食魔
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著者名:岡本かの子 

夫人のいった、まこと、まごころというものも、安道徳のそれではなくて一癖も二癖もある底の深い流れにあるらしいものを指すのか。それは何ぞ。
 夜はしんしんと更けて、いよいよ深みまさり、粘り濃く潤う闇(やみ)。無限の食慾をもって降る霰(あられ)を、下から食い貪(むさぼ)り食い貪り飽くことを知らない。ひょっと見方を変えれば、永遠に、霰を上から吐きに吐くとも見える。ひっきょう食いつつ吐きつつ食いつつ飽き足るということを知らない闇。こんな逞(たくま)しい食慾を鼈四郎(べつしろう)はまだ嘗(かつ)て知らなかった。死を食い生を吐くものまたかくの如きか。
 闇に身を任せ、われを忘れて見詰めていると闇に艶(つやや)かなものがあって、その潤いと共に、心をしきりに弄(なぶ)られるような気がする。お絹? はてな。これもまた何かの仕掛かな。
 大根のチリ鍋は、とっくに煮詰って、鍋底(なべぞこ)は潮干の潟に芥(あくた)が残っているようである。台所へ出てみると、酒屋の小僧が届けたと見え、ビールが数本届いていた。それを座敷へ運んで来て、鼈四郎は酒に弱い癖に今夜一夜、霰の夜の闇を眺めて飲み明そうと決心した。この逞しい闇に交際(つきあ)って行くには、しかし、「とても、大根なぞ食っちゃおられん。」
 彼は、穏に隣室へ声をかけた。
「逸子、済まないが、仲通りの伊豆庄を起して、鮟鱇(あんこう)の肝か、もし皮剥(かわはぎ)の肝が取ってあるようだったら、その肝を貰って来て呉(く)れ、先生が欲しいといえばきっと、呉れるから――」
 珍しく丁寧に頼んだ。はいはいと寝惚(ねぼ)け声で答えて、あたふた逸子が出て行く足音を聞きながら、鼈四郎は焜炉(こんろ)に炭を継ぎ足した。傾ける顔に五十燭(しょく)の球の光が当るとき、鼈四郎の瞼(まぶた)には今まで見たことの無い露が一粒光った。




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