食魔
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著者名:岡本かの子 

 浅い皿の上から甘藷(いも)の煮ころばしが飯粒をつけて転げ出している。
「なんだ、いもを食ってやがる。貧弱な奴等だ」
 鼈四郎は、軽蔑し切った顔をしたけれども、ふだん家族のものには廉価なものしか食べることを許さぬ彼は、家族が自分の掟(おきて)通りにしていることに、いくらか気を取直したらしい。
「ふ、ふ、ふ、いもをどんな煮方をして食ってやがるだろう。一つ試(ため)してみてやれ」
 彼は甘藷についてる飯粒を振り払い、ぱくんと開いた口の中へ抛り込んだ。それは案外上手に煮えていた。
「こりゃ、うまいや、ばかにしとらい」
 鼈四郎は、何ともいいようのない擽(くすぐ)ったいような顔をした。
 霰を前髪のうしろに溜めて逸子が帰って来た。こどもを支えない方の手で提げて来たビール壜(びん)を二本差出した。
「さし当ってこれだけ持って参りました。あとは小僧さんが届けて呉れるそうでございますわ」
 鼈四郎はつねづね妻にいい含めて置いた。一本のビールを飲もうとするときにはあとに三本の用意をせよ。かかる用意あってはじめて、自分は無制限と豪快の気持で、その一本を飲み干すことができる。一本を飲もうとするときに一本こっきりでは、その限数が気になり伸々した気持でその一本すら分量の価打(ねう)ちだけに飲み足らうことができない。結局損な飲ませ方なのだ。罎詰(びんづめ)のビールなぞというものは腐るものではないから余計とって置いて差支えない。よろしく気持の上の後詰の分として余分の本数をとって置くべきであると。いま、逸子が酒屋へのビール注文の仕方は、鼈四郎のふだんのいい含めの旨に叶(かな)うものであった。
「よしよし」と鼈四郎はいった。
 彼は妻に、本座敷へ彼の夕食の席を設ることを命じた。これは珍しいことだった。妻は
「もし、ひょっとして汚しちゃ、悪かございません?」と一応念を押してみたが、良人(おっと)は眉(まゆ)をぴくりと動かしただけで返事をしなかった。この上機嫌を損じてはと、逸子は子供を紐(ひも)で負い替え本座敷の支度にかかった。
 畳の上には汚れ除(よ)けの渋紙が敷き詰めてある、屏風(びょうぶ)や長押(なげし)の額、床の置ものにまで塵除(ちりよ)けの布ぶくろが冠(かぶ)せてある。まるで座敷の中の調度が、住む自分等を異人種に取扱い、見られるのも触れられるのも冒涜(ぼうとく)として、極力、防避を申合せてるようであった。こうしてから自分等に家を貸し与えた持主の蛍雪の非人情をまざまざ見せつけられるようで、逸子には憎々しかった。
 彼女は復讐(ふくしゅう)の小気味よさを感じながらこれ等の覆いものを悉(ことごと)く剥(は)ぎ取った。子供の眼鼻に塵(ちり)の入らぬよう手拭(てぬぐい)を冠(かぶ)せといて座敷の中をざっと叩(はた)いたり掃いたりした。何かしら今夜の良人(おっと)の気分を察するところがあって、電灯も五十燭(しょく)の球につけ替えた。明(あかり)煌々(こうこう)と照り輝く座敷の中に立ち、あたりを見廻(みまわ)すと、逸子も久振りに気も晴々となった。しかし臆(おく)し心の逸子はやはり家の持主に対して内証の隠事をしている気持が出て来て、永くは見廻していられなかった。彼女は座布団(ざぶとん)を置き、傍にビール罎(びん)を置くと次の茶の間に引下りそこで中断された母子の夕飯を食べ続けた。
 この間台所で賑(にぎ)やかな物音を立て何か支度をしていた鼈四郎(べつしろう)は、襖(ふすま)を開けて陶器鍋(とうきなべ)のかかった焜炉(こんろ)を持ち出した。白いものの山型に盛られている壺(つぼ)と、茶色の塊が入っている鉢と白いものの横っている皿と香のものと配置よろしき塗膳(ぬりぜん)を持出した。醤油注(しょうゆつ)ぎ、手塩皿、ちりれんげ、なぞの載っている盆を持出した。四度目にビールの栓抜(せんぬ)きとコップを、ちょうど士(さむらい)が座敷に入るとき片手で提げるような形式張った肘(ひじ)の張り方で持出すと、洋服の腰に巻いていた妙な覆い布を剥ぎ去って台所へ抛(ほう)り込んだ。襖を閉め切ると、座敷を歩み過し椽側(えんがわ)のところまで来て硝子障子(ガラスしょうじ)を明け放した。闇(やみ)の庭は電燭の光りに、小さな築山や池のおも影を薄肉彫刻のように浮出させ、その表を僅(わずか)な霰(あられ)が縦に掠(かす)めて落ちている。幸に風が無いので、寒いだけ室内の焜炉の火も、火鉢の火も穏かだった。
 彼は座布団の上に胡座(あぐら)を掻(か)くと、ビール罎に手をかけ、にこにこしながら壁越しに向っていった。
「おい、頼むから今夜は子供を泣かしなさんな」
 彼は、ビールの最初のコップに口をつけこくこくこくと飲み干した。掌で唇の泡を拭(ぬぐ)い払うと、さも甘そうにうえーと□気(おくび)を吐いた。その誇張した味い方は落語家の所作を真似(まね)をして遊んでいるようにも妻の逸子には壁越しに取れた。
 彼は次に、焜炉にかけた陶器鍋の蓋(ふた)に手をかけ、やあっと掛声してその蓋を高く擡(もた)げた。大根の茹(ゆだ)った匂(にお)いが、汁の煮出しの匂いと共に湯気を上げた。
「細工はりゅうりゅう、手並をごろうじろ」
 と彼は抑揚をつけていったが、蓋の熱さに堪えなかったものと見え、ち、ちちちといって、蓋を急ぎ下に置いた様子も、逸子には壁越しに察せられた。
 じかに置いたらしい蓋の雫(しずく)で、畳が損ぜられやしないか? ひやりとした懸念を押しのけて、逸子におかしさがこみ上げた。彼女はくすりと笑った。世間からは傲慢(ごうまん)一方の人間に、また自分たち家族に対しては暴君(タイラント)の良人が、食物に係っているときだけ、温順(おとな)しく無邪気で子供のようでもある。何となくいじらしい気持が湧(わ)くのを泣かさぬよう添寝をして寝かしつけている子供の上に被(かず)けた。彼女は子供のちゃんちゃんこと着ものの間に手をさし入れて子供を引寄せた。寝つきかかっている子供の身体は性なく軟かに、ほっこり温かだった。
 本座敷で鼈四郎は、大根料理を肴(さかな)にビールを飲み進んで行った。材料は、厨(くりや)で僅に見出した、しかも平凡な練馬大根一本に過ぎないのだが、彼はこれを一汁三菜の膳組(ぜんぐみ)に従って調理し、品附した。すなわち鱠(なます)には大根を卸しにし、煮物には大根を輪切にしたものを鰹節(かつおぶし)で煮てこれに宛(あ)てた。焼物皿には大根を小魚の形に刻んで載せてあった。鍋は汁の代りになる。
 かくて一汁三菜の献立は彼に於て完(まっと)うしたつもりである。
 彼には何か意固地(いこじ)なものがあった。富贍(ふせん)な食品にぶつかったときはひと種(いろ)で満足するが、貧寒な品にぶつかったときは形式美を欲した。彼は明治初期に文明開化の評論家であり、後に九代目団十郎のための劇作家となった桜痴居士(おうちこじ)福地源一郎の生活態度を聞知っていた。この旗本出で江戸っ子の作者は、極貧の中に在って客に食事を供するときには家の粗末な惣菜(そうざい)のものにしろ、これを必ず一汁三菜の膳組の様式に盛り整えた。従って焼物には塩鮭(しおじゃけ)の切身なぞもしばしば使われたという。
