古代国語の音韻に就いて
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著者名:橋本進吉 

こういう仮名は、一切の場合において二つに分れているのでありまして、例えば「キ」なら「キ」は、語の初に用いられておっても終に用いられておっても中に用いられておっても、いやしくもこの「キ」が現れて来る限り、きっと「キ」にあたる二類の仮名の中のどれか一つが用いられるのです。ですから、活用する語の語尾に「キ」や「ヒ」や「ミ」が出て来ますが、その場合にもこれらの仮名の一つ一つに当る二類の中のどちらか一つがあらわれ、しかもいつもきまって同じ類のものがあらわれます。四段活用ですと、その活用語尾の中、前に述べた十二の仮名に関係のあるものはカ行とハ行とマ行であって、その活用語尾は次の通りです。[#ここから二字下げて表] 未然 連用 終止 連体 已然 命令カ行四段活用 カ キ ク ク ケ ケハ行四段活用 ハ ヒ フ フ へ へマ行四段活用 マ ミ ム ム メ メ[#表ここまで] この中、「キ、ヒ、ミ」と「ケ、へ、メ」とが十二の仮名に含まれていますが、四段の連用形として用いられるのは「キ」の二類の中の一つです。仮にこれを「キ」の甲と名づけます。同様に「ヒ」も「ミ」も、それぞれ二類ある中、四段連用形に用いられるものを「ヒ」の甲、「ミ」の甲とする。次に上二段活用にもまた「キ、ヒ、ミ」があらわれて来ます。[#ここから二字下げて表]カ行上二段活用 キ キ ク クル クレ キヨハ行上二段活用 ヒ ヒ フ フル フレ ヒヨマ行上二段活用 ミ ミ ム ムル ムレ ミヨ[#表ここまで] 上二段では、未然形と連用形と命令形とに「キ、ヒ、ミ」がありますが、この「キ、ヒ、ミ」は、四段連用形に用いる「キ、ヒ、ミ」と同じ類のものを用いず、皆違った類のものを用います。四段連用形に用いるのを甲とすれば、それとは違った乙の類のものを用います。かようにして、「キ」の乙、「ヒ」の乙、「ミ」の乙という類が認められます。 次に四段の命令形に「ケ、へ、メ」の仮名がありますが、これも十二の仮名のうちで、いずれも一つの仮名が二つの類にわかれて、四段命令形には、その中の一つの類がいつも用いられます。これを「ケ」の甲、「へ」の甲、「メ」の甲と仮に名づけておきます。同じ四段の已然形にも、「ケ、へ、メ」の仮名が出て来ますが、これは命令形の「ケ、へ、メ」と同じ類のものは決して用いず、きっとこれと違った類のものを用いて、この二つの間にはっきりした区別があります。この四段の已然形に用いるものを乙と名づけることとすれば、「ケ」の乙、「メ」の乙、「へ」の乙という類が認められるわけです。 かように、「キ、ヒ、ミ」も「ケ、へ、メ」も皆一つ一つが二類に分れて、そのおのおのの類が皆違った発音であったと思われるのですが、それが皆甲乙の二つの類にわかれて、仮名の違いにかかわらず、同じ種類の活用の同じ活用形には、その甲類は甲類同志相伴って用いられ、乙類はまた乙類同志相伴って用いられているのであります。 次に下二段活用ですが、ここにも「ケ、へ、メ」があらわれます。[#ここから二字下げて表]カ行下二段 ケ ケ ク クル クレ ケヨハ行下二段 へ へ フ フル フレ ヘヨマ行下二段 メ メ ム ムル ムレ メヨ[#表ここまで] 下二段の未然形、連用形、命令形に「ケ、へ、メ」の仮名が出て来ますが、この仮名は四段已然形と同類のもので、すなわちいずれも「ケ、へ、メ」の乙の類を用いて、甲の類は決して用いません。すなわち、ここにも、乙類が相伴って同じ活用形に、あらわれて来ます。 それから上一段活用には「キ、ヒ、ミ」の仮名があります。[#ここから二字下げて表]カ行上一段 キ キ キル キル キレ キヨハ行上一段 ヒ ヒ ヒル ヒル ヒレ ヒヨマ行上一段 ミ ミ ミル ミル ミレ ミヨ[#表ここまで] 上一段では、あらゆる活用形に「キ、ヒ、ミ」がありますが、その中、「キ」と「ミ」とはあらゆる活用形において皆同じ類が用いられ、活用形の違いによって、類がちがうことはありません。そしてその「キ」と「ミ」は、四段連用形に用いるものと同じ類で、すなわち「キ」の甲、「ミ」の甲を用います。