妾の半生涯
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著者名:福田英子 

     はしがき

 昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の戒(いまし)めとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、真(まこと)に尊き亀鑑(きかん)を後世に遺(のこ)せしものとこそ言うべけれ。妾(しょう)の如き、如何(いか)に心の驕(おご)れることありとも、いかで得て企(くわだ)つべしと言わんや。
 世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚鈍(おろか)なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢(よわい)人生の六分(ろくぶ)に達し、今にして過ぎ来(こ)し方(かた)を顧(かえり)みれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀慮(おもんばか)りし事として誤謬(ごびゅう)ならぬはなきぞかし。羞悪(しゅうお)懺悔(ざんげ)、次ぐに苦悶(くもん)懊悩(おうのう)を以(もっ)てす、妾(しょう)が、回顧を充(み)たすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ也(なり)。
 懺悔の苦悶、これを愈(いや)すの道はただ己(おの)れを改むるより他(た)にはあらじ。されど如何(いか)にしてかその己れを改むべきか、これ将(は)た一(いつ)の苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎(あやにく)に他の苦悶来り、妾(しょう)や今実に苦悶の合囲(ごうい)の内にあるなり。されば、この書を著(あらわ)すは、素(もと)よりこの苦悶を忘れんとての業(わざ)には非(あら)ず、否(いな)筆を執(と)るその事もなかなか苦悶の種(たね)たるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は弥□(いよいよ)勝(まさ)るのみ。
 苦悶(くもん)はいよいよ勝るのみ、されど、妾(しょう)強(あなが)ちにこれを忘れんことを願わず、否(いな)昔懐(なつ)かしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥増(いやま)すなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
 顧(おも)えば女性の身の自(みずか)ら揣(はか)らず、年少(わか)くして民権自由の声に狂(きょう)し、行途(こうと)の蹉跌(さてつ)再三再四、漸(ようや)く後(のち)の半生(はんせい)を家庭に托(たく)するを得たりしかど、一家の計(はかりごと)いまだ成らざるに、身は早く寡(か)となりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも透(とお)るばかりなり。もし妾のために同情の一掬(いっきく)を注(そそ)がるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
 妾(しょう)が過ぎ来(こ)し方(かた)は蹉跌(さてつ)の上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦(たたか)えり、蹉跌のためにかつて一度(ひとたび)も怯(ひる)みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐(なつ)かしくは思うなれ。
 妾の懺悔(ざんげ)、懺悔の苦悶これを愈(いや)すの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と己(おの)れとの罪悪と戦うにあり。
 先に政権の独占を憤(いきどお)れる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心(せきしん)資本の独占に抗して、不幸なる貧者(ひんしゃ)の救済に傾(かたむ)けるなり。妾が烏滸(おこ)の譏(そし)りを忘れて、敢(あ)えて半生の経歴を極(きわ)めて率直に少しく隠す所なく叙(じょ)せんとするは、強(あなが)ちに罪滅ぼしの懺悔(ざんげ)に代(か)えんとには非(あら)ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。
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  第一 家庭


 一 贋(まが)いもの

 妾(しょう)は八、九歳の時、屋敷内(やしきうち)にて怜悧(れいり)なる娘と誉(ほ)めそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の臨(のぞ)める試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心私(ひそ)かに郷党(きょうとう)に誇りたりき。
 十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の傍(かたわ)ら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌(しの)がんばかりの隆盛を致せり。
 学校に通う途中、妾は常に蛮貊(わんぱく)小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると罵(ののし)られき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時妾(しょう)は実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪(ばづ)を鼈甲(べっこう)に似たらしめたるにて、現今の護謨(ゴム)を象牙(ぞうげ)に擬(ぎ)せると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何(いか)ばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居(ききょ)振舞(ふるまい)のお転婆(てんば)なりしは言うまでもなく、修業中は髪を結(ゆ)う暇(いとま)だに惜(お)しき心地(ここち)せられて、一向(ひたぶる)に書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪(き)りて前部を左右に分け、衣服まで悉(ことごと)く男生(だんせい)の如くに装(よそお)い、加(しか)も学校へは女生と伴(ともの)うて通いにき。近所の小供(こども)らのこれを観(み)て異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを懐(おも)うごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心(よごころ)の付き初(そ)めて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪(そくはつ)の仲間入りはしたりける。

 二 自由民権

 十七歳の時は妾(しょう)に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客(ろんかく)多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄(はいしくめお)氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯(たわむ)れに物せし大津絵(おおつえ)ぶしあり。
すめらみの、おためとて、備前(びぜん)岡山を始めとし、数多(あまた)の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣(たびごろも)、親や妻子(つまこ)を振り捨てて。(詩入(しいり))「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞(かすみ)もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
 尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂(きょう)せる時なりければ、妾(しょう)の月琴(げっきん)に和してこれを唄(うた)うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花(いけばな)、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動(ふるま)いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和(やわ)らぐるに若(し)かずとて、八雲琴(やくもごと)、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜(よ)に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。

 三 縁談(えんだん)

