源氏物語
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著者名:紫式部 

どうしましても現実のことと思われませんような御隠栖(いんせい)のことを承りました。あるいはこれもまだ私の暗い心から、夜の夢の続きを見ているのかもしれません。なお幾年もそうした運命の中にあなたがお置かれになることはおそらくなかろうと思われます。それを考えますと、罪の深い私は何時をはてともなくこの海の国にさすらえていなければならないことかと思われます。

うきめかる伊勢をの海人(あま)を思ひやれもしほ垂(た)るてふ須磨の浦にて

世の中はどうなるのでしょう。不安な思いばかりがいたされます。

伊勢島や潮干(しほひ)のかたにあさりても言ふかひなきはわが身なりけり

 などという長いものである。源氏の手紙に衝動を受けた御息所はあとへあとへと書き続(つ)いで、白い支那(しな)の紙四、五枚を巻き続けてあった。書風も美しかった。愛していた人であったが、その人の過失的な行為を、同情の欠けた心で見て恨んだりしたことから、御息所も恋をなげうって遠い国へ行ってしまったのであると思うと、源氏は今も心苦しくて、済まない目にあわせた人として御息所を思っているのである。そんな所へ情のある手紙が来たのであったから、使いまでも恋人のゆかりの親しい者に思われて、二、三日滞留させて伊勢の話を侍臣たちに問わせたりした。若やかな気持ちのよい侍であった。閑居のことであるから、そんな人もやや近い所でほのかに源氏の風貌(ふうぼう)に接することもあって侍は喜びの涙を流していた。伊勢の消息に感動した源氏の書く返事の内容は想像されないこともない。
こうした運命に出逢う日を予知していましたなら、どこよりも私はあなたとごいっしょの旅に出てしまうべきだったなどと、つれづれさから癖になりました物思いの中にはそれがよく思われます。心細いのです。

伊勢人の波の上漕ぐ小船(をぶね)にもうきめは刈らで乗らましものを
あまがつむ歎(なげ)きの中にしほたれて何時(いつ)まで須磨の浦に眺(なが)めん

いつ口ずからお話ができるであろうと思っては毎日同じように悲しんでおります。
 というのである。こんなふうに、どの人へも相手の心の慰むに足るような愛情を書き送っては返事を得る喜びにまた自身を慰めている源氏であった。花散里(はなちるさと)も悲しい心を書き送って来た。どれにも個性が見えて、恋人の手紙は源氏を慰めぬものもないが、また物思いの催される種(たね)ともなるのである。

荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ繁(しげ)くも露のかかる袖かな

 と歌っている花散里は、高くなったという雑草のほかに後見(うしろみ)をする者のない身の上なのであると源氏は思いやって、長雨に土塀(どべい)がところどころ崩(くず)れたことも書いてあったために、京の家司(けいし)へ命じてやって、近国にある領地から人夫を呼ばせて花散里の邸(やしき)の修理をさせた。
 尚侍(ないしのかみ)は源氏の追放された直接の原因になった女性であるから、世間からは嘲笑(ちょうしょう)的に注視され、恋人には遠く離れて、深い歎(なげ)きの中に溺(おぼ)れているのを、大臣は最も愛している娘であったから憐(あわ)れに思って、熱心に太后へ取りなしをしたし、帝(みかど)へもお詫びを申し上げたので、尚侍は公式の女官長であって、燕寝(えんしん)に侍する女御(にょご)、更衣(こうい)が起こした問題ではないから、過失として勅免があればそれでよいということになった。帝の御愛寵(あいちょう)を裏切って情人を持った点をお憎みになったのであるが、赦免の宣旨(せんじ)が出て宮中へまたはいることになっても、尚侍の心は源氏の恋しさに満たされていた。七月になってその事が実現された。非常なお気に入りであったのであるから、人の譏(そし)りも思召(おぼしめ)さずに、お常御殿の宿直所(とのいどころ)にばかり尚侍は置かれていた。お恨みになったり、永久に変わらぬ愛の誓いを仰せられたりする帝の御風采(ふうさい)はごりっぱで、優美な方なのであるが、これを飽き足らぬものとは自覚していないが、なお尚侍には源氏ばかりが恋しいというのはもったいない次第である。音楽の合奏を侍臣たちにさせておいでになる時に、帝は尚侍へ、
「あの人がいないことは寂しいことだ。私でもそう思うのだから、ほかにはもっと痛切にそう思われる人があるだろう。何の上にも光というものがなくなった気がする」
 と仰せられるのであった。それからまた、
「院の御遺言にそむいてしまった。私は死んだあとで罰せられるに違いない」
 と涙ぐみながらお言いになるのを聞いて、尚侍は泣かずにいられなかった。
「人生はつまらないものだという気がしてきて、それとともにもう決して長くは生きていられないように思われる。私がなくなってしまった時、あなたはどう思いますか、旅へ人の行った時の別れ以上に悲しんでくれないでは私は失望する。生きている限り愛し合おうという約束をして満足している人たちに、私のあなたを思う愛の深さはわからないだろう。私は来世に行ってまであなたと愛し合いたいのだ」
 となつかしい調子で仰せられる、それにはお心の底からあふれるような愛が示されていることであったから、尚侍の涙はほろほろとこぼれた。
「そら、涙が落ちる、どちらのために」
 と帝はお言いになった。
「今まで私に男の子のないのが寂しい。東宮を院のお言葉どおりに自分の子のように私は考えているのだが、いろいろな人間が間にいて、私の愛が徹底しないから心苦しくてならない」
 などとお語りになる。御意志によらない政治を行なう者があって、それを若いお心の弱さはどうなされようもなくて御煩悶(はんもん)が絶えないらしい。
 秋風が須磨の里を吹くころになった。海は少し遠いのであるが、須磨の関も越えるほどの秋の波が立つと行平(ゆきひら)が歌った波の音が、夜はことに高く響いてきて、堪えがたく寂しいものは謫居(たっきょ)の秋であった。居間に近く宿直(とのい)している少数の者も皆眠っていて、一人の源氏だけがさめて一つ家の四方の風の音を聞いていると、すぐ近くにまで波が押し寄せて来るように思われた。落ちるともない涙にいつか枕(まくら)は流されるほどになっている。琴(きん)を少しばかり弾(ひ)いてみたが、自身ながらもすごく聞こえるので、弾きさして、

恋ひわびて泣く音(ね)に紛(まが)ふ浦波は思ふ方より風や吹くらん

 と歌っていた。惟光(これみつ)たちは悽惨(せいさん)なこの歌声に目をさましてから、いつか起き上がって訳もなくすすり泣きの声を立てていた。その人たちの心を源氏が思いやるのも悲しかった。自分一人のために、親兄弟も愛人もあって離れがたい故郷に別れて漂泊の人に彼らはなっているのであると思うと、自分の深い物思いに落ちたりしていることは、その上彼らを心細がらせることであろうと源氏は思って、昼間は皆といっしょに戯談(じょうだん)を言って旅愁を紛らそうとしたり、いろいろの紙を継がせて手習いをしたり、珍しい支那(しな)の綾(あや)などに絵を描(か)いたりした。その絵を屏風(びょうぶ)に貼(は)らせてみると非常におもしろかった。源氏は京にいたころ、風景を描くのに人の話した海陸の好風景を想像して描いたが、写生のできる今日になって描かれる絵は生き生きとした生命(いのち)があって傑作が多かった。
「現在での大家だといわれる千枝(ちえだ)とか、常則(つねのり)とかいう連中を呼び寄せて、ここを密画に描かせたい」
 とも人々は言っていた。美しい源氏と暮らしていることを無上の幸福に思って、四、五人はいつも離れずに付き添っていた。庭の秋草の花のいろいろに咲き乱れた夕方に、海の見える廊のほうへ出てながめている源氏の美しさは、あたりの物が皆素描(あらがき)の画(え)のような寂しい物であるだけいっそう目に立って、この世界のものとは思えないのである。柔らかい白の綾(あや)に薄紫を重ねて、藍(あい)がかった直衣(のうし)を、帯もゆるくおおように締めた姿で立ち「釈迦牟尼仏弟子(しゃかむにぶつでし)」と名のって経文を暗誦(そらよ)みしている声もきわめて優雅に聞こえた。幾つかの船が唄声(うたごえ)を立てながら沖のほうを漕(こ)ぎまわっていた。形はほのかで鳥が浮いているほどにしか見えぬ船で心細い気がするのであった。上を通る一列の雁(かり)の声が楫(かじ)の音によく似ていた。涙を払う源氏の手の色が、掛けた黒木の数珠(じゅず)に引き立って見える美しさは、故郷(ふるさと)の女恋しくなっている青年たちの心を十分に緩和させる力があった。