ここでも同じ活用形には、違った仮名でも同じ甲類が相伴ってあらわれて来ることが見られます。ただここに疑問なのは「ヒ」であります。他の行では甲類の「キ」「ミ」が用いられているのに「ヒ」だけは乙類が用いられて、同種類の活用の同じ活用形には、甲乙二類の中、いつも同じ類のものがあらわれるという例を破っておりますが、よく見ると、ハ行上一段の語尾の「ヒ」を万葉仮名で書いた確実な例は、未然形と連用形とにしかないのでありまして、終止形以下は、奈良朝のものには仮名で書いた、まぎれのない例がないのであります。ただ訓でそう読んでいるだけであります。奈良朝においてハ行上一段活用の動詞としては「乾る」「嚏(ひ)る」の二語だけでありますが、それが活用した確かな例は、未然・連用の二つの活用形だけで、それにはどちらも「ヒ」の乙類の仮名が用いてあるのであります。それでは未然・連用に「ヒ」の乙類を用いる活用は他にないかというに、ちょうど上二段活用があります。さすれば、これらの語は、上二段活用でなかったかとも考えられるのでありますが、『日本書紀』巻七景行天皇十二年の条を見ると、「乾此云レ[#「レ」は返り点]賦」とあって「乾」を「フ」と読ませてあります。さすれば「乾」は「フ」と活用したとも考えられます。また私の考えでは『万葉集』巻十一の、  我背児爾吾恋居者吾屋戸之草佐倍思浦乾来(ワガセコニワガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒウラガレニケリ)(二四六五番)の末の句の「浦乾来」を「うらがれにけり」と読んでいるのはどうも不適当と思われるのであって、これは「うらぶれにけり」と読むのが正当と思われます。さすれば「乾」を「ふれ」の仮名に用いているということになります。かように「乾」を「フ」と読んだり「フレ」と読んだりしたとすれば、それは「ヒ」「ヒ」「フ」「フル」「フレ」と活用したもので、すなわち上二段活用の語であったと考えられます。かような考を私は『国語国文』という雑誌の創刊号(昭和六年)に書いたことがありますが、私はこの考えが正しいものと考えているのであります。なお、私が雑誌に書いた時には気が附かなかったのでありますが、その後、宣長翁の『古事記伝』を見ますと、巻十七「塩盈珠塩乾珠(シホミツタマシホヒルタマ)」の条に「乾」の活用のことがありまして、「ヒ、フ、フル」と活用する語であると書いてあります。しかしそう読むと、今は余り耳遠いからして「ヒル」と訓(よ)んで置くといっているのであります。そうすると、宣長翁も上二段活用であったと考えておられたと思われます。私はそういうことには気が附かず私だけで調べた結果得た結論が宣長翁の説と偶然一致したのであります。以上のように考えて来ると、上一段にハ行の活用があったという証拠は全くなくなります。ハ行上一段がなかったとすれば、上一段の動詞においても、一つの仮名に二類の別のあるものは、すべて甲の類を用いるということが言えるのであります。 以上申したような、或る仮名の甲類はいつも他の仮名の甲類と相伴い、乙類はいつも乙類と相伴って同じような場合に用いられるということは、活用以外の場合にも見られるのであります。例えば「タケ」(竹)なら「タケ」が「タカムラ」(篁)となって「ケ」が「カ」に変ります。これと同じような現象が「へ」にも見られる。「うへ」(上)が「うはば」(上葉)になる。「メ」も「マ」になります。「天(アメ)」が「天(アマ)」になる。こういう音の変化があります。この「カ」「ハ」「マ」にかわる「ケ」「へ」「メ」は、いずれも乙の類に属するもので、四段已然形と同じ形であります。また、「キ、ヒ、ミ」も「月(ツキ)」が「月夜(ツクヨ)」となり、「火(ヒ)」が「火中(ホナカ)」となり、「神(カミ)」が「神風(カムカゼ)」となり、「身(ミ)」が「むくろ」(骸)となり、「木(キ)」が「木立(コダチ)」になります。こんなに「ク(またはコ)、ホ、ム」などに変ずる「キ、ヒ、ミ」は、皆揃って乙類に属します(上二段の未然・連用と同音)。かような場合にも、同じ仮名の二つの類の中の或るきまった一つがいつも相伴って出て来るという現象があるのであります。 