 十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適(かな)わずとて、謝絶しければ、父母も困(こう)じ果てて、ある日妾(しょう)に向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂(う)き目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身(おんみ)とて何時(いつ)までか父母の家に留(とど)まり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切(せ)めたる御言葉(おんことば)なり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵(おんめぐ)みによりてもはや自活の道を得たれば、仮令(たとい)今よりこの家を逐(お)わるるとも、糊口(ここう)に事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永(なが)く膝下(しっか)に侍(じ)せしめ給え、学校より得る収入は悉(ことごと)く食費として捧(ささ)げ参(まい)らせ聊(いささ)か困厄(こんやく)の万一を補わんと、心より申し出(い)でけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止(さたや)みとなりにき。
 ああ世にはかくの如く、父兄に威圧(いあつ)せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何(いか)でこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻(きざ)み付けられたる願いなりける。
 結婚沙汰(ざた)の止(や)みてより、妾は一層学芸に心を籠(こ)め、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切懇到(こんとう)に教授しければ、さらぬだに祖先より代々(よよ)教導を以て任とし来(きた)れるわが家(いえ)の名は、忽(たちま)ち近郷(きんごう)にまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼点(しょうてん)となりぬ。依(よ)りてある寺を借り受けて教場を開き、夜(よ)は更に昼間就学の暇(いとま)なき婦女、貧家(ひんか)の子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を謀(はか)り、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。


 四 岸田女史来(きた)る

 その歳(とし)有名なる岸田俊子(きしだとしこ)女史(故中島信行氏夫人)漫遊し来(きた)りて、三日間わが郷(きょう)に演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場立錐(りっすい)の地だも余(あま)さざりき。実(げ)にや女史がその流暢(りゅうちょう)の弁舌もて、滔々(とうとう)女権拡張の大義を唱道せられし時の如き妾(しょう)も奮慨おく能(あた)わず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議(はか)りて、女子懇親会を組織し、諸国に率先(そっせん)して、婦人の団結を謀(はか)り、しばしば志士論客(ろんかく)を請(しょう)じては天賦(てんぷ)人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習(ろうしゅう)を破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に赴(おもむ)きぬ。

 五 納涼会

 同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し来(きた)りければ、元老女史竹内、津下(つげ)の両女史と謀(はか)りてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に泛(うか)ぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の音(おん)水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一人(いちにん)、甲板(かんぱん)の上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気凜烈(りんれつ)人をして慄然(りつぜん)たらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる際(きわ)ならんに、水上これ無政府の心易(やす)さは何人(なんびと)の妨害もなくて、興(きょう)に乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。図(はか)らざりきこの船遊びを胡乱(うろん)に思い、恐るべき警官が、水に潜(ひそ)みてその挙動を伺(うかが)い居たらんとは。船中の人々は今を興闌(たけなわ)の時なりければ、河童(かっぱ)を殺せ、なぐり殺せと犇(ひし)めき合い、荒立ちしが、長者(ちょうじゃ)の言(げん)に従いて、皆々穏(おだ)やかに解散し、大事(だいじ)に至らざりしこそ幸いなれ。されど妾(しょう)の学校はその翌日、時の県令高崎(たかさき)某より、「詮議(せんぎ)の次第(しだい)有之(これあり)停止(ていし)候事(そうろうこと)」、との命を蒙(こうむ)りたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何故(なにゆえ)か答えなければ、妾の姉婿(しせい)某が県会議員常置委員たりしに頼(よ)りてその故を尋(たず)ねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴責(けんせき)を加えられ、暫(しばら)く謹慎(きんしん)を表する身の上とはなりぬ。
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  第二 上京


 一 故郷を捨つ

 政府が人権を蹂躙(じゅうりん)し、抑圧を逞(たくま)しうして憚(はばか)らざるはこれにても明(あき)らけし。さては、平常先輩の説く処、洵(まこと)にその所以(ゆえ)ありけるよ。かかる私政に服従するの義務何処(いずく)にかあらん、この身は女子なれども、如何(いか)でこの弊制(へいせい)悪法を除かずして止(や)むべきやと、妾(しょう)は怒りに怒り、□(はや)りに□りて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出(い)でて有志の士に謀(はか)らばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距(さ)る三里ばかりなる親友山田小竹女(やまだこたけじょ)の許(もと)より、明日(みょうにち)村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切(せつ)なる招待の状来(きた)れり。そのまま東都に奔(はし)らんにいと序(つい)でよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘(いざな)いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣(もう)で、暫(しばら)く黙祷(もくとう)して妾が志(こころざし)を祖先に告げぬ。初秋(はつあき)のいと爽(さわ)やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背(そむ)き、恩愛厚き父母の膝下(しっか)を離れんとする苦しさは、偲(しの)ぶとすれど胸に余りて、外貌(おもて)にや表われけん、帰るさの途上(みちみち)も、母上は妾の挙動を怪(あや)しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許(おんゆる)しこそなけれ母は御身(おんみ)を片田舎の埋木(うもれぎ)となすを惜しむ者、如何で折角(せっかく)の志を沮(はば)むべき、安(やす)んじて仔細(しさい)を語れよと、さりとは慈愛深き御仰(おんおお)せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御許容(おんゆるし)なきを知ればなり。かくて先(ま)ず志士(しし)仁人(じんじん)に謀りて学資の輔助(ほじょ)を乞い、しかる上にて遊学の途(と)に上(のぼ)らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和(やまと)の豪農土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃(ひそ)かに出立(しゅったつ)の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯(いたがきはく)を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪(げはん)し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機逸(いっ)すべからずとて、遂(つい)に母上までも欺(あざむ)き参らせ、親友の招きに応ずと言い繕(つくろ)いて、一週間ばかりの暇(いとま)を乞い、翌日家の軒端(のきば)を立ち出(い)でぬ。実に明治十七年の初秋(はつあき)なりき。

