源氏物語
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著者名:紫式部 

「いらっしゃったのはどなたですか」
 惟光(これみつ)は自分の名を告げてから、
「侍従さんという方にちょっとお目にかかりたいのですが」
 と言った。
「その人はよそへ行きました。けれども侍従の仲間の者がおります」
 と言う声は、昔よりもずっと老人じみてきてはいるが、聞き覚えのある声であった。家の中の人は惟光が何であったかを忘れていた。狩衣(かりぎぬ)姿の男がそっとはいって来て、柔らかな調子でものを言うのであったから、あるいは狐(きつね)か何かではないかと思ったが、惟光が近づいて行って、
「確かなことをお聞かせくださいませんか。こちら様が昔のままでおいでになるかどうかお聞かせください。私の主人のほうでは変心も何もしておいでにならない御様子です。今晩も門をお通りになって、訪ねてみたく思召すふうで車を止めておいでになります。どうお返辞をすればいいでしょう、ありのままのお話を私には御遠慮なくして下さい」
 と言うと、女たちは笑い出した。
「変わっていらっしゃればこんなお邸にそのまま住んでおいでになるはずもありません。御推察なさいましてあなたからよろしくお返辞を申し上げてください。私どものような老人でさえ経験したことのないような苦しみをなめて今日までお待ちになったのでございますよ」
 女たちは惟光にもっともっと話したいというふうであったが、惟光は迷惑に思って、
「いやわかりました。ともかくそう申し上げます」
 と言い残して出て来た。
「なぜ長くかかったの、どうだったかね、昔の路(みち)を見いだせない蓬原(よもぎがはら)になっているね」
 源氏に問われて惟光は初めからの報告をするのであった。
「そんなふうにして、やっと人間を発見したのでございます。侍従の叔母(おば)で少将とか申しました老人が昔の声で話しました」
 惟光はなお目に見た邸内の様子をくわしく言う。源氏は非常に哀れに思った。この廃邸じみた家に、どんな気持ちで住んでいることであろう、それを自分は今まで捨てていたと思うと、源氏は自分ながらも冷酷であったと省みられるのであった。
「どうしようかね、こんなふうに出かけて来ることも近ごろは容易でないのだから、この機会でなくては訪ねられないだろう。すべてのことを綜合(そうごう)して考えてみても昔のままに独身でいる想像のつく人だ」
 と源氏は言いながらも、この邸へはいって行くことにはなお躊躇(ちゅうちょ)がされた。この実感からよい歌を詠(よ)んでまず贈りたい気のする場合であるが、機敏に返歌のできないことも昔のままであったなら、待たされる使いがどんなに迷惑をするかしれないと思ってそれはやめることにした。惟光も源氏がすぐにはいって行くことは不可能だと思った。
「とても中をお歩きになれないほどの露でございます。蓬(よもぎ)を少し払わせましてからおいでになりましたら」
 この惟光(これみつ)の言葉を聞いて、源氏は、

尋ねてもわれこそ訪(と)はめ道もなく深き蓬のもとの心を

 と口ずさんだが、やはり車からすぐに下(お)りてしまった。惟光は草の露を馬の鞭(むち)で払いながら案内した。木の枝から散る雫(しずく)も秋の時雨(しぐれ)のように荒く降るので、傘(かさ)を源氏にさしかけさせた。惟光が、
「木の下露は雨にまされり(みさぶらひ御笠(みかさ)と申せ宮城野(みやぎの)の)でございます」
 と言う。源氏の指貫(さしぬき)の裾(すそ)はひどく濡(ぬ)れた。昔でさえあるかないかであった中門などは影もなくなっている。家の中へはいるのもむき出しな気のすることであったが、だれも人は見ていなかった。
 女王(にょおう)は望みをかけて来たことの事実になったことはうれしかったが、りっぱな姿の源氏に見られる自分を恥ずかしく思った。大弐(だいに)の夫人の贈った衣服はそれまで、いやな気がしてよく見ようともしなかったのを、女房らが香を入れる唐櫃(からびつ)にしまって置いたからよい香のついたのに、その人々からしかたなしに着かえさせられて、煤(すす)けた几帳(きちょう)を引き寄せてすわっていた。源氏は座に着いてから言った。
「長くお逢いしないでも、私の心だけは変わらずにあなたを思っていたのですが、何ともあなたが言ってくださらないものだから、恨めしくて、今までためすつもりで冷淡を装っていたのですよ。しかし、三輪(みわ)の杉(すぎ)ではないが、この前の木立ちを目に見ると素通りができなくてね、私から負けて出ることにしましたよ」
 几帳(きちょう)の垂(た)れ絹を少し手であけて見ると、女王は例のようにただ恥ずかしそうにすわっていて、すぐに返辞はようしない。こんな住居(すまい)にまで訪(たず)ねて来た源氏の志の身にしむことによってやっと力づいて何かを少し言った。
「こんな草原の中で、ほかの望みも起こさずに待っていてくだすったのだから私は幸福を感じる。またあなただって、あなたの近ごろの心持ちもよく聞かないままで、自分の愛から推して、愛を持っていてくださると信じて訪ねて来た私を何と思いますか。今日まであなたに苦労をさせておいたことも、私の心からのことでなくて、その時は世の中の事情が悪かったのだと思って許してくださるでしょう。今後の私が誠実の欠けたようなことをすれば、その時は私が十分に責任を負いますよ」
 などと、それほどに思わぬことも、女を感動さすべく源氏は言った。泊まって行くこともこの家の様子と自身とが調和の取れないことを思って、もっともらしく口実を作って源氏は帰ろうとした。自身の植えた松ではないが、昔に比べて高くなった木を見ても、年月の長い隔たりが源氏に思われた。そして源氏の自身の今日の身の上と逆境にいたころとが思い比べられもした。