十二の仮名の中、右に述べた「キ、ヒ、ミ、ケ、へ、メ」以外の「コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロ」においても大体、右のような現象があったらしく、やはり甲乙二類に分れるものと思われます。 以上のような現象から考えて見ると、これらの仮名に属する各類は、それぞれ互いに違った音であったとは思われますが、甲と名づけた諸類、また乙と名づけた諸類には、その音同志の間に、音として何か共通のものがあったろうと思われるのであります。そうして活用の例から見ますと、甲と乙との違いは五十音図における同じ行の中での段の違いであるらしく思われます。四段の活用語尾の「カ、キ、ク、ケ」やカ変の活用語尾の「コ、キ、ク」が同じ行での段のちがいであると同様に、「ケ」の甲と「ケ」の乙とがカ行四段の命令形と已然形とにあらわれて来ますから、「ケ」の甲乙二類の別も、やはりカ行の中での段の違いであろうと考えられます。「キ」は、その甲と乙とが同じ語の活用語尾として用いられることはありませんが、四段においては、「キ」の甲が連用形として、未然形の「カ」、終止形の「ク」と共に同じ語の活用にあらわれて来ますし、「キ」の乙が、上二段活用の語尾として、終止形の「ク」と共にあらわれて来ますから、これもカ行の中の段の違いと思われます。その他「ヒ」「ミ」の甲乙二類もこれと同類に考えられます。そうすると、四段活用は実は古代では五段になります。[#ここから二字下げて表]カ行四段 カ キ(甲) ク ケ(乙) ケ(甲)ハ行四段 ハ ヒ(甲) フ へ(乙) へ(甲)マ行四段 マ ミ(甲) ム メ(乙) メ(甲)[#表ここまで] そうして、十二の仮名はすべて甲乙の二類にわかれるのですから、すべてこれを五十音図式にまとめると次のようになります。[#ここから二字下げて表]ア行 ア イ ウ エ オカ行 カ キ(甲) キ(乙) ク ケ(甲) ケ(乙) コ(甲) コ(乙)サ行 サ シ ス セ ソ(甲) ソ(乙)タ行 タ チ ツ テ ト(甲) ト(乙)ナ行 ナ 二 ヌ ネ ノ(甲) ノ(乙)ハ行 ハ ヒ(甲) ヒ(乙) フ へ(甲) へ(乙) ホマ行 マ ミ(甲) ミ(乙) ム メ(甲) メ(乙) モヤ行 ヤ ユ エ ヨ(甲) ヨ(乙)ラ行 ラ リ ル レ ロ(甲) ロ(乙)ワ行 ワ ヰ ヱ ヲ[#表ここまで][#ここから著者注、五字下げ小文字]濁音のある行は、濁音も同様であります。古事記』では「モ」も「モ(甲)」「モ(乙)」の二つにわかれます。[#著者注ここまで] かように、カ行が最も多くって八段、ハ行・マ行がこれについで七段、ただし『古事記』では「モ」が甲乙に分れますから、マ行は八段になります。サ、タ、ナ、ラの四行は六段で、ア行とヤ行が五段、ワ行が四段となります。これを全部収めようとすれば、五十音図のように五段では足りず、八段にしなければならないことになります。しかし行によって段の多少がありますから、段の少ないものは穴をあけておくか、さもなければ、これまでの五十音図のように、同じ字を二箇所に出して穴をうめるかですが、活用の説明には同じ字を出した方が便利だろうと思います、 さて、右の甲と乙との違いが、同じ行での段の違いであるとしたなら、その発音はどうかと言いますと、最初に来る子音、すなわちk、t、n、m、r、yなどの違いでなく、その次に来る音の違いであるということになります。最初の子音の次に来る音といえば、普通は母音ですから、例えばキの甲と乙との違いは、一方がkiであるとすれば、一方はiとちがった東北地方にあるような「イ」でも「ウ」でもない中間の母音i[#「i」はウムラウト]で、すなわちki[#「i」はウムラウト]であるとか、あるいはuiのような二重母音ですなわちkuiあるいはこれに近いkwiであるとか、あるいはiiのような二重母音で、すなわちkiiまたはこれに近いkyiであるとか、またはii[#最初の「i」はウムラウト]のような二重母音でkii[#「k」の直後の「i」はウムラウト]であるとかが考えられるのであります。 