満足さす料理の仕方をした。ああ、そのとき、何という人間に対する哀愛の気持が胸の底から湧(わ)き出たことだろう。そこにはもう勝負の気もなかった。征服慾も、もちろんない。
 あの大きな童女のような女をして眼を瞠(みは)らせ、五感から享(う)け入れる人の世の満足以上のものを彼女をして無邪気に味い得しめたなら料理それ自身の手柄だ。自分なんかの存在はどうだってよい。彼はその気持から、夫人が好きだといった、季節外れの蟹(かに)を解したり、一口蕎麦(そば)を松江風に捏(こ)ねたりして、献立に加えた。ふと幼いとき、夜泣きして、疳(かん)の虫の好く、宝来豆(ほうらいまめ)というものを欲しがったとき老僧の父がとぼとぼと夜半の町へ出て買って来て呉れたときの気持を想(おも)い出した。鼈四郎は捏ね板へ涙の雫(しずく)を落すまいとして顔を反向けた。所詮(しょせん)、料理というものは労(いたわ)りなのであろうか。そして労りごころを十二分に発揮できる料理の相手は、白痴か、子供なのではあるまいか。
 しかし鼈四郎は夫人が通客であった場合を予想し、もしその眼で見られても恥しからぬよう、坂本の諸子川の諸子魚(もろこ)とか、鞍馬の山椒皮(からかわ)なども、逸早(いちはや)く取寄せて、食品中に備えた。
 夫人は、大事そうに、感謝しながら食べ始めた。「この子附け鱠(なます)の美しいこと」「このえび藷(いも)の肌目(きめ)こまかく煮えてますこと」それから唇にから揚の油が浮くようになってからは、ただ「おいしいわ」「おいしいわ」というだけで、専心に喰(た)べ進んで行く。鼈四郎は、再び首尾はいかがと張り詰めていたものが食品の皿が片付けられる毎に、ずしんずしんと減って、気の衰えをさえ感ずるのだった。
 夫人も健啖(けんたん)だったが、画家の良人はより健啖だった。みな残りなく食べ終り、煎茶茶椀(せんちゃぢゃわん)を取上げながらいった。「ご馳走(ちそう)さまでした。御主人に申すが、この方が、よっぽど、あんたの芸術だね」そして夫人の方に向い、それを皮肉でなく、好感を持つ批評として主人に受取らせるよう夫人の註解(ちゅうかい)した相槌(あいづち)を求めるような笑い方をしていた。夫人も微笑したが、声音(こわね)は生真面目(きまじめ)だった。「わたくしも、警句でなく、ほんとにそう思いますわ。立派な芸術ですわ。」
 鼈四郎は図星に嵌(は)めたと思うと同時に、ぎくりとなった。彼はいかにふだん幅広い口を利こうと、衷心では料理より、琴棋書画に位があって、先生と呼ばれるに相応(ふさ)わしい高級の芸種であるとする世間月並の常識を無(な)みしようもない。その高きものを前日は味とされ、今日低きものに於て芸術たることを認められた。天分か、教養か、どちらにしろ、もはや自分の生涯の止めを刺された気がした。この上、何をかいおうぞ。
 加茂川は、やや水嵩(みずかさ)増して、ささ濁りの流勢は河原の上を八千岐(やちまた)に分れ下へ落ちて行く、蛇籠(じゃかご)に阻まれる花芥(あくた)の渚の緑の色取りは昔に変りはないけれども、魚は少くなったかして、漁(あさ)る子供の姿も見えない。堤の芽出し柳の煙れる梢(こずえ)に春なかばの空は晴れみ曇りみしている。
 しばらく沈黙の座に聞澄している淙々(そうそう)とした川音は、座をそのままなつかしい国へ押し移す。鼈四郎(べつしろう)は、この川下の対岸に在って大竹原で家棟は隠れ見えないけれども、まさしくこの世に一人残っている母親のことを思い出す。女餓鬼(めがき)の官女のような母親はそこで食味に執しながら、一人息子が何でもよいたつきの業を得て帰って来るのを待っている。しばらく家へは帰らないが、拓本職人の親方の老人は相変らず、小学校の運動会を漁り歩き遊戯をする児童たちのいたいけな姿に老いの迫るを忘れようと努めているであろうか。
 鼈四郎は、笑いに紛らしながら、幼時、母子二人の夕餉(ゆうげ)の菜のために、この河原で小魚を掬(すく)い帰った話をした。「いままで、ずいぶん、いろいろなうまいものも食いましたが、いま考えてみると、あのとき母が煮て呉(く)れた雑魚(ざこ)の味ほどうまいと思ったものに食い当りません」それから彼は、きょう、料理中に感じたことも含めて、「すると、味と芸術の違いは労(いたわ)りがあると、無いとの相違でしょうかしら」といった。