初雁(はつかり)は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき

 と源氏が言う。良清(よしきよ)、

かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はそのよの友ならねども

 民部大輔(みんぶたゆう)惟光(これみつ)、

心から常世(とこよ)を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな

 前右近丞(ぜんうこんのじょう)が、

「常世(とこよ)出(い)でて旅の空なるかりがねも列(つら)に後(おく)れぬほどぞ慰む

 仲間がなかったらどんなだろうと思います」
 と言った。常陸介(ひたちのすけ)になった親の任地へも行かずに彼はこちらへ来ているのである。煩悶(はんもん)はしているであろうが、いつもはなやかな誇りを見せて、屈託なくふるまう青年である。明るい月が出て、今日が中秋の十五夜であることに源氏は気がついた。宮廷の音楽が思いやられて、どこでもこの月をながめているであろうと思うと、月の顔ばかりが見られるのであった。「二千里外故人心(にせんりぐわいこじんのこころ)」と源氏は吟じた。青年たちは例のように涙を流して聞いているのである。
 この月を入道の宮が「霧や隔つる」とお言いになった去年の秋が恋しく、それからそれへといろいろな場合の初恋人への思い出に心が動いて、しまいには声を立てて源氏は泣いた。
「もうよほど更(ふ)けました」
 と言う者があっても源氏は寝室へはいろうとしない。

見るほどぞしばし慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども

 その去年の同じ夜に、なつかしい御調子で昔の話をいろいろあそばすふうが院によく似ておいでになった帝も源氏は恋しく思い出していた。「恩賜御衣今在此(おんしのぎょいいまここにあり)」と口ずさみながら源氏は居間へはいった。恩賜の御衣もそこにあるのである。

憂(う)しとのみひとへに物は思ほえで左右にも濡(ぬ)るる袖(そで)かな

 とも歌われた。
 このころに九州の長官の大弐(だいに)が上って来た。大きな勢力を持っていて一門郎党の数が多く、また娘たくさんな大弐ででもあったから、婦人たちにだけ船の旅をさせた。そして所々で陸を行く男たちと海の一行とが合流して名所の見物をしながら来たのであるが、どこよりも風景の明媚(めいび)な須磨の浦に源氏の大将が隠栖(いんせい)していられるということを聞いて、若いお洒落(しゃれ)な年ごろの娘たちは、だれも見ぬ船の中にいながら身なりを気に病んだりした。その中に源氏の情人であった五節(ごせち)の君は、須磨に上陸ができるのでもなくて哀愁の情に堪えられないものがあった。源氏の弾(ひ)く琴の音(ね)が浦風の中に混じってほのかに聞こえて来た時、この寂しい海べと薄倖(はっこう)な貴人とを考え合わせて、人並みの感情を持つ者は皆泣いた。大弐は源氏へ挨拶(あいさつ)をした。
「はるかな田舎(いなか)から上ってまいりました私は、京へ着けばまず伺候いたしまして、あなた様から都のお話を伺わせていただきますことを空想したものでございました。意外な政変のために御隠栖(いんせい)になっております土地を今日通ってまいります。非常にもったいないことと存じ、悲しいことと思うのでございます。親戚と知人とがもう京からこの辺へ迎えにまいっておりまして、それらの者がうるそうございますから、お目にかかりに出ないのでございますが、またそのうち別に伺わせていただきます」
 というのであって、子の筑前守(ちくぜんのかみ)が使いに行ったのである。源氏が蔵人(くろうど)に推薦して引き立てた男であったから、心中に悲しみながらも人目をはばかってすぐに帰ろうとしていた。
「京を出てからは昔懇意にした人たちともなかなか逢(あ)えないことになっていたのに、わざわざ訪(たず)ねて来てくれたことを満足に思う」
 と源氏は言った。大弐への返答もまたそんなものであった。筑前守は泣く泣く帰って、源氏の住居(すまい)の様子などを報告すると、大弐をはじめとして、京から来ていた迎えの人たちもいっしょに泣いた。五節(ごせち)の君は人に隠れて源氏へ手紙を送った。