 二 板垣伯に謁(えっ)す

 友人の家に著(つ)くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼(かね)ての決心なり、明くれば友人の懇(ねんご)ろに引き止むるをも聴かず、暇乞(いとまご)いして大阪に向かいぬ。しかるに妾(しょう)と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻(しき)りに妾の生地を尋ねつつ此方(こなた)の顔のみ注視する体(てい)なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非(あら)ざる乎(か)と、一旦(いったん)は少なからず危(あや)ぶめるものから、もと妾の郷(きょう)を出づるは不束(ふつつか)ながら日頃の志望を遂(と)げんとてなり、かの墻(かき)を越えて奔(はし)るなどの猥(みだ)りがましき類ならねば、将(は)た何をか包み秘(かく)さんとて、頓(やが)て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩(も)らしけるに、さらばその親戚は誰(た)れ町名番地は如何(いか)になど、執拗(しゅう)ねく問わるることの蒼蝿(うるさ)くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎(か)、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇(そうこう)起(た)って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾(しょう)の何人(なんびと)なるかを問い究(きわ)むる暇もなく、その人に牽(ひか)れて来り見れば、何ぞ図(はか)らん従妹(じゅうまい)の妾なりけるに、更に思い寄らぬ体(てい)にて、何故(なにゆえ)の東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳(たた)みかけて問い出でぬ。固(もと)より承諾を得たりとは、その場合われと心を欺(あざむ)ける答えなりしが、果ては質問の箭(や)の堪えがたなく、最(い)とど苦しき胸を押さえ額(ひたい)を擦(さす)りて、眩暈(めまい)に托言(ことよ)せ、委(くわ)しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時漸(ようよ)う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓(よろこ)び迎え、しかも妾の新来を訝(いぶか)しうも思えるなるべし。その夕(ゆうべ)妾は遂(つい)に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻(さい)は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力(じんりょく)せんと誓いぬ。
 その翌日直ちに土倉氏を銀水楼(ぎんすいろう)に訪れけるに、氏はいまだ出阪(しゅっぱん)しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様(せんよう)もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所(ぐうしょ)に訪れしに、葉石氏は妾(しょう)が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇(ねんご)ろなる教訓を垂(た)れ給いき。されど妾の一念翻(ひるがえ)すべくもあらずと見てか、強(し)いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳(の)べよとあるに、妾は諾(うべな)いて遂に伯に謁(えっ)し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身(おんみ)が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家(ほうか)のため、人道のために勉(つと)めよとの御言葉(おんことば)なり。世にも有難(ありがた)くて感涙(かんるい)に咽(むせ)べるその日、図(はか)らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖(ふしょう)ながら学資を供せんとの意味を含みし書翰(しょかん)にてありしかば、天にも昇る心地して従弟(いとこ)にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇(そうこう)土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳(の)べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向(ひたぶる)に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依(よ)りて学資をさえ給(きゅう)せらるるの幸福を無視するは勿体(もったい)なしとて、終(つい)に公然東上の希望を容(い)れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。

 三 書窓(しょそう)の警報

 それより数日(すじつ)を経て、板伯(はんはく)よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身(おんみ)と同伴の事を頼み置きたり、直(す)ぐに来(こ)よ紹介せんとの事に、取り敢(あ)えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹(さとうていかん)氏にてありければ、妾(しょう)はいよいよ安心して、翌日神戸出帆(しゅっぱん)の船に同乗し、船の初旅も恙(つつが)なく将(は)た横浜よりの汽車の初旅も障(さわ)りなく東京に着(ちゃく)して、兼(か)ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈(じゆうのともしび)新聞』記者坂崎斌(さかざきさかん)氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地(つきじ)なる新栄(しんさかえ)女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍(かたわ)ら坂崎氏に就(つ)きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日(あるひ)朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端(はし)なくも妾の書窓(しょそう)を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外(ほか)に対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱(ちじょく)を賭(と)して、偏(ひとえ)に一時の栄華を衒(てら)い、百年の患(うれ)いを遺(のこ)して、ただ一身の苟安(こうあん)を冀(こいねが)うに汲々(きゅうきゅう)たる有様を見ては、いとど感情にのみ奔(はし)るの癖(くせ)ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂(つい)に巾幗(きんこく)の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民(だみん)の眠りを覚(さま)しくれでは已(や)むまじの心となりしこそ端(はし)たなき限りなりしか。