 これに就(つ)き夫人は早速に答えず、先ず彼等が外遊中、巴里(パリ)の名料理店フォイヨで得た経験を話した。その料理店の食堂は、扉の合せ目も床の敷ものも物音立てぬよう軟い絨氈(じゅうたん)や毛織物で用意された。色も刺激を抜いてある。天井や卓上の燭光も調節してある。総ては食味に集中すべく心が配られてある。給仕人はイゴとか男性とかいういかついものは取除かれた品よく晒(さら)された老人たちで、いずれはこの道で身を滅した人間であろう、今は人が快楽することによって自分も快楽するという自他移心の術に達してるように見ゆる。食事は聖餐(せいさん)のような厳かさと、ランデブウのようなしめやかさで執り行われて行く。今やテーブルの前には、はつ夏の澄める空を映すかのような薄浅黄色のスープが置かれてある。いつの間に近寄って来たか給仕の老人は輪切りにした牛骨の載れる皿を銀盤で捧げて立っている。老人は客が食指を動し来る呼吸に坩(つぼ)を合せ、ちょっと目礼して匙(さじ)で骨の中から髄を掬い上げた。汁の真中へ大切に滑り浮す。それは乙女の娘生(きしょう)のこころを玉に凝らしたかのよう、ぶよぶよ透けるが中にいささか青春の潤(うる)みに澱(よど)んでいる。それは和食の鯛の眼肉の羮(あつもの)にでも当る料理なのであろうか。老人は恭しく一礼して数歩退いて控えた。いかに満足に客がこの天の美漿(びしょう)を啜(す)い取るか、成功を祈るかのよう敬虔(けいけん)に控えている。もちろん料理は精製されてある。サービスは満点である。以下デザートを終えるまでのコースにも、何一つ不足と思えるものもなく、いわゆる善尽し、美尽しで、感嘆の中に食事を終えたことである。
「しかしそれでいて、私どもにはあとで、嘗(な)めこくられて、扱い廻(まわ)されたという、後口に少し嫌なものが残されました。」
「面と向って、お褒めするのも気まりが悪うございますから、あんまり申しませんが、そういっちゃ何ですが、今日の御料理には、ちぐはぐのところがございますけれど、まことというものが徹しているような気がいたしました。」
 意表な批評が夫人の口から次々に出て来るものである。料理に向ってまことなぞという言葉を使ったのを鼈四郎は嘗(かつ)て聞いたことはない。そして、まこと、まごころ、こういうものは彼が生れや、生い立ちによる拗(す)ねた心からその呼名さえ耳にすることに反感を持って来た。自分がもしそれを持ったなら、まるで、変り羽毛の雛鳥(ひなどり)のように、それを持たない世間から寄って蝟(たか)って突き苛(いじ)められてしまうではないか。弱きものよ汝(なんじ)の名こそ、まこと。自分にそういうものを無(な)みし、強くあらんがための芸術、偽りに堪えて慰まんための芸術ではないか。歌人の芸術家だけに旧臭(ふるくさ)く否味(いやみ)なことをいう。道徳かぶれの女学生でもいいそうな芸術批評。歯牙(しが)に懸けるには足りない。
 鼈四郎はこう思って来ると夫妻の権威は眼中に無くなって、肩肘(かたひじ)がむくむくと平常通り聳立(そびえた)って来るのを覚えた。「はははは、まこと料理ですかな」
 車が迎えに来て、夫妻は暇(いとま)を告げた。鼈四郎はこれからどちらへと訊(き)くと、夫妻は壬生寺(みぶでら)へお詣(まい)りして、壬生狂言の見物にと答えた。鼈四郎は揶揄(やゆ)して「善男善女の慰安には持って来いですね」というと、ちょっと眉(まゆ)を顰(ひそ)めた夫人は「あれをあなたは、そうおとりになりますの、私たちは、あの狂言のでんがんでんがんという単調な鳴物を地獄の音楽でも聞きに行くように思って参りますのよ」というと、良人(おっと)の画家も、実は鼈四郎の語気に気が付いていて癪(しゃく)に触ったらしく「君おれたちは、善男善女でもこれで地獄は一遍たっぷり通って来た人間たちだよ。だが極楽もあまり永く場塞(ばふさ)ぎしては済まないと思って、また地獄を見付けに歩るいているところだ。そう甘くは見なさるなよ」と窘(たしな)めた。夫人はその良人の肘をひいて「こんな美しい青年を咎(とが)め立するもんじゃありませんわ。人間の芸術品が壊れますわ」自分のいったことを興がるのか、わっわと笑って車の中へ駈(か)け込んだ。
