軒もる月
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著者名:樋口一葉 

 殿、今もし此処(こゝ)におはしまして、例(れい)の辱(かたじ)けなき御詞(おことば)の数々、さては恨みに憎くみのそひて御声(おんこゑ)あらく、さては勿躰(もつたい)なき御命(おいのち)いまを限りとの給ふとも、我れはこの眼(め)の動かん物か、この胸の騒がんものか。動くは逢見(あひみ)たき欲よりなり、騒ぐは下に恋しければなり」
 女は暫時(しばし)□惚(うつとり)として、そのすゝけたる天井を見上げしが、蘭燈(らんとう)の火(ほ)かげ薄き光を遠く投げて、おぼろなる胸にてりかへすやうなるもうら淋(さび)しく、四隣(あたり)に物おと絶えたるに霜夜の犬の長吠(とほゞ)えすごく、寸隙(すきま)もる風おともなく、身に迫りくる寒さもすさまじ。来(こ)し方(かた)往(ゆ)く末(すへ)、おもひ忘れて夢路をたどるやうなりしが、何物ぞ、俄(にはか)にその空虚(うつろ)なる胸にひゞきたると覚しく、女子(をなご)はあたりを見廻して高く笑ひぬ。その身の影を顧り見て高く笑ひぬ。「殿、我(わが)良人(をつと)、我子(わがこ)、これや何者」とて高く笑ひぬ。目の前に散乱(ちりみだ)れたる文(ふみ)をあげて、「やよ殿、今ぞ別れまいらするなり」とて、目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面(おもて)に手もふるへで、一通(いつゝう)二通(につう)八九通(はつくつう)、残りなく寸断に為(な)し終りて、熾(さか)んにもえ立つ炭火の中(うち)へ打込(うちこ)みつ打込みつ、からは灰にあとも止(とゞ)めず、煙りは空に棚引(たなび)き消ゆるを、「うれしや、我(わが)執着も残らざりけるよ」と打眺(うちなが)むれば、月やもりくる軒ばに風のおと清し。(終)



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