 彼は料理に関係する実話や逸話を、諸方の料理人に、例の高飛車な教え方をする間に、聞出して、いくつとなく耳学問に貯える。何かという場合にはその知識に加担を頼んで工夫し出した。彼は独創よりもどっちかというと記憶のよい人間だった。
 彼は形式通り膳組されている膳を眺めながら、ビールの合の手に鍋の大根のちりを喰(た)べ進んで行った。この料理に就(つい)ても、彼には基礎の知識があった。これは西園寺陶庵公が好まれる食品だということであった。彼は人伝(ひとづ)てにこの事を聞いたとき、政治家の傍、あれだけの趣味人である老公が、舌に於て最後に到り付く食味はそんな簡単なものであるのか。それは思いがけない気もしたが、しかし肯(うなず)かせるところのある思いがけなさでもあった。そして彼には、いわゆる偉い人が好んだという食品はぜひ自分も一度は味ってみようという念願があった。それは一方彼の英雄主義の現れであり、一方偉い人の探索でもあった。その人が好くという食品を味ってみて、その人がどんな人であるかを溯(さかのぼ)り知り当てることは、もっとも正直で容易い人物鑑識法のように彼には思えた。
 鍋の煮出し汁は、兼(かね)て貯えの彼特製の野菜のエキスで調味されてあった。大根は初冬に入り肥えかかっていた。七つ八つの泡によって鍋底から浮上り漂う銀杏形(いちょうがた)の片(き)れの中で、ほど良しと思うものを彼は箸(はし)で選み上げた。手塩皿の溜醤油(たまり)に片れの一角を浸し熱さを吹いては喰べた。
 生(き)で純で、自然の質そのものだけの持つ謙遜(けんそん)な滋味が片れを口の中へ入れる度びに脆(もろ)く柔く溶けた。大まかな菜根の匂いがする。それは案外、甘(あま)いものであった。
「成程なア」
 彼は、感歎(かんたん)して独り言をいった。
 彼は盛に煮上って来るのを、今度は立て続けに吹きもて食べた。それは食べるというよりは、吸い取るという恰好(かっこう)に近かった。土鼠が食い耽(ふけ)る飽くなき態があった。
 その間、たまに彼は箸を、大根卸しの壺に差出したが、ついに煮大根の鉢にはつけなかった。
 食い終って一通り堪能(たんのう)したと見え、彼は焜炉の口を閉じはじめて霰の庭を眺め遣(や)った。
 あまり酒に強くない彼は胡座の左の膝(ひざ)に左の肘を突立て、もう上体をふらふらさしていた。□気をしきりに吐くのは、もはや景気附けではなく、胃拡張の胃壁の遅緩が、飲食したものの刺激に遭いうねり戻す本もののものだった。ときどき甘苦い粘塊が口中へ噎(む)せ上って来る。その中には大根の片れの生噛(なまが)みのものも混っている。彼は食後には必ず、この□気をやり、そして、人前をも憚(はばか)らず反芻(はんすう)する癖があった。壁越しに聞いている逸子は「また、始めた」と浅間しく思う。家庭の食後にそれをする父を見慣れて、こどもの篤が真似(まね)て仕方が無いからであった。
 □気は不快だったが、その不快を克服するため、なおもビールを飲み煙草(たばこ)を喫(す)うところに、身体に非現実な美しい不安が起る。「このとき、僕は、人並の気持になれるらしい。妻も子も可愛(かわい)がれる――」彼はこんなことを逸子によくいう。逸子は寝かしついた子供に布団を重ねて掛けてやりながら、「すると、そのとき以外は、良人に蛍雪が綽名(あだな)に付けたその鼈(すっぽん)のような動物の気持でいるのかしらん」と疑う。
 鼈四郎は、煙草を喫いながら、彼のいう人並の気持になって、霰の庭を味っていた。時刻は夜に入り闇(やみ)の深まりも増したかに感ぜられる。庭の構いの板塀は見えないで、無限に地平に抜けている目途の闇が感じられる。小さな築山と木枝の茂みや、池と庭草は、電灯の光は受けても薄板金で張ったり、針金で輪廓(りんかく)を取ったりした小さなセットにしか見えない。呑(の)むことだけして吐くことを知らない闇(やみ)。もし人間が、こんな怖(おそ)ろしい暗くて鈍感な無限の消化力のようなものに捉(とら)えられたとしたならどうだろう。泣いても喚(わめ)き叫んでも、追付かない、そして身体は毛氈苔(もうせんごけ)に粘られた小虫のように、徐々に溶かされて行く、溶かされるのを知りつつ、何と術もなく、じーじー鳴きながら捉えられている。永遠に――。鼈四郎(べつしろう)はときどき死ということを想(おも)い見ないことはない。彼が生み付けられた自分でも仕末に終えない激しいものを、せめて世間に理解して貰おうと彼は世間にうち衝(つか)って行く。世間は他人(ひと)ごとどころではないと素気なく弾(は)ね返す。彼はいきり立ち武者振(むしゃぶ)りついて行く。気狂い染(じ)みているとて今度は体を更わされる。あの手この手。彼は世間から拒絶されて心身の髄に重苦しくてしかも薄痒(うすがゆ)い疼(うず)きが残るだけの性抜きに草臥(くたび)れ果てたとき、彼は死を想い見るのだった。それはすべてを清算して呉(く)れるものであった。想い見た死に身を横えるとき、自分の生を眺め返せば「あれは、まず、あれだけのもの」と、あっさり諦(あきら)められた。潔い苦笑が唇に泛(うか)べられた。かかる死を時せつ想い見ないで、なんで自分のような激しい人間が三十に手の届く年齢にまでこの世に生き永らえて来られようぞと彼は思う。
 生を顧みて「あれは、まず、あれだけのもの」と諦めさすところの彼の想い見た死はまた、生をそう想い諦めさすことによってそれ自らを至って性の軽いものにした。生が「あれは、まず、あれだけのもの」としたなら、死もまた「これは、まず、これだけのもの」に過ぎなかった。彼は衒学的(げんがくてき)な口を利くことを好むが、彼には深い思惟(しい)の素養も脳力も無い筈(はず)である。
 これは全く押し詰められた体験の感じから来たもので、それだけにまた、動かぬものであった。彼は少青年の頃まで、拓本の職工をしていたことがあるが、その拓本中に往々出て来る死生一如とか、人生一泡滓(ほうさい)とかいう文字をこの感じに於て解していた。それ故にこそ、とどのつまりは「うまいものでも食って」ということになった。世間に肩肘(かたひじ)張って暮すのも左様大儀な芝居でもなかった。
 だが、今宵(こよい)の闇の深さ、粘っこさ、それはなかなか自分の感じ捉えた死などいう潔く諦めよいものとは違っていて、不思議な力に充(み)ちている。絶望の空虚と、残忍な愛とが一つになっていて、捉えたものは嘗(な)め溶し溶し尽きたら、また、原形に生み戻し、また嘗め溶す作業を永遠に、繰返さでは満足しない執拗(しつよう)さを持っている。こんな力が世の中に在るのか。鼈四郎は、今迄、いろいろの食品を貪(むさぼ)り味ってみて、一つの食品というものには、意志と力があってかくなりわい出たもののように感じていた。押拡(おしひろ)げて食品以外の事物にも、何かの種類の意味で味いというものを帯びている以上、それがあるように思われている。だが、今宵の闇の味い! これほど無窮無限と繰返しを象徴しているものは無かった。人間が虫の好く好物を食べても食べても食べ飽きた気持がしたことはない。あの虫の好きと一路通ずるものがありはしないか。
 これは天地の食慾とでもいうものではないかしらん、これに較(くら)べると人間の食慾なんて高が知れている。
「しまった」と彼は呟(つぶや)いてみた。
 彼は久振りで、自分の嫌な過去の生い立ちを点検してみた。