琴の音にひきとめらるる綱手縄(つなてなは)たゆたふ心君知るらめや

音楽の横好きをお笑いくださいますな。
 と書かれてあるのを、源氏は微笑しながらながめていた。若い娘のきまり悪そうなところのよく出ている手紙である。

心ありてひくての綱のたゆたはば打ち過ぎましや須磨の浦波

漁村の海人(あま)になってしまうとは思わなかったことです。
 これは源氏の書いた返事である。明石(あかし)の駅長に詩を残した菅公のように源氏が思われて、五節は親兄弟に別れてもここに残りたいと思うほど同情した。
 京では月日のたつにしたがって光源氏のない寂寥(せきりょう)を多く感じた。陛下もそのお一人であった。まして東宮は常に源氏を恋しく思召(おぼしめ)して、人の見ぬ時には泣いておいでになるのを、乳母(めのと)たちは哀れに拝見していた。王命婦(おうみょうぶ)はその中でもことに複雑な御同情をしているのである。入道の宮は東宮の御地位に動揺をきたすようなことのないかが常に御不安であった。源氏までも失脚してしまった今日では、ただただ心細くのみ思っておいでになった。源氏の御弟の宮たちそのほか親しかった高官たちは初めのころしきりに源氏と文通をしたものである。人の身にしむ詩歌が取りかわされて、それらの源氏の作が世上にほめられることは非常に太后のお気に召さないことであった。
「勅勘を受けた人というものは、自由に普通の人らしく生活することができないものなのだ。風流な家に住んで現代を誹謗(ひぼう)して鹿(しか)を馬だと言おうとする人間に阿(おもね)る者がある」
 とお言いになって、報復の手の伸びて来ることを迷惑に思う人たちは警戒して、もう消息を近来しなくなった。二条の院の姫君は時がたてばたつほど、悲しむ度も深くなっていった。東の対にいた女房もこちらへ移された初めは、自尊心の多い彼女たちであるから、たいしたこともなくて、ただ源氏が特別に心を惹(ひ)かれているだけの女性であろうと女王を考えていたが、馴(な)れてきて夫人のなつかしく美しい容姿に、誠実な性格に、暖かい思いやりのある人扱いに敬服して、だれ一人暇(いとま)を乞(こ)う者もない。良い家から来ている人たちには夫人も顔を合わせていた。だれよりも源氏が愛している理由がわかったように彼女たちは思うのであった。
 須磨のほうでは紫の女王(にょおう)との別居生活がこのまま続いて行くことは堪えうることでないと源氏は思っているのであるが、自分でさえ何たる宿命でこうした生活をするのかと情けない家に、花のような姫君を迎えるという事はあまりに思いやりのないことであるとまた思い返されもするのである。下男や農民に何かと人の小言(こごと)を言う事なども居間に近い所で行なわれる時、あまりにもったいないことであると源氏自身で自身を思うことさえもあった。近所で時々煙の立つのを、これが海人(あま)の塩を焼く煙なのであろうと源氏は長い間思っていたが、それは山荘の後ろの山で柴(しば)を燻(く)べている煙であった。これを聞いた時の作、

山がつの庵(いほり)に焚(た)けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人

 冬になって雪の降り荒れる日に灰色の空をながめながら源氏は琴を弾(ひ)いていた。良清(よしきよ)に歌を歌わせて、惟光(これみつ)には笛の役を命じた。細かい手を熱心に源氏が弾き出したので、他の二人は命ぜられたことをやめて琴の音に涙を流していた。漢帝が北夷(ほくい)の国へおつかわしになった宮女の琵琶(びわ)を弾いてみずから慰めていた時の心持ちはましてどんなに悲しいものであったであろう、それが現在のことで、自分の愛人などをそうして遠くへやるとしたら、とそんなことを源氏は想像したが、やがてそれが真実のことのように思われて来て、悲しくなった。源氏は「胡角一声霜後夢(こかくいっせいそうごのゆめ)」と王昭君(おうしょうくん)を歌った詩の句が口に上った。月光が明るくて、狭い家は奥の隅々(すみずみ)まで顕(あら)わに見えた。深夜の空が縁側の上にあった。もう落ちるのに近い月がすごいほど白いのを見て、「唯是西行不左遷(ただこれにしへゆくさせんにあらず)」と源氏は歌った。