 鼈四郎はその後一度もこの夫妻に会わないが、彼の生涯に取ってこの春の二回の面会は通り魔のようなものだった。折角設計して来た自分らしい楼閣を不逞(ふてい)の風が浚(さら)い取った感じが深い芸術なるものを通して何かあるとは感づかせられた。しかし今更、宗教などという黴臭(かびくさ)いと思われるものに関る気はないし、そうかといって、夫人のいったまこととかまごころとかいうものを突き詰めて行くのは、安道学らしくて身慄(みぶる)いが出るほど、怖気(おぞけ)が振えた。結局、安心立命するものを捉(とら)えさえしたらいいのだろう。死の外にそれがあるか。必ず来て総てが帳消しされる死、この退(の)っ引(ぴき)ならないものへ落付きどころを置き、その上での生きてるうちが花という気持で、せいぜい好きなことに殉じて行ったなら、そこに出て来る表現に味とか芸術とかの岐(わか)れの議論は立つまい。「いざとなれば死にさえすればいいのだ」鼈四郎は幼い時分から辛(つら)い場合、不如意な場合には逃れずさまよい込み、片息をついたこの無可有の世界の観念を、青年の頭脳で確(しか)と積極的に思想に纏(まと)め上げたつもりでいる。これを裏書するように檜垣の主人の死が目前に見本を示した。
 檜垣の主人は一年ほどまえから左のうしろ頸(くび)に癌(がん)が出はじめた。始めは痛みもなかった。ちょっと悪性のものだから切らん方がよいという医師の意見と処法に従ってレントゲンなどかけていたが。癌は一時小さくなって、また前より脹(は)れを増した。とうとう痛みが来るようになった。医者も隠し切れなくなったか肺臓癌(はいぞうがん)がここに吹出したものだと宣告した。これを聞いても檜垣の主人は驚かなかった。「したいと思ったことでできなかったこともあるが、まあ人に較(くら)べたらずいぶんした方だろう」「この辺で節季の勘定を済すかな」笑いながらそういった。それから身の上の精算に取りかかった。店を人に譲り総ての貸借関係を果すと、少しばかり余裕の金が残った。「僕は賑(にぎや)かなところで死にたい」彼はそれをもって京極の裏店に引越した。美しい看護婦と、気に入りのモデルの娘を定まった死期までの間の常傭(じょうやと)いにして、そこで彼は彼の自らいう「天才の死」の営みにかかった。
 売り惜んだ彼が最後に気に入りの蒐集品(しゅうしゅうひん)で部屋の中を飾った。それでも狭い部屋の中は一ぱいで猶太人(ユダヤじん)の古物商の小店ほどはあった。
 彼はその部屋の中に彼が用いつけの天蓋附(てんがいつき)のベッドを据えた。もちろん贋(にせ)ものであろうが、彼はこれを南北戦争時分にアメリカへ流浪した西班牙(スペイン)王属出の吟遊詩人が用いたものだといっていた。柱にラテン文字で詩は彫付けてあるにはあった。彼はそこで起上って画を描き続けた。
 癌(がん)はときどき激しく痛み出した。服用の鎮痛剤ぐらいでは利かなかった。彼は医者に強請(せが)んで麻痺薬(まひやく)を注射して貰う。身体が弱るからとてなかなか注(さ)して呉(く)れない。全身、蒼黒(あおぐろ)くなりその上、痩(やせ)さらばう骨の窪(くぼ)みの皮膚にはうす紫の隈(くま)まで、漂い出した中年過ぎの男は脹(は)れ嵩張(かさば)ったうしろ頸(くび)の瘤(こぶ)に背を跼(くぐ)められ侏儒(しゅじゅ)にして餓鬼のようである。夏の最中(さなか)のこととて彼は裸でいるので、その見苦しさは覆うところなく人目を寒気立した。痛みが襲って来ると彼はその姿でベッドの上で□(もが)き苦しむ。全身に水を浴びたよう脂汗をにじみ出し長身の細い肢体を捩(ねじ)らし擦り合せ、甲斐(かい)ない痛みを扱(こ)き取ろうとするさまは、蛇が難産をしているところかなぞのように想像される。いくら認め合った親友でも、鼈四郎(べつしろう)は友の苦しみを看護(みと)ることは好まなかった。
 苦しみなぞというものは自分一人のものだけでさえ手に剰(あま)っている。殊に不快ということは人間の感覚に染(し)み付き易いものだ。芸術家には毒だ。避けられるだけ避けたい。そこで鼈四郎は檜垣の病主人に苦悶(くもん)が始まる、と、すーっと病居を抜け出て、茶を飲んで来るか、喋(しゃべ)って来るのであった。だが病友は許さなくなった。「なんだ意気地のない。しっかり見とれ、かく成り果てるとまた痛快なもんじゃから――」息を喘(あえ)がせながらいった。
 鼈四郎は、手を痛いほど握り締め、自分も全身に脂汗をにじみ出させて、見ることに堪えていた。死は惧(おそ)ろしくはないが、死へ行くまでの過程に嫌なものがあるという考えがちらりと念頭を掠(かす)めて過ぎた。だがそういうことは病主人が苦悶を深め行くにつれ却(かえ)って消えて行った。あまりの惨(いた)ましさに痺(しび)れてぽかんとなってしまった鼈四郎の脳底に違ったものが映り出した。見よ、そこに蠢(うごめ)くものは、もはやそれは生物ではない。埃及(エジプト)のカタコンブから掘出した死蝋(しろう)であるのか、西蔵(チベット)の洞窟(どうくつ)から運び出した乾酪(かんらく)の屍体(したい)であるのか、永くいのちの息吹きを絶った一つの物質である。しかも何やら律動しているところは、現代に判(わか)らない巧妙繊細な機械仕掛けが仕込まれた古代人形のようでもある。蒼黒く燻(くす)んだ古代人形はほぼ一定の律動をもって動く、くねくね、きゅーっぎゅっと□いて、もくんと伸び上る。頽(くずお)れて、そして絶息するようにふーむと□く。同じ事が何度も繰返される。モデル娘は惨ましさに泣きかけた顔をおかしさで歪(ゆが)み返させられ、妙な顔になって袖(そで)から半分覗(のぞ)かしている。看護婦は少し怒りを帯びた深刻な顔をして団扇(うちわ)で煽(あお)いでいる。