 京都の由緒ある大きな寺のひとり子に生れ幼くして父を失った。母親は内縁の若い後妻で入籍して無かったし、寺には寺で法縁上の紛擾(ふんじょう)があり、寺の後董(ごとう)は思いがけない他所(よそ)の方から来てしまった。親子のものはほとんど裸同様で寺を追出される形となった。これみな恬澹(てんたん)な名僧といわれた父親の世務をうるさがる性癖から来た結果だが、母親はどういうものか父を恨まなかった。「なにしろこどものような方だったから罪はない」そしてたった一つの遺言ともいうべき彼が誕生したときいったという父の言葉を伝えた。「この子がもし物ごころがつく時分わしも老齢(とし)じゃから死んどるかも知れん。それで苦労して、なんでこんな苦しい娑婆(しゃば)に頼みもせんのに生み付けたのだと親を恨むかも知れん。だがそのときはいってやりなさい。こっちとて同じことだ、何でも頼みもせんのに親に苦労をかけるようなこの苦しい娑婆に生れて出て来なすったのだお互いさまだ、と」この言葉はとても薄情にとれた、しかし薄情だけでは片付けられない妙な響が鼈四郎の心に残された。
 はじめは寺の弟子たちも故師の遺族に恩を返すため順番にめいめいの持寺に引取って世話をした。しかしそれは永く続かなかった。どの寺にも寄食人(かかりゅうど)を息詰らす家族というものがあった。最後に厄介になったのは父の碁敵であった拓本職人の老人の家だった。貧しいが鰥暮(やもめぐら)しなので気は楽だった。母親は老人の家の煮炊き洗濯の面倒を見てやり、彼はちょうど高等小学も卒業したので老人の元に法帖(ほうじょう)造りの職人として仕込まれることになった。老人は変り者だった、碁を打ちに出るときは数日も家に帰らないが、それよりも春秋の頃おい小学校の運動会が始り出すと、彼はほとんど毎日家に居なかった。京都の市中や近郊で催されるそれを漁(あさ)り尋ね見物して来るのだった。「今日の××小学校の遊戯はよく手が揃(そろ)った」とか、「今日の△△小学校の駈足(かけあし)競争で、今迄にない早い足の子がいた」とか噂(うわさ)して悦(よろこ)んでいた。
 その留守の間、彼は糊臭(のりくさ)い仕事場で、法帖作りをやっているのだが、墨色に多少の変化こそあれ蝉翅搨(せんしとう)といったところで、烏金搨(うきんとう)といったところで再び生物の上には戻って来ぬ過去そのものを色にしたような非情な黒に過ぎない。その黒へもって行って寒白い空閑を抜いて浮出す拓本の字劃(じかく)というものは少年の鼈四郎にとってまたあまりに寂しいものであった。「雨降りあとじゃ、川へいて、雑魚(ざこ)なと、取って来なはれ、あんじょ、おいしゅう煮て、食べまひょ」継ものをしていた母親がいった。鼈四郎は笊(ざる)を持って堤を越え川へ下りて行く。
 その頃まだ加茂川にも小魚がいた。季節季節によって、鮴(ごり)、川鯊(かわはぜ)、鮠(はや)、雨降り揚句には鮒や鰻も浮出てとんだ獲ものもあった。こちらの河原には近所の子供の一群がすでに漁(あさ)り騒いでいる。むこうの土手では摘草の一家族が水ぎわまでも摘み下りている。鞍馬(くらま)へ岐(わか)れ路の堤の辺には日傘をさした人影も増えている。境遇に負けて人臆(ひとおく)れのする少年であった鼈四郎は、これ等の人気(ひとけ)を避けて、土手の屈曲の影になる川の枝流れに、芽出し柳の参差(しんし)を盾に、姿を隠すようにして漁った。すみれ草が甘く匂(にお)う。糺(ただす)の森(もり)がぼーっと霞んで見えなくなる。おや自分は泣いてるなと思って眼瞼(まぶた)を閉じてみると、雫(しずく)の玉がブリキ屑(くず)に落ちたかしてぽとんという音がした。器用な彼はそれでも少しの間に一握りほどの雑魚を漁り得る。持って帰ると母親はそれを巧に煮て、春先の夕暮のうす明りで他人の家の留守を預りながら母子二人だけの夕餉(ゆうげ)をしたためるのであった。
 母親は身の上の素性を息子に語るのを好まなかった。ただ彼女は食べ意地だけは張っていて、朝からでも少しのおなまぐさが無ければ飯の箸(はし)は取れなかった。それの言訳のように彼女はこういった。「なんしい、食べ辛棒の土地で気儘放題(きままほうだい)に育てられたもんやて!」
 鼈四郎は母親の素性を僅(わずか)に他人から聞き貯めることが出来た。大阪船場(せんば)目ぬきの場所にある旧舗(しにせ)の主人で鼈四郎の父へ深く帰依(きえ)していた信徒があった。不思議な不幸続きで、店は潰(つぶ)れ娘一人を残して自分も死病にかかった。鼈四郎の父はそれまで不得手ながら金銭上の事に関ってまでいろいろ面倒を見てやったのだがついにその甲斐(かい)もなかった。しかし、すべてを過去の罪障のなす業と諦(あきら)めた病主人は、罪障消滅のためにも、一つは永年の恩義に酬(むく)ゆるため、妻を失ってしばらく鰥暮(やもめぐら)しでいた鼈四郎(べつしろう)の父へ、せめて身の周りの世話でもさせたいと、娘を父の寺へ上せて身罷(みまか)ったという。他の事情は語らない母親も「お罪障消滅のため寺方に上った身が、食べ慾ぐらい断ち切れんで、ほんまに済まんと思うが、やっぱりお罪障の残りがあるかして、こればかりはしようもない」この述懐だけは亦ときどき口に洩(もら)しながら、最小限度のつもりにしろ、食べもの漁(あさ)りはやめなかった。
 少青年の頃おいになって鼈四郎は、諸方の風雅の莚(むしろ)の手伝いに頼まれ出した。市民一般に趣味人をもって任ずるこの古都には、いわゆる琴棋書画の会が多かった。はじめ拓本職人の老人が出入りの骨董商(こっとうしょう)に展観の会があるのを老人に代って手伝いに出たのがきっかけとなり、あちらこちらより頼まれるようになった。才はじけた性質を人臆(ひとおく)しする性質が暈(ぼか)しをかけている若者は何か人目につくものがあった。薄皮仕立で桜色の皮膚は下膨(しもぶく)れの顔から胸鼈へかけて嫩葉(わかば)のような匂(にお)いと潤いを持っていた。それが拓本老職人の古風な着物や袴(はかま)を仕立て直した衣服を身につけて座を斡旋(あっせん)するさまも趣味人の間には好もしかった。人々は戯れに千の与四郎、――茶祖の利休の幼名をもって彼を呼ぶようになった。利休の少年時が果して彼のように美貌(びぼう)であったか判らないが、少くとも利休が与四郎時代秋の庭を掃き浄(きよ)めたのち、あらためて一握りの紅葉をもって庭上に撒(ま)き散らしたという利休の趣味性の早熟を物語る逸話から聯想(れんそう)して来る与四郎は、彼のような美少年でなければならなかった。与えられたこの戯名を彼も諾(あまな)い受け寧(むし)ろ少からぬ誇りをもって自称するようにさえなった。
 洒落(しゃ)れた[#「洒落(しゃ)れた」は底本では「洒落(しゃれ)れた」]お弁当が食べられ、なにがしかずつ心付けの銭さえ貰えるこの手伝いの役は彼を悦(よろこ)ばした。そのお弁当を二つも貰って食べ抹茶も一服よばれたのち、しばらくの休憩をとるため、座敷に張り廻(めぐ)らした紅白だんだらの幔幕(まんまく)を向うへ弾(は)ね潜って出る。そこは庭に沿った椽側(えんがわ)であった。陽(ひ)はさんさんと照り輝いて満庭の青葉若葉から陽の雫(しずく)が滴っているようである。椽も遺憾なく照らし暖められている。彼はその椽に大の字なりに寝て満腹の腹を撫(な)でさすりながらうとうとしかける。智恩院聖護院の昼鐘が、まだ鳴り止まない。夏霞(なつがすみ)棚引きかけ、眼を細めてでもいるような和(なご)み方の東山三十六峯。ここの椽に人影はない。しかし別書院の控室の間から演奏場へ通ずる中廊下には人の足音が地車でも続いて通っているよう絶えずとどろと鳴っている。その控室の方に当っては、もはや、午後の演奏の支度にかかっているらしく、尺八に対して音締めを直している琴や胡弓(こきゅう)の音が、音のこぼれもののように聞えて来る。間に混って盲人の鼻詰り声、娘たちの若い笑い声。
