詩の原理
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著者名:萩原朔太郎 

     序


 本書を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆(ほとん)ど約十年間を要した。健脳な読者の中には、ずっと昔、自分と室生犀星(むろうさいせい)等が結束した詩の雑誌「感情」の予告に於(おい)て、本書の近刊広告が出ていたことを知ってるだろう。実にその頃からして、自分はこの本を書き出したのだ。しかも中途にして思考が蹉跌(さてつ)し、前に進むことができなくなった。なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。
 いかに永い間、自分はこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。考えれば考える程、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。折角一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。すくなくとも過去に於て、自分は二千枚近くの原稿を書き、そして皆中途に棄ててしまった。言いようのない憂鬱(ゆううつ)が、しばしば絶望のどん底から感じられた。しかも狂犬のように執念深く、自分はこの問題に囓(か)じりついていた。あらゆる瘠我慢(やせがまん)の非力をふるって、最後にまで考えぬこうと決心した。そして結局、この書の内容の一部分を、鎌倉の一年間で書き終った。それは『自由詩の原理』と題する部分的の詩論であったが、或る事情から出版が厭(い)やになって、そのまま手許(てもと)に残しておいた。
 大森に移ってきてから、再度全体の整理を始めた。そして最近、終(つい)にこの大部の書物を書き終った。これには『自由詩の原理』を包括したり、そのずっと前に書いて破いた『詩の認識について』も、概要だけを取り入れておいた。そして要するに、詩の形式と内容とにわたるところの、詩論全体を一貫して統一した。即ちこの書物によって、自分は初めて十年来の重荷をおろし、漸(ようや)く呼吸(いき)がつけたわけだ。何という重苦しい、困難な荷物であったろう。自分はちかって決心した。もはや再度こうした思索の迷路の中へ、自分を立ち入らせまいと言うことを。
 自分はこの書物の価値について、自ら全く知っていない。意外にこの書は、つまらないものであるか知れない。或(あるい)はまた、意外に面白いものであるか知れない。そうした読者の批判は別として、自分は少なくともこの書物で、過去に発表した断片的の多くの詩論――雑誌その他の刊行物に載る――を、殆ど完全に統一した。それらの詩論は、たいてい自分の思想の一部を、体系から切断して示したもので、多くは暗示的であったり、結論が無かったりした為に、しばしば読者から反問されたり、意外の誤解を招いたりした。(特に自由詩論に関するものは、多くの人から誤解された。)自分はこれ等の人に対し、一々答解することの煩(はん)を避けた。なぜなら本書の出版が、一切を完全に果すことを信じたからだ。この書物に於てのみ、読者は完全に著者を知り、過去の詩論が隠しておいた一つの「鍵(かぎ)」が、実に何であったかを気附くであろう。
 日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹(キリシタン)の迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。(確かに吾人(ごじん)は詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂(にお)いを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑(けいべつ)されているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜(ぼうとく)され、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾(つばき)かけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故(ゆえ)に嘲笑(ちょうしょう)され、文壇的人非人(にんぴにん)として擯斥(ひんせき)された。
 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯(ひきょう)なおどおどした人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐(しい)たげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽(いんぺい)され、感情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。「こうした暗澹(あんたん)たる事態の下に」自分は幾度か懐疑した。「詩は正(まさ)に亡(ほろ)びつつあるのではないか?」と。それほど一般の現状が、ひどく絶望的なものに見えた。
 けれども今や、詩を求めようとする思潮の浪(なみ)が、新しい文学から起ってきた。すべての新興文学の精神は、すくなくとも本質に於ける詩を叫んでいる。おそらくは彼等によって、文学の風見(かざみ)が変るだろう。そして我々のあまりに鎖国的な、あまりに島国的な文壇思潮が、もっと大陸的な世界線の上に出てくるだろう。実に自分は長い間、日本の文壇を仇敵視(きゅうてきし)し、それの憎悪(ぞうお)によって一貫して来た。あらゆる詩人的な文学者は――小説家でも思想家でも――日本に於ては不遇であった。のみならず彼等の多くは、自殺や狂気にさえ導かれた。――正義は復讐(ふくしゅう)されねばならない。
 だが既に時期は来ている。何よりも民衆が、文学に於ける詩を求めている。彼等は文壇を見捨ててしまった。そしてより詩的精神のある彼等の文学――即ち大衆文学――の方に走って行った。我々の進歩した民衆は、もはや文壇に於ける芸術的な、そしてあまりに芸術的であることによって、精神の詩を持たないような文学書類を、一切読もうとしないだろう。一方文壇の内部からは、あの小児病的情熱の無産派文学が興ってきて、過去の死にかかった文壇に挑戦(ちょうせん)している。あらゆるすべての事情が、今や失われた詩を回復し、文学の葬られた霊魂を呼び起そうとしているのだ。正義は復活されるであろう。

 この新世紀の朝に際して、自分がこの書物を出版するのは、偶然にも意義の深いことと言わねばならぬ。自分はこの書物に於て、詩に関する根本の問題を解明した。即ち詩的精神とは何であるか、文学のどこに詩が所在するか、詩の表現に於ける根本の原理は何であるか、詩と他の文学との関係はどうであるか、そもそも詩と言われる概念の本質は何であるか、等々について、思考の究極する第一原理を論述した。故に標題の示す如く、正に『詩の原理』であるけれども、普通に刊行されてる詩書の如く、単に韻律音譜の註(ちゅう)であったり、名詩の解説的批判であったり、初学者の入門的手引であったり、或は独断的詩論の主張であったりするものとは、全然内容が異っている。この書の考えている事は、詩の部門的思考でなくして、文学、芸術、及び人生の全般に於ける詩の地位が、正しくどこにあるかを判別するところにある。故にこの書物の論ずる範囲は、単に韻文学としての詩に限らず、本質に於て詩という言語が包括し得る、すべての文芸一般に及んでいる。(実に或る意味からみて、本書は一種の小説論でさえある。)
 思うに「詩」という言語ほど、従来広く一般的に使用されて、しかもその実体の不可解であり、意味の掴(つかま)えどころなく漠然としたものはないであろう。本書はこの曖昧(あいまい)をはっきりさせ、詩の詩たる正体を判然明白に解説した。(自分の知っている限りこうした書物は外国にも無いようだ。)そこで自分の読者は、すくなくともこの書物から、詩という観念が意味するところの、真の根本の定義を知り得るだろう。そしてこれが解れば、文学の最も重大な精神が解ったのである。故に自分の望むところは、単に詩の作家ばかりでなく、いやしくも詩的精神の何物たるかを知ろうとしている、すべての文学者及び芸術家の全部に向って、この書物を読んでもらいたいのである。諸君がもしこの書物を一読すれば、すくなくとも翌日からして、詩の批判を正当にすることができるであろう。

  西暦一九二八年十月
大森馬込(まごめ)町にて   著者[#改ページ]