かようなことは、支那語と比べてみても言えるのであります。万葉仮名は漢字音を仮(か)りて、日本語の音を写したものが沢山あります。漢字音は支那語でありますから、支那語の発音がわかれば、それで写した日本語の発音も大体見当がつく訳ですが、しかしこれは現代の支那語でなく古代の支那語ですから、その音を知るのはなかなか困難であります。けれども、古くから日本に用いられている『韻鏡(いんきょう)』という書物がありまして、これは古代の支那語の音を、日本の五十音図と同じ原理で、最初の子音の同じものは同じ行に、終の音の同じものは同じ段に並べて図にしたものですから、これによっても、古代支那語の音は或る程度まで知られるのであります。勿論、漢字の音を仮りて日本語の音を写した万葉仮名は、日本の或る一つの音を写すのに、いつでも同じ文字を用いるのではなく、いろいろ違った字を用いており、その文字の支那音は必ずしも同じでなく、いくらか違ったものがありますから、その漢字音からして、これで写した日本の音がどんなものであるかを考えるには、同じ音を写したいろいろの漢字の音を眺めわたして考えて見なければならないのであります。さて同じ仮名の甲乙二類に属する万葉仮名の中、漢字音によって日本の音を写したものを集めて、『韻鏡』などによってその古代支那音を考えて見ると、甲類に属するものと、乙類に属するものとの音の上の違いは、まず支那の韻の違いに当ります。韻というのは何かというと、最初の子音を除いて次の母音から後の部分がすなわち韻で、例えば、kangとlangとのangの部分、chinとminとのinの部分が韻に当ります。そうして、kangとlangおよびchinとminは同韻だと言います。それで、「カ」と「キ」との違いは韻の違いであると言うことが出来ます。甲の類に宛てた万葉仮名と乙の類に宛てた万葉仮名との漢字音を比べて見ると、右のような韻の違いがあります。また、どちらも同じ韻に属するものもありますが、その場合には、多くは『韻鏡』における等位が違います。等位の違いとは何かというと、これはむずかしい問題でありますが、それは韻に関するものであることはたしかであります。そうして同じ韻で等位の違っているのは、韻の中での細かい違いによるものと見て間違いないと思います。そういう違いによって等位を分けたものと考えられるのでありますから、等位の違いはやはり韻に関係するものと考えてよいと思います。漢字音によって日本の音を写した万葉仮名の甲類のものと乙類のものとの漢字音における相違が、右のごとく韻に関する相違に相当するものであるならば、これによって写された日本語における甲類と乙類との音の相違も、最初の子音の違いではなくして、その次以下に来る母音の違いと考えられます。すなわち、五十音図では、行の違いでなく、段の違いにあたるものと思われます。これは、前に国語動詞の活用という方面から考えたことと一致するのであります。 それでは、甲と乙との音は実際どんなに違っていたかというに、前に述べた通り一方を或る子音にi、e、oというような単純な母音がついたものとすれば、他方は今普通には用いられないような母音がついたものかも知れません。または一方が母音が一つ附いたものであるに対して、一方は母音が二つ重なって附いたものかも知れません。色々説があってまだよく判らないのであります。しかしながら、これまで述べたような事実、すなわち古代には今日よりも多くの音があり、それは今日の仮名では書きわけられないが、当時の万葉仮名には書きわけてあり、どんな音がどんな場合に用いられるかはちゃんと定(き)まっているということは、古典を読んだり解釈する場合に非常に重大なことであります。その一々の音の当時における実際の発音はどんなであったかということは、今後の研究に俟(ま)たなければなりませぬが、それが解らないでも、当時にはあって後には一つになってしまった音の区別が、万葉仮名の用法の上にはっきりあらわれており、ごく少数の例外はあるとしても一般には混じていないという事実は、たとい一々の音がどんな音であったかということがわからなくとも、非常に大切なことであります。それは、最初に述べた通り、音の違いは言葉の意味を区別するために用いられているからであります。 