何方(いづかた)の雲路にわれも迷ひなん月の見るらんことも恥(はづ)かし

 とも言った。例のように源氏は終夜眠れなかった。明け方に千鳥が身にしむ声で鳴いた。

友千鳥諸声(もろごゑ)に鳴く暁は一人寝覚(ねざ)めの床(とこ)も頼もし

 だれもまだ起きた影がないので、源氏は何度もこの歌を繰り返して唱えていた。まだ暗い間に手水(ちょうず)を済ませて念誦(ねんず)をしていることが侍臣たちに新鮮な印象を与えた。この源氏から離れて行く気が起こらないで、仮に京の家へ出かけようとする者もない。
 明石(あかし)の浦は這(は)ってでも行けるほどの近さであったから、良清朝臣(よしきよあそん)は明石の入道の娘を思い出して手紙を書いて送ったりしたが返書は来なかった。父親の入道から相談したいことがあるからちょっと逢いに来てほしいと言って来た。求婚に応じてくれないことのわかった家を訪問して、失望した顔でそこを出て来る恰好(かっこう)は馬鹿(ばか)に見えるだろうと、良清は悪いほうへ解釈して行こうとしない。すばらしく自尊心は強くても、現在の国の長官の一族以外にはだれにも尊敬を払わない地方人の心理を知らない入道は、娘への求婚者を皆門外に追い払う態度を取り続けていたが、源氏が須磨に隠栖(いんせい)をしていることを聞いて妻に言った。
「桐壺(きりつぼ)の更衣(こうい)のお生みした光源氏の君が勅勘で須磨に来ていられるのだ。私の娘の運命についてある暗示を受けているのだから、どうかしてこの機会に源氏の君に娘を差し上げたいと思う」
「それはたいへんまちがったお考えですよ。あの方はりっぱな奥様を何人も持っていらっしって、その上陛下の御愛人をお盗みになったことが問題になって失脚をなすったのでしょう。そんな方が田舎(いなか)育ちの娘などを眼中にお置きになるものですか」
 と妻は言った。入道は腹を立てて、
「あなたに口を出させないよ。私には考えがあるのだ。結婚の用意をしておきなさい。機会を作って明石へ源氏の君をお迎えするから」
 と勝手ほうだいなことを言うのにも、風変わりな性格がうかがわれた。娘のためにはまぶしい気がするほどの華奢(かしゃ)な設備のされてある入道の家であった。
「なぜそうしなければならないのでしょう。どんなにごりっぱな方でも娘のはじめての結婚に罪があって流されて来ていらっしゃる方を婿にしようなどと、私はそんな気がしません。それも愛してくださればよろしゅうございますが、そんなことは想像もされない。戯談(じょうだん)にでもそんなことはおっしゃらないでください」
 と妻が言うと、入道はくやしがって、何か口の中でぶつぶつ言っていた。
「罪に問われることは、支那(しな)でもここでも源氏の君のようなすぐれた天才的な方には必ずある災厄なのだ、源氏の君は何だと思う、私の叔父(おじ)だった按察使(あぜち)大納言の娘が母君なのだ。すぐれた女性で、宮仕えに出すと帝王の恩寵(おんちょう)が一人に集まって、それで人の嫉妬(しっと)を多く受けて亡(な)くなられたが、源氏の君が残っておいでになるということは結構なことだ。女という者は皆桐壺(きりつぼ)の更衣(こうい)になろうとすべきだ。私が地方に土着した田舎者だといっても、その古い縁故でお近づきは許してくださるだろう」
 などと入道は言っていた。この娘はすぐれた容貌(ようぼう)を持っているのではないが、優雅な上品な女で、見識の備わっている点などは貴族の娘にも劣らなかった。境遇をみずから知って、上流の男は自分を眼中にも置かないであろうし、それかといって身分相当な男とは結婚をしようと思わない、長く生きていることになって両親に死に別れたら尼にでも自分はなろう、海へ身を投げてもいいという信念を持っていた。入道は大事がって年に二度ずつ娘を住吉(すみよし)の社(やしろ)へ参詣(さんけい)させて、神の恩恵を人知れず頼みにしていた。
 須磨は日の永(なが)い春になってつれづれを覚える時間が多くなった上に、去年植えた若木の桜の花が咲き始めたのにも、霞(かす)んだ空の色にも京が思い出されて、源氏の泣く日が多かった。二月二十幾日である、去年京を出た時に心苦しかった人たちの様子がしきりに知りたくなった。また院の御代(みよ)の最後の桜花の宴の日の父帝、艶(えん)な東宮時代の御兄陛下のお姿が思われ、源氏の詩をお吟じになったことも恋しく思い出された。