     新版の序

 インテリの通有性は、自分の心情(ハート)が為(な)してる仕事に対して、自分の頭脳(ヘッド)が懐疑を持つことだと言われている。詩を作るのは、情緒と直観の衝動による内臓的行為であるが、詩の原理を考えるのは、理智の反省による頭脳の悟性的行為である。ところで、詩人としての私の生活が、過去にそのインテリの通有性を、型通りに経過して来た。即ち私は、一方で人生を歌いながら、一方で人生の何物たるかを思想し続け、一方で詩を書きながら、一方で詩の本質について懐疑し続けて来た。この『詩の原理』は、私が初めて詩というものを書いた最初の日から、自分の頭脳に往来した種々の疑問の総譜表(スコーア)である。
 しかしこの書の初版が出てから、既に約十年の時日が経(た)ってる。この長い歳月の間に、自分の思想に多少の変化と進歩があり、今日の私から見て、この著に幾分の不満なきを得ない。しかしそれは部分的の事であり、大体に於て一貫する主脈の思想は、十年後の今の私も依然として同じであり、堅く自分はその創見と真実を信じきってる。
 私がこの書を書いたのは、日本の文壇に自然主義が横行して、すべての詩美と詩的精神を殺戮(さつりく)した時代であった。その頃には、詩壇自身や詩人自身でさえが、文壇の悪レアリズムや凡庸主義に感染して、詩の本質とすべき高邁(こうまい)性や浪漫性を自己虐殺し、却(かえ)って詩を卑俗的デモクラシイに散文化することを主張していた。したがってこの『詩の原理』は、かかる文壇に対する挑戦(ちょうせん)であり、併(あわ)せてまた当時の詩壇への啓蒙(けいもう)だった。
 今や再度、詩の新しい黎明(れいめい)が来て、詩的精神の正しい認識が呼び戻された。すべての美なるもの、高貴なるもの、精神的なるもの、情熱的なるもの、理念的なるもの及び浪漫的なる一切のものは、本質的に詩精神の泉源する母岩である。そして日本の文壇は、今やその母岩の発掘に熱意している。単に文壇ばかりではない。日本の文化と社会相の全部を通じて、詩精神が強く熱意されてる事、今日の如き時代はかつて見ない。過去約十年の間に、十数版を重ねて一万余人の読者に読まれたこの小著が、長い間の悪い時代を忍びながらも、かかる今日の時潮を先駆して呼ぶために、多少の予言的責務を尽したかも知れないことに、著者としての自慰を感じて此所(ここ)に序文を書くのである。

  西暦一九三八年五月
著者[#改ページ]

       ――読者のために――

 この書物は断片の集編ではなく、始めから体系を持って組織的に論述したものである。故(ゆえ)に読者に願うところは、順次に第一頁(ページ)から最後まで、章を追って読んでもらいたいのである。中途から拾い読みをされたのでは、完全に著者を理解することができないだろう。
 各章の終に附した細字の註(ちゅう)は、本文の註釈と言うよりは、むしろ本文において意を尽さなかった点を、さらに増補して書いたのである。故に細字の分も注意して読んでいただきたい。『詩の原理』について、自分が始めて考え出したのは、前の書物『新しき欲情』が出版された以前であって、当時既に主題の一部を書き出していた。したがってこの書の思想の一部分は、前の書物『新しき欲情』の中にも散在している。
 この書は始め八百枚ほどに書いた稿を、三度書き換えて後に五百枚に縮小した。なるべく論理を簡潔にし、蛇足(だそく)の説明を除こうとしたからである。特に自由詩に関する議論は、それだけで既に三百枚の原稿紙になってる稿本『自由詩の原理』を、僅(わず)かこの書の一二章に縮小し、大略の要旨だけを概説した。したがって或る種の読者には、多少難解と思われる懸念もあるが、十分注意して精読すれば、決して解からないと言うところはないと思う。
[#改ページ]

     目次


新版の序
読者のために

    概論

詩とは何ぞや

    内容論

第一章 主観と客観
第二章 音楽と美術
第三章 浪漫主義と現実主義
第四章 抽象観念と具象観念
第五章 生活のための芸術・芸術のための芸術
第六章 表現と観照
第七章 観照に於ける主観と客観
第八章 感情の意味と知性の意味
第九章 詩の本質
第十章 人生に於ける詩の概観
第十一章 芸術に於ける詩の概観
第十二章 特殊なる日本の文学
第十三章 詩人と芸術家
第十四章 詩と小説
第十五章 詩と民衆

    形式論

第一章 韻文と散文
第二章 詩と非詩との識域
第三章 描写と情象
第四章 叙事詩と抒情詩
第五章 象徴
第六章 形式主義と自由主義
第七章 情緒と権力感情
第八章 浪漫派から高蹈派へ
第九章 象徴派から最近詩派へ
第十章 詩に於ける主観派と客観派
第十一章 詩に於ける逆説精神
第十二章 日本詩歌の特色
第十三章 日本詩壇の現状

    結論

島国日本か? 世界日本か?
『詩の原理』の出版に際して
[#改丁]