 若者の鼈四郎は、こういう景致や物音に遠巻きされながら、それに煩わされず、逃れて一人うとうとする束(つか)の間(ま)を楽しいものに思い做(な)した。腹に満ちた咀嚼物(そしゃくぶつ)は陽のあたためを受けて滋味は油のように溶け骨、肉を潤し剰(あま)り今や身体の全面にまでにじみ出して来るのを艶(つや)やかに感ずる。金目がかかり、値打ちのある肉体になったように感ずる。心の底に押籠(おしこ)められながら焦々した怒ろしい想(おも)いはこの豊潤な肉体に対し、いよいよその豊潤を刺激して引立てる内部からの香辛料になったような気がする。その快さ甘くときめかす匂い、芍薬畑(しゃくやくばたけ)が庭のどこかにあるらしい。
 古都の空は浅葱色(あさぎいろ)に晴れ渡っている。和み合う睫(まつげ)の間にか、充(み)ち足りた胸の中にか白雲の一浮きが軽く渡って行く。その一浮きは同時にうたた寝の夢の中にも通い、濡(ぬ)れ色の白鳥となって翼に乗せて過ぎる。はつ夏の哀愁。「与四郎さん、こんなとこで寝てなはる。用事あるんやわ、もう起きていなあ、」鼻の尖(さき)を摘まれる。美しい年増夫人のやわらかくしなやかな指。
 鼈四郎はだんだん家へ帰らなくなった。貧寒な拓本職人の家で、女餓鬼(めがき)の官女のような母を相手にみじめな暮しをするより、若い女のいる派手で賑(にぎや)かな会席を渡り歩るいてる方がその日その日を面白く糊塗(こと)できて気持よかった。何か一筋、心のしんになる確(しっか)りした考え。何か一業、人に優れて身の立つような職能を捉(とら)えないでは生きて行くに危いという不安は、殊にあの心の底に伏っている焦々(いらいら)した怒ろしい想いに煽(あお)られると、居ても立ってもいられない悩みの焔(ほのお)となって彼を焼くのであるが、その焦熱を感ずれば感ずるほど、彼はそれをまわりで擦(こす)って掻(か)き落すよう、いよいよ雑多と変化の世界へ紛れ込んで行くのであった。彼はこの間に持って生れた器用さから、趣味の技芸なら大概のものを田舎初段程度にこなす腕を自然に習い覚えた。彼は調法な与四郎となった。どこの師匠の家でも彼を歓迎した。棋院では初心の客の相手役になってやるし、琴の家では琴師を頼まないでも彼によって絃(げん)の緩みは締められた。生花の家でお嬢さんたちのための花の下慥え、茶の湯の家ではまたお嬢さんや夫人たちのための点茶や懐石のよき相談相手だった。拓本職人は石刷りを法帖(ほうじょう)に仕立てる表具師のようなこともやれば、石刷りを版木に模刻して印刷をする彫版師のような仕事もした。そこから自ずから彼は表具もやれば刀を採って、木彫篆刻(てんこく)の業もした。字は宋拓を見よう見真似(みまね)に書いた。画は彼が最得意とするところで、ひょっとしたら、これ一途(いちず)に身を立てて行こうかとさえ思うときがあった。
 頼めば何でも間に合わして呉(く)れる。こんな調法人をどこで歓迎しないところがあろうか。
 彼は紛れるともなく、その日その日の憂さを忘れて渡り歩るいた。母は鼈四郎が勉強のため世間に知識を漁(あさ)っていて今に何か掴(つか)んで来るものと思い込んでるので呑込(のみこ)み顔で放って置いたし、拓本職人の老爺(ろうや)は仕事の手が欠けたのをこぼしこぼし、しかし叱言(こごと)というほどの叱言はいわなかった。
 師匠連や有力な弟子たちは彼を取巻のようにして瓢亭・俵やをはじめ市中の名料理へ飲食に連れて行った。彼は美食に事欠かぬのみならず、天稟(てんぴん)から、料理の秘奥を感取った。
 そうしているうち、ふと鼈四郎に気が付いて来たことがあった。このように諸方で歓迎されながら彼は未だ嘗(かつ)て尊敬というものをされたことがない。大寺に生れ、幼時だけにしろ、総領息子という格に立てられた経験のある、旧舗(しにせ)の娘として母の持てる気位を伝えているらしい彼の持前は頭の高い男なのであった。それがただ調法の与四郎で扱い済されるだけでは口惜しいものがあった。彼の心の底に伏っていつも焦々する怒ろしい想いもどうやら一半はそこから起るらしく思われて来た。どうかして先生と呼ばれてみたい。
 人中に揉(も)まれて臆(おく)し心(ごころ)はほとんど除かれている彼に、この衷心から頭を擡(もた)げて来た新しい慾望は、更に積極へと彼に拍車をかけた。彼は高飛車に人をこなし付ける手を覚え、軽蔑(けいべつ)して鼻であしろう手を覚えた。何事にも批判を加えて己れを表示する術(すべ)も覚えた。彼はなりの恰好(かっこう)さえ肩肘(かたひじ)を張ることを心掛けた。彼は手鏡を取出してつくづく自分を見る。そこに映り出る青年があまりに若く美しくして先生と呼ばれるに相応(ふさわ)しい老成した貫禄が無いことを嘆いた。彼はせめて言葉附だけでもいかつく、ませたものにしようと骨を折った。彼の取って付けたような豹変(ひょうへん)の態度に、弱いものは怯(おび)えて敬遠し出した。強いものは反撥(はんぱつ)して罵(ののし)った。「なんだ石刷り職人の癖に」そして先生といって呉れるものは料理人だけだった。
「与四郎は変った」「おかしゅうならはった」というのが風雅社会の一般の評であった。彼の心地に宿った露草の花のようないじらしい恋人もあったのだけれども、この噂(うわさ)に脆(もろ)くも破れて、実を得結ばずに失せた。
 若者であって一度この威猛高(いたけだか)な誇張の態度に身を任せたものは二度と沈潜して肌質(きめ)をこまかくするのは余程難しかった。鼈四郎(べつしろう)はこの目的外れの評判が自分のどこの辺から来るものか自分自身に向って知らないとはいい徹せなかった。「学問が無いからだ」この事実は彼に取って最も痛くていまいましい反省だった。そして今更に、悲運な境遇から上の学校へも行けず、秩序立った勉強の課程も踏めなかった自分を憐(あわれ)むのであった。しかしこれを恨みとして、その恨みの根を何処へ持って行くのかとなると、それはまたあまりに多岐に亘(わた)り複雑過ぎて当時の彼には考え切れなかった。嘆くより後(おく)れ走(ば)せでも秘(ひそ)かに学んで追い付くより仕方がない。彼はしきりに書物を読もうと努めた。だが才気とカンと苦労で世間のあらましは、すでに結論だけを摘み取ってしまっている彼のような人間にとって、その過程を煩わしく諄(くど)く記述してある書物というものを、どうして迂遠(うえん)で悪丁寧(わるていねい)とより以外のものに思い做(な)されようぞ。彼は頁(ページ)を開くとすぐ眠くなった。それは努めて読んで行くとその索寞(さくばく)さに頭が痛くなって、しきりに喉頭(こうとう)へ味なるものが恋い慕われた。彼は美味な食物を漁(あさ)りに立上ってしまった。