「藤波(ふじなみ)の打ち過ぎがたく見えつるはまつこそ宿のしるしなりけれ

 数えてみればずいぶん長い月日になることでしょうね。物哀れになりますよ。またゆるりと悲しい旅人だった時代の話も聞かせに来ましょう。あなたもどんなに苦しかったかという辛苦の跡も、私でなくては聞かせる人がないでしょう。とまちがいかもしれぬが私は信じているのですよ」
 などと源氏が言うと、

年を経て待つしるしなきわが宿は花のたよりに過ぎぬばかりか

 と低い声で女王は言った。身じろぎに知れる姿も、袖(そで)に含んだにおいも昔よりは感じよくなった気がすると源氏は思った。落ちようとする月の光が西の妻戸の開いた口からさしてきて、その向こうにあるはずの廊もなくなっていたし、廂(ひさし)の板もすっかり取れた家であるから、明るく室内が見渡された。昔のままに飾りつけのそろっていることは、忍ぶ草のおい茂った外見よりも風流に見えるのであった。昔の小説に親の作った堂を毀(こぼ)った話もあるが、これは親のしたままを長く保っていく人として心の惹(ひ)かれるところがあると源氏は思った。この人の差恥(しゅうち)心の多いところもさすがに貴女(きじょ)であるとうなずかれて、この人を一生風変わりな愛人と思おうとした考えも、いろいろなことに紛れて忘れてしまっていたころ、この人はどんなに恨めしく思ったであろうと哀れに思われた。ここを出てから源氏の訪ねて行った花散里も、美しい派手(はで)な女というのではなかったから、末摘花の醜さも比較して考えられることがなく済んだのであろうと思われる。
 賀茂祭り、斎院の御禊(ごけい)などのあるころは、その用意の品という名義で諸方から源氏へ送って来る物の多いのを、源氏はまたあちらこちらへ分配した。その中でも常陸の宮へ贈るのは、源氏自身が何かと指図(さしず)をして、宮邸に足らぬ物を何かと多く加えさせた。親しい家司(けいし)に命じて下男などを宮家へやって邸内の手入れをさせた。庭の蓬(よもぎ)を刈らせ、応急に土塀(どべい)の代わりの板塀を作らせなどした。源氏が妻と認めての待遇をし出したと世間から見られるのは不名誉な気がして、自身で訪ねて行くことはなかった。手紙はこまごまと書いて送ることを怠らない。二条の院にすぐ近い地所へこのごろ建築させている家のことを、源氏は末摘花に告げて、
そこへあなたを迎えようと思う、今から童女として使うのによい子供を選んで馴(な)らしておおきなさい。
 ともその手紙には書いてあった。女房たちの着料までも気をつけて送って来る源氏に感謝して、それらの人々は源氏の二条の院のほうを向いて拝んでいた。一時的の恋にも平凡な女を相手にしなかった源氏で、ある特色の備わった女性には興味を持って熱心に愛する人として源氏をだれも知っているのであるが、何一つすぐれた所のない末摘花をなぜ妻の一人としてこんな取り扱いをするのであろう。これも前生の因縁ごとであるに違いない。もう暗い前途があるばかりのように見切りをつけて、女王の家を去った人々、それは上から下まで幾人もある旧召使が、われもわれもと再勤を願って来た。善良さは稀(まれ)に見るほどの女性である末摘花のもとに使われて、気楽に暮らした女房たちが、ただの地方官の家などに雇われて、気まずいことの多いのにあきれて帰って来る者もある。見えすいたような追従も皆言ってくる。昔よりいっそう強い勢力を得ている源氏は、思いやりも深くなった今の心から、扶(たす)け起こそうとしている女王の家は、人影もにぎやかに見えてきて、繁(しげ)りほうだいですごいものに見えた木や草も整理されて、流れに水の通るようになり、立ち木や草の姿も優美に清い感じのするものになっていった。職を欲(ほ)しがっている下家司(しもけいし)級の人は、源氏が一人の夫人の家として世話をやく様子を見て、仕えたいと申し込んで来て、宮家に執事もできた。
 末摘花は二年ほどこの家にいて、のちには東の院へ源氏に迎えられ、夫婦として同室に暮らすようなことはめったになかったのであるが、近い所であったから、ほかの用で来た時に話して行くようなことくらいはよくして、軽蔑(けいべつ)した扱いは少しもしなかったのである。大弐の夫人が帰京した時に、どんな驚き方をしたか、侍従が女王の幸福を喜びながらも、時が待ち切れずに姫君を捨てて行った自身のあやまちをどんなに悔いたかというようなことも、もう少し述べておきたいのであるが、筆者は頭が痛くなってきたから、またほかの機会に思い出して書くことにする。




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