   概論



     詩とは何ぞや


 詩とは何だろうか? これに対する答解は、形式からと内容からとの、両方面から提出され得る。そして実に多くの詩人が、古来この両方面から答解している。もしこれ等の答解にして完全だったら、吾人(ごじん)はそのどっちを聞いても好いのである。なぜなら芸術に於(お)ける形式と内容の関係は、鏡に於ける映像と実体の関係だから。
 しかしながら吾人は、そのどっちの側からの答解からも、かつて一つの満足のものを聞いていない。特に内容からされたものは、一般に甚(はなは)だしく独断的で、単に個人的な立場に於ける、個人的な詩を主張しているにすぎない。例えば、或(あるい)は詩は霊魂の窓であると言い、天啓の声であると言い、或は自然の黙契であると言い、記憶への郷愁だと言い、生命の躍動だと言い、鬱屈(うっくつ)からの解放だと言い、一々個人によって意見を異にし、一も普遍妥当するところがない。畢竟(ひっきょう)これ等のものは、各々の詩人が各々の詩論を主張しているのであって、一般についての「詩の原理」を言ってるのでない。吾人が本書で説こうとするのは、こうした個人的の詩論でなくして、一般について何人にも承諾され得る、普遍共通の詩の原理である。
 さて内容からされた詩の解説が、かく各人各説であるに反して、一方形式からされた詩の答解は、不思議に多数者の意見が一致し、古来の定見に帰結している。曰(いわ)く、詩とは韻律(リズム)によって書かれた文学、即ち「韻文」であると。思うにこの解説ほど、詩の定義として簡単であり、かつ普遍に信任されているものはないだろう。しかしこの解説が、果して詩の詩たるべき本質を、形式上から完全に定義しているだろうか? 第一の疑問は、先(ま)ず韻律(リズム)とは何ぞや、韻文(バース)とは何ぞやと言うことである。字書の語解は、この点に就いて完全な答案を持つであろう。にもかかわらず、古来多くの詩人等は、この点で態度を晦(くら)まし、強(し)いて字義の言明された定義を避けてる。けだし、彼等の認識中には、詩と散文との間に割線がなく、しばしば韻文の延べた線が、散文の方に紛れ込んでいるのを知ってるからだ。彼等はその点で困惑し、語義を曖昧(あいまい)にしておくことから、ずるくごまかそうとしているのである。
 されば*リズムや韻文やの語も、詩人によってそれぞれまた解釈と意見を異にしている。誰もおそらく、この言語の意味する字書の正解を知ってるだろう。しかも多くの詩人等は、これにまた各自の勝手な附説をつけ、結局して自己の詩と結びつけているのである。故(ゆえ)に詩の形式に於ける答解も、つまりは内容に於けるそれと同じく、どこにも共通普遍の一致がない、各人各説の独断説にすぎないことが推論される。しかし此処(ここ)では、仮りに各人の意見が一致し、文字通りの正解された韻文を以て、詩の詩たる典型の形式であると認めておこう。しかしそれにしても、尚(なお)この答解は疑わしく、定義として納得できないものを考えさせる。
 もし果してそうであり、詩の詩たる所以(ゆえん)が韻文であるとするならば、およそ韻律の形式によって書かれたすべてのものは、必然に皆詩と呼ばるべき文学に属するだろう。然るに世には、正則なる律格や押韻やの形式をもっていながら、本質上に於て詩と称し得ないような文学がある。即ち例えば、ソクラテスが韻文修辞の練習として、獄中で書いたと言われるイソップ物語の押韻訳や、アリストテレスが書いたと言われる、同じ押韻の哲学論理や、或は我が国等によく見る道徳処世の教訓歌、学生が地理歴史の諳記(あんき)に便する和歌等のものである。これ等の文字は、確にだれがみても異存のない、文字通りの正則な韻文であるにかかわらず、本質上から詩と呼ぶことができないのである。反対に一方には、ツルゲネフやボードレエルの書いた詩文の如く、散文の形式であるにかかわらず、本質から詩と呼ばれてる一種の文学、即ち所謂(いわゆる)「**散文詩」がある。
 されば詩の答解は、散文(PROSE)に対する韻文(VERSE)と言う如き、単純な断定によっては尽し得ない。すくなくともこの答解は、その「散文」「韻文」等の語に特殊な解説を附さない限りは、形式からの見方としても、合理的な普遍性を持たないだろう。もし実に合理的のものであったら、形式がそれ自ら内容の投影である故に、本質に於て詩と考え得ないような文字を、外見上から紛れ入れるようなことは無いわけである。故に形式からも内容からも、従来詩に就いて答解されたすべてのものは、一として合理的な普遍性を有していない。詩とは何ぞや? という問に対して、過去に人々が答えたすべてのものは、部分的な偏見に執した誤謬(ごびゅう)である、もしくは特殊の窓を通して見た、個人の独断的主張であるかであって、一般に普遍的に、どんな詩にもどの詩人にも、共通して真理である如き答解は、かつて全く無かったのである。
 そこで本書は、この普遍的な解答をするために、内容と形式との、二つの方面から考察を進めて行こうと思っている。けだし詩とは「詩の内容」が「詩の形式」を取ったものであるからだ。そこで本書の前半を内容論とし、後半を形式論とし、前のものの肖像が、後のものの鏡面に映り出してくるように、論述を組織したいと思っている。

* 詩のリズムを解して、心の起る浪(なみ)の音波など言う人がある。これ形式を内容に移して説いたもので、この思想から自由詩の所謂「内部韻律(インナアリズム)」という如き観念が生ずるのである。だがこうなってくると「韻文」の語義が益々(ますます)不可解になる。
** 詩と韻文とが同字義ならば、散文詩という語は何の意味か。散文(詩でないもの)と詩(韻文)とが、一つの言語で結びつくのは、北と南、善と悪との反対を、同時に考えるような矛盾である。
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   内容論