 結局、彼は遣(や)り慣れた眼学問、耳学問を長じさせて行くより仕方なかった。そしていま迄、下手(したで)に謙遜(けんそん)に学び取っていた仕方は今度からは、争い食ってかかる紛擾(ふんじょう)の間に相手から□(も)ぎ取る仕方に方法を替えたに過ぎなかった。それほどまでにして彼は尊敬なるものを贏(か)ち得たかったのであろうか。然(しか)り。彼は彼が食味に於て意識的に人生の息抜きを見出す以前は、実に先生といわれる敬称は彼に取って恋人以上の魅力を持っていたのだった。彼はこの仕方によって数多の旧知己をば失ったが、僅(わず)かばかりの変りものの知遇者を得た。世間には啀(いが)み合う鑼(どら)、捩(ねじ)り合う銅□(にょうばち)のような騒々しいものを混えることに於て、却(かえ)って知音や友情が通じられる支那楽のような交際も無いことはない。鼈四郎が向き嵌(はま)って行ったのはそういう苦労胼胝(たこ)で心の感膜が厚くなっている年長の連中であった。
 その頃、京極でモダンな洋食店のメーゾン檜垣の主人もその一人であった。このアメリカ帰りの料理人は、妙に芸術や芸術家の生活に渇仰をもっていて、店の監督の暇には油画を描いていた。寝泊りする自分の室は画室のようにしていた。彼は客の誰彼を掴(つかま)えてはニューヨークの文士村(グリンウィッチビレージ)の話をした。巴里(パリ)の芸術街を真似(まね)ようとするこの街はアメリカ人気質と、憧憬による誇張によって異様で刺激的なものがあった。主人はそれを語るのに使徒のような情熱をもってした。店の施設にもできるだけ応用した。酒神(バッカス)の祭の夕。青蝋燭(あおろうそく)の部屋、新しいものに牽(ひ)かれる青年や、若い芸術家がこの店に集ったことは見易き道理である。この古都には若い人々の肺には重苦しくて寂寥(せきりょう)だけの空気があった。これを撥(は)ね除(の)け攪(か)き壊すには極端な反撥(はんぱつ)が要った。それ故、一般に東京のモダンより、上方のモダンの方が調子外れで薬が強いとされていた。
 鼈四郎はこの店に入浸るようになった。お互いに基礎知識を欠く弱味を見透すが故に、お互いに吐き合う気焔(きえん)も圧迫感を伴わなかった。飄々(ひょうひょう)とカンのまま雲に上り空に架することができた。立会いに相手を傲慢(ごうまん)で呑(の)んでかかってから軽蔑(けいべつ)の歯を剥出(むきだ)して、意見を噛(か)み合わす無遠慮な談敵を得て、彼等は渾身(こんしん)の力が出し切れるように思った。その間に狡(ずる)さを働かして耳学問を盗み合い、椀ぎ取る利益も彼等には歓(よろこ)びであった。鼈四郎が東洋趣味の幽玄を高嘯(こうしょう)するに対し、檜垣の主人は西洋趣味の生々(なまなま)しさを誇った。かかるうち知識は交換されて互いの薬籠中(やくろうちゅう)に収められていた。
 いつでも意見が一致するのは、芸術至上主義の態度であった。誤って下層階級に生い立たせられたところから自恃(じじ)に相応わしい位置にまで自分を取戻すにはカンで攀(よ)じ登れる芸術と称するもの以外には彼等は無いと感じた。彼等は鑑識の高さや広さを誇った。この点ではお互いに許し合った。琴棋書画、それから女、芝居、陶器、食もの、思想に亙(わた)るものまでも、分け距(へだ)てなく味い批評できる彼等をお互いに褒め合った。「僕らは、天才じゃね」「天才じゃねえ」
 檜垣の主人は、胸の病持ちであった。彼が独身生活を続けるのも、そこから来るのであったが、情慾は強いかして彼の描く茫漠(ぼうばく)とした油絵にも、雑多に蒐(あつ)められる蒐集品(しゅうしゅうひん)にも何かエロチックの匂(にお)いがあった。痩(や)せて青黒い隈(くま)の多い長身の肉体は内部から慾求するものを充(みた)し得ない悩みにいつも喘(あえ)いでいた。それに較(くら)べると中背ではあるが異常に強壮な身体を持っている鼈四郎はあらゆる官能慾を貪(むさぼ)るに堪えた。ある種の嗜慾(しよく)以外は、貪り能(あと)う飽和点を味い締められるが故に却(かえ)って恬淡(てんたん)になれた。
 檜垣の主人は、鼈四郎を連れて、鴨川の夕涼みのゆかから、宮川町辺の赤黒い行灯(あんどん)のかげに至るまで、上品や下品の遊びに連れて歩るいた。そこでも、味い剰(あま)すがゆえにいつも暗鬱(あんうつ)な未練を残している人間と、飽和に達するがゆえに明色の恬淡に冴(さえ)る人間とは極端な対象を做した。鼈四郎は檜垣の主人の暗鬱な未練に対し、本能の浅間しさと共に本能の深さを感じ、檜垣の主人は鼈四郎の肉体に対して嫉妬(しっと)と驚異を感じた。二人は心秘(こころひそ)かに「あいつ偉い奴じゃ」と互いに舌を巻いた。
 起伏表裏がありながら、また最後に認め合うものを持つ二人の交際は、縄のように絡(から)み合い段々その結ぼれを深めた。正常な教養を持つ世間の知識階級に対し、脅威を感ずるが故に、睥睨(へいげい)しようとする職人上りで頭が高い壮年者と青年は自らの孤独な階級に立籠(たてこも)って脅威し来るものを罵(ののし)る快を貪るには一あって二無き相手だった。彼等は毎日のように会わないでは寂しいようになった。
 鼈四郎は檜垣の主人に対しては対蹠的(たいしょてき)に、いつも東洋芸術の幽邃高遠(ゆうすいこうえん)を主張して立向う立場に立つのだが、反噬(はんぜい)して来る檜垣の主人の西洋芸術なるものを、その範とするところの名品の複写などで味わされる場合に、躊躇(ちゅうちょ)なく感得されるものがあった。檜垣の主人が持ち帰ったのは主にフランス近代の巨匠のものだったが、本能を許し、官能を許し、享受を許し、肉情さえ許したもののあることは東洋の躾(しつけ)と道徳の間から僅にそれ等を垣間(かいま)見させられていたものに取っては驚きの外無かった。恥も外聞も無い露(む)き出しで、きまりが悪いほどだった。「こいつ等は、まるで素人じゃねえ、」鼈四郎は檜垣の主人に向ってはこうも押えた口を利くようなものの、彼の肉体的感覚は発言者を得たように喝采(かっさい)した。
 彼はこの店へ出入りをして食べ増した洋食もうまかったし、主人によっていろいろ話して聴かされた西洋の文化的生活の様式も、便利で新鮮に思われた。
 鼈四郎はこれ等の感得と知識をもって、彼の育ちの職場に引返して行った。彼は書画に携る輩(やから)に向ってはデッサンを説き、ゴッホとかセザンヌとかの名を口にした。茶の湯生花の行われる巷(ちまた)に向っては、ティパーティの催しを説き、アペリチーフの功徳を説き、コンポジションとかニュアンスとかいう洋名の術語を口にした。
 東洋の諸芸術にも実践上の必需から来る自らなるそれ等にあって、ただ名前と伝統が違っているだけだった。それゆえ、鼈四郎のいうことはこれ等に携る人々にもほぼ察しはつき、心ある者は、なんだ西洋とてそんなものかと嵩(たか)を括(くく)らせはしたが当時モダンの名に於て新味と時代適応性を西洋的なものから採入れようとする一般の風潮は彼の後姿に向っては「葵祭(あおいまつり)の竹の欄干(てすり)で」青く擦(す)れてなはると蔭口を利きながら、この古都の風雅の社会は、彼の前に廻(まわ)っては刺激と思い付を求めねばならなかった。彼の人気は恢復(かいふく)した。三曲の演奏にアンコールを許したり、裸体彫像に生花を配したり、ずいぶん突飛なことも彼によって示唆されたが、椅子(いす)テーブルの点茶式や、洋食を緩和して懐石の献立中に含めることや、そのときまで、一部の間にしか企てられていなかった方法を一般に流布せしめる椽(えん)の下の力持とはなった。彼は、ところどころで「先生」と呼ばれるようになった。