いつとなく大宮人(おほみやびと)の恋しきに桜かざしし今日も来にけり

 と源氏は歌った。
 源氏が日を暮らし侘(わ)びているころ、須磨の謫居(たっきょ)へ左大臣家の三位(さんみ)中将が訪(たず)ねて来た。現在は参議になっていて、名門の公子でりっぱな人物であるから世間から信頼されていることも格別なのであるが、その人自身は今の社会の空気が気に入らないで、何かのおりごとに源氏が恋しくなるあまりに、そのことで罰を受けても自分は悔やまないと決心してにわかに源氏と逢うために京を出て来たのである。親しい友人であって、しかも長く相見る時を得なかった二人はたまたま得た会合の最初にまず泣いた。宰相は源氏の山荘が非常に唐風であることに気がついた。絵のような風光の中に、竹を編んだ垣(かき)がめぐらされ、石の階段、松の黒木の柱などの用いられてあるのがおもしろかった。源氏は黄ばんだ薄紅の服の上に、青みのある灰色の狩衣(かりぎぬ)指貫(さしぬき)の質素な装いでいた。わざわざ都風を避けた服装もいっそう源氏を美しく引き立てて見せる気がされた。室内の用具も簡単な物ばかりで、起臥(きが)する部屋も客の座から残らず見えるのである。碁盤、双六(すごろく)の盤、弾棊(たぎ)の具なども田舎(いなか)風のそまつにできた物が置かれてあった。数珠(じゅず)などがさっきまで仏勤めがされていたらしく出ていた。客の饗応(きょうおう)に出された膳部(ぜんぶ)にもおもしろい地方色が見えた。漁から帰った海人(あま)たちが貝などを届けに寄ったので、源氏は客といる座敷の前へその人々を呼んでみることにした。漁村の生活について質問をすると、彼らは経済的に苦しい世渡りをこぼした。小鳥のように多弁にさえずる話も根本になっていることは処世難である、われわれも同じことであると貴公子たちは憐(あわれ)んでいた。それぞれに衣服などを与えられた海人たちは生まれてはじめての生きがいを感じたらしかった。山荘の馬を幾疋(ひき)も並べて、それもここから見える倉とか納屋とかいう物から取り出す稲を食わせていたりするのが源氏にも客にも珍しかった。催馬楽(さいばら)の飛鳥井(あすかい)を二人で歌ってから、源氏の不在中の京の話を泣きもし、笑いもしながら、宰相はしだした。若君が何事のあるとも知らずに無邪気でいることが哀れでならないと大臣が始終歎(なげ)いているという話のされた時、源氏は悲しみに堪えないふうであった。二人の会話を書き尽くすことはとうていできないことであるから省略する。
 終夜眠らずに語って、そして二人で詩も作った。政府の威厳を無視したとはいうものの、宰相も事は好まないふうで、翌朝はもう別れて行く人になった。好意がかえってあとの物思いを作らせると言ってもよい。杯を手にしながら「酔悲泪灑春杯裏(ゑひのかなしみのなみだをそそぐはるのさかづきのうち)」と二人がいっしょに歌った。供をして来ている者も皆涙を流していた。双方の家司たちの間に惜しまれる別れもあるのである。朝ぼらけの空を行く雁(かり)の列があった。源氏は、

故郷(ふるさと)を何(いづ)れの春か行きて見ん羨(うらや)ましきは帰るかりがね

 と言った。宰相は出て行く気がしないで、

飽かなくに雁の常世(とこよ)を立ち別れ花の都に道やまどはん

 と言って悲しんでいた。宰相は京から携えて来た心をこめた土産(みやげ)を源氏に贈った。源氏からはかたじけない客を送らせるためにと言って、黒馬を贈った。
「妙なものを差し上げるようですが、ここの風の吹いた時に、あなたのそばで嘶(いなな)くようにと思うからですよ」
 と言った。珍しいほどすぐれた馬であった。
「これは形見だと思っていただきたい」
 宰相も名高い品になっている笛を一つ置いて行った。人目に立って問題になるようなことは双方でしなかったのである。上って来た日に帰りを急ぎ立てられる気がして、宰相は顧みばかりしながら座を立って行くのを、見送るために続いて立った源氏は悲しそうであった。
「いつまたお逢いすることができるでしょう。このまま無限にあなたが捨て置かれるようなことはありません」
 と宰相は言った。