かような事実を知っておくことが、古典研究の上にどんな効果を齎(もた)らすかということを、もう時間が参りましたけれども、少しばかり述べてみたいと思います。 その一は古典の本文が本によって色々になっている場合があります。『万葉集』の第七巻の中に「与曾降家類(ヨゾクダチケル)」(一〇七一番)とあって、「夜」の意味の「ヨ」に「与」の字が書いてあります。これは普通の本でありますが、古い本には「与」の字のかわりに「夜」という字が書いてある。若しこの「与」と「夜」とが同類に属するものであるならば、どちらが良いか悪いか判らないのですが、「よ」にあたる仮名には二類の区別があるのでありまして、同じヨでも「与」と「夜」とは別の類に属するのであります。それ故、どちらを使ってもよいというのではなく、どちらかが誤りでなければなりませぬ。然るに「与」は「夜」の「ヨ」とは別類の仮名で、「夜」を「与」の類の仮名で書いた例はないから「夜」と書いた方が正しいと考えられます。現にこの例は、我々が見ることの出来る非常に古い時代の写本の『万葉』には、大抵一致して「夜」の字になっておりますから、その点から見ても「夜」とある方がよいということが断定できる訳であります。それから「奈我奈家婆(ナガナケバ)」、これは『万葉集』第十五巻の最後の歌(三七八五番)にあるのですが、「ながなけば」は、お前が鳴けばという意味の言葉であります。この「家」は、他の本には「気」となっています。「家」はケの甲類に「気」は乙類に属するのでありますが、「鳴く」は四段活用で「なけば」は已然でありますから、その「け」には乙類の「気」を使った方が正しいときめることが出来ます。そういう風に、古典の本文を校定する場合に、どちらが正しいかということを判断する標準になるのであります。 それから古典の文を解釈する場合にもやはり役に立ちます。『万葉集』に「朝爾食爾(アサニケニ)」という語と「日爾異爾(ヒニケニ)」という語があります。よく似ているからこの「あさにけに」の「けに」を「日に異に」の「異(ケ)に」と同じ意味に解釈しているものもありますが、「食」と「異」はケの乙類と甲類とにわかれていて、決して同じではありませぬ。勿論、音も違っていたことと思われます。さすればこれは別の言葉であって、「朝にけに」の「けに」を「日にけに」の「けに」の意味に解釈することは出来ませぬ。 それから『万葉集』の訓を附ける時にもこれは役立つのであります。『万葉集』の第七巻の歌 (一二三九番)に「浄奚久」とあるのを「サヤケク」と訓してあります。「サヤケク」は浄(きよ)いという意味でありますから、これでよさそうでありますが、この「奚(ケ)」は「さやけく」の「け」とは仮名の類が違います。「さやけく」は「さやか」から出た語で、「明らか」「長閑(ノドカ)」「遙か」から出来た「明らけし」「長閑(ノド)けし」「遙けし」などと同じ種類のものですが、かような「カ」から転じた「ケ」は皆乙類の仮名を用いる例であります。しかるに、この「浄奚久」の「奚」は仮名の方から見ると甲類に属するのでありますから、「さやけく」と訓することは出来ないわけであります。それでこれは「きよけく」と訓すればよいのであります。「好(ヨ)けく」「無けく」「憂(ウ)けく」など形容詞の語尾の「け」は皆「ケ」の甲類の仮名を用いています。かように、「奚」がいかなる類に属するかによって「さやけく」と訓(よ)んだのは間違いで「きよけく」と訓まなければならぬときめることが出来るのであります。 それからもう一つは語源を考える場合に役立つことです。少なくとも語の起源について考える場合に、このことを考慮の外においてはならないのであります。例えば「神(カミ)」という語は「上」という意味の「かみ」から出たものであるという説があります。これは宣長翁の説ですけれども、宣長翁は『古事記』において、「ミ」に対して普(あまね)く「美」および「微」の字を用いた中に「神(カミ)」の「み」にはいつも「微」を用いて「美」を用いないということに気がつきながら、一般に「ミ」にあたる万葉仮名に二類の別があって「美(ミ)」と「微(ミ)」とはそれぞれ別の類に属して互いに混同することがないということをまだ明らかにしなかったために、「神(カミ)」の「ミ」と「上(カミ)」の「ミ」とを同じ仮名と考えて、かような語源説を立てられたものと思われます。