 彼はこの勢を駆って、メーゾン檜垣に集る若い芸術家の仲間に割り込んだ。彼の高飛車と粗雑はさすがに、神経のこまかいインテリ青年たちと肌合いの合わないものがあった。彼は彼等を吹き靡(なび)け、煙に巻いたつもりでも最後に、沈黙の中で拒まれているコツンとしたものを感じた。それは何とも説明し難いものではあるが彼をして現代の青年の仲間入りしようとする勇気を無雑作に取拉(とりひし)ぐ薄気味悪い力を持っていた。彼は考えざるを得なかった。
 春の宵であった。檜垣の二階に、歓迎会の集りがあった。女流歌人で仏教家の夫人がこの古都のある宗派の女学校へ講演に頼まれて来たのを幸、招いて会食するものであった。画家の良人(おっと)も一しょに来ていた。テーブルスピーチのようなこともあっさり切上がり、内輪で寛(くつろ)いだ会に見えた。しかし鼈四郎(べつしろう)にとってこの夫人に対する気構えは兼々雑誌などで見て、納らぬものがあった。芸術をやるものが宗教に捉(とら)われるなんて――、夫人が仏教を提唱することは、自分に幼時から辛い目を見せた寺や、境遇の肩を持つもののようにも感じられた。とうとう彼は雑談の環の中から声を皮肉にして詰(なじ)った。夫人が童女のままで大きくなったような容貌(ようぼう)も苦労なしに見えて、何やら苛(いじ)め付けたかった。
 夫人はちょっと無礼なといった面持をしたが、怒りは嚥(の)み込んでしまって答えた、「いいえ、だから、わたくしは、何も必要のない方にやれとは申上ちゃおりません」鼈四郎は嵩(かさ)にかかって食ってかかったが、夫人は「そういう聞き方をなさる方には申上られません」と繰返すばかりであった。世間知らずの少女が意地を張り出したように鼈四郎にはとれた。
 一時白けた雰囲気の空虚も、すぐまわりから歓談で埋められ、苦り切り腕組をして、不満を示している彼の存在なぞは誰も気付かぬようになった。彼の怒りは縮れた長髪の先にまでも漲(みなぎ)ったかと思われた。その上、彼を拗(こじ)らすためのように、夫人は勧められて「京の四季」かなにかを、みんなの余興の中に加って唄(うた)った。低めて唄ったもののそれは暢(のび)やかで楽しそうだった。良人の画家も列座と一しょに手を叩(たた)いている。
 すべてが自分に対する侮蔑(ぶべつ)に感じられてならない鼈四郎は、どんな手段を採ってもこの夫人を圧服し、自分を認めさそうと決心した。彼は、檜垣の主人を語って、この画家夫妻の帰りを待ち捉え、主人の部屋の画室へ、作品を見に寄って呉(く)れるよう懇請した。その部屋には鼈四郎の制作したものも数々置いてあった。
 彼は遜(へりくだ)る態度を装い、強いて夫人に向って批評を求めた。そこには額仕立ての書画や篆額(てんがく)があった。夫人はこういうものは好きらしく、親し気に見入って行ったが、良人を顧みていった。「ねえ、パパ、美しくできてるけど、少し味に傾いてやしない?」良人は気の毒そうにいった。「そうだなあ、味だな」鼈四郎は哄笑(こうしょう)して、去り気ない様子を示したが、始めて人に肺腑(はいふ)を衝(つ)かれた気持がした。良人の画家に「大陸的」と極(き)めをつけられてよいのか悪いのか判(わか)らないが、気に入った批評として笑窪(えくぼ)に入った檜垣の主人まで「そういえば、なるほど、君の芸術は味だな」と相槌(あいづち)を打つ苦々しさ。
 鼈四郎は肺腑を衝かれながら、しかしもう一度執拗(しつよう)に夫人へ反撃を密謀した。まだ五六日この古都に滞在して春のゆく方を見巡(みめぐ)って帰るという夫妻を手料理の昼食に招いた。自分の作品を無雑作に味と片付けてしまうこの夫人が、一体、どのくらいその味なるものに鑑識を持っているのだろう。食もので試してやるのが早手廻(はやてまわ)しだ。どうせ有閑夫人の手に成る家庭料理か、料理屋の形式的な食品以外、真のうまいものは食ってやしまい。もし彼女に鑑識が無いのが判ったなら彼女の自分の作品に対する批評も、惧(おそ)れるに及ばないし、もし鑑識あるものとしたなら、恐らく自分の料理の技倆(ぎりょう)に頭を下げて感心するだろう。さすればこの方で夫人は征服でき、夫人をして自分を認め返さすものである。
 幸に、夫妻は招待に応じて来た。
 席は加茂川の堤下の知れる家元の茶室を借り受けたものであった。彼は呼び寄せてある指導下の助手の料理人や、給仕の娘たちを指揮して、夫妻の饗宴(きょうえん)にかかった。
 彼はさきの夜、檜垣の歓迎会の晩餐(ばんさん)にて、食事のコース中、夫人が何を選み、何を好み食べたか、すっかり見て取っていた。ときどき聞きもした。それは努めてしたのではないが、人の嗜慾(しよく)に対し間諜犬(かんちょうけん)のような嗅覚(きゅうかく)を持つ彼の本能は自ずと働いていた。夫人の食品の好みは専門的に見て、素人なのだか玄人なのだか判らなかった。しかし嗜求する虫の性質はほぼ判った。
 鼈四郎は、献立の定慣や和漢洋の種別に関係なく、夫人のこの虫に向って満足さす料理の仕方をした。ああ、そのとき、何という人間に対する哀愛の気持が胸の底から湧(わ)き出たことだろう。そこにはもう勝負の気もなかった。征服慾も、もちろんない。
 あの大きな童女のような女をして眼を瞠(みは)らせ、五感から享(う)け入れる人の世の満足以上のものを彼女をして無邪気に味い得しめたなら料理それ自身の手柄だ。自分なんかの存在はどうだってよい。彼はその気持から、夫人が好きだといった、季節外れの蟹(かに)を解したり、一口蕎麦(そば)を松江風に捏(こ)ねたりして、献立に加えた。ふと幼いとき、夜泣きして、疳(かん)の虫の好く、宝来豆(ほうらいまめ)というものを欲しがったとき老僧の父がとぼとぼと夜半の町へ出て買って来て呉れたときの気持を想(おも)い出した。鼈四郎は捏ね板へ涙の雫(しずく)を落すまいとして顔を反向けた。所詮(しょせん)、料理というものは労(いたわ)りなのであろうか。そして労りごころを十二分に発揮できる料理の相手は、白痴か、子供なのではあるまいか。
 しかし鼈四郎は夫人が通客であった場合を予想し、もしその眼で見られても恥しからぬよう、坂本の諸子川の諸子魚(もろこ)とか、鞍馬の山椒皮(からかわ)なども、逸早(いちはや)く取寄せて、食品中に備えた。
 夫人は、大事そうに、感謝しながら食べ始めた。「この子附け鱠(なます)の美しいこと」「このえび藷(いも)の肌目(きめ)こまかく煮えてますこと」それから唇にから揚の油が浮くようになってからは、ただ「おいしいわ」「おいしいわ」というだけで、専心に喰(た)べ進んで行く。鼈四郎は、再び首尾はいかがと張り詰めていたものが食品の皿が片付けられる毎に、ずしんずしんと減って、気の衰えをさえ感ずるのだった。
 夫人も健啖(けんたん)だったが、画家の良人はより健啖だった。みな残りなく食べ終り、煎茶茶椀(せんちゃぢゃわん)を取上げながらいった。「ご馳走(ちそう)さまでした。御主人に申すが、この方が、よっぽど、あんたの芸術だね」そして夫人の方に向い、それを皮肉でなく、好感を持つ批評として主人に受取らせるよう夫人の註解(ちゅうかい)した相槌(あいづち)を求めるような笑い方をしていた。夫人も微笑したが、声音(こわね)は生真面目(きまじめ)だった。「わたくしも、警句でなく、ほんとにそう思いますわ。立派な芸術ですわ。」