 鼈四郎は気付いた。病友はこの苦しみの絶頂にあって遊ぼうとしているのだ。彼は痛みに対抗しようとする肉体の自らなる□きに、必死とリズムを与えて踊りに慥えているのだ。そうすることが少しでも病痛の紛らかしになるのか、それとも友だちの、ふだんいう「絶倫の芸術」を自分に見せようため骨を折っているのか。病友はまた踊る、くねくね、ぎゅーっ、きゅ、もくんもくんそして頽れ絶息するようにふーむと□く。それは回教徒の祈祷(きとう)の姿に擬しつつ実は、聞えて来る活動館の安価な楽隊の音に合わせているのだった。
 鼈四郎が、なお愕(おどろ)いたことは、病友は、そうしながら向う側の壁に姿見鏡を立てかけさせ、自分の悲惨な踊りを、自ら映しみて効果を味っていることだった。映像を引立たせる背景のため、鏡の縁の中に自分の姿と共に映し入るよう、青い壁絨と壺(つぼ)に夏花までベッドの傍に用意してあるのだった。鼈四郎に何か常識的な怒りが燃えた。「病人に何だって、こんなばかなことをさしとくのだ」鼈四郎はモデルの娘に当った。モデル娘は「だって、こちらが仰(おっ)しゃるんですもの」と不服そうにいった。病友はつまらぬ咎(とが)め立をするなと窘(たしな)める眼付をした。
 三度に一度の願いが叶(かな)って医者に注射をして貰ったときには病友は上機嫌で、へらりへらり笑った。食慾を催して鼈四郎に何を作れかにを作れと命じた。
 葱(ねぎ)とチーズを壺焼(つぼやき)にしたスープ・ア・ロニオンとか、牛舌(オックス・タング)のハヤシライスだとか、莢隠元(アリコベル)のベリグレット・ソースのサラダとか、彼がふだん好んだものを註文(ちゅうもん)したので鼈四郎は慥え易かった。しかし家鴨(あひる)の血を絞ってその血で家鴨の肉を煮る料理とか、大鰻をぶつ切りにして酢入りのゼリーで寄る料理とかは鼈四郎は始めてで、ベッドの上から病友に差図されながらもなかなか加減は難しかった。家鴨の血をアルコールランプにかけた料理盤で掻(か)き混ぜてみると上品なしる粉ほどの濃さや粘りとなった。これを塩(しお)胡椒(こしょう)し、家鴨の肉の截片を入れてちょっと煮込んで食べるのだが、鼈四郎は味見をしてみるのに血生臭(ちなまぐさ)いことはなかった。巴里(パリ)の有名な鴨料理店の家の芸の一つでまず凝った贅沢(ぜいたく)料理に属するものだと病友はいった。鰻の寄せものは伊太利(イタリア)移民の貧民街などで辻売(つじうり)している食品で、下層階級の食べものだといった。うまいものではなかった。病友はそれらの食品にまつわる思い出でも楽しむのか、慥えてやってもろくに食べもしないで、しかし次々にふらふらと思い出しては註文した。鴨のない時期に、鴨に似た若い家鴨を探したり、夏長(た)けて莢(さや)は硬ばってしまった中からしなやかな莢隠元(さやいんげん)を求めたり鼈四郎は、走り廻(まわ)った。病友はまたずっと溯(さかのぼ)った幼時の思い出を懐しもうとするのか、フライパンで文字焼を焼かせたり、炮烙(ほうろく)で焼芋を作らせたりした。
 これ等を鼈四郎は、病友が一期の名残りと思えばこそ奔走しても望みを叶えさしてやるのだが、病友はこれ等を娯(たの)しみ終りまだ薬の気が切れずに上機嫌の続く場合に、鼈四郎を遊び相手に労(わずらわ)すのにはさすがの鼈四郎も、病友が憎くなった。病友は鼈四郎にうしろ頸に脹れ上って今は毬(まり)が覗(のぞ)いているほどになっている癌の瘤へ、油絵の具で人の顔を描けというのである。「誰か友だちを呼んで見せて、人面疽(じんめんそ)が出来たと巫山戯(ふざけ)てやろう」鼈四郎が辞んでも彼は訊入(ききい)れなかった。鼈四郎は渋々筆を執った。繃帯(ほうたい)を除くとレントゲンの光線焦(や)けと塗り薬とで鰐皮色(わにがわいろ)になっている堆(うずたか)いものの中には執拗(しつよう)な反人間の意志の固りが秘められているように思われる。