 四 当時の所感

 ああかくの如くにして妾(しょう)は断然書を擲(なげう)つの不幸を来(きた)せるなりけり。当時妾の感情を洩(も)らせる一片(いっぺん)の文(ぶん)あり、素(もと)より狂者(きょうしゃ)の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左(さ)に抜萃(ばっすい)することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲(きょうごう)を憂うると共に、また昔時(せきじ)死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭(いと)えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵(いた)るまでも已(や)まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻(しき)りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸(ようや)くかの私欲私利に汲々(きゅうきゅう)たる帝国主義者の云為(うんい)を厭わしめぬ。
 ああ学識なくして、徒(いたずら)に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世(ゆうせい)愛国の女志士(じょしし)として、人も容(ゆる)されき、妾も許しき。姑(しば)らく女志士として語らしめよ。

   獄中(ごくちゅう)述懐(じゅっかい)(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳)
元来儂(のう)は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習(ろうしゅう)に慣れ、卑々屈々(ひひくつくつ)男子の奴隷(どれい)たるを甘(あま)んじ、天賦(てんぷ)自由の権利あるを知らず己(おの)れがために如何(いか)なる弊制悪法あるも恬(てん)として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣(きんい)玉食(ぎょくしょく)するを以て、人生最大の幸福名誉となす而已(のみ)、豈(あに)事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家(ほうか)の休戚(きゅうせき)をや。いまだかつて念頭に懸(か)けざるは、滔々(とうとう)たる日本婦女皆これにして、あたかも度外物(どがいぶつ)の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一(いつ)も顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏(ひとえ)に女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂(のう)は同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固(もと)より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競(きそ)いて国政に参し、決して国の危急を余所(よそ)に見るなく、己(おの)れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘(いざな)い、能(よ)く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切(せつ)なるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌(えんき)し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告(ちゅうこく)し、早く立憲の政体を立て、人民をして政(まつりごと)に参せしめざる時は、憂国の余情溢(あふ)れて、如何(いか)なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風(はじとうふう)たる而已(のみ)ならず憂国の志士(しし)仁人(じんじん)が、誤って法網(ほうもう)に触(ふ)れしを、無情にも長く獄窓に坤吟(しんぎん)せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙(まいきょ)に遑(いとま)あらず。就中(なかんずく)儂の、最も感情を惹起(じゃっき)せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦(てんぷ)の三大自由権を剥奪(はくだつ)し、剰(あまつさ)え儂(のう)らの生来(せいらい)かつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅(ほうちょく)云々(うんぬん)の語を付し、畏(おそ)れ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩(おうのう)の余り、暫(しば)し数行(すこう)の血涙(けつるい)滾々(こんこん)たるを覚え、寒からざるに、肌(はだえ)に粟粒(ぞくりゅう)を覚ゆる事数□(しばしば)なり。須臾(しゅゆ)にして、惟(おもえ)らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛(しゅうれん)の酷(こく)なるを怨(うら)み、如何(いかん)の感を惹起せん、恐るべくも、積怨(せきえん)の余情溢れて終(つい)に惨酷(ざんこく)比類なき仏国(ふっこく)革命の際の如く、あるいは露国虚無党(きょむとう)の謀図(ぼうと)する如き、惨憺悲愴(さんたんひそう)の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌(みほう)に削除(さくじょ)せざるを得ずと、即(すなわ)ち曩日(さき)に政府に向かって忠告したる所以(ゆえん)なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固(もと)より現当路者の旧蹟(きゅうせき)あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖(もと)り、剰(あまつさ)え日清談判の如く、国辱(こくじょく)を受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧(かえり)みるの遑(いとま)なし、我が国の危急を如何(いかん)せんと、益□政府の改良に熱心したる所以(ゆえん)なり。儂(のう)熟□(つらつら)考うるに、今や外交日に開け、表(おもて)に相親睦(あいしんぼく)するの状態なりといえども、腹中(ふくちゅう)各□(おのおの)針を蓄(たくわ)え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強(しきょう)の欲を逞(たくま)しうし、頻(しき)りに東洋を蚕食(さんしょく)するの兆(ちょう)あり、しかして、内(うち)我が国外交の状態につき、近く儂(のう)の感ずる処を拳(あ)ぐれば、曩日(さき)に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之(しかのみならず)、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明(あき)らけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私(ひそ)かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙(けつるい)淋漓(りんり)、鉄腸(てっちょう)寸断(すんだん)、石心(せきしん)分裂(ぶんれつ)の思い、愛国の情、転(うた)た切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎(か)、ああこの国辱を雪(そそ)がんと欲するの烈士、三千七百万中一人(いちにん)も非ざる乎、条約改正なき、また宜(むべ)なる哉(かな)と、内を思い、外(ほか)を想うて、悲哀転輾(てんてん)、懊悩(おうのう)に堪(た)えず。ああ如何(いかん)して可ならん、仮令(たとい)女子たりといえども、固(もと)より日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独(ひと)り愁然(しゅうぜん)、苦悶に沈みたりき。何(なん)となれば、他に謀(はか)るの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫(しばら)く一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂(のう)は修業中なるを以て、小林の寓所(ぐうしょ)を訪(と)う事も甚(はなは)だ稀(まれ)なりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲(なげう)ちたり。また小林は予(かね)ての持論に、仮令(たとい)如何(いか)に親密なる間柄(あいだがら)たるも、決して、人の意を枉(ま)げしめて、己(おの)れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔(まんこう)の思想を、陳述する者なりと、何事においても、総(すべ)てかくの如くなりし。しかるに、忽(たちま)ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂(のう)は曩日(さき)に述べし如く、我が国の安危(あんき)旦夕(たんせき)に迫れり、豈(あに)読書の時ならんやと、奮然書を擲(なげう)ち、先ず小林の処に至り、この際如何(いかん)の計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言(げん)を尽して、数□(しばしば)その心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸(ようや)く、今回事件の計画中、その端緒(たんちょ)を聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志(そし)を果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已(のみ)との言に儂(のう)は大いに感奮する所あり、如何(いか)にもして、幾分の金(きん)を調(ととの)え、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯(ふじゅつい)会社を設立するを名とし、相模(さがみ)地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充(あ)つる能(あた)わず、ただ有志士(ゆうしし)の奔走費(ほんそうひ)位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨(さいしんふんこつ)すといえども、悲しい哉(かな)、処女の身、如何(いかん)ぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂(のう)の如きは、金員(きんいん)を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難(かた)しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀(はか)れり。