 鼈四郎は図星に嵌(は)めたと思うと同時に、ぎくりとなった。彼はいかにふだん幅広い口を利こうと、衷心では料理より、琴棋書画に位があって、先生と呼ばれるに相応(ふさ)わしい高級の芸種であるとする世間月並の常識を無(な)みしようもない。その高きものを前日は味とされ、今日低きものに於て芸術たることを認められた。天分か、教養か、どちらにしろ、もはや自分の生涯の止めを刺された気がした。この上、何をかいおうぞ。
 加茂川は、やや水嵩(みずかさ)増して、ささ濁りの流勢は河原の上を八千岐(やちまた)に分れ下へ落ちて行く、蛇籠(じゃかご)に阻まれる花芥(あくた)の渚の緑の色取りは昔に変りはないけれども、魚は少くなったかして、漁(あさ)る子供の姿も見えない。堤の芽出し柳の煙れる梢(こずえ)に春なかばの空は晴れみ曇りみしている。
 しばらく沈黙の座に聞澄している淙々(そうそう)とした川音は、座をそのままなつかしい国へ押し移す。鼈四郎(べつしろう)は、この川下の対岸に在って大竹原で家棟は隠れ見えないけれども、まさしくこの世に一人残っている母親のことを思い出す。女餓鬼(めがき)の官女のような母親はそこで食味に執しながら、一人息子が何でもよいたつきの業を得て帰って来るのを待っている。しばらく家へは帰らないが、拓本職人の親方の老人は相変らず、小学校の運動会を漁り歩き遊戯をする児童たちのいたいけな姿に老いの迫るを忘れようと努めているであろうか。
 鼈四郎は、笑いに紛らしながら、幼時、母子二人の夕餉(ゆうげ)の菜のために、この河原で小魚を掬(すく)い帰った話をした。「いままで、ずいぶん、いろいろなうまいものも食いましたが、いま考えてみると、あのとき母が煮て呉(く)れた雑魚(ざこ)の味ほどうまいと思ったものに食い当りません」それから彼は、きょう、料理中に感じたことも含めて、「すると、味と芸術の違いは労(いたわ)りがあると、無いとの相違でしょうかしら」といった。
 これに就(つ)き夫人は早速に答えず、先ず彼等が外遊中、巴里(パリ)の名料理店フォイヨで得た経験を話した。その料理店の食堂は、扉の合せ目も床の敷ものも物音立てぬよう軟い絨氈(じゅうたん)や毛織物で用意された。色も刺激を抜いてある。天井や卓上の燭光も調節してある。総ては食味に集中すべく心が配られてある。給仕人はイゴとか男性とかいういかついものは取除かれた品よく晒(さら)された老人たちで、いずれはこの道で身を滅した人間であろう、今は人が快楽することによって自分も快楽するという自他移心の術に達してるように見ゆる。食事は聖餐(せいさん)のような厳かさと、ランデブウのようなしめやかさで執り行われて行く。今やテーブルの前には、はつ夏の澄める空を映すかのような薄浅黄色のスープが置かれてある。いつの間に近寄って来たか給仕の老人は輪切りにした牛骨の載れる皿を銀盤で捧げて立っている。老人は客が食指を動し来る呼吸に坩(つぼ)を合せ、ちょっと目礼して匙(さじ)で骨の中から髄を掬い上げた。汁の真中へ大切に滑り浮す。それは乙女の娘生(きしょう)のこころを玉に凝らしたかのよう、ぶよぶよ透けるが中にいささか青春の潤(うる)みに澱(よど)んでいる。それは和食の鯛の眼肉の羮(あつもの)にでも当る料理なのであろうか。老人は恭しく一礼して数歩退いて控えた。いかに満足に客がこの天の美漿(びしょう)を啜(す)い取るか、成功を祈るかのよう敬虔(けいけん)に控えている。もちろん料理は精製されてある。サービスは満点である。以下デザートを終えるまでのコースにも、何一つ不足と思えるものもなく、いわゆる善尽し、美尽しで、感嘆の中に食事を終えたことである。
「しかしそれでいて、私どもにはあとで、嘗(な)めこくられて、扱い廻(まわ)されたという、後口に少し嫌なものが残されました。」
「面と向って、お褒めするのも気まりが悪うございますから、あんまり申しませんが、そういっちゃ何ですが、今日の御料理には、ちぐはぐのところがございますけれど、まことというものが徹しているような気がいたしました。」
 意表な批評が夫人の口から次々に出て来るものである。料理に向ってまことなぞという言葉を使ったのを鼈四郎は嘗(かつ)て聞いたことはない。そして、まこと、まごころ、こういうものは彼が生れや、生い立ちによる拗(す)ねた心からその呼名さえ耳にすることに反感を持って来た。自分がもしそれを持ったなら、まるで、変り羽毛の雛鳥(ひなどり)のように、それを持たない世間から寄って蝟(たか)って突き苛(いじ)められてしまうではないか。弱きものよ汝(なんじ)の名こそ、まこと。自分にそういうものを無(な)みし、強くあらんがための芸術、偽りに堪えて慰まんための芸術ではないか。歌人の芸術家だけに旧臭(ふるくさ)く否味(いやみ)なことをいう。道徳かぶれの女学生でもいいそうな芸術批評。歯牙(しが)に懸けるには足りない。
 鼈四郎はこう思って来ると夫妻の権威は眼中に無くなって、肩肘(かたひじ)がむくむくと平常通り聳立(そびえた)って来るのを覚えた。「はははは、まこと料理ですかな」
 車が迎えに来て、夫妻は暇(いとま)を告げた。鼈四郎はこれからどちらへと訊(き)くと、夫妻は壬生寺(みぶでら)へお詣(まい)りして、壬生狂言の見物にと答えた。鼈四郎は揶揄(やゆ)して「善男善女の慰安には持って来いですね」というと、ちょっと眉(まゆ)を顰(ひそ)めた夫人は「あれをあなたは、そうおとりになりますの、私たちは、あの狂言のでんがんでんがんという単調な鳴物を地獄の音楽でも聞きに行くように思って参りますのよ」というと、良人(おっと)の画家も、実は鼈四郎の語気に気が付いていて癪(しゃく)に触ったらしく「君おれたちは、善男善女でもこれで地獄は一遍たっぷり通って来た人間たちだよ。だが極楽もあまり永く場塞(ばふさ)ぎしては済まないと思って、また地獄を見付けに歩るいているところだ。そう甘くは見なさるなよ」と窘(たしな)めた。夫人はその良人の肘をひいて「こんな美しい青年を咎(とが)め立するもんじゃありませんわ。人間の芸術品が壊れますわ」自分のいったことを興がるのか、わっわと笑って車の中へ駈(か)け込んだ。
 鼈四郎はその後一度もこの夫妻に会わないが、彼の生涯に取ってこの春の二回の面会は通り魔のようなものだった。折角設計して来た自分らしい楼閣を不逞(ふてい)の風が浚(さら)い取った感じが深い芸術なるものを通して何かあるとは感づかせられた。しかし今更、宗教などという黴臭(かびくさ)いと思われるものに関る気はないし、そうかといって、夫人のいったまこととかまごころとかいうものを突き詰めて行くのは、安道学らしくて身慄(みぶる)いが出るほど、怖気(おぞけ)が振えた。結局、安心立命するものを捉(とら)えさえしたらいいのだろう。死の外にそれがあるか。必ず来て総てが帳消しされる死、この退(の)っ引(ぴき)ならないものへ落付きどころを置き、その上での生きてるうちが花という気持で、せいぜい好きなことに殉じて行ったなら、そこに出て来る表現に味とか芸術とかの岐(わか)れの議論は立つまい。「いざとなれば死にさえすればいいのだ」鼈四郎は幼い時分から辛(つら)い場合、不如意な場合には逃れずさまよい込み、片息をついたこの無可有の世界の観念を、青年の頭脳で確(しか)と積極的に思想に纏(まと)め上げたつもりでいる。これを裏書するように檜垣の主人の死が目前に見本を示した。