内側からしんの繁凝(しこり)が円味を支え保ち、そしてその上に程よい張度の肉と皮膚が覆っている腫物(はれもの)は、鋭いメスをぐさと刺し立てたい衝動と、その意地張った凝り固りには、ひょぐって揶揄(やゆ)してやるより外に術はないという感じを与えられる。腫物の皮膚に油絵の具のつきはよかった。彼は絵の具を介して筆尖(ひっせん)でこの怪物の面を押し擦るタッチのうちに病友がいかにこの腫物を憎んだか。そして憎み剰った末が、悪戯(いたずら)ごころに気持をはぐらかさねばならないわけが判るような気がした。「思い切り、人間の、苦痛というものをばかにした顔に描いてやれ、腫物とは見えない人の顔に」彼は、人の顔らしく地塗りをし、隈取(くまど)りをし鼻、口、眼と描き入れかけた。病友はここまで歯を食い縛って我慢していたが、「た た た た た た」といって身体をすさらせた。彼はいった。「さすがに堪(たま)らん、もう、ええ、あとはたれか痛みの無くなった死骸(しがい)になってから描き足して呉(く)れ」それゆえ、腫物の上に描いた人の顔は瞳(ひとみ)は一方しか入れられずに、しかも、ずっている。鼈四郎は病友がいった通り、彼が死んでからも顔を描き上げようとはしなかった。隻眼を眇(すがめ)にして睨(にら)みながら哄笑(こうしょう)している模造人面疽(もぞうじんめんそ)の顔は、ずった偶然によって却(かえ)って意味を深めたように思えた。人生の不如意を、諸行無常を眺めやる人間の顔として、なんで、この上、一点の描き足しを附け加える必要があろう。
 鼈四郎は病友の屍体(したい)の肩尖(かたさき)に大きく覗いている未完成の顔をつくづく見瞠(みい)り「よし」と独りいって、屍体を棺に納め、共に焼いてしまったことであった。
 病友に痛みの去る暇なく、注射は続いた。流動物しか摂(と)れなくなって、彼はベッドに横わり胸を喘ぐだけとなった。鼈四郎は、それが夜店の膃肭獣(おっとせい)売りの看板である膃肭獣の乾物に似ているので、人間も変れば変るものだと思うだけとなった。病友は口から入れるものは絶ち、苦痛も無くなってしまったらしい。医者は臨終は近いと告げた。看護婦もモデルの娘も涙の眼をしょぼしょぼさせながら帰り支度の始末を始め出した。病友は朦々(もうもう)として眠っているのか覚めているのか判らない場合が多い。けれども咽頭奥(のどおく)で呟(つぶや)くような声がしているので鼈四郎(べつしろう)が耳を近付けてみると、唄(うた)を唄っているのだった。病友がこういう唄を唄ったことを一度も鼈四郎は聞いたことはなかった。覚束(おぼつか)ない節を強いて聞分けてみると、それは子守唄だった。「ねんころりよ、ねんころりねんころり」
 鼈四郎の顔が自分に近付いたのを知って病友は努めて笑った。そして喘(あえ)ぎ喘ぎいう文句の意味を理解に綴(つづ)ってみるとこういうのだった。「どこを見渡してもさっぱりしてしまって、まるで、何にもない。いくら探しても遺身(かたみ)の品におまえにやるものが見付からないので困った。そうそう伯母さんが東京に一人いる。これは無くならないでまだある。遠方にうすくぼんやり見える。これをおまえにやる。こりゃいいもんだ。やるからおまえの伯母さんにしなさい。」
 病友は死んだ。店の旧取引先か遊び仲間の知友以外に京都には身寄りらしいものは一人も無かった。東京の伯母なるものに問合すと、年老いてることでもあり葬儀万端然(しか)るべくという返事なので鼈四郎は、主に立って取仕切り野辺の煙りにしたことであった。


 その遺骨を携えて鼈四郎は東京に出て来た。東京生れの檜垣の主人はもはや無縁同様にはなっているようなものの菩提寺(ぼだいじ)と墓地は赤坂青山辺に在った。戸主のことではあり、ともかく、骨は菩提寺の墓に埋めて欲しいという伯母の希望から運んで来たのであったが、鼈四郎は東京のその伯母の下町の家に落付き、埋葬も終えて、序(ついで)にこの巨都も見物して京都に帰ろうとする一ヶ月あまりの間に、鼈四郎はもう伯母の擒(とりこ)となっていた。
 この伯母は、女学校の割烹教師(かっぽうきょうし)上りで、草創時代の女学校とてその他家政に属する課目は何くれとなく教えていた。時代後れとなって学校を退かされてもこれが却(かえ)って身過ぎの便りとなり、下町の娘たちを引受けて嫁入り前の躾(しつけ)をする私塾を開いていた。伯母も身うちには薄倖(はっこう)の女で、良人(おっと)には早く死に訣(わか)れ、四人ほどの子供もだんだん欠けて行き、末の子の婚期に入ったほどの娘が一人残って、塾の雑事を賄(まかな)っていた。貧血性のおとなしい女で、伯母に叱(しか)られては使い廻(まわ)され、塾の生徒の娘たちからは姉さんと呼ばれながら少しばかにされている気味があった。何かいわれると、おどおどしているような娘だった。