しかる処、偶□(たまたま)日清も平和に談判調(ととの)いたりとの報あり。この報たる実に儂(のう)らのために頗(すこぶ)る凶報なるを以て、やや失望すといえども、何(なん)ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来(きた)すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨(きか)なるなからん乎(か)、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択(えら)び、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如(し)かずと、ここにおいて檄文(げきぶん)を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力(ごうりょく)して、辮髪奴(べんぱつど)を国外に放逐(ほうちく)し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日(さき)に政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱(はずかし)めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已(のみ)ならず、一(いつ)は以て内(うち)政府(せいふ)を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速(すみ)やかにこの挙あらん事を渇望(かつぼう)し、かつ種々心胆を砕(くだ)くといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能(あた)わず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫(しばら)くして、大井は中途にして帰京し、小林独(ひと)り止(とど)まりしが、漸(ようや)くその尽力により、金額成就(じょうじゅ)せしを以て、いよいよ磯山(いそやま)らは渡行の事に決定し、その発足前(ほつそくぜん)に当り、磯山儂(のう)に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間(ひしかん)の通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾(だく)す。もっとも儂は、曩日(さき)に東京を出立(しゅったつ)するの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図(きと)したりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥□(いよいよ)出立というその前日逃奔(とうほん)し、更にその潜所(せんしょ)を知る能(あた)わず。故(ゆえ)を以て已(や)むなく新井(あらい)代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂(のう)に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂(ぶんべい)し、新井と共に渡航の途(と)に就き、崎陽(きよう)に至り、仁川行(じんせんこう)の出帆(しゅっぱん)を待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜(ふんぬん)を生じ、渡航を拒(こば)むの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮(おもんばか)りなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂(のう)は新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺(うかが)うに、堂々たる男子にして、私情を挟(さしはさ)み、公事を抛(なげう)たんとするの意あり、しかして君(きみ)の代任(だいにん)を忌(い)むの風(ふう)あり、誠に邦家(ほうか)のために歎(たん)ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止(とど)まる方(かた)好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎(か)、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数(たにんず)を要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟(ひっきょう)一身を抛擲(ほうてき)して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂(のう)この言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事(ないじ)は総(すべ)て大井、小林の任ずる所なれば、敢(あ)えて関せず、我は啻(ただ)その義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全(まっと)うする者と、暫(しば)し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行(こう)決死せざれば、到底充分平常(へいぜい)希望する処の目的を達する能(あた)わず。かつ儂今回の同行、偏(ひとえ)に通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂(のう)今仮令(たとい)異国の鬼となるも、事(こと)幸いに成就(じょうじゅ)せば、儂(のう)平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如(し)かずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身(み)腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令(たとい)身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲(ゆず)らんや。かつ惟(おもえ)らく、儂(のう)は固(もと)より無智無識なり、しかるに今回の行(こう)は、実に大任にして、内は政府の改良を図(はか)るの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲(ほうてき)するの栄を受く、ああ何ぞ万死(ばんし)を惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽(きよう)において、小林に贈るの書中にも、仮令(たとい)国土を異(こと)にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近(ばんきん)東洋に、自由の新境域を勃興(ぼっこう)せんと、暗(あん)に永別の書を贈りし所以(ゆえん)なり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子(しんし)を棄(す)てて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈(あに)公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他(た)なし、啻(ただ)愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能(あた)わず。空(むな)しく獄裏(ごくり)に呻吟(しんぎん)するの不幸に遭遇し、国の安危を余所(よそ)に見る悲しさを、儂固(もと)より愛国の丹心(たんしん)万死を軽(かろ)んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨(うら)むの意なしといえども、啻(ただ)国恩に報酬(ほうしゅう)する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転(うた)た潸然(さんぜん)たるのみ。ああいずれの日か儂(のう)が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において大阪府警部補 広沢鉄郎(ひろさわてつろう) 印
 かく冗長(じょうちょう)なる述懐書を獄吏(ごくり)に呈して、廻らぬ筆に仕(し)たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔(はし)る青春の人々は、くれぐれも妾(しょう)に観(み)て、警(いまし)むる所あれかし、と願うもまた端(はし)たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪(なみ)に弄(あそ)ばれて、深く深く不遇の淵底(えんてい)に沈み、果ては運命の測(はか)るべからざる恨(うら)みに泣きて、煩悶(はんもん)遂(つい)に死の安慰を得べく覚悟したりしその後(のち)の妾に比して、人格の上の差異如何(いか)ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙(なんだ)の禁(とど)めがたきを奈何(いかに)せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲(なげう)たんとしたりしは、一(いつ)は名誉の念に駆(か)られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙作(せっさく)あり、
愛国(あいこくの)丹心(たんしん)万死(ばんし)軽(かろし)   剣華(けんか)弾雨(だんう)亦(また)何(なんぞ)驚(おどろかん)
誰(たれか)言(いう)巾幗(きんこく)不成事(ことをなさずと)  曾(かつて)記(きす)神功(じんごう)赫々(かくかくの)名(な)