     第一章 主観と客観


 詩という言語が指示している、内容上の意味は何だろうか? 例えば或る自然の風景や、或る種の音楽や、或る種の小説等の文学が、時に詩的と呼ばれ、詩があると言われる時、この場合の「詩」とは何を意味しているのだろうか。本書の前半に於て、吾人(ごじん)はこの問題を解決しようと思っている。しかしこれを釈(と)く前には、表現の一般的のものにわたって、原則の根拠するところを見ねばならぬ。なぜならばこの意味の「詩」という言語は、特殊の形式によるものでなく、あらゆる一切なものにわたって、内容の本質とする点を指すのであるから、以下吾人は、暫(しば)らく詩という観念から離別をして、表現の原則する公理につき、基本の考察を進めて行こう。
 さてすべての芸術は、二つの原則によって分属されてる。即ち主観的態度の芸術と、客観的態度の芸術である。実にあらゆる一切の表現は、この二つの所属の中、何(いず)れかの者に範疇(はんちゅう)している。もちろん吾人の知ろうとする詩も、この二つの所属の中、どっちかの者でなければならない。故(ゆえ)にこの点での認識を判然さすべく、究極まで徹底的にやって行こう。そもそも芸術上に於ける主観的態度とは何だろうか。客観的態度とは何だろうか。此処(ここ)で始めから分明している一つのことは、主観が「自我」を意味しており、客観が「非我」を意味していることである。
 そこで一般の常識は、ごく単純に考えて解釈している。即ち表現の対象を自我に取るかまたは自我以外の外物に取るかによって、或(あるい)は主観的描写と呼ばれ、或は客観的描写と言われる。しかしこの解釈が浅薄であり、真の説明になっていないことは明白である。もしそうであるならば、彼自身をモデルとする画家の所謂(いわゆる)自画像は、常に主観的芸術の典型と見ねばならない。しかもそんな荒唐無稽(こうとうむけい)があるだろうか。ひとしく自画像である中にも、主観的態度の画風もあるし、純客観風の画風もある。画家にとってみれば、モデルが自分であると他人であるとは、あえて関するところでないのだ。文学にしてもその通りで、作者自身の私生活を描いたもの、必ずしも主観的文学と言えないだろう。或る浅薄な解釈者は、一人称の「私」で書いた小説類を、すべて主観的文学と言っているが、もしそうした小説に於て、「私」という言葉の代りに「彼」を置き、もしくは青野三吉という他人の固有名詞を入れ換えたら、単にそれだけの文字の相違で、主観小説が直ちに客観小説に変ってくるのか?
 常識のあるものは、だれもそんな馬鹿を考えない。或る小説に於て、主人公が「私」であろうと「彼」であろうと、文学の根本様式に変りはしない。或る作家が、もし科学的冷酷の態度を以て、純批判的に自己を観察し、写実主義のメスを振(ふる)って自己の解剖図を見せるならば、これをしも尚(なお)主観的描写と言い、主観主義の芸術と言うだろうか。この場合のモデルは自我であるにかかわらず、実には却(かえ)って客観描写とされるのである。これに反して或る作品は、自己以外の第三者や、自然外界の事件を対象として描いてるのに、却ってしばしば主観主義と考えられてる。たとえばユーゴーやジューマの浪漫派小説は、専(もっぱ)ら広い人生社会を書いているのに、定評はこれを主観派のものに見ている。反対に日本の自然派小説の大部分は、作者自身をモデルとした純私小説であるにかかわらず、当時の文壇の批判に於て、客観文学の代表と思惟(しい)されていた。さらに尚一つの例を言えば、西行(さいぎょう)は自然詩人の典型であり、専ら自然の風物外景のみを歌っていたにかかわらず、今に於ても昔に於ても、彼の歌風は主観主義の高調と考えられている。
 されば主観と客観との区別が、必ずしも対象の自我と非我とに有るのでなく、もっと深いところに意味をもってる、或る根本のものに存することが解るだろう。何よりも第一に、此処で提出されねばならない問題は、そもそも「自我とは何ぞや?」という疑問である。主観が自我を意味する限り、この問題の究極点は、結局して此処に達せねばならないだろう。自我とは何だろうか。第一に解っていることは、自我の本質が肉体でないと言うことである。なぜならば画家は、自分の肉体を鏡に映して、一の客観的存在として描写している。また自我の本質は、生活上に記憶されてる経験でもないだろう。なぜなら多くの小説家等は、自己の生活経験を題材として、極(きわ)めて客観的態度の描写をしている。
 では自我とは何だろうか? すくなくとも心理上に於て意識される、自我の本質は何であろうか? この困難な大問題に対しては、おそらく何人も、容易に答えることができないだろう。然るに幸いにも、近代の大心理学者ウイリアム・ゼームスが、これに対して判然たる解決をし、有名な答解をあたえている。曰(いわ)く一つの同じ寝室に、太郎と次郎が一所に寝ている。朝、太郎が目を覚(さ)ました時、いかにして自分の記憶を、次郎のそれと区別するか。けだし自我の意識は「温感」であり、或る親しみのある、ぬくらみの感であるのに、非我の記憶は「冷感」であり、どこかよそよそしく、肌につかない感じがする。自我意識は即ち温熱の感であると。(ゼームス「意識の流れ」)
 このゼームスの解説から、吾人は始めて、意識に於ける、自我の本体を自覚し得る。自我とは実に温熱の感であり、非我とはそれの伴わない、冷たくよそよそしい感である。故にすべて温熱の感の伴うものは、吾人の言語に於て「主観的」と呼ばれるのである。然るに温熱の感の所在は、それ自ら感情(意志を含めて)である故に、すべて主観的態度と言われるものは、必然に感情的態度を意味している。反対に情味のとぼしく、知的要素に於て克(か)ったものは、その冷感の故に客観的態度と言われる。例えば可憐(かれん)な小動物が苛(いじ)められているのを見て、哀憐(あいれん)の情を催し、感傷的な態度で見ている人は、その態度に於て主観的だと言われる。これに反して無関心の態度を取り、冷静な知的の眼でそれを見ている人は、客観的な観察をしていると考えられる。
 そこで思いつかれるのは、こうして言語の解釈されてる、一般のありふれた様式である。一般に人々はこう考えている。主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度であると。吾人はだれもこの思想を、普通に当然のことに思っている。だが考えてみれば、世の中にこれほど奇妙な思想はなかろう。なぜといって人間が分身術の魔法でも知らない限りは、自分で自分から離れるなどいう奇態な業(わざ)が、実際にできる筈(はず)がないからだ。しかもこうした思想が、さも当然のように行われるのは、この場合に於ける「自我」が、常に「感情」を指してるからだ。即ち「自我を離れる」という意味は、感情的な態度を排して、理智的な冷静の態度を取ると言う意味である。反対に「自我に執する」とは、感情的な態度を取ることを意味している。
 かく「自我」と「感情」とは、心理上において同字義に解釈される。ゆえに主観的なるものは、必然に皆感情的である。たとえば前の例において、西行の歌やユーゴーの小説やが、外界の自然や、社会を題材としたものであるにかかわらず、それの批判が、いつも主観的と評するのは、表現の態度が感情的で、作家の情緒や道徳感やで、世界を情味ぶかく見ているからである。これに反して、自然派等の小説が、作家の私生活を書いていながら、一般に客観的と評されているのは、その描写の態度が冷静であり、知的な没情感の観照をしているからである。そこで芸術上の主観主義とは、感情や意志を強調する態度を言い、客観主義とは情意を排し、冷静な知的の態度によって、世界を、無関心に観照する態度を言う。
 されば常に言われる如く、客観はきまって「冷静なる客観」であり、主観は常に「熱烈なる主観」である。この逆即ち「冷静なる主観」や「熱烈なる客観」などは、宇宙のどんな言語にも存在しない。熱と主観は一語であり、冷と客観は一義である。それ故にまた、あらゆる主観芸術の特色は温感であり、あらゆる客観芸術の特色は冷感である。多くの芸術品の上に於て、いかにこの二つの著るしい対照が現われてるかを、さらに次章に於て論説しよう。