しかし今日においては、「神」の「み」は「ミ」の乙類に属し「上」の「み」は甲類に属して互いに混同せず、奈良朝またはそれ以前においては発音が違っておったのであろうと考えられますから、かような語源説は甚だ危険であります。もっとも、こういう語が出来たのは、ずっと古い時代でありましょうから、その時代の音は奈良朝頃とは違っていたかも知れませんから、どうしても「神(カミ)」と「上(カミ)」との間に関係を附けてはいけないということは少し言い過ぎかも知れませんが、我々が達することが出来る極めて古い時代の、奈良朝またはもう少し古い時代において、この二つの語が同じ音でなかったとすれば、その間に関係があるとすることはよほど考えなければならぬと思うのであります。 もう一つ最後に言っておきたいと思うのは、これまで述べたような後世には知られない仮名の遣(つか)い分けが古代にあったという事実からして、我々が古い時代の書物の著作年代をきめることが出来る場合があることです。『古事記』について、数年前偽書説が出て、これは平安朝初期に偽造したもので、決して元明(げんめい)天皇の時に作られたものでないという説が出ましたが『古事記』の仮名を見ますと、前に述べたように、奈良朝時代にあった十三の仮名における両類の仮名を正しく遣い分けてあるばかりでなく、『古事記』に限って、「モ」の仮名までも遣い分けてあります。そういう仮名の遣い分けは、後になればなるほど乱れて、奈良朝の末になると、その或るものはもう乱れていると考えられる位であり、平安朝になるとよほど混同しています。もし『古事記』が、平安朝になってから偽造されたものとすれば、これほど厳重に仮名を遣い分けることが出来るかどうか非常に疑わしいと言わなければなりません。そういう点からも偽書説は覆(くつがえ)すことが出来ると思います。また近年出て来た『歌経標式(かきょうひょうしき)』でありますが、奈良朝の末の光仁(こうにん)天皇の宝亀年間に藤原浜成(ふじわらのはまなり)が作ったという序があって、歌の種類とか歌の病(やまい)というようなことを書いたもので、そんな時代にこんな書物が果して出来たかどうか疑問になるのであります。しかし、その中に歌が万葉仮名で書いてあります。その仮名の遣い方を見ますと、オ段の仮名の或ものは乱れているようでありますけれども、大抵は正しく使いわけてあって、ちょうど、奈良朝の末のものとして差支ないと認められます。そういう点から、この書は偽書でなかろうということが出来るのであります。 それから前に申しました通り、平安朝に入るとこういう特別の仮名の遣い分けは乱れて来たのでありますが、平安朝の初の暫(しばら)くの間はまだ多少混乱してはおりますが形の上においては大分保たれている。それから段々年代が降(くだ)るに従って混乱がひどくなって、実際の発音としては全然区別が出来なかったろうと思う位になっております。実際に発音が乱れるのは先であって、仮名の方は多少保守的のものでありますから、発音は乱れても仮名で書く場合には区別が遺(のこ)っていることが多いのであります。平安朝の初の内は、発音としてはなくなってしまったでしょうが、仮名の上には相当区別が見えるのであります。それで祝詞(のりと)のことです。これは『延喜式(えんぎしき)』に載っておりますが、その仮名を調べてみると、かの特別の仮名の遣いわけが相当正しいのであります。幾らか乱れたものもありますが、それは少数で、到底延喜(えんぎ)時代に書かれたものとは思われませぬ。ところが『延喜式』というものは、御承知の通り、もと『貞観式(じょうがんしき)』というものがあってそれに改修を加えたもので、『貞観式』はまた『弘仁式(こうにんしき)』に基づいて出来たものであります。その『弘仁式』は、嵯峨(さが)天皇の弘仁年間に出来たもので、今は亡びてしまいましたけれども、幸にその目録だけが遺(のこ)っております。それを見ますと、その中に祝詞があったことがわかります。