 五 不恤緯(ふじゅっい)会社

 これより先妾(しょう)は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍(かたわ)ら、何(なに)とかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟(とみいおと)女史と謀(はか)りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途(みち)つきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬(そご)して、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇(あ)えり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。

 六 於菟(おと)女史

 富井於菟女史は播州(ばんしゅう)竜野(たつの)の人、醤油(しょうゆ)屋に生れ、一人(いちにん)の兄と一人(いちにん)の妹とあり。幼(おさなき)より学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精(たんせい)して同所の中学校に入れ、やがて業を卒(お)えて後(のち)、その地の碩儒(せきじゅ)に就きて漢学を修め、また岸田俊子(きしだとしこ)女史の名を聞きて、一度(ひとたび)その家の学婢(がくひ)たりしかど、同女史より漢学の益を受くる能(あた)わざるを知ると共に、女史が中島信行(なかじまのぶゆき)氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時(ざんじ)にしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入(えいり)自由燈(じゆうのともしび)新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟(おと)女史を以て嚆矢(こうし)とすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉(つと)めしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂(つい)に姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万(よろず)秘密を厭(いと)い善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲益(ますます)急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何(いか)で空(むな)しく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨(なげ)き、心私(ひそ)かに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興(おこ)さんとて、坂崎氏には一片(いっぺん)の謝状を遺(のこ)して、妾と共に神奈川地方に奔(はし)りぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻野(おぎの)町に着(ちゃく)し、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵金(きょきん)して重井(おもい)(変名)、葉石(はいし)等志士の運動を助けんと企(くわだ)てしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干(じゃっかん)を出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途(と)に就きぬ、旅費は両人の衣類を典(てん)して調(ととの)えしなりけり。

 七 髪結洗濯

 女史と相別れし後(のち)、妾(しょう)は土倉(どくら)氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤(きせん)なし、均(ひと)しく皆神聖なり、身には襤褸(らんる)を纏(まと)うとも心に錦(にしき)の美を飾りつつ、姑(しば)らく自活の道を立て、やがて霹靂(へきれき)一声(いっせい)、世を轟(とどろ)かす事業を遂(と)げて見せばやと、ある時は髪結(かみゆい)となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都(みやこ)に知る人なき心易(やす)さは、なかなかに自活の業(わざ)の苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩(わずら)いつつ、居(い)て待たんよりは、むしろ行きて見るに若(し)かずと、これを葉石氏に議(はか)りしに、心変りならば行くも詮(せん)なし、さなくばおるも消息のなからんやという。実(げ)にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認(したた)めたる一封の書は来(きた)りぬ。見れば怨(うら)めしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶(とりもちおけ)に陥(おちい)りたり今日(こんにち)はもはや曩日(さき)の富井(とみい)にあらず妹(まい)は一死以て君(きみ)に謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能(よ)く尽す処にあらずただただ二階の一隅に推(お)しこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺(なが)め悲哀に胸を焦(こが)すのみ余は記する能(あた)わず幸いに諒(りょう)せよ」とあり。言(こと)は簡なれども、事情の大方は推(すい)せられつ。さて何とか救済の道もがなと千々(ちぢ)に心を砕(くだ)きけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕(した)い来りける門弟のありしを対手(あいて)として日々髪結洗濯の業(わざ)をいそしみ、僅(わず)かに糊口(ここう)を凌(しの)ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。