     第二章 音楽と美術
       ――芸術の二大範疇(はんちゅう)――


 人間の宇宙観念を作るものは、実に「時間」と「空間」との二形式である。故(ゆえ)に吾人(ごじん)のあらゆる思惟(しい)、及びあらゆる表現の形式も所詮(しょせん)この二つの範疇にすぎないだろう。そこで思惟の様式についてみれば、すべての主観的人生観は時間の実在にかかっており、すべての客観的人生観は空間の実在にかかっている。所謂(いわゆる)唯心論と唯物論、観念論と経験論、目的論と機械論等の如き、人間思考の二大対立がよるところは、結局して皆此処(ここ)に基準している。
 ところでこの対立を表現について考えれば、音楽は即ち時間に属し、美術は即ち空間に属している。実に音楽と美術とは、一切芸術の母音であって、あらゆる表現の範疇する両極である。即ち主観主義に属する一切の芸術文学は、音楽の表現に於て典型され、客観主義に属するすべてのものは、美術の表現に於て典型される。故に音楽と美術との比較鑑賞は、それ自ら文芸一般に通じての認識である。
 音楽と美術! 何という著るしい対照だろう、およそ一切の表現中で、これほど対照の著るしく、芸術の南極と北極とを、典型的に規範するものはない。先(ま)ず音楽を聴(き)き給え。あのベートーベンの交響楽(シムホニイ)や、ショパンの郷愁楽(ノクチューン)や、シューベルトの可憐(かれん)な歌謡(リード)や、サン・サーンスの雄大な軍隊行進曲(ミリタリマーチ)やが、いかに情熱の強い魅力で、諸君の感情を煽(あお)ぎたてるか。音楽は人の心に酒精を投じ烈風の中に点火するようなものである。仏蘭西(フランス)革命当時の狂児でなくとも、あのマルセーユの歌を聴いて狂熱し、街路に突進しないものがどこにあろうか。音楽の魅力は酩酊(めいてい)であり、陶酔であり、感傷である。それは人の心を感激の高所に導き、熱風のように狂乱させる。或(あるい)は涙もろくなり、情緒に溺(おぼ)れ、哀切耐えがたくなって、嗚咽(おえつ)する。ニイチェの比喩(ひゆ)を借りれば、音楽こそげにデオニソスである。あの希臘(ギリシャ)的狂暴の、破壊好きの、熱風的の、酩酊の、陶酔の、酒好きの神のデオニソスである。
 これに対して美術は、何という静観的な、落着いた、智慧(ちえ)深い瞳(め)をしている芸術だろう。諸君は音楽会の演奏を聴いた後で、直ちに美術展覧会に行き、あの静かな柔らかい落着いた光線や気分の中を、あちこちと鑑賞しつつ歩いた時、いかに音楽と美術とが、芸術の根本的立場に於て、正反対にまで両極していることを知ったであろう。会場の空気そのものすらが、音楽の演奏では熱しており、聴客が狂気的に感激している。そして美術の展覧会では、静寂として物音もなく、人々は意味深げに、鑑賞の智慧聡(ざと)い瞳(め)を光らしている。かしこには「熱狂」があり、此処には「静観」があり、一方には「情熱」が燃え、一方には「智慧」が澄んでる。
 実に美術の本質は、対象の本質に突入し、物如の実相を把握しようとするところの、直覚的認識主義の極致である。それは智慧の瞳を鋭どくし、客観の観照に澄み渡って行く。故に絵画の鑑賞には、常に静かな秋空があり、澄みきった直感があり、物に動ぜぬ静観心と叡智(えいち)の行き渡った眼光がある。それは見る人の心に、或る冷徹した、つめたい水の美を感じさせる。即ちこの関係で、音楽は正に「火の美」であり、美術は正に「水の美」である。一方は燃えることによって美しく、一方は澄むことによって美しい。そして絵画のみでなく、またもちろん、すべての造形美術がそうである。たとえば、建築の美しさは、あの幾何学的な、数理式的な、均斉や調和の取れた、そして大地の上に静寂としてる、あのつめたく澄んだ触覚にある。それは理智的の静観美で、熱風的の感情美でない。即ちニイチェの比喩で言えば、美術はまさに智慧の女神アポロによって表徴されてる、端麗静観の芸術である。
 音楽と美術によって代表されてる、この著るしい両極的の対照は、他の一切の芸術に普遍して、主観的のものと客観的のものとを対照づけてる。即ち主観的なる一切の芸術は、それ自ら音楽の特色に類属し、客観的なるすべてのものは、本質上に於て美術の同範に属している。そこでこれを文学について考えれば、詩は音楽と同じように情熱的で、熱風的な主観を高調するに反し、小説は概して客観的で、美術と同じように知的であり、人生の実相を冷静に描写している。即ち詩は「文学としての音楽」であり、小説は「文学としての美術」である。
 しかしながら言語の意味は、常に関係上の比較にかかっているから、関係にしてちがってくれば、言語の指定するものもちがってくる。例えば函館は日本の北で、台北は日本の南である。けれども北海道の地図から言えば、函館はその南であり、台湾の地図から見れば、台北はその北方である。故に詩や小説が世界している、各々の内側に入って見れば、そこはまた主観主義と客観主義とが、それぞれの部門に対立し、音楽型と美術型とが分野している。先ず小説について見れば、浪漫派や人道派等の名で呼ばれるものは、概して皆主観主義の文学であり、自然派や写実派の名目に属するものは、多く皆客観主義の文学である。したがって前者の特色は、愛や憐憫(れんびん)やの情緒に溺れ、或は道義観や正義観やの、意志の主張するところを強く掲げ、すべてに於て音楽のように燃焼的である。これに反して客観派の小説は、知的に冷静な態度を以て、社会の現実している真相を描こうとする。
 次に詩に於ても、やはりこの同じ二派の対照がある。例えば西洋の詩で、抒情詩(じょじょうし)と叙事詩の関係がそうである。一般に言われている如く、抒情詩は主観的の詩に属し、叙事詩は客観的の詩に属する。しかし叙事詩が客観的だと言う意味は、必ずしもそれが歴史や伝説を書くからでなく、他にもっと本質的な深い意味があるからである。だが、この問題は本書のずっと後に廻しておいて、当面の議事を進めて行こう。日本の詩について見れば、和歌と俳句の関係が、主観主義と客観主義を対照している。詩の内容の点からみても、音律の点からみても、和歌の特色が音楽的であるに反して、俳句は著るしく静観的で、美術の客観主義と共通している。また箇々の詩派について言えば、欧洲の浪漫派や象徴派に属する詩風は、概して情緒的の音楽感を高調し、古典派や高踏派に属するものは、美術的の静観と形式美とを重視する。
 かく主観主義と客観主義とは、凡(すべ)ての芸術の部門に於て、それぞれの著るしい対立を示している。実に美術や音楽やの、典型的な芸術に於てさえも、またそれ自身の部門に於て、この左右両党が対立しているのである。先ず美術について考えれば、一方にゴーガンや、ゴーホや、ムンヒや、それから詩人画家のブレークなどがいて、典型的な主観派を代表している。即ちこの種の画家たちは、対象について物の実相を描くのでなく、むしろ主観の幻想や気分やを、情熱的な態度で画布に塗りつけ、詩人のように詠歎(えいたん)したり、絶叫したりしているのである。故に彼等の態度は、絵によって絵を描くというよりも、むしろ絵によって音楽を奏しているのだ。然るにこの一方には、ミケランゼロや、チチアンや、応挙(おうきょ)や、北斎(ほくさい)や、ロダンや、セザンヌやの如く、純粋に観照的な態度によって、確実に事物の真相を掴(つか)もうとするところの、美術家の中の美術主義者が居る。
 音楽がまた同様であり、主観主義の標題楽と、客観主義の形式楽とが対立している。標題音楽とは、近代に於ける一般的の者のように、楽曲の標題する「夢」や「恋」やを、それの情緒気分に於て表情しようとする音楽であり、その態度は純粋に主観的である。然るに形式音楽の態度は、楽曲の構成や組織を重んじ、主として対位法によるフーゲやカノンの楽式から、造形美術の如き荘重の美を構想しようとするのであって、極(きわ)めて理智的なる静観の態度である。即ち形式音楽は「音楽としての美術」と言うべく、これに対する内容主義の標題楽は、正に「音楽の中での音楽」というべきだろう。