 檜垣の主人は一年ほどまえから左のうしろ頸(くび)に癌(がん)が出はじめた。始めは痛みもなかった。ちょっと悪性のものだから切らん方がよいという医師の意見と処法に従ってレントゲンなどかけていたが。癌は一時小さくなって、また前より脹(は)れを増した。とうとう痛みが来るようになった。医者も隠し切れなくなったか肺臓癌(はいぞうがん)がここに吹出したものだと宣告した。これを聞いても檜垣の主人は驚かなかった。「したいと思ったことでできなかったこともあるが、まあ人に較(くら)べたらずいぶんした方だろう」「この辺で節季の勘定を済すかな」笑いながらそういった。それから身の上の精算に取りかかった。店を人に譲り総ての貸借関係を果すと、少しばかり余裕の金が残った。「僕は賑(にぎや)かなところで死にたい」彼はそれをもって京極の裏店に引越した。美しい看護婦と、気に入りのモデルの娘を定まった死期までの間の常傭(じょうやと)いにして、そこで彼は彼の自らいう「天才の死」の営みにかかった。
 売り惜んだ彼が最後に気に入りの蒐集品(しゅうしゅうひん)で部屋の中を飾った。それでも狭い部屋の中は一ぱいで猶太人(ユダヤじん)の古物商の小店ほどはあった。
 彼はその部屋の中に彼が用いつけの天蓋附(てんがいつき)のベッドを据えた。もちろん贋(にせ)ものであろうが、彼はこれを南北戦争時分にアメリカへ流浪した西班牙(スペイン)王属出の吟遊詩人が用いたものだといっていた。柱にラテン文字で詩は彫付けてあるにはあった。彼はそこで起上って画を描き続けた。
 癌(がん)はときどき激しく痛み出した。服用の鎮痛剤ぐらいでは利かなかった。彼は医者に強請(せが)んで麻痺薬(まひやく)を注射して貰う。身体が弱るからとてなかなか注(さ)して呉(く)れない。全身、蒼黒(あおぐろ)くなりその上、痩(やせ)さらばう骨の窪(くぼ)みの皮膚にはうす紫の隈(くま)まで、漂い出した中年過ぎの男は脹(は)れ嵩張(かさば)ったうしろ頸(くび)の瘤(こぶ)に背を跼(くぐ)められ侏儒(しゅじゅ)にして餓鬼のようである。夏の最中(さなか)のこととて彼は裸でいるので、その見苦しさは覆うところなく人目を寒気立した。痛みが襲って来ると彼はその姿でベッドの上で□(もが)き苦しむ。全身に水を浴びたよう脂汗をにじみ出し長身の細い肢体を捩(ねじ)らし擦り合せ、甲斐(かい)ない痛みを扱(こ)き取ろうとするさまは、蛇が難産をしているところかなぞのように想像される。いくら認め合った親友でも、鼈四郎(べつしろう)は友の苦しみを看護(みと)ることは好まなかった。
 苦しみなぞというものは自分一人のものだけでさえ手に剰(あま)っている。殊に不快ということは人間の感覚に染(し)み付き易いものだ。芸術家には毒だ。避けられるだけ避けたい。そこで鼈四郎は檜垣の病主人に苦悶(くもん)が始まる、と、すーっと病居を抜け出て、茶を飲んで来るか、喋(しゃべ)って来るのであった。だが病友は許さなくなった。「なんだ意気地のない。しっかり見とれ、かく成り果てるとまた痛快なもんじゃから――」息を喘(あえ)がせながらいった。
 鼈四郎は、手を痛いほど握り締め、自分も全身に脂汗をにじみ出させて、見ることに堪えていた。死は惧(おそ)ろしくはないが、死へ行くまでの過程に嫌なものがあるという考えがちらりと念頭を掠(かす)めて過ぎた。だがそういうことは病主人が苦悶を深め行くにつれ却(かえ)って消えて行った。あまりの惨(いた)ましさに痺(しび)れてぽかんとなってしまった鼈四郎の脳底に違ったものが映り出した。見よ、そこに蠢(うごめ)くものは、もはやそれは生物ではない。埃及(エジプト)のカタコンブから掘出した死蝋(しろう)であるのか、西蔵(チベット)の洞窟(どうくつ)から運び出した乾酪(かんらく)の屍体(したい)であるのか、永くいのちの息吹きを絶った一つの物質である。しかも何やら律動しているところは、現代に判(わか)らない巧妙繊細な機械仕掛けが仕込まれた古代人形のようでもある。蒼黒く燻(くす)んだ古代人形はほぼ一定の律動をもって動く、くねくね、きゅーっぎゅっと□いて、もくんと伸び上る。頽(くずお)れて、そして絶息するようにふーむと□く。同じ事が何度も繰返される。モデル娘は惨ましさに泣きかけた顔をおかしさで歪(ゆが)み返させられ、妙な顔になって袖(そで)から半分覗(のぞ)かしている。看護婦は少し怒りを帯びた深刻な顔をして団扇(うちわ)で煽(あお)いでいる。
 鼈四郎は気付いた。病友はこの苦しみの絶頂にあって遊ぼうとしているのだ。彼は痛みに対抗しようとする肉体の自らなる□きに、必死とリズムを与えて踊りに慥えているのだ。そうすることが少しでも病痛の紛らかしになるのか、それとも友だちの、ふだんいう「絶倫の芸術」を自分に見せようため骨を折っているのか。病友はまた踊る、くねくね、ぎゅーっ、きゅ、もくんもくんそして頽れ絶息するようにふーむと□く。それは回教徒の祈祷(きとう)の姿に擬しつつ実は、聞えて来る活動館の安価な楽隊の音に合わせているのだった。
 鼈四郎が、なお愕(おどろ)いたことは、病友は、そうしながら向う側の壁に姿見鏡を立てかけさせ、自分の悲惨な踊りを、自ら映しみて効果を味っていることだった。映像を引立たせる背景のため、鏡の縁の中に自分の姿と共に映し入るよう、青い壁絨と壺(つぼ)に夏花までベッドの傍に用意してあるのだった。鼈四郎に何か常識的な怒りが燃えた。「病人に何だって、こんなばかなことをさしとくのだ」鼈四郎はモデルの娘に当った。モデル娘は「だって、こちらが仰(おっ)しゃるんですもの」と不服そうにいった。病友はつまらぬ咎(とが)め立をするなと窘(たしな)める眼付をした。
 三度に一度の願いが叶(かな)って医者に注射をして貰ったときには病友は上機嫌で、へらりへらり笑った。食慾を催して鼈四郎に何を作れかにを作れと命じた。
 葱(ねぎ)とチーズを壺焼(つぼやき)にしたスープ・ア・ロニオンとか、牛舌(オックス・タング)のハヤシライスだとか、莢隠元(アリコベル)のベリグレット・ソースのサラダとか、彼がふだん好んだものを註文(ちゅうもん)したので鼈四郎は慥え易かった。しかし家鴨(あひる)の血を絞ってその血で家鴨の肉を煮る料理とか、大鰻をぶつ切りにして酢入りのゼリーで寄る料理とかは鼈四郎は始めてで、ベッドの上から病友に差図されながらもなかなか加減は難しかった。家鴨の血をアルコールランプにかけた料理盤で掻(か)き混ぜてみると上品なしる粉ほどの濃さや粘りとなった。これを塩(しお)胡椒(こしょう)し、家鴨の肉の截片を入れてちょっと煮込んで食べるのだが、鼈四郎は味見をしてみるのに血生臭(ちなまぐさ)いことはなかった。巴里(パリ)の有名な鴨料理店の家の芸の一つでまず凝った贅沢(ぜいたく)料理に属するものだと病友はいった。
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