 八 暁夢を破る

 しかるにその年の九月初旬妾(しょう)が一室を借り受けたる家の主人は、朝未明(あさまだき)に二階下より妾を呼びて、景山(かげやま)さん景山さんといと慌(あわ)ただし。暁(あかつき)の夢のいまだ覚(さ)めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現(うつつ)の中に問い反(かえ)せしに、女のお客さんがありますという。何(なん)という方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有(おっしゃ)いますと答う。なに富井さん! 妾は床(とこ)を蹶(け)りて飛び起きたるなり。階段を奔(はし)り下(お)りるも夢心地(ゆめごこち)なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱(いだ)きつき、暫(しば)しは無言の涙なりき。懐(なつ)かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦(あつくる)しき空を、汗臭(あせくさ)く無下(むげ)に汚(よご)れたる浴衣(ゆかた)を着して、妙齢の処女のさすがに人目羞(はず)かしげなる風情(ふぜい)にて、茫然(ぼうぜん)と庭に佇(たたず)めるなりけり。さてあるべきに非(あら)ざれば、二階に扶(たす)け上(あ)げて先ず無事を祝し、別れし後(のち)の事ども何くれと尋(たず)ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身(おんみ)に別れてより、無事郷里に着き、母上兄妹(けいまい)の恙(つつが)なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最(い)と感じ入りたる体(てい)にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂(つい)に調金の事を申し出でしに、図(はか)らざりき感嘆の体と見えしは妾(しょう)の胆太(きもふと)さを呆(あき)れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐(しず)かに沈みたる底(そこ)気味わるき調子もて、かかる大(だい)それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌(みほう)に防(ふせ)がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣(や)る瀬(せ)なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯(ひきょう)にも警察[#「警察」は底本では「驚察」]に告訴して有志の士を傷(きず)つけんとは、何たる怖ろしき人非人(にんぴにん)ぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已(のみ)と覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与(くみ)せしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭(おんさとし)によりて悔悟(かいご)したれ、以後は仰(おお)せのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉(と)じ籠(こ)めの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優(まさ)りて、御身(おんみ)のさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸(ようよ)う妹を賺(すか)して、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委(くわ)しき有様を書き記(しる)すべき暇(ひま)もなかりき。定めて心変りよと爪弾(つまはじ)きせらるるならんと口惜(くちお)しさ悲しさに胸は張り裂(さ)くる思いにて、夜(よ)もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐(おもむ)ろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔(しゅっぽん)の期を得たるなり。そは両三日前妹が中元(ちゅうげん)の祝いにと、他(た)より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費(ろひ)として、夜半(やはん)寝巻のままに家を脱(ぬ)け出(い)で、これより耶蘇(ヤソ)教に身を委(ゆだ)ね神に事(つか)えて妾(しょう)が志を貫(つらぬ)かんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背(そむ)くの不義を咎(とが)むることなく長く交誼(こうぎ)を許してよという。その情義の篤(あつ)き志を知りては、妾も如何(いか)で感泣(かんきゅう)の涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬(てん)として顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地(ここち)ぞや。妾が敬慕(けいぼ)の念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女梁山泊(おんなりょうざんぱく)を以て任ずる妾の寓所にて種々(いろいろ)と話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨(のぞ)みてお互いに尽す道は異(こと)なれども、必ず初志を貫(つらぬ)きて早晩自由の新天地に握手せんと言い交(か)わし、またの会合を約してさらばとばかり袂(たもと)を分(わか)ちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由(よし)なかりき。
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   第三 渡韓の計画


 一 妾の任務

 ある日同志なる石塚重平(いしづかじゅうへい)氏来(きた)り、渡韓の準備整(ととの)いたれば、御身(おんみ)をも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。固(もと)より信ずる所に捧(ささ)げたる身の如何(いか)でかは躊躇(ためら)うべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中田光子(なかだみつこ)は、妾(しょう)の常ならぬ挙動を察してその仔細(しさい)を知りたげなる模様なりき。されど彼女に禍(わざわい)を及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に托(たく)して彼に勉学を勧(すす)めさせ、また於菟(おと)女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後事(こうじ)を托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の途(と)に上(のぼ)りけるは、明治十八年の十月なり。

 二 鞄(かばん)の爆発物

 同伴者は新井章吾(あらいしょうご)、稲垣示(いながきしめす)の両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々赤毛布(あかげっと)にくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ風(ふう)を装(よそお)えるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、乃(すなわ)ち妾(しょう)をして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品悉皆(しっかい)を磯山の手より受け取り、支那鞄(しなかばん)に入れて普通の手荷物の如くに装い、始終傍(かたわ)らに置きて、ある時はこれを枕に、仮寝(うたたね)の夢を貪(むさぼ)りたりしが、やがて大阪に着しければ、安藤久次郎(あんどうきゅうじろう)氏の宅にて同志の人を呼び窃(ひそ)かに包み替えんとするほどに、金硫黄(きんいおう)という薬の少し湿(しめ)りたるを発見せしかば、鑵(かん)より取り出して、暫(しば)し乾(ほ)さんとせしに、空気に触(ふ)るるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、遉(さす)がは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時薬舗(やくほ)を営み居たる甲斐(かい)ありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如何(いか)に盲目(めくら)蛇(へび)物に怖(お)じずとはいいながら、かかる危険極(きわ)まれる薬品を枕にして能(よ)くも安々と睡(ねむ)り得しことよと、身の毛を逆竪(さかだ)つばかりなり。殊(こと)に神戸(こうべ)停車場(ステーション)にて、この鞄(かばん)を秤(はかり)にかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如何(いか)なる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ体(てい)にて、田舎への土産(みやげ)にとて、小供の玩具(おもちゃ)を入れ置きたるに、車の揺れの余りに烈(はげ)しかりしため、かく壊(こわ)されしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首肯(うなず)きて、強(し)いては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷汗(ひやあせ)の背を湿(うる)おすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代々(よよ)薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省検疫官(けんえきかん)として頗(すこぶ)る精励(せいれい)の聞えあるよし。先年板垣伯(いたがきはく)の内務大臣たりし時、多年国事に奔走(ほんそう)せし功を愛(め)でられてか内務省の高等官となり、爾来(じらい)内閣の幾変遷(いくへんせん)を経(へ)つつも、専門技術の素養ある甲斐(かい)には、他の無能の豪傑(ごうけつ)連とその撰(せん)を異(こと)にし、当局者のために頗(すこぶ)る調法がられおるとなん。