     第三章 浪漫主義と現実主義


 上来述べ来(きた)ったように、あらゆる一切の芸術は、主観派と客観派との二派にわかれ、表現の決定的な区分をしている。実にこの二つの者は、芸術の曠野(こうや)を分界する二の範疇(はんちゅう)で、両者は互に対陣し、各々の旗号を立て、各々の武器をもって向き合ってる。
 人間の好戦的好奇心は、しばしばこの両軍を衝突させ、勝敗の優劣を見ようと欲する。しかしながら両軍の衝突は、始めより無意味であって、優劣のあるべき理由がない。なぜならば主観派の大将は音楽であり、客観派の本塁は美術であるのに、音楽と美術の優劣に至っては、何人も批判することができないからだ。もし或(あるい)は、強(し)いてこれを批判するものがありとすれば、それは単なる趣味の好悪(こうお)、個人としての好き嫌(きら)いにすぎないだろう。(あらゆる芸術上の主義論争は、結局して個人的な趣味の好悪にすぎないのである。)
 然るにそれにもかかわらず、古来この両派の対陣は、文学上に於て盛んに衝突し、異端顕正の銃火をまじえ、長く一勝一敗の争論を繰返してきた。この不思議なる争闘は、けれども必ずしも無意味でなかった。なぜならばそれによって、表現に於ける二大分野の特色を明らかにし、相互の旗色を判然とすることができたからだ。よって激戦の陣地について、左右両軍の主張を聞き、突撃に於ける文学上の合図を調べてみよう。
 文学上に於ける主観派と客観派との対立は、常に浪漫派と自然派、もしくは人道派と写実派等の名で呼ばれている。先(ま)ず客観派に属する文学、即ち自然主義や写実主義の言うところを聞いてみよう。
・ 感情に溺(おぼ)れる勿(なか)れ。
・ 主観を排せよ。
・ 現実に根ざせ。
・ あるがままの自然を描け!
 これに対して主観派に属する文学、即ち浪漫主義や人道主義の言うところはこうである。
・ 情熱を以て書け!
・ 主観を高調せよ。
・ 現実を超越すべし。
・ 汝(なんじ)の理念を高く掲げよ!
 両派の主張を比較してみよ。いかに両方が正反対で、著るしいコントラストをしているかが解るだろう。前者の正とするところは後者の邪であり、後者の掲げる標語は一方の否定するところである。そもそも何故(なにゆえ)に二つの主張は、かくも反対な正面衝突をするのだろうか。けだしこの異議の別れる所以(ゆえん)は、両者の人生に対する哲学――人生観そのもの――が、根本に於てちがっているからである。文学上に於けるすべての異論は、実にこの人生観の別から来ている。これを両方の者について調べてみよう。
 客観派の文学、即ち自然主義や写実主義について見れば、人生は一つの実在であり、正にそれが有る如く、現実に於て見る如くである。そして生活の目的は、この現実的なる世界に於て、自然人生の実相を見、真実(レアール)を観照し、存在の本質を把握することに外ならない。故に芸術家としての彼等の態度は、この実に「あるがままの世界」に対して、あるがままの観照をすることにある。この生活態度は知的であり、認識至上主義であり、一切「真実への観照」にかかってる。即ちそれは「観照のための芸術」である。
 然るに一方に於ては、浪漫主義等の主観派文学が、これとちがった人生観を抱(いだ)いている。この派の人々に取ってみれば、人生は現に「あるもの」でなく、正に「あるべきもの」でなければならない。この現実するところの世界は、彼等にとって不満であり、欠点であり、悪と虚偽とに充たされている。実に有るべきところの人生は、決してこんな態(ざま)であってはならない。真に実在さるべきものは、かかる醜悪不快の現実でなく、すべからくそれを超越したところの、他の「観念の世界」になければならぬ。故にこの派の人々にとってみれば、芸術はそれの理念に向って、呼び求めるところの祈祷(きとう)であり、或はこの不満なる現実苦から脱れるための、悲痛な情熱の絶叫である。それは何等「認識のため」の表現でなく、情意の燃焼する「意欲のため」の芸術である。
 かく二つの芸術は、初めから人生観の根柢(こんてい)を異にしている。一方の者にとっては、凡(すべ)て現実する世界(あるところのもの)が真であり、美と完全と調和との一切が、それの観照に於て実在される。即ち彼等の主張によれば、実在(レアール)は「現実以外」にあるのでなく、「現実の中に」存在する。(したがって「現実を凝視せよ」という標語が言われる。)ところが一方の人生観では実在(レアール)が「現実の中に」あるのでなく、彼自身の理想の中に、観念の中に存するのである。言い換えれば、この現実世界は不満足のもの――肯定できないもの――であって、真に考えらるべき世界は、主観の構成する「観念の中に」実在する。(したがって「現実を超越せよ」という標語が言われる。)
 この二つの異った思想に於て、読者は直(ただち)に希臘(ギリシャ)哲学の二つの範疇、即ちプラトンとアリストテレスを聯想(れんそう)するであろう。実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。即ちプラトンの思想によれば、実在は現実の世界になくして、形而上(けいじじょう)の観念界(イデヤ)に存するのである。故に哲学の思慕は、このイデヤに向ってあこがれ、羽ばたき、情熱を駆り立て、郷愁の横笛を吹き鳴らすにある。これに反してアリストテレスは、実在を現実の世界に認識した。彼はプラトンの説を駁(ばく)して真理を「天上」から「下界」におろし、「観念」から「実体」に現実させた。彼は実にレアリズムの創始者で、プラトンの詩的ロマンチシズムと相対の極を代表している。そしてこの二者の思想は、古来から今日に至るまで、尚(なお)一貫した哲学上の両分派で、おそらくはずっと未来にまで、哲学の歴史を貫通する論争の対陣だと言われている。そしてこの二者の議論が尽きない限り、芸術上における二派の論争も止(や)まないのである。
 ともあれ吾人(ごじん)は、此処(ここ)に至って「主観主義」と「客観主義」との、芸術上における二派のイズムを分明し得た。要するに二派の相違は、その認定する宇宙の所在が、自我の観念(イデヤ)に於てであるか、もしくは現象界の実体に存するかという、内外両面の区別にすぎない。(これを音楽と絵画について考えてみよ。)然るに観念界に存するものは、常に自我(主観)と考えられ、現象界に存するものは、常に非我(客観)と思惟(しい)されるから、此処に主観派と客観派の名目が生ずるのである。前に他の別の章に於て、自分は心理学上の見解から、所謂(いわゆる)「主観」の何物たるかを述べておいたが、此処に至って実在論的の見地からも、主観の本性を知ることができるのだ。即ち主観とは「観念(イデヤ)」であって、自我の情意が欲求する最高のもの、それのみが真実であり実体であるところの、真の規範されたる自我(エゴ)である。故に「主観を高調する」とは、自己の理想や主義やを掲げて、観念(イデヤ)を強く主張することであり、逆に「主観を捨てよ」とは、そうした理想や先入見やの、すべてのイデオロギイとドグマを捨て、非我無関心の態度を以て、この「あるがままの世界」「あるがままの現実」を視(み)よということである。
 ところでこの「主観を捨てよ」は、自然派その他の客観主義の文学が、常に第一のモットオとして掲げるところであるけれども、一方主観主義の文学に取ってみれば、主観がそれ自ら実在(レアール)であって、生活の目標たる観念である故に、主観を捨てることは自殺であり、全宇宙の破滅である。彼等の側から言ってみれば、この「あるがままの現実世界」は、邪悪と欠陥とに充ちた煉獄(れんごく)であり、存在としての誤謬(ごびゅう)であって、認識上に肯定されない虚妄(きょもう)である。何となれば、彼等にとって、実に「有り(レアール)」と言われるものはイデヤのみ。他は虚妄の虚妄、影の影にすぎないからだ。
 然るに、客観主義の方では、この影の影たる虚妄の世界が真に「有る(レアール)」ところのもの――この非実在とされる虚妄の世界が、レアールの名で「現実」と呼ばれてる。即ちこの方の見地からは、現実する世界だけが真実であり、実に「有り(レアール)」と言われるものであって、主観のイデヤに存する世界は、実なき観念の構想物――空想の幻影・虚妄の虚妄――と考えられる。故に両方の思想は反対であり、同じレアールという言語が、逆に食いちがって使用されてる。