 伯母はむかし幼年で孤児となった甥の檜垣の主人を引取り少年の頃まで、自分の子供の中に加えて育てたのであったが、以後檜垣の主人は家を飛出し、外国までも浮浪(さまよ)い歩るいて音信不通であったこの甥に対し、何の愛憎も消え失(う)せているといった。しかし、このまま捨置くことなら檜垣の家は後嗣(あと)絶えることになるといった。
 甥の檜垣の家が宗家で、伯母はその家より出て分家へ嫁に行ったものである。伯母はいった、自分の家は廃家しても関(かま)わぬ、しかし檜垣の宗家だけは名目だけでも取留めたい。そこで相談である。もし「それほど嫌でなかったら――」自分の娘を娶(めと)って呉(く)れて、できた子供の一人を檜垣の家に与え、家の名跡だけで復興さして貰い度(た)い。さすれば自分に取っては宗家への孝行となるし、あなたにしても親友への厚い志となる。「第一、貰って頂き度い娘は、檜垣に取ってたった一人の従兄弟女(いとこめ)である。これも何かのご縁ではあるまいか。」
 始めこの話を伯母から切出されたときに鼈四郎は一笑に附した。あの□々(ようよう)として芸術三昧(ざんまい)に飛揚して没(う)せた親友の、音楽が済み去ったあとで余情だけは残るもののその木地(きじ)は実は空間であると同じような妙味のある片付き方で終った。その病友の生涯と死に対し、伯母の提言はあまりに月並な世俗の義理である。どう矧(は)ぎ合わしても病友の生涯の継ぎ伸ばしにはならない。伯母のいう末の娘とて自分に取り何の魅力もない。「そんなことをいったって――」鼈四郎はひょんな表情をして片手で頭を抱えるだけてあったが、伯母の説得は間がな隙(すき)がな弛(ゆる)まなかった。「あなたも東京で身を立てなさい。東京はいいところですよ」といって、鼈四郎の才能を鑑検し、急ぎ蛍雪館はじめ三四の有力な家にも小使い取りの職仕を紹介してこの方面でも鼈四郎を引留める錨(いかり)を結びつけた。伯母は蛍雪館が下町に在った時分姉娘のお千代を塾で引受けて仕込んだ関係から蛍雪とは昵懇(じっこん)の間柄であった。
 何という無抵抗無性格な女であろうか。鼈四郎は伯母の末の娘で檜垣の主人の従姉妹(いとこ)に当るこの逸子という女の、その意味での非凡さにもやがて搦(から)め捕られてしまった。鼈四郎のような生活の些末(さまつ)の事にまで、タイラントの棘(とげ)が突出ている人間に取り、性抜きの薄綿のような女は却(かえ)って引懸り包(くる)まれ易い危険があったのだった。鼈四郎の世間に対する不如意の気持から来る八つ当りは、横暴ないい付けとなって手近かのものへ落ち下る。彼女はいつもびっくりした愁い顔で「はいはい」といい、中腰(ちゅうごし)駈足(かけあし)でその用を足そうと努める。自分の卑屈な役割は一度も顧ることなしに、また次の申付けをおどおどしながら待受けているさまは、鼈四郎には自分が電気を響かせるようで軽蔑(けいべつ)しながら気持がよいようになった。世を詛(のろ)い剰(あま)って、意地悪く吐出す罵倒や嘲笑(ちょうしょう)の鋒尖(ほこさき)を彼女は全身に刺し込まれても、ただ情無く我慢するだけ、苦鳴の声さえ聞取られるのに憶している。肌目(きめ)がこまかいだけが取得の、無味で冷たく弱々しい哀愁、焦(じ)れもできない馬鹿正直さ加減。一方、伯母は薄笑いしながら説得の手を緩めない。鼈四郎としては「何の」と思いながら、逸子が必要な身の廻りのものとなった。結婚同様の関係を結んでしまった。ずるずるべったりに伯母の望む如く、鼈四郎は、東京居住の人間となり逸子を妻と呼ぶことにしてしまった。そして檜垣の主人が死ぬ前に譫言(うわごと)にいった「伯母をおまえにやる。おまえの伯母にしろ」といった言葉が筋書通りになった不思議さを、ときどき想(おも)い見るのであった。
 京都に一人残っている生みの母親、青年近くまで養ってくれた拓本の老職人のことも心にかからないことはないけれども、鼈四郎の現在のような境遇には、彼等との関係はもとからの因縁が深いだけに、それを考えに上すことは苦しかった。この撥ぜ開けた巨都の中で一旗揚げる慾望に燃え盛って来た鼈四郎に取り、親友でこそあれ、他人の伯母さんを伯母さんと呼ぶぐらいの親身さが抜き差しができて責任が軽かった。責任感が軽くて世話をして呉れる老女は便利だった。しかし生きてるうちは好みに殉じ死に向ってはこれを遊戯視して、一切を即興詩のように過したかに見えた檜垣の主人が譫言の無意識でただ一筋、世俗的な糸をこの世に曳(ひ)き遺(のこ)し、それを友だちの自分に絡(から)みつけて行って、しかもその糸が案外、生あたたかく意味あり気なのを考えるのは嫌だった。