「雲近く飛びかふ鶴(たづ)も空に見よわれは春日の曇りなき身ぞ

 みずからやましいと思うことはないのですが、一度こうなっては、昔のりっぱな人でももう一度世に出た例は少ないのですから、私は都というものをぜひまた見たいとも願っていませんよ」
 こう源氏は答えて言うのであった。

「たづかなき雲井に独(ひと)り音(ね)をぞ鳴く翅(つばさ)並べし友を恋ひつつ

 失礼なまでお親しくさせていただいたころのことをもったいないことだと後悔される事が多いのですよ」
 と宰相は言いつつ去った。
 友情がしばらく慰めたあとの源氏はまた寂しい人になった。
 今年は三月の一日に巳(み)の日があった。
「今日です、お試みなさいませ。不幸な目にあっている者が御禊(みそぎ)をすれば必ず効果があるといわれる日でございます」
 賢がって言う者があるので、海の近くへまた一度行ってみたいと思ってもいた源氏は家を出た。ほんの幕のような物を引きまわして仮の御禊場(みそぎば)を作り、旅の陰陽師(おんみょうじ)を雇って源氏は禊(はら)いをさせた。船にやや大きい禊いの人形を乗せて流すのを見ても、源氏はこれに似た自身のみじめさを思った。

知らざりし大海の原に流れ来て一方にやは物は悲しき

 と歌いながら沙上(しゃじょう)の座に着く源氏は、こうした明るい所ではまして水ぎわだって見えた。少し霞(かす)んだ空と同じ色をした海がうらうらと凪(な)ぎ渡っていた。果てもない天地をながめていて、源氏は過去未来のことがいろいろと思われた。

八百(やほ)よろづ神も憐(あは)れと思ふらん犯せる罪のそれとなければ

 と源氏が歌い終わった時に、風が吹き出して空が暗くなってきた。御禊(みそぎ)の式もまだまったく終わっていなかったが人々は立ち騒いだ。肱笠雨(ひじがさあめ)というものらしくにわか雨が降ってきてこの上もなくあわただしい。一行は浜べから引き上げようとするのであったが笠を取り寄せる間もない。そんな用意などは初めからされてなかった上に、海の風は何も何も吹き散らす。夢中で家のほうへ走り出すころに、海のほうは蒲団(ふとん)を拡(ひろ)げたように腫(ふく)れながら光っていて、雷鳴と電光が襲うてきた。すぐ上に落ちて来る恐れも感じながら人々はやっと家に着いた。
「こんなことに出あったことはない。風の吹くことはあっても、前から予告的に天気が悪くなるものであるが、こんなににわかに暴風雨になるとは」
 こんなことを言いながら山荘の人々はこの天候を恐ろしがっていたが雷鳴もなおやまない。雨の脚(あし)の当たる所はどんな所も突き破られるような強雨(ごうう)が降るのである。こうして世界が滅亡するのかと皆が心細がっている時に、源氏は静かに経を読んでいた。日が暮れるころから雷は少し遠ざかったが、風は夜も吹いていた。神仏へ人々が大願を多く立てたその力の顕(あら)われがこれであろう。
「もう少し暴風雨が続いたら、浪(なみ)に引かれて海へ行ってしまうに違いない。海嘯(つなみ)というものはにわかに起こって人死(ひとじ)にがあるものだと聞いていたが、今日のは雨風が原因になっていてそれとも違うようだ」
 などと人々は語っていた。夜の明け方になって皆が寝てしまったころ、源氏は少しうとうととしたかと思うと、人間でない姿の者が来て、
「なぜ王様が召していらっしゃるのにあちらへ来ないのか」
 と言いながら、源氏を求めるようにしてその辺を歩きまわる夢を見た。さめた時に源氏は驚きながら、それではあの暴風雨も海の竜王(りゅうおう)が美しい人間に心を惹(ひ)かれて自分に見入っての仕業(しわざ)であったと気がついてみると、恐ろしくてこの家にいることが堪えられなくなった。




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