 この両方の思想の相違を、最もよく説明するものは、プラトンとアリストテレスの美術論である。プラトンによれば、自然はイデヤの模写であるのに、美術はその模写を模写する故に、虚妄の表現であり、賤(いや)しく劣等な技術であるというのである。(彼が音楽を以て最高の芸術とし、美術を以て劣等の芸術と考えたのは、いかにもプラトンらしく自然である。)これに反してアリストテレスは、同じく美術を自然の模写であると認めながら、それ故に真実であり、智慧(ちえ)の深い芸術であると考えた。

 要するに客観主義は、この現実する世界に於て、すべての「現存(ザイン)するもの」を認め、そこに生活の意義と満足とを見出(みいだ)そうとするところの、レアリスチックな現実的人生観に立脚している。客観主義の哲学は、それ自ら現実主義(レアリズム)に外ならない。これに反して主観主義は、現実する世界に不満し、すべての「現存(ザイン)しないもの」を欲情する。彼等は現実の彼岸(ひがん)に於て、絶えず生活の掲げる夢を求め、夢を追いかけることに熱情している。故に主観主義の人生観は、それ自ら浪漫主義(ロマンチシズム)に外ならない。
 かく芸術上に於ける主観主義と客観主義の対立は、人生観としての立場における、浪漫主義と現実主義の対立に帰結する。彼がもしロマンチストであったならば、必然に表現上の主観主義者になるであろうし、彼がもしレアリストであったならば、必然に表現上の客観主義者になるであろう。しかし言語は概念上の指定であって、具体的な事物について言うのでないから、単に概称してロマンチストと言い、レアリストと言う中には、特色を異にする多くの別種が混同している。例えば普通にレアリストと称されてる作家の中に、却(かえ)って本質上のロマンチストがいたりする。またロマンチストの中にも、理念を異にし気質を別にするところの人々が居る。以上次第に章を追って、これ等の区別を判然とするであろう。


     第四章 抽象観念と具象観念


        1

 前章に述べた如く、主観主義の芸術は「観照」でなく、現実の充たされない世界に於て自我の欲情する観念(イデヤ)(理念)を掲げ、それへの止(や)みがたい思慕からして、訴え、歎(なげ)き、哀(かな)しみ、怒り、叫ぶところの芸術である。故(ゆえ)に世界は彼等にとって、現にあるところのものでなくしてあるべきところのものでなければならないのだ。
 ではその「あるべきところの世界」は何だろうか。これすなわち主観の掲げる観念(イデヤ)であって、各々の人の気質により、個性により、境遇により、思想により、それぞれ内容を別にしている。そして各々の主観的文学者は、各々の特殊な観念(イデヤ)から、各自の「夢」と「ユートピア」とを構想し、それぞれの善き世界を造ろうと考えている。しかしながらこのイデヤの中には、概念の定義的に明白している、極(きわ)めて抽象的な観念(イデヤ)もあるし、反対に概念の殆(ほとん)ど言明されないような、或る縹渺(ひょうびょう)たる象徴的、具象的な観念(イデヤ)もある。
 先(ま)ず第一に、概念の最も判然としているものをあげれば、すべての所謂(いわゆる)「主義」がそうである。主義と称するものは――どんな主義であっても――観念(イデヤ)が抽象の思想によって、主張を定義的に概念づけたものであるから、あらゆるイデヤの中では、これが最もはっきりしている。しかしながら芸術の本質は、元来具象的なものであって、抽象的、概念的のものではない。故に後に述べる如く、概(おおむ)ねの芸術の掲げるイデヤは、「主義」と称する類のものでなくして、より概念上には漠然としているところの、したがってより具象上には実質的であるところの、他のやや異った類の観念である。しかしそれは後に廻して、尚(なお)「主義」についての解説を進めて行こう。
 さて人の知る通り、主義には色々な主義がある。たとえば個人主義、社会主義、無政府主義、国粋主義、享楽主義、本能主義、自然主義、ダダイズム、ニヒリズムなど、いくらでも数えきれないほど無数にあるが、すべて「主義」と名称のつく一切のものは、各々の人が掲げるイデヤであって、その主観に取っての「あるべき世界」を思想している。各々の主義者等は、これによって世界を指導し、改造しようと意思している。故に一切の主義は――どんな主義であっても――本来「理想的なもの」でなければならない。然るに世には「理想的なもの」に反対するところの、反理想主義の主義がある。即ち例えば、「現実主義」とか「無理想主義」とか「虚無主義」とか言う類の主義である。
 これはどうした矛盾であろうか? いやしくも人が主観を掲げ、或る理想への観念を持たない中は、主義と言う如きものはありはしない。然るに彼自身が主義であって、しかも理想を拒絶する主義とはどういうわけか? だがこの不思議は不思議でない。何となれば「理想を否定する主義」は、それを否定することに於て彼自身の理想(観念界(イデヤ))を見出(みいだ)すからだ。例えば仏陀(ぶつだ)の幽玄な哲学は、一切の価値を否定することに於て、逆に価値の最高のもの(涅槃(ねはん))を主張している。そして所謂ニヒリズムは、存在のあらゆる権威を否定しながら、逆にその虚無に権威を感じ、そこに彼自身のイデヤを見ている。ダダイズムの如きも「一切の主義を奉じない」と言いながら、その「主義を奉じない主義」を奉じてる。故に絶対の意味で言えば、世にイデアリズムでないところの、どんな主義も有り得ない。一切主義であるすべてのものは、それ自ら理想的であり、観念的であるのだ。
 しかし前に述べた通り、芸術は抽象的なものでなくして具象的なものであるから、純粋の意味の芸術品は、かかる「主義」と称する如き概念上のイデヤを持たない。芸術家の持てるイデヤは、もっと漠然としており、概念上には殆ど反省されないところの、或る「感じられる意味」である。芸術家は――純粋の芸術家である限り――決してどんな主義者でもない。なぜなら芸術は、主義を有することによって、真の「表現」を失ってしまうからである。以下このことを説明するため、観念に於ける「抽象的のもの」と「具象的のもの」と、即ち観念(イデヤ)としての抽象物と具象物とが、どこで如何(いか)に違ってるかを話してみよう。