 伯母が世話をして呉れた下町の三四の有力な家の中で、鼈四郎は蛍雪館の主人に一ばん深く取入ってしまった。
 蛍雪館の主人は、江戸っ子漢学者で、少壮の頃は、当時の新思想家に違いなかった。講演や文章でかなり鳴(なら)した。油布の支那服なぞ着て、大陸政策の会合なぞへも出た。彼の説は時代遅れとなり妻の変死も原因して彼は公的のものと一切関係を断ち、売れそうな漢字辞典や、受験本を書いて独力で出版販売した。当ったその金で彼は家作や地所を買入れ、その他にも貨殖の道を講じた。彼は小富豪になった。
 彼は鰥(やもめ)で暮していた。姉のお千代に塾をひかしてから主婦の役をさせ、妹のお絹は寵愛物(ちょうあいぶつ)にしていた。蛍雪の性癖も手伝い、この学商の家庭には檜垣の伯母のようなもの以外出入りの人物は極めて少かった。新来とはいえ蛍雪に取って鼈四郎(べつしろう)は手に負えない清新な怪物であった。琴棋書画等趣味の事にかけては大概のことの話相手になれると同時に、その話振りは思わず熱意をもって蛍雪を乗り出させるほど、話の局所局所に、逆説的な弾機を仕掛けて、相手の気分にバウンドをつけた。中でも食味については鼈四郎は、実際に食品を作って彼の造詣(ぞうけい)を証拠立てた。偏屈人に対しては妙に心理洞察のカンのある彼は、食道楽であるこの中老紳士の舌を、その方面から暗(そら)んじてしまって、嗜慾(しよく)をピアノの鍵板(けんばん)のように操った。鰥暮しで暇のある蛍雪は身体の中で脂肪が燃えでもするようにフウフウ息を吐きながら、一日中炎天の下に旅行用のヘルメットを冠(かぶ)って植木鉢の植木を剪(き)り嘖(さいな)んだり、飼ものに凝ったり、猟奇的な蒐集物(しゅうしゅうぶつ)に浮身を□(やつ)したりした。時には自分になまじい物質的な利得ばかりを与えながら昔日の尊敬を忘れ去り、学商呼ばわりする世情を、気狂いのようになって悲憤慷慨(ひふんこうがい)することもある。そんな不平の反動も混って蛍雪の喰(た)べものへの執し方が激しくなった。
 蛍雪が姉娘のお千代を世帯染(しょたいじ)みた主婦役にいためつけながら、妹のお絹に当世の服装(みなり)の贅(ぜい)を尽させ、芝の高台のフランスカトリックの女学校へ通わせてほくほくしているのも、性質からしてお絹の方が気に入ってるには違いないが、やはり、物事を極端に偏らせる彼の凝り性の性癖から来るものらしかった。彼は鼈四郎が来るまえから鼈(すっぽん)の料理に凝り出していたのだが、鼈鍋(すっぽんなべ)はどうやらできたが、鼈蒸焼(むしやき)は遣(や)り損じてばかりいるほどの手並だった。鼈四郎は白木綿で包んだ鼈を生埋めにする熱灰を拵(こしら)える薪の選み方、熱灰の加減、蒸し焼き上る時間など、慣れた調子で苦もなくしてみせ、蛍雪は出来上ったものを毟(むし)って生醤油(きじょうゆ)で食べると近来にない美味であった。それまで鼈四郎は京都で呼び付けられていた与四郎の名を通していたのだったが、以後、蛍雪は与四郎を相手させることに凝り出し、手前勝手に鼈四郎と呼名をつけてしまった。娘の姉妹もそれについて呼び慣れてしまう。独占慾の強い蛍雪は、鼈四郎夫妻に住宅を与え僅(わずか)に食べられるだけの扶養を与えて他家への職仕を断らせた。
 鼈四郎は、蛍雪館へ足を踏み入れ妹娘のお絹を一目見たときから「おやっ」と思った。これくらい自分とは縁の遠い世界に住む娘で、そしてまたこれくらい自分の好みに合う娘はなかった。いつも夢見ているあどけない恰好(かこう)をしていて、そしてかすかに皮肉な苦味を帯びている。青ものの走りが純粋無垢(むく)でありながら、何か□(も)ぎ取られた将来の生い立ちを不可解の中に蔵している一つの権威、それにも似た感じがあった。
 お絹は人出入稀(ま)れな家庭に入って来た青年の鼈四郎を珍しがりもせず、ときどきは傍にいても、忘れたかのように、うち捨てて置いたまま、ひとりで夢見たり、遊んだりした。母無くして権高な父の手だけで育ったためか、そのとき中性型で高貴性のある寂しさがにじんだ。鼈四郎が美貌(びぼう)であることは最初から頓着(とんちゃく)しないようだった。姉娘のお千代の方が顔を赭(あから)めたり戸惑う様子を見せた。
 鼈四郎は絹に向うと、われならなくに一層肩肘(かたひじ)を張り、高飛車に出るのをどうしようもない。その心底を見透すもののようにまたそうでもないように、ふだん伏眼勝ちの煙れる瞳(ひとみ)をゆっくり上げて、この娘はまともに青年を瞠入(みい)るのであった。すると鼈四郎は段違いという感じがして身の卑しさに心が竦(すく)んだ。