 三 八軒屋

 大阪なる安藤氏の宅に寓居(ぐうきょ)すること数日(すじつ)にして、妾(しょう)は八軒屋という船付(ふなつ)きの宿屋に居(きょ)を移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一日(あるひ)磯山(いそやま)より葉石(はいし)の来阪(らいはん)を報じ来(きた)り急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと訝(いぶか)りつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴(しゅえん)の半(なか)ばにて、酌(しゃく)に侍(じ)せる妓(ひと)のいと艶(なま)めかしうそうどき立ちたり。かかる会合(まどい)に加わりし事なき身(み)の如何(いか)にしてよからんかとただ恐縮の外(ほか)はなかりき。さるにても、同志は如何様(いかよう)の余裕ありて、かくは豪奢(ごうしゃ)を尽すにかあらん、ここぞ詰問(きつもん)の試みどころと、葉石氏に向かい今日(こんにち)の宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い測(ほか)れるには似もやらず、痴呆(たわけ)の振舞、目にするだに汚(けが)らわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊廓通(ゆうかくがよ)いの外(ほか)に余念なきこそ道理なれ、さりとては歎(なげ)かわしさの極(きわ)みなるかな。かかる席に列(つら)なりては、口利(くちき)くだに慚(は)ずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い罵(ののし)り、やおら畳(たたみ)を蹶立(けた)てて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感如何(いかが)あらんとて、磯山が好奇(ものずき)にも特(こと)に妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの外(ほか)なりしかば、同志はいうも更(さら)なり、絃妓(げんぎ)らまでも、衷心(ちゅうしん)大いに愧(は)ずる所あり、一座白(しら)け渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。

 四 磯山の失踪(しっそう)

 それより数日(すじつ)にして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその甥(おい)なる田崎某(たざきぼう)妾に向かいて、ある遊廓に潜(ひそ)めるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合(まちあい)の女将(おかみ)出(い)で来りて、あらずと弁ず。好(よ)し他(た)の人にはさも答えよ、妾は磯山が股肱(ここう)の者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず匿(かく)れざるべしと重(かさ)ねて述べしに、女将首肯(うなず)きて、「それは誠にすみまへんが、何誰(どなた)がおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女(おなご)はんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛妓(あいぎ)八重(やえ)と差し向かえる魔室に導(みちび)きぬ。彼は素(もと)より女将(おかみ)に厳命せし事のかくも容易(たや)すく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、図(はか)らずも妾の顔の顕(あら)われしを見ては、如何(いか)で慌(あわ)てふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ賺(すか)して新井、葉石に面会せしむるには如(し)かずとて、種々(いろいろ)と言辞(ことば)を設け、ようよう魔室より誘(さそ)い出して腕車(くるま)に載(の)せ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を尋(たず)ね、その人をも伴(ともな)わんという。詐(いつわ)りとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑怯(ひきょう)の男もあるものかな、彼はそのまま奔竄(ほんざん)して、遂(つい)に行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大功(たいこう)は細瑾(さいきん)を顧みずちょう豪語を楯(たて)となせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠(かす)めんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を欺(あざむ)きつつ、強(し)いて工面(くめん)せる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費(しひ)して淫楽(いんらく)に耽(ふけ)り、公道正義を無視(なみ)して、一遊妓の甘心(かんしん)を買う、何たる烏滸(おこ)の白徒(しれもの)ぞ。宜(むべ)なる哉(かな)、縲絏(るいせつ)の辱(はずかし)めを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯斥(ひんせき)せられ、牢獄の役員にも嗤笑(ししょう)せられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。

 五 隠(かく)れ家(が)

 かくて磯山は奔竄(ほんざん)しぬ、同志の軍用金は攫(さら)われたり。差し当りて其処此処(そこここ)に宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如何(いか)にせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具陳(ぐちん)せしめ、ひたすらに重井(おもい)の来阪(らいはん)を促(うなが)しけるに、頓(やが)て来りて善後策を整(ととの)え、また帰京して金策に従事したり。
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