        2

 具象的なるすべてのものは、種々雑多の複雑した要素から成立している。具象的(具体的)なる存在とは、実に多が一の中で融(と)け合い、部分が全体の中において、有機的に滲透(しんとう)混和して統一されたものに外ならない。然るに理智の反省は、これを概念によって分析し、有機的な統一を無機的に換え、部分を箇々の戸棚(とだな)に別(わ)け、見出しカードの抽斗(ひきだし)を付けて索引に便利にする。そこで必要の場合に応じ、吾人(ごじん)はこれ等の索引から、一つの戸棚を見附けて抽き出すのである。これ即ち「抽象」である。故(ゆえ)に概念的に抽象されたすべての者は、真の具体的のものでなくして、全体から切り離され、戸棚を設けて人為的に整理されたものであって、何の生命的なる有機感も持っていない。真の生命感ある「事実のもの」は、常に概念によって抽象されない、具象的のもののみである。
 そこで吾人の生活上で、常に感じてること、思ってること、悩んでいることは、それ自身としていつも具体的のものである。即ちそれは環境や、思想や、健康や、気分やの、種々雑多な条件から成立している。然るに人間の言語は、すべて抽象上の概念であり、事物の定義にすぎない故に、言語が概念として――即ち説明や記述として――使用される限りは、到底かかる実の思いを言い現わせない。かかる具体的の思いを現わすには、ただ絵具や、色彩や、音律や、描写や、文学やがあるのみだ。そうしてこれを吾人は「表現」と呼んでる。表現は即ち芸術である。
 すべての芸術家等が、人生に対して持ってるイデヤは、この種の生活感から欲情される真の具体的のものである。故にそれは主義者の持ってるそれの如く、議論されたり、説明されたり、概念されたりし得るものでない。主義としてのイデヤは、それ自ら抽象上の観念であり、人為的に区別された戸棚をもち、見出し附のカードをもった思想であるから、いつでも反省に照らし出され、自由に弁証され、定義上に説明することも可能であるが、芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである。
 故に芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。況(いわ)んや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。ただ彼等のイデヤは、その音楽や、絵画や、小説やの、表現に於てのみ語られる。例えば歌麿(うたまろ)の絵画をみて、彼のイデヤがエロチシズムへの艶(なま)めかしき没落であることを、明らかにはっきりと知り得るように、芸術の場合に於ては、表現のみが真実のイデヤを語る。そしてかく表現され得るものは、決していかなる概念をも有していない。概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇(はんちゅう)に属している。
 故に芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そして尚(なお)一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、夢という文字にイデヤの仮名をつけ「夢(イデヤ)」として考えると、この場合の実体する意味がはっきりと解ってくる。即ち芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
 多くの生命感ある芸術品は、すべて表現の上に於て、こうした具体的イデヤを語っている。例えばトルストイや、ドストイエフスキイや、ストリンドベルヒやの小説は、各々の作家の立場に於て、何かしらの或るイデヤを、人生に対して熱情している。吾人は彼等の作を通して、そうしたイデヤの熱情に触れ、そこに或る意味を直感する。しかもこれを言語に移して、定義的に説明することが不可能である。なぜならばそれは主義でなく、理想というべきものでもなく、ただ具体的の思いとして、非概念的に直感されるものであるから。そして芸術に於ける批評家の為(な)すべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、或(あるい)はトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観(えんせいかん)を発見したりするのである。
 同様のイデヤは、絵画についても、音楽についても、詩についても発見され、すべて本質は同じである。しかし就中(なかんずく)、詩は文学の中の最も主観的なものである故、詩と詩人に於てのほど、イデヤが真に高調され、感じ深く現われているものはない。詩人の生活に於けるイデヤは、純粋に具体的のものであって、観念によって全く説明し得ないもの、純一に気分としてのみ感じられる意味である。芭蕉(ばしょう)はこのイデヤに対する思慕を指して「そぞろなる思い」と言った。彼はそれによって旅情を追い、奥の細道三千里の旅を歩いた。西行(さいぎょう)も同じであり、或る充たされない人生の孤独感から、常に蕭条(しょうじょう)とした山家(やまが)をさまよい、何物かのイデヤを追い求めた。思うに彼等の求めたものは、いかなる現実に於ても充足される望みのない、或るプラトン的イデヤ――魂の永遠な故郷――へののすたるじやで、思慕の夢みる実在であったろう。
 思うにこうしたイデヤは、多くの詩人に共通する本質のもの、詩的霊魂の本源のものであるか知れない。なぜなら古来多くの詩人が歌ったところは、究極に於ては或る一つの、いかにしても欲情の充たされない、生(ライフ)の胸底に響く孤独感を訴えるから。実に啄木(たくぼく)は歌って言う。「生命(いのち)なき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」「高きより飛び下りる如き心もてこの一生を終るすべなきか」と。彼の求めたものは何だろうか――おそらくそれは啄木自身も知らなかった。ただどこかに、或る時、何等か、燃えあがるような生活の意義をたずね、蛾(が)群の燈火に飛び込むように、全主観の一切を投げ出そうとする、不断の苛(いらだ)たしき心のあこがれ、実在のイデヤを追う熱情だった。されば彼の生涯は、芸術によっても満足されず、社会運動によっても満足されず、絶えず人生の旅情を追った思慕の生活、「何処にかある如し」「遂に何処にか我が仕事ある如し」の傷心深き生活だった。
 だが詩人にして、いずこか傷心深くないものがあるだろうか。支那(しな)の詩人は悩ましげにも、「春宵(しゅんしょう)一刻価千金」と歎息(たんそく)している。そは快楽への非力な冒険、追えども追えども捉(とら)えがたい生の意義への、あらゆる人間の心に通ずる歎息である。所詮(しょせん)するに詩人のイデヤは、他のすべての芸術家のそれに優(まさ)って、情熱深く燃えてるところの、文字通りの「夢」の夢みるものであろう。

 浪漫主義と理想主義との、二つの類似した言語に於ける別が、イデヤに於ける具象と抽象との、はっきりした差別を示している。即ち理想主義と言う言葉は、或る概念されたる、一の名目ある観念への理想を意味し、浪漫主義という言葉は、或る漠然とした、名目なきイデヤへのあこがれを意味している。故に芸術家の主観にあっては、理想主義と言うものはなく、常に浪漫主義が有るのみである。

 ゲーテはそのエッケルマンとの対話に於て、次のようなことを語ってる。
「観念(イデヤ)だって? 私はそんなものは知らない。」
「独逸(ドイツ)人は私のところへ来て、ファウストの中にどういう観念を具体化しようとしたかと尋ねる。まるで自分がそれを知っていて言えるかのようだ。」
「私が自覚して、一貫した観念を表現しようとした唯一の作は親和力だろう。
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