 だが、鼈四郎は、蛍雪の相手をする傍ら、姉妹娘に料理法を教えることをいい付かり、お絹の手を取るようにして、仕方を授ける間柄になって来ると、鼈四郎は心易いものを覚えた。この娘も料理の業(わざ)は普通の娘同様、あどけなく手緩かった。それは着物の綻(ほころ)びから不用意に現している白い肌のように愛らしくもあった。彼は娘の間の抜けたところを悠々と味いながら叱(しか)りもし罵(ののし)りもできた。お絹はこういうときは負けていず、必ず遣(や)り返したが、この青年の持つ秀でた技倆(ぎりょう)には、何か関心を持って来たようだった。鼈四郎は調子づき、自己吹聴がてら彼の芸術論など喋(しゃべ)った。遠慮は除れた。しかしただそれだけのものであった。この娘こそ虫が好く虫が好くと思いながら、鼈四郎は、逸子との変哲もない家庭生活に思わず月日を過し子供も生れてしまった。もう一人檜垣の家の後嗣(あとつぎ)に貰える筈(はず)の子供が生れるのを伯母さんは首を長くして待受けている。


 今宵(こよい)、霧の夜の、闇(やみ)の深さ、粘りこさにそそられて鼈四郎は珍らしく、自分の過ぎ来た生涯を味い返してみた。死をもって万事清算がつく絶対のものと思い定め、それを落付きどころとして、その無からこの生を顧り、須臾(しゅゆ)の生なにほどの事やあると軽く思い做(な)されるこころから、また死を眺めやってこれも軽いものに思い取る。幼児の体験から出発して、今日までに思想にまで纏(まと)め上げたつもりの考え。
 しかる上は生きてるうちが花と定めて、できることなら仕度(した)い三昧(ざんまい)を続けて暮そうという考えは、だんだんあやしくなって来た。何一つ自分の思うこととてできたものはない。たった一つこれだけは漁(あさ)り続けて来たつもりの食味すら、それに纏(まつわ)る世俗の諸事情の方が多くて自分を意外の方向へ押流し、使い廻(まわ)す挺(てこ)にでもなっているような気がする。
 霰(あられ)が降る。深くも、粘り濃い闇の中に。いくら降っても降り白められない闇を、いつかは降り白められでもするかと、しきりに降り続けている。
 夜も更けたかして、あたりの家の物音は静り返り、表通りを通る電車の轟(とどろ)きだけがときどき響く。隣の茶の間で寝付いたらしい妻は、ときどき泣こうとする子供を「おとうさんがおとうさんが」と囁(ささや)いて乳房で押て黙らせ、またかすかな寝息を立てている。鼈四郎が家にいる間は、気難しい父を憚(はばか)り、母のいうこの声を聞くと共に、子供は泣きかかっても幼ごころに歯を食い縛り、我慢をする癖を鼈四郎は今宵はじめて憐(あわ)れに思った。没(な)くなった父の老僧は、もし子供が不如意を託(かこ)って「なぜ、こんな世の中に自分を生んだか」と、父を恨むような場合があったら、「こっちが頼みもしないのに、なぜ生れた。お互いさまだ。」といって聞かせと、母にいい置いたそうだが、今宵考えてみれば、亡父は考え抜いた末の言葉のようにも思える。子供にも彼自身に知られぬ意志がある。
 お互いさまでわけが判らぬ中に、父は自分を遺(のこ)し、自分はこの子を遺している。父のそのいい置きを伝えた母は、また、その実家の罪滅しのためとて、若い身空ですべての慾情を断ったつもりでも、食意地だけは断たれず、嘆きつつもそれを自分の慾情の上に伝えている。少年の頃、自分がうまいものをよそで饗(よ)ばれて帰って話すとき、母は根掘り葉掘り詳しく聞き返し、まるで自分が食べでもしたような満足さで顔を生々とさしたではないか。そして自分が死水を取ってやった唯一の親友の檜垣の主人は、結局その姪を自分に妻(め)あわして、後嗣の胤(たね)を取ろうとする仕掛を、死の断末魔の無意識中にあっさり自分に伏せている。こう思って来ると、世の中に自分一代で片付くものとては一つも無い。自分だけで成せたと思うものは一つもない。みな亡父のいうお互いさまで、続かり続け合っている。はじめて気の付くのは、いつぞや京都の春で、二回会ったきりの画家と歌人夫妻のいった言葉だ。「おれたちは、極楽の場塞(ばふさ)げを永くするのも済まないと思って、地獄の席を探しているところだ」と。そうしてみると、せんせいたちもこの断ち切れないお互いのものには、ぞっこん苦労した連中かな。
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