『貞観式』には祝詞はなかったのですから、『延喜式』を作る時に、『弘仁式』にあった祝詞をその中に収めたのではないかと思います。その万葉仮名において、かの特別の仮名の遣い分けが相当によく保たれているのは、平安朝の初、『弘仁式』を作る時に書いたものを、そのまま『延喜式』の中に入れたためではないかと考えております。 先ずこれでもって私の講義を終ります。忙しいため十分纏(まと)める暇もありませぬし、時間も足りなくて急いだものですから、不徹底な所があったろうと思います。これで終ることに致します。(大尾)[#この「(大尾)」は行の最下部におく][#ここから著者注、二字下げ小文字]講演速記であるため、読んでは意味の通じない所が多く、かなり手を加えたが、十分の暇を得なかったので、まだ不満足な所が少なくない。用字法や送仮名なども、大概もとのままにしたので、不穏当なものや不統一な所もある。(昭和十六年二月校訂の時しるす)[#()部分は行の最下部におく]本書は昭和十二年五月内務省主催第二回神職講習会における講義を速記したものであって、昨年三月神祇院(じんぎいん)で印刷に附して関係者に頒布(はんぷ)せられたが、今回書肆(しょし)の請により同院の許しを得て新たに刊行したものである。前回はかなり手を加えたが、今回は誤字を訂正したほかは、二、三の不適当な語句や用字法を改めたのみである。  昭和十七年三月 橋本進吉[#「橋本進吉」は行の最下部におく][#著者注ここまで][#ここから本文より十字程度下げ小文字]刊行委員附記 この昭和十七年のはしがきは、明世堂刊行の際、巻首に掲げられたものである。今かりにここに移す。[#字下げここまで]附録 万葉仮名類別表[#底本では、同じ仮名の各類を、行頭に置いた仮名の後で「{」を用いて括っている。また、同類の清音と濁音の行の下に、まとめて「甲類」「乙類」等の類別を記している。]エ 愛哀埃衣依・榎可―愛[#「可―愛」で一つのよみ]荏得 ア行エ 延曳睿叡遙要縁裔・兄柄枝吉江 ヤ行キ〔清音〕 支岐伎妓吉棄弃枳企耆祇祁・寸杵服来 甲類キ〔濁音〕 藝岐伎儀蟻祇※ 甲類キ〔清音〕 帰己紀記忌幾機基奇綺騎寄気既貴癸・木城樹 乙類キ〔濁音〕 疑擬義宜 乙類ケ〔清音〕 祁計稽家奚鷄※谿渓啓価賈結・異 甲類ケ〔濁音〕 牙雅下夏霓 甲類ケ〔清音〕 気開既※概慨該階戒凱※居挙希・毛食飼消笥 乙類ケ〔濁音〕 宜義皚※碍礙偈・削 乙類コ〔清音〕 古故胡姑※枯固高庫顧孤・子児小粉籠 甲類コ〔濁音〕 胡呉誤虞五吾悟後 甲類コ〔清音〕 許己巨渠去居挙虚拠※興・木 乙類コ〔濁音〕 碁其期語馭御 乙類ソ〔清音〕 蘇蘓宗素泝祖巷嗽・十麻磯追―馬[#「追―馬」で一つのよみ] 甲類ソ〔濁音〕 俗 甲類ソ〔清音〕 曾層贈増僧憎則賊所諸・其衣襲※彼苑 乙類ソ〔濁音〕 叙存※鋤序茹 乙類ト〔清音〕 刀斗土杜度渡妬覩徒塗都図屠・外砥礪戸聡利速門 甲類ト〔濁音〕 度渡奴怒 甲類ト〔清音〕 止等登※騰縢臺苔澄得・迹跡鳥十与常飛 乙類ト〔濁音〕 杼縢藤騰廼耐特 乙類ノ 怒弩努 甲類ノ 能乃廼・笶箆 乙類ヒ〔清音〕 比毘卑辟避譬臂必賓嬪・日氷檜負飯 甲類ヒ〔濁音〕 毘※妣弭寐鼻彌弥婢 甲類ヒ〔清音〕 非斐悲肥彼被飛秘・火乾簸樋 乙類ヒ〔濁音〕 備眉媚縻傍 乙類ヘ〔清音〕 幣弊※蔽敝平※覇陛反返遍・部方隔重辺畔家 甲類ヘ〔濁音〕 辨※謎便別 甲類ヘ〔清音〕 閇閉倍陪杯珮俳沛・綜瓮缶甕※※経戸 乙類ヘ〔濁音〕 倍毎 乙類ミ 美彌弥瀰弭寐※民・三参御見視眷水 甲類ミ 微未味尾・箕実身 乙類メ 売※謎綿面馬・女 甲類メ 米毎梅※妹昧※・目眼海―藻[#「海―藻」で一つのよみ] 乙類モ 毛 甲類モ 母 乙類ヨ 用庸遙容欲・夜 甲類ヨ 余与予餘誉預已・四世代吉 乙類ロ 漏路露婁楼魯盧 甲類ロ 呂侶閭廬慮稜勒里 乙類○以上は普通の仮名の別に相当しない十三の仮名、および『古事記』における「モ」の仮名に当る万葉仮名の類別のみを挙げたのである。○同じ字が清音と濁音とに重出しているのは、或る書ではこれを清音に用い他の書ではこれを濁音に用いたものである
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